いま、ブログを猛烈な頻度で更新しているのは、インプットに集中している時期だから。9月にでる新書の原稿も手放せたので、次のテーマにようやっと取り組めている。そして、今考えているテーマの心柱になりそうなのが、須藤八千代さんの『ソーシャルワークとアブダクション:未来志向の知がもたらす実践』(ヘウレーカ)である。この本の紹介ページで、この本の魅力がダイレクトにまとめられていた。
「横浜市のソーシャルワーカーとして31年勤務したのち、50代で大学の教員となった著者。ワーカー時代、経験や勘を科学的ではないものとし、客観性、エビデンス、普遍性を重視するソーシャルワーク理論にもやもやとした思いを抱えながら過ごしてきた。教員になってからもその思いは消えず、実践を理論から解放したい、だが経験主義だけに陥りたくないという葛藤を抱え、それを理解し、導いてくれる知を求めて、哲学、思想、社会学などさまざまな文献を読み、共同研究にも加わり、本も書いてきた。そしてめぐりあったのが「アブダクション」と「未来志向の知」という考え方だった。この論理こそが、ソーシャルワークの経験を励ますものだと著者は確信を深め、看護学、臨床心理学、医療人類学まで関心を広げて、熟慮し洞察し、推論を重ねて実践するソーシャルワークの力と役割を示す。」
「客観性、エビデンス、普遍性を重視するソーシャルワーク理論にもやもやとした思い」や「実践を理論から解放したい、だが経験主義だけに陥りたくないという葛藤」は、実は僕も感じ続けてきた。僕はソーシャルワーク実践をしていない研究者である。でも、以前から何度も書くように、大学院でジャーナリストの大熊一夫師匠に弟子入りし、社会福祉学も福祉社会学もよく知らないうちから、現場に入り込んでその内在的論理を掴む取材だけをし続けてきた。精神科ソーシャルワーカーが面白いと思って、そのワーカーの内在的論理を掴むために、博論では117人のソーシャルワーカーにインタビュー調査をした上で、「精神障害者のノーマライゼーションに果たす精神科ソーシャルワーカー(PSW)の役割と課題 : 京都府でのPSW実態調査を基にして」という形でまとめた。
博論を書きながら、付け刃でソーシャルワーク理論を読み漁っていたが、ワーカーから聞く面白い実践と、「客観性、エビデンス、普遍性を重視するソーシャルワーク理論」が全然結びつかないことに当惑していた。「実践を理論から解放したい、だが経験主義だけに陥りたくない」ということまでは思い至っていなかったが、僕自身は実践者ではないので「経験主義」では語れず、でも「理論」でも語れず、どうしようかともがいていたとき、指導教官だった大熊由紀子さんから、こんなことを教わった。
「「現場で見聞きしたことから、どのような法則があるのか、をまとめてみては? 私も『おゆきの法則』としてまとめているのよ」
由紀子さんがおっしゃる、「作業仮説をたてる⇒法則を発見する⇒実証・検証・分析によって、それを吟味する、というプロセス」は、グラウンデッド・セオリーにも通じる、帰納法的な調査の王道である。」
(「五つのステップ」という学恩)
で、このブログを書いた10年以上前の当時は、この「おゆきの法則」はグラウンデッド・セオリーにも通じる、と書いていたが、今なら、これはアブダクションそのものだった、と言い直すことが出来る。さて、アブダクションとはいったいなにか?
