批評精神

 

ようやく風邪が治ったようだ。まだ鼻水は時折でるが、それ以外の症状はそれぞれ終了したようである。

それにしても長かった。1週間以上、ぐずぐずしたままだった。大学がスタートした為、最低限こなさなければならない仕事も少なくないが、それ以外はどれも「先送り」して、とにかく早めにベッドに潜り込む日々だった。ようやく今日くらいから、頭も多少冴えてきたようだ。だが、太ったからand/or病み上がり、のため、身体は怠くて、まだ本調子ではない。そうは言うものの、来週末の国内での学会発表用のパワーポイントと、来月頭の台湾での学会用の英語のドラフト、というヘビーな仕事の、どちらも〆切が迫っている。迫っている、といえば、来週金曜の講演のレジュメも出来ていない。まずい。

そんな中でも、仕事に集中しきれない一方で、他人の仕事にはちゃっかり読みふけっていた。

「批評は、誰にとってもこうだ、というような言い方ではない言い方、自分にいま感じられる言い方で、誰にとってもそうであるはずだ、というようなこと、普遍的なことを、いってみることだ。というか、普遍的なことをいおうとすると、変な言い方になってしまうことが、『批評を書く』ということなのである。」(加藤典洋『僕が批評家になったわけ』岩波書店、p3)

こういう風通しのよい文章に出会うと、濁っていた頭もクリアになってくる。普遍的なことを「自分にいま感じられる言い方」でいってみること。なるほど、批評についての、端的な説明だ。そして、僕などブログをこうして書いていても、なかなかその高みにたどり着けない(=けれども密やかに憧れている)境地でもある。

その昔、北杜夫や遠藤周作の「エッセイ」が妙に好きだった。太宰治の小説よりも、津軽などの紀行文というか、エッセイ的テイストのあるものが、印象に残っていたりする。それらの中には、加藤氏がまさに指摘する批評的なもの、つまりは僕自身の世界にも通じる普遍的な感覚を、著者自身の「言い方」で言っている、その部分に心惹かれていったのだ。文章がドライブしていく、そのうねりの中に、心が没入していくのを、ワクワク楽しみながら読み進めていた。

で、はたと停滞している自分の仕事に戻ると、言葉が出てこない理由には、この部分があるような気がしている。自分が感じるオモロイと思うこと、それには一定の普遍的な何か、があると思っている。それを、学問的(=つまりは一定の手続きや、そのサークル内での先行研究といった)準拠枠組みの中で書こうとしているから、何だかワクワクせず、放ったらかしのままになっている。だが、それはあくまでも形式の問題であり、本当にオモロイと感じることを、その感じたままで、「いってみること」こそ、まずは大切ではないか。自己表現に変に自己規制をかけて、もっともらしく、なんて振る舞おうとするから、書いている文章にノビやきらめきがない。端的にいって、書いている本人がおもしろがっていないから、発表も原稿も面白くないのだ。

もちろん、手続きや先行研究の叡智は大切にすべきだ。だが、それは、オモロイ核心部分を書ききった上での、いわばお化粧の部分で必要なこと。その前の土台の部分が腐っていたり、カスカスであれば、いくら上塗りしても、総崩れするだけ。そう考えると、今頭を悩ます二つの〆切も、とにかくオモロイエッセンスを、普遍的に感じられるある「高み」を自分なりの言葉で表現しきること、これに尽きる。その上で、必要なお化粧を手早くしていけば、薄化粧の中に栄える何か、が生まれてくるはずだ。

論文や学会発表は批評とは違う。だが、自分の頭でしっかと考え、他人の受け売りでない自分の論理を構築することのない、つまりは批評精神のない論文なり発表は、ただのクズに過ぎない。自分がワクワクするためにも、クズの生産ではなく、いかに批評的知にアクセス出来るか。病み上がりで多少スロースタートだが、そろそろギアチェンジすべき時期に来ている。

彷徨い人とリセット

 

秋の花粉症にやられた。しかも、風邪気味でもあるらしい。

24日から後期の授業が再開されたのだが、それにともなって、ヘビーな日々が再開される。「夏休み」とされている期間も、10日ばかりを除くと決して「休み」ではなかったのだが、講義再開でいよいよ飛ばし始める必要が出てくる。11月はじめには2年生ゼミのメンバーが「学生議会」で質問するので、それに向けてのプランニングや、ご助言頂く方々への依頼をしたり、後期の「ボランティア・NPO論」と「地域福祉論」のゲスト依頼もしたり。基本的に、講義は自分自身がワクワクしないとやる気にならないので、前年と全く同じネタのくり返し、はしない。もちろん、毎年外さない大事な項目もあるけれど、それもその年度の学生さんの関心事や授業の流れの中で、組み替える。

そんな依頼メールや電話をかけていた、金曜日午後から、急に鼻づまりに無気力感がおそってくる。クシャミもする。どう考えても花粉症だ。毎年秋の花粉症には多少やられる程度だったが、今年のきつさには、正直ノックダウン。何とか講義の目処だけつけて、家に帰って、花粉症の特効薬を家中探し回る。少しだけ残っていた錠剤を飲んで、多少ひどさが収まる。しかし、身体のだるさは消えない。どうも風邪の引きはじめも重なっているようだ。というわけで、鞄には週末の宿題を沢山入れて帰ってきたのに、結局土曜日は一日引きこもってベッドの友達。昏々と寝ても、まだ眠い、ということは、本当に弱っている証拠。日曜の午前まで、ダウンしておりました。

で、今回のダウンのお供には、ある書評につられて買ってみた『四方田犬彦の引っ越し人生』(交通新聞社)。正直この方の名前は知っていても、本も全く読んだ事はないし、同業者でもある、という知識すらなかった。僕は了見がわりと狭く、知らない著者の知らない作品を読むには抵抗感が結構ある方なのだが(だからいつまでも視野狭窄なのです)、鼻づまりでボンヤリしている時に、仕事の本なんて読めるハズもない。なので、エッセイなら読めるだろう、と消去法的思考で読み始めたのだが、意外にハマる文体で、気がつけば読み終えていた。

「この地上には二種類の人間が存在している。できることなら自分が生まれ育った場所を離れようとせず、たとえ何らかの理由で家を離れなければならない事情があったとしても、つとめて近隣に住処を求め、その場所の土地の精霊に忠実に生きようとする類の者と、その逆に、機会がある度に次々と住む場所を変えていき、かつて自分が生きた場所に対しノスタルジアを感じることを固く禁じているものである。(略) 終の住処という観念を強く持っている人間と、それを持つことに躊躇し、できることならこの観念を回避して生きていたいと願っている人間の違いである。」(p199-200)

