最上の贈り物

「親がそのこのために与えることのできる最上の贈り物は、安心感と自己肯定感である。この二つを授けられた子どもは、多少の逆境に出会おうと、方法を模索しながら、わが道を切り開いていく。苦しい状況におかれても、自分を追い詰めすぎず、希望を保ち、一歩一歩進んでいける。少々生き方が不器用だろうと、世渡りが下手だろうと、自分を信じ、自分が進んでいる道を肯定することができれば、やがてその人は、自分にふさわしい生き方にたどりつく。不器用で飾り気のない純粋さゆえに、その価値はいったん認められれば、揺らぐことはない。」(岡田尊司著、『アスペルガー症候群』、幻冬舎新書、p167-168)

最近周囲から「マイペースですね」と言われる事が多い。また、発達障害の専門家から、タケバタもその傾向がある、と言われたことがある。どんなもんだろう、と思って、改めて基本書をざっと読む。確かに、小さい頃は癇癪を起こしてランドセルを投げていたこともあるし、杓子定規な大人への反発は、今だって強い。小さい頃から、子どもの会話より、親や親戚の話の輪に入ろうとする、言語的にませたガキだった。その一方、注意されても一度では覚えず、何度も何度も注意してもらわないと直らない傾向は、今でも残ってる。お箸の使い方は直らなかったけど、食卓の椅子は、やっと元に戻せるようになった。ある事に集中し始めると、他のことがおろそかになるのは、原稿を書いているときにはしばしばある。妻には、「言わなくても分かる、わけではないので、ちゃんと口に出して伝えてほしい」と、何度も言っている。

これらを指して、「アスペルガー症候群」の傾向がある、のなら、確かにそのカテゴリーに属するのかも、しれない。だが、おかげさまで、それを40代になるまで気づかずに来たし、そのことが苦労の源泉だと感じたこともない。知った今でも、「あぁ、そうねぇ」くらいにしか、思わない。それもこれも、ありがたいことに、「安心感と自己肯定感」という「最上の贈り物」を親から授かったからだ、ということが知れたのが、この本を読んでの最大の成果だった。

小さい頃は、むしろ特別な存在を憧れる子どもだった。自分自身や自分の家族が「ごくふつう」であることへの不満を持って、母親とこんな問いを投げかけた。

「おかあさん、どうして僕やうちの家族はふつうなの?」

それに対する母親の応答は、今思い出してみても、立派である。

「ひろし、ふつうであることって、そんなに簡単にはでけへんことなんやで」

10歳くらいの当時のひろし少年には、「そんな簡単にはでけへん」の意味が、さっぱり分からず、「ふーん」程度の感想しか、抱かなかった。でも、心のどこかで、その母の言葉は残っていた。そして、その価値に気づいたのは、30も越えてからである。「自己肯定感」や「安心感」を子どもに授けることが出来るのは、ありきたりでも、「ふつう」のことでもない。実に、有り難い、ことである、と。そして、それが僕の根底的な自信や存在根拠の揺るぎなさにつながったのだ、と。

我が家はサラリーマン家庭で、週末に王将やマクドナルドに連れていってもらえるのが実に楽しみだった、というリアリティを持つ、平凡な家庭だ。貧乏ではなかったが、裕福でもなかった。しかし、その家庭環境に不満を持つことはなかった。ただ、小学校の高学年あたりから、学校でいじめられる集団に属していたこともあり、根源的な「つまらなさ」を抱えていた。桂川の河川敷をチャリでぶらぶら走っては、「つまんないなぁ」と嘆いていた記憶が蘇る。中学では、政治や経済についてまともに議論してくれる塾長のいる進学塾が自分の居場所となり、進学校の高校に入るも、勉強に興味がわかず、男子校の写真部室で同年代の仲間達とつるむ喜びを覚え、それは予備校時代まで続く。

そんな僕が、ほんまもんの「学ぶ喜び」を見いだしたのは、大学生になってから。暗記や試験勉強のための学び、以外の、「なぜ」「どうして」という問いを深める学問に出会ってから。社会学や哲学、臨床心理学や社会思想史など、ごった煮的に学べる人間科学部という場所は、僕のような人間にとってはうってつけの、問いを深める場であった。大学という空間で初めて、「生き方が不器用だろうと、世渡りが下手だろうと」、そんな他者評価よりも、オモロイ何かを探索する喜びに没頭できはじめた。それが、大学院生で精神医療と出会い、今は大学で地域福祉や福祉政策を教える側になる、原動力にある。

そして、教育や研究という、人と対話しながら、真理を探究する仕事、に出会えたことによって、やっと「自分にふさわしい生き方にたどりつく」ことが出来たのだと思う。だが、そこに辿り着くまでに途中で道を曲げなかったのは、「安心感と自己肯定感」という「最大の贈り物」をもらっていたからだ、と改めて思う。世間の流れに器用に乗ることは出来なかったけれど、自分の中で「おのずから」わき起こる流れのようなものに「みずから」飛び込んでいったからこそ、僕自身の中での自我と自己が、うまく融合しつつあるのかもしれない。

僕が、異常と正常のカテゴリーがすごく気になるのも、あるいは「困難事例」や「問題行動」という形でのラベリングが嫌いなのも、下手をすれば、僕自身が排除の対象になっていたかもしれないし、これからなり得る可能性がある、ということを、肌身で感じているからだと思う。そういう意味では、高校時代に北杜夫のエッセーを読んで精神科医になりたいと夢見るも物理化学が嫌いで断念し、予備校時代に河合隼雄を読んでカウンセラーになりたいと憧れるものの、臨床心理の教官に「きみは向いてない」と言われて挫折した僕も、今、福祉社会学と社会福祉学の「隙間産業」的に精神医療を眺めているのが、ちょうど見つけた「ニッチ」であり、「多少の逆境に出会おうと、方法を模索しながら、わが道を切り開いていく」プロセスだったのと思う。

そういう意味で、改めて託された「最上の贈り物」に思いを馳せるきっかけとなる読書であった。

僕は僕

2017年の初めての投稿。で、ブログシステムも大きく変わった。

このブログの管理人をしてくれている高校の後輩、N氏のお陰で、古いシステムから新しいシステムへのお引っ越しと再構築。700本近い記事を抱え、その中で過去の記事を参照したりしていて、僕の中ではこのブログこそが「外部記憶装置」となっているので、引っ越しでデータが失われたら、文字通り「記憶が失われる」恐怖だった。なので、無事に移行作業が終わって、ほっとしている。20年以上の付き合いが続いているイケメン中年N氏には感謝の言葉がない。

そして今回は、膨大な過去記事が自動で移行されなかったので、「やまなしピアカフェ」のみなさんに、データのチェックと移行の作業をお手伝い頂いた。ずいぶん丁寧な仕事をして下ったお陰で、過去の引用や参照もほぼそのまま移行することが出来た。この「やまなしピアカフェ」は、「ひきこもりを含む社会参加したい人が力を発揮できる環境を、その人と一緒に、考え、探し、つくっていく住民互助グループ」であり、こういう在宅勤務出来る仕事も引き受けておられる。丁寧に仕事をされるので、そういう依頼があれば、ぜひ。

で、過去のブログ記事をランダムにチェックしているうちに見つけたのが、この「私は誰?(増補版)」という記事。2009年5月というから、8年前の記事である。その時は、現場の実践者でありながら、アカデミックスキルを持った上で、中途半端な研究者よりも遙かに深い洞察を続けておられるとみたさんlessorさんのお二方のブログを通じて、自分の立ち位置を問い直していた。そして、最後にこんな弱気な発言を書いている。

「僕自身は、誰なんだ? 「現場のプレイヤーとして研究を深めることに徹する研究者」と対比しても、多少なりとも役立てる何かがあるのか。本当に研究者などと名乗っていいのか。鋭いお二人の分析から、崖っぷちでしがみついている自分自身が見えてくる。」

