今宵もツアー帰り

 

ブログの更新が滞りがちになるハードな季節が到来した。秋はみっちり仕事が多い。今日は最終のワイドビューふじかわで、甲府からの帰還の車内。パソコンの合間に、難波のジュンク堂で買い求めた『ヤシガラ椀の外へ』というベネディクト・アンダーソンの自伝を読みふける。古典的作品である『想像の共同体』はちゃんと読んでいないのだが、小学生時代からの「自伝」ファン、としては、仕事疲れにるんるん読むにはちょうど良い。それにしても、3泊4日のツアーもなかなか濃密だった。

そもそも、旅の始まりは金曜日。福山で講演させて頂く事になったのだが、その前に京都駅で打ち合わせ。以前私が書いたレポートを読んで『納得のあまり、首が取れるほどうなづいてしまいました』と仰ってくださった方と、あるプロジェクトについての議論。この私のレポートは、社会運動の理念に基づいてスタートした団体が、その運動の一環として障害者へのサービス提供をはじめ、その規模が拡大する中で、サービス提供の「すべき事」に雁字搦めになってしまい、運動の理念を追求出来ず、組織的にも疲弊していく、という実態を解明したもの。このレポートに普遍性がある、という頷きの評価を頂くのは、研究者としては有り難いが、運動へのシンパシーを持つ一市民としては、大いなる憂慮の気持ちを抱いてしまう。自分が出来ることは何か、を議論しながら、考える。

実はこの課題は、今度国際学会で発表する事にして、ここ最近そのフルペーパー作りにウンウンと唸っていた。唸る、と言えば、これ以外にも、今日が〆切の国内と国外の学会発表のエントリーもそれぞれ重なっていて、文字通り死に物狂いな日々で書いて、何とか投稿も完了。東京のMさんには、また個人レッスンをして頂く。本当に、偉大なる友人には感謝してもしきれない。

で、京都から「のぞみ」に乗り換えて出かけた福山では、市の労働組合が主催した、福祉系職員の皆さんを対象とした研修。この間、山梨や三重で感じてきた、政策形成過程における自治体福祉職員の役割や課題について、お話しさせて頂く。政策課題の「読み解き」や「編集」過程を、自治体内部のデスクワークで処理するのか、住民の声に基づいた協働を時間をかけても目指すのか、で、その後のアウトプットが大きく違ってくる。現状の「福祉計画」のたぐいが、コンサルティング会社に「丸投げ」した結果、少なからぬ自治体で、作成者以外誰も目を通さない「紙くず」と化す危険性にさらされている実態にあって、真っ当に計画を作ることの大切さの話をした場面で、多くの方々が頷いてくださった。人口40万という中核都市で、都会ではないけれど、きっちりと住民の声に基づいた政策を作り出したい、という職員の皆さんの気概を大きく感じた研修であった。

そういう良いリスナーにかこまれ、ついつい1次会から2次会までハシゴし、ホテルに帰ったのが午前1時。シャワーだけ浴びて速攻で眠り、翌朝は6時半おき。9時過ぎから心斎橋で次の打ち合わせのため、レールスターのサイレントカーに乗りこむ。ほとんど眠らなかったが、ぼんやりしている内に、あっという間に新大阪。疲れているときに、2列シートは、本当に有り難い。

で、心斎橋で大阪のMさんと、打ち合わせもそこそこに、積もる話をあれこれしている内に、あっという間に先方が出立する時間に。たまにこのブログを覗かれるMさんから、「また本屋に行くの?」と呆れられながら、13時半の近鉄特急の時間まで、なんば花月の向かい側のジュンク堂にやはり吸い寄せられる。本当は、梅田のブックファーストかジュンク堂に行こうと思ったのだが、今回はこちらにして大正解。サクサクと8冊ほどの大収穫。今回はキャリーケースがあるから、と、本は送らず全部持ち帰ることにしたら、久しぶりにジュンク堂の袋をもらった。そうそう、Mさん、たまに東京や大阪に出張すると、大規模書店で本の「立ち読み」が出来るありがたさを実感するのです。確かに普段はアマゾンや大学の丸善の本屋を通じて注文するけど、それは必要な本の「ピンポイント作戦」。でも、対象をあまり特定せずに、ブラッと書棚を駆けめぐるからこそ、出会う一冊もあるのです。今回のアンダーソンの本なんて、まさにその範疇。そういう出会いを求めて、相も変わらず、フラフラ本屋に彷徨うのでありました。

その後、買った本に満足して、アーバンライナーの中で熟睡している内に、津に到着。その土曜の午後から、日曜、月曜も、まあ普段より3倍くらい濃縮した日々。半日のシンポジウム(日曜午後)に、2時間程度のミーティングや委員会が3つ、今日の午後は鳥羽市での仕事だし、その間土日とも打ち上げもあった。しかも、そのどれも、内容が濃くて、数珠繋ぎで、チャレンジングな課題。疲れた車内で一つ一つの内容を書いていたら息切れしそうなので、省いてしまうが、まあとにかく「濃厚」でありました。

で、あと10分ほどで甲府なのだが、今日は家に帰ったら、待望のあるモノとの「ご対面」が待っている。待ち遠しくてワクワク、なのだが、そのレポートは、次の機会に譲るとしよう。

カチャカチャとコリコリ

 

風邪の初期症状のようである。鼻水が出て、何となくだるい。

昨日から甲府もグッと冷え込んできた。しかも、昨日久し振りに講義で「スベって」しまい、冷や汗をかき続けた結果、アンダーシャツだけでなく、Yシャツもぐしょぐしょになった。こりゃヤバイ、と思って、さっさと帰宅し、一寝入りした後、快復したので合気道に出かける。11月は6級の昇段審査を受けるので、行ける時に手を抜くわけにはいかない。両手取二教の裏、ってどうするんでしたっけ、と、有段者の大先輩に教えて頂きながら、汗をぐっしょりかいて、遅めの夕飯を頂く。そして、今朝になって鼻がシュンシュン。どうも夏用の布団+毛布、では、もう足りないようだ。

