評価や査定を手放して聞く

最近、色々な現場で対話のファシリテーションをさせてもらっている。昨日は曽爾高原のそにっとキャンプで、保護者の方々とのダイアローグ。一昨日はウェブ上で、とある社協の中長期計画作りに向けたワークショップ。それに加えて、この時期、岡山で10年、長崎で3年続け、そして養父で今年初開催の「無理しない地域づくりの学校」系列講座で、受講生との個別面談もずっとやっている。とにかく何だか対話漬けの日々。

そんな日々の間に、対話実践の原典に当たるような本を、ぼちぼち読み進める。

「クライアントは専門家であると言うとき、わたしは、クライアントが彼ないし彼女の人生の専門家であると言っているのです。クライアントは、何について話すことが重要であり、重要でないかについての専門家です。クライアントは専門家であると考えることで、わたしは学習者になります。クライアントが教師で、わたしはクライアントから学びます。わたしの経験では、わたし自身が相手に対して本当に興味を持ち、その人に関心を向けているときには、私の興味と探究心が自然とその人を、共通のないし相互の探求や共同作業へと招き入れるようになります。言い換えれば、一方向の探求やプロセスから始まったと思われるものが、クライアントとセラピストが共に学習し探求する双方向のプロセスへと変化するのです。」(ハーレーン・アンダーソン「コラボレィティヴ・アプローチの可能性」『会話・協働・ナラティブ』金剛出版 p127)

ハーレーンのいうことは、本当にその通りだと実感する。グループでの話し合いの場でも、個人面談でも、僕がしていることはただ一つ。「わたし自身が相手に対して本当に興味を持ち、その人に関心を向けている」だけなのだ。でも、そうやって相手の世界観を面白いと思いながらお話を伺っているうちに、「私の興味と探究心が自然とその人を、共通のないし相互の探求や共同作業へと招き入れるようになり」はじめる。そこから、接点ができて、話が深まっていく。これは1:1の場、だけではない。昨日は金魚鉢(フィッシュボール)スタイル(ググって見つけた解説はこちら)で、しゃべりたい人が話すのを、他の人が聞くスタイルだった。一昨日は、Zoomの画面越しに、僕が参加者全員とおしゃべりし、それを他の人が聞いているスタイルだった。いずれにしても、そうやってじっくり話を聞いていくなかで、何かが開かれていく時間が生まれていく。それは「クライアントとセラピストが共に学習し探求する双方向のプロセスへと変化する」プロセスなのだと思う。

以前の僕は、面談なので、何か解決案を示さないといけない、とかアドバイスをしなければ、と力んでいた。それが上手くはまれば良いが、自分の得意げになった見立てほど、相手の実像とズレていた。そして、得意げなアドバイスほど、相手は命がけで反発してくる場面もあった。その際、僕は講師や教師として権力行使をして、相手をねじ伏せようとして、更にドツボにはまり、悪循環にはまることもあった。そのたびに、「相手はわからやずだ」「あの人は批判的意見を受け入れられない人だ」と、相手の責任にしていた。でも、それが一番ダメだと、ダイアローグの実践を学ぶようになって、気づき始めた。何がダメって、「クライアントが彼ないし彼女の人生の専門家である」という敬意を払えていなかったのだ。一般的なアドバイスは出来ても、それが彼女や彼の人生に当てはまるかは、その人自身が決める。その大前提に経つことができなかったのだ。これは、クライアント、だけでない。娘や妻に対して、父や夫として色々アドバイスしたくなっても、彼女たち自身の人生の専門家は、僕ではなく妻であり娘である。そのわきまえを持てるかが、ぼく自身に問われている。そして、それはそう簡単ではないことも、よーくわかっている。

だから、ダイアローグの目的は、ダイアローグし続けること。僕は、色々な人の話を聞き続けながら、聞き方を学び続けている。対話の中で、それぞれの人生を伺いながら、そこから無知の姿勢(Not Knowing)で学ばせてもらうことが出来るか、が問われている。

ダイアローグの名手三人の対談集のこの本の中で、マイケル・ホワイトはこんな風に言っている。

「規範的な考えの弊害について、今の話には引き込まれたよ。職業的規律・訓練の文化においては、人々を規格化するアイデアに服従させるような励ましが山ほどあるからね。『結局、この問題は家族から君を分離しているんだ。それは惨めなことに違いない』とか『そうした努力において君はあまり生産的じゃないようだね。この立場にいることは、君にとってあきらかに困難でしょう』。規範的な考えから一歩退く中で、重要な会話を開く質問をすることができるようになる。『家族から分離していることは嫌ですか、もしそうなら、それはなぜですか?』とか『公式な教育から分離していることは、どんな感じですか? もしもそれが問題なら、なぜそうなのか私が理解出来るように教えてくれませんか?』と問うことができるのです。『これを達成するための努力において行き詰まりに来たと言ったけど、その経験は君にとってどんな感じなの?』」(p260)

