脈絡を把握し揺らす

土曜の夜から喉が急激に痛み出したのに、調子に乗って酒を飲んだのがダメだった。早めに寝たにもかかわらず、日曜日は声が出なくなり、月曜日は研修講師なので、これはまずいと一日伏せっていた。朝はいつも作る生野菜ジュース、昼夜は具なしのスープのみで済まし、一日プチ絶食して、なんとか復帰する。その間に読んでいた本が、心に染み渡る。

「東アジア医学では、脈をとられる患者の、今現在の状況が重要だ。患者の状況は常に変化するため、脈を捉えるとき、まさにその瞬間にあらわれる様相および出来事が重要となる。流れの様相を読もうとする東アジア医学にとって、これは当然の傾向だろう。」(キム・テウ著『二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学』柏書房、p100)

僕の今回の風邪は、西洋医学的に言えば喉の炎症であり、炎症を抑えるうがい薬等を用いて、炎症を抑えることが目指される。でも、ぼく自身の炎症が現れたときの「様相および出来事」としては、仕事がハイシーズンで十分眠れておらず、連日移動も多く、暴飲暴食気味で、冷え込んで足先も冷たい日が多くて・・・と、風邪に至るまでの状況が十分に構築されてきた。そういう「流れ」の延長戦の中で、「喉の炎症」が現れる。そういう意味では、喉の炎症が単独で生じているのではなく、ここ数ヶ月の繁忙期の限界が、炎症という症状として到来した、とも読むことが出来る。

この本は、東アジア医学の一つである韓医院についてのフィールドワークの記録である。ぼく自身は、10年以上前から、漢方治療にお世話になっているので、実に親和的な世界であるが、韓国に独自の体系が進化していることは知らなかったので、めちゃくちゃ面白かった。しかも著者は医療人類学者なので、西洋医学と東アジア医学の対比が実に秀逸である。

「近代西洋医学の空間化が特徴的なのは、それが幾何学的な想像力にもとづく空間化であるためだ。座標を通して点で位置を特定するように、近代西洋医学の空間化は人間の身体に点を打とうとする。すなわち、病気の位置を指定しようとする。近代西洋医学は、病理解剖学という名の下に、解剖学的な空間(すなわち身体)の上に点を打つ方法を体系化した。これは疾病が身体という空間上に固定可能な現象であり、くり返し示すことができるという前提で身体を理解する方法だ。」(p91)

確かに昨日の僕は声が出ないという形で、喉の炎症があった。これは、「座標を通して点で位置を特定するように、近代西洋医学の空間化は人間の身体に点を打とうとする」考え方である。そして、その炎症に対して、消炎鎮痛剤などを投与する、という方法論をとる。これは「疾病が身体という空間上に固定可能な現象」であるという「疾病独立体」の認識前提に基づいている。でも、東アジアの医学は、それとは異なる視点をもっている、という。

「韓医師は主体の位置にあるが、受動的に患者の状態を受け入れてもいる。すでに決まっている疾病独立体を『発見』し、確認するのではないことから、『血糖値が145です』といった断定的な表現は使わなかった。主体と客体が出会う瞬間のゆらぎがあり、東アジア医学はこの状況を言葉に込めようとする。存在を消去されない主体が身体の状況を充分に受け入れることで成り立つ知が、『感じられます』という表現に込められている。」(p102)

西洋の医学は、喉の炎症なら喉の炎症と部位を特定する。その際、医療的対象(患者)の特定の部位に炎症がある、という判断主体は、病院においては患者ではなく医者である。そこでは「対象を確実に把握しようとする強力な行為者」(p96)として医者は存在している。だがら「『血糖値が145です』といった断定的な表現」を「客観的」に用いる。一方、脈を診る東アジアの医師達は、この「強力な行為者」のような断定はしない。「すでに決まっている疾病独立体を『発見』」する営みではなく、脈を診ながら、患者さんの話を聞き、状態や様子を確かめながら、「受動的に患者の状態を受け入れ」ようとする。

喉に炎症がある。カラオケで歌いすぎたからなのか、疲労や寒気が蓄積されたからか、何らかのポリープなどの可能性があるのか・・・表面に出来ている現象の背景には、様々な要因がある。それを、「疾病独立体を『発見』」するために探るのか、「その瞬間にあらわれる様相および出来事」という「流れの様相を読もうとする」のか、で解釈者の視点は大きく異なる。前者であれば、「幾何学的な想像力にもとづく空間の特定」が目標とされ、その空間に位置する「疾病独立体」の各個撃破が目指される目標になる。でも、後者であれば、喉の炎症に至る「流れ」を理解する必要がある。これは主観的な行為であり、受動的な行為であるからこそ、「主体と客体が出会う瞬間のゆらぎ」のなかで、『感じられます』という表現が立ち現れる。

