宿命論と戦うブリコラージュ (枠組み外し その6)

私が今振り返っている、「枠組み外し」の旅。私にとってのこの旅の意味やプロセスには、唯一無二の私の文脈があるが、「枠組み外し」の旅自体には、実は多くの先達がいる。前回ご紹介したゴフマンもそのお一人。そして前回のブログを書きながら、僕の「枠組み外し」の旅の参照元として忘れてはいけないもう一人の方の著作が、頭にしきりに点灯しはじめた。

「『銀行型』教育の概念では教育する者は教育される者を偽の知識で『一杯いっぱいにする』だけだが、問題解決型教育では、教育される側は自らの前に現れる世界を、自らとのかかわりにおいてとらえ、理解する能力を開発させていく。そこでは現実は静的なものではなく、現実は変革の過程にあるもの、ととらえられるのである。」(パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳、『新訳 被抑圧者の教育学』亜紀書房、p107-108)
ブラジルの貧困農村で、収奪されることを「しかたない」としていた農民達。彼ら彼女らに、単に識字教育などを教えるだけでなく、彼ら彼女らの学びを通じて、制度内馴致としての教育と、制度の枠組みを疑う教育の二つがある事に気づかされた教育者フレイレ。その彼が、現場の多くの人々の対話を通じて帰納的に導き出した叡智は、1968年の出版以後、開発教育の分野を超えて、またブラジルのコンテキストを超えて、世界中の多くの領域に影響を与えた。このフレイレの著作で示された「銀行型教育」と「問題解決型教育」の違いは、する/される側の二項対立や権力の非対称性が大きい分野では、どこでも起こりうる問題である。私自身が直接関わる領域に限っても、教育の現場、だけでなく、ボランティアや支援にも共通する課題である。教育・ボランティア・支援する側の枠組み(=偽の知識)を押しつけるだけなのか、相手が自ら考え理解し行動に移すような枠組みを、相手と一緒に作り出すのか。
このフレイレに「枠組み外し」の意味合いを強く感じるのは、彼は教育や支援、ボランティアという現場が陥りやすい「ミクロ行為論」での自閉的完結を超える視点を提起してくれているからだ。
「『銀行型』教育は、直接あるいは間接に、宿命論的な認識を強調して人間をその状況にとどめようとするが、問題解決型教育は反対に、置かれている状況を解決すべき問題としてとらえる。状況は認識行為の現れであり、すでにある魔術的あるいは従順な見方を克服する手がかりとして提示される。実際のところ従順で魔術的な現状のとらえ方とその結果として現れる宿命論的な考え方は、もう一つの見方に取って替わられる。それはすなわち自分の見える行為自体を知覚の対象に捉えるような知覚である。このようにして状況を意識によって掌握することで人間はそれを『自らのもの』とし、つまり状況を歴史的現実に変え、人間の手で変革しうるものにしていく。」(フレイレ、同上、p112)
ある問題の背景に根付く様々な構造的現実。それに対して、一人で努力しても「しかたない」、「どうせ」無理なんだから・・・、という言説。こういった言説は、私が出会ってきた福祉現場でも、何度も何度も繰り返し、聞かされてきた。だが、その「しかたない」「どうせ」というのは、ある種の枠組みへの居着きではないか、つまりは「魔術的あるいは従順な見方」という「宿命論的な認識」の内面化ではないか。「しかたない」「どうせ」と認識してしまう認識行為は、「宿命論的」状況を形作る手助けをしていないか。そうではなくて、「しかたない」「どうせ」とされている「状況を解決すべき問題としてとらえる」ことは出来ないか。この「枠組み外し」をすることによって、問題の背後ひ潜む構造的現実を「宿命論的」に捉える呪縛から解放され、「自分の見える行為自体を知覚の対象に捉えるような知覚」を獲得できるでのではないか。その知覚があってこそ、「状況を歴史的現実に変え、人間の手で変革しうるものにしていく」ことがはじめて可能なのではないか。
フレイレの考えをこうパラフレーズしていくと、次のようにまとめる事が出来る。
暗黙の前提や変えられない現実、というのは、宿命論的呪縛に陥った者がそう思い込むことによって、より強化される認識論的な現実。であれば、その認識論的前提そのものをひっくり返す、つまりは枠組み外しをして、メタ認知的に自らの呪縛された認知枠組み自体を認識する事が出来れば、その宿命論的呪縛(=魔術)の囚われから自由になることができ、現実を変える、別の可能性を探る旅路へと向かうことが出来るのではないか。これを、フレイレは銀行型教育の呪縛を乗り越えた、問題解決型教育という形で提示したのではないか。
前回のエントリーで、私自身の仕事を「福祉現場の構造に関する現象学的考察」と規定した。またその仕事の要点として、「構造的制約を括弧に入れる」という視点を書き込んだ。これをフレイレに引きつけて言い直すなら、福祉現場にはさまざまな「どうせ」「しかたない」の壁がある(養老孟司はそれを『バカの壁』と喝破していた)。その「構造的制約」を宿命論的に引き受けるのか。そうではなくて、それらの「制約を括弧に入れる」、つまりその前提自体も「ほんとうにそうか?」と疑いの眼差しを持つことによって、自分自身の行為を規定する暗黙の前提をも「知覚の対象に捉える」のか。前者に呪縛されていると、法や制度がそうだから「しかたない」というシステム内思考(=システム適応的視点)に陥るが、後者に気づけば、呪縛を乗り越え、それ以外の可能性の模索というシステム構築的視点に立てるのではないか。そして、福祉現場の「どうせ」「しゃあない」の現実を帰納的に変えてきた人々は、ある時期から「構造的制約を括弧に入れる」事によって宿命論を乗り越え、メタ認知的に全体状況を把握することにより、「そうではない別の可能性」を追い求め、「歴史的現実」を変革してきたのではないか、と気づくようになった。
このように、「福祉現場の構造に関する現象学的考察」をする中で見えてきた、宿命論を乗り越えるメタ認知的思考。これをフレイレは「問題解決型」教育と言っていたが、同じ時期に、人類学者は別の言葉で、こんな風にも言っている。
「科学者と器用人(ブリコロール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人は出来事を用いて構造を作る。」(レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房、p29)
必ずしも一致するわけではないが、フレイレの「銀行型教育/問題解決型教育」のカテゴライズと、レヴィ=ストロースの「科学者/器用人」のカテゴライズに親和性が高い。構造を用いて出来事を作る科学者は、規格化や標準化という構造的優位性を武器に、大量生産システムを作り上げて来た。だがその圧倒的な物量的な構造的優位性が、時として規格化や標準化の押しつけ、として方法論の自己目的化しはじめた。そこに「銀行型教育」が生まれる素地がある。そうではなくて、目の前の「出来事」から「構造を作る」知性。これは大量生産的な物理的優位性はない。だが、「出来事」を現象学的に捉え、その「構造的制約」(=という名の規格化や標準化の押しつけ)を取り除いた、「出来事」から出発した構造を作り出すがゆえに、問題の歪みを強化することなく、問題の制約条件を乗り越える、問題解決型思考や現場発の変革を導き出す事が出来るのだ。
私がアドバイザーやコンサルタントとして関わってきた福祉現場で苦労していた内容に共通するのは、実はこのメタ認知的思考であった。客観性の呪縛に囚われ、国が示す制度という「構造」を用いて支援という「出来事」を作ろうとしてきた。しかし、それでは制度や事業の当事者への当てはめである。一方、支援を求めている人の人生は、タコツボ的事業や縦割り制度のつなぎ合わせではない、トータルな一人の人生である。その際、「障害故にその地域で暮らしづらさを抱えている一人の人」という「出来事」を現象学的に捉え、その人の生活全体をどうすればよりよく支援出来るか、という「出来事」から「構造化」していけば、自ずと「構造」自体の制約に突き当たる。しかし、その「構造的制約」を「しかたない」と宿命論的に受け入れることなく、「運命へのチャレンジ」と捉え、どうすれば所与の前提をひっくり返すことが出来るか、という視点で、「出来事を用いて構造を作る」仕事。これを、同じくレヴィ=ストロースは、プラモデルのように規格化された構造を出来事に当てはめるのではなく あり合わせの材料から構造を作り出す、という意味でブリコラージュと名付けた。そのブリコラージュについて、彼はこうも言っている。
「彼の使う資材の世界は閉じている。そして『もちあわせ』、すなわちそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。」(レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房、p23)
現場を変えようとしても、予算や人手には制約がある。だから「しかたない」と考えるのが宿命論的呪縛だとしよう。そのとき、この宿命論的呪縛故に行動を制約するのではなく、「限られた道具と材料の集合で何とかする」というゲームの規則だと考え、そこから新たな何かを作り出す事。実は、支援現場に求められている視点は、この宿命論と戦うブリコラージュなのではないか、と気づくようになってきた。そして、それが前回のブログで書いた、社会起業家の視点にも通じる何か、であると感じている。
多分、つづく

