香港旅日記(その1?)

 

2月末から3月初旬にかけての6日間、スイッチを切ってきた。向かった先は香港。春休みを頂いて、パソコンは持参せず、とにかく現地でボンヤリしよう、と日本を脱出した。

日本に出る直前は、いっつも〆切前の仕事で追いまくられて、身も心もボロボロになりやすい。今回もご多分にもれず、前回のブログにも書いたように、3月のNPO学会のフルペーパーに、8月の海外学会(EASP)のアブストラクト作り、の二つの〆切を前に、必死になっていた。それに加えて腹風邪を引いたり、体調は優れなかったのだが、とにかく25日のキャセイパシフィック航空に何とか乗り込む。今回はいつもと違って午後遅い便にしたので、朝4時とか5時のバスに乗らなくて良かったのが、不幸中の幸い。飛行機でアルコールもパスし、本にも集中出来ず、ダラダラ寝たり本を読んでいる内に、香港に到着。だが、そんな出立前のトホホ、な顛末も、今グーグルカレンダーを見ながら辛うじて思い出すくらい、現地でのステイは充実していたのである。

何がよかったって、まず、エイジアンモンスーンの気候で、最高気温が28度、最低でも22度と半袖。ただし、湿度も9割越えと蒸す為、室内はとんでもなくクーラーが効いていて、ジャンパーは欠かせない。しかし、街歩きの最中には、ポロシャツでちょうど良い、そんな気候に気持ちがウキウキする。当然、日本帰国後の寒さは、身に応えるのだ(今日だって、セーターですもんね)。気温に左右されやすいなんて、幼稚ではあるが、しかしファンダメンタルなものでもある。

次に、香港旅行の定番、お買い物と食べ歩き。普通は3泊4日でも飽きる、と昨冬先に訪れたマオ嬢は言っていたが、僕たち夫婦にはさにあらず。正直、5泊6日でも足りない、というほど、楽しかった。我々はチムサーチョイの地下鉄駅から徒歩5分、という抜群のロケーションのホテルに滞在したのだが、香港は地下鉄やバスを使えば、大体行きたいところにいけるし、かつタクシーも安い。非常にコンパクトな(=というか狭い)街故に、高層マンションがニョキニョキ立ち並んでいる土地柄。そういうところで、アーケードを眺めながら掘り出し物を探し歩くのが楽しい(麻のジャケットをゲットできたのはうれしかった)。そして、休憩先で食べたケーキやエッグタルトなんかも、すこぶる美味しい。かなり毎日歩き回ったのだが、一方で飲茶も餃子も海鮮料理も四川料理も、どれもパクパク美味。それだけなら豚になってしまうので、今回はちゃんと日本からコンパクトな体重計も持参! 朝食を抜くか、果物だけにとどめ、レコーディングダイエットもまめに続けた結果、ちゃんと76キロ台をキープし続けられた。アブナイ、あぶない。

いつのころからだろうか? スウェーデンに滞在することが決まった時以来だから、もうかれこれ7,8年になるだろうか。我が家の定番として、旅に出る前に、現地のガイドブックやその土地にまつわるエッセイなどを5,6冊以上、買い込むことにしている。その理由の一つとして、行く前から旅の気分を高めていく、というのもあるのだが、現地で改めて感じたのは、「複数の視点」の大切さである。

一般のガイドブックに載っているお店、というのは、定番のものもあれば、その店から何らかの見返りがあって掲載されているものもある。しかも、取材は複数のソースに基づいているのは良いのだけれど、何というかオリジナリティがあまり無い。ま、逆に言えばガイドブックには「ベタ」が求められ、多くの読者にとって、逸脱しない事が安心感になっているかもしれない。確かにそうなのだが、パックツアーでもなく、「他の人がしているから○○したい」があまりない我が家のニーズと、定番ガイドブックはどうもずれる。そんなとき、オルタナティブな視点を提供してくれるのが、著者名のクレジットがしっかりしている単行本だ。今回、予習本としては『転がる香港に苔は生えない』(星野博美著、文春文庫)が、現地では『お値打ち香港・マカオ改訂版』(山下マヌー著、メディアファクトリー)が、そのお供にぴったりだった。

星野さんの本では、広東語を主に話すローカルな香港人たちの人生の断片を垣間見ることができる。分厚い本だけれど、第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞もうなづける、香港人の縮図が楽しめる一冊。実際に現地で、中国からの元密航者と思しき貧しき労働者の横を、バブル景気で大金持ちになってチムサーチョイのブランドモールで買いまくる中国からの旅行者軍団が通り過ぎていく風景を目にした折に、ふと星野さんの本に出てくる彼・彼女の光景を思い出すのであった。目の前に単に見えている景色に、どういう意味合いがあるのか、を解釈する上で、彼女のルポは格好の補助線となる、濃厚な一冊だった。

それに対比して、マヌー氏の本はタイトルからもわかるようにガイドブック。ただ、大手のガイドブックと違い、自分の目で確かめて納得した内容だけを厳選した、と筆者が言うように、かなりその信頼性はある。実際、前回のバリ旅行でその視点に共感した我々は、今回彼のお勧めのエアラインをネット予約し、ホテルに泊まり、食事も食べたが、どれも確かによかった。自分の視点や感性と似た部分(同じ方向性)を持つ著者の枠組みにお世話になってみるのも悪くない、と思わせる一冊だった。香港で滞在中、ずっとワクワクさを持続できた理由のひとつに、この本との出会いはあるかもしれない。1冊の本を鵜呑みにするのではなく、複数のガイドブックを重ね合わせる中で、一番安心してお供にできたのがマヌー本であった。

で、実はそんなことは入り口で、香港に脱出したからこそ!?、現地でいろいろ考えたこと・気づいたことはもっとあったのだが、それはまた項を改めて。

便りのないのは

 

よい便り、です(たぶん)。

先週から急激に忙しくなっている。2月末に、学会発表用のフルペーパー1本、海外学会用のアブストラクト1本を仕上げて、月曜火曜は三重で講演3本+会議2つ。研究モードにだいぶ頭が戻りつつあるのはよいことなのだが、とにかく忙しくて、ブログを書き込む暇がない。

そういえば、火曜日の夜は最終の「ふじかわ」号で帰る中でブログをしたためようと思っていたのだが、静岡駅のホームで水を買おうとしていると、「あら、どうしたの?」と声をかけられる。職場の先輩のE先生。あちらは学内で要職にありながら、本や論文も沢山書き、そして現場で講演も週1ペース以上でしておられる。本当に超人。ブログを書くより、せっかくなので、E先生の席にお邪魔し、2時間話し込む。当然、水は缶ビールに変わっている。

印象的だったE先生の一言がある。
「僕のやる分野って、教科書も先行研究もないんだよなぁ。だから、講演に出かけて、現場の人と話す中で、考えるしかないんだよなぁ」

僕自身も、月曜火曜の講演現場でちょうど様々なことを教わっていたので、そのシンクロニシティにびっくり。そう、先行研究って、ある程度固まった何か。しかし、自分も、まだ流動的で、あまり眼もかけられていない、アモルファスな何かを追いかけているんだよなぁ、と改めて感じた。きさくな先輩の叡智を、しみじみと噛みしめながら聴いている内に、あっというまの2時間だった。

「生の技法」に見る「学的精神」

 

少し風邪気味、である。熱はないが、放っておくとゲホゲホするので、家の中でもマスクをしている。先週火曜日は唇を切って合気道をお休みしたが、今日も泣く泣く合気道はお休みにせざるを得ない。悲しい。

で、昨日はコンコン咳き込む中、東京で読書会。障害者福祉の政策や実践に関わる皆さんと、古典を読み続ける不定期の勉強会。前回はイギリス障害学の古典であるオリバーの『障害の政治』だったが、今回は日本の障害学の原点、だけでなく、自立生活運動の軌跡をまとめた古典的傑作でもある『生の技法』(安積・岡原・尾中・立岩著、藤原書店)を読む。

この本を人に勧められて最初に手にしたのは、大学院生に入った頃だろうか。その当時、精神病院でのフィールドワークを初めて1,2年、の頃だったと思う。なので、脱家族や脱施設に関する部分に興味を抱いて読んでいた。だが、10年ぶりに真面目に通読してみて、古典たる所以を再発見する。20年前の本とは思えない、現代性を持った切り口。社会学のフレームワークを持ちながらも、それは前には一切出さず、あくまでも自立生活運動の当事者達の書いたものや記録を丹念に掘り起こしながら、しかし社会学的な視点で自立生活運動が「なぜ、あるのか」をあぶり出していく。そして、恐ろしいことに、20年前に指摘されている論点は、ポスト自立支援法の論点、としても何の問題もない、という点だ。変わらない現実のほうが、問題なのかも知れないが。

