見誤らないために

 

最近とみに考えていること、それは自分がやっていることの、相対的位置づけ、である。

「ある事柄の『意味』は、常に、より包括的なコンテクスト、外側のコンテクストへの参照を前提にしている。それに対して、『情報』は、そうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。オタクは、自らが関心を向ける情報的な差異に関して、それをより包括的なコンテクストに位置づけて、その重要性を説明することができないのである。」(大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、p87-88)

「より包括的なコンテクスト」への「参照を前提」にしているのが、確かに研究の大前提である。だが、研究者がタコツボ化(=オタク化)されて久しい。自分がおもろい、と思っていること、問題や、と怒っていること、そういった感情的な「情報」を「意味」のあるまとまりに束ねて、「より包括的なコンテクスト」への「参照」の中で論じる。これが、研究の醍醐味のはずだ。だが、「意味」のあるまとまりに束ね損ねていたり、あるいは、「より包括的なコンテクスト」への「参照」なき、内輪の議論に終始している場合も少なくない。自家中毒的な症状を示している文章が、あふれている。そして、自分もそういう部類に入っているとしたら、福祉オタク、なのか

「真実は細部に宿る」という箴言を、一方では信じている。しかし、「より包括的なコンテクスト」への「参照」なく、細部に「のみ」拘泥することは、結局足下すくわれる、というか、本質を捉えきれず、事態を矮小化したり、あるいは構造的問題を隠蔽するのに荷担することにも繋がりうるかもしれない。「外側のコンテクスト」で何が言われているのか、それと「参照」する(=結びつける)なかで、この目の前で生起している時代をどのように位置づけることができるか。こういう視点を持たない限り、日々の生々流転する現象に必死に対応し続けた(=その細部には最大限のパフォーマンスで参画した)結果として、気がつけば、大きな失敗に至る可能性もある。大局観、という言葉が、頭の中に点滅している。

福祉という現場は、一方で目の前にいる人の生活そのものと直結しているリアリティを持つ。「この方の安心・安全がどう護れるのか」という抜き差しならぬ問いの前に常に置かれている。その一方で、その首尾範囲や条件設定などは、常に政治的・財政的パワーポリティクスの中で揺れ動くものである。今日の常識的議論の前提は、その常識を支える主義・人間観などに色濃く反映されているが、それは所与の現実だけでなく、揺れ動くものである。介護保険制定時に、あれほど「権利としての福祉の確立」が叫ばれたのに、その数年後に「財政破綻」の基に介護給付や労働者賃金の圧縮化に向かったのも、揺れ動く現実の反映の表れである。揺れ動く現実の表層的な情報に一喜一憂することなく、でもその核心をたぐりながら、抜き差しならぬ問いにどうこの現場で取り組めるか、とりあえずの解を出せるか、が問われている。

そして、それを研究者として外部から批判するのか、また、実践者として内部にコミットするのか、もまた問われるところだ。御用学者に陥るリスクは、常にある。だが、現実を見据えない理想論を言っていても、何も変わらない。抜き差しならぬ問いを前にして、変えるべきではない目的と、柔軟になるべき方法論の混同・誤解の危険性は常につきまとう。それとどう対峙しながら、歩みを進めるか。そのためにこそ、「より包括的なコンテクスト」への「参照」が絶対不可欠なのだ。

呪詛より祝福

 

甲府駅前のガラガラの喫茶店、洋楽ポップスを聴きながら、ぼんやりカプチーノなんぞ頂いている。

最近にない、エアポケットのような「あまりもの」の時間と空間の余裕。なんのことはない、今朝の大雨で、乗るはずだった身延線の特急電車が運休になったのだ。塩尻経由の切符を買い換えても、30分近い待ち時間。まあ、今日は夕方までに大阪の調査現場にたどり着けばいいので、気がせくことなく、のんびりしている。

だが、駅のみどりの窓口では、大声で文句を言うオジサンも。JR職員がルールに基づいてこうなっている、という説明をするのだが、「責任者だせ」と声を張り上げる。こういう展開は、横で見ていても、何だかげんなりする。そういう光景を見ていて思い出したのが、次の内田先生の言葉だ。

『気づかぬうちに私たちの社会には「他人の苦しみをおのれの喜びとする」タイプのマインドが瀰漫しつつある。自分には何の直接的利益もない(どころか、しばしば不利益をもたらす)にもかかわらず、それによって自分以上に苦しむ人がいるなら、その苦しみを自分の「得点」にカウントする風儀がいつのまにか私たちの時代の「ふつう」になってしまった。』(アナザー忙しい週末

まあ、このオジサンの場合、払い戻しのお金を受け取れば直接的利益になるので別だが、おたがいさん、の事態に対して、「自分以上に苦しむ人」を作り出す風潮があるような気がする。「恨み・呪い」が原動力となる行為は、やはり真っ当ではない。そんな真っ当さ、が社会的に薄くなりかけている。こう書くと月並みだが、内田先生は、こんな風にも書いている。