構造的制約を括弧に入れる (枠組み外し その5)

私は福祉現場でのコンサルタントやアドバイザーになるための、特別の経験というものをしたことがない。福祉現場で働いたこともない。ただ、少なからぬ現場で、ある程度長い期間のフィールドワークをさせていただいた。大学院生時代の5年間は精神科病院で、その途中からは精神医療の質向上に取り組むNPOで、またスウェーデン留学時には知的障害者の当事者グループで、あるいは重症心身障害者の地域生活支援の拠点で・・・。いろんな現場にお邪魔し、当事者や支援者の声に耳を傾け続けてきた。教科書的知識を吸収するよりも、現場で生起している現象を観察することに重きを置いてきた。それらの臨床の場での経験がある程度体内に蓄積した段階で、社会学や社会福祉学の「理論」と出会っていったので、現象から普遍を抽出する帰納的な理解で物事を眺め続けてきた。

それと似たスタンスで問題に取り組んだ先達がいる。たとえば社会学者ゴフマンの名著、『アサイラム』。1950年代のアメリカの精神病院をフィールドワークした上で、入院患者の相互行為や病院構造そのものの構造的問題を鮮やかに整理した名著である。だが、わが国の社会学者がゴフマンを下敷きにフィールドワークや考察をしたものを読んでも、なんだか理論を現実に演繹的に当てはめているようで、私自身が感じているアクチュアリティとの乖離に苦しんだ。当の『アサイラム』を読んでいないのに、孫引き的著作を読むだけで、その生みの親である『アサイラム』自体、読む価値のないものである、と錯覚していた。

が、ノーマライゼーションという思想について半年間講義をするチャンスに恵まれて、その関連で初めて『アサイラム』を読み込んでみると、原著の偉大さがビシバシ伝わってきた。たとえばこういうフレーズなど。

個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろう。」(Goffman1961=1984:4)

ここから読み解けるのは、ゴフマンは精神病院や入所施設などの全制的施設で標準化されている「個人の自己が無力化される過程」を炙り出すことを通じて、そのオルタナティブ、つまりは「通常の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか」を析出することが出来る、というのである。

このことの意味は、決して小さくない。

今から60年も前、精神病者は隔離収容するしかない、というのが当たり前の時代。その当時に、その「当たり前」の現場でどのようなことが行われているかを観察し、他の現場とも共通する普遍的な「個人の自己が無力化される過程」を帰納法的に描き出した。しかも、それは単に研究のため、というよりも、その状況を改善するための、つまりは「通常の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させる」ために必要な要素を対偶命題的に整理して伝えるための戦略だった。それは当時の常識から考えれば、あまりに非常識な、ある意味での「枠組みはずし」的な戦略だったともいえないか。精神病院というその当時のドミナントストーリー(=強固な枠組み・解決策)の中に入り込んで、そこで生起している現象や枠組みそのものを抽象的に描き出すことによって、その枠組み事態の問題点や、そうではない別の可能性を描くための要素を析出しよう、という試みだったのである。