昨日の勉強会では多くのことを議論し、学んだが、ブログに特に書いておきたいのは、この本の主たる書き手の一人である立岩真也氏による、問題設定に関する記述である。

「今まで彼らについて、『福祉』について語られる時に見過ごされていると思われることを専ら考察の主題とした。それは隠された新たな問題というよりは、彼らに対して在る『制度』-ここでは個々の生を規定するものというように広い意味でこの言葉を用いる-がそれ自体として持っているもの、それ自体を作っているものへの問いである。」(『生の技法』p3
「私たちがみてきた障害者の運動は、このような社会の諸領域の分割、編成を自明なものとしない。分割としてある社会、しかも一つの方向に導こうとする社会をそのまま受け入れない。」(同上、p210
「理念を現実の中にどのように実現していくのか。ここには多くの考えるべき課題がある。この社会の基本的な編成のされ方自体が思考の対象になる。」(同上、p269

これらの記述から強く感じるのは、障害者が社会的に排除されている現実を所与の前提とせず、その現実がどのように社会的に構成されているか、その構成のされ方自身に対する「問い」を日本の障害者による自立生活運動は持ち続けてきた、ということである。私たちは普段福祉について語るときには、「○○の制度は悪い」「諸外国をならって□□の考え方を導入すべきだ」という法や制度の良い・悪いが多い。だが、その法なり制度がそうなっている現実という「この社会の基本的な編成のされ方自体が思考の対象」として捉えて来ただろうか? ここで制度を先の引用のように「個々の生を規定するものというように広い意味でこの言葉を用いる」とすると、家族制度や入院・入所中心主義も含めた、現在の福祉をそうならしめている「枠組みそのものへの問い」を、自立生活運動は、少なくともその初期段階では持っていた、ということである。この「枠組みそのものへの問い」というのは、単に批判的、だけでなく、根元的という意味も込めたラディカルな問い、であり、具体の制度・政策の変容を求める漸進的な(incremental)問いとは対極にある問いである、ということである。

その自立生活運動の持つラディカルさを鮮やかに整理する同書は、単に運動の記録、ではなくて、研究書としてのラディカルさを持っている、と、再読して改めて感じた。立岩氏がここで問おうとし、氏の後年の多作を産み出す原点に、「それ自体として持っているもの、それ自体を作っているものへの問い」がある、ということも、納得出来た。そして、そのような「枠組みそのものへの問い」というものが、実に「学的精神」なるものに通底している、と感じた。

「およそ学(体系知 Wissenschaft)なるものは、論証を基本とする。その論証方式の完全不完全を問わず、学には必ず論証を伴う、いやむしろ論証こそ学の本質であり、学の内容そのものである。論証なき言説は、その外見が『理論的』であろうと、学的ではありえない。ひとつの命題(「甲は乙である」)は、すでに論証の形式である。ひとつの命題は、ひとつの結論であり、その背後には必ずそこへと至る推論過程すなわち論証をもっている。いっさいの命題は論証した結論である。論証が不在のときには、あるいは論証がすでになされながらも表に出ないときには、その不在の論証を再構成しなくてはならない。」(今村仁司『親鸞と学的精神』岩波書店、p29)

先週の朝日新聞の書評欄で、高村薫が取り上げていた一冊。「学的精神」というフレーズが気になり、早速取り寄せてみた。まだ、中身は読んでいないが、当該部分を読んで、深く納得した。たった数行で、研究とは何か、をここまで深く掘り下げている文章に初めてであった。

何だか理論的フレーズや先行研究のお化粧がまぶしくても、納得出来ない(つまんない)論文が片方にある。もう片方で、『生の技法』のように、当事者の語り・記録・発言を前景化させ、理論や先行研究はあくまで注などに後景化されていても、深く納得出来る作品もある。その査定基準は何か、をちゃんと自覚化していなかったのだが、結局の所、「そこへと至る推論過程すなわち論証」がきっちりしているかいなか、なのである。それがきっちりしていないものは、「その外見が『理論的』であろうと、学的ではありえない」。信頼出来る、そして説得力のある基準である。

「生の技法」を「論証」という側面で見てみると、まさにこの今村氏の定義が当てはまる。自立生活運動が、その起源において、なぜ「愛と正義を否定する」「安易な問題解決の道を選ばない」と、既存の「制度」との真っ向勝負をしたのか。その背後にある、福祉政策の持つ「二重の否定」(当時の医療・リハモデルに代表される障害の除去・軽減の志向性と、施設福祉という政策実施に伴う一般人の負担免責機構)を当事者の言葉からあぶり出し、現前のものとする。そのことを通じて、障害当事者が取り組み続けた「枠組みの捉え直し」を主題的に取り上げ、またその記述を通じて筆者らは、福祉を巡る研究言説の「枠組みの捉え直し」を行おうとする。その二重の「枠組みの捉え直し」が、分厚い推論過程を伴って巧みに行われているので、真に「学的」なのだ、と納得した。

そんなことを考えていたら、別の文脈で同じようなことを書いている人にも出会う。

「氏の仕事の重要性は、ラカン理論を日本の現象に当てはめて金太郎飴のような結果を出してくるのではなく、日本の現実からラカン理論を自分なりに組み直して生産的でオリジナルな理論を作っていることにあり、それを通して日本社会の現在に四つに取り組んでいることである。」(樫村愛子「解説:『心理学化論』は『心理学化社会』を超えるためのラカン派の武器である」斎藤環『心理学化する社会』河出文庫、p245

社会学者の樫村さんの著作は、こないだ京都駅で買った本の中にあるのだが、まだ読んでいない。だが、斎藤環の解説に寄せた彼女の分析に、ハッとさせられる。そう、「その外見が『理論的』」だけれど、面白くない論考は、文字通り「金太郎飴のような」性質なのだ。それは理論や実態(のどちらか、時には両方)に対する「枠組みへの問い」がない(薄い)からである。高名で流行の理論をそのまま現実を切る道具に使ってみても、その理論への疑い(なぜ、あるのか)を問わないまま盲信していると、それは不十分な論証であり、学的精神にもとるのである。そうではなくて、現実から理論を「自分なりに組み直して生産的でオリジナルな理論を作ってい」くこと。そこに、研究のエッセンスが詰まっているのである。そして、立岩氏が『生の技法』で示しているのも、「枠組みへの問い」に基づく、「自分なりの組み直し」なのである。そのオリジナリティが高いからこそ、「学的精神」にあふれる一冊として完成している、と言えるかも知れない。

自分が目指すべき(しかも遙かに遠い)目標が、ようやく見えてきたのかもしれない。

不完全燃焼と不全感

 

合気道のお稽古に行く直前、唇を切ってしまう。ジャンパーのジッパーを勢いよく上げた時に、ついでに唇も挟んでしまった。大変マヌケなこと、この上ない。行こうか、とも思ったのだが、柔道場で投げられて、また血が出たら、僕はよくても相手をしてくださる方の胴着についてしまっては、申し訳ない。せっかく出陣モードだったのに、取りやめる。情けないやら、そそっかしいやら。で、仕方ないので、パソコンを立ち上げて、ブログを書き始める。

ここしばらく、引用したい本を色々読んでも、なかなかブログに書き込む間もなかった。なので、今日は脈絡があるかどうかはアヤシイが、最近気になったフレーズをいくつか書き込むこととする。

「上野千鶴子や中島義道の体験には、形としての『家族と子育て』はあったのだが、『世代を紡ぐ』体験、そこから生じる『ともに-あること』の体験、つまり『三世代存在』の体験、さらに言えば『あなた』の体験がされてこなかったと私は感じる。『家族』や『子育て』というテーマを考えるということは、多様な家族形態や多様な子育ての形態を機能的に考えるだけのことではない、と私はかねてから思ってきた。このテーマを考えることは、人間という存在が基本的に『世代を紡ぐ存在』であり、『三世代存在』であること考えることにならなければならなかったからだ。しかし、現代日本は『家族と子育て』というテーマを無にし、こんどは『老後』の問題を、『最後はひとり』の問題にすり替え、『三世代存在』ではなく『おひとりさま』や『シングルライフ』の人間観でふたたび見直しをさせようとしている。そういう思想が上野千鶴子の『おひとりさまの老後』からまたはじまっているように私は感じる。」(村瀬学『「あなた」の哲学」講談社現代新書、p51)

