「社会の不要品」に敬意を払い信頼する

600ページを超える濃厚な大著を読んだ。読書会の課題図書だったのだが、読み出したら止まらなくなる迫力のある本だった。ブラジルで、精神病者が遺棄された共同体「ヴィータ」で暮らすカタリナという女性の人生を辿った民族誌である。彼女がなぜ遺棄されていたのか。

「私はカタリナの状況を社会的精神病と捉え始めていた。ここで言う社会的精神病とは、いわゆる正常とされる最低限の効率性をそなえた社会編成の秩序を機能させている、物質やメカニズム、関係性のことで、この現実という概念に照らして患者は精神病とみなされる。カタリナはそこで社会の不要品とされたのだ。」(ジョアオ・ビール『ヴィータ:遺棄された者たちの生』みすず書房、p30)

ある人が「社会の不要品」とされる。それはずいぶん不穏な言明である。だが本書の圧巻は、カタリナにインタビューするだけでなく、彼女がいた精神病院のカルテを、本人の了解を得て全て読み解いていく。それだけでなく、彼女を捨てた元夫や彼女の兄弟、義父母、そして子が養子に出された(カタリナから見たら子どもが奪われた)養父母や成長した実子までをもインタビューしながら、その家族関係の中でカタリナがいかに「社会の不要品」とされ、「社会的精神病」となっていったのか、を克明に辿っている点である。

「三年間、私はカタリナの家族と連絡を取り続けた。彼らはいつも私を家に迎えいれてくれた。そして常に、彼らが気軽に彼女のことを話してくれることに驚いた。だが、カタリナのためにできることは何もないと、彼らが言うのを何度となく耳にした。それが常識だった。カタリナを社会生活に連れ戻すことはどうやっても不可能だというのが当然のこととされ、原因を追及したり、どうにかしようと行動に移すことはないのだと私は思った。誰もがそれぞれ、できることはすべて精一杯やったと言った。
カタリナの排除には、ある秩序だった領域が存在していた。誰が家に属するのか、誰が医療を受ける価値があるのか、誰が金を稼ぐのか、そして容認できる『普通』さの度合いとはどの程度なのか—これらはすべて家庭生活を維持するために必要なことだった。カタリナは身体的に生存不可能で精神的に支えきれないという考え方は、それが常識だと考えている人々にとっては有用性と正当性があった。」(p355)

この本を読みながら、僕が思い出していたのは、四半世紀前、精神病院でのフィールドワークをしている時に出会ったある女性だった。彼女は急性症状が落ち着いた後も、長期に社会的に入院していた経験を持つ。その当時のことを、こんな風に語ってくれた。

「病院から外泊の許可をもらって田舎に帰っても、一応ごちそうを出してもらったりの歓迎をしてもらえるんだけど、『ここで働く手伝いをしたい』、と言うと、『もういい』と兄弟から言われ、次の日には『病院に帰った方がいい』と電車の駅まで送り届けられた。その後、家に何度電話をかけても『よう面倒みいひん。そっち(=病院)でうまくやってくれ』 と言われるばかりだ。」(竹端寛「ボランティアとは言わないボランティア–福祉資源としてのPSW」

カタリナだけでなく、私が出会った女性も、家族からは「社会生活に連れ戻すことはどうやっても不可能だというのが当然のこととされ、原因を追及したり、どうにかしようと行動に移すことはないのだ」という状況に置かれていた。これは秩序だった排除である。「誰が家に属するのか、誰が医療を受ける価値があるのか、誰が金を稼ぐのか、そして容認できる『普通』さの度合いとはどの程度なのか」について、「正常」とされる家族の中で意思決定がなされ、「異常な行動」をしたカタリナや、私が話を聴いた女性は、その「普通」の範囲を越えているので、「カタリナのためにできることは何もない」「よう面倒みいひん」という発言に「有用性と正当性」が与えられていたのだ。(幸いにも、私が出会った女性は、その頃できたグループホームに入居され、病院以外の場で、自分らしい暮らしを取り戻されたようだった。)

