「父の」安心と尊厳の保持

有名なコラムニストでラジオパーソナリティーのジェーン・スーさん新刊『介護未満の父に起きたこと』(新潮新書)を一気読み。物語としても面白いのだけれど、ケアの視点でみると、めちゃくちゃ興味深い。何がすごいって、彼女の父との向き合い方が、福祉の専門家でも出来ないような、究極の権利擁護というか、事前予防的な関わり方だからだ。

ぼくは「ゴミ屋敷」や「支援困難事例」に以前から興味があって、「「合理性のレンズ」からの自由 : 「ゴミ屋敷」を巡る「悪循環」からの脱出に向けて」という論文を書いたり、仲間と共に『「困難事例」を解きほぐす:多職種・多機関の連携に向けた全方位型アセスメント』という本を作ってきたりした。「困難事例」への「アセスメント」に関して、支援者向けの研修もしている。そういう意味では、不遜ながら、一応この分野に関しての「有識者」というカテゴリーに入れてもよいと思う。

そんなぼくから見てすごいのは、ジェーン・スーさんは、僕が難しい専門用語を使って必死に考えてきた内容を、ビジネス書の論理を用いながら体得し、しかもそれがお父さんの尊厳の保持にも沿った形でなされている、という点である。

で、この「尊厳の保持」とは、介護保険法第一条にも書かれている。

「この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。」

「有する能力に応じ自立した日常生活を営む」というのは、教科書的に言えば「残存能力の活用」である。リハビリをするとか、介護ベッドや補助具を貸し出すのも、残存能力の活用のためである。それは、多くの要介護者には適応されている。ただ、最も難しいのが、「尊厳の保持」である。そして、ジェーン・スーさんの本を読んでいて強く感じたのは、何とか父の「尊厳の保持」を大切にしたい、という強い願いがあって、そのための具体的な方法論をガッツリ組み立てていく、彼女の逞しさである。

彼女はゴミ屋敷状態の独居老人で、「老人以上、介護未満」の形で暮らしている父親と向き合った際、ビジネス書を読み漁って次のワンフレーズに出会う。

「Stop Thinking In Tasks And To-Dos. Start Thinking In Outcomes.
要は、タスクとTo Doを考えるのをやめ、成果から必要なことを逆算せよということ。言われてみれば、その通りである。図解はなかったが、先ほどの本を参考に、オリジナルで作ってみよう。
手に入れたい成果は、私のではなく「父の」安心だ。ロルバーンの横長ノートを開き、一番上に、「父が精神的・肉体的に健やかなひとり暮らしを一日でも長く続ける」と記す。これがゴールだ。」(p27)

これがすごいのは、手に入れたい成果として、「私のではなく「父の」安心だ」と彼女は最初から断定していることである。実は、これが一番ハードルが高いのかもしれない。だいたい、「困難事例」や「ゴミ屋敷」の大変さとは、本人が困っていないと発言したり、関わって欲しくない、と思っているけど、周囲の人は何とかせねばならないと必死になっている。その思いの落差である。さらに言うとそこには、関わる周囲の人にとってのリスクを減らしたい、という「本人以外の安心」が裏目的である場合が少なくない。そして、それは「本人の安心」と時として抵触する。自分にとって大切なものが、周りの人にとって不潔で火事の危険性のあるガラクタだったりする。すると、周囲の人の安心のために、本人の同意を得ず無理やり捨ててしまい、本人は立腹して、「お前は帰れ!」と怒鳴り散らし、周囲の人の善意が粉々に砕かれる。そういうことがしばしばある。

だが、そこで出来ていないのは、そしてジェーン・スーさんが最初から気づいていたのは、、「私のではなく「父の」安心」を手に入れたい成果として掲げ、「父が精神的・肉体的に健やかなひとり暮らしを一日でも長く続ける」ための方法論を考えていることである。そこで以下の図を書き出したという(p29)。

この図に舌を巻いたのは、「ゴール」達成のために、「快適な居住空間の維持」「健康な食生活」「体力づくり」と三つの項目を作って、それぞれの項目で何が必要とされているのか、を整理した点である。そして、ここで大切なのは、支援が必要な状態の人に対して、関わる周囲の人はついつい膨大なタスクとTo Doに目を奪われてしまうが、彼女自身は常に「父が精神的・肉体的に健やかなひとり暮らしを一日でも長く続ける」というゴールを意識し、そのための方法論は柔軟に変えていこうとしている点である。

これが、実は支援者だってしにくい。それはなぜか? 目の前に「ゴミ屋敷状態」の風景が広がっていると、「ゴミ屋敷を片付けること」というタスクとTo Doに目を奪われ、「本人の安心」が置き去りにされているからである。逆に言えば、ジェーン・スーさんが実際にやったアセスメント(見立て)と同じレベルのことを支援チームがご本人への聞き取りの中から整理する事が出来れば、その中で支援チームとご本人の関係性が構築でき、「この人なら私の安心を護ってくれそうだから、頼っても・託していいかもしれない」という信頼関係が生まれてくるかもしれない。そういう意味でも、この図は、これからクレジットを入れて、僕も講演で使わせてもらいたいくらい、迫力ある図なのだ。