ああ、8年前はもがいていたのだなぁ、としみじみ思う。

当時は34歳。大学教員になって5年目。やっと研究者という立ち位置に慣れて来たものの、必死になって勉強している途上で、アウトプットも少なく、何をどのように考えてよいのか、書いてよいのか、がわかっていなかった。現場に通い続けながら、色んな人の話を聴きながら、それをどう言語化して良いのかわからなかった。「研究者として」という部分に力が入りすぎていて、それが空回りしていたのかもしれない。思えばブログで700本近い記事をずっと書き続けてきたのは、僕自身がどのように考えてよいか、言語化してよいのかわからなかったので、その練習台として、必死に言葉を探し、思考訓練を重ねてきた、とも言える。博論を書いたのに一冊も単著が出せず、自分自身がどこに向かうのかもわからず、苦しかった時代だと振り返って思う。

では、いまはどうなのか。当時の問いに対する現時点での答は、月並みだけれど「僕は僕」。力んだところで、背伸びしたところで、自分の向いていない「憧れ」には、近づけそうにないし、「自己嫌悪」するだけだ。であれば、自分の持つ特性を活かして、ありのままの自分の強みを活かしながら、仕事をするしかない。そう思い始めている。

そう思えた転機は、やはり『枠組み外しの旅』の執筆だった。

この本を書く中で、自分の立場主義者的要素や前例踏襲主義、常識や業界の専門用語・常識などというものを、徹底的に問い直す作業をしていった。自分自身が囚われているものを疑い、学び直すプロセス。それは、最近よく言われている表現を使えば、unlearnであり、学びほぐし、である。よく言われる守破離の世界観になぞらえるなら、大学院生時代から10年掛けて身につけてきたアカデミックスキルという型を「守」るのに必死だったのが、30代前半まで。先のブログを書いている頃は、ちょうど型は身についたけれど、ではそこからどう自分らしく改善が出来るか、がわからず、試行錯誤していた。型の「破」り方に惑っていた時代だった。

そして、2011年7月から、突如連作をブログに書き始める。これは、311の後に自分の実存が揺さぶられる経験をする中で、文字通り、大げさではなく実存を賭けて、この連作を書き進めた。自分の精神がぶっ壊れてしまいそうな辛さの中で、とにかく書くことで局面を打開するしかない、と思っていた。本当に大切なことを、嘘偽りなく書きたい。その思いだけで、ずっと書き続けるうちに、半年後には論文になり、1年後には単著が出来上がってしまった。そして単著を出してみたら、それまでの社会的役割を気にする自分が「破」れて、別の何かが現れ始めた。

単著を出してからの4年半は、その自分なりに芽生えた何かを追い求めていた日々だったような気がする。講演やアドバイザーとして訪問する現場でも、「もっともらしいことを言おう」なんて力むことはなくなった。自分に何ができるかわからない。でも、その現場に行き、そこで話されることに耳を傾け、その語られた状況や文脈に即して考えて、何となく頭に浮かんだことを伝える。その対話に集中するだけだった。それでも、いくつかの現場では、何度も声を掛けてもらえるのだから、そういうスタンスが、多少なりとも役立つ局面があったのだと思う。

先のlessorさんは、こんな風に書いている。

「研究者が中途半端に現場に入り、現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足するぐらいならば、「現場のものの見方」に擦り寄ろうとするのではなく、徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すことで見えてくるものに期待をかけたほうがずっと有意義だと思う。」

僕は、「徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すこと」はしていない。さりとて、「現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足する」ほど愚かでもない。「「現場のものの見方」に擦り寄」る、というより、「現場のものの見方」をまずは理解しようと努め、その内在的論理に対して、外部者として問いを投げ掛けることによって、「現場で既に自明氏されていること」という暗黙の前提に対して、「それって、変えられないことですか?」「他のやり方は、あり得ませんか?」と、風穴をつくり、別の可能性を考える。そんな仕事をしてきたのだと思う。「研究者としてのものの見方」を押し通す」のではないけれど、現場とは違う第三者が、現場の人びとと対話をする中で、一緒に考え合う、というプロセス。そう、昔からずーっとし続けてきた、産婆術的姿勢である。といか、僕はこれしかできない。

そう思って、外部記憶装置であるこのブログを検索すると、ぴったりの表現が出てきた。

「そういう、ゼミ生の中から「世界が立ち上がる」瞬間に、間主観的な存在としてたたずむ僕。相手の「言葉」が「分かれて」くる瞬間を信じて、待つ僕。こう位置づけると、僕の役割は、助言者や指導者、ではなく、ソクラテスのような「産婆役」である。」(産婆役という”かまえ”

この記事を書いた4年前は、産婆術はゼミですることだ、と思い込んでいたが、結局、僕は現場のアドバイザーであれ、講演であれ、人材育成の場であれ、どこでも「産婆術」している。文章を書くのだって、現場から学んだこと、引用したい書籍、などと「対話」しながら、そこに問いをはさみ、僕なりに問いを深め、共に論を展開して行く、という意味では、産婆術的書き方しか、できない。そう、産婆術を生きているだけ、である。

そういう意味では、8年前の「僕自身は、誰なんだ?」という痛切な問いに、今ならはっきりと答えられる。「僕は僕」でしか、ありえない。僕自身を生きる中で、現場やゼミ生、理論との産婆術を続ける中で、僕なりの対話の中から、何かを産み出していくだけだ、と。これが、30代までの暗中模索を「離」れる第一歩になれたら、よいのだが。

新年早々、長々と書きましたが、今年もよろしくお願いいたします。

2016年の三題噺

毎年恒例の、今年一年を振り返るブログ。とは言っても、今年は何を基軸にしようか、書き始めた今も漠然としている。まあ、書いていれば出てくるだろうと思い、一つ目を繰り出す。

1,年下の仲間たちにエンパワーされた一年

僕自身は、これまでずっとチャレンジャーだと思ってきた。師匠や指導教官、諸先輩の優秀でオモロイ研究者の皆様に鍛えられた。そういう人びとの背中を追いながら、自分も少しでもその領域に近づきたい、と必死になってきた。同世代と群れることはせず、学会発表や論文執筆も、基本的には一匹狼で、必死にキャッチアップするモード、であった。

その風向きが、明らかにこの一年の間で、変化しつつある。

一番大きいのが、岡山や京都で人材育成塾の「校長」をしているから、かもしれない。

「校長」って、ふつう50代のおじさんがやる、あの立ち位置である。

岡山県社協の「無理しない地域づくりの学校」が二期目になり、そこからスピンオフした形で京都府社協でも今年、「コミュニティーソーシャルワーカー実践研究会」をさせてもらった。岡山では、各地域で人作り塾を主催している尾野寛明さんを「教頭」に、岡山県社協の西村さんを「用務員」にした布陣の二年目。尾野さんも西村さんもまだ30代前半だが、めちゃくちゃ面白くて優秀なメンツ。一年目の昨年は、尾野さんと僕が「船頭多くして船山に上る」に近い状態だったけれど、僕は「校長」なんだから、どーんと構えて尾野さんに任せればいいや、とお任せして、好きなことを好きな時にしゃべるだけのモードにしたら、やっと波長が合ってくる。11月末の最終回、長泉寺で尾野さんとセッションをしたときは、「漫才を見ているみたい」という評価を受けるくらいの掛け合いの呼吸が合ってきた。それは、僕自身がやっと、「貪欲に食らいつくチャレンジャー」の構え、を脱ぎ捨てて、年下の仲間たちに下駄を預けることを覚え始めたからかも、しれない。

そんな時期に、京都府社協の才女、北尾・西木ペアに誘われて、地元京都での恩返し的な仕事も今年スタートした。この2人も、僕よりは一世代若い2人だが、めちゃくちゃ優秀で、かつ熱い気持ちを持ち、細やかな心配りも出来るソーシャルワーカー。西村さんといい、北尾さんや西木さんといい、志ある社協若手の人びととチームを組むと、こんなにオモロイ仕事が出来るのだな、という可能性を教わった。今まで、僕の仕事はどちらかと言えば僕自身が企画から全面的にコミットする内容が多かったが、岡山と京都のこの人材育成塾は、主催者たちの本気の想いに寄り添いながら、僕はその場に顔を出し、皆さんとエールを交わしながら、全体をぼんやり眺めていくうちに、うまく展開して、連続講座の間に受講生も発芽し、ドラマがあちこちで展開して行く、という、生まれて初めての経験。