それに対して、わが国で『アサイラム』に基づきながら議論をしている文献を見ていると、それは精神病院におけるミクロ行為論の分析が少なくない。私自身がそれらの論考に不満なのは、ミクロ行為論は、その行為が生起する場である精神病院という場自体を否定することなく、むしろその枠組みの強化にも役立つような分析になりかねない、という不満からかもしれない。もちろん様々な研究のアプローチがあってもよいので、他者の研究をとやかく言うつもりはない。だが、私は精神科病院で暮らす人々の生のリアリティと出会うところから、自身の研究がスタートした。そこに、「なぜ何十年も入院しなければならないのか?」「なぜ精神障害者の処遇はこんなに劣悪なのか?」という疑問や怒りといったものが、研究以前に存在していた。ゆえに、それをミクロ行為論の枠組みで分析して、わかったような気になる事は、出会った人々への冒涜のような気がしていた。同じく精神分析や臨床心理学の文献も、中途半端にわかったような気になって問題を矮小化したくないから、としばらくの間、読まないでいた。

精神病院という構造的暴力にもなりうる装置を、どうしたら縮小することが出来るか。精神病を持つ人たちの支援を、精神病院以外で実現していくためには、わが国ではどうしたらいいのか? 同じ全制的施設である入所施設の問題もどうしたらいいのか? 別の国ではどういう努力をしているのか? そういう関心を持ちながら関わるうちに、結局のところそれは社会学や社会福祉学という枠組みの中では解決しないので、福祉政策や行政学などの関連領域を読み漁らざるを得なくなっていく。

なので、前回のブログでも書いたが、いまだに自分の「専門」とは何か、がわからない。便宜的には福祉社会学とか社会福祉学とか言ってみたりする。あるときまでは、そのどちらかに依拠したい、とも思っていた。だが、去年からの枠組み外しの経験の中で、むしろそんな枠組みなどどうでもいい、と思い始めている。自前の言葉で枠組み規定してもよいのなら、「福祉現場の構造に関する現象学的考察」とでも言おうか。これは、ゴフマンがアプローチしたやり方にも、非常に似ている、と勝手に感じている。以下、少しそのことにも触れてみたい。

冒頭で、私は福祉現場のコンサルタントやアドバイザーになるための訓練を受けたことはない、と述べた。だが、私自身がフィールドワークという名目でいつもやってきたのは、福祉現場で生起しているリアリティを、ミクロ行為論で読み解くのではなく、その現場全体の構造の中で捉えようとする「福祉現場の構造に関する現象学的考察」であった。ここで敢えて「現象学的考察」と名づけたのは、その構造を分析する際に、まず理論や分析枠組みありきでは臨まない。ということだ。それよりも、生起しつつある事態に目をむけ、耳を傾け続ける。それも、エポケー(判断中止)の姿勢で、こちらの理論的枠組みという名の先入観に当てはめようとせず、なるべくその現場の文脈そのものを読み取る中から、焦点化されている事態を把握しようと努める。

これは恩師が研究者ではなく福祉ジャーナリストだった、というのが最大の理由だが、理論的言語で「わかったつもり」になるのではなく、「対象にぎりぎりと迫れ」と指導され続けてきた事が大きいだろう。「ぎりぎりと迫る」ためには、自らの仮説も捨てて、生起する事態にどっぷりとつかるなかで、その現場の臨床的知識から考察を立ち上げていくしかないのである。

そして、私のような現場で働いた経験もない若造がなぜ福祉現場の改善の仕事で呼ばれるのかの理由も、どうやら上記と連結している。一般企業が社会情勢や顧客のニーズの変化に合わせて淘汰や変容をするように、福祉現場も社会情勢や顧客のニーズ、政策の変化などに合わせた変容が求められている。だが、一般企業と違って、福祉領域は弱者救済という公的要素が強い分野であるがゆえに、なんとなく「ぬるま湯」的に残ってしまえる。さらにいえば、利用者と提供者の間の権力の非対称性が強い分野であり、「お世話になっている」利用者は文句を言いにくい、という前提があるため、なかなか現場の体質改善がしにくい。それに輪をかけるように、人員配置・報酬単価基準の低さや制度改革の重なりもあって、「目の前の対応に目いっぱい」で、問題があることはわかっているが、どこからどう変えてよいのかわからない福祉現場、がたくさんあるのだ。

その際、外在的理論や「あるべき論」を振りかざすのではなく、その組織なり地域なりの内在的論理を掴んだ上で、その内在的論理の方向を転換させたり、(再)蘇生させたり、という支援が求められている。「対象にぎりぎりと迫」るなかでその構造的問題を把握した上で、「ではどうすればいいのか?」の対案を、現場の人と一緒に模索し、デザインし、実践していく仕事。「枠組み構造」そのものを表面化・現前化させ、その構造的制約自体をもいったん括弧にくくり(エポケー)、あるべき姿と現実の落差の中で、何をどう変えていけば具体的に変容可能か、を考える仕事。

実はここまで書いていて気づいたのだが、私が出会う福祉現場では、「構造的制約自体を括弧にくくる」ということが出来なくて苦しんでいる場面が少なくなかった。一人一人の支援者レベルの実践については、その変容可能性は検討しても、組織なり制度なり地域としいった「全体像」事態は、変えられない所与の現実として、ある種の「宿命論的」に「しかなたい」と諦めている現場が、少なからずあった。その中で、私は無知蒙昧なのかオリジナリティがあるのか知らないが、この全体的構造に対する「宿命論的」な視点とも戦い続けてきたのかもしれない。本当に「しゃあない」のか? 変容可能性はないのか? 枠組み自体は問い直さなくていいのか?