で、そんな身も心もあまり優れない中、何となく書架の「積ん読本」になっていた一冊を読み始めると、なかなかしびれるフレーズに出逢う。

「タイプライターで書くことは、鍛冶屋が鉄のかたまりから何かを作り出す作業に似ているといえるかもしれない。つまり、書くことは、ある意味では、ハンマーの代わりに、キーボードによって、何か対象を形作っていくことであり、いったん作った形が、つぎに、どこをどう削るべきか、可能な道筋を示しているのである。ときには、削ってしまった対象が、袋小路のように、つぎに削るべきところ、あるいは、行きべき場所を示さないように見え、作り直す必要があるにしても、行くべき方向性は、そのつど形作ったものの中に探すほかはない。そして、この書くという作業は、キーボードを打つという行為と同期した行為なのである。」(上野直樹『仕事の中での学習-状況論的アプローチ』東京大学出版会 p28-29)

認知科学の専門家による学習過程に関する概説書。Learning Organization論の文献を読む中で引っかかってきた本、だと思う。バタバタしていて、何故この本を買ったのか、覚えていないのが、お恥ずかしい限り。でも、読み始めたら、その分析の鮮やかさに、ワクワクし始める。

確かに、このブログがその典型例だが、書く前にモチーフや結論が明確に決まっている、なんてことはあまりない。鍛冶屋が火をおこし、鉄の塊を入れて溶かし、ハンマーを叩くプロセスと、考えてみれば似ていることをしている。とにかくPCを立ち上げて、テキストエディーターを前に、カチャカチャ打ち込み始める。書き始めて、何となく流れに乗れると、「いったん作った形が、つぎに、どこをどう削るべきか、可能な道筋を示しているのである」。でも、その流れを感じられずに、あてど無く打っていると、時として、「袋小路のように、つぎに削るべきところ、あるいは、行きべき場所を示さないように見え」ることもある。でも、「行くべき方向性は、そのつど形作ったものの中に探すほかはない」のである。そこで、形作られたものを見直す中で、「こりゃ、使えん」と削除するにせよ、こう書いてみようか、と新たな方向性が浮かぶにせよ、選択肢が立ち上がってくるのである。

そして、経験的に言えば、自分の元々のアイデアや想念から一旦離れて、「そのつど形作ったものの中に」「可能な道筋」を見出す方が、時としてブレイクスルーとなるようなアイデアや考えにつながる事もある。まさにブリコラージュ的な、何のために使えるのかよく分からないものを集めて組み合わせる中で、思わぬ効用をもたらすのと、似ている。そういう、自分自身に風穴を開けるようなキーボード打ち、は、その作業があるからこそ、まさに書くという創作行為が開けてくると言う意味でも、「同期」しているのである。キーボード打ちより、あるいはペンで書くことより、「書く」という実態が前に来ることはあり得ない。

そう、キーボード打ちだけでなく、ペンで書いていても同様の事を、強く思う。原稿や学会発表の初期段階の構想は、PCではなく、ノートに万年筆で、というアナログチックな取り組みを初めて1年あまり。ミヤモトさん辺りから「また形から入って」と苦笑されそうだが、さにあらず。実際、ノートにコリコリと書くのは、PCよりも遙かに負荷がかかるが、何かを生み出さなければならない、一定のテンションが必要な時には、実は必要な負荷なのではないか、と感じる。また、一覧性の強い紙面に、見開きレベルでコリコリと書きながら考えあぐねているうちに、つながりと見通しが出来てくる事もしばしばある。つまり、カチャカチャであれ、コリコリであれ、実際に手を動かしてみることによって、初めて世界が見える形で立ち現れてくるのだし、その立ち現れた現物を眺めながら、次の行路が、「可能な道筋」が、見えてくるのである。

その際、実社会でも同じだが、耳をそばだてることが大切なのだろう。この「いったん作った形」は何を求めているのだろう。どういう「可能性」を秘めているのだろう。これを、自分の思いこみだけでなく、対象化(=活字化)された形を眺めながら、そこから出される声なき声にチューニングを合わせる。それが上手くできたら、独りでにキーボードに次なる言葉が打ち込まれる。言葉が出てこないのは、そのチューニングが出来ていなかったり、あるいは聞こうとせずに自分の思いこみだけを勝手に打ち込むからだ。

そういう意味では、書いている私と書かれている活字、とは、私という媒介項を接してはいるが、同じではない。その際、どちらかだけを重視すると、「行き止まり」になる。「書いている私」の我が強い時ほど、「書かれている活字」の方にも気を配ると、案外デッドロックを切り抜けるドアが、ちらりと開いていたりするのである。自動書記、というと、イタコやシャーマン的になるが、書かれた文字と対話しながら、その文字の書かれる即興感の流れを止めない形で、「書くに任せる」というのも、時として大切なのだと思う。ほうら、今日もそうしているうちに、こんなにウダウダ叩いてしまった。

PSWに期待すること

 

というタイトルで8ヶ月くらい前に原稿を頼まれた。精神科ソーシャルワーカー団体のニュースレターか何かだそうだ。もう発行されているらしいが、その誌面は手元に届いていない。後期の授業が始まってしまい、「希望の公式」を今日のボランティア・NPO論で使うために、その原稿の事を思い出した。

せっかくなので、ここに載せておこうと思う。

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「PSWに期待すること」 山梨学院大学 竹端寛

最近、よく引用する「公式」がある。

『希望=精神的な意志の力+目的に至る方法を考える力』
“Hope=Mental Wiipower + Waypower for Goals” Snyder, The Psychology of Hope

