支援者が陥りやすい六つの罠

 

大学における教育、外部研修、あるいは福祉組織の変革のお手伝いや、県の障害者福祉のアドバイザーなど、自分自身が「支援者」になる事も、昨今少なくない。そして、もともと自分の研究する障害者福祉の領域は、まさに「支援」のあり方や政策に関する研究領域でもある。そういう、「支援」が「自分事」であるがゆえに、「支援者が陥りやすい六つの罠」には、ギクッとしながら、一つ一つの「罠」に深く頷きながら、読み進めていた。

支援者が陥りやすい六つの罠
時期尚早に知恵を与えること
防衛的な態度にさらに圧力をかけて対応すること
問題を受け入れ、(相手が)依存してくることに過剰反応する
支援と安心感を与える
支援者の役割を果たしたがらないこと
ステレオタイプ化、事前の期待、逆転移、投影
(エドガー・H・シャイン『人を助けるとはどういうことか』英治出版)

組織文化や組織開発の分野の大家による、「支援」の本質を突く一冊。特に、自分自身のリフレクションに、実に良い。この項目一つ一つに、身につまされたので、以下、備忘録的にそのエッセンスをパラフレーズしてみたいと思う。

時期尚早に知恵を与えること
シャインは、「この反応は、提示された問題が真の問題だという支援者の思いこみも暗示している」という。その前提として、支援者とクライアントの間に不均衡関係、つまりはクライアントが「一段低い地位(ワンダウン)」、支援者が「一段高い地位(ワンアップ)」という関係性が生じることが、事の発端にあるとも言う。その部分を、次のように鋭く次のように分析する。

「支援を提供するというよりは、何かを受け入れさせたり、状況を不当に利用したりすることになりかねない。真の意味で助けにならないとわかっても、個人的な利益として認められる権力を行使したい誘惑に駆られるかもしれない。そのように許可された権力を、『助けになれるかどうかわかりません』とか『実は、助けることができません』と謙虚な言い方をして、諦めることは心理的に難しい。支援できる機会が得られるのは、大きな誘惑なのだ。」(シャイン、前掲書、p67)

支援者は、支援を受ける側から「許可された権力」を得ると、それを「行使したい誘惑に駆られる」。そのため、出来ない、わからない、と言えなかったり、あるいは何とかその権力を早期に行使したくて、にあるように表出されたニーズにすぐに飛びついてしまう。しかし、そもそも口で簡単に言えるようなニーズであれば、何も支援者に頼まなくても、自分で解決出来ている場合が多い。あくまでも、最初の訴えは、複雑に絡んだ問題の本質に通じるきっかけや、あるいはそれを隠蔽する罠、にしか過ぎないケースは少なくない。なのに、入り口で飛びつくのは、権力への「大きな誘惑」に早々身を売り渡すことに過ぎないのかもしれないし、支援者が変に力んでいる時こそ、それは権力欲そのものなのかもしれない。附言すれば、昔恩師が、「わからないことはわからないというのが大切だ」と言っていた事も、改めて思い起こされる。知ったかぶりしないかどうかは、権力欲に毅然とした態度を示せるのか、の試金石でもあるのだ。

防衛的な態度にさらに圧力をかけて対応すること
この点についてシャインは、経営コンサルタントの助言が聞き入れられない例を用いて説明する。その場合、経営コンサルタントは、自分自身の助言が間違っている可能性について検討する事無く、クライアントの無知や無理解を非難する口調で、圧力的な説得にかかる。しかし、この場合、自分は間違っていない、という無意識の防衛に基づいて、相手側が間違いだ、という圧力をかけるため、相当なねじれが生じる。以前からこのブログで何度も書いていることだが、“You are wrong”と言い続けるだけでは、自分自身の絶対肯定に基づいているだけでは、人はその意見の無謬性に不信感を感じて、耳を傾けようとしないし、概ねそういう無謬性に基づく意見は、どこかで破綻する場合も少なくない。

問題を受け入れ、(相手が)依存してくることに過剰反応する
「支援者の役割をすぐさま引き受けて自信をみなぎらせている人には、助けが得られるかどうかわからないうちにクライアントに依存してしまう」(シャイン、前掲書、p79)

恥ずかしながら、こういう関係性には、身に覚えがある。特に、自分に自信が無かった頃ほど、空威張りして「僕なら解決出来る」と文字通り嘯いて、その空威張りに頼ってくれた相手への依存を強めていた時期が、正直に言えば、その昔、あった。今は皆無だと断言出来ないが、それで随分手痛い目にあって以来、こういう空威張りというか、「依存関係への依存」は、百害あって一利なし、とようやく気づいた。また、こういう記述も、いてて、である。

「グループや組織と働くときにコンサルタントや進行役は支配権を握るという罠に陥る。彼らは提案するだけでなく、次のステップを実際に指示してしまうのだ。しかも、どんなことが感情的、または文化的に可能なのかを充分知らないうちに命じてしまうのである。」(シャイン、前掲書、p80

これも、複数の現場でやらかした事のある失敗である。あくまでも提案や助言なのに、指示をする。指揮命令系統の外部者としての助言、という基盤を忘れて(血迷って)、その系統を無視して、勝手な指示をしてしまったこと、しそうになったことがある。そういう場合、その指示に対する責任を取れるわけでも、その職責にもいないのに、そうする事が、いかに組織体系にとって逸脱行為であり、感情的、文化的な混乱を引き起こすか、に無知だった時、トンでもない間違いを、やらかしてしまった。今ではだいぶ少なくなってきたとは思うが、これもくれぐれも自戒しなければならない。「取るべき責任と取らなくてもよい、とってはいけない責任」の区別、である。

支援と安心感を与える
この題目は、一見支援者として正しい実践にみえるが、時としてその実践に罠があることに、シャインは三つの理由を示している。

一 支援者が、専門医のような権力のある役割になってしまう。
二 クライアントの地位の低さを助長する。
三 支援者との関係のその段階でクライアントが全てを打ち明けるとは限らないため、実は不適切かもしれない。
(シャイン、前掲書、p81)

シャインがここで専門医を比較対象として出しているのが、面白い。先日、ある医師と話していた際、医師と支援者の違いとして、「最終的なカタを付ける責任があるかの違いだ」と言われたことを思い出す。医師には、絶対的な権力があるかわりに、その人の生き死にという最終責任も引き受ける。一方、支援者はそれほどの責任も引き受けていない、というのだ。これは、もう少し考えてみなければならない課題だが、確かに一理はある。

つまり、そこまで責任を背負うことは出来ないなら、クライアントの地位の低さを助長せず、クライアントに責任を、持続と実践が可能な形で背負ってもらうのも、支援者の仕事の一つなのである。そう考えると、安易な支援や安心感が、アダになるかもしれない。特に表出されたニーズと、実際の求めるニーズの乖離がある場合、支援者が早計で安易な支援をすることによって、余計に問題が混乱する事にもなりかねない。

支援者の役割を果たしたがらないこと
「クライアントが感じたり経験したりしていることをもっと奥深くまで探れば、支援者は自分の見解を変える羽目になる可能性を意識的にせよ無意識にせよ、わかっているからだということだ。そうなれば、権力のある地位や、ワン・アップの状態を諦めねばならなくなる。」(シャイン、前掲書、p83)

これも、身につまされるが、よくわかる。相手から「それは違う」とか、「そんなことはない」と言われた時、こちらの助言や見立てが間違っている可能性が高い。そんなとき、本当の支援者ならば、自分の役割を果たすために、自分の助言や見立て自体の誤りの可能性について考察を巡らせるはずだが、それは自分の「権力のある地位や、ワン・アップの状態を諦めねばならなくなる」。だからこそ、自分の面目保持を前面に出して、その論点をごまかしたり、深入りしないようにするのである。それは、誠に人間臭い振る舞いではあるが、支援者としては、失格なのである。

「クライアントの話に心から耳を傾けることによって、支援者は相手に地位と重要性を与える。そして、クライアントによる状況の分析が価値あるものだというメッセージを伝えるのだ。支援というものが、影響を与える一つの形だと考えるなら、自分が影響されてもかまわない場合しか、他人に影響を与えられないという原則はきわめて適切だろう。」(シャイン、前掲書、p83

そう、他人が変わってほしい、と思うなら、まずは自分が変わるべきだ、という、昔から言い古されている(がなかなか実践しにくい)至言に辿り着く。

ステレオタイプ化、事前の期待、逆転移、投影
「支援者は過去の経験に基づいたすべてのものに左右されやすい」(シャイン、前掲書、p83

相手が目の前に居ても、その話に「心から耳を傾ける」前に、以前の経験という名の引き出しを探って、それに当てはめたり、事前に期待したり、投影したりする。そういう「思考の節約」が、本来支援者に必要な相手との対話の道を閉ざし、独善的で閉鎖的な独善に陥るのである。どんなときでも謙虚でいる、ということは、ステレオタイプ化を避けるためには必要不可欠なのだが、年齢や地位が上昇するほど、それを面倒くさがる癖も出てくる。その安易な誘惑にだまされることは、権力という名の毒薬を囓り、内面から腐り始める事でもあるのだ。

と、書き続けて、どの罠にも、随分思い当たる節があることに、改めて塩を身体に塗り込むような、ヒリヒリさ加減を感じながら、振り返ってみた。

「本当にわかるということは、かわるということだ」

学生達によく知ったかぶりで言っている言葉の刃が、自分にぐさぐさ突き刺さっている。

倫理と道徳

 