福祉現場の「構造的制約」とは、今の日本社会の構造的制約に強い影響を受けている。特に財政緊縮が叫ばれる新自由主義的風潮が強まった2000年代以後、「納税者の納得」「公平・平等」を盾に、支援が必要とされる人々への政策を縮小しようとする「構造的制約」の風は強くなってきた。そんな時代背景の中だからこそ、その「構造的制約」自体を捉えなおし、現場レベルでも出来る対抗策、「あるべき姿」に向けたオルタナティブや改善をしていかないと、ますます現場は煮詰まるし、硬直化してしまう。そういう危機意識を持った現場の人々と、今ある素材を使う中で、今ない現実を作り出すための模索を、必死になって行ってきたのかもしれない。

なるほど、こう考えたら「枠組み外し」は私自身に深く根付いていた。

 

多分、つづく。

福祉現場の枠組み外し (枠組み外し その4)

ダイエットや「魂の脱植民地化」という言葉との出会いを通じて心身の変容を遂げ、自らにつけていた制約やリミッターを外す機会を経た後、大げさに言えば自らの世界観も根本的に変わり始めた。信念体系や価値観が180度転換した、というわけではない。そうではなくて、ある人なり組織なりの信念体系や価値観が、どのような構成で成り立っているのか、そこにどのような制約があるのか、ということについて、メタ認知的に捉え始めるようになったのだ。すると、様々な「所与の前提」なるものに呪縛的に捉えられ、本来持っている個人や組織のポテンシャルが十分に活かされていない例が、実に多く散見されることがわかってきた。
このことを、私がかかわる福祉現場の例に即して考えてみたい。
私は障害者福祉政策を一応の専門にしている。(とはいえ政策を体系的に学んだ機会はなく、現場に求められてOJT的に学んだのだが、専門という肩書き・枠組み・呪縛が付いてないと安心しない人のために、便宜的に自らの専門について名乗っているに過ぎない)
山梨では五年前から、三重では四年前から、県の障害者福祉政策に関する特別アドバイザーという仕事を引き受けている。中央集権から地方分権、専門家主導から当事者主体、行政処分から契約制度、慈善的福祉から権利保障、隔離収容から社会包摂、と障害者福祉分野はその前提となる価値観も具体的な政策体系も21世紀初頭以来、大きく変容する中で、市町村行政の現場では、制度変革や地域支援の課題に追いついていない。そのため、市町村現場の変革支援のために、外部者としてかかわることが両県で求められた。
この現場変革の支援を続ける中で、つくづく感じていたことが、思考の枠組みの制限の問題であり、「魂の植民地化」の課題である。
たとえばその最たるものが「予算(人手)がないから無理なんです」という呪縛。確かに、血のにじむような努力をした後で、やっぱり無理であれば、その言葉にも重みがある。だが、何もしないこと、変えられないことに対しての安易で、反論しにくい言い訳として活用されることがある。新規事業については、検討する以前からそうやって門前払いにするケースも少なくない。
市町村の現場職員への研修や、行政や支援者など官民へのコンサルテーションなどを通じて、このような「しない言い訳」を山ほど見てきた。そしてその背後に、官僚制やセクショナリズムの弊害、サボタージュ、だけでなく、労働の喜びを毀損する「呪縛」の影を、最近では見るようになった。
「余計な(法律で定められていない)ことをするな」「住民の要望などまともに聞くな」「他の市町村がしていないことに手を出すな」「他の住民との公平・平等を逸脱するな」「新規事業に手をつけるな」
このような様々な「べからず集」の背後には、官僚制の逆機能側面が満ちている。住民や事業対象者のために、という思いを持って仕事に取り組む職員も、上記の保身的組織防衛論理の同調圧力に屈して、その論理に反発するエネルギーを失っている場面も少なくない。「どうせ自分ひとりが頑張ったって・・・」「一人じゃ出来ない・・・」 このような諦めに基づく馴致、外在的論理の内面化を通じて自らの役割や可能性に蓋をして、リミッターをかけている人が、公務員だけでなく、福祉現場の職員にも少なからず蔓延していることが見えてきた。
それに対して、メタ思考に至らなかった私は、それらの職員を批判し、こうすべきだ、と説得することで、現場を変えようと躍起になっていた。だが、ちょうど自分自身の変容過程と重なる中で、「ダメだダメだと言うだけが一番ダメだ」という当たり前の真実に気づき始めた。ある価値なり信念に呪縛されている人に、外からその価値や信念の問題点を指摘しても、批判されていると思った当の相手は、自らの価値・信念体系を固守することに必死になり、下手をすれば呪縛の悪循環を強化することになりかねない。Aを前にして非Aを声高に主張することは、A自身の存在の肯定に逆説的に繋がってしまう。
それよりも、相手と私の価値や信念体系の構成要素や成り立ちの背景を分析する中で、その大元まで降り立って行き、どの部分であれば、相手にも納得して理解できる内容なのか、A以外の何かへの変容可能性のポイントはどこか、を、相手の内在的論理に添う形で探すことを心がけるようになった。
先ほどの「予算がないから無理なんです」という発言に戻って考えてみよう。
実は、市町村の福祉現場では、カリスマ行政職員・カリスマソーシャルワーカーなる存在が90年代から存在している。大学教員よりもよほど法制度や実態に精通していて、政策提言能力の高い職員のことを指す。介護保険制度導入以前にそういうカリスマ職員はたくさん増え、その中にはその後大学教員に転進していった人もいる。そういうカリスマ職員たちに共通するのは、予算ベース・事業ベースではなく、当事者のニーズを満たすという目的ベースであった。そのための、予算や事業であり、使える予算や事業は使い倒した上で、ないものはどう地域で官民協働の中で実体化していくか、を考えるプロフェッショナルだった。これらのプロフェッショナルは、官僚主義の呪縛を相対化して、システム内思考(システム適応的視点)ではなく、システム構築的視点を採用する。最初から法律を否定するのではない。徹底的に法律や制度の現状と問題点を調べつくして、使い倒して、法律にないものについては、それを実態的に乗り越えるための方策について、したたかに現場から構想していく力強さを持っているのだ。
このことと、先ほどの呪縛の悪循環問題は、密接に関連している。「予算がない」「法律にない」という言い訳を思考のリミッターや呪縛に転用しないためには、システム適応視点から、システム構築的始点への転換の支援が求められる。もっといえば、システム構築的視点でどう「ないものを作るか」のプロセスを伝え、実際にそれを体感してもらう中で、自らの仕事の枠組みへのリミッターを外し、行政の都合ではなく住民のニーズに基づく仕事をする職員へと変容してもらう、そんな支援職員の変容やエンパワメント支援が求められているのだ。
実際に私が出会った、研修やコンサルテーションを通じて仕事のあり方を変えていった現場職員達は皆、わくわく・活き活きと仕事をしている。「お役所仕事」とは全く逆の、創造性あふれ、誇り高く仕事をしている。「お役所仕事」というリミッター(=呪縛)がない分、新たな何かを産み出す苦しみを持ちながらも、福祉の仕事に情熱をもって取り組んでいる。パーソナリティの問題ではなく、労働の喜び・やりがいが、その人の仕事に表れているのだ。
これを連作の副題である「枠組み外し」との関連で言えば、官僚制の呪縛から解き放たれ、新たな仕事のやり方やイノベーションを導くためにも、福祉現場に携わる職員の、「無理だ」「仕方ない」の呪縛を解放する、枠組み外しをする必要がある。
そういえばかのシュンペーターは、entrepreneurの機能を「生産様式を革新ないし革命化すること」と述べていた。これに引き付けて考えるなら、営利企業だけでなく社会問題の解決にもsocial entrepreneurship、つまり社会問題への対応に関しての「生産様式を革新ないし革命化すること」が求められている。その際、自らのこれまでの行動規範や原理原則といった「生産様式」そのものに踏み込んでの「革新ないし革命化」が可能かどうか、が問われている。呪縛の解き放ち、とは、そのような意味で激烈な経験であり、量子力学的跳躍(quantum leap)が必要な部分である。
だが、明治以後作り上げてきた中央集権的官僚システムの思考停止や、呪縛的自己保身がその限界を迎えたことは、図らずしも、あのポスト311の局面で前景化してしまった。官僚制の順機能ではなく、最大の逆機能に向き合ってしまった今、どのような「生産様式の革新ないし革命化」が必要か、を考えることも、「魂の脱植民地化」を研究することになってしまった私自身にとって、アクチュアルな課題でもある。
(多分、つづく)