「家族は、薬物治療が中心となった公的医療の体制に関わり、貧しく乏しい資源の配分を受けるうちに、精神科医の代役を務めることを学んでいく。そして自分たちにとって望ましくない家族の成員を、彼らが治療方針に従わなかったという理由だけで排除することができる。家庭内でおこなわれる、どの命に生きる価値があるかを査定するこうした行為にはケアと排除が混在しており、性差別、市場の開拓、さらには統治しているはずの市民からますます解離している国家と相乗効果を生みつつ、機能しているのだ。」(p555)

家族が精神科医の代役を務める。これは、日本においても、自傷他害の恐れがなくても家族の同意があれば強制入院をすることとが可能な「医療保護入院」の形で温存されており(そのことは別の拙稿にも書いている)、その中には、「自分たちにとって望ましくない家族の成員を、彼らが治療方針に従わなかったという理由だけで排除する」ケースもある(例えば以下の記事「精神疾患ないのに強制入院「二度と出られないかと」 悪用に懸念の声」)。日本では長らく「家族丸抱えか、施設丸投げか」という二者択一で政府の関与を最低限にしてきた「残余的福祉」の伝統があり、これも「家庭内でおこなわれる、どの命に生きる価値があるかを査定するこうした行為にはケアと排除が混在」してきたことに拍車をかけている、ともいえる。

また、精神障害とは何かを規定する著者の規定も非常に興味深い。

「精神障害は基本的に社会的構築物の問題だと言いたいのではない。むしろ精神障害は、一方に主体と当事者の生物学、もう一方にローカルな世界における存在の『普通』のあり方に関する間主観性と技術的な再コード化があり、この両者の間にあるきわめて個人的な接合点において、形をなすのである。したがって精神障害とは、自分は常識と理性を代弁していると主張するような人々をも巻き込んでおり、もし自分が病気だとわかったら、その問題に対処するのは自分の責任なのである。」(p470)

著者も精神障害に生物学的な要素があることは否定していない。だから、反精神医学ではない。ただ、生物学的要素は、精神障害の半分の側面しか捉えていない、という。「ローカルな世界における存在の『普通』のあり方に関する間主観性と技術的な再コード化」とはなにか。それは、その文化、その家族の中で「普通」がどのように規定されるか、だけでなく、「異常な言動」とみなされることをした人を、そのローカルな世界でどのように扱うか、という「間主観性と技術的な再コード化」によるのだ。だからこそ、「カタリナのためにできることは何もない」「よう面倒みいひん」とラベルが貼られた人は、精神病院における薬物投与、という形で、ローカルなコミュニティから排除されうる存在でもあるのだ。

「薬剤は家族が使う道具となってしまった。家族は医者に言われたとおり患者に薬を与え、中止し、過剰に与えておとなしくさせる。薬剤の扱い方に、家族のあり方そのものがくっきりと浮かび上がるのだ。『要するに、家族がどういった倫理を設けるかで、家族自体の生活が保障されるんです』とリッケルトは言う。するとモライスもそれに同調した。『よくあることですが、家族の中で患者の面倒を見ている人は、国みたいになってしまうことが多いんです。つまり、ケアをしなくなる』。家族とはつまり、『国家内国家』なのだ。」(p275)

このフレーズを読んでいて思いだしたのは、信田さよ子さんの『家族と国家は共謀する』(角川新書)である。この本はブログに感想を書いていなかったので、別の本から類似の記述を引用したブログを再掲する。

