聴かれること、の幸せ

 

ある日の夜中のこと。仕事でクタクタになって、やっとの思いで家に帰って来た日のことである。パートナーがとある研修で受けてきた、という一枚の図を見せてくれた。「ライフライン」と示されているその図には、何も書かれていない縦軸と横軸、そして、横軸の右端に近い部分に印、が示されているだけだ。その図を元に、自分の人生を描いてご覧なさい、というものである。妻の書いた内容を眺めながら、大学時代のことを思い出していた。

その昔、確か大学1,2年生の頃、僕が在籍していた人間科学部は、社会学、教育学、心理学系統から成り立つ学際的な学部の走り、と言われた学部だったが、その基礎教養科目として、各系統のオムニバス講義のようなものがあった。そのオムニバス講義で、臨床心理学の授業だったとき、担当の先生が配布した紙には、おとぎ話か何かの場面が10個描かれていた。その絵と、A3のシートを配られた後、先生からは「一つの絵を選んで、時間内(30分くらい?)で自分なりにストーリーを書いてみなさい」と指示される。タイトルとペンネームをつけたそのストーリーは、列ごとに回収され、別の列の誰か、と交換して配られる。配られた他人のストーリーに対して、自分なりに解釈を裏側に書き込んで、また回収。それを二セットやって、書いた作者に戻される、というものであった。

もう15年も前の事なのに、その内容は結構おぼえていたりする。神父の前で男女が結婚式を挙げている場面を選んで、僕が書いたのは、三者三様の複雑な内面模様だった。やっと結婚出来るわ、と、安堵する美人妻。本当に俺でいいのか、と悩むぶさいく男。そんな二人を、「さて、これからどうなるのやら」と見守る、なぜかイタリアあたりから逃亡したやくざな神父。その三者の心理劇を即興で書いていた。

そのストーリー自体は、どこにでもありそうな、陳腐な内容だが、面白かったのが、匿名の二人の評者による読み解きであった。何を書かれたかの詳細はおぼえていないが、文体や内容を分析しながら、「異性にモテたいことに対するコンプレックスがある」「ロマンチストとリアリストがない交ぜである」「現状を冷たく分析する傾向がある」「ねちっこい性格」といった事は、案外的をついた指摘だなぁ、と納得しながら読んでいた事を思い出していた。

回り道をした。そう、ライフライン。

自分自身も、即興で縦軸に%、横軸に年齢を置き、今までの人生の浮き沈み、をグラフ化してみる。これだけでも仕事帰りで疲れた真夜中なのに、やけに熱中する。ただ、書くだけが、第一義的に大切なのではない。この書いた紙を通じて、相手から何かを引き出すこと、それを通じて対話すること、が、大切なのである。

その研修を受けたパートナーによると、答えたくない質問には答えなくてもいいけれど、「なぜ」と、単純に聴くことが大切だそうな。解釈は、質問者ではなく、書いた本人に任せるとよい。実際、僕自身もその後聴かれてみて、ぽろぽろと、言葉が出てくる。特に、しまい込んでいた何かが。「これってどういうことなん?」と対話する相手に促されて、改めて自分自身をリフレクションする。一人で振り返っているとタコツボに入りそうだが、他人に説明しようとすると、記憶を辿ったり、何らかの合理的解釈をしようと試みる。その中で、思ってもみなかったことが、次から次へとわき出して、口に出されていく。きっと、こういった教育分析的な何かを受けてみたかったんだろうなぁ、と思いながら、話しても話しても、「もうちょっとだけいい?」と、言いたいことが出てくる。いつも勝手な事を言い続けているようでいて、意外と蓋をしていたことがあるのですね。そういえば、これって「じっくり聴かれる快感」だよなぁ、とも思う。

僕は、ジャーナリストに弟子入りした事もあり、質的調査にずっと関わって来たこともあり、仕事柄、インタビュー的なことは、良くやる。上手なインタビュアーかどうかはアヤシイが、博論だって117人への聞き取り調査をまとめたものだし、来月発売のある業界誌では、新春対談の司会役もさせてもらった。インタビュー相手の懐にどこまで入れるか、は別として、構造化面接ではなく、スノーボール型、というか、話を聴きながら、ずんずんその奥まで探っていこう、というタイプのインタビューは割と好きである。で、結果として、ある施設での職員悉皆調査をしていた時、「何だかカウンセリングを受けているみたい」と言われたことも、何度かあった。おそらく、上記で書いたような、教育分析的なメンターの役割を、その相手に果たすことが出来たからだろう、と思う。

でも、僕自身は、なかなか「聴かれる」ことがない。おしゃべりだから、もちろんあちこちでぺらぺら喋っている。だが、それはこちらから話題をふる事が多く、質問に答える、とか、質問から引き出される、という事ではない。悪い癖で、「一聴かれたら十答える」性格なので、3つくらいしか聴かれていないのに、気づいたら30分過ぎている。すると、だいたいそれくらいで時間切れとなり、向こうは「沢山聴いた」と思っているのだろうが、僕自身は「あんまり聴いてもらっていない」という不完全燃焼状態で残るのだ。こう書いていて、結構鬱陶しい奴だ、と改めて思わなくはないが

で、先述のライフラインの分析では、実に久しぶりに、というか、初めてくらい、本当に「聴いて」もらった。人は「聴かれる」事を求めているのだな、と改めて思った。結局、僕は2時間ほど、ずっと「聴いて」もらっていた。そして、それだけ「聴かれる」中で、自分自身の解毒が出来、蓋をしてていた(心理学的に言えば抑圧していた、とでもいえるのかもしれないが)何かを空けることが出来た。

もちろん、それだけで、翌日から全く生活が変わった訳ではない。相変わらず、忙しい日々で、腹が立つことも少なくない。でも、「聴かれる」ことの力、を実感すると、ちょびっとだけ、人生の楽しさが増えたような気がする。「まだ喋ることがあるの?」、と尋ねられることもあるけれど、そりゃもう、ナンボでも出てくるものですよ。

『業務外』の豊かさ

 

ゆがみやこり、ズレは、バランスを失うことから生じる。それは、身体的なものであれ、精神的なものであれ。いや、心身二元論、ではなく、一方のアンバランスは他方に直結している、と言った方が正しいのかもしれない。

ここしばらくの凝り、は、首を冷やして寝ていたからであって、タオルを首に巻いて寝るようになったら治った、という表面的なものを超えた、心身の凝り、だったような気がする。もちろん、その前提にハードな日程があった訳で、今日は二週間ぶりの休日。合気道のお稽古しか予定がない、幸福な一日。木曜のゼミを終えた後、茗荷谷奈良新座、とツアーを終えて帰ってきて、久しぶりに10時間眠ると、少しからだがほぐれる。だが、一昨日メールをくださった、今子育て中のKさんは、子どもさんが生まれる以前は、業務中、「1ヶ月先の自分の居場所がわからない生活だった」そうで、上には上がいるものである。とはいえ、単に物理的な忙しさを超えた何かが、凝りにつながっていたことは、間違いない。そのことを考えるきっかけを与えてくれたのが、次の一冊だった。

「『業務内』のことがらが、上記のように、あまりにも機微に触れる(=ヤバすぎる)ことがらの連続で、それを書くことができなかったので、まるでそれを埋め合わせるかのように、敢えて『業務外』のことだけに絞って書き綴っていたのだ。今、読み返してみて思うのは、不思議なことに、『業務外』の記述に『業務内』のことがらがしっかりと反映されているのである。あるいは、もっと直裁的に、共振(シンクロナイズ)していることがある。」(金平茂紀『報道局業務外日誌』青林工藝舎、p3