そしてもう一枚、支援者にも是非とも参考にしてもらいたいのが、次の図である。

このp37の図がいいのは、「できること、できないこと」という二項対立の下に、「危ういこと、頼みたいこと」のレイヤーがある点である。

私たちはついつい二項対立的に考えてしまいがちで、特に親が年を取り、「できないこと」が増えてくると、「できていた時代」との落差に悲しくなり、ついつい接しているとイライラしやすい。我が家の父も昨年急に要介護状態に急変した後、今は杖をついて歩けるまでに回復したが、それでも「早く歩けない」「長距離を歩けない」「すぐに疲れる」など、「できないこと」に目を向けがちで、それで同居している母と父が対立することが、しばしばある。

でも、上記の図にあるように、本当は、①できること→②危ういこと→③他者に頼みたいこと→④できないこと、の四つの段階があるのだ。そして、④できないこと、をなじってみても、できるように懇願しても、それは本人の尊厳や安心を脅かす事態で、指摘するだけ無駄ななのである。だって、それは本人が「できないこと」なのだから。

すると、支援をする家族や支援者にとって大切なのは、「④できないこと」はできない、と割り切って、誰に何をどのように頼めばよいのか、という「③頼みたいこと」を整理する必要がある。でも、何でもやり過ぎると「残存能力」を奪ってしまう。「②危ういこと」に関しては、本人がしやすいように、環境を調整する必要がある。二槽式洗濯機ではなく、乾燥まで一気にしてくれるドラム式洗濯機に買いかえるとか、栄養管理をするためにご飯の写メを「①できること」であるLINEで送ってもらい、栄養が足りなければUber Eatsとか宅配便で本人が食べられそうなものを娘が父に送れば良い。そういう形で、「②危ういこと」を「①できること」の範囲に引きつけておいて、「③頼みたいこと」を徹底的に外注化することで、本人の「残存能力」を活用しつつ、「尊厳の保持」をし続けようというのが、ジェーン・スーさんの関わり方のすごさなのだと思った。

さらに言えば、「③頼みたいこと」として、家事代行や不要品回収業者に入ってもらって、ゴミ屋敷を片付けたときのエピソードもすごい。これも「尊厳の保持」を大切にしながら、以下のような大掃除の目標を先に作っているのである。(p69)

・娘のアドバイスに従いつつ自分も納得したと父が思える環境づくり
・あとから「あれどこいった」とやられても良い置き場所づくり
・作業人員(私も含む)との信頼関係づくり

書き写しながらも本当に秀逸だと思ったのが、これはケアの極意が端的に示されているからである。

まず、ケアを受ける状態というのは、本人にとって「ままならない状態」である。本当は自分でしたいけど、できない状態になってしまった。それは自分自身にとっても悔しいし、みっともないと感じているかもしれない。その時に、片付けを手伝ってくれる娘はありがたいと思いつつ、自分の主権を侵害されるような、アンビバレントな感情を持ってしまう。特に「こんなものはいらないでしょ!」なんてガミガミ言われると、逆上しかねない。だからこそ、「娘のアドバイスに従いつつ自分も納得したと父が思える環境づくり」が根本的に大切なのだ。

この家での生活の主人公は、娘ではなく私である。だからこそ、娘のアドバイスに従いつつも、私が決めて、私が納得する。このプロセスを踏むことが、本人の「尊厳の保持」のために決定的に重要なのである。そして、周囲の人からのSOSで関わる支援者ほど、この本人の「尊厳の保持」をスキップしてしまい、本人との信頼関係を作る間もなく、支援者の安心のために先回りして支援をして、それが本人の逆鱗に触れ、「出ていけ!」と言われかねない。ここがめちゃくちゃ肝であり、「急がば回れ」なのである。

二つ目の「あとから「あれどこいった」とやられても良い置き場所づくり」も肝である。ゴミ屋敷とは端的に言えば、「何が重要か」の価値認識に究極的なズレがある状態である。周囲の人にとって無駄・不潔に見えても本人にとって重要なものがうずたかく積まれている。周囲の人にとっては常軌を逸した、耐えがたい風景や臭いに思えても、長年の時間的経過の中でそこに「適応」していった(あるいは諦めていった)本人に取っては「仮の安定」が保たれている状態である。そして、ゴミ屋敷の人に限らず、人間は時間をかけて構築した状況は、例え不潔で不健康で不足ある状態だと周囲に見えても、仮に安定しているのだから、それを崩されたくないのである。

