今年も大晦日。毎年恒例の、この一年を振りかえっての三題噺を書く日である。一つ目は決まっていて、あと二つはまだ思い浮かばないけど、多分書いているうちに湧き上がってくるだろう。
1,ダイアローグを活性化させる
11月に京都でトム・アーンキルさんの集中研修を久しぶりに受けた。7年前に「未来語りのダイアローグ」の集中研修を彼から受け、僕の対話実践の質は大きく変わったことは、このブログでも何度も書いてきた。今回、トムさんと4日間ご一緒して、ある晩はトムさんご夫妻と三人で夕食もご一緒する中で、ぼく自身の対話実践を改めて振りかえり、ブラッシュアップする時間となった。
そして、各地の実践共同体での受講生の皆さんとの対話の時間とか、最近は講演に呼ばれても事前にアセスメントのモヤモヤなどについて書いてもらい、受講生と対話していたりもする。あるいは、12月は三つの研修現場で、フィッシュボール形式で話したい人に真ん中の円に来てもらってお話して頂いたり。そういう意味で、対話的な時間を過ごすことが多い。そして、こないだVoicyでも話した「振り返り会」でてっちゃんやてっしーさんに「対話実践のなかで自分が問われることはありませんか?」と聞かれて、まさにその通りだよなぁ、と改めて思う。
思えば、今年もシビアな対話があった。自分を試される対話。権威や権力、知恵や知識で誤魔化そうとしても、それを見抜かれるような対話。丸腰で臨むけど、その先どうなるのか、落としどころも筋道も見えない対話。怒りや葛藤、困惑や疲労が最大化した対話。あのとき、僕はどうやってそれを切り抜けたのだろう、と思う。はじまる前は、深呼吸して、相手を歓待した。そして、こちらへの印象が最悪な相手に対して、丁寧にその人の考えていることを教えて欲しい、とお願いした。「こんなこともわからないのか?」と思われても、「申し訳ないけど、できる限り全体像を理解したいので、一から教えて頂けませんか?」とお願いした。そして、半時間以上かけて、じっくり丁寧に、相手の意見を聞き取り、それぞれの話に対して、「いま、わたしはこのように聞いた・理解したけど、それは合っていますか?」と確認し続けた。そのプロセスを踏まえた上で、「言いたいことは十分言えた」と相手に言ってもらってから、その相手の発言の内容について、一緒に考える時間を作った。発言の内容が、どのような事実や価値に基づいているのか、を1つずつ紐解き、ほぐし、分類する作業を共にしていった。そのプロセスの中で、一筋の光が見えた。そこから、相手も納得のいく筋道が広がっていった。
毎回、どんな対話になるか、わからない。使える武器もないので、丸腰である。だからこそ、前の晩によく眠ること、相手の話を遮らずにじっくり聞くこと、価値ベースで勝手にラベリングせずに相手の言葉通りに受け取ること、を大切にしている。そして、こちらがアドバイスや評価をしようと思わず、愚直に相手の論理を教わっているうちに、筋道が見えてくる機会が、何度もあった。逆に言えば、うまくいかなった対話とは、筋道が見えてくるまで話を聞くことなく、途中で話を遮ったり、あるいはか細い「声にならない声」に耳を傾けきらなかったばっかりに、相手の話の全体像を理解できないまま、何かを提案するモードになったのだと思う。これは次年度以後の宿題として、残しておきたい。
2,休みは意識的に取れた方?
夏休みに一週間、ルチャ・リブロの司書、青木海青子さんから教わって、東吉野村で一週間滞在する。子どもと共に、天気なら川遊び、雨が降ったら榛原の温水プールに出かけた。ガツンと一週間も休むことはなかったので、こういう長期休暇は良いなぁ、と改めて思う。3月にはコロナや台風で行けなかった沖縄に3度目の正直!で家族旅行に5日間行ったり、暮れはおじいちゃんおばあちゃんの金婚式の御祝いで淡路島の温泉宿に泊まったり、なんだかんだと旅行は出来ていた。
以前「休暇のマネジメント」を読んで、休みをゆったり取ることの大切さと、それに向けて意識的に動くことの大切さを教わり、それを実行したら、出来ていた。なので、次の正月休みは、この春と夏はどこで過ごそうか、の作戦会議をしたいと思っている。
ただ・・・それ以外の期間、ちょっと働き過ぎた傾向がある。特に10月から12月は、みっちりと予定が詰まって、それに身体がついていかず、3、4回は風邪を引いてしまった。睡眠時間が足りない+移動時間が多いと、てきめんに風邪を引く。同じことを毎年書いているが、この仕事を詰めすぎる悪いクセは本当に直さねば、来年50才になるので、身体がもたない。子どもが小学校に入ったあと、手のかかる部分がかなり減ってきたからと、週末は子どもと遊ぶ時間より仕事を詰め込んでしまっている。これは本当にマズイ。最近、お友達と遊ぶことも増えてきた娘が、父と遊んでくれるのは、あと数年と見積もった方がよいだろう。であればなおさらのこと、休日に仕事を入れる日数は減らさないと。来年は、このスケジューリングが出来るか、も問われている。
3,足踏みの一年
今年は次の展開への足踏み=仕込みと待ちの一年だったように思う。こないだ、オムラジ「生きるためのファンタジーの会」で青木真兵さんから「今年はどんな一年でしたか?」と聞かれて、自然と口に出していたフレーズだった。海青子さんや向山さんに「そうはいっても、まわりからみたら、めちゃくちゃ動いているように見えますよ」と言われた。それはそうなのだが、ぼく自身の中では、仕込みの時期であり、待ちの一年、だったように、思う。
何を仕込んで、どんなことを待っているのか? それは、正直、まだわかっていない。最近、以前なら伝わらないと思った相手にも、話が通じるようになってきた。相手の話を聞いていても、聞こえる内容の幅や奥行きが広がったように思う。それに連動するかのように、関連付けする思考も、だいぶ豊かになってきた。そうやって、目の前の一人一人の方と出会い、その場その場で話したり聞いたりしながら、こうやって原稿やブログをコツコツ書く。本との対話をし続ける。その積み重ねで、11月には共著『あなたとわたしのフィールドワーク』が出たし、12月にはお招きされた勅使川原真衣さんの対談本『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』も刊行される。1月には『「困難事例」を解きほぐす』の続刊も出るし、2月は晶文社の単著も出来る予定だ。
そういう文字通りの仕込み、だけではない。来年2月には50才になるのだが、40代の最後の踊り場のような一年で、50才以後どう生きていこうか、ということを、地べたで足を踏みながら、考えていたように思う。
対話実践に誠実に向き合いながら、ブラッシュアップしていたのも、50代で自分が注力したいことのチューンアップの1つだったと思う。バカンスを精力的に取り入れたのも、メリハリのある暮らしは、50代で身を滅ぼさないために大切だと思っている。何より、最近「嫌なものは嫌だ」「アカンもんはアカン」と社会的にも言い続けている。それは、自分自身が腐らないためにも、怒りや違和感には「肉体の反射」が大切なのだと、暮れの記事を読みながら改めて感じている。
ウダウダ書いてきたが、何だか次のフェーズに行くために、自分の心の持ちよう、行動原理、優先順位などをチューニングし、再確認し、引き締め直していたような一年だった。だからこそ、良い意味で足元を見つめ直す「足踏み」の一年だったのだと思う。
さて、来年はどんな50代に突入するのか。それは全くよくわからないけど、少なくと、家族三人で楽しんでいたいというのだけは、確かだ。
みなさま、佳い年をお迎えくださいませ