精神疾患というとてつもない経験を受け止められず、混乱と不安の中で身も心もボロボロになっている人がいる。他人だけでなく自分自身を信じる「意志の力」をも失いかけている人もいる。自分の困惑の状況を打開する術を知らず、どうして良いのか途方に暮れている人もいる。「意志の力」と「方法の力」の双方が失われつつある中で、いつしか「希望」の灯火が消え、無力感、ひいては「絶望」の奈落へと落とされる人もいる。

そんな状況の中で、PSWの皆さんこそ、「絶望」を「希望」に変える触媒役なのではないだろうか。

例えば病棟で「一生ここに置いてください」という訴えに出会う。あるいは地域で「もう生きていても仕方ないんです」というつぶやきを耳にする。しかし、力量あるPSWならば、この声やつぶやきを安易に自己決定・自己選択などとは考えない。その「絶望」の声の裏側に、本当のところ、どんな思いや願い、本音が隠されているのだろう。そこから、どんな「希望」が導き出せるだろう。そのために、自分がこの人に差し出せる方法論とは何だろう。改めて考えてみると、私が出会ってきたPSWの人びとの仕事は、常にこの「希望の公式」に合致していたような気がする。

時代的に、厳しさや不安感が漂っている。自立支援法の問題、社会資源なさ、地域の偏見、職場の労働環境など、絶望に傾きがちな要素も少なくない。PSW自身が「希望」を捨てかねない状況が見え隠れしている。だが、PSWこそ、希望を紡ぎ出す専門家のはずだ。人びとの諦めや苦しみの背後にある、「声にならない希望」を引き出すことが出来るか。その上で、1人1人の希望を現実化するために、徹底的に方法論を考え抜くことが出来るか。希望はまさに、皆さんの仕事の中からこそ、紡ぎ出されるはずなのだ。

どんなに病状が重くとも、どんなにひどい社会環境であっても、人は希望を持っている。その希望に直接アクセス出来る専門家としてPSWに何が出来るのか。その役割と専門性が、今までも、そしてこれからも、大きく問われ続けている。With Hope!

善く生きる

 

一定以上の力で引っ張り続けると、バネは延びきってしまう。器の小さい人間が、それでも無理して頑張り続けると、摩耗して、気の抜けたサイダーのように延びきってしまう。

休み明けの先週、水曜日の教授会後から、4泊5日のツアーに出かけた。木曜日は三重で1日研修と次回の研修の構築打合せをし、金曜日は古巣のNPO大阪精神医療人権センターのオンブズマン研修のお手伝い。で、土曜の午前は、ある社会福祉法人さんの中堅若手の皆さんで構成される「職員研修プロジェクトチーム」とのミーティングをこなし、土曜午後から日曜午前は、西宮で濃厚なヒアリング。その後、日曜午後はDPI日本会議主催の「障害者総合福祉サービス法」に関するタウンミーティング。折しもその日の朝刊はどれも「自立支援法廃止」という長妻大臣の発言を載せていただけに、何だか時期的にピッタリあたってしまい、気持ち悪いくらい。そういう濃厚な仕事をして、山梨に帰ってきて、くたびれ果てた。

休み明けはボチボチ動くべき、なのに、最初から飛ばしすぎて、少しダウン。本当は寝込みたかったのだが、月曜日は同僚の若すぎる死を悼み、東京までお通夜に出かける。39歳、あまりにも早すぎるし、突然すぎる。水曜日に構内で見かけた時の「普通」の出で立ちが目に焼き付いている。心よりのご冥福をお祈りする。

こういう時、改めて「善く生きる」ことの大切さ、を、深く認識する。志を持ち、原理原則を大切にし、時流に逆らってでも一貫して生きてきた人も、あっけなく死の扉の向こう側に逝ってしまう。残された私たち、という言い方は使い古されているが、しかし、私自身、自らの生を「善く生きる」ことが、「いのち」への尊厳を保つためにも、足下から出来ることなのだ、と思う。日々の実践の丁寧さと誠実さ、が何よりも問われている。

思えばしばらく、無理を重ねていると、延びきったバネ、による金属疲労を繰り返していた。器を広げる為に仕方ない、という見方もある。それも、一方で正しい。しかし、他方で「善く生きる」限界を超えるのであれば、それはバネが切れたり、劣化する、下手したらバネの持続力を、ひいては「いのち」を縮める逆効果につながる。一皮むけるべく必死になりつつ、ひとつ一つの取り組みを雑にしない。一見矛盾に見えるこの命題を、何とか両立させるために、自分に問い続けること。「善く生きる」ために、忘れてはいけないスタンドポイントなのだと思う。

癖の認識

 

部屋を掃除していたら、8月末のゼミ合宿のメモ書きが出てきた。その時に、「いじめ」問題を取り上げたゼミ生の話題を議論して、即興で浮かんだ内容が、何だか自分の今にピッタリのような気がして、慌てて書いたメモである。そのメモを、今日の自分の雑感に重ね合わせながら、少し膨らませてみたいと思う。(って書いたら、だいぶ違っていたのだけれど)

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ある人にとっての「体験的認識」と、世間一般で認識されている「集合的認識」に違いがある場合がある。例えば、いじめられている側の「体験的認識」と、周りの人が眺めた際の「集合的認識」に大きなズレがある。あるいは、小さな子供が生々しく感じているファンタジー的世界と、多くの「大人」と呼ばれる人の見る世界にもズレがある。このファンタジー的世界は、自閉症の人の世界観や、幻覚妄想を持つ人の世界観、とも置き換え可能かも知れない。あるいは環境問題や貧困問題、途上国支援などを「自分事」と考える人の認識と、それらの問題を「他人事」と考える人にも、同様のズレがあるだろう。