不思議なことに、京都や岡山に行く度に、こちらも元気を分けてもらえる、そんな愉快な場だった。僕は今までは逆で、講演する度に、受講者から「元気を貰いました」と言われるものの、僕自身はグッタリしていた。なので、一体この経験をなんて名付けたら良いのかわからなかったのだが、さっきのタイトルをみて、ふと、気づいた。そう、僕自身がエンパワーされつつあるのだ、と。誰か「のために」行う講演では、僕自身が一方的にエネルギーを出してしまう。でも、誰か「と共に」であれば、僕自身も学ばせてもらえて、元気も貰える。30代はひたすら前者で疲れ果てていたけれど、41歳になって、やっと「と共に」のモードを、自分自身でも実践できるようになってきた。そんな、信頼できる年下の仲間たちに、気づいたら囲まれ始めている。これは、めちゃもうけもんだ。

2,バラバラだったものがつながりつつある

研究の面では、今まで気になっていたことが、急にグッとつながってきた。「問題行動」や「困難事例」、BPSDや強度行動障害、精神症状・・・と言われている「何か」についてである。

僕の研究は、精神病院でのフィールドワークを振り出しに、精神科ソーシャルワーカーへのインタビュー調査や、スウェーデンでのノーマライゼーションについての実態調査、カリフォルニアと大阪での精神医療の権利擁護の比較研究、重症心身障害児者の地域生活支援や西駒郷からの地域移行調査、山梨での自立支援協議会の立ち上げ支援、障がい者制度改革推進会議へのコミット、地域包括ケアシステムの立ち上げ支援、そしてトリエステの脱施設化調査やオープンダイアローグへの関わり・・・など、雑多な領域で色んな事に首を突っ込んできた。「ご専門は?」と聞かれても、「よくわかりません」「特に一つと定められません」と、むにゃむにゃ答える日々だった。

でも、こないだ大坂精神医療人権センターの研究会で、認知症患者とBPSDについて議論をしながら、ふと全てのことがつながってきた。「ああ、僕が気になっているのは、『世間に迷惑を掛けるから』と排除されている人を、どう施設や病院に排除せず、包摂していくか、という主題なんだな」と。かつ「世間に迷惑をかける」行為とは、そのような形でしか表現できない状態に構造的に追い込まれている、という意味で、究極のSOSなんだな、と。こう考えると、いろんなことが串刺しで繋がってくる。

ゴミ屋敷の主、徘徊や暴力行為をする認知症の人、幻覚や妄想に振り回されている人、頭に壁をぶつける強度行動障害の人・・・。表面的な現象を見ると、バラバラに見える。でも、どれも「世間に迷惑を掛ける」「他者が口で制止しても止まらない」という共通点を持つ。そして、そのような言動ゆえに、これらの人びとは地域の中で暮らせない、と排除される。だが、そういう人びと自身が、そういう言動を喜んでしている訳ではない。不安や孤独、不満や苛立ち、貧困や心身の不調、などが折り重なり、絶望的な状態になる。しかも、それをどう言葉で表現してよいか、わからない。聞いてくれる人もいない。その中で、絶望や諦めの気持ちが大きくなる。その不安や苦しみを、行動の形で表現したのが、「自傷他害」である。あるいは、行動しない、という形で表現するのが、ゴミ屋敷だったり、「無為自閉」と言われる状態である。そして、多くの人はその「状態」をみて、「その人は○○という病状だ」と固定的な理解をして、「わかった気」になる。でも、ご本人は、その「状態」に固定されることが、「理解されていない」と思うからこそ、命がけで反論の行為や表現にでる。すると、「病状」がひどい、というラベルを押される。その悪循環。

ということは、この悪循環の構造や全体像を理解し、その悪循環を鎮め、悪循環が好循環に変化し、本人も周囲の人もハッピーな形に物語が変容するにはどうしたらよいか、を考えるのが、実は支援の醍醐味であり、僕自身が追い求めてきたテーマのひとつだ、ということに、やっと最近気づき始めた。これは、5月に参加したオープンダイアローグのセミナーでも感じたことだし、この秋、精神科の訪問看支援チームであるACTの現場に二カ所ほどお邪魔して、改めて強く感じた事だ。脱施設化を日本で本気で実現するために、今までスウェーデンやアメリカ、イタリアのシステムを、僕自身は調べ続けてきた。だが、システムだけでなく、「悪循環を地域の中で鎮め、好循環に転換させる支援のあり方」を考えることが、脱施設化を本気で実現する為の、大きな鍵なのだな、と気づき始めている。こういう部分で、今までバラバラな現場で考え続けてきたことが、やっと一つの形として、言語化できはじめている。

3,いろんな意味で「本厄」でした

日本では、男子の41歳は「本厄」とされている。「前厄」の昨年、妻に山梨の地場産業のショップ「かいてらす」で、翡翠の数珠をプレゼントして貰った。山梨は宝石の加工業が日本一でもあり、うちの近所にも宝石加工関連の会社が沢山ある。

そういえば、うちの父親が「本厄」だった年には、滋賀の立木山に毎月お参りに出かけていた。僕はドライブがてらに休日、弟と3人、時には母も一緒に4人で立木山に行くのが好きで、帰りにMドナルドでお昼ご飯を食べるのも含めて、一大イベントだった。でも、そんな父も、確か厄年の時期に十二指腸潰瘍で入院した。暮れの時期に北野天満宮そばの病院に入院していたので、お見舞いついでに12月25日の「終い天神」にでかけた事を思い出す。あれから30年たった。

数珠を毎日つけていると、折に触れて「本厄」だ、と思い出す。で、そのことの意味を考えていたのだが、41歳というのは、仕事に脂がのり出すのと、体力がついていかなくなる(衰え始める)、その均衡点が崩れる時期なのだな、とよくわかった。先の二つの噺で書いたように、最近いろんな学びや気づきが多く、仕事の面では実に充実している。ありがたいことに、いろんな領域からの講演や原稿依頼も、増えてきた。放っておけば、忙しさはドンドン加速していく。その一方、体力は着実に落ちはじめている。特に、仕事続きで、合気道の稽古やランニングが出来ないと、体重が増え、身体の切れも失われていく。だからといって、以前なら、出張帰りでそのまま合気道の稽古に行くことも出来たのだが、今ではそんなことをしたら身体が悲鳴を上げるので、さすがにそこまでの無理が利かない。

そんな折に、今年は何度も、「何を大切にしますか?」「優先順位が高いのは、どれですか?」と、妻にも尋ねてもらい、自問自答をした年だった。そして、そういう自問自答の中で、自分が譲れない軸や一貫性を再定義し、次の10年20年に向けて余裕を持って生きていくための、ギアチェンジの時期。それが「本厄」という年なのだと、改めて感じた。それは、昔からその年齢で来る体力の衰えと、経験の蓄積の均衡点の崩れと反比例の始まりに際して、「人生の正午」を超えて、「午後」をどう豊かに成熟していくのか、を自問自答し、次のステップに歩み出すための、必要不可欠な「階段の踊り場」の時期なのだと、本厄の一年を過ごして、やっとわかった。僕は、経験してみて、やっとその意味を理解できるタイプなので、いつものことだが。

自分の中では、今年はいろんな不全感や、未達成なモヤモヤ感が引きずり続けた。もっと勉強したい、もっと学びを深めたい、と思いながら、現実的な制約も大きくて、フェードアウトすることもあった。この20年は、体力に任せてがむしゃらに突っ走ってきたが、どうもそれでは対応出来ない局面があり、どうもそれとは違う立ち位置の方がスーッとうまくいくことは、一つ目の話題で書いたとおりである。ということは、次の20年は、がむしゃらモードではなく、少し腰を落ち着けて、取捨選択した上で、一貫性と柔軟性をもちながら、もちろん前提としてオモロく楽しみながら、出来る事を積み重ねていくのだな、と理解し始めている。そういう意味で、やっと「大人」の「成長」や「成熟」とはなんたるか、が、朧気ながら見え始めたのが「本厄」というプロセスなのかもしれない。(まだ「成熟」とは言い切れないけれど)

 