筆者は幼少期から現在まで17回の引っ越しをしているそうであるが、僕はそれに比べると、引っ越しの数は少ない。3才で京都の下町の長屋から今も両親・弟が住む桂川沿いのマンションの11階に引っ越した後から、僕自身の記憶が始まっているのだが、25才になるまで、ずっとそのマンションの住人だった。父親が出張の多い職業だった事もあり、「ここじゃない何処かへ」という憧れはあったようだ。小学生当時、何もすることがない日曜日が本当に退屈で、自転車でブラブラ彷徨いながら、もっと何かしてみたい、知らない場所に行ってみたい、という欲求を抱えていた思い出がある。小さい頃の自己暗示とは強烈なもので、結果今のようにドタバタ動き回る職業になるとは、当時のヒロシ君に教えてあげたかったくらいだ。

で、大学院生の頃、父親が退職して、日中家にいないはずの父がいるようになり、3LDKのマンションが窮屈に感じる。それまで家を出るなんて現実的に考えた事もなかったのだが、いろんな契機も重なり、大学(阪大)の近所の茨木に引っ越す。高校まで京都の、南区から出たこともなく、一応K大学を目指していたのだが、もし入っていたら、四方田さん言うところの「その場所の土地の精霊に忠実に生きようとする類の者」になっていただろう。京都については、文句も多いが、愛着も多分に感じていたからだ。

だが、浪人して大阪のキタの川向こう、十三にある予備校に通うようになって、様相が少しずつ変わってくる。高校までずっとチャリ通学だった人間が、電車で移動する民になると、世界観も自ずと広がる。なんせ、十三まで定期を持っている、ということは、大阪駅まで後一駅というところまで毎日通うのだ。当然、予備校生の鬱憤を晴らすため、梅田のあちこちを歩き回り、予備校の恩師には十三や難波(そっちに予備校の本拠地があったので)で飲む楽しみを(もちろん英語もだが)教えてもらうと、京都的矮小な思考に気づかされれる。それと、センター試験での大コケも重なり、実は予備校時代から密かに憧れていた阪大の人間科学部に。そう、「変人科」と呼ばれていたその雰囲気に憧れていたのだ。自分はごく普通のありきたり、というのが嫌だった、と当時うそぶいていたのだから、今から思うと何という自己認識のズレなのだが。

で、いったん京都という枠組みから解放されると、結局彷徨い人的思考に火がついてしまったのだろう。茨木に住んで数年後、結婚して西宮に引っ越し、その後スウェーデンにも半年住んで、また西宮に戻って1年ほどして、今度は現住所の甲府に引っ越す。今では新宿の雑踏に触れるたびに、「早く甲府に戻りたい」と思うほど甲府でしっかり根を下ろしながらも、毎月(前期は毎週のように)あちこちに出張でうろうろする。元々じっとしていられない性質だったのだが、高校くらいまではどうすればそれが解決出来るのかわからず、あるいは京都的閉塞感に良くも悪くも閉じこめられ、エネルギーの開放に至らなかった。しかし、大阪を媒介として「異国」を知ってしまった後(そう、京都しかしらないコドモにとって、大阪は本当に異国だったのだ)、パンドラの蓋が開いてしまったかのように、元来の性質である「じっとしてられない」に火がついてしまったのだ。

こうして風邪を引いていると、「やはりおうちがいいよね」なんてシュンとするのだが、元気が戻ればまた何処かに行きたい病がムズムズ出てくる悪い始末。この週末の宿題(だけれども未完に終わりそうなもの)も、もとはといえば、「夏休みにきちんとやるべきこと」だったのに、「何処かに行きたい病」にとりつかれて夏休みに出張続きのうちに、果たされなかったタスクなんだから、本当に何だか本末転倒、である。

こうやってダウンして、強制的にリセットされて、普段の不品行を少しは反省しても、また元気になれば元の木阿弥になる、というのでは、何も反省していないのに等しいのだけれど。そんなことを想いながら、他人の引っ越し話をベッドでつらつら読んでいたのであった。

放ったらかしだった課題

 

気がつけばいつもそうだ。

当該駅に気づく。そう、この駅で降りるのだった。しかし、気づいたときには、時、既に遅し。無情にも電車の扉は閉まるところ。ああ。今日は大和八木で通り過ぎ、降りたのが大和高田。かくして、久しぶりに電車を乗り過ごした。

三重で仕事の打ち合わせをし、松坂で美味しいホルモン焼きを頂いた。松阪牛の聖地では、「放るもん」も、味わい深い。デブを覚悟で、ぱくぱく、グビグビ。そして、上本町行きの特急に乗り込み、気がつけばiPodなんぞ聴いている。これが危ない。遮音してクラシックを聴いていると、それは中途半端な睡眠薬より、よほど良眠に誘うのだ。しかも、満腹で、さらには酔っぱらっている。これで眠くならない方がおかしい。不幸中の幸いは、終電ではなかった、ということ。特急の終電は逃したが、大和八木で何とか京都行きの急行を捕まえる。これならば、実家に日付変更線を超える前にたどり着けそうだ。やれやれ。

つかの間の夏休みは終わり、すっかり仕事モードに復帰している。昨日は我が家の大掃除。玄米に大量発生してしまった米虫と戦うために、必死になってベランダに天日干しをする。ついでに換気扇やレンジ周りの汚れを取り、フードを取り替える。こういう日常業務をきちんきちんとこなさいと、生活のリズムを立て直せない。逆に言えば、真実は細部に宿る、ではないが、こういう一つ一つの営為をする中で、休暇モードから仕事モードへのスイッチングが可能になるのだ。ま、今日の寝過ごしは、「休みボケ」ですね。

今乗っている近鉄急行は、十数年前に本当によく乗った。予備校時代に通った英語塾への行き帰り。大学時代のボランティア現場、そして大学院生のフィールド先やバイト先。なぜかどれも近鉄沿線や周辺だったので、それこそ日常的に乗っていたのだ。そして、酔いどれの意識は、必然的に10代終わりから20代にかけての時期を彷徨いはじめる。

当時も今も、キャパシティが狭い、能力不足、なのに背伸びをしてることには何ら変わりない。だが、気が付けばその質感というか、背伸びする中身、が変わりはじめているようyな気がする。その昔、近鉄線に乗っていた頃は、とにかくがむしゃら、というか、目の前にある課題に脇目もふらずに必死に食らいつくしかなかった。今だってがむしゃらモードではあるのだが、多少の悪知恵と経験則に縛られて、突破者的な破天荒での飛び出し、はしなくなっていた。ある程度の枠組みの「際」をみながらの、世間との折り合いのギリギリの範囲内を飛んでいるような気がする。