『それは「呪うものは呪われよ」ではない(それでは呪いは増殖するばかりである)。「呪詛には祝福」と人類の黎明期から決まっている。「他者の喜びをおのれの喜びとする」ことである。』(同上)

そう、恨みモードではなく、祝福モードにどれほど持って行けるか、が鍵なのだ。でも、意図せざる事態で恨みたくなる時に「呪詛を祝福」に変えるためには、時間的余裕と器の余裕の両方が必要になる。ここしばらく、時間的余裕がなかったばっかりに、心の器は酷くやさぐれかけていた。やはり、カプチーノなんぞ飲みながら、ゆるゆるする時間を作っておかないと、「呪詛には祝福」とはいかない。精進がたりんなぁ、と思いながら、喫茶店のソファーに深く座り込む朝であった。さて、そろそろあずさに乗るとするか。

タイトな前期

 

今日は某大学の講師控え室からこのスルメを書いている。

この前期だけ、お世話になっている先生がサバティカルでおられないので、その代講として、某大学で学部と大学院の講義を受け持たせて頂いている。2コマの純増というのが、どれほど大変なのか、という想像力を全く持たずに引き受けてしまったのだが、やってみると、めちゃくちゃ大変。大学院は3,4名という超少人数のゼミで、学部は200人。どちらも、もちろん手が抜けない。かといって、本務校がおろそかになっては本末転倒。それに加えてあれやこれやと仕事も降りかかり、結構めろめろな日々である。ま、そういう中でも、多少は記憶に残しておかなければ、と次のようなエッセーを書いてみた。

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ノーマライゼーションを「伝える」、ということ

「なんだか生理的に受け付けない!」

ある大学院生が、そう漏らした。そのつぶやきを聞いて、以前の自分を思い出していた。

私は以前、当誌103号で「ノーマライゼーションの具現化としての施設解体-スウェーデン知的障害者福祉改革のプロセスと施設解体後の現状」と題して、2003年冬から2004年春にかけて行った現地調査の概略を発表させて頂いた。この調査では、2006年に亡くなられた「ノーマライゼーションの育ての父」、ベンクト・ニイリエ氏に直接お話しを伺うチャンスもあり、その時の薫陶を短い原稿の中に入れようと、試行錯誤した思い出がある。

あれから5年後の今年、海外に研究調査にいかれた先生の代役として「ノーマライゼーション」に関する講義と演習を、学部と大学院でそれぞれ1コマずつ引き受けた。5年前はスウェーデンのノーマライゼーション具現化のプロセスや実践への反映を調べ、受容するだけで必死だった私が、今度はご縁あってノーマライゼーションを学生に伝える、という機会に恵まれたのだ。そこで、大学院の演習では、以前からやってみたかった(けど一人では果たすエネルギーが沸かなかった)北欧・北米・日本でのノーマライゼーションに関する文献をかき集め、時系列的に読み進めてみることにした。

実はこれには伏線がある。以前とある教科書に「ノーマライゼーション」の項目を書かせて頂いた。その執筆過程で、ある程度ノーマライゼーションの言説を集め、読み進めていたのだが、その中で、この概念ほど論者や時代によって色んな意味合いが込められているものはない、と感じ始めていた。「脱施設」推進の文脈でも、入所施設の機能充実の文脈でも、同じようにこの言葉が使われている。「この同床異夢状態がどうして起こっているのだろう?」 このときに感じた疑問を解決したくて、ある種の「謎解き」をし始めたのが、先述の大学院の演習である。そして、冒頭のつぶやきは、北欧のノーマライゼーション概念はもともと施設福祉中心的なものであった、と批判していたある論文を読んでのディスカッションの際に出てきた一言である。

実はこのつぶやき、私自身も当該論文を初めて読んだ際に、同じ事を感じていた。大学院生の頃、「ノーマライゼーション=善」という単純な理解をしていた私自身にとって、その論理の運び方に陥穽を見いだせなかったものの、どことなく「なんか違うんじゃないかなぁ」と感じていた。だが、何がどう「違う」のか、はっきりわからなかった。だから、この学生同様、「生理的」レベルの嫌悪感で留まっていた。

だが、今年のゼミで、ある「補助線」を引きながら考えることで、この「生理的」レベルでの処理ではない、新たな視点が見えてきた。その「補助線」こそ、社会学の古典的名著でもあるE・ゴッフマンの「アサイラム」である。

(以下は『季刊 福祉労働119号』現代書館、をご参照くださいませ)
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あと2回となったが、ノーマライゼーションについて学部・大学院の講義で集中的に読み進めていったことは、自分にとって新たな視点の深まりが始まっている。大学1年生の新鮮な目で洗い直してみたときに、ノーマライゼーションがどう伝わっているのか、どう伝えた方がいいのか、ということを再発見する。また、大学院生との議論の中で、自分が誤解していた部分、深く読めなかった部分、こういう視点もあるのではないか、という発見などを頂ける。毎週月曜の1・2限なので、5時52分甲府発の普通電車に乗っていく生活は相当きついのだが、こういう発見やら学びがあるのなら、何とか耐えられる、という気もする。ま、今回限りの、ということもある(有限という)気安さもあるのだが。