その時、マジョリティという名の「集合的認識」の圧力は、「体験的認識」を凌駕するほど、時として強くなる。昨日深夜、偶然見ていたNHKのイチローの9年連続200本安打の記念番組の中で、彼はオリックス時代に、自身の振り子打法が駄目だ、と否定され続け、涙を流し続けてきた、と語っていた。結局、その振り子打法が彼にとって良い、という「体験的認識」を、プロ野球界の常識という「集合的認識」の前でも屈することなく、例え二軍に落とされても貫いたから、今の彼がある。しかし、そんな超人イチローでも、時として、「集合的認識」の圧力は、涙を流すほど、凌駕しそうになったそうである。

何が言いたいのか。つまり、「集合的認識」と「体験的認識」にズレがあった場合、そのズレが大きければ大きいほど、個々人がその「体験的認識」を持ち続けるには、かなりハードな状況である、ということだ。

これを逆に捉えてみると、「集合的認識」の囚われの中に安住している人々には、その「集合的認識」の偏差を自覚し、自らの偏りを補正するために、自らの世界の外に存在する「体験的認識」をも否定せず、そのものとして認識することが大切だ、ということである。だが、「集合的認識」と「体験的認識」にズレがあればあるほど、前者が後者を認めることは、同様にかなりハードな状況である。

このことを指して、阿部謹也も次のように述べている。

「『世間』とうまく折り合うことができな人は『世間』の本質を知り、歴史と直接向き合うことができる。そのような意味で歴史はまず『世間』とうまく折り合えない人が発見してゆくものである。」(『日本人の歴史意識』岩波新書、p203

この阿部氏の文章の「世間」を「集合的認識」と置き換えると、どうなるだろうか。

「『集合的認識』とうまく折り合うことができな人は『集合的認識』の本質を知り、歴史と直接向き合うことができる。そのような意味で歴史はまず『集合的認識』とうまく折り合えない人が発見してゆくものである。」

「集合的認識」とうまく折り合えない「体験的認識」を持つ人がイチローだった、とすると、先のイチローのコメントが、すっと頭の中に入ってくるような気がする。

では、僕自身の立場はどうなのか。今の僕は、あるカナダ人研究者に教えてもらった言葉を使えば、boudary walker(境界線を歩く人)なのではないか、と感じている。昔から気になっていた色々な問題は、よく考えれば「集合的認識」と「体験的認識」の境界線や際(きわ)にあったような気がする。中心と周縁でいえば、後者のマージナルな領域。中心が定められた円の内部と外部が触れる接点あたり、というべきか。その外部に排除された側の視点に立つ人から、多くの事を教えてもらい続けてきたような気がする。そして、その視点から、「世間」という名の「集合的認識」であり、日本の「中心」を眺め続けてきたような気がする。

あと、僕自身が「しゃあない」(=仕方ない)という言葉が一番嫌いなのも、このことに関わりがあるかもしれない。仕方ない、というのは、「集合的認識」にとっては周縁であり、切り落としてしまっても、中心には影響が与えられない部分だからこそ、容易に切り落とされる部分である。しかし、周縁から眺めてみれば、切り落とされた「体験的認識」の中にこそ、「世間」のメガネに曇らされていては見えない「歴史と直接向き合う」可能性がある、ともいえる。確かに、現実問題として、全てを「しゃあない」と言わない、で生きていくことは出来ないかもしれない。だが、少なくとも自分が「わかる」範囲で、「自分事」としてのリアリティが持てる範囲では、「しゃあない」と言わずに、その「体験的認識」に耳を傾け続ける事が大切ではないか。これは、当為ではなく、しみついてしまった僕自身の癖のようなものかもしれない。

夏の終わりに

 

遅めの夏休みも終わった。今日からみっちり仕事の再開である。

10日間の夏休みのうち、1週間はインドネシアのバリ島にいた。そのうちの殆どをスミニャックのビーチでボンヤリしていた。もちろん、クタやデンパサールにお買い物に出かけ、ジンバランのビーチで夕日を見ながら魚料理(イカンバカール)に舌鼓を打ったりしたことは、断片的記憶として残っている。だが、それ以外のことは、ぼんやりしている。

毎日予定らしきものはあまり入れず、文字通りボーッとしていたからだ。偶然宿泊先のホテルは、日本人が殆どいなかったことも幸いして、すっかり日本的なものから離れ、ということは必然的に仕事の事も忘れた。出かける前は、「パソコンでも持って行ってこれからのことを練ろうか」などと阿呆なことを考えていたが、あんな重い塊を持って行かなくてよかった。毎日、海を眺めて、本を読んで、うたた寝して、ちょっとだけ泳ぐ。そうしている内に、ノートにメモを取るなんて事も出来なくなり、ただただボンヤリの繰り返し。そういう徹底した「放電」状態が、逆にバッテリーチャージに大変重要だ、と、帰国して気づく。そう、帰国後、ここしばらくとらわれていた、あの嫌な切迫感から解放されていたのだ。

なるべく、日常的なものから離れるため、旅のお供本もすこし毛色の変わったものばかりを持参した。例えば、こんな感じ

「われわれは、今日の大衆人の心理図表にまず二つの特徴を指摘することができる。つまり、自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。この二つの傾向はあの甘やかされた子供の真理に特徴的なものである。そして実際のところ、今日の大衆の心を見るに際し、この子供の心理を軸として眺めれば誤ることはないのである。」(オルデガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫、p80

80年前の警句にみちたこの本を、最初に手にしたのは15年前。大学生の頃、他大学の思想史の有名人教員のゼミに「もぐり」をした時の、指定書籍だった。ただ、忙しかったのと、その先生との相性が合わなかった事もあり、ゼミも出席は数回で、オルデガのこの本も結局読まずに「積ん読」となっていたのだ。今回初めて通読してみて、ジャーナリストでもあるオルデガの、その読みやすい文体と、内容の普遍性に驚きながら、頷いていた。なるほど、「甘やかされた子供」とは、言い得て妙なフレーズ。「無制限な膨張と徹底的な忘恩」に浸ると、確かに会社は潰れ、社会は駄目になる。世襲政治に代表される今の日本社会の多くの断片に当てはまるだけでなく、別に二代目三代目ではないけれど、先達からの叡智への忘恩がないか、と問われると、己自身にもグサッとくるフレーズ。あと、脈絡はないが、別の本のこんなフレーズも気になった。