これが良いことなのかどうなのか、はわからない。ただ、何度も書いて恐縮だが、「○○は悪い(と指摘する私は正しい」というスタンスが鼻についてしまい、以来、糾弾モードでは考えられなくなった。すると、破天荒な物言いではなく、一定のバランス感覚を良きにつけ悪しきにつけ、付けはじめている。

この感覚がいいのかどうかは、正直不透明である。以前なら同じ土俵で議論できなかった人とも対話のチャンスをつかめた、という意味では、良いのかもしれないが、日和見主義と後ろ指さされる可能性も常に内包している。さじ加減、というか、三途の川のあの世とこの世の境が実に見えにくく、揺れ動く故に、その川を越えずにとこまで踏みとどめるかも不透明だ。追従する(=お世辞を言う)人が増え、本当のこと(=箴言)を伝えてくれる存在を失うことは、ミイラ取りがミイラになるのと同罪だ。これは、問題が大きい。

宇治川の橋梁を渡りながら、以前の僕は、自身の狭量に唾棄するばかりだった。今、多少は唾棄せずとも、ものの推移を落ち着いて眺められそうだ。20代で真剣に得ようと苦闘したものは何だったのか。そして、30代になって、何とか獲得できそうなのは何か。何を捨てても良くて、どれは必死に護らなければならないのか。

懐かしの急行電車に揺られながら、随分昔から放ったらかしておいた宿題と向き合っている。

遅い夏休み

 

ようやくブログ画面を起動させることが出来た。

この2週間、前半は、といってすっかり記憶がなかったので、あわててgoogleカレンダーを見てみる。そうそう、9月第一週も三重に行き、その後東京でのお勉強会もあり、第一週の週末は7日〆切の国際学会のアブストラクト(たった300wordsなんだけど)でてんやわんや、その後、1週間、ようやくの「夏休み」をとったのでありました。

夏休みは、パートナーがアウトレット三昧を所望し、僕は温泉でゆっくり、だったので、その希望を満たすために、那須会津新潟と小トリップ。初日に入間佐野、二日目に那須のアウトレットをみる、という3カ所制覇をすると、だいたい同じ店が入っていることもあり、いい加減飽きてくる。ただ、以前から僕は妻についていったアウトレットでのみ服を買うパターンになっているので、今回もご多分に漏れず。以前八ヶ岳アウトレットで買ったローライズジーンズで腰を痛くしそうになったので、普通のジーンズを二本。それからスニーカーがカリフォルニアで「ジム用に」と急場しのぎで買った白のものしかなかったので、以前から気になっていたアシックスの「ハダシウォーカー」を購入。入間までスリッパで来てしまったものの、アウトレットを歩いているうちに足が痛くなっていたのだが、この靴は、ものすごく軽くて良い。以後の旅ではスリッパはしまわれ、早速活用される。それと、中敷きが取れてぐちゃぐちゃになってしまった仕事靴の代わりとして、クラークスの履きやすい靴もゲット。生活必需品のみを購入し、程なく終了。

その後、那須高原のペンションに泊まり、那須という場所が清里以上にツーリスティックな避暑地であると初めて知る。9月の平日なのに、子供連れも多い。遅い休暇はどこも一緒のようだ。で、このペンションで朝風呂に入りながら今回、持参した三冊のうちの、「悲鳴をあげる身体」(鷲田清一著、PHP新書)を読了。鷲田先生の身体論は何冊か読んでいて面白いと思っていたが、この本を読んでいて、彼のファッションへの視点が非常に興味深かった。アウトレットを何軒も回ると、「流行」に左右されて廃盤品となった残骸に触れる訳で、そこを何軒も回ると、服というものは何なのだろう、とゲンナリしてくるのだが、「服に着られる」のではなく、服を着る「身体」に着目し続けている彼の論調は実に面白い。今まで避けて読まなかった氏のファッション論も帰ったら早速読みたくなってきた。

翌日は那須のアウトレット経由で南会津の湯ノ上温泉へ。一日4組しか泊めない、というこじんまりとした民宿で、のんびり何度も風呂に浸かる。そして、浸かりながら読み始めたのが「日と月と刀」(丸山健二著、文藝春秋)。上下巻の分厚い歴史小説。著者も浅学な私は知らなかった。たまたまとあるブログで絶賛されていたので、手にとってみたのだった。この本を読みながら、翌日は会津若松のビジネスホテルにとまり、その翌日は新潟の熱波温泉へと場所を移し、読み続ける。そして、昨日読了。

一言で言うとシュトルムウントドランク(疾風怒濤)というべき、大スペクタクル。室町時代の激動・かつ波乱な人生を駆け抜けた男の一生を書ききった大作である。先のブログで「生涯に何度も何度も読み返すことになるに違いない小説」と紹介されていたが、なるほど、フロンティアたらんと荒野を一から開拓してきた人にとっては、自身と重なる部分も多いのかも知れない。これを読んでいて、一代記、というジャンルを思い出していた。たとえて言うなら、パール・バックの「大地」とか、司馬遼太郎の「空海の風景」とか。視点も着想も文体も含めて、激流に呑み込まれていく楽しさを堪能していた。

その間にも、ちゃんと観光、というか、相変わらず買い物も堪能してしまいました。会津では焼き物と塗り箸、それから醤油に味噌に酒と買い込み、最終日に立ち寄った寺泊漁港では、帰宅後に天ぷらにしたキスと、生で食べた甘エビとタコ(この二つは残ったので土曜の昼に海鮮パスタにする)、そしてアンコウも買い込む。安くて、うまい。そんな訳で、帰ったらすっかり1キロ太って帰ってきたのだった。いかん、いかん。

ただ、おかげさまで、ようやく前期の間の身体と心の疲れは取れたようだ。明日からはまた三重西宮と出張で、週の後半は授業の仕込み、で、再来週からは後期の再開! あれま、疲れが取れた、と思ったら、もう再び後期の授業なのですね。ようやく研究も本調子にならなければというところだったのに。

怒りからの気づき

 