今日は講義系科目の最終日。しかし、泥縄講義のため、授業直前まで準備に追われる。

土日はセンター試験関連業務で、連日12時間拘束。金曜日と月曜日は、県の障害福祉課、長寿社会課の会議や研修で一日埋まる。その間に、21日〆切の卒論生の原稿を何度も読み、コメントし、それ以外にも学内業務やら、講演レジュメの〆切やら、に追われて、久し振りに一杯一杯。そんな中、更に追いつめるように考え始めたのは、センター試験の真っ最中からだった。

センター試験一日目の夜、一日缶詰でグッタリ疲れて風呂読書していた時の文章が、妙に気になり始めたのだ。ずっと読み続けている池田晶子氏の「最後の3冊」のうちの一冊が、その導線となった。

「外なる規範としての道徳は、常に、『べき』とか『せよ』とか『ねばならぬ』等の規則や戒律の形をとる。したがって、それを行為する者には必ず強制や命令として感じられる。これに対して、内なる規範としての倫理は、たんに『そうしたい』という自ずからの欲求である。たとえば、『悪いことはしてはいけないからしない』、これは道徳であり、『悪いことはしたくないからしない』、これが倫理である。『善いことはしなければいけないからする』、これが道徳であり、『善いことをしたいからする』、これが倫理である。」(池田晶子『私とは何か』講談社、p135

今まで読んだ中で、一番簡潔で分かりやすい「倫理」と「道徳」の説明である。これを確かめるべく辞書を引いていたら、類語大辞典(講談社)では次のような使い分けをしていた。

道徳:社会において、物事の善悪を考え、正しく行動するための基準
倫理:社会において、物事の善悪を考え、正しく行動するための守るべき道

内発的にわき上がる「したい」「守るべき道」と、外なる規範としての「ねばならぬ」「基準」。前者をwould like to、後者をshould, mustの違い、と切り分けると、スッと腑に落ちてきた。そこから、センター試験二日目に、ふと頭によぎったのは、「これって、ボランティア、とかノーマライゼーションの説明にも使えるかも知れない」ということだ。

例えばボランティアで、なぜ「偽善」と言われるのか。もともとボランティアは「○○したい」という自発性ではじまる。つまり、「倫理」から出発する。倫理とは、善く生きることを指すのだから、その限りにおいては、ボランティアは「善」であり、「偽善」とはならない。だが、ボランティアがなぜ、「偽善」とつながっているのか。そこには、「倫理」と「道徳」のすり替えがあるのではないか。こう思って、昔読んでいた本をパラパラめくっていたら、ちょうどピッタリの項目にぶつかった。少し長くなるが、引用する。

「ボランティア活動というのは、『何かをしたい』という意志だけがありさえすれば、どんな内容のものでも『ボランティア』と呼ばれうるのだろうか。実はそうではない。生産や営利ではないといっても、例えば暴走族グループに参加するのを『ボランティア』と呼ぶ人はいない。それは極端な例だが、宗教団体への加入はもちろん、何かの政治的・思想的な主張をもつ団体に参加することも『ボランティア』とは呼ばれないだろうし、女性とか少数派の権利擁護の運動などに関与することも『ボランティア』ではない。また、植林などの緑化運動には『ボランティア』で参加しても、『原発』や『ゴミ焼却場』の建設反対運動への参加については『ボランティア』と呼ばないのが通例だ。さらに、『国際協力』といても、異国の革命運動に身を投じたり、内戦の一方の当事者に加担することは、歴史的には『義勇軍』とか『パルティザン』という意味でボランティアのはずだが、今日ではこれも『ボランティア』とは呼びにくくなっている。要するに、確定的な基準は示しにくいとしても、ボランティア活動の内容には選別が働いており、その選別に際しては『公共性』と称されるような支配的言説が求める基準が強く関与しているとみなければならないのである。」(中野敏男『大塚久雄と丸山真男-動員、主体、戦争責任』青土社、p279-280

確かに、暴走族だって、そこでしか生き甲斐を見いだせない若者にとっては、一種のセルフヘルプグループと言えなくもない。あるいは、「ゴミ焼却場建設反対」も、エコロジーのボランティア運動には、変わりない。しかし、中野氏が指摘するように、「確定的な基準は示しにくいとしても、ボランティア活動の内容には選別が働いて」いる、というのは、頷ける。彼の本の前半で、戦後社会で市民派と言われた論壇の大家、大塚久雄が、戦争中にいかに自発的に戦争協力を促すような文章を書いていたか、を鮮やかに分析している。その後に、現代のボランティア活動称揚に疑問符を唱え、その内容選別に「支配的言説が求める基準が強く関与している」という指摘は、戦時中の「動員」的思想と一続きのものとして、私たちの胸に突き刺さる。つまり、「自発性」に基づく活動であっても、その活動内容が、既に「支配的言説が求める基準」の内部である場合、そこには「道徳」的バイアスが既にかかっている、のではないか、と。

本来、個々人のわき上がる倫理的な「ほっとかれへん」という気持ちで始めたボランティアも、その内容選定で、道徳的(=外部規範的)な規制があり、その規制内部での(=支配的言説が求める基準に合致した範囲での)活動内容を、「自発的」に選び取るのである。それって、「倫理」の「道徳」化、というか、「倫理」と「道徳」のすり替えではないか、といえまいか。個々人の「善」がベースであるはずのボランティアが、いつの間にか支配者にとっての「善」の暗黙的了解(受け入れ)につながらないか、と、考える事も出来るのである。

と、これまでは3限の「ボランティア・NPO論」で今日話した内容の一部なのだが、この話は、今日の1限であった「地域福祉論」のテーマで扱った、「ノーマライゼーションの原理」の誤解や、その後の流布の仕方にも、共通するような気がする。

以前も書いたが、もともと北欧のノーマライゼーションの原理は、入所施設の非人間的処遇にショックを受けたデンマーク人の社会庁(=日本の厚生労働省)の役人、バンク=ミケルセンや、知的障害者組織のオンブズマンをしていたスウェーデン人、ニイリエが、「こんな現状は放っておけない」「許されない」と思ったところに、端を発している。(最近の河東田さんの研究では、1946年から既にそういう言い方もされていたそうだが、ここでは敢えて二人の思想の起源を考えたい。)

その際、「許されない」「何とかしたい」と思った時に、「知的にハンディのある人だって、他の人と同じように、一日のノーマルなリズムがないとオカシイじゃないか」と思って作ったのが、バンク=ミケルセンの3つの側面であったり、ニイリエの8つの原理である。つまり、この原理の根本には、「障害のある人の劣悪処遇を何とかしたい」という二人の「内なる規範としての倫理」が存在したのだ。

この北欧ノーマライゼーションの「二人の父」と全世界的には彼らよりも遙かに知られているアメリカ人研究者、ボルフェンスベルガーのノーマライゼーションの説明が、どう違うのか、を、整理する時にも、「倫理」と「道徳」が使えるような気がするのだ。とりあえず、ヴォルフェンスベルガーの代表的な記述を引用してみる。

「対人処遇の手段は、できるだけその独自の文化を代表するようなものであるべきであり、逸脱している人(その可能性のある人)は、年齢や性というような同一の特徴をもつ人たちの文化に合致した(つまり、通常となっている)行動や外観を示しうるようにされるべきだ、ということである。『通常となっている』という用語は、道徳的というより統計的な意味であり、標準的とか慣例的と同じと考えられよう。『可能な限り通常となっている』という語句が示唆しているのは、何が、どれだけ『可能な限り』ということになるかは、経験をしていくプロセスで決定されるということである。」(ヴォルフェンスヴェルガー「対人処遇における逸脱の概念」『ノーマリゼーション』学苑社、所収)

彼のノーマライゼーション理解の最大のポイントは、障害者を「逸脱している人」と見なした上で、「文化に合致した(つまり、通常となっている)行動や外観を示しうるようにされるべきだ」と整理している。その際、「道徳的というより統計的な意味」とはいうものの、「標準的とか慣例的」という表現で、障害のある人に「○○すべきだ」という「外なる規範としての」『べき』論につながっている。これが、いつしかヴォルフェンスベルガーの論理の「規則化・戒律化」につながり、施設のあるべき姿だけでなく、障害者もネクタイをして、といったルール化につながる。そして、障害者自身、つまり「それを行為する者には必ず強制や命令として感じられ」、80年代以後、障害学からの大きな批判を受けていくのである。

だが、これまで見てきたように、ノーマライゼーションの原理で批判されてきたのは、この「道徳」的押しつけ、の部分である。その一方、入所施設が未だに多い日本では、北欧の「二人の父」が当時から闘ってきた、「ほっとかれへん」というボランタリー・アクションの根元となった倫理は、決して過去物語ではないのではないか。「倫理」と「道徳」のすげ替えやその意識的・無意識的誤用は問題視されなければならないが、それを指してノーマライゼーションの「倫理」そのものを捨て去るのは、まだ時期尚早ではないか。そもそも、この「ほっとかれへん」の「倫理」は、地域移行や退院促進が政策的課題として上がりながら、上手く進んでいない今だからこそ、強く意識されるべきではないか。

そんなことを、授業中にとても伝えられなかったのだけれど、しゃべりながら、整理していた。そして、それと同時に、昨年度R大学で語り切れなかったこと、また、下のエッセイに書ききれなかった事も、ちょっとだけこのブログで整理出来たような気もする。以下、ご参考までに、長ーいエントリーになりますが、1年半前の原文を貼り付けておきます。