上野千鶴子と中島義道、ともに、言論人として色々書いているし、エッジが効いていて文章は面白い。だが、何だかよく分からない違和感を感じていたのだが、この村瀬氏の分析を読んで、なるほど、と頷く。二人の文章を読んでいて、強い「私」を感じ、それが文章や文体にラディカルな刺激を載せている。二人とも超が付くほどの論理性を持っている。だが、何かが欠落している。その何か、が「『ともに-あること』の体験、つまり『三世代存在』の体験、さらに言えば『あなた』の体験」と言われて、そうだよな、と腑に落ちた。

そういう「ともに-あること」を前提にしない文章は、相手をやりこめるための強いメッセージとしては有効な、機能的言語かもしれないが、曖昧さ、というか、異なる存在をも入れる器のような拡がりが感じられない。特に家族やケアを議論する時には、その硬直性が目に付く。そのことを、「あなた」の欠如、として村瀬氏が上げているのが、この本の面白いところであった。ただ、前半が読ませる故に、後半の論理展開に少し甘さがあり、前半ほどのシャープさが見られなかったのが、残念であったが。

で、こう書いていると、今日引用したいもう一冊のテキストとくっつきそうになってきた。

「真に分析的な知性とは、自分が『何を見ているか』ではなく、『何から目を背けているか』、『何を知っているか』ではなく、『何を知りたがらないのか』に焦点化して、己自身の知の構造を遡及(そきゅう)的に解明しようとするような知性のこと」(内田樹『女は何を欲望するか』角川書店、p102

この本は単行本版で以前読んでいたのだが、かなり書き直されたという新書版も買っていて、ちょうど内田樹の新刊を読んだついでに読み直したくなくて読んだ一冊。この中で、『何から目を背けているか』『何を知りたがらないのか』という部分を、先の上野氏や中島氏は焦点化していない。いや、それを完膚無きまでに徹底的に否定する形で、いわば負の形での焦点化はしているのかもしれない。そして、そのオリジナリティや論理の鮮やかさ、で、多くの読者を引きつけているのかも知れない。しかしそれが「負の焦点化」である限り、「真に分析的な知性」とは言えないのではないか。内田氏の議論を援用すれば、そう思えてしまう。

負の形で焦点化していることに無自覚であったり、その部分について「遡及的に解明しようとする」努力をしない限り、どこかで他責的になり、機能的言語の遂行という枠組みの範囲内に収まってしまう。そうすると、『ともに-あること』の体験、という形でしか表せない感覚的な何かにまで、たどり着けない。そして、その何かにたどり着けない限り、『何を見ているか』『何を知っているか』についていくら論理的・網羅的にまくし立てても、どこかで不全感や不安定性が、読者によっては沸き起こるのかもしれない。僕が感じた上野氏の本に時たま感じる不全感も、そのあたりにあるのかもしれない。

勿論、僕は上野氏や中島氏ほど、文章にキレも論理性もない。だが、『何から目を背けているか』『何を知りたがらないのか』については、自覚的ではありたい、と願っている。そして、その意識に基づいて、「己自身の知の構造」というほどたいそうなものではなくとも、自分自身の偏りやバイアスを自覚しながら、『ともに-あること』にどこかでアクセスしている文章を書きたい、と願っている。

唇の出血は止まったが、ちょっと腫れてきた。こういうそそっかしさも含めて「目を背け」ずに、ぼちぼち、自分と付き合っていきたい、そう思う、不完全燃焼の夕べであった。

変化の予感

 

今日は珍しく最終ではなく、新宿21時発の「あずさ」に乗りこむことが出来た。移動日にしては、お早いお帰り、である。ま、夕方5時過ぎまでは大阪は堺市に居たのだけれど

昨日は三重で、人材育成のあり方に関する講演とディスカッションのお仕事、今日は堺で久しぶりに一参加者としてのお勉強のためにツアーを組んでいた。今日は、その堺でのフォーラムの後、主催者の懇親会にお誘い頂いていて、もともと1時間ほど顔を出すつもりでもいた。だが、ご案内のように、大寒波が襲っている。パッチ(関東ではズボン下、というのですね、最近初めて知りました)を履いていないと、関西も本気で寒い。今朝から米原付近で新幹線が雪による徐行運転をしている、最大30分遅れ、とも聞いていたので、山梨まで帰り着く民としては、ギリギリの移動は、特に終電付近だとかなりリスキーになる。

よって、会の終了後、早々会場を後にして、いざ新大阪でとにかく東京行きの新幹線に飛び乗ってみたら、既に京都から雪模様。そして、滋賀に入るとそこは雪国。暗い車中から車窓を眺めていても、10センチ以上積もっている様子が見える。ただ、幸いなことにまだ夕刻の段階だったので、15分の遅れで名古屋に到着し、その後遅れを7分にまで縮めて品川に到着。すると、ギリギリで新宿21時のこの列車に滑り込めたのである。これを逃すと次は1時間後の22時。いやはや、滑り込めてよかった。

そう、昨年もこうやって移動中にブログをしたためることは多かったし、たまたまここ三週間は毎週出張続きだが、それを言ったら昨年秋の方がずっと出張続きで酷い状態だった。にもかかわらず、今年の方がブログをマメに更新している。そのことを、ちょうど今日一緒だったナカムラ君に指摘される。前にも書いたが、彼とは先週飲んでいて、その際にカメラ談義になり、僕が「宝の持ち腐れ」しているフィルムカメラの名機、ニコンのF3を彼に使ってもらうべく山梨から京都まで持ってきた。で、取りに来てもらったついでに、ずうずうしくも、堺まで車で送ってもらったのである。ほんと、わがままな友人に付き合ってくれる旧友には、深い感謝、である。そのナカムラ君にブログの更新頻度のことを指摘されて、ふと、考える。確かに、ここ最近、変化が生じ始めているのかもしれない、と。

年の区切りで考え方の変化を語るのは何ら論理的ではないのだけれど、でも、最近、いくつかの変化が自分の中で芽生えつつあるのを感じる。こないだの教授会で席がお隣だったM先生に、「ブログをみていると、突っ走っているようですね」と指摘されたが、確かにその部分があるのかもしれない。別に無理をしていないし、浮き足だってもいない。でも、変化に向けて一歩を踏み出す胎動を感じる。

その一つがダイエット。主治医に「食毒」と言われて始めた低炭水化物ダイエット。2週間を過ぎたあたりで、3キロくらい、するすると落ちました。一日に一回は美味しいものをゆっくり頂く。お酒もたしなむ。そのかわり、炭水化物を減らし、それからあとの2食は摂取量をセーブする。このパターンは、僕自身の生活リズムにも合っているようで、無理なく続けられる。あと、「ためしてガッテン本」のHPからダウンロード出来る体重増減のグラフ表が、励みになる。100グラム単位で朝夕付ける体重記録を気にしつつ、増えた翌日にはセーブ量を増やしたり、という意識化が出来て、大変よろしい。

意識化ついでにもう一つ大きな変化が食事に関してある。それは、「レコーディングダイエット」で岡田氏が言っていた「太る努力を止める」というフレーズ。このフレーズは、僕の中で自己認識のコペルニクス的転換となった。「腹が減っては戦が出来ぬ」とばかりに、食欲や空腹感とは関係なく、三食きちんと時間通りに生真面目に食べ続け、長年頑張って「太る努力」に邁進してきた自分がいた。だが、戦国時代の食事情と今を一緒にしてはならない。時には一食くらい抜いても充分に戦が出来るほどのカロリーは摂取しているのである。不必要にそれ以上取っているから「食毒」となるのだ。

と、こんな風に書くと、ストイックすぎて気持ち悪い、と思っている方もいるかもしれない。事実、レコーディングダイエット本は、オタク的なカロリー計算など、ちょっとついていけない部分がある。でも、自分なりのリズムを作ってカロリーセーブ、ならば、エピキュリアン、というより単なる「食い意地」張っている人間でも、すんなり実践は出来る。例えば昨日は移動途中の塩尻で、30分の待ち合わせ時間があったので、途中下車して塩尻市役所の近所にある美味しい中村屋のパン屋に向かう。ベーグルサンドとフォッカッチャを買ったのだが、結局、昨日のお昼はベーグルサンドのみ。いざとなったら食べよう、と保険のように持っていたのだが、昨日は食べず、今晩はそのフォッカッチャを車中で頂く(しかも半分でやめた)。別に無理をしてない。そもそも僕の日々は、少しの頭と沢山の口を動かしているだけで、カロリー消費は少ない生活なのだ。だから、美味しいものは食べたいけど、量はセーブしても、十分対応可能である。ちなみに、昨日の夜はちょうど運良く実家ではカニすきに巡り合い、今日のお昼はナカムラ君とハンバーグランチを食べる。でも、昨晩なら雑炊は食べない、とか、今日ならポテトサラダとパンはパスする、とか、小さな積み重ねが効いてくる。なので、僕にも続けられそうな、変わりそうな、予感、がしている。