「かつては作者の独創性、他に少しも依存しない独創性こそが創造の根源であり原動力であると考えられていた。それに対して引用の理論の目指しているのは、ほかのテキスト(プレ・テキスト)からの直接、間接の引用、既存の諸要素(先立つほかのテキストの諸部分)の組み替えのうちに、作品形成の仕組みと秘密を見出すことである。(略)たしかに<引用>の観点が導入されることによって、かつてのような素朴で牧歌的な<独創性>の観念は崩れ去るであろう。けれども実際には、引用においても既存の諸要素の自由な組み替えという点で、創造活動はまぎれもなく働いている。むしろ引用の理論は、創造活動が決して真空の中で無前提におこなわれるのではないこと、創造活動の実際の有り様は既存の諸要素を大きく媒介にしていることを、かえってよく示している。」(中村雄二郎「ブリコラージュ」中村雄二郎・山口昌男著『知の旅への誘い』岩波新書p32-33

この本も、1981年の著作なので、もう30年近く前になる。以前に書いたが、確か予備校生か大学1年頃の、「知」そのものへの憧れを持っていた頃に古本屋で買い求め(後ろに200円と書かれていた)、憧憬の眼差しで読んだ本である。十数年ぶりに読み直し、改めて二人の「智の巨人」の叡智に触れ、最近の自らのタコツボ的閉塞感を反省しながら読んでいた。また、オリジナリティにこだわりたくとも沸いてこない哀しさを感じていたのだが、改めて「既存の諸要素の自由な組み替え」こそが「創造活動」なのだ、と後押しを得た。これなら、僕にも出来るし、ささやかながらし続けてきた事でもある。結局、無から有を作る天才型、ではなく、目の前のものをウンウン唸って組み合わせて、何とか形を整える「ブリコラージュ」型なのだ、と改めて再認識する。

あとは、まだ読み終えていないのだけれど、600頁もあるThe wind-up bird chronicleの3分の1は読み進めた。2月のカリフォルニア出張の際に買い求めた、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」3巻分の英訳合本、である。日本語版は2,3度読んでいたので、筋は頭に入っている。むしろ、場所と言語を変えて読むと、新たな発見も少なくない。特にこの本は、大学生の頃に読んだ一読目ではその世界にのめり込んでしまい、読み終わった後、しばらくその世界から出られなかった思い出がある。それだけ、引きずり込む力の強い本であるがゆえに、慣れない言語で突っかかりながら読むと、読み流せない、引っかかりが出来る部分がある。言語的な未熟さによる引っかかりが勿論大半なのだが、でも一部で、諸要素間の関係について再考を促す引っかかりも出てくる。村上作品を「味読」したい場合には、こういう読み方も「アリ」だ、と再認識させられる。

そんなこんなで、仕事の事は考えずに、プラグを抜いてボンヤリできた。で、今日からグーグルカレンダーをのぞき込むと、また、みっちり詰まっている日程に逆戻り。休みボケもまだあるのだが、今から夕方まで、二つの会合に出ずっぱり、である。さて、寝言はこれくらいにして、そろそろ起きなくては。

ぬるま湯的文章

 

夕方から涼しい風が吹いている。もう夏も終わりだ。

久しぶりに、土日が丸々休みである。午前中にジムに出かけ、お昼ご飯の後、読書半分・シエスタ半分してたら、もう夕方。あっという間に休みは過ぎていく。何も、やる気がおきない。

台湾での学会発表にエントリーしたら通ったので、その準備もしないといけない。フルペーパーの〆切が10月上旬だが、どう考えても来月中に作らないといけない。イギリスの学会で日本人にしか着目されなかった。次の発表は、多少はドメスティックではない(つまり日本のコンテキストを抜いた部分での普遍性を持つ)内容に高めないと、とこないだ決意したばかりである。決意倒れにならないために、色々準備をしているのだが、それをまとめる気力がまだ沸いてこない。「夏バテ」かなぁ、と思っていたら、友人から「単にバテているのでしょう」との返信。確かに昨日も東京日帰り出張で、8月は出張が多すぎた。そりゃ、バテるわねぇ。

ここしばらく、移動中には良い意味での大風呂敷の本を伴った。島根の道中では松岡正剛『誰も知らない世界と日本の間違い』(春秋社)。これは、以前読んだ本の続編である。近現代史をネタに、日本と世界、文化と政治と科学を網羅する、本人曰く「『モーラの神』のふるまい」としての「編集制作物」。編集学とまで高めた著者故に、時代を串刺しにする横糸の入れ方が、実に面白い。

で、松岡氏も確かに博覧強記なのだが、それを上回る達人、山口昌男氏の講義録『学問の春』(平凡社新書)は、福島に出かける途中の大宮駅の構内の書店で発見。鞄の中に他の本も入れていたのだが、結局それらの本はそっちのけで、行き帰りの車内でむさぼり読む。こちらのタペストリーは、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』というテキストを縦糸において、横糸にはテキストに書かれたインドネシアや古代中国の習俗に言及したかと思えば、インドネシアやアフリカの現地調査に赴いた筆者のエピソード、ホイジンガが属するライデン学派の系譜やレヴィ=ストロースに与えた影響、あるいは記号論の話など、氏の魅力と遍歴、それに人類学的思考の興奮のようなものを詰め込んだ、誠に山口色としか言えないタペストリー。こういう鮮やかさを出せる講義を、僕も出来るのだろうか、と少年のような憧れとため息を持ってしまった。