この本を手に入れたのは、大学の「季節的業務」の為に、三重の出張の後、二泊三日で静岡に泊まっていた時のこと。同僚と業務を終えた後、寿司屋で昼酒を一杯引っかけ、昼寝本を探しに駅ビルの本屋で見つけた。確か朝日の書評でちらりと書かれていたような気がするが、全く記憶から抜けていた一冊。金平さんって、確かTBSの特派員かなんかだよなぁ、と、割と甲高い声の映像がかすかによぎった程度だったのだが、中をぱらぱらめくって、そこで紹介されている小説、音楽、演劇の濃厚なこと、濃厚なこと。むむむ、と思って、ホテルで読み始めたら、これが実に面白い。彼が報道局長だった2005年から2008年にかけてのウェブ上の連載は、まとめてみたら二段組300ページの本なのに、最後まで読んでしまった。

合気道を始めてからか、自分の矮小さ、というか、器の小ささを痛切に感じるようになってきた。もっと、いろんな可能性があるのに、自分が追い求めてきた内容が、実にタコツボ的な世界である、という、閉塞感のような何か。合気道は、その殻を、文字通り身体を使って破っていく手段であるような気がする。そうやって、少しは「脱皮」してみると、今度は自分の興味関心自体の偏りや決めつけ、矮小さが見えてきた。それを破りたくて、自分が知らない世界・ジャンルを教えてくれるメンターを探しながら、幾つかの「書評本」も読みあさる。その中で、米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)と共に、自分の可動域を拡げる素材を提供してくれたのが、金平さんのこの「業務外日誌」。同じ時期に手にした佐藤優と立花隆の「書評本」(『ぼくらの頭脳の鍛え方』)が、何だか真面目腐ったインテリジェンスの臭いがぷんぷんで途中で投げ出した分、この二冊のオモシロさが、むしろ際だつ。たぶん、佐藤・立花本は、米原さんの書評で知って読んだ高田理恵子氏の『文学部をめぐる病い』(ちくま文庫)につながるような、教養主義的、旧制高校的「臭さ」が臭っているのだろう。米原・金平本は、そんな気負いや衒い、スノビッシュさがないのが良い。

金平氏のこの書評本から今の僕が学んだ最大のこと。それは、「埋め合わせるかのように、敢えて『業務外』のことだけに絞って書き綴っ」た、という姿勢。僕自身、彼に比べたら超ミクロではあるが、昨今、大学や現場の「よしなし事」に関わる(=『業務内』の)中で、ストレスやらイライラがワインの澱よろしく溜まっていた。しかも、ワインつながりで言えば、ワインの師匠であったミムラ店長が突然「ご卒業」されてしまい、我が家からワインのストックもつきていた。今までは、ワインを美味しく飲んで翌朝にはため込まなかった何か、も、何だかここ最近、消えてくれなくなりつつあった矢先である。そう、消えない、といえば、確実に脂肪も消えてくれないのだが。

そんな変容期に金平氏の本に出会い、自分が『業務内』を『埋め合わせる』だけの『業務外』の豊かさを持っているかなぁ、と改めて点検してみたのである。答えは、否。ワーカホリック一歩手前、であった。危ない、アブナイ。

おそらく、合気道が楽しいのも、『業務内』のアンバランスへの『埋め合わせ』が出来る場だから。そのことに気づかされ、米原・金平本に載っていた小説やエッセイなど、注文しまくる。どれも、今まで手に取ったことのない、新ジャンルばかり。ここしばらくで言えば、品川のホテルで筑紫哲也の『旅の途中』(朝日新聞社)の深みをワイン代わりに転がし、奈良へ往復する新幹線では奥田英朗『イン・ザ・プール』(文春文庫)にケラケラ笑い、今朝は一昨日京都駅前の本屋で買い求めた、川上未映子の『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(講談社文庫)を読んで、ウネウネとした論理と感覚の収束と発散に新境地を発見する。どれも、自分の昨今の『業務内』には欠けていた、異なる世界の、異なる言語の、異なる領域。こういう未開の分野に出会えるよい『仲人本』に助けられて、何とかアンバランスの凝り、から少しは抜け出せそうだ。

そして、今朝の朝日新聞を拡げたら、普天間問題について語る米上院議員のダニエル・イノウエ氏の記事が目に飛び込んできて、金平氏ならずともシンクロニシティを感じる。先ほど読み終えた、『旅の途中』のエピローグは、この日系人議員のエピソードから始まるのである。僕の世代はキャスターとしての筑紫哲也しか知らない世代だが、彼のエッセイを読んでいて、そのジャンルを超えた造形の深さにも、そこから出てくる味わい深い文体にも、心を打たれる。と同時に、キャスターとしての氏の独特な視点、「多事争論」という名コーナーに代表された鋭い切り口は、単に政治や経済、といった新聞がお得意(=つまりは『業務内』)の分野だけではなく、彼自身が陶芸や音楽、写真や映画といった幅の広い『業務外』への関心を持ち、人に逢い、滋養を吸い続けたからこそ、出てくるのだなぁ、という、鉱脈の源泉を垣間見た気がする。そこが、米原氏や金平氏にもつながる何か、なんだろうと思う。

20代後半、大学院生の時には割と禁欲的で、一つの視点・観点を確立するまでは、少なくとも博論を終えるまでは、乱読という名の逃避を恐れて、自己規制を働かせた(なんせ、高校時代から試験前になると決まって読書が進んだ、手痛い記憶の持ち主なので)。その禁は就職が決まった5年前に解いたつもりだったが、それでも自分を振り返ると、どうも専門に近い、『業務内』の本ばかりが書棚に目立つ。それとは全く違う、全くの『業務外』に出会いや驚き、風通しの良さを感じる余裕がないまま、最近まで来てしまった。で、ストレスやイライラを、食事で解消しきれなくなった時に、何とか合気道に出会い、また、幾つかの「当たり本」に出会い、何とか押しつぶされずに生き延びられそう、である。(希望的観測、だけれども)

そうそう、積ん読本の一冊であった、よしもとばななの『なんくるない』(新潮文庫)を『業務内』でグッタリ疲れた先週読んで、随分滋養をもらう。影響を受けやすいから、また沖縄に行きたくなる。冬休みに出かける候補地にしよう。そうやって、『業務外』でわくわくすることが、『業務内』のわくわくにも反映するはず。って、すぐ、功利的にしか考えられないのが、けちくさい関西人なんだけれど、明日からまた『業務内』の「そら、せっしょうな」日々が再開する。せめて今日は、『業務外』でのびのびと。夕刻の合気道では、杖の練習に勤しまねば。

支配と支援

 

昨日は5年ぶりに新潟。山梨のSさんからご縁を頂き、新潟の地で、福祉施設の利用者からの苦情を聞く役割をするボランティアさん(第三者委員)の研修にお呼び頂いた。

新潟は、直線距離はそんなに遠くはないのだが、列車なら東京まで出なければいけないので、車同様4,5時間かかる。以前から書いているように、電車の中でくらいしかまともに本を読めない、という不勉強ぶりなので、もちろん電車を選択。朝一の「かいじ」に乗って、新聞を読んでまどろむ頃(ちょうど勝沼あたり)から、熟睡。そして、だいたい30分ばかり(相模湖とか高尾あたり)で目覚める、というのがいつものパターンである。その爆睡の後、おもむろに仕事なり読書なりに取りかかると、はかどる。大阪や名古屋方面行きなら、「ふじかわ」号で富士宮あたりまで寝て、というパターンだろうか。そう、車だったら居眠り出来ないもんね。

で、昨日は新潟に出かける途中、新宿駅のサザンテラス口を出たところにあるスターバックスに立ち寄る。今月が博論提出のよんちゃんの作戦会議。車内では、彼女からその日の朝に届いた原稿に目を通す。面白い。

僕自身も博論を書いているとき、同じ講座の仲間達に月に一度、勉強会を開いて頂き、自分の原稿の出来具合をいつもピアの立場から批評してもらっていた。それが、本当によい伴走役となり、何とか仕上げた思い出がある。以来、伴走役のお手伝い(恩返し)が出来るチャンスがあれば、と思っていた。それが山梨に来て以来、出身講座の東京組の伴走役に。今回は、まお嬢に続き、二人目の伴走役。8合目まで辿り着き、ご本人は苦しそうだが、もう先は見えている。朝一の「かいじ」が新宿に着くのは9時過ぎ。昨日は遅れて15分頃到着だった。で、会場に間に合うためには10時過ぎには出なければならない。45分間のエールを送って、足早に大宮経由で上越新幹線の人に。

