ユングの珠玉の言葉を100も集めたダイジェスト的名著が刊行された。一つ一つの言葉にしびれる。例えば、こんな風に。
「自分自身との出会いとは
第一に自分の影との出会いを意味する。
影とは隘路、狭き門であり、
深い泉のなかへと降りていく者は誰しも、
苦痛を伴うその狭い場所を免れるわけにはいかない。
けれども、
人は自分自身と付き合ってみなければならないのだ。
そうすることで、自分が何者なのかを思い知るのである。」
(大塚紳一郎著『こころと出会うためのC・G・ユングの言葉100』創元社、p80)
大塚さんと言えば、ユングやユング派の重要な書籍を丁寧に原文から訳してくださる、素敵な書き手である(ブログでも以前紹介している)。今回はユングのドイツ語と英語の著作集を一年かけて目を通し、重要な箇所を500ほどリストアップして、100個を選び抜いたという(p14)。それゆえに精選された珠玉の言葉が載っていて、めっちゃ心に響く。
特に先ほど引いたのは、いま・ここ、の僕に最も響く場所。
今、ちょうど自分の影との出会いを深め、苦しんでいる。しんどい。でも、それが隘路であり、狭き門ゆえに、「苦痛を伴うその狭い場所を免れるわけにはいかない」と言われると、勇気をもらえる。「自分が何者なのかを思い知る」ためにも、この影との直面が最重要なのだ。そして、その隣に載っている大塚さんの簡潔明瞭な解説も、心を打つ。
「誰かと本当の意味で友達になったり、恋人になったりするとき、最初に気づくのはむしろ相手の嫌な部分ではないだろうか。こころとの関わりをもつ場合も一緒だ。こころと真剣に関わりを持つようになると、最初に見えてくるのは、普段はペルソナの背後に隠している影、つまり恥ずかしく、情けない自分の姿なのだ。こころはまず、影として姿を現すのである。自分自身の影との出会いはいつだって苦しく、辛いものになるだろう。それでもなお、身を屈めて、その道を通っていかなければならないのだ。友達や恋人との本当の関係がはじまるときと同じように、明るい側面だけではなく、暗い側面とも出会ったときにはじめて、こころというものの存在をリアルに感じることができるようになるのだから。」(p81)
最近、久しぶりに自分自身と深く向き合うようになっている。その直接のきっかけは、人間関係での大失態なのだが、それを掘り下げていくうちに、「普段はペルソナの背後に隠している影、つまり恥ずかしく、情けない自分の姿」が見えてくる。これは、正直きつい。「自分自身の影との出会いはいつだって苦しく、辛いもの」である。「それでもなお、身を屈めて、その道を通っていかなければならないのだ」と言われると、暗闇にともされる一筋の光のような、ヒントを与えてくれる。「情けない自分の姿」を否定せずに直視した先にしか、次の展開は始まらないのだ。
「奇妙なことに、
パラドクスこそが最高の精神的資産なのである。
反対に、一義性は弱さの印である。」(p170)
今直面しているぼく自身の大失態は、実は一義性に関係している。あまりにも、僕の意見が通り過ぎていた。そこに無自覚だった。つまりは、他者の他者性をしっかり拾えていなかった。だからこそ、葛藤の最大化の場面では、表面的には他者と対立しているようにみえて、実のところ、「普段はペルソナの背後に隠している影、つまり恥ずかしく、情けない自分の姿」という影が露わになる。それを直視するのは、しんどい。
でも、ユング派からプロセス心理学に転じたアーノルド・ミンデルが「葛藤」を最後の主題にしたように、葛藤やパラドクスは、最高の精神的資産なのである。一義的になると、複数の声がかき消されてしまう。そこに、権力関係が生じ、一方向の支配ー服従関係が生じる。それを越えていくのには、パラドクス状態に陥ることが、実は最も助け船になるのだ。大塚さんはこう解説してくれている。
「自分は『こうしたい』と言っているのに、もう片方の自分が『それじゃ駄目だ』と言っている。それがパラドクスだ。二人の自分が対立しているのである。その葛藤は苦しいものだが、人生そのものに関わるようなあたらしい、そして意味のある方向性は、このパラドクスに耐えることでしか生まれない。」(p171)
葛藤や対立は、出来れば避けたいものである。でも、葛藤には意味や価値がある。苦しいけれど、あたらしい・意味ある方向性がその葛藤の中で見えてくる。「このパラドクスに耐えること」というのは、葛藤や対立する他者に対してではなく、自分自身を問い直し、捉え直すきっかけを与えてくれる。