そして、三重からの帰りに読み直していたのが、毛色は変わるがロフランド夫妻(ジョンとリン)による名著、『社会状況の分析』(恒星社厚生閣)。社会調査やフィールドワークの方法論の本は結構眼にしてきた方だと思うが、この本ほど体系的でスッキリまとまっていて、かつ説得力がある本はない。福島に出かける前に東京であった研究会で、ちょうど「研究者の立ち位置」が論点になった。ちょうど博論を今書いている後輩から、調査対象地にどっぷり浸かる(つまり書きたい対象を自分で作った)研究者が、自身と、そしてそれを対象化して研究としてまとめることとの間にどのような関係性を構築すべきか、の問題が提起され、その日の議論になった。で、帰ってこの本をパラパラめくっていたら、その事に焦点化した章を発見。(オカシイ、読んだハズなのだが)。こんな風に書かれていた。

「『調査の原点』は、個人的かつ感情的なものとそのあとに続く知的で厳格な手続きとの間に、ある意味のあるつながりを提供する。個人的な感情という土台なしでは、残りのものすべてが儀礼的で虚ろな言葉となる。」(p15

そう、学会誌を眺めていて、「儀礼的で虚ろな言葉」が最近どれほど多いことか。ただ、己を見直すと、逆に「知的で厳格な手続き」が甘い。だから、もう一度初心に戻って、第7章「問いの立て方」、第8章「関心の喚起の仕方」を、帰りの車内でノートにメモを取りながら、読み直す。そう、恥ずかしながら己の研究はまだ「個人的かつ感情的なもの」が先行しすぎて、方法論的に弱いからこそ、文化特定的なコンテキストを越えた「関心の喚起」を伴わないのだ。

こう書いていると、ちびりちびりとやる気が復活していく。まさに、自己治癒的な、ないしは湯治的なぬるま湯ブログであった。

ファシリテーターの極意

 

今日は最終の「ふじかわ」号、甲府行き。鳥羽市からの帰りである。この8月は、冒頭の鳥羽大阪ツアーから始まり、翌週の島根、先週の福島、そして今週の再度の津・鳥羽ツアーと、毎週出張が続いていた。提出書類やらテストの採点やら原稿の〆切やらも抱えていると、結局、あっという間に過ぎ去ってしまう。最後まで残っていたタカハシさんにお約束していた原稿の目鼻も、ようやっと今回の出張の道中で着けられたので、ほっと一安心。

とはいえ、7月の段階で考えていた「夏休みのお勉強&論文書き計画」には全くたどり着けないうちに、8月も残すところ、あと数日。宿題が全く出来ていない小学生の気分を、今年も強く感じる。三つ子の魂なんとやら、ではないが、日程管理の甘さに仕事の遅さ、など、反省すべき所は山ほどある。しかし一方で、現場との関わりの場面だからこそ、の、貴重な学びもあるから、ツアーについつい出てしまう。今日の大きな学びは、ファシリテーターの極意。教えてくださった、というか、身をもって体現してくださったのは、いつもお世話になっている北野先生(敬意を込めて、いつもきたのさんと呼ばせて頂いている)。同じ現場で関わって、実に今日も多くの事を学ばせて頂いた。

今日のお仕事は、鳥羽市における自立支援協議会の立ち上げ支援現場であった。北野さんは鳥羽市の、タケバタは県のアドバイザーとして、協働で立ち上げ支援に関わらせて頂いている。その中で、地域の皆さんが集って行われた準備会の現場で、今日のお題は「ライフステージ毎の困難課題を整理してみよう」というテーマだった。縦軸に「介護」「教育」「就労」などの生活課題が、横軸に「乳幼児」「就学前」「小学校」などのライフステージの単位が書かれた模造紙を前に、「こども」と「生活」の二つのグループに分かれて議論をして、まとめていったのだが、その際の北野さんの引き出しが多いこと、多いこと。

「おかあちゃん達は、自分の子の代では達成出来なかったけど、次の世代の為に計画作りに頑張ってくれた」「社会資源マップは、それ単独で検討するとたいてい失敗する。事例を分析する中で、なんでうまくいったか、いかなかったか、の背景には、必ずその地域の社会資源の問題が浮き出てくる」「活動の場を障害の重度・軽度で分けることは、固定化につながるし、ノーマライゼーションの考え方から言ってもおかしい」「重度訪問はちっちゃな単位でも作ることが出来るので、こういった鳥羽でも実現は不可能ではない」「就学期の6歳、卒業後の18歳、親亡き後の40代以後、介護保険の65歳、といった時点で、問題が表面化・極大化することが多い」

書き始めたらキリがないが、すぐに思い出すだけでも、上記のような発言がぽんぽん飛び出してくる。しかも、改めて感じるのは、どれも理論と実践の双方から裏打ちのあるコメントが、目の前の議論や発言にピタッと当てはまる形で、当意即妙に出てくるからだ。数多くの審議会や検討会、学習会などで多くの当事者・家族と議論や検討を重ねて来た歴史から出てくる経験談は、まずもって説得力がある。しかも、例えばノーマルな生活環境(障害の種別や程度で固めない支援環境)といったノーマライゼーションの原理も勿論しっかり押さえておられる。さらには、結果的には北野さんのコメントによって、会が引き締まっていく、ということは、ちゃんと全体の構図の中で、ご自身の発言の位置づけも直感的に押さえながら進めておられる。こうして僕が分析的に書くと何だか陳腐になってしまうが、そばで見ていて、かつ僕自身もファシリテーターという同じ立場に立たせて頂いて、その達人技に、心底敬意を抱く。文字通り、とてもかなわない。そして、自らの経験・理論不足の青二才ぶりが、改めて露わになる。