とはいえ、月曜日に東京方面(といっても埼玉なんですけど)に来ていることが某方面にバレてしまい、その後夕方からの研究会になる日々が多い。今日もその日程になっている。すると、だいたい18時から議論が始まるので、終わるのが早くて21時、遅くて22時。で、新宿23時の「かいじ」に乗って、甲府に着くのは24時42分。明日の朝は本務校で1限なので・・・。というグロッキーな生活なのです。しかも、昨日から明日まで、3連続で東京の仕事もある。行ったり来たり、は身体に応えるのだが・・・そんな愚痴を書く前に、明日の研究会の課題読書はまだ4分の1しか読めていない。ここに来て、ようやく真面目に勉強している遅咲き男であった。

そうなんかなぁ

 

山梨は実りの季節が到来し始めた。少し前はサクランボ、今はトウモロコシ、そして来週くらいから桃のシーズンになりはじめる。そして、有り難いことに、「跳ねもの」(=規格外品)を頂くチャンスも少なくない。今日はいつもお世話になっているTさんが、トウモロコシを持ってきて下さった。関西在住時は高級品のイメージがあったのだが、こっちでは安いので、毎日もろこし三昧。旬なものは、ほんとにうまい。

で、今日は少しゆっくり出来たが、先週も神経がびりびりするほど、忙しい日々だった。というのも、とある会合で虐待防止法に関するプレゼンを急に頼まれたからだ。権利擁護と虐待防止というのは、共通している要素がある。どちらも、起こってしまった権利侵害や虐待に対してどう対応するか、という事後救済側面が強いのであるが、本当にそれらの事案に向き合うのであれば、事後救済だけではなダメで、いかに事前予防をするか、が鍵である、という点だ。虐待や権利侵害の芽をどう摘むのか、社会がどうそれに関われるのか、がポイントとなってくる。

そう考えた時、我が日本社会は最近どうだろう? 事前予防型社会といえるだろうか? 起こってしまったことに対応し、それを個人の問題と極小化して、その事後対応に終始している、とは言えないだろうか。そして、そういう個人モデルの事後救済型に終始した社会においては、次のような発言が論理的帰結として導き出されがちだ。

「『個人責任の時代』の到来です。これから十年以内に、これまでの政府・社会・会社の保護が薄れる代わりに、個人一人ひとりの責任が重要となる時代が来るということです。もちろん、そうだからこそ、今、ビジネス書がこれまでになく、よく売れているのでしょう。個人一人ひとりがサバイバルをかけているわけです。」(勝間和代『ビジネス頭を創る7つのフレームワーク力』ディスカヴァー・トウェンティーワン、p50)

本の売り上げの一部を途上国の自立支援プログラムに使おう、という志ある著者でも、日本社会の分析に関しては、「個人責任の時代」と言い切る。この部分に、単純に「そうなんかなぁ」という違和感を感じるのだ。政府や社会の保護が薄れそうだからこそ、どうしたらそういうセーフティネットを張り替えたり、現代版の強化をすることが可能か、を考えるのも、事前予防として大事なのではないか。それを「個人一人ひとりの責任」に矮小化することは、まさに事後救済的発想ではないか。で、個人がリスクヘッジするために、他から「一抜けた」するために、こういうビジネス書が出ているとしたら、何というか、浅ましいような気もする。

読み手に誤解を招かないように言うと、儲けることが悪い、と言っているのではない。ただ、儲け「のみ」に専心して「個人責任」を強調することは、たまたまその闘いで不運にも「負け組」になった人にとっては、取り返しのつかない事態になる可能性がある、ということだ。「政府・社会・会社の保護が薄れる」とういことは、その中で一部の強者は勝てるかもしれないが、脱落していく可能性がある弱者もまた、生まれる、ということだ。それが自由主義社会だから「しかたない」のか。あるいは、そういう社会での落ちこぼれもサポート出来るような「政府・社会・会社の保護」もある程度必要と考えるか。

自分だけが一攫千金出来る(=ということは他の人の不幸を甘い蜜にする)という社会に対しては、やはり「そうなんかなぁ」という違和感を感じてしまう。東京のような都会では無理かも知れないが、山梨ではとうもろこしをもらったり、お返ししたり、というお顔の見える関係がまだ残っている。そういうお顔の見える関係、の延長線上にある、「助け合い」とか「連帯」とかが、都市部であっても大切ではないか、と未だに古くさいことを考えている週末であった。

規範を超える事実とは?