——————————————–
ノーマライゼーションを「伝える」、ということ
竹端寛
福祉労働119号 p155-161

<学ぶ立場から伝える立場へ>

「なんだか生理的に受け付けない!」

ある大学院生が、そう漏らした。そのつぶやきを聞いて、以前の自分を思い出していた。

私は以前、当誌103号で「ノーマライゼーションの具現化としての施設解体-スウェーデン知的障害者福祉改革のプロセスと施設解体後の現状」と題して、2003年冬から2004年春にかけて行った現地調査の概略を発表させて頂いた。この調査では、2006年に亡くなられた「ノーマライゼーションの育ての父」、ベンクト・ニイリエ氏に直接お話しを伺うチャンスもあり、その時の薫陶を短い原稿の中に入れようと、試行錯誤した思い出がある。

あれから5年後の今年、海外に研究調査にいかれた先生の代役として「ノーマライゼーション」に関する講義と演習を、学部と大学院でそれぞれ1コマずつ引き受けた。5年前はスウェーデンのノーマライゼーション具現化のプロセスや実践への反映を調べ、受容するだけで必死だった私が、今度はご縁あってノーマライゼーションを学生に伝える、という機会に恵まれたのだ。そこで、大学院の演習では、以前からやってみたかった(けど一人では果たすエネルギーが沸かなかった)北欧・北米・日本でのノーマライゼーションに関する文献をかき集め、時系列的に読み進めてみることにした。

実はこれには伏線がある。以前とある教科書に「ノーマライゼーション」の項目を書かせて頂いた(注1)。その執筆過程で、ある程度ノーマライゼーションの言説を集め、読み進めていたのだが、その中で、この概念ほど論者や時代によって色んな意味合いが込められているものはない、と感じ始めていた。「脱施設」推進の文脈でも、入所施設の機能充実の文脈でも、同じようにこの言葉が使われている。「この同床異夢状態がどうして起こっているのだろう?」 このときに感じた疑問を解決したくて、ある種の「謎解き」をし始めたのが、先述の大学院の演習である。そして、冒頭のつぶやきは、北欧のノーマライゼーション概念はもともと施設福祉中心的なものであった、と批判していたある論文を読んでのディスカッションの際に出てきた一言である。

実はこのつぶやき、私自身も当該論文を初めて読んだ際に、同じ事を感じていた。大学院生の頃、「ノーマライゼーション=善」という単純な理解をしていた私自身にとって、その論理の運び方に陥穽を見いだせなかったものの、どことなく「なんか違うんじゃないかなぁ」と感じていた。だが、何がどう「違う」のか、はっきりわからなかった。だから、この学生同様、「生理的」レベルの嫌悪感で留まっていた。

だが、今年のゼミで、ある「補助線」を引きながら考えることで、この「生理的」レベルでの処理ではない、新たな視点が見えてきた。その「補助線」こそ、社会学の古典的名著でもあるE・ゴッフマンの「アサイラム」である。

<全制的施設、という補助線>
1950
年代のアメリカの精神病院でのフィールドワークを行ったゴッフマンは、精神病院における患者と職員の関係、および精神病院の構造そのものが、刑務所や強制収容所、僧院などといった他の施設と類似していると気づいた。そして、「アサイラム」の中で、それらの施設を総称して全制的施設(total institution)と名付け、その特徴として、次の4つがある、と整理した。

・生活の全局面が同一場所で同一権威に従って送られる。
・構成員の日常活動の各局面が同じ扱いを受け、同じ事を一緒にするように要求されている多くの他人の面前で進行する。
・毎日の活動の全局面が整然と計画され、一つの活動はあらかじめ決められた時間に次の活動に移る
・様々の強制される活動は、当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプランにまとめ上げられている。(注2)

このような整理をした後、被収容者がどのように全制的施設に順応していく中で無力化(disabled)されていくか、を膨大な先行研究をちりばめながら論証していく。その切り口の鮮やかさと論証の確かさに、堅い翻訳語であるにもかかわらず、読み手の私たちも思わず引き込まれてしまう、そんな一冊である。

今回真面目にこの本を院ゼミで読むことにしたのは、ニイリエやバンクミケルセンといった「ノーマライゼーションの父」たちが生きた時代に、施設はどのようなものであったか、を学生さんたちと一緒に再確認しておきたかったからだ。読み始めて多くの発見があったが、ノーマライゼーション理念との関連で一番の発見は、次のフレーズであった。
「個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろう。」(注3)

全制的施設において無力化される「過程」を丹念に分析することは、「常人としての自己を維持させる」、つまりは無力化されないために保証されるべき条件や仕組みとは何か、を考えるために必要だ。この整理に出会った際、改めてバンクミケルセンやニイリエが、なぜノーマライゼーションという考えを生み出したか、を理解するための補助線が得られたような気がした。それは、彼ら自身が「全制的施設」を生身で経験しているからである。

<二人の体験>
周知の通り、バンクミケルセンはナチスのレジスタンス運動の闘士であり、またニイリエはハンガリー動乱後の難民キャンプで、スウェーデン赤十字社の事務官をした経歴を持つ。この二人の経験が、ノーマライゼーションの理念とどのように結びついているか、は二人の自伝的記述に詳しい。

「もし私が誇りにすることは何かと聞かれれば、それはナチスへの抵抗運動で強制収容所に入れられたこと、そこで悲惨な人間抑圧の実態を体験したというのが答えです。(略)精神薄弱の部門に配属になってから、彼らが生活している施設に行く機会がありました。その生活は、ほんとうに悲惨で、ナチスの強制収容所とすこしも変わりないものです。私は、彼らの生活条件をなんとかして、少しでも向上させたい、改革しなければならないと感じました。」(バンクミケルセン:注4)

「私は、突然オーストリア・ウィーンの南にあるトライスキルヘンのキャンプのスウェーデン赤十字社チームの社会福祉担当官に任命されたのである。そこはハンガリー難民のために設置されたばかりの古い軍事施設で、粗末な物資で運営され、収容能力を超えた3500人もの人々が利用していた。(略)その後赤十字社は、脳性マヒに対するフォルクベルナドッテ募金運動の組織の仕事を私に託した。(略)このようにして私は、大きな集団で「大量管理型」の大施設の中で生きることに伴う屈辱、不安、将来に対する恐れという全く異質でノーマルでない負担を強いられる経験を身近に感じるとともに、社会の中で正当な発達の機会を設けていくための努力、闘い、そして深い人間の意欲に共感するようになった。」(ニイリエ:注5)

このような、「全制的施設」のリアリティを持っていた二人にとって、知的障害のある人が収容所的な施設に入れられていたのを目にした際、「あれとこれは同じだ」と類似点を見出したのは、よく理解できる。そして、ゴッフマンが、「個人の自己が無力化される過程」を分析的に記述したのに対して、それをなくすにはどうしたらよいか、を考えたのは、バンクミケルセンやニイリエだけではなかった。そこで「もう一つの補助線」として取り上げるのが、ラッセル・バートンの『施設神経症-病院が精神病をつくる』である。

<もう一つの補助線>
バートンは、ゴッフマンと同じ時代のイギリスの精神病院を分析していた。その中で、精神病という個人因子よりも、むしろ精神病院という環境因子が精神病を作り上げていく、という部分が多いことに気づいた。そして、彼はその問題点を、次の8つの項目としてまとめた。(注6)

1,外界との接触の喪失 2,何もしないでブラブラさせられることや責任感の喪失 3,暴力、おどし、からかい 4,専門職員のえらそうな態度 5,個人的な友人、持ち物、個人的な出来事の喪失 6,薬づけ 7,病棟の雰囲気 8,病院を出てからの見込みのなさ

このバートンの議論の興味深いところは、8つの項目の現状分析で終わらなかったところである。ゴッフマンのいう「常人としての自己を維持させる」ために保証されるべきポイントを、先の8つの項目を反転させる形で、次のように整理したのだ。

外部世界と患者との接触を再構成する。週7日、1日14時間にわたって、有益な仕事、レクリエーション、社会的催しというような日常的活動を導入する。暴力性、威嚇的態度、いじめを根絶する。親愛、受容、援助の態度を持つように職員の態度を変える。患者を元気づけ、友人や何か夢中になれるものをもてるようにし、また個人的な催しを楽しめるようにする。可能な範囲で薬を減らす。病棟に社交的、家族的、許容的雰囲気を取り入れる。病院外に住居、仕事、友人関係、その他より満足できる生活のあり方といった可能性があることを、患者に気付かせる。

このバートンの整理は、ニイリエやバンクミケルセンの整理と多くの共通点がある。

<3条件と8つの原理>
何が似ているのか、を整理するために、改めて北欧の二人の父の考えを振り返ってみたい。まず、バンクミケルセンが示したのは、次のような事であった。

「ノーマリゼーションを詳しくのべる場合、一般の生活条件ともっとも広い意味での処遇を区別しなければならない。生活条件は、住居の条件、仕事の条件、余暇の三側面から検討しなければならない。さらに子どもと大人を区別しなければならない。」(注4)

 次に、ベンクト・ニイリエが1969年に発表した8つの原理を見てみよう。(注5)

