カテゴリー: 未分類
余裕がないのは、さて、どっち?
泥臭く、かつ合理的に動いた経済学者
その意味では、本書は単なる闘いの記録、を超え、普段はなかなか表に出てこない・内幕が語られない政策形成過程分析のケーススタディーとしても、貴重な一冊であると感じた。
社会をマニコミオから解放する
向谷地さんへの反論、というよりも
向谷地生良さんといえば、精神医療のみならず障害者福祉の領域では超有名な「べてるの家」の支援者である。僕も当事者研究から多くを学び、毎年のようにゼミ生にも紹介している。師匠大熊一夫にくっついて、何度か浦河を訪問し、いろいろお話を伺い、臨床家としても尊敬している一人である。
「迷惑をかけない」「いい子」の「蓋」
岡本茂樹さんは、刑務所や少年院で長年、心理教育や更生支援をしてきた経験を元に、表面的な「反省」が逆効果になることを示した新書を何冊か出している。昨年亡くなられた彼の遺作『いい子に育てると犯罪者になります』(新潮新書)は、本当に力作だった。
そもそもなぜ、わけるのか?
相模原の事件に関して、ヘイトクライムは「あかんもんは、あかん」という原則を書いた。また、措置入院の患者は出すな・GPSで追跡せよという思想と、「障害者は生きるに値しない」という発想自体が、「同じ穴のむじな」であることも指摘した。その上で、もう一つ、原理原則として指摘しておきたいことがある。それは、「なぜ、人里離れた入所施設に、障害者は大量に集められて、隔離収容させられていたのか?」という問いである。「なぜ、重度障害者の暮らしは、他の人の暮らしとわけるのか?」という問いである。
僕は2003年の秋から2004年の春にかけての5ヶ月間、スウェーデンに暮らしていた。ちょうどスウェーデンは、2003年に知的障害者の入所施設をゼロにした。1999年12月31日までに入所施設を完全閉鎖にする法律を作って、その期限内には達成できなかったが、その3年後にはきちんと達成した。「やまゆり園」に集団で暮らしていた、強度行動障害とラベルが貼られた人も、また重症心身障害の人も含めて、日本では「この人達は施設しかない」と言われている人も、施設ではなく、地域で暮らしていた。その実態を調べるために、スウェーデンのイエテボリを拠点に、LSSという法律と支援の実態、それを理論的に支えているノーマライゼーションの原理を書いたベンクト・ニィリエのインタビューなどをして、一本の報告書にまとめた。
強度行動障害とラベルが貼られる人の中には、言語的なコミュニケーションが非常に苦手な人もいる。こちらが口で伝えることも、理解してもらいにくい、だけでなく、相手が何を伝えようとしているのかも、わかりにくい人がいる。そういう人と接する経験が少ない・あるいは相手の事を理解するノウハウに乏しい人だと、本人の訴えや主張が理解できず、「ああいう人に人格があるの?」という、恐ろしい差別発言をしてしまう。今回の容疑者も、そういう意味では残念ながら支援の素人だったと思われる。
ただ、強度行動障害や重症心身障害の人々も、接していると、実に豊かな個性を持っている。例えば、壁に頭を打ち付ける「自傷」や、他人に大声で怒鳴る「他害」とラベルを貼られる行為も、実はその人と関わる支援者との関係の中で発生している。例えば、ご本人にとって不快・不安なことが起こった時、それを表現する言語的手段がないが故に、頭を壁に打ち付けたり、大声で騒ぐことで、「わかってほしい」と必死の訴えをしている。その際、支援のプロに求めらるのは、本人の「自傷他害」行為を非難する事でも、「ああいう人って人格があるの?」と馬鹿にすることでも、ない。そうではなくて、そのような行為を通じて、何を訴えようとしているのか、どう関わればその行為が減り、ご本人の笑顔が増えるのか、を関わりを通じて考えることである。
スウェーデンの知的障害の理解に関する古典的教科書の中では、そのような知的障害のある人の内在的論理が書かれていて、どのように関われば、本人の快に導くことが出来るか、が整理して書かれていた。そして、重症心身障害のある人でも、パーソナルアシスタンス(日本でいう重度訪問介護)を使って一人暮らしをしていたり、あるいは強度行動障害に理解がある職員と共にグループホームで暮らしていた。そもそも、じっくり関わる事で関係性を築くことが大切なのに、集団管理と一括処遇をする場では、不適応を起こして、それが自傷他害という形での訴えを起こしているのだから、入所施設より少人数での暮らしの方が本人が安定する、と言われていた。