猛烈に今、腹が立っている。
何に腹が立っているのか。それは、今、羽田空港からの帰りのバスの中にいるのだが、1時間、バスはほとんど動かない。石和の花火大会終了直後に巻き込まれ、全く身動き出来ないのだ。ただ、勘違いしないでほしい。この渋滞そのものは、確かにうんざりするが、それに腹を立てているのではない。腹が立つのは、この花火大会がある、という事実を、僕はバスに乗って運転手に言われるまで知らなかった、ということだ。空港で乗る前に教えてくれていたら、絶対に「あずさ」を選択した。後出しじゃんけんの様に、バスに乗った後になって「ご承知のように今日は花火大会があるので、石和以後、甲府竜王方面は相当に到着が遅れると思います」と言われ、しかもそれ以外の選択肢が奪われていること、このことにものすごく腹を立てているのだ。そして、ふと気づいた。この怒りは、あの怒りと同じだ、と。

火曜日朝一の飛行機で帯広に行き、水曜日は往復6時間かけて浦河まで遠征し、駆け足で2泊3日の調査に出かけた。久しぶりに師匠の取材に同行させて頂き、帯広と浦河、という、日本の地域精神保健を変えた二大先進地に出かけ、先駆者達のお話に耳を傾けたのだ。この二つの先進地の最大のポイント、それは「当事者の声に基づいた支援づくり」である。精神病という病のつらさ、だけでなく、この病を持つことによって様々な生活のしづらさ、人間関係のしんどさを抱えて生きている人に、どれだけ寄り添い、そこから支援を展開できるのか。この二つの地域はそのことに、真正面から向き合ってきた。そこで向き合った内容の一つに、前段で書いた僕の怒りと共通する怒りがあるのではないか、と思う。では、どういう点で、精神病者の方が感じたであろう怒りと僕の今の怒りが共通しているのか。それは、「理不尽なこと」というカテゴリーだと思われる。

突如襲った絶望的な現実。しかも、対処する術が、その時点でない。ただそのことを「諦め」るしかない。回避したり、被害を最小化する術もあったかもしれないが、この状態になった後にそう言われても、どうしようもない。怒りの持って行きようもない。とにかく、閉ざされた空間で、ただただ諦めて待つしかない。

ただ、僕の場合、この待つということも、所詮1,2時間程度の、終わりがある「待つ」である。この1時間で、1キロも進んでいないこと、そして抜ける術がないこと自体は本当に腹立たしいが、後1時間もすれば抜けれる(はず)である。終わりが見えている。しかし、精神病の場合、一過性のものではない。いつまで持続するかわからない不安。ずっと奈落の底に落ちていくのではないかという焦燥。以前の自分に戻ることが出来ないのではないかという絶望。それらが合わさった怒り。そんな理不尽の渦の中に放り込まれたのなら、どれほど激しく怒り、どれほど深く絶望するだろう、と考えてみる。それで僕自身の怒りが収まる訳ではない。だが、こんなもんじゃない怒り、とはどれほどのものか、と思うとき、その怒りに寄り添うことの意味合いをすごく感じてしまうのだ。

僕が今、ここで相当に怒っていることの理由として、お腹がすいていること(なんせもう夜10時だ)、疲れていること(二泊三日の強行軍の疲れが一気に出ている)、抜け出せないこと(バスから降りれない)、1人でいることなどが挙げられる。精神疾患でも、病気から抜け出せないことだけでなく、不眠や幻聴などで疲れがたまっていること、人間関係にひびが入って1人でいる孤独、働けなくなってしまった場合にはそれに加えて食事も含めた生活の維持に関する不安も重なるだろう。これらの不安が怒りに、そしてやがては絶望へと結びつくのだ。

では、この状態を変えるために、どうすればいいのか。まず、「抜け出すこと」は容易ではない。そもそも、抜け出せないことから、この怒りや絶望は始まっているのだ。では、現実的な対処として、お腹を満たしてほしい、それが無理なら(確かに鞄の中には弁当はない)、まずは「大変だねぇ」と共感してほしい。そう思っていたら、妻から電話があり、愚痴をぶちまけ、多少はすっきりした。そう、浦河も帯広も、精神障害者のしんどい現実に、まずは寄り添い、共感するところからスタートしていた、と今回の取材の中でわかったのである。(疲れているから、少し強引なつなぎに見えるかもしれないが)

セルフヘルプグループ研究の大家の上智大学の岡知史先生は、その著書の中で、セルフヘルプグループの三段階を説明している。同じ悩みや苦しみを持つ当事者同士が集まって、まず自分たちのしんどさを「わかちあい」できることが、出発点だ。その中で、苦しみを対象化し、そこから「ひとりだち」するきっかけが出来てくる。その過程の中で、苦しさや怒り、絶望や諦めといったものから「ときはなち」がうまれる。また、自身を押さえつけていた環境を変えようと、「ときはなち」は社会変革へも向かう。浦河や帯広でみたことも、このセルフヘルプグループの動きそのものであった、とも言える。絶望や怒りの渦の中にいる当事者であっても、同じ渦の中にいるもの同士なら、その苦しさや怒りを含めて共感(=わかちあい)が出来る、というのが、このセルフヘルプグループの最大の魅力であり、入口なのだ。

今、石和の交差点の大渋滞をようやく抜けだし、次は横根の信号までの混雑でまだのろのろ運転だが、多少動き始めたバスの中で、タケバタにはこの怒りを同時期に共感し合う仲間はいない。だが、読み手のあなたと「わかちあう」ことを目指したこの文章を書く中で、少しだけ、この怒りから「ときはなち」が出来、本来の自分の有り様に「ひとりだち」する契機をもらった。なるほど、どんな経験でも、考えようによっちゃあ養分になるのですね。でも、早くおうちに帰って、本物の養分(夕食)にありつきたい。バスは2時間弱の遅れが見込まれながら、少しずつ甲府駅を目指している。

作業前の心得

 

困った時は原点に返るとよい。

大雨の一日だった昨日、週末に〆切の原稿を前に、何をどう手をつけて良いのやら、途方に暮れていた。北海道の出張の後、金曜土曜の二日間はオープンキャンパス、日曜は障害者団体の勉強会、そして月曜火曜とゼミ合宿で、身体に疲労が蓄積されていたのかもしれない。ゆえに、水曜は打ち合わせ講演打ち合わせと外回りをした後、木曜日はグッタリだった。土曜までにやり終える予定の原稿なのだが、全く力が沸かない。ついでに、と図書館で資料を集めてみるものの、頭の中に入ってこない。集中力も持たない。悪循環のスパイラル。外では土砂降りの雨

何もしていないのに、出来なかったからこそ、疲労困憊で家に帰り、のんびり風呂の中である本を読み返していた。読んでいて、自分の詰まっているポイントを見事に言い当てる一節に出会った。