そういう意味で言うと、僕は北野さんの近くで関わらせて頂いて(勝手に師事しはじめて)8年近くになるが、年々師の凄さが、身に浸みてわかるようになってきた。いつもハハハと笑って偉そうぶらないマッドサイエンティスト的(バック・トゥー・ザ・フューチャーに出てくる例の博士のような)風貌と、つまらない親父ギャグは、核心をつくホントは鋭利な刃、を隠す、よい鞘となっているのかもしれない。

鋭利な刃、で思い出すのは、お誘い頂いて数年来ご一緒させて頂いているアメリカ研究の現場でのエピソード。一回目の調査は、ちょうど僕がプータロー時代の最後(大学に就職する直前の春)で、ホテルのツイン部屋に同宿させて頂いた時のこと。ある程度の睡眠がないと持たない僕とは対照的に、いつも半徹夜状態で膨大な資料を読み込みながら、インタビュー相手の現実に対して、時間ギリギリまでご自身なりの仮説を構築・整理している姿だった。「これはこうなるはずだから、あれ、この部分はどうしてこうなっていないのか」 数多くの資料をつきあわせながら、論理の矛盾を探し、聞くべきポイントを深く絞り込んでいく姿には、普段のおもろいおっちゃんの面影は微塵もなく、厳しい研究者の背中そのものであった。この部分があるからこそ、現場でインタビューしていても、訪問先の人の顔色が変わる。「このガイジンは、ちゃんとこちらの実情をわかった上でクリティカルな質問をしている。旅行気分の他の日本人訪問者とはどうやら違うようだ」 そういう厳しさが同居するから、深度と確度の深い情報がもたらされる、という事も、インタビューに同行させて頂いたからこそ、わかる現実だ。

ファシリテーターの極意の事を書いている内に、研究の極意のエピソードまで、教えて頂いていたことを、ようやく思い出した。こりゃ、明日からちゃんと勉強しなければ。 

トップダウンとボトムアップ

 

昨年も、今年も、石和の花火大会の「直後」に現地を通過する。昨年は怒り心頭の渋滞に巻き込まれたが、今年は「かいじ」の人。今回は福島からの帰り、である。

全国の保健・医療分野で働く公務員の労働組合の大会に呼ばれ、福島の飯坂温泉でお話させて頂く。公務員の大切な仕事は、事業実施過程だけではなく、政策形成過程もある。事業実施後の評価がきちんと出来、問題が発見出来れば、それは新たな政策形成に繋がる。でも、現場ではなかなか政策形成過程は「後回し」になり、ついつい目の前の事業の計画と実施で過ぎてしまう。それでは、機関委任事務的な仕事であり、本来の地方自治体の持つポテンシャルを使い切っていないですよね、という話をしていく。これは、どの分野でも言われているが、事に障害者福祉の分野でも、如実に表れている。

例えば、障害者福祉計画、というものがある。これは自立支援法で策定が義務づけられているものであり、私の研究室には山梨県内全ての自治体の同計画がある。これを見ていて、本当に愕然とするのが、県内の殆どの自治体がコンサルに作成を丸投げしていた、という実態である。見れば分かる。標記や解説の仕方、住民アンケートのフォーマットやその分析方法が「ほぼ一緒」なのである。違うのは、表紙と、データの母数(そりゃ、市町村が違うのだから、そうでないとマズイ)、あとは施策推進協議会のメンバー名や、若干の施策内容の違いのみ。コンサル側も、いくつかの福祉計画をパッケージで依頼されたら、力量を入れて作り込むことなんて出来ない。そんな背景もあり、金太郎飴のような福祉計画が並んでいるのである。

そこで、今、山梨でも三重でも力を入れているのが、福祉計画や自治体の施策を「金太郎飴」にしない為の、その地域の実情に合った内容を作り込むための、自治体職員や相談支援従事者に向けての研修である。こんな風に書くとモノモノしいが、実際はそんなことはない。個別支援の現場で出てくる課題、それは「実施された事業に関する当事者側からの事業評価」そのものなのだ。そういう事業評価(やその素材)を無視・蓋をして、なかった事にするのか。あるいは、それを元に自治体の障害者計画や施策の改善に繋げるのか。この場面で、地域自立支援協議会などをどう活用出来るか、が問われているのである。

もちろん、自立支援協議会が薔薇色ではなく、色々難点がある、ということは、みたさんの指摘などを見てもよくわかる。それは、私自身も感じている。だが、別項でとみたさんも書いているが、文句や批判を言っていてもしょうがないから、目の前の法律の中で、最大限に活用出来る部分は活用してやっていくしかないのである。

山梨でも去る8月10日、初めて県と地域自立支援協議会の「合同協議会」を開催した。どこも「他の地域では何をやっているのか?」「県はどうしているのか?」を聞かれるので、では県内で情報交換をしましょう、という主旨で開催した。全ての協議会の報告と、その後分野ごとに別れての意見交換会、という形式だったが、参加者からは概ね好評だった。こういう地域での取り組みは、どこでも試行錯誤の中でやり方を模索しており、よその地域の実践から学ぶ、という場面の提供が求められていたのだ。開催後のアンケートには、年に二回程度の開催を求める声が多く、またもっと部会ごとの突っ込んだ議論を求める声も少なくなかった。つまり、適切な場や方法論を提供したら、ちゃんと地域課題について議論し、改善するための方策を考えたい、と思う現場は少なくないのだ。こういう場作りを、自立支援協議会という枠組みを活用しながら、どれだけ作り込んでいけるか、が問われている。

とはいえ、障害者自立支援法にも限界があるのも、また事実。こないだご紹介させて頂いた、私も編者の一員となって作った『障害者総合福祉サービス法の展望』(ミネルヴァ書房)も、その限界を超えるための提言を含んだ書籍になっている。ちょうどこの本に関連して、自らも障害者家族の立場から、千葉県の差別禁止条例作りにもコミットしてこらられた毎日新聞の野沢さんが、こないだの社説で次のように書いておられた。