で、実はこの3つ以外にも、大きな変化のプロセスが始まっているのだが、それはまた、いずれ機会を改めて書くとしよう。

この一年も、お世話になりました。

みなさま、良い年をお迎え下さいませ。

たけばたひろし

自分の「魔法」を取り戻す

寝屋川たすけあいの会の機関誌「つなぐ」に、ずっと1125字で連載させて頂いている。こないだ掲載された文章は、最近考えている「魔法」について。ブログでも、ご紹介させて頂こうとおもう。
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人は皆、自分独自の「魔法」を持っている。といっても、石を金に変えたり、人を呪い殺す力、ではない。他の人にはない魅力であり、その力を活かすことによって、自分や他人を幸せにすることが出来る「魔法」。みんなを笑わせる、場を和ませる、あの人にはなぜか悩みを打ち明けられる、突破力がある、黙っているけど包容力がある・・・これらは、みな「魔法」である。あなたは、どんな「魔法」を持っていますか?
この「魔法」をもっともうまく使いこなせる存在。それは、乳幼児である。赤ちゃんや小さな子どもがいるだけで場が和む。それは、その子ども達ひとりひとりが持つ「魔法」を、存分に発揮しているからである。まだ言葉を覚えたての頃の子どもが、ハッとするような一言を発する時、大人はそれを偶然のなせる技だと誤解する。だが、実は子どもは意識の制約をかけることなく、自らの持てる「魔法」を使って、場面を転換する言葉を発しているのだ。
そんな魅力的な「魔法」も、周りの顔色をうかがい、空気を読み始める年齢になると、急速に威力を失っていく。人と違っている部分は、馬鹿にされたり、「違うよ」と指摘されたり、時としていじめの対象になる。親や先生から「余計なお節介だ」と叱られ、「子どもは黙っていなさい」と抑圧される中で、「直感・直観で思ったことを口にしてはいけないのだ」と封印してしまうようになる。さらに成長すると、立場や肩書きばかりを気にする大人の振る舞いを真似して、心に生じた「魔法」を「幼稚な発想」と否定し、大人になること=世間に同調すること=立場主義者になること、を目指し、その人の魅力や活き活きさが失われていく・・・。
格差社会の拡大と共に蔓延する生きづらさ。確かに制度政策が改善すべき課題は多い。とはいえ、制度政策から遠い私たちひとりひとりが、この「魔法」の封印に気づき、それを取り戻すことで、生きづらさが減る部分もある、とも思っている。そのために、どうしたらよいのだろうか。
まずは、「おかしいことはおかしい」「変なことは変だ」と口にしてみること。空気を読んで、「どうせ」「仕方ない」という呪いの言葉を自分自身にかけるのは、「魔法」を抑圧するだけだ。
次に、ありのままの自分を認めること。「○○すべき」に囚われず、出来ない・不甲斐ない・自己嫌悪に感じる自分も、そのものとして認めること。これは、自分の持つ魅力=「魔法」を引き出す前提条件となる。
その上で、自分の持つ潜在的な力である「魔法」を信じて、その力を活かす機会を探ること。素の自分の持つ力を素直に受け入れ、再評価することが、大切になってくる。
福祉現場で求められているエンパワメント支援とは、そんなご本人が「魔法」を取り戻す支援なのかもしれない。(続)
寝屋川たすけあいの会機関誌「つなぐ」229号より
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「世間の目や評価」を気にして縮こまっていると、自分の「魔法」が消えてしまう。自分にリミッターを掛けているのは、そのような内面化された「世間の目」なのだと、思う。ここからどれだけ自由になれるのか。それは、創発が可能となり、創造力豊かに活き活きと生きるための、原点なのだと思う。

誰のための、何のための地域福祉?

最近、地域福祉の専門家、とラベルを貼られることもあるし、確かに地域包括ケアシステムに関する編著や文章も書いているので、少し気になることを書いておく。
僕が結果的にラッキーだったこと。それは、地域福祉に関わる前から、精神病院や入所施設の構造的問題と向き合い、「脱施設化」というテーマと向き合っていたこと。「地域で暮らしてはいけない」、と、社会的に排除されている人をどう再び地域に包摂するか。その方法論として、地域福祉と出会ったこと。この順番が、決定的に大切だと、今ならわかる。
「迷惑をかけるから、地域から出て行ってくれ」「親が面倒を見れないなら、精神病院や入所施設しか行き場がない」と第三者に決めつけられ、地域生活から排除され、日本も批准した障害者権利条約19条が差別だと指摘する「特定の生活様式を義務づけられている」状態に長い間おかれている人。それが、社会的入院・入所の根本的問題である。今年の夏に起こった相模原での連続殺傷事件でも、そもそも入所施設に障害者を分ける思想そのものが、排除の論理であり、そこから差別が起こった、と僕自身は考えている。(この点は以前、ブログにも書いた)。
つまりは地域社会から排除されてきた人が、どう地域の中で自分らしく生きることが出来るか、をずっと考えてきた。歴史的に辿れば脱施設化とはコミュニティケアへの転換であり、地域の中で障害が重くても、認知症でも、ターミナルの時期でも、暮らし続けられるし、それを支え続ける、というのが施設や精神病院、家族介護者に依存しない地域支援のあり方として模索されてきた。だからこそ、地域福祉で出てくる「困難事例」って、「本人の困難」、ではなく、「その地域や支援者にとっての困難」であり、変わるべきは本人ではなくて地域だ、と思い続けてきた。
でも最近、地域福祉領域で現場と関わったり研修をする中で、どうやら上記の前提が共有されていない、ということに気づき始めた。地域福祉に関わる専門家といわれる人の中にも、「認知症でBPSDが出てきたら、精神病院に入れるしかない」「特別支援学校の卒業後は、みんなと一緒に暮らす入所施設の方がよいのではないか」という発言をする人と、いまだに出会う。僕としては、脱施設化が世界の潮流なのに、どうして「何をいまさら!」なのだが、いまだに!そういう発言に出会うのである。
「○○ならば、施設・病院しかない」という論理の、何が問題なのか。それは、「地域に迷惑をかけない人は地域福祉が支えるけど、地域に迷惑をかける人は入所施設や精神病院へ」、という選別のロジックに、他ならぬ地域福祉に関わりがある人でも染まっていることである。脱施設化、という前提がないと、こういう選別の論理が跋扈する。だが、これは地域福祉にとっては、本末転倒である。
なんのための地域作りであり、誰のための地域福祉か。それは、介護給付費の削減のためでも、ボランティアという「安上がり労働力」の確保のためでもない。どんなに重い障害を持っても、BPSDや強度行動障害、幻聴や妄想などの形で生きる苦悩が最大化していても、地域から排除されない。誰もが地域住民として尊重される。そんな地域を創り上げるために、専門職や行政、地域住民がどのように学び合い、関われるか。地域作りとか地域福祉と言われるものは、この学び合いや関わり合いの中から生まれる相互作用を生み出すプロセスなのだと思う。そして、僕自身は、そういうスタンスで地域作りをしてきた、精神科ソーシャルワーカーから沢山のことを学び、結果的に地域福祉のダイナミズムを学んできた。(「五つのステップ」という学恩
そして、社協も民生委員も地域福祉も、そういう大きなビジョンのための方法論なのだ。方法論は、ビジョンの達成のために、柔軟に変わるべきである。方法論が絶対化や固定化し、自己目的化されてはならない、と、改めて感じる。
そう考えると、社協や民生委員の活動の中には、誰のため、何のため、が見えにくく、方法論が自己目的化してしまった活動が、あるのではないだろうか? 地域包括支援センターや基幹型障害者相談支援センターが、「○○ならば、施設・病院しかない」という選別や排除の論理に手を染めてはいないだろうか? 誰のための、何のための、地域福祉なのか? 今一度、原点に戻って問い直さねばならないと、僕は感じている。

余裕がないのは、さて、どっち?

