最近、意思決定への関与や困難事例へのアプローチ、そしてソーシャルワークとアブダクションに関する本を読み進め、ブログに書いてきた。それらを読んだ上で、そういえば一年前に読んでめっちゃよかったけど、ブログに書くことが出来なかったとある本を思い指し、週末に読み返す。なるほど、上記の三冊を迂回した今、この本の魅力をやっと語ることが出来そうだ。それが藤沼康樹さんの『「卓越したジェネラリスト診療」入門:複雑困難な時代を生き抜く臨床医のメソッド』(医学書院)である。
ブックマークをしまくったのだが、最も気になる箇所から引用していく。彼は家庭医で訪問診療も行っていて、地域包括ケア関連の研究で事例検討会に参加し、「医師誘発性困難事例」をいかのような8つのパターンで描き出す(p204)。
①患者の健康問題が複数あり、それぞれに担当医がいる“ポリドクター”状態。
②担当医が訪問診療を行っていないためか、在宅ケアへの移行をやんわり引き伸ばしている。
③担当医が在宅医療に熱心で「この患者のことは自分が一番わかっている」と信じており、看護師や介護職が自分の思い通りに動かないと怒る。
④外来担当医が、ケアマネージャーとの面会を「何をしに来たのか」という態度で嫌がる。
⑤ケアマネージャーによる情報提供(「最近よく転ぶ」「元気がない」などの漫然とした高齢者特有の症状・経過など)に、担当医が対応できない。
⑥病院の外来単位が少なかったり、訪問診療をしていたいため、「主治医意見書」を記載した病院医師にアクセスしにくい。
⑦在宅医療で対応出来ず、熱が出たり食欲が落ちると、すぐ入院させてしまう。
⑧薬剤の副作用(抗認知症薬による興奮など)に気づかず、逆に処方薬がどんどん増えて行く。
これらは、僕もケアマネさんの研修をしていると、よく聞く話である。医師とは最も連携がしにくい、というのは、現場の福祉職でしばしば言われているが、当の医師自身がその問題構造に気づき、「医師誘発性困難事例」として詳細なカテゴリーまで作っているのは、めちゃくちゃ面白い。しかも、その直後にいかのような記述もある。
「総じて言えるのは、『患者の目標』を多職種と共有できていない場合に困難事例になりやすく、実際には“医師以外”は共有できている場合が多いということです。医師だけが、地域基盤型ケアにおける価値や文化を共有できていない・・・。つまり、前述の「規範的統合」の阻害因子に、医師がなってしまっている事例が結構ある、ということなのです。」
そうそう、以前伊藤さんや土屋さんと作った『「困難事例」を解きほぐす』『多機関協働が動き出す』という二つの本は、多様な「問題」と言われるものを抱えて、「問題行動」「困難事例」とラベルを貼られた人々を、地域の中で多職種が集まってどう支え続けるか、についてアセスメントの面から考えた本である。ただ、そこではっきり記述できなかったが、「『患者の目標』を多職種と共有できていない場合に困難事例になりやすく、実際には“医師以外”は共有できている場合が多い」「「規範的統合」の阻害因子に、医師がなってしまっている事例が結構ある」と他ならぬ卓越した医師が書いてくれると、実にありがたい。そう、多機関協働で大切なのは、自分の規範を横に置き、その人のチームとして一緒に考え合う姿勢で、それは「“医師以外”は共有できている場合が多い」のだが、医師が自らの価値観に拘り、それが阻害因子になっていることすら、気づかない場合も少なくないのだ。
それに関して、藤沼さんは「主観文化の差異」の問題だと明言する。
「実は、チーム医療におけるトラブルは、「主観文化」に由来することが多いのです。たとえば「自分はこうするのが常識だと思っているのに、相手がそれを守ってくれない」「自分はこうしたらよりよいだろうと思って行動したのに、相手は自分が意図したようには解釈してくれなかった」という不満は、主観文化の差異によるものです。」(p211)