風が吹き始める (枠組み外し その3)

シンクロニシティという言葉は、自らのアイデンティティが固着する以前には、割と好きだった。

10代の終わり頃、ユングや河合隼雄の著作を読みかじる中で、ある布置状況の中での意図せざる同期性の妙味に、何となく心惹かれていた。だが、大学院生で、社会問題としての精神病院という研究テーマに取り組みはじめた頃あたりから、精神分析系の本も封印する。精神病院の構造的問題と、そのオルタナティブとしての地域生活支援とは何かを、フィールドワークを通じて考える、という研究スタイルを確立する上で、現場で生起している事を追いかけるのに必死で、それを生半可に分析するのはまずい、と思っていたのかもしれない。あるいは、社会構造の問題(障害の社会モデル的分析)を安易に個人化する(障害の医学モデル的解釈の)愚を犯しそうだから、封印していたのかもしれない。とにかく、シンクロニシティという言葉は、院生になって以後、10年以上は封印していたフレーズだった。(そして、今から思うと、これも一つの呪縛というか、後述する魂の植民地化の一つだったのかもしれない。)
このシンクロニシティという言葉が、2010年3月というタイミングで、突如、ありありとした実感(アクチュアリティ)をもって、迫ってきた。あまりに沢山のことが、たった数週間のうちに起こり始め、自らの暗黙の前提という枠組みが、竜巻に飲み込まれていった。
香港から帰った数日後、今度は学会のために、京都に出かけた。自分の発表と理事の仕事以外はサボろうと思っていたのだが、なぜか自分の発表とは全く関係ない、中国における環境問題についての、ある人のスピーチだけが、すごく気になった。そのときのアクチュアリティについては、帰りの列車の中で興奮しながら書いていたブログの一節を、少し長くなるが引用する。
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この旅で大きな収穫だったのは、「魂の脱植民地化」という言葉に出会えた事。阪大の深尾先生の研究発表の中で、環境問題も社会的な文脈のコンテキストの中で読み込まねばならない、という議論に興味を持ち、懇親会で質問していたら、出てきた。まだ、ちゃんとその言葉を理解している訳ではないので、あくまで印象的感想しか書けないのだが、私たちのパースペクティブや行動は、テレビや習慣、「○○すべき」という規範など、様々な外因性のものに「植民地化」され、情報化が進む中でその「植民地化」と個々の「植民地」の隔絶度合いが、個人の中である種の解離状態を引き起こすくらい、深刻なものになっている。しかも、その「植民地化」された状態について個々人が無自覚なので、何だかしんどさを抱えながらも、解離状態に気づかない。自身の「植民地化」された状態に気づけなければ(相対化出来なければ)、当然の事ながら、他の類型の「植民地化」された状態にある人の事も理解出来ないし、ましてや態度変容を迫る、なんて事は出来ない。少しアルコールが入った場面で先生の話を聞きながら、そんな風に解釈してみた(だから、この説明は完全に僕の読み込みである)。
そして、昨日から、この「魂の脱植民地化」というフレーズが、頭の中でワンワン鳴り響いている。そう、僕自身の「魂」の「植民地化」とは、以前書いていた、香港で相対化し始めた、「目の前の一点にしかすぎない」「明晰さ」への固執につながるのではないか、と。また、それを穿つ<明晰さ>とは、見田宗介氏によれば、「生き方を解き放つ」、固着された自分自身の視点から普遍的な世界へと開かれた「窓」であり、それが「魂の脱植民地化」ではないか、と。
別に他責的に「誰かに乗っ取られた」という意味で、「植民地化」と使っているのではない。そうではなくて、自分が納得して、その通りだよな、と思いこんでいて、かつ「自分らしさ」と思いこんでいる、自分の中での支配的な言説なり視点なりの少なからぬ部分が、ストックフレーズや手垢にまみれた思想の焼き直し・刷り込みに過ぎないのではないか、ということである。しかも、それを主体的に選び取った、と思いこんでいるけど、どこかで「選び取らざるを得ない」場面に構造的に追い込まれていませんか、とも、この「植民地化」から読み取れる。
深尾先生は、中国の黄土高原での砂漠化と、その対策としての植林を例に挙げ、人為的に砂漠化し、その反転として植林しているけど、そのどちらにも、「自然のご都合」というものを無視した「人為的な良きこと」が支配的に流れていて、それって結果的には「不自然」ではありませんか、と仰っている(ような気がした)。この場合、「魂の脱植民地化」とは、人間のあれやこれやの思惑・都合に「植民地化」されるのではなく、「自然のご都合」を考慮の対象にして、計画的植林ではなく、里山的な「自ずから」の世界を大事にする、というメタファーが当てはまる、と僕は受け取った。整然と規格化され、雑草抜きまで暑い中している植林地は、結果的に自然の快復力を奪っていませんか、と。