「基本的に脈絡という単語は、脈が経路に従って流れるという意味だ。ある物事を『脈絡の中で眺める』ことは、その物事を全体的な関係と流れの中で見るということだ。それに合わせて対応する、ということだ。脈絡の中で眺め、その脈絡に合わすように動けば事はうまくいくだろう。問題も解決するだろう。鍼を通した治も同じだ。身体の全体的な関係と流れの中で問題を眺め、手助けする。」(p136)

10年以上前、不妊治療で煮詰まっていた頃、人に教わって恵比寿にある呉澤森先生の治療院に通っていた。呉先生は『鍼灸の世界』という著書もある、中国医学の名医である。精子の運動率が悪い、という「疾病独立体を『発見』」されたが、それは西洋医学では何ともしようがない。そのとき、呉先生に診てもらったところ、精子だけでなく、気の流れが悪い陰陽両虚だと言われた。そういえば、その頃講演で2時間喋り倒すと、終わったあとぐったりしていた。文字通り、精も根も尽き果てる状態だったのだ。

そこで呉先生のところで、鍼灸治療をして頂いたのだが、あのとき受けた治療はまさに『脈絡の中で眺める』治療だった。精子の運動率が悪い、という問題「だけ」だとその当時の僕は思っていたが、腰が悪いことも発覚し、手足の冷え性など、色々な問題に関連付けて状況を見ながら、「脈絡の中で眺め、その脈絡に合わすように動けば事はうまくいく」ようにサポートしてくださった。僕だけでなく妻も一緒にかよい、夫婦の身体の「脈絡」をうまくサポートしてくださったからこそ、高齢出産だったにもかかわらず、8年前に待望の娘が来てくれた。まさにそのような布置に至るための「脈絡」を導いてくだったのだと感謝している。

そして、「ある物事を『脈絡の中で眺める』」というのは、精神障害者の地域生活支援でも重要なのではないか、と感じている。幻覚や幻聴、妄想、躁や鬱といった状態は、「疾病独立体を『発見』」してそこに効果的な製薬で対応しようとしてきた。でも、何度もブログで書いているように、その状態に導かれるに至った「最大化された生きる苦悩」はそれでは減らない。それを減らしていこうと思ったら、「脈絡の中で眺め、その脈絡に合わすように動」く必要がある。そして、それは「「疾病独立体を『発見』」し、そこにアタックする薬を投薬する、という標準的な医療では出来ないことである。

こないだ、僕が関わりがある、重度な精神障害者の包括的地域支援チームであるACT−Kの訪問に、久々に同行させて頂いた。ACTは、移動支援や行動援護、重度訪問介護などの標準化された障害福祉サービスにのらないような、病状が重くて生きていくのがやっとの人を、病院ではなく地域の中で支え続けるチームである。その日の訪問で、例えば怒っている人とか、素っ気なくてすぐに帰ってほしい、という人も、粘り強く支援をし続けていた。同行させて頂いた職員の方と車でしゃべっていると、その方だけでなく、ACT−Kのスタッフ達はまさに「脈絡の中で眺め、その脈絡に合わすように動けば事はうまくいくだろう。問題も解決するだろう」という視点で動いていた。「「疾病独立体を『発見』」し、そこにアタックする薬を投薬しても、状況は改善されない。であれば、その方の生きてきた人生、暮らしている家族との関係性、その人の叶えられなかった夢、いま・ここで感じている焦燥感などの「脈絡」を把握し、「主体と客体が出会う瞬間のゆらぎ」のなかで、支援者は対象者の「身体の状況を充分に受け入れることで成り立つ知が、『感じられます』という表現」のかたちで表されていた。そのような協働性や相互作用が、鍼灸の世界だけでなく、ACT−Kでも垣間見ることができた。

ということは、この東アジア的な医学の思考は、実は中国医学や韓医学、漢方だけに限らず、生きる苦悩が最大化した精神障害者の地域生活支援にも充分に応用可能なのではないか、という妄想が生まれている。

そして、この本は人類学の多自然主義の理論を用いながら、韓医学や鍼灸とは東アジアのアナロジーのネットワークで捉え、そのネットワークをゆらし、流れを通す治の道である(p157)とも述べている。これは因果論的な「疾病独立体を『発見』」するメカニズムとの対比で面白いし、実はこの「アナロジーのネットワーク」をゆらすのは、悪循環にある家族システムをネットワーク的に揺り動かすオープンダイアローグや家族療法とも通底しているのではないか、と思うが、これを書き出したら今の倍ほど書かねばならないので、とりあえずその思いつきをここに置いておこう。

最後に一言。この本はすごく読みやすくて、優れた訳である。訳者の酒井瞳さんは、大学で韓国語を学んだ後に、漢方に興味を持って、大学院で医療人類学的な日韓比較をした経験がある。こういう訳者だからこそ、この本が実に読みやすく、訳注も丁寧にされている優れた仕事に仕上がったと思う。この本は何度も読み返したい名著である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。