また、日本に帰国後、西宮の青葉園でもフィールドワークをさせて頂き、日本の中でも、そのような本人中心の関わりをすることで、重度の障害を持つ人でも地域で支え続ける仕組みを作り上げた現場がある事を、肌身で実感した。山梨では「国立病院重心病棟」のようなところに一生暮らしているような、医療的ケアが必要な障害者であっても、訓練を受けた介護・看護の人々のケアに支えられ、グループホームやアパートでの一人暮らしを続けている。そんな障害者が西宮には沢山いた。日本でも「やれば、できる」ということを実感していた。
だからこそ、事件の詳細を聞くにつれ、「なぜ、わけて、集めていたのか?」という根本的な問いが浮かぶ。本人中心の支援が出来る支援者と共に、グループホームや一人暮らしが出来ていれば、そもそも「入所施設」に暮らす必要がなかったのではないか。19人もの命が一気に奪われたのは、普通ではあり得ない人数が1カ所で暮らしていたことに、根本的な原因があるのではないか? 入所施設の警備を強化したり、防犯カメラを増やしたり壁を高くすることよりも、そもそも入所施設を減らし、地域での暮らしを支える態勢に切り替えたら、このような「大量虐殺」は防げるのではないか。なのに、障害者を「わけて収容する」ということへの問いは、なぜ主題化されないのか? 事件が起きて以来、ずーっとそのことが気になっている。
入所施設で30年、40年と暮らしていた人は、どんな気持ちで暮らしていたのだろう? 人生の膨らみのない、同じ場所にずっと収容され続ける事って、どんな気持ちだったのだろう? 諦めや絶望を感じていたのではないだろうか。そんなことが容易に想像出来る。
だからこそ、スウェーデンで成文化された「ノーマライゼーションの原理」に立ち戻る必要がある。この原理を提唱したスウェーデン人のベンクト・ニィリエは、今から半世紀近くまえ、1969年の段階で、こう整理している。
1,ノーマライゼーションの原理は、知的障害者に一日のノーマルなリズムを提供することを意味している。
2,ノーマライゼーションの原理はまた、ノーマルな生活上の日課を提供することでもある。
3,ノーマライゼーションの原理はまた、家族とともに過ごす休日や家族単位のお祝いや行事等を含む、一年のノーマルなリズムを提供することを意味する。
4,ノーマライゼーションの原理はまた、ライフサイクルを通じて、ノーマルな発達的経験をする機会を持つことを意味している。
5,ノーマライゼーションの原理はまた、知的障害者本人の選択や願い、要求が可能な限り十分に配慮され、尊重されなければならない。
6,ノーマライゼーションの原理はまた、男女が共に住む世界に暮らすことを意味する。
7,知的障害者ができるだけノーマルに近い生活を得られるための必要条件とは、ノーマルな経済水準が与えられることである。
8,ノーマライゼーションの原理で特に重要なのは、病院、学校、グループホーム、福祉ホーム、ケア付きホームといった場所の物理的設備基準が、一般の市民の同種の施設に適用されるのと同等であるべきだという点である。
(ベンクト・ニィリエ『再考・ノーマライゼーションの原理』現代書館、より)
「やまゆり園」に暮らしていて、容疑者に殺されてしまった方々は、そもそも「ノーマルな一日のリズム」が提供されていただろうか。一人暮らしや、居酒屋で飲んだり、ディズニーランドに遊びに行ったり、というような「ノーマルな発達的経験をする機会」を持っていただろうか。「本人の選択や願い、要求」が尊重されていただろうか? それらのチャンスが提供されず、集団管理と一括処遇が基本になるような場に収容されていたならば、人間的な暮らしが出来ず、人間らしい輝きや魅力がどんどん奪われていくのではないか。そして、本来はそういう非人間的な処遇のあり方こそ告発したり、本人と共に地域で暮らすチャレンジをすべき支援者が、「非人間的な処遇」ゆえに非人間的な表情やふるまいをする個人に「生きていても仕方ない」というラベルを貼り、抹殺するに至ったとすれば、そのような環境こそ、大きく問われなければならないのではないか?