「わたしたちが
子どもたちに関して変化させたいと思うことはすべて、
自分自身に関して変化させた方がよいものではないか。
まずは注意深く、そう吟味してみた方がよいでしょう。」(P185)
子どもを、学生とか支援対象者とか部下と言い換えても、同じ事がいえると思う。権力を保持する側が、権力行使出来る相手とどう関わるか。通常は、パワーを持つ強者が、弱者に対して指導や命令、助言などを通じて、相手を説得し、相手に行動変容させようとする。でも、葛藤場面において、その葛藤課題は自分自身との影との向き合いなのだとしたら、変わるべきは相手ではなく自分自身となる。すると、他者を変化させたいという不遜な欲望よりは、自分がどう葛藤を変容課題として受け取り、その問いを吟味できるか、こそが問われるのだ。
大塚さんも、以下のように指摘している。
「わたしたちが子どもたちに期待し、要求するそうした内容はすべて、実際には子どもたち以上に、大人にとって切実な課題ばかりではないだろうか? 子どもだけに要求するのではなく、まずはそれを自分自身の人生のなかで、できるうかぎり果たしていくということ。それこそが、わたしたち大人が子どもたちに対して果たすべき最大の責任であり、また最良の教育なのである。」(p185)
8才の娘の子育てをしている父にとって、「実際には子どもたち以上に、大人にとって切実な課題ばかりではないだろうか?」という問いは、グサグサ突き刺さる。娘に指導や助言をしたふりをしているけど、それは娘以上に父にとっての切実な課題の可能性は、充分にある。率先垂範とは、「子どもだけに要求するのではなく、まずはそれを自分自身の人生のなかで、できるうかぎり果たしていくということ」なのだ。それこそが父(教育者、上司、おっさん・・・)として果たすべき最大の責任である、というのは、本当にしっくりくる。
「ですから、大切なのは
親が間違いを犯さないということではありません
—そんなことは人間には不可能でしょう。
そうではなく、
間違いを間違いとして認めるということです。」(p188)
いま、「謝ったら死ぬ病」に罹患している人が増えているという。これは「間違いを間違いとして認める」というシンプルなことが出来ない、ということである。色々な理由が考えられるが、例えば「正解幻想」が強くて、立場上間違えられないと思い込み、「親が間違いを犯さない」という幻想を引きずっている可能性がある。これは無謬性への過信である。あるいは間違いを認めると自我が崩壊する危険性がある。その場合は、いくら虚勢を張っても、かなり脆弱な心理状態である。いずれにしても、よろしくない。
大塚さんは、この文章の解説を以下のように締めくくる。
「子どもにとって重要なのは親の成功や達成ではなく、生きる姿勢そのものなのだ」(p189)
深く同感する。結局「生きる姿勢」そのものが問われているのである。いくら表面的に成功や達成のフリをしたところで、生きる姿勢がインチキであれば、すぐに見破られる。本物の葛藤と向き合い、表面的なキラキラが通用しないドロドロとした領域で、自分の生き様を問い直し、成功や達成に還元されない生きる姿勢というプロセスを磨き続けられるか。これらが問われている。
「他者を認めることができなければ、
その分だけ自分自身のなかにいる『他者』の存在権も
認めることができなく—逆もまた然りだ。
内的な対話の能力は、
外的な客観性のひとつの尺度なのである。」(p206)
忙しい時ほど、内的な対話をおろそかにしがちになる。しかもそういう時に限って、自分の中にいる「他者」は訊いてほしい、認めてほしい、存在を承認してほしいと、私に問いかけをしてくる。そして、忙しくて自分と対話出来ず、対外的な仕事に必死になるほど、ますます「自分自身のなかにいる『他者』」も怒り出す。そのうえで、リアルな他者を認める事が出来なくなり、葛藤が最大化する。だからこそ、「内的な対話の能力は、外的な客観性のひとつの尺度なのである」という喝破に深く頷くのだ。急がば回れ。忙しい時ほど、自分自身の内なる他者と対話をする時間を確保しなければならないのだ、と。
もっと沢山引用したいが、是非この本は手元に置いて、皆さんも自分が気になる箇所と対話してみてほしい。僕は二読、三読するなかで、この本を通じて内的対話を深めていこうと思う。