 

久しぶりに風邪を引いてダウン。
ここしばらく相当気を張りつめていた日々が続いた後だったので、身体がギアチェンジを求めているようだ。鼻づまりに悪寒がすれば、強制的にローギアに入れ替えざるを得ない。それでも金曜は冷や汗をかき、喉をからしながら日中の集まりや講演だけは何とかこなす。その後の夜の会合やら、土曜の予定は全部お断りし、寝込む、ねこむ

こういう時こそ、安静が一番、を理由に読みかけで放ったらかしだった本を最後まで読み終えるチャンスでもある。

「ひとつの王国の統一性は、それと矛盾する存在の切りはなしを前提として保たれている。それはしばしば事実を犠牲とした規範性の維持によって成し遂げられる。人民はたとえいかなる事実であれ、それが王国の規範に触れるかぎりそれを無視しなくてはならない。このようなことがあまりにもつづくと、無視された事実はだんだんと力をもち、ついには王国を倒すほどのエネルギーを貯えてくる危険性を持っている。このようなとき、いちはやく真実に気づき真実を告げる役割を道化はになっている。しかし、それは危険きわまりないことである。」(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫、190-191

王国だけでなく、あるルールの中で統制されている場は、「事実を犠牲とした規範性の維持」で動いている。そして、「無視された事実」の害や影響が少ない限りにおいて、規範性の維持>事実、という図式は変わらないでいる。だが、「王国を倒すほどのエネルギーを貯えて」しまう前に、その「事実」と向き合い、ガス抜きであれ根本的変容であれ、何らかの対応をしないと、規範性の維持は事実を前に崩壊してしまう。旧ソ連の崩壊であれ、銀行や証券会社の倒産、自治体の破産なども、同じ系譜だ。

だが、昨今多くの場面で「道化」がもたらしてくる新しい事実に、そのまま肯定的評価を与えていいのかどうか、もよくわからない。

「2001年4月。ブッシュ政権の第一予算管理局長であるミッチ・ダニエルは連邦予算審議会のテーブルにおいてこう発言した。『我々政府の仕事とは、国民にサービスを提供することではなく、効率よく金が回るようなシステムを作り上げることだ』」(堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』岩波新書、41

この本では、かの「王国」が重んじる統一性を保つ規範として「効率よく金が回るようなシステム」がこの10年近く採用されてきたこと。その結果、「事実を犠牲とした規範性の維持によって成し遂げられる」ゆえの、犠牲となった事実について、サプライムローンやハリケーンの被害者だけでなく、イラク戦争に従事する米軍や関連民間会社にも、その犠牲者が送り込まれている現実を、フットワークのよい取材で明らかにしている。流れが一面的に見える部分もあるが、王国の規範的な流れと対極をなす動きを指摘するためには、これくらいの「偏り」が必要なのかもしれない。

福祉国家から民営化へと大きく軸が動いてきたのは、確かに官僚制などの制度疲労である。だからといって、新自由主義のみが、唯一の解ではない、とこれも少なからぬ人々が気付き始めている。だが、ではそうではない「解」を、どの「道化」が出してくれるのか。このあたりが、謎のままだ。おそらく色んな政治家や学者は、それぞれの「解」を差し出しているのだろう。でも、どの解答案も「王国を倒すほどのエネルギー」とは何か、の本質をつかめていない。僕にしてもしかり。そして、その本質への近似性が、現在の所一番説得力があると思われている解が「新自由主義的」なるものなのかもしれない。だが、これだって、多くの事実を犠牲にしている、というのは、先のアメリカのルポを見てもわかるところ。ということは、それ以外の何か、がどう出てくるのか、が今、見えない、という混迷の中にいるのだろう。

とまあ、文章のまとまりをどうつけてよいのか、混迷の中にいるうちに、今日はお仕事に出かけなければならない時間。鼻はまだムズムズするが、スーツに着替えて、出かけるとするか。

「失望とフラストレーション」で終わらないために

 

「多くの人は、自分がどんな信念をもっているかにすら気付いていない。したがって、その信念を理解しようとしたり、修正しようとしたりする機会はあまりない。他人への接し方に関して、自分の信念がどう影響しているのだろうか? その点がわかっていないと、自分とは違った考え方や行動を受け入れるのは難しいだろう。(略)
私とあなたがお互いの信念にきづかなければ、それぞれが相手を厄介者扱いする。反対の考え方を持っているわけだから、相手の考えを聞くのは骨の折れる作業になる。お互いを侮辱し合うことにもなりかねない。互いにうまくやっていくのは至難の業だ。
このように、自分の考えを持っていると、相手に何らかの行動を期待してしまう。そして、相手も別の考えに基づいて、別の行動をこちらに期待する。信じるところが違えば、お互いの期待は成就せず、失望とフラストレーションだけが残る。一方、お互いに相手の考えを理解しようと努めるなら、性急に決めつけることなく相手の主張に耳を傾けられる。」(マデリン・バーレイ・アレン『ビジネスマンの「聞く技術」』ダイヤモンド社、63-64