先日、ACT全国ネットワークという、精神科の訪問医療を進めている全国団体から、ニューズレターの巻頭言のご依頼を頂いた。この原稿をお送りし、既に発刊されているが、マイナな雑誌なので、当ブログにも転載することとする。
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「『余裕のあるほうがないほうに合わせる』のが対人関係の原則である。この定義によれば『治療者』とは『患者』より余裕が大きい人のことで、もし逆だと悲劇である。」(中井久夫『統合失調症をほどく』ラグーナ出版
中井久夫と考える患者シリーズ」と題されたこの本は、中井久夫の名人芸的な統合失調症の読み解きと、そのテキストに触発され、ラグーナ出版という鹿児島の就労A型事業所で働く「考える患者」達が自らの経験を語る、という紙上ダイアローグである。前作の「たどる」も面白かったが、本作の「ほどく」も、実に含蓄の深い言葉のやりとりがなされていた。引用したのは、その中での中井のテキストである。
ぜこのテキストを引用したのか。それは、先日リカバリーフォーラムで出会った奥野信子さんが、ご自身の患者体験について語られた次の言葉と重なったからである。
「診察室で先生は私の話ではなく、私の病気の話だけを聞こうとする」「先生は私の話を聴いてくれないから、私は先生に話を合わせて、先生の聞きたいことだけをしゃべってきた」「治療の前に、まず私の話を聴いてほしかった」
奥野さんは「悲劇」に遭遇してしまった。本来ならば「『治療者』とは『患者』より余裕が大きい人」の「はず」なのに、実際に合わせているのは、治療者ではなく患者の奥野さんの方である。つまり、治療者の方が明らかに「余裕がない」のだ。この奥野さんの経験は、例外的な「悲劇」なのだろうか?
中井久夫は多くの精神病につづく共通の三段階として、「余裕の時期」「無理の時期」「あせりの時期」の過程で整理している。受験勉強や就職、恋愛や過労などで余裕がなくなり、無理をし、空回りしてあせる中で、不眠症状が継続し、やがて発病状態へと至る、というプロセスだ。このプロセスを、先の「治療者」と「患者」の関係に当てはめると、実に恐ろしい「妄想」が浮かんでくる。
「患者」は「私の話を聴いて欲しい」と願っている。でも、治療や支援の場面で出会う「治療者」たちは、「病気のこと=治療者の聞きたいこと」しか聞こうとしない。聴く「余裕」がない。だからこそ、「患者」は諦めて、「治療者に合わせて」きた。つまり、「患者」は「治療者」より「余裕」をもっている。その一方、「治療者」は何とか目の前の仕事をこなそうと「無理」をしたり、「次の診察(訪問、予定、会議・・・)が迫っているから」と「あせりの時期」に入ってはいないだろうか。そして、そのような「無理」や「あせり」を重ねる中で、「余裕」を失っているのは、「患者」なのだろうか、それとも「治療者」なのだろうか? 全体性や見通しを失っているのは、さて、どっち?
この原稿依頼を受けた際、本号の特集テーマは「病院から地域へ その後は」であると伺った。「その後」に必要なのは、まずは治療チームのリカバリーである、と僕自身は思う。「余裕」なく、「無理」をして、「あせって」いては、良い仕事は出来ない。地域生活支援のはずなのに、気がつけばリスクマネジメントが最優先とされ、患者の管理や隔離、自由の制限が中心となってしまいかねない。現にグループホームが「ミニ施設化」している例は、洋の東西を問わず散見されている。ACTも「ミニ精神病院化」しないか、が常に問われている。
では治療チームが「余裕」を取り戻す為に、何から始めたら良いだろうか。それは、「水平の対話」以前の「垂直の対話」であろう。治療者の聞きたいことではなく、患者の話をきちんと聴く、という「水平の対話」を果たすためには、それ以前に、「自分は一体誰のために、どんな支援をしたいのだろうか?」と内なる自分自身の声と対話する「垂直の対話」が求められている。(詳しくは『オープンダイアローグを実践する』日本評論社の拙稿参照)
あなたは、自分自身の魂の声に蓋をしていませんか? まず、その蓋を外さない限り、自分の声を聴く「余裕」のない人が、他人の声に耳を傾けられるでしょうか?
治療チーム自身のリカバリーとは、「垂直の対話」からこそ、始まるのだと僕は思う。

泥臭く、かつ合理的に動いた経済学者

正直に言うと、鈴木氏の以前の著作をパラパラ捲って、「新自由主義に親和的な人」だと思っていたし、橋下・松井体制への評価も僕のそれと大きく異なる人である。僕自身が信頼できるジャーナリストで、精神医療や貧困について当事者目線で鋭く切り込む読売新聞の原昌平さんが関わっている事を知らなかったら、正直買い求めなかったかも、しれない。むしろ、なぜ原さんが鈴木氏と一緒に仕事をしているのだろうか、という疑問さえ、持っていた。
だが、読み始めると、面白くて一気に読み終えた。確かに彼は「経済合理性」をご自身のドクトリンにするがゆえに、「人権派」と呼ばれる人々への嫌悪感を抱いている事は、よくわかる。でも、その自分自身の主義主張を超えて、「あいりん改革」に文字通り泥臭く取り組み続けた事が、この本を読んでよくわかった。東京からしょっちゅう通い、ドヤ街近くの宿に泊まって、現地の住民や労働組合、支援者や行政関係者と何度も何度も話し合い、飲み交わし、信頼関係を作り、自らが「ハブ」となっていく。そこには、目的を遂行する為には「怒鳴りつける反対派事務所に一人で乗り込む」、という意味での「何だってする」という「経済合理性」があるのだが、その目的が「あいりん地区からの日雇い労働者の排除」ではなく、「あいりん地区に関わるステークホルダーがみな納得する形で街の再生を進めていく」という、非常に高い目的を達成しようとしていた。しかも、見事にそれを実現していく。
彼が阪大の大学院生から助教授になる間、あいりん地区に通い続けたことや、その中で現地の支援者や原さんを含めたあいりん地区に詳しいジャーナリスト・研究者達とつながり続けていたことは、本書を読んで初めて知ったことである。単なる落下傘の「特別顧問」ではなく、現地で温め続けてきたネットワークが前提としてあり、橋下改革の目玉として提示された「西成特区構想」というアドバルーンと見事に結びついて、結果的に彼が特別顧問としてこの問題に3年8ヶ月も関わり続けた、という成果になっていった。
本の中身はすごくオモロイので、是非とも手にとって頂きたいのだが、僕自身がこの本を読みながら、思い出したことを書く。それは、僕が闘いに敗れたことを、かれは成功したんだ、という敬意の眼差しである。
僕は民主党政権時代に内閣府に設置された「障がい者制度改革推進会議」の「総合福祉部会」委員として、障害者自立支援法の廃止と新法の制定に向けた議論に1年半、コミットしていた。そして、2011年8月に、利害関係が複雑に異なる障害者団体が一致団結して「骨格提言」を創り上げるも、翌年2月に見事に厚労省からゼロ回答され、民主党政権もそれに押し切られる、という惨敗の渦中にいた。その事は、以前総括的に書いている。僕自身は、敗因として、①厚労省と全面対決をしたこと、②この議論が障害者団体の枠内に収まり社会的な関心を充分に集めきれなかったこと(東日本大震災の被災とも重なり)、だけでなく、③僕自身や日本社会の認識論的な枠組みの限界があったこと、の3点があると感じていた。そして、②と③に関しては、『枠組み外しの旅』という拙著を書く形で、自分なりに総括した。だが、①については、どうすればよかったのかについて、総括しきれないでいた。それを、鈴木氏は大阪市というフィールドで、乗り越えているのだ。
実は、鈴木氏も国の審議会で、同種の経験をしていたという。彼自身も御用学者ではなかったから、むしろ民主党政権下の審議会では外された、という。その上で、これは僕と認識の共通するところなのだが、審議会はアジェンダ設定や委員選びを誰が握るか、が鍵であり、それを官僚に握られてはいけない、と理解し、実際にこの西成特区の有識者会議でもそれを貫いた、という。ここまでは、障がい者制度改革推進会議と同じ、である。だが、鈴木氏の場合は、その上で、2つの強みを持っていた。一つは、橋下・松井両氏という市と府のトップとのパイプラインがあり、いざという時には直接の対話で突破力としたという点。もう一つは、西成区役所を始めとした行政の職員ともガッツリ関わり、彼ら彼女らの内在的論理を探り、相手のメリット・デメリットや急所を押さえた上で、自らの改革に協力させていった、という点である。これは、ヤワな普通の学者では絶対に出来ない事だ。
そして、この本を読みながら感じたのは、肥大化した官僚機構の硬直性や自己組織化がここまで酷いことになっている、という現実である。首長が号令を掛けたくらいでは、簡単には変わらない。終身雇用を維持する為の最適化戦略をとろうとする官僚システムを動かすには、その内在的論理を知り、その文化が受け入れざるを得ないようなルートを創り上げて行かなければならない。これは民主党政権や総合福祉部会が失敗したことであったが、鈴木氏は、元日銀マンで官僚制機構の内在的論理を知り、かつ「経済合理性」を徹底的に追求していった結果、このハードルも突破していく。この辺りの彼の戦略や、官僚より先にアジェンダ設定をする突破力、そして、あくまでもボトムアップ型まちづくりを進める為に、大声で反対する人も対話集会に受け入れる度胸や度量が、ほんまもんだなぁ、とつくづく感じた。むしろ、そういう戦略と突破力、度胸や度量がない限り、硬直した官僚制機構の逆機能を打破することは出来ないのである。
さらに、この本を読みながら、改めて感じたのは、まちづくりにおけるボトムアップ型の重要性である。大阪市があいりん地区改革を失敗し続けてきたのは、戦略と突破力、度胸や度量に欠けるがゆえに、こそこそと密室で決めて、それを直前になって形式的に住民に説明し、怒鳴られても強行採決的・一方的に決めてしまうがゆえ、だった。つまり、行政内部で根回しをしても、住民との膝詰め談義をしていなかったのだ。一方、反対運動側も、行政との対話の機会がないばかりに、不信感は蔓延しても、それを抗議行動以外の形で昇華させる場が少なかった。鈴木氏が「アゴラ」の形で提供したのは、全てのステークホルダーがお顔の見える関係を作り、本音で議論を出来る空間を作ることであった。これは、大都市であれ、中山間地であれ、まちの再生には必要不可欠な要素である。そして、それをあのあいりん地区で実現させたのである。
海外の大都市のスラム地区の再生の本などを何冊か読んできたが、それと近いことを実際に日本でやることが、想像を絶するタフネスを必要とすることである、というのもよくわかった。そして、彼がハブとなり、あいりん地区に共感する支援者や学者、ジャーナリスト、地域住民などを巻き込みながら、渦を創り上げるなかで、「改革の舞台監督」として、大舞台を展開させていったプロセスを学ぶことができた。僕自身も、いろんな自治体を垣間見る中で、こういう地道な対話の積み重ねの上にある改革の重要性を、ひしひしと感じている。大言壮語するだけでも、悲観するだけでもなく、地に足のついた「抜本改革」を実現するためのヒントを、同書から得ることができた。
その意味では、本書は単なる闘いの記録、を超え、普段はなかなか表に出てこない・内幕が語られない政策形成過程分析のケーススタディーとしても、貴重な一冊であると感じた。