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「魂の脱植民地化」という語に、ダイエットは無理という体重の「植民地化」そのものの呪縛から解き放たれつつある、まさにそのときに出会ったことに、共時性(シンクロニシティ)を感じざるを得ない。かつ、単に共時的なだけでなく、この新たな枠組みで眺めてみると、自他の多くの固着した現実が、「植民地化」として見えてきたのだ。そして、その先にある「魂」のアクチュアリティについても。
そのことについて、一つ一つ書いてみよう。
また、しつこく体重の問題に戻る。
以前僕は、「食べ過ぎて、胃薬を飲む」というサイクルを繰り返していた。「食べる前に、飲む」というコマーシャルも、何の不思議もなく眺めていた。子どもの頃、夏休みなどは外に遊びに行かず10時間くらいテレビに齧り付いていた元「テレビ少年」の中では、コマーシャルで流されていた内容を、所与の前提と受け止めている節があった。
だが・・・。食べ過ぎて、胃薬を飲む。このサイクルは、そもそも「食べ過ぎ」という身体への介入を押さえる為に、「胃薬」という対処療法を人為的に行う事を指す。さらには、「食べる前に(胃薬を)飲む」というのは、食べ過ぎて苦痛を引き起こすという生起しつつある事態への方法論的介入である胃薬を事前予防的に
投入する、ということである。これは、方法論の自己目的化ではないか。これは砂漠化と無茶な植林の結果、黄土高原が結果的にやせ細っていったのと同じ帰結を人体にもたらさないか。そもそも、製薬会社の「必要以上の儲け」のためには、不必要な薬の需要が必要であり、「食べる前に飲む」とは、その目的と方法の転倒なのではないか。そして、その方法論の自己目的化されたコマーシャルをずっと見続けている中で、「食べる前に胃薬を飲む」ことに違和感を抱かないこと自体、製薬会社やテレビ局の枠組み(アジェンダ設定)の内面化であり、魂の植民地化を唯々諾々と受け入れることではないか、と。
このプロセスがありありと実感できはじめた時に、深尾先生から、ご一緒に研究されている東大の安冨先生の主催される研究会にお誘い頂いた。そこで話されていた内容もあまりに私自身に刺激的だったが、その後、安冨先生も引用しておられる次の本を読んでみて、目が点になるようなフレーズが飛び込んできた。
「私はたくさん食べます、消化不良になります、医者のところへ行くと、錠剤をくれます。私は治ります。またたくさん食べて、また錠剤をもらいます。こうなったのは薬のせいです。もし錠剤を使わないとしたら、消化不良の罰を受け、二度と過食しないようにしたでしょう。医者が間に入ってきて、過食を助けてくれたのでした。それで身体は楽になりましたが、心は弱くなってしまいました。このようにして最後には、心をまったく抑えられないような状態になってしまいました。」(ガーンディー『真の独立への道』岩波文庫、p78)
まさに「心をまったく抑えられないような状態になってしまった」私自身の姿が、そこには記載されていた。いつの間にか、「身体は楽になりましたが、心は弱くなってしま」っていたのだ。胃薬を飲んで自分自身で食べ過ぎ(=過食)のコントロールを自発的に行っている、と思い込んでいたが、事態は正反対だった。過食の苦しさを十二分に経験した上で、食べ過ぎしないという身体のリズムを作るのが健全なる魂とするならば、そこから逸脱して、薬という方法論に安易に依存する事によって、身体と魂のリズムを仮の安定に導く。つまりは目的と方法の転倒であり、魂の植民地化、ひいては胃薬の「麻薬化」や胃薬への「依存」にはまり込んでいたのである。
この3月の度重なるシンクロニシティの中で、僕の中で固着していた窓は、完全に穿たれた。それまで窓の外の世界を、自分とは関係のない別の世界だと感じ、自分なりの「明晰」な世界に自閉的に満足して、窓の外は見ないようにしていた。だが、2010年の2月末から3月にかけてのめくるめくシンクロニシティの重なりの中で、窓を眺める位置が反転していた。気づけば、開いた窓から風に誘われて、窓の外に出ていたのだ。
深尾先生からは「過剰摂取による『智恵熱?』にお気をつけになって」とアドバイスされていた。確かに、この3月は、智恵熱、というか、自己の枠組みというリミッターが外れてしまって、竜巻の中に巻き込まれたような、どこに行くかわからない存在論的な不安と共に、何かが始まる予感のようなものが、感じられていた。
そしてそこには、因果論に支配されたそれまでの私の枠組み(=信念体系)とは別の、しかしよりアクチュアルな世界が開けていた。この別のアクチュアルな世界にたって、魂の植民地化問題を眺めてみると、実は僕が関わる福祉の世界にも、沢山の呪縛や思い込みが支配していることにも、少しずつ気づき始めた。
(たぶん、つづく)

枠組み外し その2

今思い返すと、体重の変容は、その後の「大転換」のための「準備体操」だった。自分が一番気にしていて、かつもっとも無理だと無意識的に諦めかけていたもの(体重の大幅な変容)が、突然、動き始めた。しかも、自分が苦しくない形で。