「人類学者のグレゴリー・ベイドソンは『精神と自然—生きた世界の認識論』の中で、『アブダクションは人々に大きな安らぎを与える。厳密な説明は往々にして退屈である』と述べている。
またこの本の訳者である佐藤良明がアブダクション(abduction)のラテン語の語源abducereについて、次のように説明している。abは英語のawayで、ducereはto leadであり、連行、誘拐といった意味を持つ。また演繹や帰納が一般対個別という縦の関係だとすれば、アブダクションは『不可解な事実を説明するために仮説をもぎ取ってくる(あるいは類例から横取りする)というイメージ』と書いている。
帰納法は個別から一般を、演繹や一般から個別を、どちらも「縦の関係」で導く。しかし、アブダクションは「不可解な事実を説明するために仮説をもぎ取ってくる(あるいは類例から横取りする)というイメージ」である。そして、これは僕が学んで「5つのステップ」として博論でまとめるに至る、「作業仮説をたてる⇒法則を発見する⇒実証・検証・分析によって、それを吟味する、というプロセス」そのものであり、内田樹先生は、こんな風にも書いている(紹介ブログはこちらに)。
「探偵は現場に残された断片から推理して、その帰結として正解を『発見』する。推理というのは、それぞればらばらに散乱している断片的事実を並べて、それらの断片のつながりを説明できる一つの仮説を構築することです。その仮説がどれほど非常識であっても、信じがたい話であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信すると名探偵は「これが真実だ」と断言する。これは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです。」(内田樹『勇気論』光文社、p28)
名探偵コナンを見ていても、ぼんくらな刑事との違いは、仮説構築力だと感じる。「それぞればらばらに散乱している断片的事実を並べて、それらの断片のつながりを説明できる一つの仮説を構築すること」が、名探偵を名探偵たらしめている腕の見せ所であるし、「不可解な事実を説明するために仮説をもぎ取ってくる(あるいは類例から横取りする)というイメージ」としてのアブダクションなのだ、と感じる。で、名探偵はそれで真犯人を見つけるのだが、ソーシャルワーカーは何を目的にアブダクションをしているのであろうか。
「アブダクションが求める拡張的、飛躍的推論とは、この現実を切り拓く理論である。この女性の高次脳機能障害がもたらす生活上の困難について、またそれはどのような方法で解決可能か、在宅生活で起きるリスクは何か、女性を支援する公私のサポートはどこまで可能か、など拡張的でかつ細やかな襞に踏み込む推論が求められる。何よりも女性の回復過程は流動的で不確実なものである。
これが未来志向の知である。見えていることや確定していることに推論は必要ない。また推論の確かさは、関わる人々の対話や見えていない事実によって深まる。ソーシャルワーカーの決断や思考を越えたものである。
アブダクションが求める洞察や拡張的な推論こそ、ソーシャルワークが必要とする認識構造である。命題も結論もないところに生まれる飛躍的な推論が、ソーシャルワークと現実をつなぐのである。」(p53-54)
須藤さんのいう「命題も結論もないところに生まれる飛躍的な推論」は、内田樹先生の「これは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです」と通底している。この飛躍的な推論=論理の飛躍は何のためにあるのか。それは目の前で困難を抱えている対象者と出会った際、その一人ひとりの個別性に寄り添いつつ、「女性の回復過程は流動的で不確実なもの」と理解しつつ、「未来志向」で「拡張的でかつ細やかな襞に踏み込む推論」をした上で、支援方針を決めていく必要があるからである。しかも、この支援方針はあくまでも「仮説」であり、流動的な事態に合わせて常に書き換えていく必要がある。
しかもこれは介護保険でいう「モニタリング」とは質的に異なるものである。AIに説明させると「モニタリングは、ケアプランに基づいてサービスが適切に提供されているか、利用者の状況に変化がないかなどを定期的に確認する作業」と書かれている。本来ならば人間の状況は刻一刻と変化するのだが、その振れ幅がサービスの適合範囲内であれば、「利用者の状況に変化はない」とモニタリングでは書かれてしまう。しかし、「推論の確かさは、関わる人々の対話や見えていない事実によって深まる」のである。また、適切なケアをしている支援者やサービス事業所であれば、日々の支援のなかで、本人の微細な言動の変化を掴み、それにどのような意味があるのか、検討すべき内容なのか、を織り込みながらケアをしている。逆に言えば、そのような日常的なケア提供の結果、「利用者の状況に変化はない」という状況が結果的に作り出されていくのである。そういう意味で、介護保険のモニタリングは、観察される対象者と観察する支援者をパキッと分けているが、現実は、対象者と支援者が関わり合いながら、「利用者の状況に変化はない」という状態像を構築しているのである。