あと、変わりそう、と言えば、最近、もう少し未知なる出会いから学ぼう、というモードになりつつある。今までは自分の守備範囲に一杯一杯、で、少しでも違う立場の人にやたら批判的だったり、攻撃的だったり、あるいは防御的だったりする部分もあった。でも、その閉塞性の殻に閉じこもっている事がつまらないと感じ始め、新たな出会いに開かれていく自分がいるのを意識する。素直に未知な出会いから学べる喜びを、取り戻しつつある。ある程度の自分のペース、が掴めるまでは、異なるペースに対して頑なになっていたのだが、何となくペースが定まってくると、自分とは違う歩み、方向性、志向の人の話や考え方から、惑わされることはなく、学ぶことが出来るようになってきた。新たな考えに出会って揺れながら、しかし惑うことなく、自分の中に入れて消化・昇華していくモード、がようやく出来つつあるのかもしれない。

で、変わってきたのが、このブログの更新頻度と長さ。こないだもある方から業務連絡のついでに、「するめブログ長めですねー読みきれていなくて悔しいです」と頂く。こういう感想なりコメントなり励ましの言葉を頂けるから、奮発している、という読者の目の意識も勿論ある。だが、それよりも、自分が気づきつつあることを、何とか言分けたい、明らかにしたい、という思いが、自分の中でコンコンとわき出している時期だから、のような気もする。ま、そんな暇があったら論文を書けよ、と叱られそうだが、こうして予行演習しているうちに、そのうち書き出せるのではないか、と妄想している。誇大妄想ではなく、予知夢であればいいのだが。

笹子峠も雪景色だったが、甲府盆地は雪がない。さて、山梨市を超えたので、そろそろアップロードして、電源を落とすとしよう。

「いい研究」と「お掃除する人」

 

土日は久しぶりに二連休。正月明け以来、結構タイトなスケジュールだったので、ほっこりする。1月は「行く」、とはよく言ったもの。2月に「逃げ」られる前に、ちょっとは論文を書いたり、まともな2月にしたいなぁ、と反省する。

で、気持ちを研究モードに戻すために、伊丹先生の本を読み直す。何度読んでも、有り難い、というか、読んでいるこちらの不出来で、胸が痛む。

「『いい研究』とは、多くの人が意義があると思える原理・原則に、たくみに迫ったものである。そして『いい文章』とは、自分が発見したあるいは自分が真実と考える原理・原則がなぜ真実と言えるのか、説得的にかつわかりやすく述べたものである。」(伊丹敬之『創造的論文の書き方』有斐閣、p2)

何度も読み返して、違うフレーズをせっせとこのブログに引用している。まだ、研究の世界では新米で、自分なりのペースや枠組みを持ちきれていない。だからこそ、自分が価値あると思う筆者の文章を何度も読み直し、血肉化出来ないか、ともがいている。「意義があると思える原理・原則に、たくみに迫っ」ているか。2月3月と講義がない時期しか、ゆっくり時間が取れない。だからこそ、この時期にある程度まとまった何かを書きたい、と思っている。ある雑誌に半ば連載させて頂いているものの〆切は既に過ぎていて、来週末までに出します、と約束した。3月のとある学会発表では、2月末〆切でフルペーパーを出せ、ともいわれている。海外で二回ほど学会発表した内容は、ちゃんと新しい構成で書き直したら見てあげよう、という有り難いお申し出も頂いた。昨年の学会で発表したあるネタは、ちゃんと論文で書き上げなければ、と思っている。少なくとも3,4本は、この2ヶ月で何とかしたい。しかし、現場の人に比べたら遙かに時間があるはずなのに、なぜか時間がない事態になっている。その中で、単に書き散らす、だけではなく、「意義があると思える原理・原則に、たくみに迫ったもの」を生み出せるか。ここが肝心要である。

一年半前、同じような事態に陥った時に引用した氏の言葉を、もう一度、備忘録的に引いておく。

「『本を読まざるべし』などということをいうのは、昔こういう経験があるんです。これはアメリカで理論の世界での論文を書いているときのことなんだけれど、ある程度いろいろな理論の論文を読んでから、その理論を概念的に、あるいはオペレーショナルに拡張したり、新たに解釈するというのを書いていたんです。そのとき自分の先生にこういわれた。『伊丹さん、参考文献とか、似たようなリサーチをやっているとか、そういう論文は論文を書き終わってから読むようにしてね』と言われたんです。論文の本体を書き終わってから、自分と同じことを言っている者はいないかといって、確認のために他人の論文を読みなさいと。
 驚きましたね。しかしその意味は、最初から全部読んじゃうと新しい発想とか、新しい仮説を作るとか、そんなふうにならないから、ということなんです。何か思いついたら、とにかく理論でゴリゴリ考えろ、10日か一週間あれば、何か結論がが出てくるでしょう。それまでまずやっちゃうんですと。他人の論文なんか読んでは駄目ですと言われた。」(同上、p110-111)

他人の論文や文章に答えがあるなら、僕が書かなくてもよい。なんか書きたい、と沸々と思うのは、既存の文章に飽き足らないから。だったら、カンニングなんてしていないで、「ゴリゴリ考え」てみる。己の頭を振り絞って、理論と現実の架橋を、自分の頭の中で徹底的に行ってみる。その中から、新しい発想・仮説を、絞り出していく。そういう作業こそ、今の時期に必要な仕事なのである。ついでに、「理論の使い方」についても、含蓄深いフレーズが。

「理論のいいとこ取りというのは、理論そのものをバシッと切って、いいとこ取りするわけにはいかんから、結局その理論というのが生まれてきた思考プロセスのどこかを使ってやれという、そういう理論構築の方法のほうを、いいとこ取りをするということに多分なるんですけどね」(同上、p113)

この事象は○○理論に適合的だ、といっても、So what?である。特に、現場の現実に向き合って、少しでもそれを変えたい、とか、改善に役立つ何かを整理したい、という志向性がある場合、こういう使い方はしたくない。ある理論が生まれてきた「思考プロセス」「理論構築の方法」という、アウトプットではなくプロセスが、別の事象を整理するためのプロセス作りに役立つ、というまとめは、実にわかりよい。先に伊丹氏が定義した『いい文章』に至るための、「説得的にかつわかりやすく述べ」る為には、この「いいとこ取り」が大切なのだ。

そういう眼で捉えると、「思考プロセス」から学べる本は、論文以外にもたくさんある。この週末にルンルンと読んだ一冊からも、多くのエッセンスを頂く。

「『私たちの社会は根本的改革を必要とするほどに病んでいる』という事実を立証したいと思う社会理論家たちは、目の前にある『厄災の芽』を摘むことで、矛盾の露呈を先送りし、社会の崩落を防ごうとする人間をしだいに憎むようになるのである。自己利益だけを追求する人と、社会の根本的改革を望む『政治的に正しい』人々は、どちらも『おせっかい』なことをせず、私たちの社会をシステムクラッシュに(意識的であれ無意識的であれ)向かわせる。その間で『お掃除する人』は孤立している。けれども、『厄災は先送りせねばならない』ということと『厄災の芽は気づいた人間が摘まなければならない』ということが私たちの社会の常識に再度登録されるまで、私は同じ事を執拗に繰り返さねばならない。」(内田樹『邪悪なものの鎮め方』バジリコ、p228-229)

「根本的改革」が必要だとしても、その「事実を立証したい」という思いが先に出ることは、結局日々の暮らしの改善よりも、自らの『政治的に正しい』という威信の顕示を優先することにつながる。それでは、結果的に日々の暮らしの問題に対して立ち向かおうとしない、という点で、「自己利益だけを追求する人」と同じではないか。システムそのものの再構築をいう前に、まずそのシステムの不備とどう向き合い、改善を志向出来るのか。そういう「『厄災の芽』をつむこと」が大切ではないか。この内田氏の指摘は、実にその通りだと思う。

