「おせっかい」の前に信頼関係

ハートネットTVで相模原事件を受けた精神医療の特集を二夜連続でやっている。その中で、措置入院に関する検討会の委員を務めた松本俊彦医師が、番組HPで次のように語っていた。

「精神保健は、「他害を企てる人もまた困難や苦痛を抱えていて、本当はそれを解決したいはずなのだ」という仮説のもと、その人の主観的苦痛に寄り添い、信頼関係を築くなかで変える手法を用います。わかりやすい言葉でいえば、善意にもとづく「おせっかい」です。」

この主張そのものに関しては、僕自身も同感する。特に、「他害を企てる人もまた困難や苦痛を抱えていて、本当はそれを解決したいはずなのだ」という「仮説」はその通りだと思う。生きる苦悩が最大化したとき、「自傷他害」という「究極の自己表現」をせざるを得なくなるのだ。それは、薬物中毒の患者さんを沢山見てきた松本氏ゆえに、説得力がある整理だ。

だからこそ、僕は「国が打ち出した、措置入院した患者に対する退院後の訪問支援は、わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策ではないかと考えています」という松本医師の意見には、反対する。彼は「自殺未遂者に対する訪問支援」が成功している事を引き合いに出して、他害要件のある人にも、同じような「おせっかい」な「訪問支援」が効果があるはずだ、と説得する。だが、ここには重大な欠陥がある。

自殺未遂者などの「自傷」行為をするひとに、「おせっかい」な「訪問支援」をする場合には、「あなたのことが心配だ」という大前提がある。だからこそ、支援者は「あなたのことが心配だ」とダイレクトに伝える。自分の事を気にかけてもらえることは、多くの人にとっては苦痛では無い。嬉しい場合も多い。特に、生きる苦悩が最大化している場合、「気にかけてくれる人がいる」という思いは、すっと相手に伝わりやすい。つまり、善意の「おせっかい」を、そのものとして受け止める信頼関係が構築されやすい。

一方で、「他害の疑い」の場合はどうだろう。

「あなたのことが心配です」という意味には、①「あなた自身の生きる苦悩が最大化した生きづらさ・しんどさが心配です」という意味だけでなく、②「あなたが他害行為をして、他者に迷惑をかけないかどうかが心配です」という意味もある。①のことを気にかけてくれるのであれば、それは「善意のおせかい」であるといえるだろう。でも、心配の中心が②であれば、話は異なってくるのではないか。

松本氏は、先ほどの引用の直前で、こんな風にも語っている。

「精神保健的支援は一種の性善説に支えられています。罰の威嚇をもって人を変えるのが刑事司法の手法であるとすれば」

松本氏自身は、「性善説」を地で行く医師なのだと思う。この間の薬物問題に関する社会的発言などを読んでいても、そう感じる。だが、残念ながら精神保健全体を「性善説」で見て良いのか、というと、はなはだ疑問に感じる。むしろ、「性善説」に基づく医療を隠れ蓑として、隔離拘束を「罰の威嚇」として用いている実態を、僕は沢山見聞きしてきたからだ。

現に、このハートネットTVでも、入院時の採血中にいきなり「興奮しているので眠剤を投与します」と暴力的に注射され、その後手足を拘束されて、2日後に意識が戻ったとき、枕元に「措置入院のお知らせ」の紙がおかれていた人の訴えが出されていた。彼は、説明無く隔離拘束されたことに、「人間として扱ってもらえない」と感じ、強い屈辱と恐怖を感じたという。このような強制入院における暴力的な対応や、「罰の威嚇」のような措置は後を絶たない。これは、読売新聞の原さんがずっと追いかけているが、新聞に掲載されただけでも実に多くの「罰の威嚇」的な不祥事が起こり続けている。

そんな精神科病院への強制入院を、「性善説」だから「おせっかい」も大丈夫、なんて安易に言って良いのか。これが最も気になるところである。

もちろん、だからといって、何もしなくてよい、と言うわけでは無い。他害行為にいたる人が、生きる苦悩が最大化した状態である、という前提は、松本さんと共有する。しかし、先にも見たように、他害疑いに関しては、①あなたのしんどさや辛さが心配だ、というだけでなく、端的に言って②あなたが何をしでかすかが心配だ、という暗黙の前提がある。そして、②を重視した場合、いくら本人に寄り添う(①の視点も持っている)、といっても、本人からすれば「利益相反」になっている(拒否しているのに行動が制限されている)という部分が強い。

だからこそ、松本氏が最後に語っている部分が、死活的に重要になる。

「そのような行きすぎにブレーキをかけるためにも、当事者に対する「権利擁護」の仕組みを強化する必要があると考えています。つまり、アドボケーター制度を併せて確立することです。これは、退院後の地域における「おせっかい」制度と切り離すことのできないものであると、私は考えています。」

本人の意思に反する入院をさせるとき、いくら「性善説」で「あなたのためだから」と言っても、本人の思いとずれている場合、その「あなたのため」は「罰の威嚇」に簡単にすり替わる可能性がある。ゆえに、それを監視し、本人の側に立って、本人の訴えをきちんと届ける権利擁護者(アドボケーター)の存在が必要不可欠なのだ。そして、この存在がないなかで、措置入院制度の縛りだけきつくすることは、信頼関係を構築しない中での「おせっかい」が強化されることであり、本人からみたら「性善説」ではなく、「罰の威嚇」が強化される危険性が高いのである。

