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サイロを破壊せよ
文化人類学者が新聞記者になれば、先進国での「おかしな振る舞い」をこのように普遍化して描いてみせることが出来る。これが、『サイロエフェクト』を読み進める中で感じたワクワクであり、読後は「僕もこういう仕事が出来ればなぁ」と思いを新たにさせられた。サイロとは、あの牛舎の側にある、干し草を溜めておく塔のこと。日本語で言えば、組織における「タコツボ化」の弊害を説いた本、と言える。
サイダーの話をじっくりうかがう中で、「普段はその存在すら意識しないような自らを形成する文化的パターン」を指摘したり、自分で気付いてもらう支援が大切なのだと思う。その上で、「プロセスやサービスの見方を上下左右にひっくり返してみると、組織のモノの考え方が変わるかもしれない」という体験をしてもらい、そこから、自分たちで創り上げる組織体制や組織改編のお手伝いをしているのかもしれない。僕が呼ばれる時って、何らかの部分で「情報のボトルネックを生み出し、イノベーションを抑制しかねない」状況が生み出されている。だから僕がすべきなのは、下手に空気を読まず、分類システムに順応せず、「上下左右にひっくり返して」、変なものは変と言い続けることなのだと思う。
因果論を超える「対話」
最近、本を読み飛ばす癖が付いてしまった僕にとって、久しぶりに時間を掛けて味読した一冊だった。昨年から僕も話題にしており、精神医療の業界では大きな注目を集めているオープンダイアローグについての体系書の、待望の翻訳。しかも、訳者はACTーKの高木さん達のチームなので、現場のリアリティに基づいた、スッと入ってくる翻訳である。これほど面白くて、味わい深いものがあるだろうか。たとえば、こんなフレーズ。
ら、どのような恐怖や不安を伝えようとしているのか」を、「予断」を持たずに聴く、と姿勢である。これは、全く異なる二つの「構え」である。
発達障害と「まっすぐなキュウリ」
自治会を超えるNPOの可能性
先週、高知県社協が主催のイベントで講演をさせて頂いた。せっかく高知に伺うのだから、とあったかふれあいセンターを視察させて頂きたい、というリクエストを出した。その上で、「住民自身がリードするボランティア・NPOなどの活動がどう豊かに発展して行っているのか、街作りと連携出来ているか、の視点でオモロイ活動をしている現場を知りたい」という要望を伝えた所、そこにぴったりの場所があります、と教わり、連れて行って頂いた場所がある。それが、あったかふれあいセンターとかの、である。
さらに、このNPOのおもしろいところは、37地区の自治会では出来なくなった地域活動を、小学校区のNPOとして引き継いでいった、という部分。例えば地区の「たらふく秋祭り」、NPOが主催して行う事で、町外の参加者も含めて5000人以上が参加する大イベントである。また敬老会もNPO主催となると、140名が参加するようになった。この部分は、行政や自治会と比べて、住民のニーズに寄り添いながらも、NPOとして組織的に動くことによる成果を出している、とも言える。さらに、小学校の持っている田んぼの田植えやら稲刈りまでも、地域住民を巻き込みながら支えるだけでなく、小学生達と地元住民が関わる「活性化支援」まで行う。この部分は、PTAが担っていた部分を肩代わりしている。こう考えると、しがらみや義務感が多い自治会活動、現役世代にとって参加にハードルが高いPTA活動を、地元のNPOが引き継ぎ、地区の元気高齢者たちが自分たちの持てる特技や力を発揮して、地域のために面白く貢献しよう、という新たなNPOの一つの形である。
「元気村に関わる事で、『俺の地域』という帰属意識も持てるし、多世代の飲み会で『夢を語り合える』」と田村さん。なるほど、そんな関わり合いを続けたら、勝手に地域活動は活性化されますね。もちろんそこには、元気村をNPOにした庄野さんのリーダーシープや、うまく多くの人を巻き込むプロの森田さんのお人柄、といった属人的要素も多分にあるだろう。でも、この展開なら、自治会活動の展開や新しい総合事業の生活支援コーディネーター事業をどう取り組んで良いのかわからない、他の自治体にも大きなヒントになるのではないか。そんなことを学ばせて頂く訪問だった。
追伸:帰りに直売所で買った文旦と司牡丹も、死ぬほど旨かった(^_^)
「収奪や暴力」の自覚化と超越
リカバリーとは「矛盾を手なずける」こと
ぶあつーい洋書を久しぶりに真面目に読む。
内面化された規範の呪縛
沖縄への植民者、という自覚
遅い正月休みを沖縄で過ごした。2年ぶりである。南国好きで、台湾や香港にも行くが、それ以上に沖縄には何度も通う。そして、いつものように旅先でゆっくり本の世界に浸るのも、僕にとっての休暇の楽しみの一つ。ただ、その本の世界が、自分の実存そのものにグイッと食い込む旅になろうとは、出かける前に想像できなかった。
2015年の三題噺
ここ数年は、一年最後のエントリーはその年を三題噺で振り返る、という題目である。この1年をどう振り返ってみるか、書き始めた段階では一つ目しか浮かんでいないけれど、とにかくそれからスタートしてみよう。
でも、結局精神医療について本質的な議論をするとき、このような既存の精神医療の構造そのものを問い直すか、現状や病棟の中で出来る可能性を探すのか、が二項対立的に分かれて、その溝が深い、ということを、改めて学んだ。これは、前回のブログでも書いたが、原発や辺野古移設を巡る賛成派と反対派と同じくらい、溝が深い、ということも、よく分かった。これらの問題に関して、「意見の対立を避け、お互いもう少し歩み寄って、相手の立場を理解しよう」という形でアプローチすると、どちらかに取り込まれるか、激しい反発を食らうか、という二項対立図式から逃れられないことも見えてきた。
ではどうしたらよいのか。まだ完全なる解法は見えていない。だが、12月にトリエステのバザーリアセミナーで伺ったTrialogueというアプローチが、一つのヒントになるのかもしれない。ダイアローグが二者の対話だとするなら、トライアローグは三者の対話。精神病院で言うなら、本人と家族と支援者が、対等な立場で話をする、ということ。これは治療ではなく、お互いの理解を深める為の対話で、病院でも患者の家でもない、公共の施設などで行う、という。オープンダイアローグが治療関係のパラダイムシフトだとするならば、トライアローグはその前提というか、互いの認識や価値観の違いを認め合う基盤作りだ、と、この考え方を提唱したウィーンの精神科医、アメリングさんは述べていた。