システムクラッシュに至らないためには、そのシステムの内在的論理を掴んだ上で、そのシステムの暴走を防ぎ、そのシステムのあるべき方向性を再規定することが求められる。その際、既存のシステム内でやれることはやりきった(=厄災の芽を摘んだ)上で、既に起こっている、新たに起こりうる厄災を「先送り」するために、システム変更に関わることが大切だ。ここでいうシステム変更とは、『政治的に正しい』人の自己実現としてのシステム破壊、ではなく、社会の崩落を防ぐ形でのシステム移行であり、それを果たすのは『お掃除する人』のマインドを持った黒子である。

この内田氏の思考プロセスは、自らも「お掃除する人」として山梨や三重のプロジェクトに参画しているからこそ、実によくわかる。自己顕示欲を前提にしたら、こういうプロジェクトは間違いなく、潰れる。今、かろうじて少しは成果を出せているのだとしたら、我が我が、ではなく、システムクラッシュに至らないための「お掃除」としてのコミットという意識を、曲がりなりにも持てているからだ、と思う。そして、まだうまくいっていない部分では、この自己顕示欲の残滓に振り回されているのかもしれない。アブナイ、あぶない。

振り返って考えてみると、自治体福祉政策の現場において、「お掃除」すべき内容(=つまりは『厄災の芽』)は沢山あるのだが、単なる批評家は数多くいても、「お掃除する人」はなかなかいない、という現実なのである。これを実践者として、だけでなく、論文としても整理してみたいのだけれど、そんなことちゃんと書けるのかなぁ。

両端を眺めながら

この週末、二つの「端」を眺めている竹端がいた。

一つの端は、最先端の方。土曜にうちの大学で行われた「生涯学習フォーラム」で、基調講演の渡邉先生の話が面白い、と同僚から伺い、潜り込んでみた。確かにお話はメチャクチャ刺激的だった。「できごとの実相を伝える多元的デジタルアーカイブズ」というタイトルは、僕には最初ちんぷんかんぷんだったけれど、長崎や広島の原爆体験の記憶を、グーグルアースとくっつけながらウェブ上で融合させる事で、過去と現在をつなげ、記憶の断片を再組織化させるアーカイブスの紹介は、実に魅力的だった。また、東日本大震災後は、ヒロシマ・ナガサキのアーカイブスの経験を被災地に活かした東日本大震災アーカイブも進行している、という。
そのお話に魅入られながら、渡邉先生の一連のプロジェクトの発端になったという、ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクトのことが、ずーっと気になっていた。このプロジェクトは、地球温暖化で島がなくなってしまうかもしれない、という事で一躍有名になったツバルについて、現地に暮らす人びとの顔写真と、現地の風景写真に基づいて、「ツバルの別の様相(=できごとの実相)」を伝えようとするアーカイブである。ここで僕が圧倒されたのは、ある島に住む住民全員の顔写真を撮って、その人がどこに暮らしているか、をグーグルアース上で表示させている映像を眺めた時だった。その島の人びとと信頼関係を作った日本人の写真家が撮った、住民一人一人の顔写真をクリックすると、住民さんの一言が添えられており、しかもその人へのメッセージを送ることが出来る。このプロジェクトHPを通じて、全世界からツバルの住民宛に、メールも届く、という。そのつながりも、グーグルアースを通じて可視化していた。そのつながりの可視化と促進、という観点に、すごく魅入られながら、先生のお話を伺っていた。
先生の基調講演の直後、僕も別の場所で講演をする事になっていたので、直接先生に聞きそびれた事があった。それを、少しブログにしたためておきたい。それは、地方におけるつながりの再組織化に関して、というもう一つの端について、である。
僕はここ最近のブログでも書き続けているように、地域コミュニティにおける人びとのつながりの捉え直し、に興味を持っているし、関わり続けている。限界集落や高齢化率の高い地域における見守りネットワーク、あるいは地域包括ケアと呼ばれる支援体制をどう構築していけばいいか。その中で、住民主体の地域共同体再生に、福祉行政や事業所などがどう共同参画できるか。こうした問いが、福祉現場のフィールドワークを通じて、地方における普遍的課題として前景化している。こないだブログに引用した内山節氏のフレーズを用いれば、「ともに生きる世界があると感じられること」という共同体精神を、これからの地域社会でどう育んでいくか。この問いと直面している、と言っても過言ではない。
その際、ツバルのプロジェクトは、実はリンクしてくるのではないか、と直感しはじめている。ツバルのような、日本に住む私たちから見て周縁と思われる土地においても、その土地で暮らす人びとの営みや共同体がある。それを、前述のツバルプロジェクトは活き活きとデジタルアーカイブとして示してくれている。そこから、ウェブを通じた新たなつながりも創発されている。そこで、僕の中で生まれた問いは、「このウェブを通じた新たなつながりの創発」を、地域福祉の課題に応用できる可能性はあるか、という問いである。
ここ数年、地域包括ケアや地域自立支援協議会といった、市町村や地区コミュニティ単位での、「その地域における解決困難な福祉課題」をどうしたら解決していけるか、を主題として集まるネットワーク形成にコミットしている。その中で、僕のネットワークに関する認識の甘さを痛感しつつある。以前の僕は、ある地域のリーダーを育てる事によって、その地域を変革できないか、と考えていた。これはプロジェクトを引っ張るイニシエーターという「特定の人格のエンパワメント」を通じて地域の再構築を計ろうとする考え方である(このことについても、以前のブログに整理した)。だが、この「特定の人格のエンパワメント」=イニシエーター主導型モデル、であれば、その他の人びと=フォロワーの力を引き出したり、そこから何かを生み出す、という側面が弱い。確かに地域活動は、民生委員とか自治会長とか、あるいはその地域の将来を憂う若者とか、「特定の人格」から渦がスタートする事が多い。でも、その渦を探し、そこにのみエネルギーを注ぐアプローチは、ある種の中央集権的発想のダウンサイジングにしか思えないような気も、一方ではしているのだ。
そこで、ツバルのプロジェクトのような、住民全員に光を当てるプロジェクトが、どう応用可能性があるのだろうか、ということが気になる。このツバルプロジェクトでは、住民の誰がリーダーだ、とか、議員さんだ、行政職員だ、という序列がない。住民がみんな、水平な関係で置かれている。そこに、ツバル以外からも、様々なコメントがダイレクトに個々人に寄せられる。この水平的なウェブ空間に流れてくる情報、という観点を、地域福祉の困難性の解決、という問題とどこかで結びつける事は出来ないか、というのが問いなのだ。地域福祉の課題というのは、その土地のローカルな文脈や社会資源の問題と結びついた、局所的課題である。一方で、ウェブを用いた「できごとの実相を伝える多元的デジタルアーカイブス」とは、その局所的課題の閉塞感を乗り越える、外からの、別の場所からの風を運び込む力を持っている。この「別の風」と「ローカルな文脈(の閉塞感)」が出会うことによって、新たな何かの創発や、問題の解決のための第一歩が動き始めないか。そう夢想しているのだ。
ただ、当然、この両端を結びつけるには、大きな課題が幾つかある。個人情報保護の問題だったり、あるいはデジタルデバイドの課題だったり。昨日の講演会でも、ツイッターという言葉を知っていたり活用していたりするのは、参加者の1割にも満たない、という現実がある。地域福祉の課題にそれらのITを用いる際のデバイドは相当高い。また、地域課題は動的で可塑的で、人間関係の濃密な機微にも関わる何かであるが、可視的なアーカイブに一旦置いてしまうと、その動的性質が崩れ、関係の(時にはドロドロした)ダイナミズムもそぎ落とされ、静的なものとして着地してしまわないか、という危惧もある。もちろん、アップデートすれば、その一部は解決出来るのだろうけど、そのアップデートには、情報格差の壁が高くのしかかっているのだ。
と、現段階では結びつけるのが難しそうな、多元的デジタルアーカイブスと地域共同体の再活性化、という二つの「端」。でも、尊敬するフィールドワーカーの関満博先生は『現場主義の知的生産法』(ちくま新書)の中で、時代の最先端と最後尾の双方を追いかけ続ける中で、問題の構造が立ち現れてくる、と述べていた。ウェブを通じた最先端の方法論と、過疎化や高齢化で弱体化しつつあるコミュニティをどう最活性化するか、というある種の最後尾の話。両方は、どこかでつながるのではないか、という予感を、とりあえず両端を眺めながら、したためておきたい。

濃厚な、実に濃厚な

 