「じつは日本では21世紀になるまで、家族の間に『暴力』は存在しなかった。正確に言えば、妻に『手を上げる』夫はいても、妻に暴力をふるう夫は存在しなかったのである。『法は家庭に入らず』という法の理念によって、『暴力』という判断は家庭の入り口で立ち止まらざるを得なかった。そもそも暴力という言葉には、すでに『正義(ジャスティス)は被害者にある』という価値判断が埋め込まれている。その判断の及ばない世界こそが家族だという考えは、今でも一部の人達に共有されている。家族の美風がそれによって壊されてしまうと真顔で主張する中高年男性は多い。法が適用されない=無法地帯が家庭だったのだ。」(『暴力とアディクション』(青土社)p140)」

これはブラジルのカタリナにも通底するリアリティである。彼女は夫から遺棄されたのだが、その暴力的な行為は「法は家庭に入らず」で問題とはならなかった。夫が自分を捨て、自分の妹や他の女と関係を持っていたことよりも、彼女が「異常」であることの方が問題にされた。まさに「『正義(ジャスティス)は被害者にある』という価値判断が及ばない世界こそが家族」だという考えは、カタリナの住んでいた時代のブラジルにも通底していたのである。

ただ、急いで付け加えておきたいのは、カタリナの場合は、家族がまさに国家と共謀する形で、彼女を社会的に遺棄するエージェントとして機能していたが、それは精神障害者の家族全般に共通するわけではない。精神障害のある人の家族が『国家内国家』になるのか、障害を持ちつつも自分らしく生きるのを支援するのか。これも、「家族がどういった倫理を設けるか」にかかっている現状がある。逆に言えば、家族の倫理ではなく、国家の倫理こそが、ここでは問われている、とも言える。

そしてもう一つ、ヤングケアラーの書籍を読む中で、以下のように書いた文章も、併せて貼り付けておく。

「また、この本を読みながら、以前取り上げてブログにも書いた山本智子さんの『「家族」を超えて生きる−西成の精神障害者コミュニティ支援の現場から』や、児玉真美さんの『殺す親 殺させられる親』を思い出す。実家で暮らしたい障害当事者と、実家で支えられない家族は、二項対立や下手をすれば利益相反関係になりやすい。でも、障害当事者と家族を対立させている構造こそ、最大の問題なのである。それを、中村さんが取材した、ヤングケアラー経験があり、いまは研修医をしているかなこさんは、「社会的ネグレクト」と喝破する。」(家族丸抱えと社会的ネグレクト

障害当事者と家族を対立させている構造。それは本書では、「家庭内でおこなわれる、どの命に生きる価値があるかを査定するこうした行為にはケアと排除が混在しており、性差別、市場の開拓、さらには統治しているはずの市民からますます解離している国家と相乗効果を生みつつ、機能している」と書かれていた。この構造が社会的ネグレクトであるならば、その構造をどう変えるか、も同じように問われていることになる。

まだ色々引用したいが、だいぶ長くなったので、最後に一カ所、本書が素敵な著作になった背景について書かれた部分を引用しておく。

「帰属をめぐるカタリナの必死の戦いに対して、どのような方法論で取り組めるのだろうか。ごく簡潔にいえば、私にとってそれは、まず診断を下さないこと。じっくりと話に耳を傾けること。カタリナの物語があちこちに飛ぶのに任せること。その声を、今はもう失われた生活世界に関わる証拠と捉えること。そしてどんなときも、敬意を払い、信頼することである。」(p130-131)

著者がカタリナの内在的論理を深く掴むことが出来たのは、まさにこの部分である。これまで大半の医師は、彼女に診断を下すだけで、彼女の内在的論理や生きる苦悩を読み取ろうとしてこなかった。あちこちに話が飛ぶから、彼女の話は一貫性がなく、狂っていると決めつけていた。だが、人類学者の著者は、あちこちに飛ぶ話でも、「今はもう失われた生活世界に関わる証拠と捉える」ことを忘れずに聞いていた。「どんなときも、敬意を払い、信頼すること」を常に基本としていた。だからこそ、骨太で迫力ある本書が出来上がったのだと思う。そういう意味では、優れたフィールドワークの基本を忠実に守った一冊である、とも言えそうだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。