1.ノーマライゼーションの原理は、知的障害者に一日のノーマルなリズムを提供することを意味している。
2.
ノーマライゼーションの原理はまた、ノーマルな生活上の日課を提供することでもある。
3.
ノーマライゼーションの原理はまた、家族とともに過ごす休日や家族単位のお祝いや行事等を含む、一年のノーマルなリズムを提供することを意味する。
4.
ノーマライゼーションの原理はまた、ライフサイクルを通じて、ノーマルな発達的経験をする機会を持つことを意味している。
5.
ノーマライゼーションの原理はまた、知的障害者本人の選択や願い、要求が可能な限り十分に配慮され、尊重されなければならない、ということを意味する。
6.
ノーマライゼーションの原理はまた、男女が共に住む世界に暮らすことを意味する。
7.
知的障害者ができるだけノーマルに近い生活を得られるための必要条件とは、ノーマルな経済水準が与えられることである。
8.
ノーマライゼーションの原理で特に重要なのは、病院、学校、グループホーム、福祉ホーム、ケア付きホームといった場所の物理的設備基準が、一般の市民の同種の施設に適用されるのと同等であるべきだという点である。

こうして二人の考えを振り返ってみると、その類似点が明確になってくる。

「週7日、1日14時間にわたって、有益な仕事、レクリエーション、社会的催しというような日常的活動」というのは、ニイリエのいう一日のノーマルなリズムやノーマルな日課を意味している。「院外に住居、仕事、友人関係、その他より満足できる生活のあり方といった可能性があること」というのは、バンクミケルセンの言う、住居と仕事、余暇の三条件の整理と合致している。

ニイリエやバンクミケルセンは、ゴッフマンやバートンの指摘した全制的施設の構造的問題を把握した上で、当時の知的障害者入所施設が置かれた現状に対するアンチテーゼとしてノーマライゼーションの理念を形成していったことが、よくわかる。つまり、北欧のノーマライゼーション概念はもともと施設福祉中心的だった訳ではなく、当初から全制的施設に対する構造的批判を内包していた、ということができる。

<地と図-忘れてはならない視点>
だから、先に触れた論文は間違いだった、といった稚拙な整理をしたいのではない。この論文からも、私たち後人が引き継ぐことの出来る恩恵はたくさんある。特に、今回再整理する中で私たちがこの論文から学んだのは、「図に対する地」の理解、であった。

確かにニイリエの1969年の原理は、施設環境を全否定するものではなく、施設環境を改善するための整理となっている。バンクミケルセンの3つの条件にしても然り、である。この点に関しては、「北欧のノーマライゼーションの初期概念は施設中心的なものである」と整理することは、間違いであるとはいえない。

だが、それは明らかに二人の言説(=つまりは「図」)のみに焦点化したものである。これまでに整理してきたように、ゴッフマンやバートンの「補助線」を用いた際に見えてくるのは、北欧の二人は明確に、全制的施設の構造的問題を、批判の対象にしているのだ。そして、「常人としての自己を維持させる」、つまりは無力化されないための条件とは何かを明確な形にするために、ノーマライゼーションの理念を形成していくのである。そして、その条件を突き詰めていく中で、施設から地域へ、という北欧の実践が自ずから生み出されてくる。二人の理念創設時の「地」の理解からは、このような整理が導き出される。

私たちは、単なる言葉(=図)だけではなく、その言葉が出てきた歴史的・社会的文脈(=地)を見なければならない。当然の事ながら、「ノーマライゼーション=善」という浅薄な理解も、自分の思いこみの言葉への投影、という点では図のみの理解そのものである。施設か地域か、善か悪か、という言説(=図)のみではなく、その理念や考えがどのような文脈(=地)から生まれ、変容していくのか、をじっくり眺めない二項対立的言説は、本当の意味でのラディカル(=根元的)とは言えない。

ノーマライゼーションは流行思想でもなければ、もう日本では必要のない(終わった)理念、でもない。これはノーマライゼーション理念を伝える立場になって、一層ひしひしと感じはじめている。現状を本当に変えたい、と思うのであれば、図だけでなく地までも見つめ、学び、考え、常識的理解を揺さぶり続けなければならない。冒頭の学生へそう語りながら、実はそれは自分自身への叱咤激励でもあった。

たけばたひろし山梨学院大学法学部教員。

注1竹端寛 2007 「第2章 障害者福祉の理念」 北野・黒田・竹端編『障害者福祉論-シリーズ基礎からの社会福祉4』、ミネルヴァ書房、p46-51
注2…E・ゴッフマン(19611984)『アサイラム-施設被収容者の日常世界』誠信書房、
p4
注3同上、
p16
注4バンクミケルセン「ノーマリゼーションの原理」(中園康夫訳、四国学院大学論集42 p143-160

注5ベンクト・ニイリエ『ノーマライゼーションの原理』、現代書館、p6-7
注6ラッセル・バートン(19761985)『施設精神病-病院が精神病をつくる-』晃洋書房

存在と不在

 

昨日は8時の汽車で東京にでかけ、25時前に帰宅するまで、金沢文庫茗荷谷新宿と場所を三回変えて、対話し続けていた。

まずは山梨で一緒に仕事をさせて頂いているイマイさんのお見舞い。以前にお見舞いした時に比べてだいぶ顔の表情もよくなられ、久しぶりに話が弾む。山梨に戻ってからの「悪だくみ」の話に花が咲いているうちに、気が付けば奥様がお越しになっていた。夫婦水入らずの邪魔をしては、というだけでなく、午後からの予定に合わせて移動すべき時間でもあったので、「では続きは山梨で」を合い言葉に退散。

その後、京急東海道線地下鉄丸の内線を乗り継いで、1時半から茗荷谷のイタリア料理店で遅めのランチを食べながら、研究会メンバーと議論を続ける。メンバーのお一人が先月生まれたての赤ん坊を連れて登場したので、昨日はずっとその子を見ていた。お人形のようにかわいい。カンガルーのように子どもを前に背負われ、「揺らしていたら、眠り続けているから」とf分の1揺らぎのようなリズムで揺すり続けておられる。僕もマネしてゆらゆら揺れながら発表者の話を聞いていると、実に気持ちよい。そういえば、そのお子様も実に気持ちよさそうに寝ていた。赤ん坊は「寝るのが仕事」とは、よく言ったものである。

研究会が終わった後、生まれて初めて、夕刻6時の新宿アルタ前、という強烈な待ち合わせ場所に馳せ参じる。東寺の側にある高校の同級生達のうち「東京組」の集まりがあったのだ。広義の意味での「東京組」に入れてもらい、8年ぶり、10年ぶり、の仲間と居酒屋に繰り出す。田舎者でもわかる待ち合わせ場所、という幹事ミワ君の配慮は、僕のような存在のためにあるのだろう。おかげで場所は迷わなかったが、いざ現場に着いたら人が多すぎて、現場の中で迷子になってしまった。

さて、男子校ゆえに35歳のオッサンばかりの飲み会では、隣に座ったこのブログを読んでいるというヨシダくんから、「おまえはブログで良い子ぶりっこしすぎだ」と突っ込まれる。そりゃあ、「良い子」ではない邪悪な部分がタケバタにない、と言えば、嘘になるし、確かにこのブログにその部分は決して出さない。でも、それは「良い子ぶりっこ」ではなく、そんなおぞましいものを公衆の面前に出す事に価値を置いていないから、に過ぎない。日々の文章の中で、自慢や俗な側面は十分に出ているだろうが、そういえばこのブログの個人的な倫理的指針として、「一定程度の張りとツヤのある文章」を目指しているんだよなぁ、と、指摘されて改めて気づく。ブログという本来的な性質上、自己陶酔的な部分は決してゼロではないが、なるべくナルシスティックな、閉塞的なものではなく、どこかに通じるような、ある程度開かれた文章を書くよう、気にかけている事を改めて再認識した次第。でも、それが読者に伝わっているかはアヤシイのだが。

そして今日は本当は長野に日帰り出張、のはずだが、飲んでいる時にMさんから「明日は都合により順延です」というお知らせが入る。来週末が例のセンター試験で全く休みがないので、正直に言うと、今日のお休みは実にありがたい。土曜日は大学で同じ分野の研究を外国でされているYさんと議論をしていたので、休みではなかった。最近、休みのない日々が続くと、一気にヘトヘトになるので、調査は楽しみだったが、休息も大切。4日の仕事始め以後、割と精力的に動いていたので、身体もへばっていたようだ。

で、最近の読書、というと、精神的にもへたばっているからか、なぜか臨床系のものが続く。先週読み終えた読んだ河合隼雄の『心理療法序説』(岩波書店)は大学に持って行ってしまったので、今日ご紹介するのは、別の一冊。

「不在によって存在のあり方があぶりだされる、ということがある。本来そこにあるはずのものが、そこに見あたらないことほど、雄弁に存在のありようを示す方法はない。けれども、そこに何かがあるはずだということに気づかない人たちの中では、その存在はまったくの無に帰されてしまう。そこにはあらたな暴力が発生する。この暴力は日常生活の中にあふれすぎるほどあふれている。その暴力が蔓延することを、今か今かと待っている人たちもいる。存在を不在に追いやり、自分たちの罪をも存在から不在に追いやりたい人たち。アーレントの言う『忘却の穴』は確実にある。」(宮地尚子『トラウマの医療人類学』みすず書房、p122)