今日は最終の「ワイドビューふじかわ」号の人。今年初めての三重での仕事の帰りである。午前中は県職員の方々への研修、午後はこれまで二年間やってきた、僕がコーディネートのお手伝いをした、三重県の市町の障害福祉担当職員エンパワメント研修の評価と振り返りの会議。その後、次の事業展開の打ち合わせをすませ、名古屋行きの近鉄特急で1時間爆睡し、静岡に向かう新幹線の中で原稿に赤を入れ、そして今こうしてPCを立ち上げている。今日もまあ濃度が濃いが、火曜日からずっと濃厚な日々だった。

一昨日のことなのに遠い昔のような感じもするが、火曜日はもともと、朝1限、大学で担当科目(地域福祉論)のテストだった。僕のテストは、穴埋め式ではなく、じっくり考えてもらう形式。そのため、持ち込みは配布プリントもテキストもノートもどうぞ、としている。毎週の講義ではDVDや新聞資料を見せたあと、その日のテーマに関する幾つかの疑問に自分の考えを書いてもらうことにしている。その記述をもとに、学生達に自分の考えを発表してもらい、そこから更に問い、考えてもらいながら、講義主題に結びつけていく、というスタイルを取っている。ソクラテスの産婆術の妙味を、主に池田晶子の著作(『帰ってきたソクラテス』等)から学んで、それを講義に活かしている、といえようか。その講義で学生達が書き続け、考え続けてきた内容をつなぎ合わせたら、全体像として何が言えるのか、というのが、テスト課題の大枠。あくまでも知識の有無ではなく、自分の頭をフル回転させて考えて、それを筋道だって伝える事を求める内容にしてみた。テスト後に聞いてみたら、お世辞半分でも、難しいけど、一生懸命考えられるないようだった、とのこと。テストを通じたエンパワメント、とか、内容整理、も少しは板についてきたようだ。

さて、そのテストが終わるや否や、荷物をひっさげて「あずさ」号の人。午後はお台場で知的障害者福祉協会の地域支援セミナーのシンポジウムに呼ばれて、会場まで駆けつける。その場で「アラ還」(アラウンド還暦!)の二人のパワフルな支援者・弁護士のレイディズが話をした後だったので、私ともう一人の30代男子、ナカノさんは「若いねぇ」と言われながらの登壇だった。このナカノさん、今の職場は北海道だが、イントネーションが関西弁。関西ご出身ですか、という話から、なんと阪大の4年先輩であることを知る。あちらは法学部出身で官僚に、こちらは人間科学部出身で研究者になり、同じ障害者福祉の分野で接点を持てるのだから、不思議なご縁。そのご縁やナカノさんの魅力だけでなく、北海道で展開されている実践内容が今の自分の実践・研究課題に直結しているので、興味津々で話を伺う。これは近々北海道で話を聞かせてください、と再会を約束して、会場を後にする。

その後、りんかい線モノレールを乗り継いで、羽田空港の地下で靴磨きをしてもらってから、伊丹行きに乗りこむ。最近ずぼらで革靴の手入れをほとんど怠っているので、一番磨きが必要な靴を履いていって、プロにきっちりケアして頂く。たった600円で見違えるように美しくなるのだから、本当に有り難い。で、伊丹ではMKタクシーの京都行き乗り合いタクシーの空きがあったので、捕まえて自宅経由で西大路駅に。そこでナカムラ君と合流して、8時半から2時間半、旧友と久しぶりに飲み交わす。彼はずっと写真を続けている一方、僕はすっかり遠ざかっている。そういえば我が家には、ニコンF3という銀盤写真機の名器が、ほこりをかぶって鎮座している。単なる鉄くずやオブジェではもったいない、とナカムラくんに使ってもらう事に。その話をしながら、僕も一眼のデジカメを中古で探そうか、という意欲が突如、沸いてきた。

さて、翌水曜日も濃度は朝から全開だった。京都駅地下の知る人ぞ知る京都の老舗珈琲店、イノダコーヒーで、ちえちゃんと待ち合わせ。彼女は翻訳家や語学の講師という側面と、以前から介護保険分野での市民活動への関わりという二つの側面を併せ持つ才女だ。そのちえちゃんと、朝から高齢・障害分野の地域作りやネットワーク化、voluntary actionの相異について議論の花を咲かせる。タコツボになりがちな僕に対して、もっと別の見方も出来るんじゃない、と温かく提起してくれるちえちゃん提供の現場実践に耳を傾けながら、自分の硬さや頑なさ、器の小ささ、というものに改めて思いが至る。そういうディープな議論に付き合ってくれる友人は、本当にありがたい限り。

そのちえちゃんとは阪大での仲間だったのだが、実はその後、阪大豊中キャンパスに移動して、オムニバス講義を受け持つ事になっていた。共通講義のボランティア論の一コマである。今年は阪神・淡路大震災からちょうど15年。僕自身は京都だったが11階で大きな揺れと部屋の散乱を経験し、被害は小さかったとはいえ、「自分事」として地震を経験した。ゆえに、その後ボーイスカウトの救援隊に地震3日後に参加し、その経験から気が付けば、ちょうどテスト前の1月最後には、阪大人間科学部1年生の有志で「阪大ボランティア隊」の呼びかけを、この豊中キャンパスの1年生の学部必修授業で行っていた。その時、150人を前に、緊張でガタガタ震えながら呼びかけの説明をしていた自分が、今、200人ほどの学生を前に、ペラペラと講義をしている。あの震災ボランティアの経験が、自分の研究者としての入り口に深くつながっていると思うと、今回の講義は実に感慨深いものだった。

その感慨をうまく言葉として現したかったので、講義の最後には、「15年前の自分」に向けてのメッセージ、というお節介を行う。まあ、ボランティア論そのものが、お節介の科学、でもあるので、5分くらいなら許容されるだろう、と。レジュメ作りの最後に思いついたものである。積ん読、乱読、斜め読みをしながら世界を広げよ。面白くない本に時間を使うより、合わないならさっと読むのをやめて、次の出会いに賭けよ。自分で「○○は俺には関係ない」と興味関心の範囲を限定するな。今、わからなくても、将来じんわりわかることもあるのだから、わかる・わからないの白黒がつかなくとも、「わからないまま抱える」ことに寛容に。学生時代こそ、試行錯誤の最大のチャンス。評論家として他人事ではなく、自分事として関わってみるべし。などなど、自分が学生時代に先達から受け継いだメッセージを、15年後の後輩達に伝え続ける。単なるお説教と取るか、少しは役立つ助言と受け取るか、は彼ら彼女ら次第。でも、そういうパスの連鎖の中で、次につなげることが出来る年代になったのだな、と改めて感じながら、先達への感謝と、後輩への期待を言語化していたような気がする。

もう、ここまで書いただけでも濃厚なのだが、その日は更に濃厚な夜が待っていた。場所は豊中から高槻に移動して、障害者福祉の研究者・実践家としての大先輩Tさんのご自宅で、パートナーの方の手料理と美味しいワインに舌鼓をうちながら、も、5時間あまりのしっかりとした議論。福祉政策や支援のあり方、など僕が聞きたかった事も沢山やりとりさせて頂く中で、思わず聞いてしまった。「僕の専門って、どうも社会福祉学でもないし、社会学も囓っただけだし、ソーシャルワークとも言えないようだし、なんと言ったらいいでしょうね」 それに対するTさんの返信は、完結にして明瞭だった。

「福祉を巡る政治・行政でしょうね」

確かに、である。福祉に関わっていることには間違いがない。だが、ミクロソーシャルワーク(対人直接援助)の枠内に収まらず、またその志向性もない。かといって、地域福祉研究者か、と問われても、そういうコミュニティのあり方や地域福祉計画そのものに興味がある訳でもない。障害のある人の支援の実態が何とかもう少し良くなって欲しい、という社会変革的なものを志向して、そのための手段として、官民が政策形成や実践場面でどのように連携出来るだろう、とか、支援組織のあるべき姿や変容のどう支援が出来るだろう、とか、そのための行政職員や支援者に向けた研修のあり方はどうしたらよいのだろう、といったことを、ここ数年考え続けている。これは、学とつけるなら、「自治体福祉行政学」とか、「障害福祉政策学」といった領域。確かに「福祉を巡る政治・行政」そのものなのである。すこーんと天井が抜ける、というか、深い部分で腑に落ちて、実に納得する。その後のアルコールも入った議論も実に気持ちよく過ぎていった。