多機関協働が出来にくいのは、それぞれの機関・立場・専門職には、それぞれ固有の「主観文化」があり、それがあまりにも仕事の前提であって、主観であると気づけないからである。だからこそ、「自分はこうするのが常識だと思っているのに、相手がそれを守ってくれない」「自分はこうしたらよりよいだろうと思って行動したのに、相手は自分が意図したようには解釈してくれなかった」と「自分は正しくて、相手が問題だ」と問題を他人のせいにしやすい。それは以前ブログにも書いたが、相手の内在的論理を理解していないだけでなく、自分(自組織)のそれ(主観文化)にも無自覚なのである。そして、お互いの「主観文化」に自覚的になるために、以下のような振り返りを藤沼さんは提唱する(p211)。
①チームメンバー1人ひとりが、自分の特性あるいは多様性を自覚する。仕事の内容、自分の得意なこと、子ども時代の夢、これまでの人生で一番うれしかったこと・悲しかったこと、故郷について、大切な人、尊敬する人、嫌いな人、趣味などについて、振り返って言語化してみる。
②それをチームメンバーで共有し、同じところ・違うところを見つけてみる。同じところを伸ばすには、違うところを育てるには、どうしたらいいかを話し合ってみる。
③自分とは違うタイプの他者との出会いによって、自分の視点がどう変わったか、自分の世界がどう広がったかを話し合う。
④互いの違いをどう活かすかを話し合う。
医療福祉に限らず、仕事をする上で、自分とは違うスキル・経験・専門性を持つ人の背景を理解する必要はあっても、協働する人の「主観文化」の違いまで理解しようとしていない人の方が、多いと思う。僕で言うなら、例えば社協や公務員の人と仕事をすることが多いが、一口に社協の人、公務員の人と言っても、千差万別である。その職種の「主観文化」だけでなく、その人自身の「主観文化」も濃淡は違えど、その人の働き方には反映されている。すると、with-ness的に仕事をともにしていくチームになりたいなら、まずは「自分の特性あるいは多様性を自覚する」ことが大切だし、それをチームメンバーに語ることで、「同じところ・違うところ」を見つけ出し、それを豊かに育てていくことが大切だ。これは「他者の他者性」を理解するために、「己の唯一無二性」を知り直すプロセスそのものだと思う。
なぜ、治療をする医師が、「他者の他者性」や「己の唯一無二性」を理解する必要があるのか。それについて、藤沼さんは以下のように語る。
「プライマリ・ケア外来では、疾患へのアプローチ、すなわち従来型の診断・治療が問題解決に直結せず、受診理由や健康問題が「患者にとってどんな意味を持っているか?」にアプローチにすることが、しばしば必要になります。家庭医療学においては、前者は「疾患(disease)」へのアプローチ、後者は「病い(illness)」へのアプローチと呼ばれ、この2つのアプローチを同時並行的に実施することが、“家庭医らしい臨床的方法(clinical method)とされます。」(p114)
「疾患へのアプローチ、すなわち従来型の診断・治療」は「疾患(disease)」へのアプローチである。でもそのアプローチでは「問題解決に直結せず、受診理由や健康問題が「患者にとってどんな意味を持っているか?」にアプローチにすることが、しばしば必要になります」。この患者にとっての意味=患者の主観文化や内在的論理を理解するアプローチを「病い(illness)」へのアプローチとしている。この記述を読んで、上田敏の「やまい(体験としての障害:illness)」を思い出していた。
「実存のレベル(主観的な体験として、自尊心・価値観・人生の目的などに関するレベル)で捉えた障害(上田敏 1992)。」
上田敏氏はICIDHの問題構造を指摘する中で、実存や主観レベルの問題を提起し、後にICF(国際機能分類)へと改訂にも携わった人物である。彼が疾患(disease)から機能・形態障害(impairment)が出てきて、それが能力障害(disability)に繋がるという線型モデルに違和感を抱いたのは、そのような疾患や機能障害、能力障害が起きている間に、「主観的な体験として、自尊心・価値観・人生の目的などに関するレベル」=実存レベルでの本人の意味づけがなされていると喝破したからだ。そして、医学的治療が問題解決にならない場合には、「病い」へのアプローチが必要だと藤沼さんも整理する。