こういう文章に接すると、改めて臨床家の持つ視点の鋭さ、に心を揺らされる。「存在を不在に追いや」ろうとする人たちの「暴力」の被害にあって、トラウマやPTSDに陥った人々のケアに携わる精神科医のエッセイゆえに、「忘却の穴」への批判の手は揺るぎがない。僕自身が、ちゃんと想像力を行使出来ているか? 「不在」という形での「存在のありよう」に、ちゃんと気づけているか? 自らの問題をも、「不在」とごまかして、葬り去ろうとしていないか? 様々な投げかけを、この文章からもらう。

それと共に、臨床家と自らの違いについて、改めて考えさせられる。以前、べてるの家の向谷地さんと話した時、「医者や臨床心理士は、大学の教員になっても臨床を持ち続けているのに、どうしてソーシャルワーカーは、臨床を持たないのだろうか?」と言われた。向谷地さんご自身は、大学の教員もされながら、ワーカーもずっと続けておられるし、ここのところ沢山の著作も書いておられる。この宮地さんも、大学の教員と精神科医を両立しておられる。一方で、私自身は、臨床実践家の経験もないし、現時点でも臨床は持っていない。

このことについて、臨床を持つことによる視点の偏りからの自由、という結論を、大学院生の時には出していたように想う。だが、実際にはどうなのだろう。臨床家(当事者、家族、一般市民)とは違う、独特のレンズを持てているか。他の専門性(当事者、ワーカー、医師)とは違う、オリジナルでユニークな視点を持っているのか。不在は存在を雄弁に語る、というが、僕の場合は、持ったことのない不在、ではないか。果たして存在したことがあるのか。今後、何らかのものが存在するのか。その時、どのような存在が、臨床家でも当事者でもない、研究者タケバタとしての「存在」として落ち着くのか。それは、表層的で橋にも棒にも引っかからない「良い子ぶりっこ」とはどう違う内容になりうるのか? 

そういえば、大学の賀詞交歓の場で、お世話になっているM先生からも、僕自身の「寄る辺なさ」について指摘された。今年はそういう意味での、存在根拠、というか、「寄る辺」を作るため、自立のための藻掻き、が更に必要とされているような気もする。

「革命」ではなく、「改革」

 

年賀状に初めてブログの事を記したら、「見てますよ~」という返信を何人からか頂く。ありがたや。

このブログは足かけ5年ほど書いているのだが、年賀状で公表したのは今年が初めて。内容が稚拙ではあるが、ある程度書きためてきたので、お知らせしてみた。すると、旧友のチエちゃんから、「標記が間違ってるで」というご指摘を頂く。前回のブログの最後、「松の内」、と書くべきところを、あろうことか「幕の内」。弁当じゃないんだから、そそっかしい。チエちゃんといえば、以前ご紹介したが、タケバタの成長を温かく見守ってくださる麗しき近江美人。持つべきものは友人、である。

で、そんなチエちゃんはスウェーデン語も堪能だが、この正月に読んでいたのは、こちらもスウェーデンの政策に造詣の深い、北大の宮本太郎氏の新書。スウェーデンモデルに学びながら、日本のあるべき生活保障の将来像を分かりやすい文体で描き出して下さり、大変頭の整理にもつながる。ただ、今回しみじみと「そうだよなぁ」と思ってドッグイヤーしたのは、次の箇所である。

「保守主義の思想が強調してきたように、人間が社会を上から自在に造形できると考えるのは間違いである。後にも触れるが、北欧のように成功した福祉国家が試みたのは、そのようなことではない。人々の現実の利害関係や感情に沿って、漸進的な改良を積み重ねてきたからこそ、北欧は安定した社会を築くことができた。」(宮本太郎『生活保障-排除しない社会へ』岩波新書、p66)

「人間が社会を上から自在に造形できると考える」イズムのひとつとして、社会主義と呼ばれるものが力を持っていた時代がある。この社会主義全盛時代にあって、その計画主義を鋭く批判したのが、経済学者のハイエクである。彼の思想の全体像をちゃんと理解できている訳ではないが、ハイエク自身が、この計画主義(設計主義、ともいう)を批判する時の、どんな計画を批判したのか、については、氏の本にこんな風に書かれている。

「ここで批判している計画とは、競争に反した計画、すなわち、競争に取って替わろうとする計画だけだ、ということである。」(ハイエク『隷属への道』春秋社p49

スウェーデンに半年滞在した実感からしても、スウェーデンは「計画経済」的な国ではない。自由競争もちゃんとしているし、民間企業の争いも激しい。その意味で、スウェーデンの福祉国家が追求しているのは、「競争に反した計画」ではない。そうではなくて、「漸進的な改良を積み重ねてきたからこそ、北欧は安定した社会を築くことができた」のである。確かに社会工学的な実験国家の側面もあるけれど、全てを管理・計画しようとするのではなく、うまくいかないことについて、蓋もせず、「では、どうしたらよいか?」を真面目に考え続けている国、といえるのだと思う。このことを踏まえ、先述の宮本太郎氏はこんな風に総括している。

「着実な改革は、私たちが生きる社会の歴史と現状から出発するものであり、またすべからく漸進的なものである。そして、戦後の日本社会が何から何までダメな社会であったというのは間違いである。団塊世代の論者に多い気もするが、この国の過去と現在を徹底的に否定的に描き出し、憤りをエネルギーに転化しようとする議論もある。だが、少なくとも筆者が接している若者の多くは、日本がダメであると言えば『やっぱり』と肩を落としてしまう。また、徹底的な否定の上に現実的な改革の展望を切り開くことも難しいであろう。この国でこれまで人々の生活を支えてきた仕組みを発見し、問題点を是正しながら、発展させていくという発想が必要である。」(宮本太郎、前掲書、p222)

至極真っ当なことしか書かれていない。大いなる「当たり前」である。だが、その「当たり前」を敢えて主張しなければならないほど、この常識が非常識になっているのが今の日本の実情なのかもしれない。

以前から書き続けているが、「ダメだ、ダメだ」という絶対的な否定は、「ダメだと指摘しているこの私(の眼)は正しい」という絶対肯定に基づいている場合が少なくない。そういう絶対肯定が、実のところ、「私の言うことを聞けば全てがうまくいく」という設計主義的発想につながっていくのである。ハイエクも、ナチスやソビエトに代表されるような全体主義を批判する視点から、設計主義への批判を展開していった。「徹底的な否定の上に現実的な改革の展望を切り開くことも難しい」のは、そのような無謬性に支えられた絶対肯定の論理には、現実を漸進的に変えていく力も根拠も乏しいからである。昔、大学の教養の授業で、フランス革命の例を出しながら、「革命とは改革プラス暴力だ」と聞きかじった記憶がある。この例を用いるなら、暴力という手段を用いてでも何かを変えようとという絶対肯定がなければ、「革命」は成就しない。だが、私たちの社会で求められているのは、「革命」ではなく、「改革」なのである。

「この国の過去と現在を徹底的に否定的に描き出し、憤りをエネルギーに転化しようとする議論」に対して、随分以前から、ピリリと小粒の山椒のような皮肉を突きつけている歌詞を思い出した。

「誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書き立てて
評論家やカウンセラーは米を買う
迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う
あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う」
(中島みゆき「時刻表」アルバム『寒水魚』より)

「評論家」は「誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書き立てて」「米を買う」のである。だが、彼らは「見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う」ずる賢い一面を持っている。だから、他の人と違って「言いあて」「書き立て」ることで、「米を買う」ことが出来るのである(米を買う、という表現も、時代がかった言い方ですネ)。だが一方で、「徹底的な否定」形として現実が「見えること」だけでは、何も変化は生じない。「言いあて」「書き立て」るだけではなく、「着実な改革」には「それができること」こそが、必要なのだ。

「人々の現実の利害関係や感情に沿って、漸進的な改良を積み重ね」ることの重みが、「安定した社会を築く」ための改革が声高に叫ばれている現在だからこそ、ひしひしと感じられている。山梨や三重で、制度の一部に関わらせてもらうからこそ、この「漸進的な改良」の重要性は、本当に骨身にしみて感じるのだ。出来うることは、求められているのは、「革命」ではなく、「改革」なのだ、と。

同い年、として

 

正月は、久闊を叙する時期ともなる。

高校時代の友人Mくんから電話。久しぶりにクラスのメンバーで飲み会をしよう、とのお誘い。よくつるんだ仲間のうち、気づけば半数近くが東京方面で働いている。出来れば1月中に新宿あたりで再会できるよう、約束する。16歳の頃から何やかやとワイワイ語らった仲間達とのつきあいも、気づけばもう20年。お好み焼き屋をしているTくんの家で、麻雀をしながら徹夜をしたり、語り明かした日々を、懐かしく思い出す。今ではすっかり肩書きや立場がくっついた付き合いが少なくないのだけれど、未然形のタケバタヒロシとして未だに付き合ってくれる仲間との再会は、今では貴重な時間となっている。