そんなこんなのうちに、そろそろ終電の時間。新快速で京都まで行き、のぞみ号に乗り換えて、名古屋経由で日付変更線を過ぎた頃に津に辿り着く。興奮していたので鎮静作用を持たせようと、奥田英朗の『サウスバウンド』(角川文庫)の下巻を読み始める。上巻の東京編とはうってかわって、舞台は沖縄に。本屋大賞にも選ばれただけあり、ひとたびページをめくると、文字通り、やめられない・とまらない面白さ。2時間ちょっとの移動で貪るように最後まで読んでしまった。至福の議論と食事にワイン、さらには上質のエンターテイメントまでついて、豪華絢爛な夕べであった。

で、ようやく今日に至る。濃厚すぎて、火曜の朝のことが遠い昔に思える理由の一端がわかるでしょ。

今日も今日で、県職員の皆さんに研修をさせて頂く中で、自治体福祉政策における都道府県の課題を改めて考える機会をもらった。世の人の考え方の癖として、ある程度の情報整理や論理構築してから実践化に至る方向性と、実践現場に浸った断片的現実感からパズルのように仮説の構築に至る方向性、という、演繹と帰納の二つの方向性がある。僕は、間違いなく、現場の現実感からパズル的な構築をすることが得意な方。というか、それがなければ、リアリティを描けない、という意味で、アームチェア理論家には絶対になれない。ただ、本物のアームチェア社会学者の凄さを間近で知っているだけに、現場の絶対化のような陳腐なものでは歯が立たないことは、百も承知しているつもりである。現場での気づきや意識化、現場からの研修のオーダー、これらを、理論的なコンテキストを紐解きながら、現場の方々が腑に落ちる言葉や理屈で伝えていく。その中で「福祉を巡る政治・行政」を考えるダイナミズムや、それが社会を変えるお手伝いの役割の末端を担う、という機能にもつながる。

そんなことを何となく意識出来るようになったのは、やはり山梨県や三重県のアドバイザーの仕事をさせて頂くご縁が出来たここ2,3年のこと。しかし、この数年は、以前よりはかなり勉強をするようになった(というか、それまではかなりドグマちっくな、不勉強の塊だった)。今回は、研修の下敷きにならないか、と火曜日朝にふと思い立ち、鞄の中に詰めていったPaul Spicker“Social Policy”second editionがどんぴしゃりで役に立つ。社会政策における価値の位置づけ、とか、真偽問題と善悪問題の両義性、とか、昨日の講義や今日の研修でも早速パクれるものばかり。この本の第一版は日本語になっていて、それも僕には偉大なる参考書であり何度か読み返しているのだが、大幅に内容を変えたこの第二版は、2008年に出たのだが、残念ながらまだ翻訳になっていない。第一版と第二版で内容が大きく変わる、と言えば、リカバリー概念に関する名著『ストレングス・モデル』(Rapp & Goscha)は、第二版も日本語が出て、第一版で感じた翻訳のひどさはようやく解消された。(ただ、あの本も原著で読んだ感動が忘れられない)。あの本と違い、このスピッカーの『社会政策講義』は翻訳も優れている。訳者チームのお一人は、面識のある優秀な社会学者。なので、早くそのチームで第二版を訳してくれないかなぁ、と他力本願になってみる。

そんなことを書いているうちに、普段の分量の1.5倍くらいになってしまった。そういう濃厚なことは、忘れないうちに書いて血肉化しておかないと、という目論見は、今日はうまくいったようだ。さて、列車は甲府盆地の一番南、鰍沢口まで戻ってきた。繰り返すが、実に濃厚な二泊三日だった。

時代を超える重みある論考

 

情報過多で移ろいやすい社会にあって、文章の比重が、相対的に軽くなっている事は、多くの識者が指摘している。ブログやツイッター、ネットニュース、電車の電光掲示板の1行ニュース等に代表されるような速報性メディアは、右から左(表示的には左から右だが)に流れていき、少し前の情報は、星くずの彼方に消え去ってしまうのが恒常的になっている。だからこそ、30年近く前の書物に触れて、その本の「今日性」を感じるとき、改めて「比重の重い文章」の凄さに恐れ入る。例えば、1980年代に書かれた村上春樹の作品群しかり。しかし今日紹介するのは、小説ではない。

「小さな島の、小さな部落の、そのまたはずれの小さな家の中で家族と身を寄せ過ごしている一人の人の心の中にも、大きくひろがっているいわば一つの宇宙が存在するので、彼が自立の道を歩もうとしても、すぐぶつかる社会の巨大な流れと壁に私自身が遭遇するとき、私たちの非力感はさらに深まるのである。
しかし、更に考えてみるならば、私たちが陥るこの絶望感は、現在の病者が感ずる状況の苛酷さに根源をもつものであり、私たちの活動も、彼らがおかれている抜け道のない立場に一度身を置いてみることなしには、共感をもった真の救助活動はありえないのだと思うのである。」(島成郎『精神医療のひとつの試み』批評社、p115-116

安保闘争の元リーダーで精神科医の島成郎が、本土復帰直前からの沖縄で地道な地域精神医療の実践を続けてきた論考をまとめた、1982年の作品。アマゾンの古本屋で買ったのだが、ある有名な哲学研究者(思想家?)の所蔵品であったようで、サインがされている。長い間「積ん読」だったのだが、久しぶりの休日に選んだつもりが、すっかりあちこちにドッグイヤーとマーカーだらけで、本気の論考に、うなる。安保闘争などの運動史はよく知らないが、社会を変えたい、世の中をよくしたい(役立ちたい)、という思いや願いを、アジビラやゲバ棒を持って、ではなく、久米島などの離島への継続的で長期的な訪問活動の実践の中から紡ぎ出し、昇華させているからこそ出てくる、本質的な考察。心の病を持つ人を、「○○症患者」と局所的にみるのではなく、「一つの宇宙が存在する」と捉え、現実社会との軋轢や壁の中で「抜け道のない立場」に苦しんでいる、そのことに「共感を持った真の救助活動」の原点を置こうとしている。リカバリーや当事者主体なんて言葉が言われるずっと前から、そのことに気づき、向き合っていた実践がある。不勉強な僕はようやく出会った本から、多くのことを教えられた。そして、28年後の現在でも、構造自体は全く変わっていない、と思い知らされる。

「戦後日本の精神障害者の処遇の変遷は、ただ単に、国家・社会の施策に由来したというのではなく、精神科医の真面目な努力によるものであるといわざるを得ない。現行の精神医療の体系が法的、経済的に治安的、反医療的なものであるとしても-すくなくとも戦後においては、患者処遇の基本形態である精神病院内収容隔離は、精神科医の承認と積極的関与なしには、法的にもありえなかったのである。」(前掲書、p57)
「精神科専門医である私が、入院の決定を行うと、家族、住民らの『社会からの排除、隔離、収容』の要求は『医学的根拠』を与えられたことになり、患者の拘禁は医療行為となり法によって保障されたことになり、彼らの困惑は安堵になる」(前掲書、p230)

精神障害者を「隔離・収容」することに重きをおいた戦後の政策は、「精神科特例」「保安処分・予防拘禁」「障害者施策からの排除」などの問題とも重なり合い、「国家・社会の施策」としての問題が前提としてある。だが、そこには「精神科医の真面目な努力」が常に存在した。「家族、住民らの『社会からの排除、隔離、収容』の要求」に呼応する中で、『医学的根拠』としての「自傷・他害」カテゴリーの中への当てはめと、強制的な収容に結果的に荷担したことになる。だが、勿論これは医師一人の責任ではない。そういえば、以前、この「真面目な努力」部分に呼応するような文章を読んだのを思い出した。

「医者だからこれを治せばいい、医者だから治さなくてはいけないと、ある種暗黙の期待や了解の下に、医者はそこで頑張らされている。医師だけが役割を背負って、結果的に家族やスタッフの負担を減らすために薬をたくさん出して、とりあえず、目先の困難を沈静化するといことで、周りを何とかなだめなくてはならない、となっているのです。
その現状を、多剤大量という形で批判するのは簡単です。しかし、それは精神科医が自らそうしているわけではなくて、医師に多剤大量という形で責任を押しつけているのは地域支援の責任だ、ソーシャルワーカーの責任だ、と私は勝手に思っています。(略)地域支援が頑張らないから、結局これだけ病院を増やし、病院にこれだけのことを押しつけてきたのです。」(向谷地生良『統合失調症を持つ人への援助論』金剛出版、p203-204

「医者だから」という「暗黙の期待」。それは「治してほしい」というポジの形で現れることもあれば、「病院に長く置いて欲しい」というネガの形で現れることもある。どのような形にせよ、精神科における医師が背負わされている比重は、一般科の治療を行う医師が背負わされているものだけでなく、遙かに「対社会的」な重みが強い。すると、「真面目な」医師ほど、入院の、医療化の「努力」に邁進する。その結果としての、諸外国に比べた病床数の多さや平均在院日数の長さにつながる。これは、意図せざる結果、というより、精神科医が「真面目な努力」をした成果とも言える。そして、その成果とは、社会的入院という形で、現在は「失敗」というカテゴリーの中に入れられている。