ちなみに僕がフィールドワークをまとめたカリフォルニア州では、強制入院した人には必ず権利擁護者がつき、72時間入院時にその措置が正しかったか、について、異議申し立て出来る仕組みがある(詳しくは『権利擁護が支援を変える』を参照)。

これまで起きている不祥事や、松本氏も番組中で述べていた精神科病院の人員体制の不足の現実の中では、安易な強制入院の強化は、より厳しい人権侵害に繋がるリスクが非常に高い。この部分で、強制入院の最小化の努力、およびやむを得ず強制入院させられる人への権利擁護者の必置義務を課すことをせず、単に退院後の訪問支援「のみ」に限定されることは、「性善説」に端を発しながらも、結果的には「罰の威嚇」の強化に堕するのではないか、と大きく危惧している。

そして、アドボケーター制度を「退院後の地域における「おせっかい」制度と切り離すことのできないものであると」松本氏が考えているのなら、なぜその内容が含まれない中での精神保健福祉法改正案に「わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策ではないか」とお墨付きを与えるのか、が理解できない。本気で「切り離すことのできないもの」と考えるなら、現に「切り離」された法案には反対すべきではないか。「そうはいっても世の中全部一気に変わるわけではない」という反論も聞こえてきそうだが、本質的かつ死活的に重要な部分を「切り離」すことに妥協すれば、それは松本氏本人が「性善説」であっても、「罰の威嚇」の強化に結果的に手を貸すことにつながらないだろうか。こう、危惧している。

僕は悲観的に考えすぎなのだろうか。

でも、例えば「アイヒマン実験」のことを思い出してほしい。このことをわかりやすく書いているサトウタツヤ氏は次のように述べている。

「アイヒマン実験とも通称されているもので,権威(者)による命令が個人を従属させ,殺人のような重大な結果をもたらしかねないことをシミュレーションしたものとして有名です」

「権威や役割が容易に深刻な暴力的行為につながる」

精神病院での強制入院は、その権限を与えられた医療者に「権威」と「役割」が与えられている。そして「権威(者)による命令が個人を従属させ」「容易に深刻な暴力的行為につながる」のである。「他害」を防ぐために、という「権威」と「役割」が、「罰の威嚇」のような「容易に深刻な暴力的行為」をもたらす危険性があるのである。その部分について、あまりにも脇の甘い法改正であり、松本氏も言うように、「善意にもとづくおせっかいであっても、それが行きすぎれば当事者をかえって追い詰め、苦しめてしま」うのである。そして、措置入院の最小化の努力、および権利擁護者制度の設置とセットでない今回の改正案は、「行きすぎ」の可能性が高く、「当事者をかえって追い詰め、苦しめてしま」う可能性も高いのだ。

「善意にもとづくおせっかい」が正当化されるには、まずそのまえに病院や医療者側が「行きすぎ」や「罰の威嚇」「深刻な暴力的行為」を防ぐ措置がなされなければならない。本人の権利を護る手段がしっかりない中での、「おせっかい」は、それも結果的に暴力的行為になりうる。更に言えば、そもそも措置入院や医療保護入院を最小化する努力をしないなかでの、措置入院に至った後のみの対応強化、では、問題の本質は変わらないままではないか。

だから、僕自身はこの法改正に納得出来ない。

納得出来ない部分をもう二つだけ、簡潔に述べておく。

今回の改正では、「退院時の支援を充実させる」ことが目玉とされていた。これを指して松本氏は「国が打ち出した、措置入院した患者に対する退院後の訪問支援は、わが国の地域精神保健的支援の質を飛躍的に高める施策」だと言っている。

だがそのモデルとなった兵庫県の仕組みを紹介する映像を見ていて、すごく気になった。様々な人が参加している会議に、「本人がいない」のである。「ご本人さんは○○と言っています」と保健師が「本人の代わりに」発言しているが、そこに本人がいないのだ。本人と「信頼関係」を本気で築きたいのなら、なぜそこに「本人がいない」のか? もし本人が入っていると「ややこしい」と考えているのだとすると、「本人不在のおせっかい」であり、それは本人にとっては、「自分のしんどさやつらさに共感してくれる人の集まり」ではなく、「自分が何をしでかすかわからないと迷惑に感じている人の集まり」と感じるのではないか。それが、本当に本人にとって安心できる支援である、と言えるのだろうか。

さらに、番組では紹介されていなかったが、今回の法改正案では、医療保護入院の市町村同意の要件を緩和することも書かれている。そもそも医療保護入院というもの自体、強制入院なのにその同意権限が家族等という玉虫色のものであり、この医療保護入院の存在自体が問題だ、と僕は思っている。その上、「家族等から意思表示が行われない場合について、市町村長同意を行えるよう検討する」とされている。これは、ハードルの低い措置入院措置、ということではないか。本来強制入院は最小化されるべきなのに、どうしてそれとは真逆の方向性を打ち出すのか。

このように、「おせっかい」の方向性が、松本氏の述べる「その人の主観的苦痛に寄り添い、信頼関係を築くなかで変える手法」とはほど遠い手段になっているのが、今回の法改正のように思えてならない。このような法改正は、やっぱりオカシイ。

追記:そもそも、今回の法改正の出発点である相模原事件との関係性については、事件直後のブログ「同じ穴のむじな」に書いております。そちらもごらんください。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。