「『本を読まざるべし』などということをいうのは、昔こういう経験があるんです。これはアメリカで理論の世界での論文を書いているときのことなんだけれど、ある程度いろいろな理論の論文を読んでから、その理論を概念的に、あるいはオペレーショナルに拡張したり、新たに解釈するというのを書いていたんです。そのとき自分の先生にこういわれた。『伊丹さん、参考文献とか、似たようなリサーチをやっているとか、そういう論文は論文を書き終わってから読むようにしてね』と言われたんです。論文の本体を書き終わってから、自分と同じことを言っている者はいないかといって、確認のために他人の論文を読みなさいと。
 驚きましたね。しかしその意味は、最初から全部読んじゃうと新しい発想とか、新しい仮説を作るとか、そんなふうにならないから、ということなんです。何か思いついたら、とにかく理論でゴリゴリ考えろ、10日か一週間あれば、何か結論がが出てくるでしょう。それまでまずやっちゃうんですと。他人の論文なんか読んでは駄目ですと言われた。」(伊丹敬之『創造的論文の書き方』有斐閣、p110-111)

ようやく夏休み後半の今頃になって、ルーティーンワークも終え、研究に集中出来る僅かな期間が戻ってきた。だからこそ、既存の内容の焼き直し、ではなく、新しい視点で今やっている内容をまとめるようなものを書きたい。そう力むのだが、どうしていいか当惑していた。だから、あっちの本で気づきを得て、こっちの本にフラフラ。そこで新たなキーワードに気づき、あわてて図書館に駆け込みいくつかの文献に当たって。なんてしているうちに、例の悪循環にはまって、気がつけばすっかり消耗していたのだ。

一番の問題、それは、他人の論(=考え)に依存・幻惑してしまい、自分の頭で考えなかったことである。自信のない時ほど、他人の智恵にすがりたくなる。だが、自分の中から何かを生み出そうという真っ当な苦労をすることなく、他人の御説を適当に編集しているだけでは、ぱっとしないことこの上なし。「何か思いついたら、とにかくゴリゴリ考え」るのである。その上で、ある程度の結論が自分なりに出るまでやってみて、「確認のために他人の論文を読」む。こういう当たり前の、基本の「き」、をすっかりきれいさっぱりに忘れていたのである。阿呆ですね。

で、この本の最後には、停滞状態を突き抜ける為の「5つの心がけ」も書かれていた。

「本質は何かを考える」「狭く入って、深く掘る」「鳥の目と虫の目を、使い分ける」「スピーディーに思考実験する」「言葉を大切に使う」

何故自分がこのテーマを「オモシロイ」と思ったのか、の本質を捉えようとしているか。そのために、あれこれ関連テーマも気になるけれど、欲張らずに対象を限定し、その対象に対してトコトンどっぷり浸かって考えられているか。そういうマイクロな虫の目と共に、ある程度書けた段階で、俯瞰的に「この考察は何の一部なのだろう」という鳥の目でものを見れるか。以上の事をするために、論理的な筋道を追いかける営みをスピーティーに行い、駄目なら次の論理展開を考える、というしつこさがあるか。そして、一番重要なのは、文章として書く時に、いい加減な言葉を使わず、適切な言葉を、適切な場面で使えるか。

こういう風に整理をしていると、職人さんが、自分の仕事の前に道具を研いだり磨いたりしているように、書き手も頭の中を研いだり磨いたり、を、特に書き始める前にはきちんと行っていくのが大切だ、とわかりはじめた。

時代を超えて変わらぬもの

 

お盆休みだから、という格別な理由もないのだが、この週末に偶然読んだ3冊は、色んな意味で「戦争つながり」であった。

「『瀬島さんはこれからどういう仕事をなさるんですか』と河野が聞いた。
『国家のために奉公します』
『国家のためとはどういう意味ですか』
……
瀬島は黙ったままだった。」(共同通信社社会部編「沈黙のファイル-『瀬島隆三』とは何だったのか」新潮文庫、p298)

元大本営参謀シベリア抑留某大手商社会長政界の「影のキーマン」、と変遷を遂げた瀬島氏の軌跡を辿りながら、第二次世界大戦の前後で、何が変わり、何が変わらずに残ったか、を浮かび上がらせていくノンフィクションの秀作。先の引用は、元関東軍の一兵卒であり、シベリア抑留中に瀬島氏を見たという河野氏が、戦後大気汚染訴訟の原告団として、臨調委員の瀬島氏に「再会」した折りのやりとり。河野氏の陳情に対して素っ気ない瀬島氏に河野氏が迫ったところの一シーンである。

ここに象徴されるように、瀬島氏には「枠組みのために身を捧ぐ」という「枠組み」があった。この枠組みの名称が、天皇、国家、会社と変わろうとも、枠組みを固守する、という型は、一貫して変わらなかった。そして、この枠組みを守るための戦略というか身のこなしというのが、抜きんでて良いと評価されたため、第二次大戦抑留のあとも、再び表舞台に立つ。この視点で見ると、個人や社会というより、ずっと枠組みに囚われていた人間の哀しさ、というものが、読後感におそわれる。彼が日本の第二次世界大戦参戦について、「侵略戦争ではない」と言い切ったのも、自身の枠組みの固執のためには、譲れない一線であった、とすれば納得出来る。そして、この枠組みの固執や堅持、は一軍人に限ったことではなかった。

「日本にとってアメリカは、欲望や憎悪の対象ではあったとしても、分析や観察の対象として戦略的には位置づけられてはいなかった。日本はむしろ、『アメリカ』を欲望し続けながらも、『鬼畜米英』の幻想的な標語によって敵国アメリカの実態を視界の外に追いやり、他者として直視することすら避けて内閉していた。」(吉見俊哉「親米と反米」岩波新書、p57)

文化社会学者の手による明治維新から戦後にかけての、日本社会のアメリカ受容と「政治的無意識」に関する考察は、先の瀬島氏を巡る論考の読後に見ていくと、興味深い。思わず「嫌いは好きのちょっと前」という言葉が浮かんでしまう。反米というのは、親米と対極ではなく、むしろ地続きで繋がっている。この切断されない無意識は、枠組みの固持により、敗戦後に急速な経済復興を遂げた日本社会にとっての、大きな固定資産だった。そして、GHQも、この固定資産を破壊せずに、冷戦時代の到来もあって、うまく活用した。その枠組みの固持の結果として、今の日本の繁栄がある。そう考えていくと、個人瀬島氏の戦争責任云々、だけでなく、彼は実に日本的価値観を体現した人、とも捉えることが出来る。つまり、これを書いている僕自身の中にある無意識をも、両書は浮かび上がらせているかもしれないからだ。