社会をマニコミオから解放する

「施設としての精神病院はなくしても、マニコミオは人々の頭の中にある。マニコミオは、考え方である。単にある具体的な場所ではなく考え方のことである。人々の頭の中や文化の中にある。社会をマニコミオから解放するのは、その考え方を壊す、ということでもある。」
先週の土曜日、大阪で開かれた講演会で、イタリアの社会学者、マリア・グラツィア・ジャンニケッダさんから発せられたメッセージは、僕の心に深く残った。彼女は、1970年代初期からバザーリアに誘われてトリエステで活動し、バザーリアが亡くなった80年代以後は、精神病院の新規入院を禁じた法律180号法をイタリア全土で機能させるための運動に携わってきた。その彼女が、イタリアでこの40年間大切にしてきたことは、「精神医療の近代化」ではなく、「社会をマニコミオから解放する」ことだ、と言い切った後に、彼女が説明したのが、冒頭の部分である。
マニコミオとは、簡単に言えば「狂った人を閉じ込めておく収容所」のことである。それと「精神病院」とはどう違うのか? 「精神病院」とは松沢病院や洛南病院など、固有名を持った一つの病院のことを指す。イタリアでは、こういう単科の精神病院を20世紀のうちに閉鎖した。だが、マニコミオはまだ残っている、という。それは一体どういうことか?
精神病院という箱物がなくなっても、リスクマネジメントや治安の維持、社会防衛の名の下で、精神障害者の自由を制限し、管理や支配下に置く、という考え方は、未だに残っている。これが、「マニコミオは人々の頭の中にある」という彼女の指摘の本質である。「人々の頭の中や文化の中に」はいまだに、何かオカシイ人、社会的に逸脱している(と他人から見なされる)人、社会に迷惑をかけた人や社会的秩序を乱した人は、どこかで管理され、自由を剥奪されても仕方ない、という考え方がこびりついている。
その最大の証拠に、2ヶ月前に起きた相模原での殺傷事件を受けて、厚労省が行った真っ先の「対策」が「措置入院(という強制入院)制度の検証や見直し(という名の強化施策)」であった。犯人の精神鑑定が終わっていない段階で、そもそも犯人が本当に精神疾患を持っていたかもアヤシイとされている段階で、警察の対応についての検証をすることなく、措置入院の強化だけを重点的に検討しているのである。これは、私たち日本社会が根強くマニコミオに囚われて、マニコミオ信仰に呪縛されている事を強く表していると感じている。
そして、この信仰は、実は相模原事件の加害者をも捉えていたのではないか、という「妄想」すら、浮かぶ。
障害者をある能力のある・なしで判断して、生きる価値がある・なしを査定や判断しようとする姿勢。この姿勢こそ、社会の標準的な基準や価値から逸脱している人は、自由を剥奪したり、管理や支配される存在であっても構わない、というマニコミオの思想そのもの、である。その意味では、入所施設、精神病院という場そのものの問題、というよりも、人間の尊厳や価値を奪う事を合理化する、その呪縛的な思考そのものと私たちは闘い、そういうマニコミオへの依存から社会を解放することが、求められている。
では、一体どうしたらよいのであろうか?
僕は、遠回りなように見えても、一人一人が自分自身の生き方を振り返るところから始めるしかない、と思っている。己の中に「マニコミオ」信仰がないか、を問い直す営みである。コミュニケーションがスムーズに行かない人、「空気」を読めない人、自分を傷つけたり他人に害を与える形でしかコミュニケーションが取れない人・・・こういう人を「○○障害者」と一括りにして自分とは別の存在と見なさず、一人の人間としてきちんと出会う、という営みである。
相模原事件の容疑者は、障害者施設の正規職員だったけれど、マニコミオ思想が支配的な入所施設という空間で、おそらくは「一人の人間」として「○○さん」に出会ったのではなく、「ただ介助され、他人から世話を受けるだけの、可動領域の限定された障害者」という「モノ」と出会って来たのであろう。そして、人間的に利用者と出会うための充分なトレーニングを受けることなく支援現場に放り込まれることによって、自分も決まり切った時間で介助を行うだけの、介助マシーン的な「モノ」になってしまった。安直な言い方をすれば、「モノとモノの出会い」、である。そこでは、ユニークな個性や価値を持った、かけがえのない「あなたと私の出会い」が生まれない。すると、モノ化された個人は、その貶められた価値を自ら取り戻す為に、自分より弱い存在を虐殺することで、自らをモノ化した社会に存在証明をしたり、反逆しようと企てたのではないか、という「妄想」が浮かぶ。
でも、こういうことは、絶対にダメだ。あかんもんは、あかん!のである。
マニコミオ信仰にはまることなく、人間が、人間と出会う。それが、今一番求められている。例えば、学校教育の場で、分けられることなく、障害のある子どもとない子どもが、普通に出会えているか? 「発達障害」や「○○障害」とラベルが貼られ、普通学級で集団管理や一括処遇が出来にくいから、と排除されていないか? 標準偏差的な思考に囚われて、ある基準値から外れた人を排除する、という思考は、日本社会の「同調圧力」として強く日本社会を縛り続けているのではないか? その中では、落ちこぼれてはいけない、頑張らなければいけない、世間に適合的でなければならない、という「裏返されたマニコミオ信仰」が強迫観念的にこびりつき、そこにのみ適応しようと必死になってはいないか? そして、適応できない人は、マニコミオ的空間に排除して、社会から見えないように隔離しているのではないか? そういう処罰的な思想でもあるマニコミオ信仰こそ、今の日本社会の「生きづらさ」を生み出す元凶ではないか? この信仰に「そんなの嫌だ!」とNO!を突きつけない限り、私たちの社会は、ますます生きづらく、面白くなく、しんどい社会になるのではないか?
そんな問いを持ち続けている。
今日は相模原事件から2ヶ月後にあたる。参議院会館で開かれた追悼集会に参加して、改めてオカシイものはオカシイ、あかんもんはあかん、と言い続けなければならない、と思いを新たにした。それと同時に、人間と人間が出会い続ける中で、マニコミオ信仰から自由になるために、自分からどう変わっていけるのか、を改めて問い直されたような気がした。僕自身が、心の内なるマニコミオからまず解放される。その上で、社会に蔓延するマニコミオ信仰から自由になるために、こうして文章を書いたり他人に語りかける活動をする中で、「社会をマニコミオから解放する闘い」にコミットし続けたい、そう思った。

