合理性の四つのパターン

僕がブログを書くのは、最近ではある本を読んで感動したときとか、備忘録的に書き残しておきたいとき、あるいは自分の記憶に留めておきたいとき、である。読んだだけだと後で忘れるが、ブログなら検索がかけられる。また、ブログを書く際にその文章を筆写することで、筆者の論理構造を追体験することができる、などの効能がある。

今回のブログは、頭の整理のため、に入りそうだ。渡邊雅子さんの『論理的思考とは何か』(岩波新書)は、長年論文を書くときにモヤモヤしてきた「論理性とは何か?」について、実に多角的に論証してくれていて、非常に納得がいった。

いつもは字だけのブログだが、秀逸な図がこの本の141ページに載っていたので、今回は写真で貼り付けてみる。

端的に言えば、「なにを目的とした論理性か」で、論理的思考は異なるし、アメリカのロジックだけが論理的だ、とか日本人は非論理的だ、とかではない、ということである。

前任校では、アメリカで高等教育を受けた先生が、英語101という入門授業のテキストに基づき、学部の1年生向けテキストを作っておられ、僕も基礎演習で教えていた。そこには、この図に書いてある5パラグラフ・エッセイの基本が書かれていた。最初の段落で中心的問いと筆者の主張を書き、次からの3つの段落で根拠をそれぞれ述べる。各段落はトピックセンテンスとサポートセンテンスに基づく。そして最終段落では、理由1〜3に基づき私は○○と主張する、というあれである。そして、この型にはめておしえると、学生さんの小論文はすっきりわかりやすくなる。

だが、ぼく自身は正直そういう形で文章を書かない。論文であれ、このブログであれ、そういう形での記述はしない。なぜこの書き方が自分にはしっくりこないのか。以前からよくわかっていなかった。だがこの本ではアメリカのエッセイは効率性と確実な目的の達成を目指す「経済の論理」が働いていると指摘されて、氷解する。そう、この経済の論理が嫌だったのだ、と。

「経済領域は、効率的に最大限の収益を上げることを目的とする。その目的の確実な達成のために、計算に基づく比較考量により複数の選択肢の中から最も効果的かつ費用対効果の高い手段を選ぶ。経済領域のレトリックは『効率的かいなか』が主導的な観点となる。学校で教える作文では、目的達成までの時間、つまり結論に達するまでに必要とされるステップの短さに効率性が現れる。」(p64)

確かに学生に教える時には、この5パラグラフ・エッセイは、非常に効率的であり、小論文作成という目的到達に「確実」なやり方である。でも非常に直線的であり、あれかこれか、の二者択一的で、こちらが良いと決めたら、もうそれ一本でグイグイ進んでいく。だからこそ、文章に膨らみや陰影が出しにくい。というか、「効率的ないなか」という判断基準では、膨らみや陰影など「非効率」なのである。

それに対して、別の合理性としてフランスのやり方が示されている。

「『ディゼルタシオン』と呼ばれるフランス式小論文は、弁証法を基本構造とする。弁証法は、論ずべき主題に対する『一般的な見方』、『それに反する見方』、『それらを総合する見方』を<正—反—合>の構成に位置づけて、<正>と<反>の矛盾を<合>で解決する。これらの三つの見方を検討する中で、結論に導くためにあらゆる可能性が吟味される。弁証法では、この吟味の『過程』そのものが重視される。」(p78)

経済合理性でいえば、結果を効果的に論証することが最も重要である。でも、フランス式の合理性は、結果や目的ではなく「吟味の『過程』そのものが重視される」という。<正—反—合>の弁証法的な運動を、ロジカルで微細に描いていくこと。そこに論理の肝がある。というのだ。それは、フランス哲学をちらっとでも読んでみると、アメリカ式論理とは違う論理性を感じることだろうし、僕も以前から何かが違うと思っていた。この本の秀逸なところは、アメリカ式論理が経済的合理性だとすると、フランス式論理は政治的合理性に基づく、と喝破した点である。

「ディゼルタシオンの構造を見ると、政治領域には欠かせない『既存の法律を評価したり訂正したりする能力』を育成し、『自律的に考え判断すること』、『批判的にものを見ること』が論文構造に否応なく組み込まれていることが確認出来る。
まず自律的に考え判断する能力は、導入部分で主題のどの側面を論じるかを書き手自らが決定し問題提起すること、そしてこの問題提起に基づいて与えられた問いを三つに構成し直し、それらに答えていくことで養われていく。(略)
次に展開部分の<反>は、信じていたことを疑い、一度否定することで別のあり方へと目を向けさせる機能がある。常識と暗黙の前提を疑う哲学の思考法が論文構造の中に組み込まれているのがわかる。」(p94)