で、もう一冊読んだのは、うって変わって実に秀逸なるエッセイ。ただ、ここにも戦争の陰影が見事に記載されている。

「それにしても、人一倍食いしん坊で、まあ人並みにおいしいものを頂いているつもりだが、さて心に残るごはんをと指を折ってみると、第一に、東京大空襲の翌日の最後の昼餐。第二が、気兼ねしいしいたべた鰻丼なのだから、我ながら何たる貧乏性かとおかしくなる。
おいしいなあ、幸せだなあと思って食べたごはんも何回かあったような気がするが、その時には心にしみても、ふわっと溶けてしまって不思議にあとに残らない。
釣針の『カエリ』のように、美しいだけではなく、甘い中に苦みがあり、しょっぱい涙の味がして、もうひとつ生き死にかかわりのあったこのふたつの『ごはん』が、どうしても思い出にひっかかってくるのである。」(向田邦子「父の詫び状」文春文庫、p92)

このエッセイは、もう10年以上前に古本屋で買いながら、全くその後ご縁がなく、本棚に「積ん読」状態のまま、京都茨木神戸甲府、と居住地を変えてきた本だ。何の気なしに一昨日手にとってみて、グッと引き込まれていく。情景がこれ程までに目の前に浮かび上がるエッセイも珍しい。昭和の戦中・戦後の、僕が全く経験していないはずの食卓が、本当に具体的なディディールとして浮かび上がってくる。そんな珠玉のエッセイの中でも、10代に終戦を迎えた著者ゆえに、戦争の経験がそこかしこに出ている。だが、決して告発調でも、厭世的でもない。その時代を生き続けた著者が変わらず持ち続けた庶民としての視点から、食にまつわる記憶が紡がれる。ただ時折、「釣針の『カエリ』のように」、読み手をも引っかけてくるフレーズに、心を捕まれるのである。

同時代的な内容の読書だけでなく、時代も文脈も超えた内容にアクセスすることの大切さ(そして面白さ)をかみしめていていた週末だった。

書棚と頭の整理

 

週末の行脚のあと、月曜日には真面目に大学に。

前日夜、新大阪駅構内で買い求めた551の餃子を肴にビール白ワイングラッパと深酒をしていたので、少し二日酔い気味だが、約束があるので、よろよろ出かける。その約束とは、そう、学生さんにお手伝いを頼んで、半年以上ぶりに、研究室の大掃除をすることになったのだ。

そんなの一人で出来るでしょ、という声に対しては、ただただ、すんません、と答えるしかない。ただ、僕は昔から、部屋の整理が大の苦手。リスか何かのようにモノは溜め込むのだが、そのうち溜め込んだことをすっかり忘れ、溜め込まれたモノは部屋のあちこちに沈殿している。ゆえに、大掃除というと、そういう沈殿していたモノが日の目を見ることになる。「あ、こんな資料があった」「こんなのもとっておいたんだよねぇ」と、作業をやめる「言い訳」が一杯準備されているのだ。そして、色々読み始めたら、手も足も動かず、結局何も片づかないで過ぎてしまう、という悪循環に陥る。ゆえに、「次どうするんですか?」「これは捨てるんですか?」と急かされながら、渋々モードで進めないと、部屋は片づかない。ま、お陰でかなり片づいたのですが。

この前期は、他大学で初めての講義を持ったり、あるいはある研究グループは報告書作成の時期だったり、他の研究会で新たなジャンルに挑戦したり、と様々な事が重なったので、部屋の中も書架も、ぐっちゃぐちゃだった。多少はお勉強した痕跡、というか、戦った日々の残骸が部屋のあちこちにバラバラに散らばっている。まだ採点業務は残っているが、一方で夏休み中にしたい研究を、と考えるにあたっては、まずはこの前期の残骸を処分して、心機一転するしかない。もともとそう考えていた訳ではないが、部屋を片づけているうちに、やはり書架の整理をやるしかない、とわかって、心機一転モードに切り替わっていく。

本棚や書架の整理、というと、大きく分けて二つのやり方があると思う。例えば上野千鶴子氏や、うちの大学のM先生など広範囲をカバーする大蔵書家は、ジャンルも区切らずアルファベット順で整理しないと、収集がつかないそうな。しかし、まだ蔵書数がたいしたことない僕は、分野ごとに固めておいている。両者を比較すると、アルファベット順ならば、その著者の名前を思い出さないと見つけ出すことは出来ないが、ルールは機能的で整然としている。その一方、ジャンル別なら、大体このジャンルの本は、と見当がつきやすい一方、当時のジャンル設定と今の自分の気持ちが別なら、あるいは単に元の場所に戻さなかったら、当該図書は発掘出来ない危険性がある。最近、どうも本を探し当てられないことがある僕も、アルファベット順に対する興味があるが、しかし全ての著者の名前を覚える自信がなくて、分野ごとに固めておく、ということをしている。すると、蔵書数が増えたり、仕事の区切りの際には、本棚を入れ替える必要があるのだ。

で、前期の仕事がとにかくおわり、まずは机に一番近い棚に占めていた、福祉政策やノーマライゼーションに関する文献のグループを元の位置に戻していく。どちらも、講義の為に必要な文献グループだったのだが、特にノーマライゼーションのグループについては、講義を進める中で、学生とのやり取りに対応する為にも、施設福祉の文献も沢山途中で追加していった。ゆえに、講義が終わった後、新しいコーナーを作って、ノーマライゼーションと施設福祉・地域移行といった一区画をつくる。そして、前期の途中で学会発表したテーマについて、この夏もう少し調べて、別の学会発表につなげたい、と思いながら本を並べ直していると、別の区域においておいた数冊が、そのジャンルに関係している、と整理の中で気づいたりする。

つまり、ある区切りの段階で、改めて本の背表紙という現物を眺めながら、新しい文脈・関連づけを作り直す作業をしているのだ。一冊一冊は固有の主張をしていても、その本と本との間の関係性、自分が捉える意味づけを、自分なりに捉え直し、新たに定義づけ直して、書棚に新たに納めることによって、価値づけていく。書棚の整理は、主に動かすのは身体だけれど、やりようによっては頭もフル回転させ、そして次の仕事への原動力になっていく。これは大変だけれど、意義深い。