ここ最近、幾つかの〆切やら、新しい展開やらの真っ直中にあって、なかなかブログの更新が出来ない。もう少し長めに書きたいネタも二つほどあって、家のデスクの前に置いてあるのだが、その時間がとれない。今日も、今日が〆切の原稿の詰めの段階で、長々書いている余裕はないのだが、でも、最近読み返しているこの本の、「自分がどんな信念をもっているかにすら気付いていない」という部分は、まさに僕自身に当てはまる。今、幾つかの状況で「失望とフラストレーション」が生じている。何でだろう、と、困惑している時に、実はパートナーに同じ事を言われた。「みんなあんたのように考えている訳ではないよ」。そういわれてみて、ハタと気付いたのだ。そうか、僕は僕の「信念」を前提に話しているのだ、と。

その際、「信じるところが違」うという事実に気付いていなければ、「自分とは違った考え方や行動」に出逢った時に、「相手を厄介者扱い」にしてしまう可能性がある。すると、結果として「お互いの期待は成就せず」、となるのだ。幾つかの暗礁に乗り上げかけている課題は、おそらくこの「私とあなたがお互いの信念にきづかな」いことが原因になっているようだ。で、それを変えるために、「だからあなたがわかっていない」と言ってしまうのは、全くの悪循環。そう、僕が気付いたのなら、僕から変わる必要があるのだ。

正直、「相手も別の考えに基づいて、別の行動をこちらに期待する」状況にあって、「相手の考えを聞くのは骨の折れる作業」である。それは、単に話を聞くのが面倒だ、というのではなくて、異質な何かと、自分の信念とは違う何かと向き合うことが、イコール自分自身のゆがみや偏りと直に向き合うことになるからだ。つまり、「反対の考え方」を直視する事から、反射的に自分の考えの枠組み、というものが照らされて、しんどいのである。ツーと言えばカーとならない事態だからこそ、対話の困難性の中に、困難をもたらす自分自身の要因をも見出すのだ。そりゃ、人間自分の嫌な部分を見たくない。話が通りやすい人と慣れた会話でお茶を濁す方が楽ちんだ。だからこそ、対話はしんどいのである。

さあ、しんどいその状況下にあって、逃げるか、真正面から向き合うか、が問われている。
でも、どうせなら「失望とフラストレーション」で終わるのは、あまりに面白くない。すると、残されている選択肢は、「性急に決めつけることなく相手の主張に耳を傾け」ることを通じて、「相手の考えを理解しようと努める」しか、ないのだ。何だ、答えは簡単だ。でも、これほど、言うや易し行うは難し、なことはない。

文字の向こうっかわ

 

日曜の研究会で先輩の研究者から、「これ面白いよ」と貸して頂いた一本のビデオ。昨日学生さんに手伝ってもらってDVDにダビングして、その映像をチェックし始めたら、あまりに面白くて最後まで一気に見てしまった。その映像のことを書こうとネットで調べてみたら、何と一部がダウンロード出来るではないか!

Living in the Freedom World: Warren
Personal Stories of Living in the Community by People Who Once Lived in Oklahoma’s Institutions

これは留学経験のない僕でもわかりやすい。なんせ、映像に字幕がついているし、横にはスクリプトまで載っている。最初映像を見た際は、それらが全くなかったけれど、オクラホマの入所施設にかつて住んでいた、そして現在は地域で暮らしている知的障害を持つ人々やその家族が、どんな思いをしていたのか、の変遷が、英語を超えてダイレクトに伝わってくる。

「俺はちえおくれなんて呼ばれたくない。そんな言葉、絶対に使ってほしくない。」
I don’t like to be called retarded. That shouldn’t be used.

予備校時代の恩師の先生が、「タケバタくん、英語を英語として捉えたらあかん。文字の向こうっかわにある、誰かがあなたに何かを伝えたいという思いに添わなあかん」と仰っておられたのを思い出す。その映像の向こう側に、施設で嫌な経験をし、今自由を取り戻した多くの「人」がいて、映像を通じてその大変さや苦労、今の楽しさを僕に語りかけてくれている。英語という「文字の向こうっかわ」とダイレクトに繋がると、字幕がなくとも、なんかじんわりしてくるものがあるのだ。

で、この映像はどこのサイトのものなんだろう、と調べてみると、なんとミネソタ州の発達障害者福祉局。アメリカの発達障害者福祉法は権利法としてすごい、と知識で知っていたけれど、こんな大切な映像もアーカイブで残していて、しかもそれらを通じて多くの人に普及啓発しよう、としているのが凄い。なんてクリックしていくと、面白い映像が出てくるは、出てくるは。とりあえず試しに見てみた次の映像も、やはり15分間釘付けだった。

Person-Centered Thinking: Supporting Self-Determination

パーソン・センタード・プランニング。日本では本人中心計画と言われている、専門家主導ではない新しい支援の考え方である。その訳本をいくつか読んでみても、原著を眺めていても、なんかその本質がしっくりこなかった。だが、上記の映像をみて、その疑念が吹っ飛んだ。自己決定の尊重や、あるいは責任主体として動けるように支援する、といった難しそうなことを、実にわかりやすく解説してくれているのだ。