行きの電車で読み終えたのは、以前から気になっていた「イチャモン研究」。ちょうど、来年入ってくるゼミ生の一人が、クレーマーのことを考察したい、と仰るので、これをご縁に買ってみた。読めば読むほど、新潟の講演へのよい予習本だ、と思えるようになってきた。

『学校における保護者対応の問題は、一般的な消費者問題やクレーム対応と異なり、原則として保護者との継続的な信頼関係を維持しながら、「子どもの最善の利益の実現」「子どもが元気に学校に登校できる環境を回復する」ためのサポートを目的とするものでなければなりません。その観点から、保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら、まさに学校が、是々非々で対応出来るようにすることをサポートすることが、サポートチームの重要な役割になります。』(峯本耕治「問題の背景・原因を見立てること(アセスメント)の大切さ」 小野田正利編著『イチャモン研究会-学校と保護者のいい関係づくりへ』ミネルヴァ書房、p201)

学校における保護者からの「要望」が、時として「苦情」、あるいは「イチャモン(無理難題要求)」になる。そして、近年、この「イチャモン」カテゴリーに入るものが急増する現状に対して、阪大の教育学のご専門である小野田先生が中心となり、教師やソーシャルワーカー、精神科医や臨床心理士、弁護士などで研究会をつくって議論してきた、その議論の内容をまとめた書籍。小野田先生は、院生時代に何度かお話させて頂いた事があるが、ざっくばらんなご性格の先生。なので、以前からその内容が気になっていたのだが、読んでみて、学校現場の問題の深刻さを感じると共に、小野田先生が学校現場をよくしたい、というパッションを持ちながら、このイチャモン研究を続けておられることがよくわかった。

で、引用した峯本さんは弁護士の立場で、教育委員会のサポートチームにも関わり、学校のイチャモンに側面的な支援をされておられる方だそうな。現場の支援をよくしておられる方だけに、実に説得力のある議論である。その中でも「保護者との継続的な信頼関係を維持」することと「子どもの最善の利益の実現」の両立を目指そうとする。その中で、「保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら、まさに学校が、是々非々で対応出来るようにする」という原則が生まれてくるのだろう。

この原則は、すごくわかりやすいし、納得の出来る原則である。

教育と医療、福祉に共通するのは、「支援と支配のジレンマ」であろう。これまでの「専門家支配」による権力関係が問題視され、当事者主体の対等な支援に向けた模索が叫ばれてきた。実際、当事者の声に基づかない、支配者側(教師、医師、指導員)による権力行使と、自らの無謬性、問題があった際の矮小化(当事者への問題の押しつけと個人化)などの問題性は、フレイレの「被抑圧者の教育学」や、フリードソンの「医療と専門職支配」、オリバーの「障害の政治」など、様々な形で指摘されてきた問題である。

ただ、この指摘を曲解し、支配関係を反省するために、現実に起こっていることが、支配から支援への転換、ではなく、支配関係の転倒、ではなかったか? 教師にクレームやイチャモンをつける保護者の中には、サービス購入者(納税者)の権利だ、という権利行使の範囲を曲解し、恐喝的な行為に至る親もいるという。それに対して、是々非々での対応が出来ずに保護者の言いなりになってしまい、その結果、精神的なストレスが溜まって病気休職や、下手をすれば死の選択に至る教師もいる。これは、支配と被支配の関係が転倒しただけである。この問題は、「患者様」「利用者様」と呼ぶことにしている医療や福祉の業界にも通底すると思う。つまり、支配関係そのものを反省する訳でなく、表面的!?にその支配関係の上下を入れ替えることで済まそう、という、事なかれ主義の臭いすら感じるのは、僕だけだろうか。

そして、附言するならば、クレーマー化する保護者だって、支配関係の転倒を望むのではなく、実は何らかの支援を求めている、と捉えることは出来ないか。「保護者のしんどさの原因・背景を理解しながら」と書かれているのは、支配関係ではなく、支援の関係を求めている保護者の存在である。つまり、支援対象者の増大に対して、見て見ぬふりをすること、が、現場の問題を余計にこじらせている、とも言えないか。

そういえば、1960年代に、アメリカの社会学者(アミタイ・エチオーニ)が、教師、看護師、ソーシャルワーカーの共通性を指して、準専門職(semi-profession)と整理していた。医師や弁護士といった正統な専門職(full-profession)と違い、当時の教師、看護師、ソーシャルワーカーには専門性が低く、センスの良い一般人の中には十分にその仕事が代替出来るのではないか、という整理であった。

あれから半世紀。教師も看護師もソーシャルワーカーも、専門性を高めることに熱心になってきた。だが、それは医師や弁護士といったfull-professionに近づきたい、というあがきだったのか、当事者により近い立場での、医師や弁護士とは違う形での専門性だったのか、どちらだったのだろう? 教師の事はよくわからないが、専門看護師や福祉士の国家資格化などを見ている限り、どうも事態はfull-professionへの憧れの側面があるような気がしてならない。つまり、専門性を高めることは、つまりはより多くの権力性を確保し、現場での支配的地位を確固たる者にしたい、という流れと、どこかでつながっているところは、ないのだろうか? 

僕自身は、まだきちんと固まった考えではないけれど、教師・看護師・ソーシャルワーカーは、特に局所的なおつきあいではない、生活全般にわたる現場力が求められる領域故に、当事者により近い立場での、医師や弁護士とは違う形での専門性を持つべきではないか、と漠然と感じている。それは、支配的な専門性ではない、支援としての専門性であろうか。そんなことを考えていたら、帰りの電車の中で、ぴったりなフレーズに出会った。

「『当事者自身が自分を助けることを助ける』のが、援助者の基本的なスタンスということになる」(向谷地生良『技法以前-べてるの家のつくりかた』医学書院、p24)

多くのことを学ばせて頂いている精神科のソーシャルワーカー、向谷地さんの最新刊に、またもや学ばされる。大学教員という教師当事者としても、その通り。学生のエンパワメント支援とは、『当事者自身が自分を助けることを助ける』か、である。特に、高校まで○×枠組み、正解幻想や指示待ち人間化している学生さん達に、解毒剤的に僕がし続けてきたのは、彼ら彼女らに責任と権限を持たせ、こちらは期限と目標だけ定め、あとはお任せする、というスタンスだ。新入生研修であれ、4年生の卒論指導だって、基本的に変わらない。学生自身が持つ潜在的な力を信じ、それを引き出すための支援をする、つまりは「自分を助けることを助ける」支援なのである。それを向谷地さんは、「当事者主権としての『自助』」とも仰っておられるが、確かにそういう側面もあるだろう。

支配関係ではなく、支援の関係へ。弁護士や医師とは違う関係性を当事者と築くために、教師や看護師、ソーシャルワーカーはどうあるべきか。こうウネウネ書いてきて、もちろん結論は見いだせないが、今日の所、向谷地さんの次のフレーズを、結論の漸近線として示しておこうと思う。

『援助者の「神の手にならない」というわきまえと、それを体現する援助の

semi-professionゆえの「わきまえ」と「形」が、実は支配とは違う何か、を導き出すのかもしれない。

リンゴの便り

 

週末から週明けにかけての、鳥羽、関学、津のツアーを終えて大学に戻る。週末の西宮で、あるいはアマゾンや丸善で注文した本がわんさか届いている通知のついでに、学務課から「リンゴが届きました」というお知らせが。山形のシゲヨシさんが送って下さったのだ。