あと、本棚だけでなく、部屋を整理していると、一区切りがつき、新しい気持ちになれる。その感覚は、だいぶ前に読んだ「ガラクタ捨てれば自分が見える風水整理術入門」(カレン・キングストン 著、小学館文庫)に触発されているのかも知れない。風水整理術、というと、何だか胡散臭いと思う人もいるかもしれないが、著者の主張はとてもシンプル。ゴミだめのような部屋には悪い運気が流れる、きれいにすると、よい気が流れる、というもの。気の科学的存在の是非はさておき、実際部屋が汚いと、仕事をする気にならない。その本を読んで以来、焦っているとき、落ち着かない時、いらいらする時、やる気が出ない時は、とにかく部屋を片づけてみる。すると、気の流れ、もあるのかもしれないが、単純作業に集中する事によって、雑念のとらわれを追い出すことが出来、結果的に切り替えや場面転換が出来るようになったのだ。我が家ではこの本に感化されて、家人共々、以前よりはモノを捨て、甲府に引っ越してきた時よりは少しは整理がついてきたと思う。

とここまで書いてみて、ハッとこの自宅の仕事部屋を眺めてみると、雑然としていて汚い。せっかく昨日、大学で新たな関連づけを果たし、発掘した本も持ち帰ったのに、これでは仕事にならない。さて、昨日に引き続き、今日は自室の整理から始めますか。

骨太に二分法を超えるために

 

昨日は大学院時代の同窓会。言い出しっぺ故に「実行委員長」になってしまったので、司会進行役に徹してゆっくり昔の仲間と話すチャンスはなかったのだが、参加者から帰りがけに、あるいはメールで「参加してよかった」、と言われると、何だか嬉しい。こういうまさにボランティアの集いは、企画から実現まで結構面倒くさいことも沢山超えたけれど、参加者からの「ありがとう」という言葉に救われる、典型的な「やりがい」という名の報酬が得られる結果となった。

で、二次会の後、美人滋賀コンビの二人と京都まで新快速でご一緒し、久しぶりに実家に帰る。身体は結構疲れているのだが、何だか話したりない。司会でぺらぺらしゃべったが、そういうのじゃない、話、がしたい。そんな時、ひょんな弾みで、最寄りの西大路駅の近所に1人暮らしをしているナカムラ君を思い出す。もしかして、と思って電話をしてみたら、なんとお暇なそうな。ありがたや。早速駅前の本屋に呼び出してしまい、近所の焼鳥屋のカウンターで1時間ほどウダ話におつきあい頂く。同窓会は企画屋モードで、二次会含めて話し込むモードになっていなかったので、ナカムラ君とウダウダ話すうちに、ようやく、しゃべりたいモードが落ちついてくる。夜中なのに急に話につきあってくれて、旧友のナカムラ君は、感謝!多謝!

で、ナカムラ君と待ち合わせの、駅前の本屋で手に取った本は、今日の移動時間の間に、最近のもやもやを整理するための一助となった。

「宗教学は客観性を強調する。そこで言われる客観性とは、対象とのかかわりを断って、傍観者の立場に立つことを意味しない。ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要になる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくことが、宗教学には求められる。その意味で、宗教学は自分という存在のすべてが試される学問なのである。」(島田裕巳『私の宗教入門』ちくま文庫、p265

オウムバッシングで大学を辞職に追い込まれた宗教学者。そういえば最近著作を割と出しているよなぁ、と思いつつ、今まで読んだことは無かった。そこで文庫だから、と手にとってみたのだが、結構おもしろい。自身の師から何を受け継ぎ、自分自身がどのようなイニシエーション体験をし、それを基にどう宗教学を教え、考えてきたのか、という筆者の遍歴を垣間見ることが出来る。対象領域が違っても、独自の視点で考え続けた先人の学びの軌跡を辿る本からは、後人が学べる部分は少なくない。そして、上記の引用部分は、宗教学を福祉社会学なり社会福祉学なりに入れ替えてみると、まさに自分自身にも当てはまる。

最近とみに思うのだが、山梨に引っ越してから特に、「対象とのかかわりを断って、傍観者の立場に立つ」だけではいられなくなってしまった。福祉政策という「対象」に対して、研修やアドバイザー、そして県自立支援協議会の座長など、気がつけば「当事者」性を持つようになってきた。その際、研究者として大切にすべき「客観性」とは何か、がよくわからなくなり、ぼんやり考えていた。そんな折りの、この島田氏の整理は、そうだよね、と膝を打つものであった。

「ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要になる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくこと」、これは宗教学だけでなく、福祉を扱う学問でも必要だと思う。宗教学とアプローチや方法論は違えど、福祉も価値を扱い、かつ人間の生そのものに肉薄する、という点が宗教学と共通しているからだからだ。

最近、特に行政関係からお声がかかることが少なくない。そして、ご存じのように、世の中には行政にすり寄る、いわゆる「御用学者」なるものがいる。そういえば、件の島田氏もオウム真理教に一定の理解を示した、という意味で、「御用学者」とラベリングされた故に、激しいバッシングに遭う。しかし、この島田氏の本の中で、自身の師である柳川啓一氏の本を引用して次のように書いている。少し長いが、引用してみる。

「柳川先生は聖と俗以外の二分法についても暗号解読を試みていくべきだと主張し、『人びとの日常の世界と質を異にする別の世界を想定する二分法の認識にとらわれている所があれば、たちまちわれわれの視界の中に入る』と述べていた。ここでいう二分法には、左と右、内と外、東と西、生と死、子どもと大人、天と地、上と下などが含まれる。
柳川宗教学の立場からすれば、問題は、われわれの意識がこのような二分法によってとらわれている点にある。たとえば男と女との絶対的な差を強調し、両者の役割を固定的に考えるような見方は、二分法にとらわれたものとして宗教学の研究対象になるというのである。
ゲリラとしての宗教学は、二分法に対するとらわれを指摘することによって、結果的には人びとの意識を解放していくことになる。そこにゲリラのゲリラたるゆえんがあるわけで、宗教学の営みは文化的な解放闘争としての意味を持つことになる。一つの学問の枠にとらわれ、その方法を絶対化することはセクト主義として、ゲリラ性の対極にあるものと見なされる。」(同上、p252)

ここからもわかるように、島田氏のスタンスは、「二分法に対するとらわれを指摘すること」であった。ゆえに、オウム真理教=何の弁解余地もない絶対悪、という二分法に対しても、その「とらわれ」を指摘した。しかし、当時の断罪的なマスコミ報道の中で、一面的な断罪に同調しない氏の指摘は、白ではない(=断罪しない)、ゆえに黒(=やつらと一緒)という二分法的ラベリングの中に陥った。このあたりは、この文庫化に際して補論として加えられた「私の『失われた十年』」でも言及されている。ただ、この二分法に関する異議申し立ては、森達也氏の「A―マスコミが報道しなかったオウムの素顔」や村上春樹氏の「約束された場所で」などと通じる部分が大きいと感じた。