僕はずっと「規範的な考え」や「規格化するアイデア」に縛られてきた。それを信じて遵守することが正しいと信じてきた。それは、「社会性」とか「協調性」と呼ばれるものである。そして、それ自体を否定するつもりはない。でも、何らかのモヤモヤを抱えている状態においては、そのような「規範的な考え」や「規格化するアイデア」にうまく適合できなくて、それを無理に当てはめようとすると問題が生じる場合もある。そのときに、話の聞き手の僕が規範的な何かに縛られていると、相手のモヤモヤの本質を封じ込めてしまう。『結局、この問題は家族から君を分離しているんだ。それは惨めなことに違いない』とか『そうした努力において君はあまり生産的じゃないようだね。この立場にいることは、君にとってあきらかに困難でしょう』などの決めつけフレーズを用いて。

この際、断定的な価値判断からどう自由になれるのか、が、対話における聞き手に問われている。なぜなら、査定・評価・糾弾する/される、の関係性であっては、対等な対話を続けて行くことができないからだ。すると、聞く側こそが、査定や評価や糾弾の根拠となる「規範的な考え」や「規格化するアイデア」を手放すことができるか、が問われる。これは、オープンダイアローグでは「不確実性への耐性」という概念で言われていることにあてはまる。聞く側の慣れ親しんだ世界観やパターンを横に置いて、話し手の人生の物語を、そのものとして伺うことが出来るか、という問いである。

そのとき、例に出された別の質問を、ちょっと分解して考えてみよう。

『家族から分離していることは嫌ですか、もしそうなら、それはなぜですか?』
→これは、家族から分離していること、に対してどのような感情を抱くのかを教えてほしい、という中立的な質問である。分離に関しての評価を相手に委ね、その理由もその人から学びたい、という質問である。

『公式な教育から分離していることは、どんな感じですか? もしもそれが問題なら、なぜそうなのか私が理解出来るように教えてくれませんか?』
→不登校など「公式な教育から分離している」ことについて、「どんな感じですか?」と評価を相手に委ねている。その上で、それを「問題だ」と相手が解釈するのであれば、その解釈の理由も教えてほしい、と相手にお願いしている。

『これを達成するための努力において行き詰まりに来たと言ったけど、その経験は君にとってどんな感じなの?』
→相手が「行き詰まりに来た」と評価する経験についての語りを聞いて、「そんなことはないよ」「大丈夫だよ」「思い込みに過ぎないよ」などの声かけをすると、それは聞き手の評価を相手にぶつけていることになる。その評価的な声かけは、その人の経験の否定に繋がりかねない。だからこそ、相手の語りを正確に受け止めた上で、「その経験は君にとってどんな感じなの?」と、相手自身がその経験をどう評価しているのかを聞くのだ。

これらの言い換えは、「規範的な考え」や「規格化するアイデア」を手放すことによって可能になった、別の可能性である。たぶん、相手の話を聞いていて、「むかつく」時って、自分自身の「規範的な考え」や「規格化するアイデア」に抵触する瞬間である。そのときに、その自分自身の価値観を横に置いて、相手自身の内在的論理を理解することができるか、が問われている。

ハーレーンは、こんな風にも語る。

「対話は、ある特定の話し方だと考えています。対話の参加者が互いに、そして自分自身に関与し、その会話の焦点やそこに集まった目的について相互の、ないし共同の探索に携わる話し方です。対話には目下の問題についての探索を伴います。共に検討し、問いを立て、コメントし、考え、リフレクトします。それは、互いの意味を理解しようとするプロセスです。そしてこのプロセスで新たな意味が生成されるのです。わたしは、すべての会話は対話(ダイアローグ)だと考えますが、教える時や書く時には、対話との比較対象のため独白(モノローグ)という用語を用いることもあります。わたしは対話を一つの連続体として捉えます。会話はその連続体上を行き来し、ある時はより対話的で、またある時はより対話的でないというわけです。」(p123)

ぼく自身も、うまく相手と対話出来る時もあれば、独白寄りになってしまう場合もある。うまくいかない時って、「目下の問題についての探索」するモードから始まるのに、気付いたら、「こうすべきだ」「こうした方がよい」という「規範的な考え」や「規格化するアイデア」を押し付けている場合が多いのだ。

そういう時に軌道修正したければ、「互いに、そして自分自身に関与し、その会話の焦点やそこに集まった目的について相互の、ないし共同の探索に携わる話し方」をするように、モードを切り替えた方がよい、ということになる。相手との探索が上手くいかない時には、「いま、何だか話がうまくかみ合っていないようで、ぼく自身は対話相手として大丈夫か不安です」といった「自分自身に関与」する言語を出してみてもいい。それをする余裕がなくて、「あなたは○○すべきだ」なんて言ってしまったら、対話は独白になってしまう。この間、そういう独白的な対話に成り下がった場面を経験したゆえに、ぼくは「いてて!」と思いながら、敢えてそれを書き付けておく。

「共に検討し、問いを立て、コメントし、考え、リフレクト」するプロセスを通じて、「互いの意味を理解しようとするプロセス」を開けるか。その際に、相手に自分の価値観を押し付けるのではなく、当惑したらならばその自分の価値観を「アイ・メッセージ」で相手にそっと差し出してみることができるか。それが、「互いの意味を理解しようとするプロセス」なのかも、しれない。

そして、対話はつづく。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。