繰り返し述べるが、スウェーデンではこのノーマライゼーションの原理が出来てから30年で、知的障害者の入所施設をゼロにした。理念のあるべき姿と方向性を愚直に追い求めたら、入所施設こそ必要ない、というシンプルな結論に辿り着き、それをしっかり実現した。一方日本では、ノーマライゼーションの原理が英語で発表されてから50年たっても、未だに入所施設での収容が続いている。そして、今回のような残忍な事件があっても、この入所施設への収容という構造自体が、問われることはない。
僕は、この構造こそ、問い直す必要がある、と思っている。「そもそも、わけることこそ、変であり、オカシイ!」 これも、繰り返し言っておきたいポイントだ。本当にこのような残忍な大量虐殺を防ぎたいなら、このような収容環境こそ、解体すべきである。地域で支援する為の施策をきっちりと打つべきである。防犯カメラや、高い壁を作ったところで、根本的な解決策にはなるはずもない。
障害者の入所施設への収容は、他の者との平等を重視する障害者権利条約にも違反しているし、差別政策である。そもそも、この施設入所の現状を、今こそ問い直す必要がある。
同じ穴のむじな
残虐な障害者連続殺害事件から1週間たった。原因探しに奔走するマスコミは、容疑者が措置入院の経歴がある事をいかにも「原因」であるかのように報じ始めている。
この事件に対する僕自身のスタンスは、前回のブログでも書いたように、「あかんもんは、あかん」である。これは明らかにヘイトクライムであり、絶対に許してはいけないことである。だが、その前提に立った上でも、「措置入院者は安易に出すな」という論調の姿勢も、「あかん」と思っている。詳細に関しては、大阪の池田小学校事件のことも踏まえ、NPO大阪精神医療人権センターが申入書を出していて、ほぼここに論点が言い尽くされているので、そちらをご覧頂きたい。あるいは、池田小学校事件の報道にも関わった読売新聞の原さんのコラムも、ズバッと本質を突いている。僕が今日、言っておきたいこと、それは、「障害者は死んでしまえば良い」というのと「措置入院の患者は出さない方がよい・出した後も厳しく追跡した方がよい」というのは、「障害者へのフォビア(恐れ・憎悪)に基づく排除」としては、全く同じ構造、同じ穴のむじなである、ということである。
人権センターの申入書にも書かれていたが、そもそも事件発生直後で、犯人がどのような経緯で殺害に至ったのか、が不明確な時点で、厚労大臣は既に「措置入院について検討する」と発表している。そして、首相も含めて、それを「再発防止策」としている。これは、ヘイトクライムに対して、新たなヘイトを生み出す、という愚策に思えてならない。
措置入院というのは、「自傷他害の恐れ」がある場合に、精神保健指定医2名の診察をうけて、強制入院をさせる、という仕組みである。だが、この「自傷他害」をそもそも一括りにして良いのか、という問いがある。それは、自傷については、医療で対応可能だが、他害については、そもそも医療の対象外ではないか、という大きな問いがあるからだ。実はイタリアでは、他害を強制入院要件に入れていない。それは、大熊一夫師匠の次の文章に理由が書かれている。
「この法律が世界的にユニークなのは、精神科医に治安の責任を負わせていないことである。それは法文の中で、治療(収容)の判断基準として、『他害のおそれ』がうたわれていないことでわかる。(略)バザーリアたちは『他害の恐れがあるかどうかは、警察の判断に任せるべきことで、精神科医の仕事ではない。精神科医は警察の役目を捨ててこそ患者と良い関係を築けるのだ』と主張してきた。それが180号法に反映された。」(大熊一夫『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』岩波書店、p108-109)