炭水化物を減らす。米を食べる量を減らし、外食で麺類を食べる場合は残すことにした。その際、心が苦しくなる理由は、「もっと食べたい」という欲望よりも、むしろ「残しては勿体ない」という意識ゆえだった。その「勿体ない」という言い訳と戦うことは、最初のうちはかなり時間がかかった。だが、「皮下脂肪に蓄えるのと、残すのと、どちらもエネルギーをどこかに残す点では変わらない」「最初から麺を少なめにしたら良い」と自分に言い聞かせているうちに、心苦しくなくなってきた。これも、後付け的になるが、ドミナントストーリーの書き換え、というか、暗黙の前提としている言説に対して、新たな別の信念体系をぶつけ、その暗黙の前提を捉え直す、ある種の「枠組み外し」であり、自己洗脳だったのかもしれない。
そうやって、実際に体重が減り始めた変容の中にあって、香港に出かけた事が、次なる変容への契機となった。
海外に出かけると、否が応でも日本の常識や価値観を相対化して見ることになる。日本の「当たり前」が通じない事にいらだったり、日本では出会わないトラブルに遭遇したり、あるいは日本で見たことのない、食べたことのない、感じたことのない何かと向き合ったり。そういう「異化作用」をフィジカルに全面的に体験するプロセスの中で、自らの暗黙の前提自体が現前化する契機となる。妻と遊びに出かけた香港で、しかも旅立つ直前に偶然に本棚から取り出してナップサックに入れた一冊によって、体重変容の次の変容の口火が切られ始めた。
「とざされた世界のなかに生まれ育った人間にとって、窓ははじめ特殊性として、壁の中の小さな一区画として映る。けれどもいったんうがたれた窓は、やがて視角を反転する。四つの壁の中の世界で特殊性として、小さな窓の中の光景を普遍性として認識する機縁を与える。自足する「明晰」の世界をつきくずし、真の<明晰>に向かって知覚を解き放つ。窓が視角の窓ではなく、もし生き方の窓ならば、それは生き方を解き放つだろう。」(真木悠介著『気流のなる音』ちくま学芸文庫、p121)
自分自身の視点や思考枠組みは、所与の前提として疑いようのないものである。
これまで、そう思い込んでいた。逆に言えば、それを疑い始めたら、存在根拠が崩れ、アイデンティティの危機に陥り、全くそこから動けなくなる。勿論10代後半から20代前半にかけて、私自身にも人様同様のアイデンティティ・クライシスはあった。だが、結婚し、大学で定職に就き、社会的にも必要とされる(と感じる)仕事に取り組む中で、気づけば自分自身の思考の枠組みは固定化・強化していき、それ自身を疑う、という場面がどんどん減っていった。それを私自身は「成熟」だと思い込んでいた。
だが、体重変容の過程を通じて身につまされた事は、思考の枠組みの固定化・強化は、時として「○○だから仕方ない」という諦めの内面化・自己正当化でもある、ということだ。そして、それが内面化・自己正当化である、ということにすら、その枠組みから自由にならないと、気づけない。体重が本当に3キロ4キロと減る中で、「無理」と思い込んでいた所与の前提があっけなく崩れ去る中で、ようやくその「無理」という思い込み(=所与の前提)そのものが、実は脆い基盤の上になりたっていた、ということに気づかされたのである。真木の比喩を用いるなら、「窓」が開かれた瞬間だ。
初めて訪れる香港という場で、新たな何かを受けいるだけの心の余裕と開放的な気分が、その前提としてあった。しかも、体重変容という変化のまっただ中にあった。そこに、上記の真木のフレーズが、あまりにもぴったりの布置の中で置かれた。「そんなの無理」と思い込んでいたダイエットという「特殊性」が、「いったんうがたれ」てみると、「やがて視覚を反転」しはじめた。無理だという思い込み自体が、「とざされた世界のなかに生まれ育った」「特殊性」そのものだ、と見え始めた。それまでの自分自身の信念体系が、もしかしたら「自足する」(=つまりは閉ざされた)「『明晰』の世界」なのかもしれない、という気づき。そして、それを「つきくずし、真の<明晰>に向かって知覚を解き放つ」ことが出来るかもしれない、という可能性の発見。自分が体験していたことが、先達の手によって言語化されている事に、驚き、喜んだ。それと共に、ダイエットというフィジカルな変容が、どうやら単なる身体変化を超える可能性があることに、このテキストから気づかされ始めた。
つづく

枠組み外し その1

人は、自らの参照枠組みそのものを、なかなか疑うことはできない。そして、その参照枠組み自体は、内発的な自然さで構築されるものではなく、外発的な、様々な契機に左右されている。だが、いったんそれを無意識的に内在的論理として組み込んでしまうと、その参照枠組み自体が所与の前提となってしまい、その枠組みそのものへの疑い、というメタ認知的な「捉え直し」を、自分自身に対して行うことは容易ではない。それだけでなく、その内在的論理とは異なる視点の違う論理に対して、強烈なる嫌悪感を持って全否定をしようとする。あたかも、自らの存在論的裂け目に出会う事を拒否する為に。

と、抽象度を上げて(=小難しく!?)書いてみたが、言いたいことは、自身の中で1年以上かけて、少しずつ気づいた事をまとめてみたら、上記のようになる。
例えばダイエットについて。
以前も書いた事があるが、私は自分でやせれない呪縛にはまり込んでいた。「腹が減っては戦は出来ぬ」「三食しっかり食べないと」「朝ご飯を抜いたらリズムがおかしくなる」といった、世間一般に流布されているフレーズを、食べる為の自己正当化として使っていた。痩せられないのも、体質や、仕事の忙しさや、運動する暇がない、などの理由をつけて、言い訳をして、「○○だから仕方ない」としていた。
だが、この「仕方ない」というのは、自己正当化という名の呪縛である事に、昨年気づかされて以来、事態がコペルニクス的転回をし始める。
きっかけはとある漢方医の一言だった。
「炭水化物を減らせば、ダイエットは確実に出来るよ」「夜ご飯を食べ過ぎたら、朝飯を抜けばいい」「無理して3食食べる必要はない」
ある医学レポートをプリントアウトしながら指摘された上記のフレーズは、大げさに言えば私の信念体系を根底から揺さぶる発言だった。これまで「○○だから仕方ない」と言っていた、その根拠を崩しかねない事態だったのだ。
普通、自らの信念体系を否定しかねない言説と出会うと、多くの人は「そんなことはない」と、躍起になって否定しようとするだろう。私自身も、以前なら上記の言い訳のストックフレーズを準備して、「そんなことはない」と聞く耳をふさいだかもしれない。だが、30代の折り返しの年にあたり、しばらく前から人生そのものに行き詰まりの感覚を持ちづけていた私は、この医師の一言を、全否定ではなく、命がけの跳躍やチャンスと捉えた。何か変わらなければならない、変わりたい、でもその方法論がわからない、と悶々としていた時期だったので、「これだ」と無意識的にその方法論に飛びついたのかもしれない。また、その半年前から合気道を習い始め、これまでの身体の硬直的運用と、それを超えて新たな技に見開かれていく経験をしていた矢先だったので、新たなる身体変容への誘いを、全否定ではなく、可能性と捉えたのかもしれない。
とにかく、最大で84キロ、医師に出会った時には81キロくらいあった体重が、上記のフレーズと出会った後、「計るだけダイエット」メソッドも併せて記録をし続けた事もあって、半年後には10キロ減り、1年後もその体重を維持している。私にとっては、無理だと決めていた事が、こうも簡単にリミッターを超えて、現実化されたことに、嬉しさもひとしおだが、驚きの方が大きかった。そして、少しずつ、「○○だから仕方ない」という考え方、つまり私自身の自己規定の枠組みそのものが、実はタケバタヒロシという存在そのもの限界を規定しているのではないか、と感じ始めた。そして、そこから枠組み外しの旅が始まったのである。(多分 つづく)