他にもParallels In Time:A Six-Hour History of Disabilityとか、興味津々の内容がてんこ盛り。ちょうどある報告書の〆切直前で、そんなもん見ている暇ない、と怒られるかも知れないが、実は今まとめているのが、まさに日本における知的障害者の地域生活移行について、当事者たちがどう考えておられるのか、というインタビューデータのまとめ。この作業をする中で出てきた当事者たちの思いと、このアメリカの当事者たちの語りが、本当にパラレルなのだ。そういう、歴史性や普遍性を持つ内容故に、心揺さぶられていたのかもしれない。でも、そろそろ本業に戻らなくっちゃ。

以上、マイブームの報告でした。

議会と福祉

 

5月11日のブログで、大阪の権利擁護に関する府単独の制度が財政再建を理由に廃止になりかけている事を書いた。その最後に、こんな内容で締めくくった。

「では、どうすればいいのか? そのヒントを今日の記念講演の話し手であった野沢さん(毎日新聞)が指し示してくださった。これは非常に示唆に富むのだが・・・そろそろおねむなので、続きはまたあとで。」

で、忘れてしまわないうちに、その示唆に富む話の一つを。

毎日新聞の野沢さんと言えば、「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」を作った立役者のお一人。それに至る波瀾万丈のストーリーは「条例のある街」という魅力的な本の中にぎゅっと詰まっている。詳しくはこの本かあるいはDINFのHPをご一読頂くとして、野沢さんの話を伺っていると、千葉の話と大阪の話が実は構造的に似ているような気がしていた。

千葉の場合、この条例を作ろうとする「知事」と、知事に反対して条例を潰そうとする「議会」、そしてこの条例を何とか通したい「障害者団体」、という構図があった。で、大阪の場合、福祉関連予算をカットしたい「知事」と、その問題に当初はあまり関心のなかった「議会」、そしてこの予算削減を阻止したい「障害者団体」。「知事」のベクトルが逆向きである、という点や、「議会」のコミットメントの違いがあるが、共に都道府県単独の事業(条例なり制度)を創設・廃止しようという局面で、首長の裁量権が問われている、ということには変わりない。そんな感じがしていたので、質疑応答の際、「この構造的な類似点に関連して、大阪はどうしたらいいか、について千葉の取り組みからアドバイスがありますか?」と伺ってみた。すると、次のようなアドバイスが寄せられた。

「千葉では、議会中に議員宛に『やっぱり必要、みんなで作ろう!』という名のニュースレターを作って、頻繁に情報提供をしていた(このニュースレターは大熊由紀子さんのHPで全部読めます)。また県議会議員への戸別訪問だけでなく、県議に影響のある市町村議員へも、協力要請に出かけた。これまで全く議員に接したことのない障害児の父母が、とにかく条例を通したい一心で、全く縁のなかった議員さんに話しかけにいった。これが、県議会での反対の空気を変える大きな原動力になった。だから、大阪でも、府議会議員の全会派、そして市町村議会議員などに、その制度がなぜ重要か、なぜ存続する必要があるか、伝える必要がある。」

このお話は、実に意義深いものであった。障害者福祉に引きつけると、長野の田中県政時代にはじまった県立西駒郷からの地域移行や宮城の浅野県政時代に謳われた「施設解体宣言」など、首長はよくスポットライトがあたるが、その一方、議会議員に光はなかなか当たりにくいし、注目もされにくい。しかし、確かに中高の教科書にも書いてあるように、首長の仕事をチェックするのも、地方議会の大きな役割なのである。知事の政策が障害者福祉に逆機能を示し始めたら、それをチェックし、順機能するように促すのも議会の役割である。実際、大阪でも障害者団体の様々な取り組みも功を奏し、議員レベルでのこの問題に関する関心が増え始めているようだ。地方議会が人気の高い橋下知事にどのようなアプローチをしようとしているのか、実質的なアクションに至れるのか、今後が多いに注目される。

ところで、この議会と福祉に関しては、実は私も少しだけ今後コミットする予定である。実はうちの大学と山梨県の昭和町議会が木曜日、政策提携に調印をした。議会側には議員のスキルアップやコンサルティングを、学生側は「学生議会」などを通じて議会運営を実地で学ぶ、というwin-winの連携である。大学側の提携元である「山梨学院大学ローカル・ガバナンス研究センター」にちょこっと関わりがあり、今年の二年生ゼミの皆さんには昭和町の福祉について足で稼いで調べてもらい、この11月の「学生議会」で質問してもらう予定。議会や議員と首長や町の政策の関わりを、生身で体験してもらおう、と思っている。この際、千葉や大阪の、「首長」と「議会」と「課題を抱えた市民」という構造から、私たちが学べることは少なくない。今度のゼミで、その話もしてみることにしよう。