ここで重要なのは、精神科医の役割と警察の役割は違う、ということだ。警察は、犯罪予告があれば、未然に防止することが、その役割である。これは、容疑者が精神障害者であろうと糖尿病患者であろうと関係ない、はずである。だが、現状では、犯罪予告が糖尿病患者からなされても、糖尿病の医者の対応は求められない一方で、精神障害者による犯罪予告であれば、警察は精神科医にその責任を丸投げしてしまう。今回のケースでも、既に報じられている内容からすれば、その可能性が高い。
これは、明確な精神障害者差別である。
「自分を傷つける恐れ」に関しては、精神医療が介入して、その予防に向けて関与する。これは自殺防止などで、実際に効果があることである。一方、「他人に害を与える恐れ」に関しては、糖尿病の容疑者を警察や公安が監視の対象にするのであれば、精神病者だって同じ処置を受けるべきである。そうしないと、精神科医と患者が良い関係も築けない。
厚労省が対策を打つならば、実はこの部分こそ、対策を打つべきなのだ。精神障害者だけを別扱いして、精神医療に犯罪予防を任せる、という「筋違い」な政策をこそ、一から見直すべきである。それは、一度罪を犯した精神障害者は「自傷他害の恐れが消えるまで」無期限での入院を迫られる医療観察法自体の廃止ないし抜本的見直しを行うことも同様である。やるべきことは、真っ当な精神医療をきちんと提供することであり、闇雲に措置入院患者の退院要件を厳しくしたり、退院後の監視を厳格化することではない。精神医療に出来ない殺人予防は、出来ない、と認めた上で、警察に他害防止の権力を返上することである。そして、真っ当な寄り添う精神医療を展開することである。
だが、厚労省は、そのような本質的な議論に着手しようとしない。措置入院の内容をより強化せよ、障害者施設の警備をよりしっかりせよ、という「小手先の対策」しか出ていない。これは、言葉は悪いが「世間から怒られないように対策をしているフリ」をしているようにしか、みえない。更に言えば、「措置入院患者を外に出すな」という主張に繋がるような政策は、「障害者は生きていても仕方ない」と同様の、一人一人の個人の尊厳を踏みにじり、カテゴリーとしての「障害者」「措置入院精神障害者」への恐れや憎悪に基づく、一元的な対応に思えてならない。凶悪犯罪を防ぐため、と言いながら、凶悪犯罪者が抱いていたものと似た、「措置入院患者は何をしでかすかわからない」といった「恐れ」に基づく差別政策を本当に厚労省は展開してよいのか。この部分が非常に気になる。
このような残忍な犯行は絶対に許してはならない。だが、本当に犯罪を抑止したい、防ぎたい、と願うなら、精神障害への偏見を高めたり、措置入院をより厳しい制度にする方策が、本質的な解決にはならない、ということも、しっかりと押さえておくべきだ。必要なのは、犯罪予防という本来業務ではない内容を精神医療に委ねない、ということ。その上で、精神医療が地域の中で頼りになる存在として機能させることである。そして、ヘイトクライムを許さない事や、ヘイトクライムに繋がる恐れがあるヘイトスピーチへの予防や対策法を打つことである。何でも精神医療のせいにして、「わかったフリ」をすることは、精神障害者への差別であり、同じ穴のむじなである、と繰り返し、述べておく。
あかんもんは、あかん
今般起きた、障害者施設における連続殺人事件は、障害者への憎悪に基づく虐殺、という意味では、ヘイトクライム(憎悪に基づく犯罪)である。これは、絶対に許してはならない。「あかんもんは、あかん」のである。そのことについて、いくつか述べておきたい。
容疑者は、「障害者はいなくなったほうが良い」とか、「重度障害者は安楽死した方が良い」と言っていた、という報道がある。この発言を聞いて、二つの事を思い出していた。
先週の金曜日、渋谷で映画を見た。「風は生きよという」というドキュメンタリーである。呼吸器を付けて暮らしている「重度障害者」とカテゴリー分けされる人々の日常を追いかけたドキュメンタリーである。この映画は元々見たかったのだが、その主役のお一人で、『まぁ空気でも吸って』という素敵なを書かれている海老原宏美さんのアフタートークも聞きたくて、渋谷まで出かけた。