向谷地さんへの反論、というよりも

向谷地生良さんといえば、精神医療のみならず障害者福祉の領域では超有名な「べてるの家」の支援者である。僕も当事者研究から多くを学び、毎年のようにゼミ生にも紹介している。師匠大熊一夫にくっついて、何度か浦河を訪問し、いろいろお話を伺い、臨床家としても尊敬している一人である。

その向谷地さんのインタビューを読んでいたら、気になる部分が出てきた。少々長くなるが引用したい。
ーーーーーーーーーーーー
ーオープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見もありますが。
向谷地 それは逆で、全く可能だと思います。
ー現状の日本のシステムでも?
向谷地 この連載第一回で紹介したように、私は今全国3カ所の病院にお邪魔して、長期入院で治療やケアに一番困っている統合失調症の患者さんを紹介してもらって、スタッフといっしょに当事者研究のスタイルで患者さんとミーティングをしているんですけど、2年ほどのかかわりで、3人中2人が退院にこぎつけました。
 そこで思ったのは、その人達は、もちろん病状が悪くて退院できないわけですけど、それ以上に自分の人生に行き詰まっている人たちなんだと。彼らが退院する時にも、幻聴さんや妄想的な気分はそんなに変わっていないんです。むしろ当事者研究で話し合うことで、そういうところをかかえながら生きていこうとする土台ができていった。そんな気がしているんです。
(略)
 こういうふうに、幻聴や気分は変わらなくても大丈夫で退院できる人たちとの出会いって、現場の人間を励ましますよね。だから今の精神科病院の現場にこそ、オープンダイアローグ的なアプローチが求められている気がしますね。
(精神看護19(5)455-456)
ーーーーーーーーーーーー
これを書き写していて、向谷地さんへの反論、というよりも、インタビュアーの「問い」への反論がしたいのだな、と気がついた。
ちなみに、「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見」を東大のセミナーで去年発表したのは、他ならぬ僕である。また「現状の日本のシステム」ではダメだ、と発言したのも、僕である。まず、僕自身の意図を表明した後、それに対しての向谷地さんのリプライを、僕なりに考えてみたい。
まず僕自身が「現状の日本の」「精神科病院をベースにしたシステム」では「オープンダイアローグ」が出来ないと思う根源的な理由。それは、圧倒的なマンパワーおよび基礎教育の違いである。そのことに関して、この5月に東京で開かれたオープンダイアローグのワークショップ時に書いた拙稿では、次のように整理していた。
ーーーーーーーーーーーーー
ケロプダス病院では、30人の病床(見学した時の入院者は20人で病床削減の計画もあり)に39人の看護師が働いています。1:1以上の人手がないと、上記の条件をクリア出来ないのです。あなたの病棟では、どのような人員配置基準で、何人の看護師が働いていますか?
つまり、病棟であろうがなかろうが、対等な人間関係を指向し専門家主導から当事者主体へと生まれ変わるための専門職の覚悟と、不確実な「対話」に柔軟に対応するために十分な人手を確保しトレーニングを積むことが出来る組織改革とが、日本の現場でオープンダイアローグを実践する上で問われていると、私は思います。
(竹端寛「日本の現場でオープンダイアローグを実施するための条件」)
ーーーーーーーーーーーーー
さて、このスタンスを示した上で、向谷地さんの発言を読み解いていきたい。
向谷地さんの仰るように、「長期入院で治療やケアに一番困っている統合失調症の患者さん」は、病状「以上に自分の人生に行き詰まっている人たちなんだ」というのは、僕も全くその通りだと思う。これはトリエステでも言われ続けてきたことである。また、「当事者研究で話し合うことで、そういうところをかかえながら生きていこうとする土台ができていった」ことにより、向谷地さんが関わった「3人中2人が退院にこぎつけ」たことも、頷ける。向谷地さんの実践そのものにケチをつけるつもりはないし、良い仕事をしておられるのだと思う。
ただ、気になるのは、「なぜ、向谷地さんが出かけないと退院できなかったのか?」という問いである。向谷地さんが訪問する以前のその患者さんには、なぜ「治療やケアに一番困っている統合失調症の患者さん」というラベルが貼られていたのか? そのラベルにその病棟のスタッフは疑問を抱かなかったのか? そして、なぜ向谷地それさんだけが、その病院の因習を突破して、「それ以上に自分の人生に行き詰まっている人たち」とラベルを貼り替える事が出来たのか?という問いである。
僕は、ここにこそ日本の「精神科病院をベースにしたシステム」の「まま」ではオープンダイアローグが実現「出来ない」と思う理由が詰まっていると考える。
簡単に言えば、目の前の患者さんに対するモノの見方を変えることなく、単にオープンに話し合いましょう、なんてやっても、患者と家族、支援者の関係性は変わらないのではないか、という問いである。精神科の一般病棟は3:1の基準である。ケロプタス病院の3分の1以下、である。そのような中で、従来の医学モデル的な看護スタイルで「病気や症状を診る」ことを重視している看護スタッフが、病気や症状と直接関係ない(と一見思える)「自分の人生に行き詰まっている」内容を、ちゃんとそのものとしてじっくり聞けているか、という問いである。向谷地さんのような、「治外法権的な外部者」がやってきて、「当事者研究」という触れ込みで介入できたからこそ、やっとその人の「本当の困りごと」が病棟内部であってもみえてきた。それを、「では皆さんもどうぞ病棟でやってください」と言われても、そう簡単に病棟の因習は変わらないのではないか。そう疑っている。
「今の精神科病院の現場にこそ、オープンダイアローグ的なアプローチが求められている」という点については、僕自身も同意する。でも、今の「精神科病院をベースにしたシステムでは出来ない」とも思う。それは、以前のブログにも書いた一言に収斂する。
「本当に精神病院の中でオープンダイアローグをしようとするなら、『その矛盾を社会ネットワーク全体の問題とみた上で、その関係性の不全に踏み込む』なら、精神病院という構造の『矛盾』をも、自由に話すことが出来なければならない。」
僕が「今の精神科病院の現場」にまず求めるのは、「オープンダイアローグ的なアプローチ」を真面目に実現する為の「専門職の覚悟」と「組織改革」である。向谷地さんは、浦河の地で、何十年とかけてその二つを実践してきた。それが、今の病棟現場にできるのだろうか? そこが、最大の疑問である。

「迷惑をかけない」「いい子」の「蓋」

岡本茂樹さんは、刑務所や少年院で長年、心理教育や更生支援をしてきた経験を元に、表面的な「反省」が逆効果になることを示した新書を何冊か出している。昨年亡くなられた彼の遺作『いい子に育てると犯罪者になります』(新潮新書)は、本当に力作だった。