以前も書いたが、このスルメブログで私のことを色々知って下さり、こないだは山形まで講演に呼んで下さった。現地の皆さんとの議論からも沢山学ばせて頂いたのだが、さらには「リンゴの便り」まで。縁あって、今年から彼はリンゴの木のオーナーだそうだ。初収穫のお裾分け。ありがたいかぎり。早速御礼のお手紙を書こうと思ったら、入っていたお手紙に「私の勝手な都合で、無理無理食べてもらうことになりますので、返事は返礼は一切拒否いたします」と、こちらを気を遣って書いて下さる。なので、このブログで、勝手にこちらも御報告。蜜がつまっていて、メチャクチャ美味しいです! 仕事しながらペロッと一個、食べてしまいました。ごちそうさまでした。

さて、昨日は三重で、今日は大学で、精神障害を持つ当事者の方々の語りに耳を傾ける。どちらも国事業として行っている精神障害者地域移行支援特別対策事業の一環で、ピアサポーターとして活躍しておられる方々である。その話を2日連続聞いているうちに、専門性って何だろう、とずっと考えていた。

精神科病院には、長期入院患者が沢山いる。国の発表では平成23年までに7万2000人の社会的入院患者を地域に戻ってもらうという数値目標を立てたが、諸外国と比較すると、その見積もりは低すぎる、と僕自身は感じている。ただ、この7万2000人という低い数値目標でも、現段階では達成しにくい。その理由として、よく挙げられるのが「精神病院が候補者をなかなか出してこない」「ご本人が退院に対して消極的である」などの理由が挙げられる。

確かに、日本の9割の精神科病院は民間病院であり、患者を出したら、次の患者を入れないと、という経営論理が働くという理由もわかる。また、ご本人が「一生ここに置いて下さい」と仰る、あるいはこれまで病院や地域の側もかなり地域移行の支援をしてきたから、今残っている人は専門職がこれまでどれだけ関わっても無理だった人たちです、という話もよく聞く。

しかし、である。昨日と今日のピアサポーターの方々の話では、どうも上述のような「専門家」の指摘する「限界」こそ、限界があるのではないか、と感じてしまう。例えば、ご本人が「一生ここに置いて下さい」と言うケース。中には、追い出される事に恐怖を感じて、「私たちはここにいる権利がある」と居住権を主張される方もあるそうだ。だが、それを持って、「だから仕方ない」としていないか。なぜ「一生ここに置いて下さい」と居住権まで主張するのか。その背景に何があるのか、と当事者のピアサポーターの方に聞いてみると、ずばり「諦め」だという。精神疾患の初期、家族関係が悪くなり、あるいは両親とも死別し、帰る場所がない、という人がいる。保証人もなければ、長期間の入院で生活力も低下している。そんな人達は、地域に戻って暮らすという夢を持ち続けていては病棟生活が苦しくなるばかりだから、欲求を低次元にして(=つまり地域生活を諦めて)、病棟での生存戦略を生み出されていかれた方が少なくないのではないか。だからこそ、「ここに置いて下さい」とか、以前拙著で触れたが「病気に疲れ果てた。退院したくない」という呟きになる。だが、専門家は、この「病気に疲れ果てた」と「退院したくない」との間にある、様々な諦めや退路を断った惨めな気持ちに本当に寄り添えてきたのだろうか。

そんなとき、同じ病を経験しながらも、地域で暮らしておられる方々の存在は、入院者にとって、特に退院を「諦め」てしまっている人にとって、非常に大きな灯火になっているようだ。例えば、最初お会いした際、「絶対退院したくない」と頑なだった方でも、継続的に関わり続ける中で、ピササポーターに心を開かれ、今では「出来ればアパートに住んでみたい」と仰られるようになった方もいる、という。

ここからは何ら科学的裏付けのない僕の妄言だが、そもそも10年20年という時間をかけて、地域生活や自分自身の夢の実現を諦め続けてきた方に、1ヶ月や2ヶ月の関わりで、気持ちを変えてもらう、という発想こそ、尋常ではないのではないだろうか。PTSDの研究で明らかなように、強い衝撃や被害経験は、それが短時間であっても、その後の人生にネガティブな影響を長期間、多大に渡って引き起こす。精神疾患でしんどい想いをする、という、人生の一大事。かつ、その後病棟で、社会から隔絶されて、精神症状が落ち着いても退院する見込みもない。このようなトラウマ的な経験を長期間した方々に、「さあ退院ですよ」と言われても、信じられないし、信じたくない、という人もいるのではないだろうか。妄言を続ければ、下手に「退院」を真剣に考えることで、せっかく低次の欲求で我慢することにしてきた「折り合い」(=諦め)のフタを外す、つまりは「パンドラの箱」を開けることにつながり、病気の再発や、以前のしんどさや、でも再びのかすかな希望や、とはいえ長年の入院生活が無駄だったのかといった様々な想いが爆発的に出てきそうだからシンドイ、だから「一生置いて下さい」ではないのだろうか。この、語られない何か、に専門職はどれだけ耳を傾けてきたのだろうか、と感じる。

だからこそ、当事者という専門性をもったピアサポーターの存在は大きい。期間や病状は違えども、精神病院に入院した経験、退院して暮らす時の不安さ、退院した後の取り戻した感覚、など、対等な立場で、長期入院者が「フタをしていた知りたいこと」を、先にフタを開けて知っている人から聞けるのだ。この経験があるから、もう一度頑張ってみてもいいのかな、という希望に、火がつくのである。火がついた後の支援は、専門職の「餅は餅屋」だ。だが、その火をつける支援は、もしかしたら専門職より、同じ障害を経験した人の方が、うまく出来うる部分もあるのかもしれない。それは、自立生活運動をしてきた身体障害の人は経験してきた事だけれど、ようやく国事業になって、精神障害を持つ人も同じだ、という認識が、制度としても全国的に共有される様になってきたのだ。

そうなってくると、僕も含めた、障害者の支援に関わる人材も、大きく態度変容を迫られる。精神障害は自立生活運動が出来る人とは違う、といった、無根拠な決めつけは通じない。当事者がその専門性を持って、病院や入所施設で諦めざるを得ない、あるいは地域で閉じこもらざるを得ない方に、火を再びともしてもらう支援をする。ならば、専門家は、その火に水をかけるのではなく、更に薪をくべて、火が消えないように、その火をより強固なものにし、地域でその灯された火を絶やさない支援が必要なのだ。なのに未だに「うちの患者さんは○○だから」と決めつけて、水をかけて古い考えに縛られていていいのか。

リンゴの便り、に入っていたシゲヨシさんのお手紙の中に、「福祉を必要とする方々の心の奥を知ることで、今の日本の福祉レベルでは解決出来ない状況を思い知らされることがあります。それでもなんとか工夫すること、新たな発見をすることが、少しですが福祉レベルを上げることだと思っています」と書かれていた。まさに、その通り。そして、私自身は、触媒、というか、ファシリテーター役として、そういう当事者の声を聴き、専門職の呟きに耳を傾けながら、一方で当事者の専門性や専門家の変容について、整理して伝え続ける役割をすることが「福祉レベルを上げる」ための、ささやかな、自分なりの貢献なのだろうと思う。

山形と三重と山梨、違う現場だけれど、通層低音が同じな方々とセッションが実現したことが、有り難い。リンゴを頬張りながら、豊かな気持ちになる夕べであった。

可動範囲の広がりと「自由」

 

ゼミを終え、和幸のトンカツ弁当を買ってからワイドビューふじかわに乗りこもう、と甲府駅で途中下車。時間が少々あったので、ついでに立ち寄った駅ビルの書店で、気になる新書を手に取る。それが、大当たり。

「支配だと気づくことで、その傘の下にいる自分を初めて客観的に捉えることができる。それが見えれば、自分にとっての自由をもっと積極的に考えることができ、自分の可能性は大きく拡がるだろう。」(森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社新書、p42-43)

彼の小説は7,8冊は読んだ記憶がある。論理のドライブがかかったミステリィ、という新ジャンルを切り開いた、元M大学工学部の助教授であった筆者の、ものごとの捉え方、について書かれたエッセイ。読みやすいが、侮るなかれ。論理と経験の凝縮された思考の上になりたった筆者の切り口には、文字通り「腑に落ちる」「目が見開かれる」。なんとなく自分もその断片を感じていた、けれども、全体のピースを組み合わせたパズルの仕上がりは未知の世界だった。その仕上がった「大きな地図」を見せて頂いたような気がする。