ということは、ゴミ屋敷の掃除や片付けは、本人は見ているだけであっても、ものすごい心的エネルギーを使うことになる。例え本人が納得して娘や作業員が入ることになったとしてでも、である。だからこそ、常に確認するプロセスが必要である。娘にとって不要な紙束に見えても、本人には大切な思い出だったりする。その価値認識のズレは、補正しようのない。生ゴミなど腐るモノは本人の同意を得て捨てるにしても、腐らない「本人にとっては貴重な何か」は、支援者がいらないと思っても、残さなければならない! だからこそ、「あとから「あれどこいった」とやられても良い置き場所づくり」が大切で、それで一部屋が一杯になり「開かずの間」になったとしても、その部屋があることが、ご本人の心理的安全性につながり、他の部屋を片付け、綺麗にできる原動力になるのだ。

こういう大掃除を、本人が逆上したりせずに納得して遂行するために必要なのが、「作業人員(私も含む)との信頼関係づくり」である。この部屋の主は、娘ではなく父であり、父の納得および尊厳の保持に基づいて一つ一つの行動が遂行されている。そのプロセスを父は見ていて、そのプロセスが実行されていく中で、「作業人員(私も含む)」への信頼関係が少しずつ構築されていく。テレビを見ていて何もしていないように見えて、父は常に作業人員達が言行一致かどうか、気にしているのである。娘がここをしっかり抑えているからこそ、ゴミ屋敷は二日で片付き、その後も清潔が保持できているのだ。

ゴミ屋敷の主は、ゴミが好きなわけでもない。でも、一方的に捨てられるのは嫌だ。自分自身が生活の主体者として尊重されながら、尊厳が保持されつつ、①できること→②危ういこと→③他者に頼みたいこと→④できないことのなかで、「②危ういこと」を「①できること」に引きつける支援とか、「④できないこと」を強要されず「③他者に頼みたいこと」に変換されると、ゴミ屋敷から脱出する事ができるのである。

他にも色々引用したいことが多いが、今日も長くなってきたので、最後どうしても引用したい一カ所を引いておく。

「小さな子を持つ親は、どんなに幼くとも子どもは親とは別人格であり、思い通りになしようとしてはならないことを日々の子育てで学ぶらしい。私は子を産み育てたことはないが、親の面倒を見るとき、同じことを思う。どんなに老いていても、父親と私は別人格。思い通りにしようとしてはならない、と。」
「嵐の夜を何度も超えてたどり着いた答えはやはり、「父と私は別人格だから」だった。どちらが正しいという話ではないのだ。正しさを求めると、必ずどちらかが傷つくことになる。心が傷つくと、ケアはできない。されるほうも、心身共に弱ってしまう。」(p218)

手前味噌ながら、『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』(現代書館)というエッセイを僕は書いているので、めっちゃ頷きながら読んだ。ぼくがエッセイを書きながら学んだのはまさに、「どんなに幼くとも子どもは親とは別人格であり、思い通りになしようとしてはならない」ということだったのだ。ちゃんとしてほしい、とか、もう少ししっかりしてほしいというのは、子どもではなく親の思いであり、子どもは親の思惑とは違う世界を生きている。だからこそ、「思い通りにしようとしてはならない」のである。

そしてその時にすがりたくなるが、もっとも距離を取らねばならないのが、「正しさ」である。「ゴミを捨てるのは正しい」「ちゃんと片付けるのが正しい」「じっと座っているのが正しい」・・・。正しさを強要する側は、「それぐらいできて当たり前」と思っている。でも、その「当たり前」のレベルが千差万別である。これも手前味噌ながら、先週発売した『福祉は誰のため?』(ちくまプリマー新書)では、「第一章 あなたの一段は他人の十段?」という内容で、そこを掘り下げて考えた。「これくらいできて当たり前」という正しさの強要は、他人にとっては時には暴力的になる。「正しさを求めると、必ずどちらかが傷つくことになる。心が傷つくと、ケアはできない。されるほうも、心身共に弱ってしまう。」だからこそ、正しさは脇におり、相手の尊厳の保持こそを最大の目的として関わることができるか、が問われているのである。

ここまで長々と書いてきたが、「父は他人」と思って=父の他者性を認めた上で、ビジネスライクに、つまりは父の尊厳の保持を最重要課題として関わり続ける彼女のエッセイは、支援者も含めて、めっちゃ多くの人に読んでもらいたい。

最後に、ジェーン・スーさんは僕より二つ上で、団塊ジュニア。お父さまはうちの父より五歳上で、どちらも同世代。この本は、これから親が要介護になる団塊ジュニア世代の必読書だし、僕も同時期に新書を発売したので、どこかで対談してあれこれ伺ってみたいな、と思った。あちらは有名人なので、叶うかどうかは、わからないけれど。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。