つまり、ケアにおいて「見えていることや確定していることに推論は必要ない」。そうではなくて、「流動的で不確実な」状態像の変化にたいして、「命題も結論もないところに生まれる飛躍的な推論」をしながら、「未来志向」で支援方針を決め、実際に支援をして見て、それがうまくいったか・いかなかったかを検証し、その仮説を書き換えてさらに実践を積み重ねていくのが、アブダクション的なケアの実態なのである。昨日と今日、明日が同じケアであるのは、ロボット化されたケアであり、人間が行う必要性は低い。ほんまもんのケア現場は、全く同じ事を繰り返しているようでいて、利用者の日々の細かい変化や差異(誤嚥をした、機嫌が悪い、お風呂に入りたくない、便秘である、前の晩眠りが浅かった・・・)に合わせて、ケア内容を微細に変化させ、本人のその日の状態に合わせてチューニングすることによって、その結果として「利用者の状況に変化はない」という実態を対象者と支援者の協働作業で作りだしているのである。動き続けるから、結果的に日常生活の安定性が担保できるのである。そして、このような動く知を担保するのが、アブダクションなのだ。
「実践はそのとき、その場で始まる。それに対して、『分析者はいつでも遅れてやってくる』といい、科学実践は時間を見落とし、その結果『実践を脱時間化する』としてそこに理論的誤謬があると語る。実践は創発し展開し集結する。そのテンポはさまざまである。実践を時間という観点から捉えるブルデュの視点は刺激的だ。
時間と結びつく実践の知を未来志向の知というなら、科学知は過去志向の知である。ブルデュはそれゆえに実践は不確かさ性、両義性、不明瞭性、不規則性、非首尾一貫性が必然であるという。その実践に首尾一貫性を押しつけることは、未来志向の知の特質を奪うことになる。ブルデュは実践に『論理学のものとは違う論理を認めなければならない』と考えている。」(p64)
「論理学のものとは違う論理」というのは、「飛躍的な推論」であり「論理の飛躍」である。それがなぜ実践には必要なのか。「不確かさ性、両義性、不明瞭性、不規則性、非首尾一貫性」という未だ到来していない未来に対して、仮説推論に基づいて何らかの実践を「創発し展開し集結する」プロセスが求められているからだ。そこにはタイミングが合うかどうか、という論点も大きく絡んでいるし、時間の流れの中で、その実践がうまくいくかどうか、を見定める必要がある。そういう意味で、時間という要因は、実践には大きな要素となっている。だが、『分析者はいつでも遅れてやってくる』からこそ、「科学実践は時間を見落とし、その結果『実践を脱時間化する』」。それによって、個別事例を一般化・普遍化した「つもり」になる。でも、時間を抜いてしまうことによって、「見当違いな理論」(p119)が生み出される。大きな声では言えないが、ソーシャルワークの査読論文を読んでいてつまらないのは、「実践を脱時間化する」ことによって生み出された「見当違いな理論」があまりにも多いからではないか、と思う。
「ソーシャルワークは『微細なふるまい』や『ちりばめられた配慮』で成り立っている。それが『道徳的な想像力やオルタナティブな政治』をもたらし、精神医療は改革された。ソーシャルワークは『生と世界の現実に絶えず応答する』ものである。『理解と想像の限界』を押し広げていくアブダクションによって実現する実践である。実践こそがソーシャルワークと共に民族誌を想像するのである。」(p206)
このブログを継続的に読んでくださっている方ならおわかりだと思うが(そんな奇特な方がどれほどいるかわからないが)、このブログでは福祉の本より人類学や民族誌の本を取り上げることが、最近では多い。それは、「脱時間化」されたソーシャルワークや福祉の研究書は、エビデンスベースであろうと、客観性や普遍性を謳おうと、読んでいてつまらないからである。他方、n=1という個別具体事例であれ、その事例や実践、対象地域の変化を活き活きと描き出す民族誌は、読んでいて心をわしづかみにされる。それは、『微細なふるまい』や『ちりばめられた配慮』の記述への感動であり、『生と世界の現実に絶えず応答する』現実のドラマが、そこにありありと絵が描かれているからである。それこそが、人間世界をそのものとして描き出した生々しさであり、迫力なのだ。(それは、現象学的看護の立ち位置からACT-Kの実践を記述した近田さんの本に感じられる迫力でもある)
この飛躍的な推論=論理の飛躍、をどう僕自身の研究の中に落とし込めるか? 現場実践を振り返って記述する際に、『生と世界の現実に絶えず応答する』現実のドラマを、そのものとしてどう描けるか? これからしばらく向き合いたい問いを、この本から託してもらった。