続いては、このブログの管理人、Nくんからのリプライ。どうも年始からブログの調子がよくなかったので、お尋ねメールをしておいたら、早速対応してくれた。彼はうさぎ年の同い年だが、僕が早生まれだったばっかりに、高校時代1年の先輩後輩の仲間。高校時代、お互い所属した写真部で、A新聞のカメラマンになったIくんと共に、ずっと語り続けた仲間だ。高校は男子校で、受験校でもあったのだが、若いエネルギーの注ぎどころを勉強におけなかった僕らは、必然的にアジール的な写真部室に吸い込まれる。当時、白黒写真を現像出来る暗室が部室だったので、鍵もかかるし、現像液を保存する名目で冷蔵庫もあった。ゆえに、その部室では、ジュースを保存したり、学校に持ち込むには不適切な書物!なども持ち込める、隠れ家的な場所だった。そこで、平日の夕方3時間ほどしゃべり込み、土日や休みの日であっても、なんだかんだ理由をつけて、集っていた。しかも、家に帰って電話で更に話すのだから、まさに異性との付き合いに近い濃厚さ。そうそう、中島みゆきにはまったのも、Nくんから提供された特製カセットテープからだった。(もう、このカセットテープというのも死語であるが

高校時代に中島みゆきだけでなく、谷村新司やら和田アキ子やら超超渋い曲を聴いていた彼も、今ではすっかりオシャレなウェブデザイナー。しかし、話を聞いてみると、ウェブの世界も不況の波が襲っているようで、景気のよろしくない話を伺う。あちらの世界は、10年前には空前のバブル景気があったそうだが、そのバブルも随分前にはじけた。それに不況も重なり、単価設定もどんどん下がっていき、外注していた企業も自社で出来る範囲内に縮小するようになった、とのこと。フリーランスにとって厳しい世の中。一人一人の「腕」がますます問われる時期になりつつあることは、大学教員であっても同じ。ゆえに、お互いもう一皮むけねば、という話にも、熱がこもる。

そうそう、「腕」といえば、年末に京都のジュンク堂で買った『中島岳志的アジア対談』(中島岳志著、毎日新聞社)を旅先で読み続ける。いつも著者の年齢に真っ先に目がいく悪い癖があるが、最近著作も多い気鋭の学者の生まれ年が、僕と同じ1975年。インドでもフィールドワーカーをしていた文化人類学者だが、保守の論壇人として日本の近現代史にも鋭く切り込んでいて、新聞の連載をまとめた柔らかい対談本ではあるが、刺激的な内容が続く。そうする意識がなくても、気づいたら、自分自身の研究スタンスと比較し、反省することしきり。学術賞の受賞作も含めた多くの単著を既に出している同時代人がいると、自ずと、「では、あなたは?」という問いが浮かぶ。怠けている、とは思わないけれど、今年はもう少し研究にも精を出して、アウトプットにも勤しまなければ。そんな同世代からのエールも勝手にもらった松の内であった。

表層に振り回されない、ということ

 

正月の朝。実家でぼんやり白みそのお雑煮が出来るのを待ちながら、テレビをぼんやり眺める。我が家は未だにブラウン管だが、実家はマンション全てが地デジに切り替え、大型の液晶テレビで、何だかよく見ている。以前も書いたが、小学生の頃は「テレビの虫」だったので、こりゃ我が家もテレビを切り替えると、テレビ依存症、になりそうだ。やばい、やばい。

さて、そんな久しぶりの「テレビの虫」をしていて、「犯罪学者 ニルス・クリスティ ~囚人にやさしい国からの報告~」というドキュメンタリーからは、様々なことを考えさせられる。

ニルスさんはノルウェーの犯罪学者。修士論文の際、ナチスドイツの収容所で働いたノルウェー人看守達へのインタビューをするなかで、ノルウェー人がユーゴスラビア人の虐殺に関わったと知り、ショックを受ける。さらに、その虐殺に荷担した看守としなかった看守の違いをインタビューの中から導き出し、その違いが、虐殺に関わらなかった側の看守にある、とする。その理由は、『個人的に囚人と会話を交わしたり、ベオグラードの家族の写真を見せられたりすると、殺せなくなった、というのです。』ということだ。ここからニルス氏は、犯罪者はモンスターではなく、ただの人間に過ぎない、だが、ただの人間も、直接の関わりを持たない相手に対しては容易に残虐になり得る、ということに気づく。犯罪者の人間的処遇や、犯罪者というカテゴリーに対する厳罰化という報復感情に関する氏の指摘も、この修士論文が原点にある、という。

このテレビを見た後、ブログに何かを書こうか、とメモを取りながら、一つ気になったのが、副題にある「囚人に優しい国」というフレーズだった。これは、犯罪への厳罰化の流れの対義語として用いたのであろうが、気になったのは、受刑者に人間的な住環境を提供したり、公共施設の清掃などの奉仕活動をさせることは、確かに「厳罰」とは違うが、それを指して「優しい」というのも、何か違うような気がする、ということだ。ペナルティーをきつく課す事が厳罰化、だとするときに、ニルス氏の議論やノルウェーの実践に見られる人間的な処遇を提供することは、「恩赦」的な「優しさ」ではなくて、「合理的」である、と感じたのである。これは、「問題行動」という補助線を引くと、考えやすい。

人が犯罪に手を染める、ということは、逸脱や問題行動の極大化、といえよう。この際、悪いことをしたから懲らしめる、という発想は、厳罰化にもつながる考え方であるが、それをニルス氏は復讐感情である、とする。元々犯罪に手を染める人は家庭環境や生育上の問題が少なくなく、ある意味、犯罪に手を染める段階で、相当に追い込まれている人々が少なくない。そういう追い込まれた人々に、更に刑務所において非人間的処遇をしたり、厳しい制裁的措置を下すことは、出所までに更に追い込まれ、再犯につながる、というのだ。このことを指して、問題行動への表面的対応、とも言えるのかもしれない。

それに対して、「優しい」といわれる処遇は、問題行動の背景にある本人の「生きづらさ」や「社会への不信」に対応する。教育も十分に受けていない受刑者に教育の機会を提供するだけでなく、次に再発しないための最善の策を提供しようと心がける。その中で、社会とつながり直すような支援機会となるような奉仕活動といったプログラムを課す。確かに強制的な刑である一方、本人が納得して一定の行動変容につながるような何か、を提供することに重きを置いているようだ。それは、「優しい」対応、というよりも、再犯を阻止するための最善の策、という意味で、合理的対応である、とは言えないだろうか。そして、これは、認知症ケアの領域ともある意味、強い相関を感じた。

認知症のお年寄りも、時として「問題行動」に及ぶ。徘徊や便こね、といった、行動化に際して、以前のしゃんとしていた時の本人を知る身内ほど、以前とのギャップに驚き悲しみ、その「問題」の側面を強く意識する。しかし、『縛らない看護』(吉岡充・田中とも江著、医学書院)や『わたしは誰になっていくの』(クリスティーン・ボーデン著、クリエイツかもがわ)などの本で明らかになったように、問題行動の背景には、本人なりのそうせざるをえない理由があるのだ。それなのに、「そうせざるを得ない理由」に着目し、それを緩和・軽減させるケアをするのではなく、単に行動化(表面化)した「問題」を罰する・なじるだけでは、何も問題が解決しないどころか、本人が余計に不安に思い、「問題」が余計に複雑になる、と、言われている。「問題」に対して、厳罰で臨むのではなく、その本人なりの理由に向き合い、それを緩和する方が、「問題」が結果的に減る、という合理的なケアが、認知症の世界でも当たり前のように提唱されるようになったのだ。

この「問題行動」に対する捉え方の転換は、薬物依存や強度行動障害や幻覚・妄想状態の人にだって、当てはまる。以前、薬物依存の経験者、倉田めばさんの講演を聴いていて、「薬物依存は自己表現だ」と言われた事を思い出す。生きづらさや苦しさを表現する術がなくて、薬物やアルコールなどに手を出す、というのだ。確かに、強度行動障害や自傷・他害といわれる行為に及ぶ人の中にも、自分の苦しみや困難性を表現する為に、そうせざるを得ない状態になる人もいる。それを指して、自傷・他害状態だから拘禁すればよい、としても、問題の表面は収まっても、以前も書いたが、問題の骨格には何も手つかずなので、何も変わらない。下手したら、問題は酷くなるばかりだ。であればこそ、問題の核心部に触れる部分の変容を、どう支援出来るか、が問われるのである。

あることが「問題」である、とする。その際、問題の表面に水をかけて、なかったことにする、見て見ぬふりをするのか。あるいは、その「問題」と直面して、その背景や原因までじっくり解きほぐしていこうとするか。「厳罰」「優しさ」といった、表面的な言葉に左右されず、その言葉の奥に隠された構造や論点を、今年もじっくり眺めていきたい。

今年もよろしくお願いいたします。

ピコピコマンの年の瀬

 

昨晩、久しぶりに本格的な四川料理を食べる。一年遅れの母親の還暦祝いである。

一昨日から京都に来ている。いつもは朝早く出ていたので、関ヶ原の渋滞にばっちり引っかかり、結構大変な目にあっていた。そのことを職場の図書館で嘆いていたら、大阪出身の司書嬢が「夜帰ったら、ぜんぜん混んでいないですよ」とのこと。半信半疑ながら、確かにそうかも、とも思い、夜7時過ぎに出たら、日付変更線を超える前に、実家に辿り着いたのである。渋滞知らずで帰れるのは、大変ラクチンでよろしい。

で、昨日はネットで見つけた河原町の中華料理店を予約したので、随分久しぶりに、我が家の前から市バスに乗って四条河原町に。30分ほどのショートトリップである。運転しなくてもいいので、気づいたらピコピコマンになっている。これは、パートナー曰く、僕が挙動不審の人物が如く、キョロキョロキョロキョロしていて、あちこち目を動かすので、そう名付けられた。視線を動かすたびに、ピコ、ピコ、と囃し立てられるのであるが、本当にピコピコピコピコ動かしている。それほど、市バス13番には、思い出が深い。そう、幼稚園の頃から一人で乗っていたのだから。