*追伸:以前このブログでも呼びかけた大阪府の「精神障がい者権利擁護システム事業(精神医療オンブズマン制度)」の廃止案撤回を求める署名が合計1万7022名分集まり、23日、集約団体から大阪府に提出されました。このブログを通じてご協力下さった方がいらしたら、感謝と御礼を申し上げます。
*追伸その2:いつもお世話になっているこのブログの管理人mamnag氏のお陰で、コメント欄が復活しました。スパムコメントが滅茶苦茶あったので、一時全面的にストップしていたのですが、そのデータをサーバーから消して下さったので、何とか復活です。こちらも以後、ごひいきに。

東京と大阪の魅力的な会の告知+α

 

ここ最近、肯定的であれ批判的であれ、制度や法律の激変の「後追い」をしている催しものが多い。それはそれで仕方ないのだが、本当に参加して充実する、オモロイ講演会なりシンポジウムって、やはりその制度の枠組みを超えた部分にある。こないだ紹介したNPO大阪精神医療人権センターのオンブズマン活動の講演会しかり。

で、そんな制度の枠組みに囚われない、本質的な議論や問題提起が聞ける講演会が、何と同じ日に東京と大阪で開催される。僕自身、東京の講演会の主催側なので、大阪の方にいけず、非常に悔しい!!! 

東京の方は、障害のある方が施設から地域に生活を移行させるとはどういうことか、を検証するプロジェクトチームの2年以上の調査研究の報告集会(ちなみに昨年度報告はこちら)。大阪の方は、30年間かけて地域での福祉コミュニティー作りを続けてこられた老舗NPOの記念集会。この激変時期に、改めて市民活動とは何か、まちづくりとは何か、を考え直す絶好のチャンスになりそう。後者に出れず非常に残念なタケバタだが、せめて告知だけは掲載させて頂く。西の人は大阪に、東の人は東京に、でもいいけど、どちらも魅力的なので、東西関係なく、ご関心の向く方に足を運んでくださいませ。(ちなみにこの告知ついでに、一番下に僕自身に関連する告知も

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長野県知的障害者入所施「西駒郷」の地域移行を検証する研究報告会
(テーマ未定、微変更可能性あり)

日時 2008629日(日)12時から17時まで
場所 日本財団ビル大会議室(東京都港区赤坂1丁目22号)

<アクセス>
地下鉄銀座線「虎ノ門駅」3番出口徒歩5
地下鉄銀座線・南北線「溜池山王駅」9番出口徒歩5
地下鉄丸ノ内線・千代田線「国会議事堂前駅」3番出口徒歩6

[
羽田空港から] 駅間所要時間 4050

京浜急行🙁都営地下鉄 浅草線に直通)→新橋→(東京メトロ銀座線)→虎ノ門

東京モノレール🙁浜松町でJRに乗換え)→新橋→(東京メトロ銀座線)→虎ノ門

[JR
東京駅から] 駅間所要時間 7 (東京メトロ丸の内線に乗換え)→国会議事堂前

内容 西駒郷からの地域移行検証研究報告<研究班>
    報告を受けて
     *地域相談支援の立場から
     *建築家の立場から
     *行政の立場から など   
    シンポジウム「西駒郷から街へ出ました!」
     *知的障害者ご本人3
     *コーディネーター 玉木幸則(西宮市・メインストリーム協会)

詳細は近日中にアップ

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「寝屋川市民たすけあいの会30周年記念講演会&シンポジウム」
 
寝屋川市民たすけあいの会は、1978年に「一人一人の人間が尊重され、差別のない社会を目ざし市民自らの手による寝屋川ボランティアビューロー(たすけあいホーム)を拠点として 人と人との交流の場づくり たすけあいのネットワークづくり 市民による福祉のまちづくりを活動の目的として発足しました。それから30年が経過しました。
私たちは、たすけあいホームを拠点として、「支え」「支えられ」の関係を地道に少しずつ積み重ねてきました。しかし、今日、人と人とのつながりの希薄化や地域のつながりの脆弱化の一方、社会福祉のあり方や市民活動のあり方も様変わりしてきています。そんな社会情勢がかわる中で、たすけあいの会としても2001年にNPO法人を設立し、事業を行うようにもなりました。その理念は変わらないものの、時代の流れの中で、形が変わらざるを得ない部分もあるように感じます。
活動をはじめて30年。区切りとして、改めて、たすけあいの会の活動の意味をどこに見出すのか、そしてたすけあいの会がめざしてきたまちづくり=ともに生きる地域づくりのためにどのような考え方や行動が必要なのかをそれぞれの地域で実践をされているみなさんとともに、考えていきたいと思います。

【日時】 平成20年6月29日(日)13:00~16:40
【会場】 寝屋川市立総合センター(中央公民館)2F講堂

(1) 記念講演会
「寝屋川市民たすけあいの会の30年の活動から
地域福祉、市民活動の原点を考える」
上野谷加代子さん(同志社大学教授、寝屋川市民たすけあいの会前代表)