「自由を勝ち取ることは、今の自分の状況がどんな問題を抱えているのかを分析することからはじまる。自分の位置、そして方向を認識すれば、自ずと軌道修正の方法は見えてくるものだ。」(同上、p112)

そう、「大きな地図」の中で、自分がどのようなポジショニングでいるのか、という「位置」と「方向」の「認識」があれば、「自ずと軌道修正の方法は見えてくる」し、それが、「自由を勝ち取る」ということに近づく羅針盤につながるのだ。

「『決めつける』『思いこむ』というのは、情報の整理であり、思考や記憶の容量を節約する意味から言えば合理的な手段かもしれない。しかし逆にいえば、頭脳の処理能力が低いから、そういった単純化が必要となるのである。」(同上、p136)

はい、私もその通りです、と素直に頷く。

そう、人見知りする、この場はこういうものだ、この人はこういうタイプだ、と決めつけると、「思考の節約」が可能になる。現に、僕自身は、そういう意味での「合理的な手段」に多く訴えてきた。だが、これはいみじくも森さんが指摘するように「頭脳の処理能力が低い」がゆえの「単純化」なのだ。つまりは、自分の阿呆さ加減の露呈、そのものなのである。

20代で、早く大人になりたい、認められたい、とあくせくしていた時期は、時間に余裕があっても自分(の頭脳の処理能力)に余裕がなくて、「決めつけ」と「思いこみ」による「思考の節約」に勤しんでいた。30代もそろそろ折り返しを迎える今、暇だったあの頃から比べると「めちゃ」がつくほど忙しいが、幾分か「頭脳の処理能力」も上がったようで、「決めつけ」と「思いこみ」に「支配」されていた自分、に気づく場面が多い。ここ最近、とみに感じる。

合気道を始める時には、「今から始めて大丈夫なのか」と、単純にびびっていたが、あれから半年、すっかりはまり、週二回の稽古を楽しみにしている自分がいる。そうして、身体の使われていなかった部分や感覚を開く、ことによって、自らの可動範囲にフィジカルな広がりがもたらされただけでなく、心の可動範囲、というか、思いこみや囚われに毒された偏見的な認知マップの可動範囲も、少しずつ、拡がりつつあるような気がする。確かに森さんの言うように、「自分にとっての自由をもっと積極的に考えることができ」るようになりつつある自分を発見する。

おかげさまで何とか6級の昇級も果たした。5級の練習では、いよいよ木刀の素振りも始まる。自分の可動範囲や可能性をどう広げられるか。早く木刀が届くのが楽しみだ。

認知症と薬(の乱用)

 

もう寝る時間なので、備忘録的に。

仕事帰りの車の中で、BBCNewspodを聞いていたら、こんな記事に出会った。

Dementia drug use ‘killing many’

本当に「ぎょうさん殺している」。
記事によると、大臣の諮問機関が行った専門家による監査では、認知症患者のうちの18万人に薬が処方され、うち15万人(8割)は不必要な投薬、そして1800人が死に結びつく投薬だった、という。

ちなみに、新聞でもこんな記事が。
‘Chemical cosh’ drugs blamed for deaths of 1,800 care home residents

それから、政府(イギリス保健省)による公式見解。
Government takes action on antipsychotic drugs and dementia

我が師匠、大熊一夫氏は我が国でこの問題を随分以前より取り上げてこられた。曰く、「縛る、閉じこめる、薬漬けにする」と。この「薬漬け」について、師匠は「ルポ・老人病棟」などを通じて質的調査という形で取り上げてこられた。それから20年あまり。ようやく他国ではあるけれど、政府機関による調査として、抗精神病薬の乱用問題が量的にも明らかになってきた。さて、この問題が日本でもきちんと取り上げられるか、が今後の大きな論点になるだろう。

<普遍語>と<国語>

 

久しぶりに何もない日曜日。

夕方に合気道のお稽古に出かける。それだけが今日の予定。来週が昇級試験なのだが、先週の日曜と火曜の二回、台湾出張のため、練習から遠ざかっていた。ちゃんと両手取りの二教の裏、が出来るかどうか心配である。だが、それ以外に何も予定のない日曜日、は、実に久しぶり。

朝起きて、パートナーがこないだ貰ってきた柿を、バナナとリンゴと一緒にジュースにして頂き(めちゃ美味い)、昨日のキムチ鍋の残りでラーメンを頂き、のんびりと読書。眠くなったらうたた寝して、また起きてTimeのヒラリー・クリントン特集を読んでいるうちに、もうお昼。冷蔵庫の残り物整理大会に、ひじきスープで色が添えられれる。生姜と黒酢と出汁のブレンドスープに、生ひじきと青葱、玉葱を入れただけのシンプルなスープだが、非常にこれもまた美味。そして、食後に読み進めて、「坂の上の雲」の二巻目は終了。三巻目に入る前に、そう言えば、と、途中で放り出した村上春樹のWing-Up-Bird…(『ねじ巻き鳥』の英語版)を手に取る。心に余裕がないと、英語の小説に手は出ないもんねぇ。

で、今日はPCに触れない一日にしようとも思っていたのだが、こういう余裕のある時にこそ、どうしても備忘録的に書いておきたいことを思い出し、デスクトップに電源を入れる。台湾から帰ってきて、ボンヤリと感じていることでもある。

「今日では、ますます多くの研究者がアメリカ語で出版しなければならないと感じている。このことは、そのこと自体としては、つまり意識の面にまで影響を及ぼさないのであれば、まあ容認されてもよいことだろうし、考えようによっては自然なことですらあるのかもしれない。しかし、結果的に、異なる国々のいよいよ多くの研究者がアメリカ語で書かなければ国際的に認めてもらえないと感じ、同時にアメリカ人研究者は、フィールドワークの便のために外国語の取得を必要としている者を除いて、従来にも増して外国語を学ぶことが億劫になってきている。」(ベネディクト・アンダーソン『ヤシガラ椀の外へ』NTT出版、p280-281)

インドネシア語の諧謔にも通じ、現地語で文章を書くというアンダーソンの指摘が、少し前に読んだ日本人による「憂国の書」とも言える文章を思い起こさせる。

「英語の世紀に入った今、非・英語圏において、英語に吸い込まれていく人は増えていかざるをえない。英語に吸い込まれていくのは、<叡智を求める人>だけには限らない。国際的なNPOやNGOで働き、世の役に立ちたい人も英語に吸い込まれていく。英語などに興味がないのに仕事によって吸い込まれていかざるをえない人もいる。だが、非・英語圏の<国語>にとての悲劇は、そのようなところではとまらない。非・英語圏の<国語>にとっての、さらなる悲劇は、英語ができなくてはならないという強迫観念が社会のなかに無限大に拡大していくことになる。」(水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房、p285)

水村さんの本の副題は「英語の世紀の中で」とある。まさに、グローバル化とIT社会が進む中で、「英語の世紀」が進んでいる。研究者に関して言えば、まだ社会科学系では英語発表がmustになっていなが、自然科学系ではもう既にこの「英語の世紀」に突入しているのは、ご案内の通り。韓国は社会科学系でも「英語の世紀」に突入しているだけでなく、自国でポストを得ようと思う研究者は、アメリカかイギリスのPh.D.を持っていないと相手にされない、という厳しい「英語の世紀」だとか。確かに台湾の学会でも、実に流暢な『アメリカ語』を話す韓国人を何人も見かけた。

確かに僕自身も台湾で『アメリカ語』で発表してみて、日本語の世界で書き・考えていることの狭さや土着性に、改めて気づかされる部分もある。そういう意味では、英語で書き・話すことによって、他国との比較など、新たな視点で振り返る事ができる利点がある。そういう面で、「英語に吸い込まれていく」面が僕の中にあるかもしれない、と、一方で感じる。だが、アンダーソンはこんな風にも指摘している。