海老原さんはトークの中で、この映画の主人公として「撮られる側」になった理由として、尊厳死法案の存在を挙げていた。この尊厳死法案では、終末期医療にある人が、自己決定に基づいて、延命治療をやめることを医療がサポートすべきかどうか、が論じられている。海老原さんは、一度そのような法律が出来ると、人工呼吸器を付けなければ生きる事ができない人は、「延命治療してまで生きる価値があるか?」を問われる対象になるのではないか、と危惧する。その際、非常に気がかりな事を口にしていた。
「この国では、迷惑をかけて生きる、という事に対して、否定的です」「私たちは、そんなに迷惑を掛けていますか?」
そう、日本社会の文化的規範として、「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは、ものすごく強い呪縛として、現代日本でも機能していると感じる。これは、ゼミ生と議論をしていても、感じる。「人様に迷惑を掛けないよい子でいなければならない」というルールを守ることを、自分のしたい事にチャレンジする事より上位に置いている学生達が少なくない。そして、個性を去勢化し、同調圧力に従って、同じような振る舞いを必死にして、疲れていく。
そして、この「迷惑を掛けてはいけない」という呪縛は、「他人に迷惑を掛ける存在は、あってはならない」と、容易に転化する可能性があるのではないか、という海老原さんの問いかけは、決して妄想ではない。現にそれを「実践」した国がある。それが、ナチスドイツである。
たまたま昨日の「福祉社会学」の講義で議論するために、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』という分厚い一冊を読んでいた。この本に書かれていた事を簡単に要約すると、当時のドイツではアーリア人の優秀性を担保・根拠付けするために、公衆衛生にも力を入れていた。その中で、善意に基づいた医師達は、次の様な信念に取り憑かれていく。
「自分たちこそおは科学者として、患者の福利とドイツ民族総体の浄化に配慮していると信じていた。近代科学技術が医学に飛躍的な革新、リハビリテーション可能な障害者はリハビリテーションし、残りの『治療不能』な場合は抹殺するという治療の過激化の機会を提供したと信じたのである。」(p14)
この「治療不能」な障害者は「生きるに値しない命」と言われ、精神病院のガス室で抹殺され、火葬=焼却処分された。これはヒトラーのメモ書きによる許可に端を発するもので、その合法性が国内でも問われたが、やがてヒトラーの言うこと=合法、と認められると、医者や法律家も全国的に荷担し、官僚主義的でシステマティックな虐殺によって20万人以上が殺された、と言われている。そして、この「やり口」はユダヤ人の抹殺に、見事に引き継がれていった。
ここで論点になるのは、「生きるに値しない命」という価値判断である。
当時のドイツ社会では「治療不能」というのが、その判断基準の一つであった。だが、実はもう一つ、大きな判断基準があった。それが、「生産能力」=お金を稼げるか、という視点である。ちょうどこのテーマを昨年取り上げた、NHKのハートネットTV「ナチスから迫害された障害者たち (1)20万人の大虐殺はなぜ起きたのか」のHPに、その当時の記録映画のフレーズが記載されていた。
「健康な国民同胞を健全にする資金が、白痴者を扶養するために使われている。施設にはそのような者がうようよいる。この遺伝性疾患のあるきょうだいの世話にこれまで154000マルクかかった。どれほどの数の健康な人々がこの費用で家を買えるだろうか!」