この本は、「問題行動」といわれるものには、その行動に至る理由があり、その理由や行動に駆り立てる内在的論理を分析しない限り、どのように叱ったり、厳罰化したりしても、そのような行動は抑止できない、とハッキリいう。こう書くと、「わがままや逸脱行為に甘い」と思われるかもしれない。でも、それは「急がば回れ」。実は本当に犯罪や問題行動を減らしたい、と思うなら、その行為に至る根本的理由と本人が向き合うのを支援しない限り、そのような行動は減らず、「表面的反省」に終わり、再発を繰り返す可能性が高い、というのである。
それを、タレントの酒井法子さんの事例を元に分析している。彼女が一連の経緯を綴った手記(『贖罪』)を分析しながら、岡本さんはこう指摘している。
「覚醒剤に手を出したのは、『軽い気持ち』とは『安易』とか『自分が弱かった』という理由ではありません。人に素直に頼れなくなって、ストレスをモノ(覚醒剤)で埋め合わせていたからです。」(p166)
つまり、その時の彼女には「薬物が必要だった」(p146)と指摘している。だが、彼女は薬物が「必要だった」とは語らず、「自分は弱い人間だった」と語る。一方、岡本さんは、酒井さんの内在的論理を次のように読み解く。
「酒井さんの『自分の弱さや悩みをどんなときも一切見せない』姿は、周囲の人からは『芯の強さ』と映るでしょう。しかしこれはまったくの誤りです。酒井さんの内面を考えれば、『芯は脆い』と言うべきです。本当に『芯が強くなる』ための条件は、誰かに心を開いて悩みや苦しみを話して、人からエネルギー(=愛情)をもらうことです。そうして心はたくましくなる(=芯は強くなる)のです。」(p149-150)
酒井さんがどうして「弱みや悩みをどんなときも一切見せない」のか。それは、岡本さんによれば、彼女の幼少期の経験による、という。出生後に両親が離婚し、親戚に育てられ、7歳との時に「実の子ではない」「父が引き取ると言っている」という事実を突きつけられ、その後、父と2番目の母、3番目の母と暮らしてきた、という辛い幼少経験を持つ酒井さん。彼女は父に一度見捨てられた辛さや苦しさ、怒りを素直に表現せず、「良い子」として父や義母に認められたい、受け入れられたい、と必死になってきたという。そして、岡本さんによれば、犯罪者の中にはこのような幼少期の別離や過酷な体験により、「いい子」を必死で演じたり、逆に不良行動をしていくパターンが極めて多い、という。
岡本さんは、このような幼少期を持つ子どもが全て犯罪者になる、と言っている訳ではない。だが、このように「弱みを見せない」「迷惑をかけない」「いい子」が陥りがちな、次の特性が問題だ、と指摘する。
「酒井さんには『~ねばならない』という完全主義的な価値観があるのが分かります。『~ねばならない』という価値観は自分自身を追い詰める危険性があります。こうした考え方を貫こうとすると、どこかで自分に無理をすることになるので、生きづらさやストレスをもたらします。」
「大切なことは、『いい大人』を子どもに見せるように努めることよりも、親である酒井さんが息子に『ありのままの自分』を見せることです。そうすれば、子どもも『ありのままの自分』でいられます。」(p168)
そう、酒井さんも「ありのままの自分」を素直に出せず、「良い子」を演じてきたのである。その中で、数多くの「~ねばならない」を必死に演じ、その努力の甲斐があり、日本のみならずアジア圏にも人気が出るスターになった。だが、彼女は人に頼ることが出来ない生き方を、「芯が強い」と誤解したがゆえに、ストレスや苦しさも自分でため込み、薬物が「必要」になるほど、「芯が脆い」状態に追い込まれていったのだ。そして、こういう構造は、多くの犯罪者に共通している、という。つまり、「人に迷惑をかけない」「弱みをみせない」「いい子」だからこそ、その論理的帰結として、ストレスをため込み、自分を傷つけたり、他人に害を与える可能性がある、というのである。
では、どうすればよいのか。
岡本さんは、「ありのままの自分」を素直に認めることだ、という。そして子育てにおいては、子どもと親の相互関係のなかで、まずは親から変わるべきだ、という。
「テストで悪い点を取ってもOK、試合で負けてもOK、勉強でも運動でもお兄ちゃんに負けてもOKと伝える事で、子どもは『自分は今の自分でいいい』と思えます。そして、子どもが『自分は今の自分でいい』と思ったときこそ、自分から『頑張ろう』という気持ちを持てるのです。」(p215)
これは「ありのままの子ども」を、そのものとして受け止めること。親の価値観に当てはまった時にのみ褒める、という「条件付きの愛」では、子どもに我慢を強いたり、あるいは親の顔色をうかがう子どもに育ててしまう、という。だからこそ、「今の自分でいい」というメッセージを大人が子どもに伝えることで、子どもは安心して育ち、「頑張ろうという気持ち」が持てるという。
では、酒井さんのような事件を起こしてしまった人は、どのようにして回復していくのか。岡本さんは、こう語る。
「(自分は出生時に親に捨てられたという:引用者注)悲しい現実を、わずか7歳だった少女は『一人で抱え込』まざるを得なかったのでしょう。本当はつらいので避けて通りたいことですが、事件を起こした酒井さんが向き合わないといけないのは、このときに封じ込めた否定的感情なのです。」(p152)
「心の傷は、身体の傷と同じで、外に出さない限り消えることはありません。結局、否定的感情を出せないまま出所して、彼らの半数はまた何かのトラブルでカッとなって大きな事件を起こしてしまうのです。」(p163)
「酒井法子さんは、本当はものすごく傷ついていたのです。それもわずか7歳の時に。それをきっかけに人に甘えられなくなった(頼れなくなった)酒井さんは否定的感情をどんどん抑圧させ、長い時間をかけて傷は深くなっていきました。大きくなった心の傷は今も癒やされているとは思えません。」(P164)
「ありのままの自分」を承認する。そのためには、まず「ありのままの自分」を出せない原因になっている「否定的感情」を「抑圧」せずに、封印を解く必要がある。しかし「迷惑をかけない」「いい子」にとって、これこそが最も苦しいことである。一人でそれを行うのは、そう簡単ではない。また「弱みを見せることが出来ない」という表面的な「芯の強さ」=実質的な「芯の脆さ」を抱えていると、なおさらそれはしにくい。
でも、本当に更生しようと思うなら、「世間に迷惑をかけた」と謝罪する前に、自分の中での許せない・悔しい・惨めな・辛い「否定的感情」の蓋を開ける必要がある。この蓋をしたまま、表面的に強がることこそ、深尾先生の「蓋」概念そのものである。
「社会でよりよく生きるために、自分の本性に『蓋』をして、獲得された人格を懸命に生きようとする場合、もっとも恐れるのは、自分本来の本性を覗き見ることであろう。自分でも本性の姿を忘れてしまえるほど分厚い『蓋』を構築し、社会の期待する自己を首尾よく演じた場合には、もはや自分自身の本来の魂は、暴力的な発露の機会でもうかがう以外に表出する可能性はまずない。あるいは、それが内側に向かって蓄積されてゆく場合には、身体を蝕み、自己の崩壊を招く。」(『魂の脱植民地化とは何か』深尾葉子著、青灯社、p24)
酒井さんが、「身体を蝕み、自己の崩壊を招く」プロセスとは、「自分の本性に『蓋』をして、獲得された人格を懸命に生きようとする」プロセスそのものだった。だが、それを生真面目に追い求め続けた結果、自分自身の人生が破綻した。ゆえに、その後彼女が同じようにまた「本姓に蓋」をしたまま「いい子」を演じると、元の木阿弥になる。
彼女にとっては辛いだろうが、本当に必要なのは、「抑圧」し「蓋」をした「否定的感情」を、そのものとして眺めること。「社会の期待する自己」という「体裁」を脱ぎ捨て、「ありのままの自分」を捉え、「本来の魂」を取り戻す事である。そして、本当に犯罪者を更生させたければ、単に厳罰化したり、家族も含めてさらし者にしてバッシングするのではなく、このように「否定的感情」と向き合う支援をすることが、一番大切なのだ、と改めて学ぶことが出来た。
更にいえば、「それでも厳罰化が必要だ」と言う人もまた、「迷惑をかけてはいけない」という「いい子」の呪縛や「蓋」が強く、「自分自身の本姓をのぞき見る」ことが怖い、人なのかも、しれない。