「ナショナリズムやグローバル化は私たちの視野を狭め、問題を単純化させる傾向を持つ。こうした傾向に抗う一方で、両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させること、明確な政治的意識を持ち、賢明なやり方で融合させることが、今後はこれまで以上に必要とされる」(アンダーソン、同上、p281)

アメリカ語での発表や文章書きは、その経験があまりない人間にも、明らかに日本語での発表や文章書きとの違いを感じさせる。歴史的・社会的文脈を共有しない人々に、福祉社会のあり方という文脈依存型の話を短時間で分かりやすく理解してもらうためには、それを安易にしようと思えば思うほど、「問題を単純化させる」結果となりやすい。僕自身も、海外発表の際に、このピットフォールに陥っているのではないか、と、一方で感じる。だが、そうやって「単純化」することによって、普段の固着した視点からの「解放のための可能性」も持つ。当たり前といえば当たり前の話だが、異化作用は毒にも薬にもなるのである。

同様に、日本語じゃないと伝わらない、と思いこむこともまた、「私たちの視野を狭め、問題を単純化させる」という意味では、グローバル化と同じ愚を犯す、ともアンダーソンは指摘している。だからこそ、「両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させること」が大切、という指摘は、なるほど、と頷く。英語と日本語という二つの包丁を、両方ともきちんと研いでおくからこそ、非・英語圏にあって、重要なのだと思う。水村さんもその事を悲痛な訴えとして書いている。

「<普遍語>のすさまじい力のまえには、その力を跳ね返すぐらいの理念をもたなくてはならないのである。そして、そのためには、学校教育という、すべての日本人が通過儀礼のように通らなければならない教育の場において、<国語>としての日本語を護るという、大いなる理念をもたねばならないのである。」(水村、前掲書、p285)

日本語という<国語>を「護る」ことを通じて、<普遍語>としての「アメリカ語」の「すさまじい力」と渡り歩き、「その力を跳ね返すぐらいの理念」を持つ。「坂の上の雲」を読んでいて感じるのは、明治期の日本人達が痛切なまでに持っていた矜持が、この「跳ね返すぐらいの理念」に通じるところがある、ということである。あれから100年を少し過ぎた。その中で、<普遍語>に単に吸い込まれるわけでもなく、<普遍語>と敵対する訳でもなく、「両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させる」ことが出来るかどうか、が問われている。

三度目の正直?

 

ここしばらく、毎週出張が続いていた。今日は台北からの帰りの成田エクスプレス。まるまる1年ぶりの台北である。

台湾の魅力に気づいたのが、昨年のゴールデンウィークの休暇旅行。で、昨年11月は、初めての海外での国際学会発表の地を、台湾に選んだのは、勿論、研究上の成果の整理、というのが第一義的だが、それと同じくらい!?、台湾にまたお茶を買いに行きたい、という強い動機?が作用した為でもある。

そういう不純な動機で足を踏み入れた国際学会での発表。実は博論を書く前に、博論には海外発表が必須条件である事を知り、偶然神戸で開かれたリハビリテーションの学会で発表したが、あのときは「資格要件」欲しさであり、きちんとした内容ではなかった。その後、院生も終わった頃、メンバーの末席に入れて頂いた研究班の報告を、これも神戸で開かれた世界精神医学会で発表することになったのだが、当日セッション会場に来てみると、あれまあ、悲しいことに日本人だけ、である。座長がそれを確認した後、途中で他国の方が入ってきたら切り替えますが、日本語で発表してください、と宣言。二回目の海外発表は、形式上英語、実質は日本語だったのである。

そういうわけで、1年前の台湾の学会発表が、実質的な海外での学会発表デビュー、であるが、まあ、惨憺たるものだった。文章は、英語のスペシャリストMさんに見て頂いたので、それは問題ない。ただ、日本の現状をそのまま英語に直しても、よほど日本に興味のある研究者以外には、その内容が伝わらない。また、会話に関しても、いくらアメリカによく出張に出かける、といっても、自分の関心領域にぴったりの人とばかり議論しているので、その他の、また研究者同士の議論などについて行けない。さらには、恥ずかしい話だが、皆さんの議論の輪の中に、まず入っていけない。そういうダメダメ続きで、撃沈したのである。

それが悔しくて、以来毎日の通勤時、ipodに入れたNYタイムズの一面読みとBBCラジオのダイジェスト、後はVoice of Americaのゆっくり英語バージョン、を流し続けてみた。また、7月のイギリス、そして11月の台湾と、学会は異なるが、兎に角チャンスが巡ってきたら、海外発表をするんだ、と決めた。台湾に出かける前は、来年7月のトルコの学会発表のエントリーも、時間が切迫するなかで、泣きながら書いた(どれも、またまたMさんにおせわになりました。本当に大感謝です)。さて、1年ぶりの台湾。多少の成果はあったのだろうか。

結論を言えば、少しは進歩した。しかし、まだまだ改善の余地が大きい、といったところだろうか。

ヒアリングは、話し方に独特の癖のある人や、読み上げ原稿を恐ろしい早さで棒読みするオーストラリア人の英語はさっぱりだったが、それ以外は、ある程度わかるようになってきた。ipodも地道に1年聴き続けたら、多少の効果はあるものである。習慣事は非常に苦手な僕だが、流し続けるだけ、なら、何とか継続出来た。

発表は、多少は日本のコンテキストを知らない海外の研究者にも通じる何か、は入れられたような気がする。アジア・太平洋のNPO・サードセクター研究者が集まる学会だったので、障害者運動から始まった支援組織が、政府の補助・委託関係の中に入るうちに、サービス提供への拘束状態に陥っている(straitjacket vendorism)実情を説明した上で、それを乗り越えるために、どのようなアドボカシーが必要か、という変革の可能性を、ある支援組織の事例研究から紹介した。ちょうど香港の社会サービスNPOが新自由主義改革やNew Public Managementの流れの中で、どういう問題に陥っているのか、という発表がその前にあり、かなり重なる論点があり、議論が出来たのも嬉しかった。とはいえ、まだまだタコツボ的研究の領域から抜け出せていないようで、リスナーも少なく、質疑応答を通じた有意義な成果を得ることは出来なかった。

以前の阿呆な僕なら、そのことを指して、「みんなその領域に興味がない・無知だからだ」などと「他人のせい」に安易にしていた。あるいは、「日本語ならもう少し惹きつけられる話が出来るのに」と「語学のせい」にもしていた。だが、ここ3回の海外発表でわかったのは、語学でもリスナーが悪いのでもない。自分の理解不足が一番の原因だ、ということだ。国内学会であれば、福祉の学会であればなおのこと、日本のコンテキストを共有しているだけでなく、その分野の専門家の集まりであるので、多くの前提を省いた議論が出来る。国際学会でも、自然科学系やそれに近い学会であれば、専門家としての知識があれば国際的に共有出来ているものも多いため、それほどハードルは上がらない。だが、社会科学系の、特に福祉などの「その国の文化や歴史的展開に大きく依存している」分野であれば、他国の事情に精通していない普通の研究者は、その文脈依存的な論点の何がどう問題なのか、の重要性や深刻性がわからない。そして、それは、国際学会での発表における前提であり、それを指して「他国の人はわかってくれない」と言うのは、そこに参加する資格すらない妄言なのである。

では、どうすればよいのか。だからこそ、世界的な潮流(例えばNew Public Managementや準市場改革など)や、理論的枠組み、といった、通文化的な何かを縦糸にして、時刻の内容を横糸に編み込んでいかないと、伝わらないのである。そのことを説明するために、一つの補助線を引いてみる。