この認識の元で、どうしたら状況をひっくり返すことが出来るのか? つまり、今流行の言葉で言うならば、どうすれば「退院促進」や「地域生活移行」を進めることが出来るのか? このあたりも、褐色に焼けた古本になっている同書の中に、次の二点としてまとめられている。

「精神病院の変革はこの閉鎖性の打破が前提であると考えるとき、私は病院内医療者がもっと気軽に地域に出て地域での患者の生活の実態を知るようにすると同時に、地域活動に携わるものがもっと積極的に病院に関わる必要を感じる。」
「私たちの『医療』『地域精神衛生活動』の協力者を作り出すという考え方を捨て、地域内での患者の苛酷で悲惨な生活を知り、この処遇を強いている地域の状況を少しでも変えていこうとする、そしてこのことによって患者の自立を助ける、患者自身の協力者を作るのだという観点に立たなければならない。(略)彼らは患者と最も密接に生活しているだけ、それだけ一生懸命に患者を『医療』にのせようとし、あるいは『排除』しようとするのである。私たちは彼らに『医療』の幻想を与えることによって彼らの期待に応えるのではなく、また彼らを『教育』することによって『医療者』の協力者に仕立て患者の管理を依頼するのでなく、患者の生活を最も身近に知っているものとして、彼が地域内で暮らせる条件を作り出す援助者、共同生活者として期待するのである。」
(島、前掲書、p168-169)

退院促進事業という国事業が、72000人の入院患者の平成23年度までの退院という数値目標を出している。何度か書いたが、この数値目標は、諸外国に比べて「低すぎる」一方で、我が国では達成がおそらく不可能であろう。その阻害要因として、1980年代当初と比べて大きく改善されてきたとはいえ、島医師の指摘する「病院と地域の交流」のなさ・消極性や、地域における「排除や管理の担い手」ではない「患者自身の協力者」の少なさ、などは、未だに本質的課題として残っているような気もする。

この文章が「過去物語」になっていない現実を、さて、どうするか。読み手の私たちに、バトンが託されている。

今日も移動中

 

今朝、移動の途中に、甲府盆地を上空から眺める機会があった。黄金色の朝日が輝き、釜無川や荒川がきらきら光っている。富士山もくっきり見え、その麓には精進湖か河口湖が見える。上空から眺めると、それらの湖が、甲府盆地と山を隔てて標高が一段高い場所にあることがわかる。なるほど、郡内と国中地域では確かに気候が違うよな、と上空からの俯瞰図でみると、改めて理解出来る。で、そんな鳥瞰図を楽しんでいる僕は、大阪から福島への旅の途中だった。

木曜日、3人の学生の卒論(A4で計100ページ以上!)を受け取り、卒論発表会用にごっそり印刷して、3,4年生と新3年生の計13人に渡す。みな一様に、驚きのため息をつく。そう、2月初旬の卒論発表会までに、全員がこれを読み通し、何か質問する事が求められているからだ。竹端ゼミでは恒例のイニシエーションになっている。学生は、教師からよりも同級生や先輩・後輩から学ぶことが実に多いのだ。

そして、無事に渡し終わり、主に公務員志望の学生さん向けの政策提言研究というオムニバス講義の解説も終えた後、すばやく研究室からキャリーケースをひっさげて、身延線経由で京都に向かう。金曜朝9時半から、奈良でのお仕事があるので、久々に実家に投宿。両親とべちゃくちゃオシャベリする中で、ひろしに言いたいことがある、と母親。何のことか、と思いきや、「あんたはブログの中で、父の好きなおでんをがんもどきと書いているけど、違う。お父さんが好きなのは巾着やで」とのこと。今年の年賀状でブログサイトを知った母親は、ご丁寧にも過去ログも読んだらしい。身内に読まれていると恥ずかしいよね、と思いつつ、やっぱりこうして今日もそのことを書いてしまう阿呆な私がもう半分にいる。

さて、備忘録的な日誌を続けると、金曜日はあちこちで、色々「聴き手」となった。午前中は支援現場のミッションって何だろう、と、ある支援組織の皆さんのリアリティに耳を傾ける。真面目に愚直に地域支援に取り組めば取り組むほど、矛盾や課題を引き受けながら、でもそれらの課題に逃げずに答えよう、という志をもった支援者の皆さんとのやりとりには、こちらも学ぶことが多く、襟を正す思いだ。

その後、甲子園口まで移動して、いつもの漢方医と美容室に立ち寄る。山梨に移り住んでからも、律儀にその二つだけはずっと通い続けている。それだけ、医師も美容師も、単なる馴染みの域を超えた魅力的な存在だからだ。そして、今回はその漢方医に、長年疑問に思っていて、最近特に気になる「あの話題」を真正面からぶつけてみた。「先生、なぜ僕はジャンクフードも喰わないし、野菜を沢山取っているし、玄米食中心なのに、痩せないんですか。また、汗かかきなのに冷え性なのはどうしてなのでしょうか? どうしたら、全体的な体質改善のバランス感覚の取り戻しが出来るでしょうか?」 この、うるさい患者の直球に、ニシモト先生も剛速球で投げ返してくる。

「あなたは、食毒やね」

しょ、食毒! 文字通り、食べ過ぎて、毒になる。玄米ご飯なのに、お代わりして2杯も食べているようでは、そもそもよく噛んでいない。三食もがっつり取りすぎている。そういう食生活では、カロリー過多になっていて、身体がカロリーを消化し切れていない。だから、脂肪や毒素として身体に溜まり、その溜まりカスのおかげで、血の巡りが悪くなり、冷え性にもつながる、と。それを治すためには、その先生自身も実践して効果のあった、炭水化物を極力減らすダイエットと食事の総摂取量の減量がぴったり、と。

数日前から『レコーディング・ダイエット』やらためしてガッテンダイエット本などを読んでいて、体重量の増減の「見える化」「意識化」や、それに基づく総摂取量の削減が、ダイエットのポイントであり、自分にも何となく実現可能な方向性であることは、うすうす感じていた。だが、文字通り「食毒」と規定されると、ショックだが、瀬戸際まで追い込まれて、案外良いショックかもしれない。実を言えば、食べている時は「もっと、もっと」という気持ちになるが、食後に胸焼けしていることが少なくない。ということは、食事量の過剰摂取そのもの、なのだ。

正直、他人に言われなくても、内心知っている。だが、それを顕然化させることは、自分に変容を突きつけたり、これまでの自分のやり方に関する自己否定になるから、勝手に自分自身で歯止めをかけていた。その歯止め(=保身!?)が、「食毒」という言葉を聞いて、文字通り吹っ飛んでしまう。Now or Never? やるか、やらんか? 単純な二者択一である。やらんとしゃあない所まで、うっちゃられた、とも言えるかもしれない。

そういう、とほほ、な気分の落ちこみを聴いてもらうべく!?、髪も短く切ってもらい、その後は西宮の現場に行って、ひたすら「食毒」ネタに盛り上がる。転んでもタダでは起きない。がめつい。だが、そう意識すると、その後の飲み屋に繰り出しても、「意識化」とカロリーセーブは頭にすっかりこびりついているようである。悪くない傾向だ。

で、西宮から帰って京都でPCをいじくっていたこともあって、睡眠不足を抱えながら、今朝は6時前にはMKタクシーの伊丹空港乗り合い便に乗って、冒頭の福島行き。今日は障害者団体の「タウンミーティング」が郡山であったのだが、一方で昨日くらいしか甲子園口の漢方医と散髪屋には行けそうな時間的余裕がない。そこで、山梨大阪福島山梨、という大移動になったのである。そして、今このPCを打っているのは、いつもの最終「かいじ」である。

郡山では、自立生活センターを支える地元の障害者の方々とワイワイ話し込んでいるうちに、シンポジウムも懇親会もあっという間に過ぎ去ってしまう。魅力的なリーダーのもとに、個性豊かな当事者も集う。そういう当事者から学んで、支援者や行政関係者のセンスも磨かれる。そういう相乗効果が発揮されている様子を見て、文字通りこちらも元気をもらったし、やはり当事者主体が地域を変えていくんだよなぁ、と改めて感じ入る。目まぐるしい移動でも、実に大収穫の2泊3日強行軍であった。