そのためにも、対象者の価値観に大きな影響を与える「物語」を理解する為に、ライフヒストリーを聞き出す重要性を、次の3つのトリガー質問で整理している(p125)。
①「今まで生きてきて、一番うれしかったことは何ですか?」
②「今まで生きてきて、一番つらかったことは何ですか?」
③「今の自分の状況について、どんなふうに思っていますか?」
実はこれはチームの仲間の「主観文化」を理解するための質問と同じである。さらに言えば、未来語りのダイアローグでの3つの質問とも共通点がある。まずは良かったことやよい変化を聞き、次につらいことや残っている心配ごとを聞いた上で、今の状況についてうかがい、どうすれうば変化できそうか、を一緒に考えるというアプローチである。この質問のポイントは、まずは良かったことやよい変化を聞くことである。「問題行動」「困難事例」とラベルを貼られている人だけでなく、多くの人は、うまくいかないとき、問題点や心配ごと「ばかり」に目を向けてしまう。でも、そういう人のなかでも、良かったこと、うまくいったことは、必ずある。それを見つけられず「もう絶望的な気分だ」と滅入っている人にも、「今まで生きてきて、一番うれしかったことは何ですか?」という形で、本人の希望を掘り起こしてもらうことが、ライフヒストリーを聞く中で、極めて重要になる。
「病いや健康問題を抱える人は、症状や障害があっても日々の生活を何とか進める為に、生活のやり方に関して創意工夫をしているものです。たとえば、調理器具を使いやすいものに変えてみたり、ある場所に行くときに遠回りしてでも知人の家の前を通っていくようにしたり、といった工夫をするものです。痛みが悪化しないように、身体の姿勢や動き方を微妙に調整したりもします。
Reeveらは、病いの中にある人たちの、こうした創意工夫をする能力を「creative capacity」と呼んでいます。」(p152)
「疾患(disease)」を抱えても、無力ではない。「病い(illness)」の中にあっても、「症状や障害があっても日々の生活を何とか進める為に、生活のやり方に関して創意工夫をしている」。その「創意工夫をする能力を「creative capacity」」として捉えることが出来るか。患者さんのよい変化や心配ごとを聞きながら、その患者さんの主観文化に触れた上で、「creative capacity」をも聞き取り、探り出し、その力を高めていくように支援が出来るか。
このような見立てをするために必要なのは、前回のブログでも取り上げたアブダクションだと藤沼さんも言う。
「アブダクションは、大雑把に言って、“帰納法と演繹法の折衷”と言えると思います。比較的少数の情報から「帰納法」で共通の特徴となる“小さな仮説”を立て、小さな仮説に基づいて「演繹法」を用いて他の異なる現実に転用してみることで、その仮説を検証し、そして、このプロセスを繰り返すということです。
話を戻しましょう。家庭医によるプリマリ・ケア外来では、まず患者と医師が共に問題空間内を移動しながら協同して小さな仮説を立て、その仮説の周りを簡単にチェックし、さらに次の採集のために移動してまた小さな仮説を立てていくのです。この“採集の旅”の途中で、深掘りすべき問題が決まり、その問題を解くために初めて仮説演繹型の推論プロセスに入ることになります。」(p145)
一般に、科学的トレーニングを受けた専門家である医師は、演繹法で疾患概念から個別ケースを見るか、逆に個別事例から帰納法で疾患概念につなげるか、というどちらかを選びがちだ。でも、それだけで解決出来ない、複雑に絡み合った問題をほぐして行く場合、「まず患者と医師が共に問題空間内を移動しながら協同して小さな仮説を立て、その仮説の周りを簡単にチェックし、さらに次の採集のために移動してまた小さな仮説を立てていく」ことが大切だと藤沼さんは述べる。まずは患者と医師が協同して、何がどのように問題になっているのか、その疾患には患者のどのような主観的な病いの経験と結びついているのか、という「疾患(disease)」と「病い(illness)」の絡み合った構造を、採集して「小さな仮説」を作り上げる。その際には、患者の問題だけなく、患者の持つ、「creative capacity」をも採集していく。その上で、何をどのように解決すべきかという優先順位を患者と医者が協同して立て、「深掘りすべき問題が決まり、その問題を解くために初めて仮説演繹型の推論プロセス」に入っていく。この際、医者だけ、あるいは患者だけで優先順位を決めず、「患者と医師が共に問題空間内を移動しながら協同して小さな仮説」を立てる、という形で共同意思決定に持ち込んでいくことが、問題を解決するために非常に重要だと藤沼さんは指摘しているのである。