ちょうど帰りの飛行機で、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいたのだが、内田樹氏によれば、村上春樹と違って、司馬遼太郎の小説は国内で高い評価がされているが、海外ではほとんどが翻訳がされていないそうである。だからといって、前者と後者でレベルの差がある、とは思えない。では何が違うのか。それは、ある文化にどれほど文脈が依存しているのか、という事の差だと思える。確かに村上春樹の小説には、芦屋の浜辺や東京の紀伊国屋、札幌の雪景色、といった、日本的な情景が勿論色々出てくる。だが、彼の小説を英語で読んでいて感じるのは、そういう情景説明は、その文脈を知らなくても、読み流せる範囲内である。現に僕自身、パリの裏町やサンディエゴの灼熱の大地の記述を読んでも、イメージはわいても、それ以上のことはわからない。そして、村上春樹の小説における場面とは、あくまでもイメージを喚起するだけのものであり、それは登場人物達の内的世界に色を添えることが主題とされているからである。

一方、司馬遼太郎の小説は、村上春樹と比較した際、日本史や幕末という文脈に大きく寄り添うからこそ、価値がある小説である。本文中に何気なく出てくる原敬や高橋是清といった名前。直接触れることは無くても、そういう人々との直接・間接の関わりの記述の中から、明治という時代の激流を、読者は肌身に感じることが出来る。そして、これは小学校の日本史的知識くらいは共有されないと、リアリティーを感じられない種類のものだ。あるいは、祖父や曾祖父の代から口伝された事がある、という伝承の形でも良い。とにかく、日本という特定の文化で共有された「何か」を理解出来ているコミュニティーを読者対象にしているからこそ、グッと来るのである。文章修行時代に英語で小説を書いていた、という噂のある村上春樹とは、全く手法も考え方も違うのである。

だいぶ横道を逸れてしまった。僕が言いたかったのは、村上春樹的な組み立てが必要な場面で、司馬遼太郎的な組み立てをしていた僕自身が、大きく場を誤解していた、ということが言いたかったのだ。(勿論、それ以前に二人の巨匠になど、比べられるはずもないが)

きっと、司馬遼太郎だって、その気になれば、日本史を知らない読者層に対しての物語は書けたはずである。だが、彼はそれが出来ても、選ばなかった。僕の場合は、そういう書き方がある、という事実も知らず、またそれも出来ず、選べない状況にいた。ここ1年間で3回の海外発表をする中で気づいたのは、そういう場の違いの認識と、それに対する対応のあり方への気づきだった、と言えるだろう。ようやく、入口には立てた。だが、まだ中身がまだまだなのだ。

後、ついでにいうと、僕は学会の懇親会というのを、偏見の眼差しでみて、毛嫌いしていた。あそこはコネクションを作る場であり、そういう人にへつらうような場には行きたくない、と高威張りしていた。ただ、フレンドリーな方々の多い今回のアジア・太平洋会議に参加している中で、何だかそれって自分の器の小ささと了見の狭さの表れではないか、と思い始めていた。そして、そんな矢先に次のフレーズと出会ってしまう。

「私は人間を弱者と強者、成功者と失敗者とには分けない。学ぼうとする人としない人とにわける。」

これは、社会学者ベンジャミン・バーバーの言葉だそうだが、僕は昨晩、台北のホテルで風呂読書のお供にした、『リフレクティブ・マネージャー』(中原淳・金井著、光文社新書)を通じて知った。ちょうど学会発表を終えて、知り合いの研究者と打ち上げ(お酒の無い火鍋屋さん)もすまし、ホテルに戻って荷造りもほぼ終えた後、の一風呂である。この言葉は、緊張から解けた身体に、アルコールなんかよりも遙かに染み渡った。そう、せっかく学会発表の場で学ぼうとしているのに、懇親会という場で学ぼうとしていないのは、全くアホよね、と。

同書では直後に、人間の信念(マインドセット)について、いったん出来てしまうとなかなか変えるのは難しい、とも述べていた。僕自身も、こういう凝り固まった信念(偏見)のとらわれから、なかなか自由になれない。しかし、どんな場からも「学ぼうとする人」ではありたい、と強く希求する。それであればこそ、少しずつ予断や偏見、自信のなさからも自由にならなければ。先達の箴言をかみしめながら、そんなことを考えていた。

そういう意味でも、海外の学会発表を3回続けてみて、ようやくその大切さを今にしてわかった、のかもしれない。相変わらず、のろまな学びではあるけれど

そうそう、件のお茶について。今回もたんまりお茶を買い込みました。すっかりはまったプーアル茶は、1年分以上は買い込む始末。帰国してみたら、日本は急に冷え込みが深くなっていた。いよいよお茶がよく似合う季節の到来だ。

借り物競走

 

久しぶりにチエちゃんから電話がかかって来た。関西人ならば、あの古典的名作、「じゃりン子チエ」を思い出すかもしれなが、電話口のチエちゃんは、下駄よりも和服の似合うおしとやかな女性。しかし、一皮むけば、「じゃりん子チエ」顔負けの骨太な気質が見え隠れする、そんな友人である。用件をすませてお互いの近況報告をしあっている時に、ふと彼女がこんなことをもらした。

「最近のタケバタさんのブログには、自分の言葉が増えたね」

曰く、以前のブログは他人の本を引用して、それに対して出来ていないことを反省ばかりしている記述だったけれど、最近の文章は、少しそこから脱皮して、自分の経験を、自分の言葉で語っている、のだそうな。そう言われてみて、確かにそうかもしれない、と納得する。

人によってブログの使い方は色々あるだろうけど、僕自身の始めた動機は、考えの整理、というよりも、文章修行の意味合いの方が強かった。また、様々な課題に対して言いたいことはあるけれど、実際にその考えを文字にしてみると稚拙に見えるので、努めて不確かな意見もどきは書かないように、すこし禁欲的になっていた。今、たまたまこのブログサイトにはプロフィールがないけれど、大学のHPからリンクを張って、タケバタヒロシが何者であるか、は一目瞭然になっている。ゆえに、書く際に一定の社会的責任、ではないけれど、匿名のダダ漏れブログ、ではなく、竹端寛としてのハンドリングが効く範囲、と、抑制的になっている部分も、もしかしたらあったのかもしれない。そういえば、大学教員に成り立てだったこともあり、肩肘を張っていたのかもしれない。

では、今はどうなのか。多少は変容を遂げたのか。もちろん、そう簡単には答えられないけれど、変なたとえで言うと、少しずつ、引用という他者との対話をし続ける中で、己の考えの筋道、というか、輪郭なようなものが、ようやく立ち現れてきたのかもしれない。5年前にこのブログを始めた時は、茫洋とした石だか岩の固まりを前にして、トンカチとノミだけで、コツコツと削り始めた段階だった。その時、何を削ろうとしているのか、削れば何が出てくるか、なんてさっぱりわからず、とにかく定期的にキーボードを叩き続けた。そして、ただ無鉄砲に叩いていても発展性がないので、どこに向かうかはわからないが、他人のテキストを羅針盤にして、そのテキストにしがみつきながら、考えあぐね続けた。それは、実は、次のような営みだったのかもしれない。

目的の詳細は、そのつど、対象を形作るという行為の中で徐々にその姿を現し、特定されてくる。さらに、こうした作業の場合、設計図などのさまざまな道具も用いられるであろう。このようにして、目的は、対象を形作る中で、また、さまざまな道具を用いる活動の中で徐々に形を現してくる。そして、ある瞬間につぎのやるべきことの詳細は、作られつつある対象の中に表現されているのである。」(上野直樹『仕事の中の学習』東京大学出版会、p21)

最初から目的が決まっていた訳ではない。その時々のブログエントリーという「対象を形作るという行為の中で徐々にその姿を現し、特定されてくる」ものなのだろう。僕の場合、「設計図」というのは、その時々に気になって、今回の如く引用させて頂いている、というか、胸を貸して頂いている様々なテキストだ。他人の思考との他流試合を繰り返す中で、何かが「徐々に形を現してくる」。そして、以前には無かったことだが、何だか最近、文章を書いている中で、「つぎのやるべきことの詳細は、作られつつある対象の中に表現されている」と感じることが増えてきた。簡単に言えば、「これってあれとつながっているんじゃないかな」といった、書いている僕自身ではなく、書かれているテキストが、次の展開を暗示したり、明確に求めている場面が、増えてきた。そして、それを著者である僕自身が感応できる度合いが、少しずつ増えてきたのかもしれない。他者のテキストへの感応度が上がることを通じて、自分自身のテキストをクールに見つめることと、それへの感応度を上げることが、可能になってきた、とも言えるだろうか。