僕が通った八条幼稚園は、お寺の住職が経営しておられ、うちの祖母のお葬式でもお世話になった、我が家にご縁のある下町の幼稚園である。当時主流だった英才教育とやらも行わず、スモッグを着せて伸び伸びと遊ばせる教育方針がよかった、とは、母親の弁。ただ、この幼稚園は、今では送迎バスを持っているが、当時は歩いて迎えに行く範囲でしか、園児を連れていなかった。僕は3歳までは一条だけ北の西大路七条近辺に住んでいたのだが、3歳で今のマンションに移り住む。すると、幼稚園に通う段階では、歩いて行けない。だから、バス停まで親-先生に送り迎えに来てもらうが、その間は定期券を持って市バスに乗る、そんな生活を続けていた。同じマンションから、タムラくんなど何人かの同級生が、同じ市バス13番に乗っていた。思えば、それが自立の始まり、だったのかもしれない。

そうそう、このころ一つ下の親戚、スグル君は、長岡京市に住んでいた。JRで西大路駅から二駅ほど乗った、神足駅まで、市バス13番とJRを乗り継いで一人で、あるいは弟と二人で行くようになったのも、小学生の低学年から。これも、幼稚園時代から市バスに一人で乗っていた、おませなヒロシ君の自慢でもあった。市バス13番は、そういう意味では、ずっと乗り続けていた路線でもあった。

それゆえに、車窓一つ一つの風景を覚えているので、10年ぶりくらいの終点四条烏丸までの乗車は、興奮しない訳がない。本を持って行ったのだが、全然読む暇もないほど、先ほどのピコピコマン。右や左をキョロキョロしながら、あの建物はまだある、あそこは新しく変わったという感慨に30分、浸り続けた。市バス13番の走る西大路通り、四条通は、古くから市電通りとして栄えていた為、昔から栄えていた通りでもある。よって、ここ30年近く定点観察しても、基本的な町並みの違いはない。お寺さんや病院、ワコールや日本写真印刷など大企業のビルは、基本的に30年間、変わらない位置にある。しかし、一方でこの30年間で、大きく変わった風景が、いくつかあることに気づいた。

まずは、コンビニの増減、である。10年前には急激に増えていたのであるが、最近は整理統合もすすみ、コンビニ跡、もちらほら見えた。次に、ガソリンスタンドの数の減少。これも全国的現象だが、薄利多売現象とセルフの増加などによって、二つの通りから、いくつものガソリンスタンドが減っていた。そして、町屋の減少と高層マンションの増加。ここまでは、これまでに実家に帰っていたおりにも、大体気づいていたことだった。

だが、今回一番衝撃的だったのが、銀行数の減少、である。西大路七条角の銀行跡は、もぬけの殻になっていた。西大路四条(西院)の北西角の銀行跡は商業ビルに変わり、南東角の銀行は1階がコンビニに変わっていた。四条烏丸の銀行跡も商業ビルになり、四条河原町の、占い師「河原町の母」が閉店後に島を構えた銀行もつぶれて商業ビルになっていた。銀行という「あるのが当たり前」だったものがなくなっている、ということに、少なからずビックリする、そんな定点観測であった。

さて、そんなノスタルジックな興奮にふけった30分の後は、パートナーのお買い物に付き合って百貨店巡り+僕に付き合ってジュンク堂の書棚巡り。2時半過ぎに四条烏丸について、河原町のレストランの予約は7時から、と4時間半もあったのに、あっという間に時間は過ぎる。いつもこういう街中に暮らしていると、そういう興奮は薄れるのだろうが、普段は野菜と空気の美味しい山梨に暮らしているからこそ、たまの大都会は実に濃密で、ショッピングもワクワクなのである。なるほど、ずっと都会に住んでいると確かに便利だけれど、こういう楽しみ方は都会から一歩離れるからこその味わいだな、と、都会から離れて5年目にして、しみじみ実感する。これも、定点観測の場に舞い戻ってきたからこそ、感じることなのかもしれない。

年の瀬を京都で過ごすのは、実家にいた時以来だから、10年ぶりだろうか。久しぶりの定点観測で、すっかり京都から、あの頃から、離れてしまっている自分、も発見した。思えば、青春時代、京都という街自体に閉塞感を感じていた。大阪と比較した際の、閉鎖性に嫌になっていた。だが、それは京都という街自体の問題というよりも、自己を客観化して眺めることが出来ない、有り余るエネルギーをうまく活用出来ない、自分自身に対する閉塞感であった、と今になって気づいた。京都は、昔毒づいていた程には、悪くない街のようだ。街歩きも楽しく、中華も美味しかった。そんなことを(再)発見した年の瀬であった。

みなさん、よいお年を。

昨日書きたかった(けど書ききれなかった)こと

 

昨日ブログを書いた後、風呂に入っていて、物足りなさを感じた。ブログの文章に関してである。小説家、奥田英郎氏が書いた伊良部シリーズの書評らしきものを書いていて、何か物足りない、と感じていた。それは何か、と考えていて、ふとこないだ読んだべてるの家の向谷地さんの本を思い出す。それで、はたと気づいた。そうか、あれと一緒ではないか、と。

ただでさえ出費の多い年末、ディーラーに定期点検に入れると、バッテリーと暖房器具一式の交換が必要、と言われる。7万5000円の出費は痛い、と思いつつ、エンジンがかからなかったり、暖房がコントロール出来ないのもたまらないので、泣く泣くディーラーで交換してもらっていた時のこと。1時間はかかる、と言われて、研究室の書棚から持参したのは、『ゆるゆるスローなべてるの家ぬけます、おります、なまけます』(向谷地生良、辻信一著、大月書店)だった。この本は、ライフスタイルのスロー化を提唱する辻さんと、精神障害者の回復拠点を北海道の僻地、浦河で作り上げてきた向谷地さんの対談本であり、主に辻さんが向谷地さんの魅力を引き出すインタビュー、という趣。向谷地さんの本は殆ど読んできたけれど、対談集が時として面白いのは、著者が自分で書かない(その意識がない、そこに視点が向かない)ことが、引き出されている場合である。今回、その対談集でも、向谷地さんの生い立ちや学生時代までの事が引き出されていて、非常に面白かった。

今、その本は研究室においてきてしまったので、手元にないのだが、その本を読んでいて、全体的に感じたことがある。それは、向谷地さん自身が、自分が精神障害者を治したいとか、何とかするために身を犠牲にするんだ、とか、そういう献身性や正義感とは違う動機でこの仕事をし続けている、ということである。むしろ、精神障害を持つ当事者の人々が何を考え、どう苦しんでいるのか、に寄り添いたい、という一心で、接している。その中で、本人から苦労を奪ってはいけない、と考え、その苦労をうまく背負い直せるような支援をしている、という事が、この本を読んでいても、しみじみ伝わってきた。そう、だいぶ回り道になったが、先に挙げた奥田氏の小説を読んでいて、何となくそのスタンスとの相似性を感じたのである。

以下では少し、奥田氏の短編連作集の構造を、ちょっとだけ分析してみたい。(読んでない方は、以下はネタバレ的な部分もあるので、お気をつけください)

小説の中で描かれるドクター伊良部は、世俗の塊のようなキャラクター(二代目のボン、親は医師会の有力者、ポルシェに乗って、似合わないブランドもので身を固めて)である。しかし、治療に訪れた患者に、趣味で注射を打つけれど、それ以上の治療らしい治療をしようとしない。カウンセリングを求める患者に対しても「聴いても無駄でしょ」など、一見すると、酷い対応をする。しかし、このドクターは、あろうことか、興味本位で患者の仕事の現場についていく。野球選手だったり、作家だったり、サーカスの曲芸師だったり、ルポライターだったり、独特のキャラを持つ登場人物の所属する現場に顔を出し、勝手な事をし始める。そして、ドクターが勝手なことをしでかしている間に、クライアント自身がドクターに引っ張られて、その現場での関係性を変容させたり、何らかの気づきが起こる。そしてその変容が、結果としてクライアントの問題の解決の糸口に繋がる、そんな構造がみてとれる。そして、3作続けて読んでみて、この構造には、一定の真実みがあるのではないか、と思い始めたのである。

昨日も書いたが、精神疾患は、社会の中での生きづらさが身体や精神的な失調という形で現れる部分もある病である。社会で何らかの役割を引き受ける事に疲れ果て、あるいはその役割を維持する事に自信がなくなったり疑問が生じ、抜けられない落とし穴に陥るかのように、周りとの不全感が累積していく。そのうちそれが、鬱や記憶喪失、幻聴や不安障害などの形で身体症状として表面化していく。それに対して対処療法的にその表面化した症状を薬で消す(減らす)ことは出来ても、内面にある不全感や生きづらさに目を向けることをしなければ、表面は一旦鎮火したかに見えても、再び火が燃え広がる可能性は少なくない。

べてるの家の実践の面白いところは、向谷地さんだけでなく、タッグを組む川村医師も含めて、対処療法的な多剤療法に逃げない、というところである。クライアントが病気に逃げ込まないで、苦労を引き受ける主体になれるような支援をする、そのことによって、不全感や生きづらさにこそ、うまく対処出来るようにSST(ソーシャルスキルトレーニング)などの技法を使ったり、「三度の飯とミーティング」というフレーズに代表されるような、当事者のセルフヘルプグループの力を活用する戦略をとっているのである。そして、その対処療法ではなく、問題の核心と対処するやり方への変容を支援する、という部分が、先の伊良部シリーズ構造に似ているような、そんな気がしてきたのだ。