「ただ、民主党内の優先順位はどうだろう。看板政策の子ども手当、農家への戸別所得補償などに大きな財源を充てる一方、障がい者総合福祉法には400億円とされているが、それで足りるのか、地方分権・補助金削減方針とは整合するのか。政府批判の声を得て「自立支援法廃止」の旗を立てたものの、中途半端に終われば、せっかく地域や会社で存在感を発揮し始めた障害者が再び施設に囲い込まれることになりかねない。」
衆院選 障害者施策 民主は本気なのか  毎日新聞 2009年8月20

政権与党がどこになるのか、ということではなく、本当に障害者のためになる法律や制度が作られるか、が争点になって欲しい。後一週間の選挙戦で『お祭りは終わり』ではない。むしろその後、どのような政策が展開されていくのか。「また制度が変わる」と現場では否定的なため息も聞こえるが、それを希望の光にどう変えられるのか。法律そのもの、も大切だが、運用面でのパワーアップが求められる。それは、自治体の担当者増・専門職配置とか、相談支援現場の力量アップといったソフト面、自立支援協議会と障害者計画の関連づけやその財源的保障といった政策面、など色々論点はある。分かっていることは、銭の話は露骨だけれど、野沢さんの言うように「400億円」では足りないのである。

以前のこのブログでご紹介した慶応大学の権丈先生は「足りないのはアイデアではなく財源である」と仰っておられたが、アイデアも財源も不足している障害者福祉領域で、何をどう変えるべきか、は国政レベルでも問われている。一方、僕に出来ることは、山梨や三重で、コツコツとボトムアップ型の研修なり仕組み作りなりし続けること。このささやかな努力と、トップダウン的変更が、いつしかくっつけばいいのだけれど

お盆と米寿

 

お盆は島根の山間の温泉地にいた。祖母の米寿のお祝いをするためだ。温泉宿で泊まった翌日、祖母を自宅まで送り届けた後、達成感で疲れがどっと押し寄せていた。

発端は一年前に遡る。毎年夏に実家に帰っている母から、祖母の体調がかなり悪く、精神面でも落ち込んでいる、という話を聞いた。なんでも躓いて骨折し、入院した後に調子を崩し、自宅に帰る頃には、すっかり歩けなくなっていた、という。気になって昨年10月の岡山での学会発表の「ついで」に島根まで足を伸ばす。それまで農作業や家の事を一人でやっていた祖母は、「できない」自分が本当に情けなく、哀しい様子で、私の顔を見るなり泣き出す状態。「ほんに、なんもできんくなってしもうて」と言う姿に、遠くにいる自分には何が出来るのだろう、とずっと頭の片隅で探索が続く。そして、同居しているおばさんから一言。「来年、ばあさんは米寿。米寿の会って、孫がするもんらしいで」。これや、と閃いた一筋の光。「ばあちゃん、来年の夏には米寿の会をするから、それまでに元気になってね」。そして、米寿プロジェクトが始まった。

祖母には、母を含めて4人の子供に10人の孫がいる。僕自身は、二人目の娘の長男である。そこで、この2月には、西宮での調査の「ついで」に島根まで出かけ、「4家長男孫会議」。地元に住むスグル君、広島に住むオサム君、ヒサシ君と、遠く離れた僕が集まって、会場や大まかなスケジュールを決める。なんせ、開催日がお盆の8月14日なので、宴会場は一番かき入れ時。30人ほどの会場なので、さっさと予約しないと取れない。色々候補を考えたが、祖母の実家までバスで迎えに来てくれる、浜田市の温泉宿に会場を決定して、以後、会の準備を進めた。

で、先週末が本番。ロジスティック関係を全て優秀なる官僚のヒサシ君が手配してくれていたので、僕の役割は、餅は餅屋!?の総合司会。子供や孫からのメッセージなどで、あっという間に宴会の時間は過ぎていく。食事が済んだ頃から、アトラクション。M先生が自前で持っていたプロジェクタをお借りし、今回は新幹線で出かけたので島根まで送ったのだが、これがスクリーンともに大活躍。ヒサシ君は祖母の家でアルバムを借り、祖母や祖父の若かりし時代から、子供、孫との写真まで、見事にスライドショーにしてくれたのだ。祖母はスクリーン前の「特別席」に陣取り、大喜び。こうして、あっという間に米寿の会は無事終わったのだった。

会の終了後、温泉宿に、母を含めた三姉妹と祖母、そして私たち夫婦の二組が残って、その日は投宿。久しぶりにばあちゃんとも話せて良かった。やはり、一家の長老として、おばあちゃんとして、嬉しさと自信を持った笑顔に出会えたのが、何よりの喜び。どんなに障害が重くても、高齢になっても、病気になっても、役割と尊厳が人間には大切。使い古されたこのフレーズを、まさに我が事として実感した時間でもあった。

そして、もう一つの忘れられない思い出が、翌朝の出来事。その温泉宿はバリアフリーではなく、二階の部屋から一階までばあちゃんとおぶっておりることに。最初は祖母が怖がっていたが、いったん僕の背中に収まると、安心したようだ。「まさかひろっちゃんにおぶってもらうとはのう」と言いながら、喜んでいる感触が、背中を通じて伝わってくる。後で妻に聞いたら、祖母は満面の笑みだったとのこと。昨日のスライドショーの最後に、偶然にも祖母に背負われた二,三歳の泣き面のひろしくんの写真があった。三〇年後、今度は逆に背負う機会をもらった。何とも、感慨も一塩、である。

別れる際、「次は九〇歳のお祝いね」と伝えると、またもや満面の笑みの祖母。こういう集いは、実に大切にしたい、と思いを新たにして、お盆の人いきれに戻っていったのであった。