簡単に言えば、「生産性のない人を養うために、これだけのお金を費やす位なら、殺した方が良い」という、戦慄する主張である。それが、「安楽死」「治療可能性がない」などと、医学のフレーズで装飾されて、さも専門家が決めたのだから仕方ない、とばかりに、歯止めが利かずに、虐殺の肯定化へとつながっていった。そして、当初は遺伝病などごくごくわずかな対象者が範囲だったのだが、やがて障害者やアルコール依存者や浮浪者など、「社会に迷惑をかける」存在が抹殺の対象として広がっていく。そして、「ヒトラーが認めたのだから」という錦の御旗の下で、このシステマティックな虐殺に、医師や法律家はごく一部を除いて反対することなく、粛々と従って虐殺に荷担していく。そういう実態が、法や官僚システム、医療への信頼が厚いドイツで、起こったのである。
そして、70年後の日本で起こった、相模原の障害者施設での凄惨な連続殺戮事件。容疑者とされる男は、障害者を不幸な存在だと決めつけ、社会的活動が困難な場合、保護者の同意を得て安楽死させた方がよい、と考えていた。これは、ナチスドイツが行ったことと構造的には同じである。生産性や治療可能性、そして「社会に迷惑をかけないか」とう恣意的基準で人の「価値」を判断し、「あなたにはその価値がない」「そう査定する私には価値がある」と、障害者と自分を分けて考えた上で、自分の「価値」観を絶対化し、自己正当化を図って、人殺しも正当化する、という、身勝手極まりない発想である。他人を殺してはいけない。それは「あかんもんは、あかん」のである。「こういう場合は良いのではないか」という留保を付けると、医学的・法律的理由なんて、どんどん拡大解釈される。それは、人間の理性の限界なのである。だから、「あかんもんは、あかん」と倫理的に基礎付けなければならないのである。
それから、この件に関して、反省を込めて、もう一つ述べておきたい。
僕はヘイトスピーチやヘイトクライムは許さない。ただ、これまでそう公に表明してこなかった。ヘイトスピーチをする団体へのカウンターデモをする人々の存在をツイッターなどで知る度に、「頑張って欲しいな」とは思っていた。でも、自分はカウンターデモには行かなかった。また、ヘイトスピーチはダメだ、と、こうやって公言してこなかった。「わざわざ僕ごときが口に出さなくても」と思っていた。
でも、そういう静観・傍観者態度が、ヘイトスピーチへの「消極的荷担」をしてこなかったか? 「これくらい、言っても良いんだ」という人間の醜さ・愚かさの結果論的肯定に繋がってこなかったか? そして、そのようなヘイトに甘い環境が、今回の相模原での障害者への憎悪(ヘイト)に基づく大量殺戮(クライム)へと導かれなかったか。
それは、例えば都知事時代に「ああいう人って、人格あるのかね?」と発言した石原慎太郎氏のような、常に差別発言を繰り返す人を、放置してきたこともつながる。「有名人や政治家が言っているんだから、これくらい言っても大丈夫だ」というのが、日本社会の暗黙のルールになっていたのではないか? そして、それを許容し、そういうヘイトに甘い社会を作っていたのは、他ならぬ僕であり、あなたではないか? すると、今回の犯罪の土壌を作ってしまったことに、僕自身が全く無関係と言えるだろうか? そういう問いである。
僕は、「社会を変える前に、まず自分自身が変わる」ということを、自分の原則にしている。
今回の凄惨な事件を繰り返さないために、まず僕に出来ることは何か。それは、こういう考えを整理して伝えると共に、「あかんもんは、あかん」と繰り返し言い続けることだ。「言わずもがな」の世界ではない。ダメなモノはダメだと伝え続けないと、いつしかズルズルと、ダメなモノが許容され、このような打ちひしがれるような事件に繋がる。ヘイトスピーチやヘイトクライムは絶対許してはならない。それが、日本社会が変わるための、原点として求められていると僕は思うし、ヘイトクライムやヘイトスピーチを僕は絶対許さない。改めて、ここに宣言しておく。
「手段の自己目的化」を超えるために
職場で同僚と、大学の自己点検評価に代表される数値による評価の問題をおしゃべりしていたら、それを小耳に挟んだ科学哲学がご専門の森幸也先生から、「教育効果におけるエヴィデンス主義・実証主義の限界」という論考を頂いた。この論考がめちゃくちゃ面白かったので、ご紹介してみたい。森先生は、大学の授業の評価に関して、次の四つの項目に分けて整理している。