ここで、浦河の実践と伊良部シリーズに共通するのは、クライアント自身が関係性を変容させたり、何らかの気づきが起こる主体である、この部分を奪わない、という事でもあるような気がする。専門家にお任せして、患者は「援護の客体」と矮小化されていない。あくまでも、その問題を引き受ける主体であるけれども、その問題の大きさや、関係性の悪化にくたびれ果てて、一人では解決する気力も落ちている。そんなときに、有無も言わずビタミン剤やブドウ糖という無害なものを注射する伊良部ドクターは、向精神薬で薬漬けにする一部の精神科医より、遙かにマシなのかも知れない。浦河の川村ドクターも、出来る限り薬は減らすのが原則、と言う。その上で、クライアント自身が問題と関われるよう、医師が余計な責任まで取ろうとしないのも、共通点かもしれない。川村ドクターと違い、小説の中に出てくる伊良部ドクターは、間抜けですらある。しかし、このマヌケさが、患者自身をして、医者に頼っても仕方ない、という踏ん切りになるのかもしれない。そして、この踏ん切りが、関係性を変容させる、踏ん張りの原点になっている節も見られる。

素人分析なので、当たるも八卦、の域からは、当然出ていない。だが、こういう事を色々考えさせてくれる、という意味では、非常に面白い比較が出来る奥田本と向谷地本であった。

おいで、おいで

 

年末モードである。

とはいえ、そんなに本気で掃除する暇もないのであるが、今日は卒論指導に出かけた大学で、ついでに掃除のおばさんが出していたモップをお借りして、研究室の汚れをとる。本当はもっと本格的にやらねば、と思うのだが、昨日は合気道の忘年会で飲み過ぎたので、調子が上がらない。年末のお買い物などのmustの事項もあるので、本棚の整理は年明けに延ばして、早々に退散する。

帰って、昼飯を食べて、ちょっとお昼寝をしてから、ようやく煤払い、のはずなのだが、その前に、年賀状の印刷に取りかからなければならない。相変わらず、超がつくほど準備が遅い。今年届いた年賀状と宛名ソフトのデータを対照すると、引っ越しなどで、手直しが必要なデータも少なくない。こういうチマチマした(しかし重要な)事を小一時間で仕上げ、しかる後にようやく両面を印刷に回しているうちに、あれま、夕方。せめて、書斎の机と本棚くらいは、と、何とか片づける。乱雑に積み上げた本を並べ直す中で、読んでいない背表紙が、おいでおいで、と呼びかけてくれる。すんません。せっかく買ったのに、手に取らないまま「寝かせ状態」の本が沢山ございました。年始のお休みにでも、ちびりちびりと読ませてもらいます、と謝りながら、本を入れ直す。

そうそう、ここ数週間、にわか小説ファン、になりつつある。奥田英郎が思いのほか、ヒット、であった。直木賞作家だから、ということは、読み始めて初めて知る不勉強ぶりではあるが、受賞作の『空中ブランコ』、その続きの『町長選挙』(共に文春文庫)の伊良部シリーズを、ずんずん読み進めていく。トンデモ精神科医と患者のストーリー、というと、一応その業界に多少の関わりがあるだけに、最初の『イン・ザ・プール』の途中あたりまでは、身構えて読んでいた。だが、そのうちその身構えがすっかりなくなり、安心して笑いながら、でも唸りながら読む。面白いし、月並みな言葉だが、人間がしっかり書けている小説である。

ご承知のように、社会における「標準偏差」からの著しいズレが一個人の中に生じた時、何らかの精神疾患の兆しが生じることが少なくない。特に、日本社会のような同調圧力が強く、かつタイやスウェーデンなど他国に比べても同調スピードが早い国においては、波に乗りきれない、あるいはスピードについていけないばっかりに、社会への拒否反応が精神や身体症状の異変、という形で表出する場合もある。この伊良部シリーズに出てくる「クライアント」も、そういう、どこにでもいそうな、そして自分もそうなりうる「隣人」である。彼ら彼女らの描写が実に鋭く、また、それと対比した際のドクター伊良部の幼稚さ加減と非現実性の対比に、むしろ救われる。真っ当なクライアントに対比して、はるかに「逸脱度が高い」のは、伊良部ドクターの方だ。また、それと共に、思いがけぬストーリー展開と解決策の提示の中に、必ず希望が見えているのがいい。こういうバランスが、上手く配合されているがゆえに、社会派小説ではなく、エンターテイメントとして楽しめるのだ。このシリーズはもうこの三冊で今のところ終わりなので、さて、別のシリーズに手を出そうかしら。

そうそう、この正月は、長い間楽しみに置いておいた村上春樹の「1Q84」も解禁予定。本棚からは他のもう少し堅い本も「おいで、おいで」しているのだが、まずは小説にもう少しどっぷりはまりたい。

ぶれない軸

 

日曜日以外に休みが取れたのは実に久しぶり。ここしばらく、日曜夕方は合気道なので、なるべく日曜日の予定を開けようとすると、結果的に土曜日は仕事で埋まっていた、況や祝日をや、である。

その合気道は、昨晩が年内最後のお稽古。7時半まで長々続く会議にイライラしながら、終了後、すぐさま道場に直行する。20分遅れで練習に合流したので、結局1時間しか稽古出来なかったが、実に楽しい。終了時に先生から来年の月謝袋!を渡され、今年の月謝袋も一緒に返される。5月から始めたので、8ヶ月分のはんこが押されていて、少ししみじみ。この8ヶ月の間に、週1回を週2回に変更し、熱心に通うようになっている自分がいた。そして、稽古納めの昨晩も、足を刺すような寒さの道場で、投げられたり、新たな型に挑戦しているうちに、すっかり汗だらけ、となる。そういう至福なひとときを過ごせるようになったことに、誠に感謝である。

で、帰りがけに、もともとこの合気道の道に導いてくださり、昨年度まで仕事上でもご一緒させて頂いていたツチヤさんから、「仕事も合気道も同じで、軸がぶれていない、というのが大切なんですよね」と言われる。ここ3年ほど続けている仕事の場で「ぶれない」という評価(お世辞?)をして頂いたことに恐縮しながら、改めて「軸がぶれない」とは何か、を考えてみたい。

合気道において、未だによくわかっていないが、コマのように軸足がきっちりとした上で、上手な回転をしていくことが大切だ、と教わる。しかし、コマと違うのは、相手の動きに合わせて重心も移動しながら、しかし身体全体を軸として、姿勢をしゃんとして、その軸に沿った動きが大切だ、というのである。これは、仕事の現場でも、もしかしたら関連性があるような気もする。

例えば、県の障害者福祉に関する特別アドバイザーを引き受けたとき、一緒にアドバイザーをさせて頂いている今井さんと二人で議論して、主軸にしたのは「当事者主体」と「当事者の権利擁護支援」であった。この二つの軸は、常に自分の頭の片隅に置き、講演だけでなく、どんな方々との議論の場でも、ずっと何度も繰り返し言い続けてきたことだった。何か暗礁に乗り上げそうになると、その言葉を思い出し、軸とずれていないか、を考えながら、仕事をしてきた。

ただ、「当事者主体」にしろ、「権利擁護」にしろ、抽象的な概念をそのままにしていても、仕方ない。時と場合によって、相手や状況によって、現実と理念をどのように絡ませるか、が問われる。合気道が組み手と自分の二者関係で軸を作りだすように、現実と理念の二者関係の中で、軸が機能するかどうか、が決まるのである。その際に、自分が現実と理念の間に入って、つまり留め金(=軸)として両方がかみ合うようにぶれなく回すように、バランスを取ることが求められる。だがこのとき、現実を理念に極大化するのでもなければ、逆に理念を現実にこじつけるのでもない。両者の違いを意識しながら、そのかみ合うポイントを探り、理念(=合気道で言うなら型)の軸にそぐう形で、現実の変容(=相手への技が決まる)を実現していく。

ただし、その際にその現場現場によって異なるツボというか、変容ポイントをきちんと見つけて、その部分に効果的に働きかけない限り、どんなに力を入れても物事が動かない、というのも、合気道と特別アドバイザーの実践で似ているような気がする。あくまでも、変容するポイントを体得し、その部分に技がかかるように、練習をすることが求められる。現場への関わりならば、何がそこで求められているのか、を、五感を総動員して把握することが求められているのである。この部分も、普段から練習を重まだ、練習を始めて8ヶ月だけなので、中途半端な分析しか出来ないが、日々学ぶことの多さにワクワクしている今日この頃、と言える。仕事でも、合気道でも、早く「ぶれない軸」が欲しいなぁ

そうそう、世間は気が付けばクリスマス。我が家では、今年も恒例の「鳥一の丸焼き」を購入して、その後立ち寄ったいそべ酒店では、シャンペンに赤ワイン、それに県内産ブドウを使ったグラッパまで、仕入れた。しっかり呑む前に、今から頂き物のゆずを風呂に放り投げて、ゆず風呂でほっこりする予定。その後は、いつもより早いスタートの、ミニパーティー、である。極楽な休日となった。