ほんまもんの在宅医は、優れたソーシャルワーカーと似た目線だと改めて感じた。
最後に卓越したジェネラリスト診療(Expert Generalist Practice: EGP」への四つのステップを抜き書きしておく(p269)。
①epistemology(ジェネラリストの認識論を保持する)
→「diseaseとillnessを同等に扱う」という立場がEGPの認識論的パラダイム
②exploration for sense making(意味づけのための情報探索)
→患者の「生活史」については高い解像度で知る必要があり、自分の頭の中に映像として患者生活が再生できるくらいの情報量が必要
③explanation(解釈する)
→この解釈・説明は帰納的に生み出されたillnessの「診断」
④evaluation, trial and learn(患者とともに評価し、試し、学ぶ)
→うまくいかない場合、医療化に走るのではなく、あくまで新たに解釈を患者とともに生み出していくことがEGPでは肝要
これは「困難事例」とか「断らない相談」、重層的支援体制整備に関わる人々にも、かなり意識して欲しい四つのステップである。
①「diseaseとillnessを同等に扱う」というのは、本当に重要である。疾患(disease)については、医療職にある程度依存する必要がある。だが、illness=「実存のレベル(主観的な体験として、自尊心・価値観・人生の目的などに関するレベル)で捉えた障害」については、福祉専門職のほうが、生活支援を通じて寄り添い、引き出すことが出来やすいのだ。
②「自分の頭の中に映像として患者生活が再生できるくらいの情報量」は、かなり丁寧に「意味づけのための情報探索」をする必要がある。だからこそ、「今まで生きてきて、一番うれしかったことは何ですか?」「今まで生きてきて、一番つらかったことは何ですか?」「今の自分の状況について、どんなふうに思っていますか?」という生活史の丁寧な聞き取りが必要となる。
そういうプロセスを経た上で、③illnessの「診断」になるのだが、それは医師や専門職による一方的な診断ではなく、④「患者とともに評価し、試し、学ぶ」というアブダクションの協同探索のプロセスが重要になってくる。ここに、多機関協働のダイナミズムがあるのだとも感じた。4400円とちょっと高めのお値段だけれど、卓越した医師やジェネラリストの認識論を知る意味では、福祉職や行政のオススメの一冊である。
*追記:生物学的精神医療の最大の問題は、「diseaseとillnessを同等に扱う」とは真逆の、diseaseのみで精神疾患を治療した気になることだとわかる。僕自身は、反精神医学ではないので、投薬そのものを否定はしない(それはバザーリアも同じである)。diseaseに効果的な治療薬は使えば良い。ただ、精神医療の世界においては、「薬剤の副作用(抗認知症薬による興奮など)に気づかず、逆に処方薬がどんどん増えて行く」ことがめちゃくちゃ多い。それは、患者のillness=「実存のレベル(主観的な体験として、自尊心・価値観・人生の目的などに関するレベル)で捉えた障害」に向き合えていないからである。
大学の精神科の医局はいまだに生物学的精神医療に支配されているというが、現場で「卓越したジェネラリスト診療」をしている藤沼さんは、それでは臨床現場で全く解決出来ないことを見抜き、「diseaseとillnessを同等に扱う」重要性を説く。これこそ、精神科医にもしっかり理解してほしいポイントである。