勿論、現時点でも、感度が上がったからといって、今日のブログがどう落ち着くか、という「目的」、というか、「到達点」までは、まだわかっていない。書いてみて、ドライブがかかれば一気呵成に仕上がるし、接ぎ穂を見失うと、書いては消し、消しては書きを、続けることになる。

しかし、耳を澄ませて、目を見張って、そのテキストが語りかけてくる(であろう)何かを受け取ろうと虚心になる内に、ふと、書きあぐねていたパラグラフに光が差し、風が通る瞬間が訪れる。そのタイミングを見逃さず、その一瞬を捕まえて、その流れに乗れた瞬間、ボディーボードがうまく波を捕まえた時と同じように、波と同化して、何とも言えない一体感で、するすると進んでいく。そして、流れが止まった時点でじたばたせずに落ち着いて文章に留めを打つと、自然と、筆を置くことができる。

で、つけ加えるならば、この「留めを打つ」というのは、伊丹敬之先生の文章論に出てくる名言であり、僕の中に自然発生的に浮かんだ言葉ではない。引用という形で、先達の胸を借り続け、5年前よりは少しは使えるボキャブラリーも増えたことも実感する。胸を借りる、と言えば、サクライ君は僕のブログを指して「内田樹に文体が似ている」と言われたが、確かに愛読者として、彼の文体や考え方に、勝手に私淑し、胸を借り続けている。その結果、いつの間にかその文体が憑依出来ているのなら、これほど嬉しいことはない(無論、全然その距離が縮まっていないことは痛感しているが)。

その内田師は自身のブログの中で、彼自身の考えはオリジナルなものではなく、様々な先達の贈り物を、バトンリレーとして伝えている、といった主旨の文章を何度も書いている。そして僕は、その考えに、深く同意する。僕の場合は、バトンリレーというより「借り物競争」の方が正しいかもしれないが、そうやって他人のテキストを「借り」ながら、少しずつ歩み続ける中で(走っている、というより、のっそり歩いている方が正しいだろう)、少しは、以前と違う高みであれ深みであれ、違う位相にたどり着けたら。そう願いながら、今日も虚心にキーボードを叩き続けるのであった。

準国家組織の岐路

 

今日は小雨の中、昼間の「かいじ」号のひとである。

先週は津のビジネスホテルの「天然温泉」だったが、今朝は遙かに「本物」に感じる赤湯温泉で長湯をしていた。昨日、山形の救護施設が主催された講演会に呼ばれ、生まれて初めて山形まで出かける。東京からの新幹線「つばさ」号はほぼ満席。確かに車窓の紅葉も美しいが、それでもまだ盛りの少し前なのに大変な繁盛。何でもご当地の方によると、某大河ドラマの影響だとか。そういえば、やっていましたね。僕は見ていないけど。

だいたい日曜の夜八時、といえば、夕方の合気道から帰ってきて、一風呂浴びて、夕食を食べる時間帯。僕はテレビがついていると、口を半開きにしてボーッと眺める依存的傾向があるので、食事時はテレビを消すことにしている。ゆったり出来る音楽をかけ、パートナーとのんびりオシャベリしている時間帯がちょうどそのテレビの時間帯なので、全く直江さんとはご縁がなかったのだ。なるほど、昨年は信玄効果で山梨の観光客は確かに多かったが、今年は山形なんですね。いやはや、ビックリ。

で、ビックリ、といえば、今回の主催者にもびっくりした。社会福祉事業団が設立した救護施設の、年に一度の福祉セミナー。毎年地域の風を施設にいれたくて、施設の体育館でやっていたが、今年は新型インフルをはやらせないために、隣の市の会館が会場だった。何がビックリ、って、実はこの主催者のSさんは、私のある原稿を読まれて、興味を持ってこのブログに辿り着き、今回セミナーに呼んでくださったのだ。普段、移動疲れの駄文と不勉強な読書メモ的なことしか書いていない当スルメブログを、懇切丁寧に読んでくださっているばかりでなく、私の紹介の際も、ご自身が気に入られた一節を読んでくださる、という過分なるご紹介。近年、最も照れた瞬間であった。多少は意味のあることを書かないといかんなぁ、と改めて、反省することしきり。

会終了後の懇親会で、ご当地名物の「芋煮」に美酒に、と舌鼓をうちながら、議論されていたのは、障害者福祉の今後のあるべき姿。同じ社会福祉法人内の同僚達による、熱のこもった議論の内容を今朝の長風呂で思い出しているうちに、「準国家組織」という単語の捉え直しの必要性を感じはじめた。

この「準国家組織」は、日本の市民社会についてロバート・ペッカネンがまとめた本(『日本における市民社会の二重構造-政策提言なきメンバー達』)に出てくるフレーズ。彼は、アメリカのワシントンに拠点を置く、ロビー活動を中心としたサードセクターが“advocates without members”と称されるの対比して、町内会や自治会に代表される日本のサードセクターを、“members without advocates”と名付けて整理している。

この議論は面白いのだが、そこで分析対象から社会福祉分野が外されていることが気になった。今その本が手元にないので、正確な引用は出来ないが、外した理由として、日本の社会福祉法人に代表される福祉分野のサードセクターは、国家からの統制と補助に大きく依存しており、para-state organization、つまり「準国家組織」だから、分析から外す、と書かれていたと記憶している。確かに、措置時代までの社会福祉法人が、現在のNPO法人などと比べて大きく守られた存在であったことは、何の疑いもない。だが、懇親会の席で繰り広げられていたのは、その「準国家組織」の内部であっても、サードセクター的な、運動に根ざした議論が、これまで続けられてきたところも、障害者福祉領域では少なくないのではないか、ということである。

今、同時多発的にいくつかの地域の社会福祉法人の改革プロジェクトに関わらせて頂いている。70年代・80年代に当事者運動に感化された若者達のうち、あるものは自ら作業所を作り、社会福祉法人に発展させた。別の者は既存の社会福祉法人に入って改革を志向した。一方で、作業所運動の理念に拘り、社会福祉法人にならずに無認可を貫き続けた人もいる。形態はどうであれ、障害当事者と出会って、少なからぬ影響を受け、市民運動的なマインドを持って当事者と関わる仕事を担い続けた人々が、一定の数、存在する。だが、こないだのブログでも書いたように、政府からの補助・委託の割合が高くなり、加えて準市場化の波にもさらされる中で、もともと持っていた市民運動的なマインドが萎み、いつしか「単なるサービス提供事業体」に「成り下がっている」という現状が、そこかしこでみられる。そして、そのことに対する危機感を持つ人が、今だいぶ増えてきた、ということが、私への依頼にも表れているし、昨日の議論でもそのことが議題の中心になっていた。

つまり、確かに形態は「準国家組織」然としているかもしれないけれど、準市場改革の揺さぶりを受けて、単なる市場サービスの一つになるのか、あるいは市民運動的価値観を再び志向する、ミッションに基づく経営を重視したサードセクターとして自身を再規定するのか、の瀬戸際に立たされている障害者支援組織が少なくない。そして、その分岐点に立っていることを自覚した上で、どうしたら後者の道を歩めるのか、を真剣に模索している団体もあるのである。ペッカネンが単純に「準国家組織」と十把一絡げにしているが、内部では、そんな分裂の兆しが見えるのである。

とまあ、そんなことを風呂でぼんやり考えている内に、出立の時間があっという間に来てしまう。我が家へのお土産に日本酒も買い込み、美味しい豚丼!の駅弁も頂いた上で、今日も夕方5時半の合気道に間に合うように家路に急ぐのであった。