(2) シンポジウム
「多様な市民のたすけあい、暮らしあいをつなぐ
 ともに生きる地域づくりをめざして
《コーディネーター》
守本友美さん(皇學館大学教授・寝屋川市民たすけあいの会運営委員)
《シンポジスト》
佐野章二さん(有限会社ビッグイシュー日本代表)
清水明彦さん(西宮市社会福祉協議会・障害者生活支援グループグループ長)
大谷秀之さん(社会福祉法人ならのは理事長)
冨田昌吾さん(寝屋川市民たすけあいの会)

定 員  400名
参加費  無  料(申し込み不要)
後 援  寝屋川市、寝屋川市社会福祉協議会、大阪ボランティア協会
主 催  寝屋川市民たすけあいの会 (担当:冨田)
572-0061 寝屋川市長栄寺町5-1  

詳細はホームページ内にて

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タケバタの告知
自分のことでお恥ずかしいのですが、最近私も関わらせて頂いた本が4冊ほど発刊されています。

「障害者福祉論 シリーズ・基礎からの社会福祉 4」(ミネルヴァ書房)
編者として関わらせて頂いた一冊。私は障害者福祉の理念!編と、自立支援法の解説、という二つの極の関係のような章を書かせて頂きました。シリーズ名にあるように、わかりやすく書くように、読みやすいように、と心がけたつもりです。

「精神保健福祉論 精神保健福祉士養成テキストブック 4」(ミネルヴァ書房)
いくつかの学校でこの精神保健福祉士の教科書を使った講義をしてみて、どうもしっくりこず、補足プリントを配りまくった覚えがあります。その理由に権利擁護の項目の物足りなさも感じていました。なので、自分も編者として関わらせて頂いたので、その辺の不全感を解消する内容にしたつもりです。国家試験対策でありつつ、既存の教科書とはテイストが違うと思います。

「支援の障害学に向けて」(現代書館)
『3章:「入院患者の声」による捉え直し』で、以前に書いたNPO大阪精神医療人権センターに寄せられる電話相談の内容を分析することから端を発して、なぜ精神医療オンブズマン活動が必要なのか、を分析しております。

「福祉先進国における脱施設化と地域生活支援」(現代書館)
リンクしたのは、今回のために検索していた見つけた好意的な書評。素朴に嬉しいですね。僕は「地域移行と権利擁護」という項目で、スウェーデンやアメリカと比較しながら、日本の地域移行政策に関して、敷地内ホームや退院支援施設の論点も踏まえて書きました。先述の西駒郷の報告書を今書いている途中なのですが、改めて地域生活移行と権利擁護の深い関係を実感しつつあります。

というわけで、一応最近の成果報告もさせて頂きました。

「本歌どり」の効能

 

「真にすぐれた作家はすべての読者に『この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ』という幸福な全能感を贈ってくれる。そのような作家だけが世界性を獲得することができる。『コールサイン』のもっとも初歩的な形態が『本歌取り』である。(略)
あらゆる作品は(音楽であれ文学であれ)、その『先行項』を有している。その先行項をどこまで遡及し、どこまで『祖先』のリストを長いものにすることができるか。読者が作品を享受することで得られる快楽、ひとえにそこにかかっている。」(内田樹「X氏の生活と意見」

先行研究の大切さについて、これほどわかりやすく書いてくれている題材はない。
そう、オリジナリティあふれて、しかもめちゃオモロイ論考って、結構「本歌どり」をしていたりする。「先行項」の「遡及」が多いからこそ、そこから引き出せる学恩も多いし、実りも多い、ということ。

オリジナリティとは、完全に自分だけで作りだした、というものではない。もちろん、そういうスタイルもある。だが、そう自画自賛しているものの大半は、ストックフレーズがあったり、あるいは何らかの元ネタがあるもの。で、それに無自覚に、かつインディペンデントな振りをするより、どうせなら、自分の引き継いだ恩恵に自覚的でありたい。僕自身も、今まで色々まとめる際にオリジナリティばかり着目して、返ってストックフレーズに埋没していた傾向がある。そうではなくて、学恩を徹底的にしゃぶり尽くし、先行研究の良さをなめ尽くす中から、より多くの叡智を引き出すことが可能なのだ。つまり、「本歌どり」に耐えうる偉大な作品から引き出そうとするなら、無限の叡智を引き出すアクセスを確保したことになる。逆に言えば、「本歌どり」に耐えられないクズ作品に関わっていては、無駄になる、ということだ。

そうやって振り返ってみると、僕の回りにも「本歌どり」したくなる作品は少なくない。だが、それらを本気でしゃぶりつくし、「本歌どり」しまくったか、といわれると、心許ない。受け継げるものときちんと引き継いでいるか。今からの作品に「本歌どり」が応用できるか。それらが、自分に試されていると思う。