そうそう、だいぶ回り道をしたが、引用したのは、「御用学者」について考えたいからだ。確かにどの世界にも「御用学者」がいる。例えば早川和男氏も指摘してやまないが、審議会などでは行政の原案にお墨付きを与えるだけの、文字通りの「御用学者」にふさわしい方もおられるのも、一方で事実だ。他方で、だからといって、行政に関わる=「御用学者」というのも、「絶対的な差を強調し、両者の役割を固定的に考えるような見方」そのもののような気がしていた。批判されるべきは、行政に関わる研究者の「関与の仕方」という内容であり、「関与する」という形式のみを指して、「だから御用学者だ」という整理の仕方は、明らかに二分法的とらわれ、と言わざるを得ない。

「御用学者」になることなく、二分法的とらわれから自由になり、かつ客観的に学としてのスタンスを貫くためにどうすればいいか。それが、「ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすこと」なのだと思う。対象世界を無批判に肯定するわけでも、全てを批判するのでもない。文字通り是々非々を貫くために、「ぶつかり合い、火花を散ら」し続けることが「本当に客観的といえる見方を確立していくこと」につながる。ただ、これは確か早川氏が書いていたことだと思うが、審議会など行政という「対象」と関わると、その相手の論理がわかる故に、気がつけば、その相手の論理に取り込まれる可能性は少なくない。つまり、ミイラ取りがミイラになる可能性がゼロではないのだ。だからこそ、対象の内在的論理をきっちり把握・理解した上で、それでも「対象とぶつかり合い、火花を散らすこと」をし続けることが出来るのか、が問われているのだと思う。

なるほど、最近もやもやしていたことの内実、自分に問われている内容、のようなものが少しずつわかってきた。では、上記のような骨太な「客観性」を持った人間にどう育つことが出来るのか。とんでもない宿題に気づいてしまったあたりで、ワイドビューふじかわ号は甲府盆地に戻ってきた。

二つの裁量

 

伊勢湾の朝日をホテルから眺める。山梨にはない光景である。もやがかかった昨朝とは違って、今朝の上空は澄んでいて、17階からは伊勢湾ごしに対岸の知多半島をもぼんやり眺めることが出来る。京都の盆地に生まれ育った僕にとって、水平線を眺められる、というのは、なんだか珍しく、故に大好きな光景の一つだ。

昨日は、ご当地の障害福祉に関わる方々の職員研修に関わらせて頂いた。その後、とある若手の自治体職員と話していたら、ぼそっと次のような感想を漏らされた。「目の前の仕事をこなすだけで必死だったけど、福祉の仕事って、理想を持ってやってもいいんですね。」 

どれほどの対価よりも、こういう感想ほど、嬉しいものはない。研修って何のためにやるのか、というと、もちろん知識や技術を伝えるのも大切だけれど、一方でその知識や技術を何のために使うのか、という魂の部分、というか、志の部分を伝えることも大切だ、と感じている。青臭いかもしれないけれど、そういう心意気は、ご自身の仕事の方向性に大きく影響している。

福祉の仕事は、特に市町村など最前線で行う業務は、その担当者のやる気や心意気、考え方といった一個人の裁量で、大きく変わる部分がある。これをリプスキーは「ストリートレベルの官僚制」として批判した。確かに、その担当者が「障害者は家族が基本的に支えるものであり、行政サービスはあくまでもどうしてもサポートできないかわいそうな人への残余的なものだ」と考えるなら、その人へのサービス支給決定はすごく限定的なものとなる。その一方、「重い障害があっても、この人は地域で自分らしく暮らす権利があるし、それを行政として、限られた財源の中でもどう支えられるかを一緒に考えたい」という気持ちで臨めば、相談支援事業者との連携の中で、何かを産み出すきっかけになるかもしれない。

つまり、行政担当者の裁量は、ポジティブにもネガティブにも働きうるのである。そして、厚労省が「好事例」として全国的に広める事例の中には、こうしたポジティブな裁量を活かした最前線の職員の努力の中から、現場の変革に結びついた場合も少なくない。福祉の世界では90年代以後、「カリスマ職員」という言葉がはやったが、彼ら彼女らの「カリスマ」な理由は、当事者の声にふれあい、自分の枠組みを超え、裁量権をポジティブに発揮して現場を変えてきたことが、滅多にない、カリスマ的な存在であったゆえ、と認識している。

そして、自立支援法の中で、相談支援体制や地域自立支援協議会のような、そういうカリスマ職員が個人的に切り開いてきたネットワークを公的な責任の下で行う「枠組み」が形作られた。だが、私が研修に呼ばれたように、おそらく全国的に、こういう「枠組み」をどう活かしていいのかわからない、という事態は少なくないと思う。これは三重や山梨だけでなく、この前、相談支援従事者初任者研修で訪れた札幌でも痛感したことである。つまり、形作って魂入らず、という事態が、今全国で見られているのだ。

だからこそ、研修の局面で、これまでの障害者福祉の流れを説明した上で、権利擁護やノーマライゼーションをキーワードに、どうして相談支援が大切なのか、を伝える仕事は、重要性を増してくる。その中で、仕事をされる最前線の方々が、自身の仕事にどのような意味や背景があり、どういう方向に向かって、どんな裁量を活かすことが、その地域の障害者福祉を充実するために大切なのか、に自覚的であってほしいからだ。そういう意味では、微力ながらも研修では知識や理念だけでなく、そこに魂を込めようとするし、それが伝わって冒頭のような感想を頂けると、少しはお役に立てた、という実感がわいて、すごく嬉しくなってしまうのだ。

もちろん、だからって図に乗ってはいけないし、乗るつもりもない。こういったことを人前で話せるようになったのは、多くの方々の実践から学ばせて頂いた叡智を、自分なりに受け止め、整理したにすぎない。つまり僕自身が、先人の多くのバトンを引き継ぎ、会場で聞いてくださっている方々に次のバトンを託したにすぎない。そういうバトンリレーの中で、制度だけでなく、魂も引き継がれていくのだ、と感じている。そして、引き渡した僕は、また次のバトンをもらうべく、次の地点に向けて、走りながら考え続けるのだと思う。その中で、時には論文や原稿という形で、時には講演、ある時には授業という形で、後の人にその走りながら考えた事を整理して、伝え、共有していく役割が自分なのかな、とも感じている。そういう意味では、研究者と言うよりは、媒介役としてのメディア的存在であるのかもしれない。

その際に、文字の原義である中間的存在、が「中途半端」にならぬよう、更に勉強せんとまずいなぁ、と思いつつ、これから大阪に向けて旅立つのであった。