アメリカ式論理がディベートに代表されるように、お題は相手に与えられて、それにYes/Noでロジカルに説得していくものだとしたら、フランス式論理は、そもそもお題の中でどこに着目するか、を自律的に考え判断することが求められる。また、そのお題の一般的テーゼにたいしても、「それって本当だろうか?別の可能性はないだろうか?」と批判的に思考する。それは、政治のように「こうすれば正解」がない領域の問題の場合、比較考量を正統化するためにも必要不可欠な力であることがわかる。

一方、イランの作文技法には「法技術領域」の合理性と表題が書かれている。

「エンシャーの特徴は、主題がいかなるものであっても、決まった結論、すなわち道徳的・宗教的に正しい結論に向かって落とし込まれていく展開をたどることである。作文教科書で書き方の多様な技術や形式を紹介してお手本を示しても、この特徴は保持される。イランにおける作文は様々な主題を扱いながらも、それぞれの主題の多様な側面を、すでに決まっている結論に向けて準備する『目的論的』な思考が作文を書く論理を作っている。
結論を決めてから掻き出すことは、欧米では作文を書くときの鉄則だが、その結論がすでに外から与えられているもの、とりわけ真理であり規範として社会や宗教から定言的命令として下されていることを、神への感謝やことわざ、詩の一節に収斂させることが、イランの思考とその表現法を特徴づけるものである。」(p103)

イスラム教のクルアーンという絶対的真理や規範が決まったいる。この結論が「外からあたえられている」場合、フランスのようにその真偽を問うことは、もっともしてはならない禁忌である。そして、結論も自分で決めず、定言的命令として既に存在している。その場合なら、「○○の条件ではクルアーンに適合的である場合はどうすればよいか、を法技術的に検討するのが「合理的」なのである。

で、アメリカ、フランス、イランの作文と日本の作文の違いは何か。それを「感想文」の論理として、以下のような型で筆者は示している(p115)。

序論:書く対象の背景
本論:書き手の体験
結論:体験後の感想=体験から得られた書き手の成長と今後の心構え

読書感想文でも絵日記でも、大体このパターンを踏襲したら400字なり800字は埋まる。そして、僕も2冊ほどエッセイを出しているが、多分このパターンを踏襲してエッセイを書いていると思う。ここにはどのような合理性があるだろうか。

「社会領域のレトリックも論証の形をとらないが、ここで重視されるのは社会の構成員から『共感されるか否か』である。法技術領域に見られるような普遍的・絶対的な倫理ではなく、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった『利他』の考えに基づく個々人の『善意」が社会領域の道徳を形成する。道徳形成の媒体となるのが『共感』である。」(p114)

日本社会の文脈依存性とは、イランのような一神教的な社会におけるそれとは大きく異なる。クルアーンなど絶対的真理・秩序はない。その代わりに参照枠は、「社会の構成員から『共感されるか否か』」なのである。これが「空気を読む」とか「同調圧力」につながる。共感できない奴は、いくらアメリカ式の論理で声高に主張しても、共感されない。逆に言えば、ロジックが変であっても、共感されると、一定程度のパワーを持ってしまうのだ。

で、ここまで整理してくると、やっぱり僕もこの「社会の論理」に思考方法がかなり依拠しているのだろうな、と思う。僕のエッセイって、自分の愚かさや至らなさ、阿呆さ加減ばかり書いているし、もうじき出る新刊『あなたとわたしのフィールドワーク』(現代書館)でも、見事にこの骨法で書いている。

ただ、アメリカ式論理のトレーニングの良書を読んだり、フーコーやブルデューの本を読み囓っていると、別の合理性も理解出来るようになってきた。しかも、アメリカとフランスを対置させることで、複雑なものを複雑なまま理解する、というやり方のおもしろさも見えるようになってきた。筆者はこの4つの違いを「文化に枠づけられた論理と思考法」(p180)とまとめているが、ロジックは一つではない、と知っておくだけでも、ずいぶん視野が広まる。異文化理解、だけでなく、自分が許せない・納得できないと思う主張がどのような論理構造を辿っているのか、を分析する時に、結構役立ちそうだ。

そして、僕は官僚的形式合理性が、たまに虫唾が走るほど嫌だったりするのだが、その嫌な部分って、実は結論が最初から決まっている「法技術領域」の文章だからかもしれない。それは共感を全く前提としていないからだ、とすると、その結論の合理性を、フランス式の合理性で疑ってみる、など、攻略の仕方まで考えることも出来るかも知れない。そう考えたとき、この4つの合理性をどのように使い分けるか、が結構重要になってくるかもしれないな、と思った。

頭の整理に非常になる、秀逸な一冊だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。