作業療法の実力というか面白さが詰まった1冊を読む。それが仲閒知穂さんの『学校に作業療法を』(クリエイツかもがわ)である。何が良いって、「問題行動」に着目せず、「届けたい教育」とその可能性に着目するのが、問題の外在化であり、オープンダイアローグの思想と親和性が強いところだ。
106ページに掲げられた、「問題行動」としばしばラベリングされる「悩み事」を、「届けたい教育」にどのように変換するか、が非常に見事だった。
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「友達への暴力と多動」「教室から出て行く」「いつも泣いている」「大きな声を上げる」・・・これらは、学校の先生からすれば、秩序を乱す「問題行動」「困難事例」である。でも、それは本人自身も困っている状況でもある。しかし、本人、親、先生だけでは、そのような「問題行動」や「困難事例」を鎮めることが出来ず、みんな困り果てている。そのときに、作業療法士の仲閒さんが学校に関わる事になる。
だが、仲閒さんは「問題を解決すること」を目標としない。なぜなら、その「問題を解決する」枠組みでは上手くいかない事例が、彼女の元に寄せられるからである。その際、発想と視点の転換がなされる。
「先生が子どもに何か『問題』を感じるのは、『こうなってほしい!』『いまのうちにできるようになってほしい!』という期待があるからです。それは親や本人も同じです。親は子どもにできるようになってほしいと願うから、それが上手くいかないことに『問題』を感じます。本人は、自分がこうなりたい、これがしたいという思いがあるから、上手くできないと不安やいら立ちを示すのです。
私たちは先生、親、本人が直面している『問題行動』の解決ではなく、その問題を感じる行動の先にある『届けたい教育』に焦点を当て、それをかなえるための関わりをしています。」(p105-106)
「友達への暴力と多動」をする子も、「苦手な算数も教室で頑張ってほしい」。「教室から出て行く」子だって、「係活動で協力し合う経験をさせたい。「いつも泣いている」子も「身の回りのことをできるようになってほしい」。 「大きな声を上げる」子も「社会科見学に参加させたい」。つまり、教員には学校の中で「『こうなってほしい!』『いまのうちにできるようになってほしい!』という期待」があって、それが上手く実現出来ないから困っている。それは、親や本人も同じである。
であれば、「先生、親、本人が直面している『問題行動』の解決ではなく、その問題を感じる行動の先にある『届けたい教育』に焦点を当て、それをかなえるための関わり」をすればよい。このコペルニクス的転換がなされたのである。これによって、作業療法士などの外部の専門家が立つ位置づけが、本当に大きく変わる。そのことはp109の図に以下のように書かれている。
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専門家が知っていて、先生や子どもは知らない、という左側の立ち位置で専門家がいても、「友達への暴力と多動」「教室から出て行く」「いつも泣いている」「大きな声を上げる」は解決できない。それは、専門職の立ち位置が間違っているからである。学級運営は教師の専門性があり、保護者には親の専門性、そして子ども自身は自らの経験専門家である。そう位置づけると、専門家がすべきなのは、三者の目標や見立てを「届けたい教育」と整理し、それに向かって三者が協力できるようにお手伝いすることなのである。
そして「届けたい教育」の目標が「友達と休み時間に楽しく遊ぶことができる」であれば、ここからが作業療法士の真骨頂なのだが、活動単位ではなく工程(行為)単位で作業遂行を評価し、工程を以下に分けて、何ができる、できないを観察し、出来るためにどうしたらよいか、を一緒に考えるという。(p138-139)
工程1 友達を誘う・誘いに乗る
工程2 友達と1つの遊びを共有する
工程3 意見の違いを相談する
工程4 遊びが変わっても再度、その遊びに乗る
工程5 また遊ぼうと約束するなど
こうやって整理されると、一つずつの工程で出来ることが明確に見えてくる。そして、一つ一つの工程で出来ないことがあれば、「かなえるための作戦会議」を行い、それぞれの工程はなにをどうしたら出来るようになるのか、をみんなで考え合うのだ。
これは、僕が学んできた「未来語りのダイアローグ」の手法と共通している。この中では、次の三つの質問をして、話し合っていく。
①「一年がたち、ものごとがすこぶる順調です。あなたにとってそれはどんな様子ですか? 何が嬉しいですか?」
②「あなたが何をしたから、その嬉しい事が起こったのでしょうか? 誰があなたを助けてくれましたか? どのようにですか?」
③「一年前、あなたは何を心配していましたか。あなたの心配事を和らげたのは、何ですか?」
問題がこじれてどうしようもない悪循環に陥っている時に、問題や困難に目を向けるのではなく、「一年後にすこぶる順調である未来」を、本人や家族、支援者などが集まって、まず想起してもらう。これは「届ける教育」を決めるプロセスである、といえる。その上で、誰がどのように協力したらそれが実現出来るのか、を一緒に考えるのは、「かなえるための作戦会議」のプロセスである。それらを話し合った上で、一年前=現時点での心配ごとを語ると、「届けたい教育」や「かなえるための作戦会議」が既に話し合われた上で、なので、その心配ごとの悪循環に巻き込まれずに済むのだ。
なるほど。「届けたい教育」という叶えたい未来を先取りすると、問題行動や困難事例に巻き込まれている本人や家族、先生はその悪循環とは違う「希望の持てる未来」が見えてくる。すると、「問題行動を解決する」というモードではうまくいかず、絶望的・悲観的になっていた人々にも、希望の炎が再び灯る。本人と親、教師の三者が目標を共有することができる。その上で、では具体的にどうすればよいか、を「かなえるための作戦会議」をすることで具現化していく。そのファシリテーターとして作業療法士が機能するだけでなく、その後、希望を叶えるために、作業遂行評価に入るのだ。
ただ、ここで大切なのは、最初から作業遂行評価をしない、という点である。作業遂行評価から入ると、問題点の指摘になる。それだと、本人や親、だけでなく教員も「出来ていないことをネガティブに評価される」というモードに陥る。すると作業療法士は「私の現状を否定する人」と映り、一緒に協力できる相手ではなくなってしまう。だからこそ、先に三者の「叶えたい未来」を伺い、それを「届ける教育」として共通化することができれば、その「届ける教育」を実現するチームの一員に、外部の作業療法士が入ることが出来るのだ。
この位置づけの転換は、非常に魅力的だし、こういう形で学校に作業療法士が積極的に関わってくれると、社会的障壁としての障害が大きく減っていく可能性がある。これは、就労支援にも同じ事が言える、と同書に書かれていたが、確かにと頷く。仲閒さんはこの「届けたい教育」に焦点を当てた次の本『「届けたい教育」をみんなに』があるので、これも早速読んでみよう。