風が通る

引越をして一週間。まだ開かずの箱はあるけれど、だいぶ生活が落ち着いてきた。

場所を変える、というのは、身体作用にも大きな影響をもたらす。今回、身体が引越を求めていたので引っ越した、という部分が非常に大きいので、よくわかる。職場はそのままだし、駅からは前の家の方が近いし、別に引越をする外的必然性はなかった。だが、心も含めた身体全体が、場を変えることを切実に望んでいたのだ。これは、妻も同様である。
今の家に来て、風が通る、ということの重要性を、具象的にも抽象的にも感じている。
事実、以前の家の難点は、風通しの悪さだった。北東角の3階建ての3階、という立地。夏場は恐ろしく日差しが熱く、あつ夜には外は涼しいのに、その冷気が家に入ってこない。理由は、北向きのリビングと、東向きの書斎や寝室とをつなぐ導線が悪く、窓を開けても、風がなかなか勢いよく通過しなかったのだ。
また、抽象的レベルでいうと、収納が少なかったので、部屋にモノが散乱し、気持ち的にも風通しが悪かった。だが、そこで6年住んでいた私たちには、その風通しの悪さ以前に、甲府で、夫婦として、社会的立場や役割として、生き続けるだけ精一杯だった。大げさに見えるが、僕の30代前半は、間違いなく、「一杯一杯」、というか、キャパシティーの限界以上の課題に常にチャレンジし続ける、ポジティブな意味で言えばアグレッシブな、反転させると全く余裕のない日々だった。
それが、30代の折り返しを迎える去年あたりから、役割や立場という対社会的自己だけでなく、喜びや楽しみ、うれしさといった内在的自己を重視し始めた。その際、合気道という身体作用が、心のこわばりや防御機制のプロテクトを取り払うのに役立った部分は決して少なくないと思う。今まで無視していた、センサーを切っていた、身体の様々な部位との対話(最初は「○○という技が全く出来ない」という形での)によって、自分がいかに対社会的、それも目の前にすでに見えている世界という局所的世界に向けての対話しかしていなかったことに、気づき始めた。すると、ヤドカリではないが、自らの住んでいる家の様々な問題点が、局所的世界の裂け目から、少しずつ見えてきたのだ。これは、今の自分の身体にフィットしていない住まいである、と。
おもしろいもので、結婚して8年が過ぎようとしているが、妻とそのあたりの感覚が同じであった。共振している、というか、拡張する身体感覚なのかどうかわからないが、二人して同じ時期に動きたい、と感じ始めた。そして、新たな家で、新たな身体感覚を構築しようとしている。
部屋作りのため、この一週間、いろいろなモノを捨てたり、配置し直したり、新たに買い求めたりしている。以前なら、それは単に収納するとか、しまうとか、そういう現前の目的の為、としか意識していなかった。だが、今回の引越後の軌跡でおもしろいのは、判断基準が、「それは気持ちよいか? 快適か?」という項目が加わった、ということである。逆に言えば、これまではそんな当たり前のプリンシプル自体を無視して生活を構築してきた、というお恥ずかしい現実の暴露でもある。
妻はここ数年、近藤典子の本ライフオーガナイズの本を読み込んでいるので、引越を気に、キッチンまわりをかなり快適に構築してくれた。いわく、後ろを振り向いたらすぐに調味料や道具が取り出せるキッチンが、一番使いやすい、とのこと。確かに引越後、調理中に動く量がかなり減り、実に快適に料理が出来る。同じように、書斎は以前より狭くなったのだが、パソコン机の向かい側に書棚を取り付け、そこに見えやすいように書籍を配置したので、実に本が取り出しやすく、良い刺激が沢山本棚から発せられている。座ったままの目の高さで手に届く本が増えた事が、読んで書く、という営みを、後ろから大きく応援してくれているように感じるのだ。キッチンも書棚も、「気持ちよさ」と「快適さ」が随分向上した。
まだ、それでも1週間しかたっていないので、手をつけていない箇所は沢山ある。でも、それに着手することは、「重荷」ではなく、楽しみにになりはじめている。風通しのよい家にいると、僕の中でよどんでいた気脈が流れ始めるような気がする。いや、僕自身の内在的論理の変容が、心の中に風を通し始め、引越と風の通る家に導いたのかもしれない。または、両者のシンクロニシティ、という方がぴったりくるかもしれない。
いずれにせよ、この夏は、いろいろなものをまとめるタイミングが重なってくる。そのために、スタートし始める準備が整ったようだ。

トポスの変容

と、小難しいタイトルを思いついたが、内容は簡単。引っ越しました。

同じ甲府市内なのだが、着任後6年間住まいを変えなかった。場所的には気に入っていたのだが、色々脱皮の時期だと思って、思い切って引っ越したのだ。
引っ越し先では、出来るだけ「暮らしやすさ」を大切にしようとしている。
以前の家では、本棚の3分の1が、スペースの関係上、半分死にかけていた。今回、とりあえず書斎では、PCと机、本棚しか置かず、それ以外のものは段ボール箱を未開封、あるいは収納スペースに放り込んでいる。机の真後ろに、すべてが見える本棚を置いたので、非常に一覧性に優れている。お恥ずかしながら、「こんな本を持っていたのね」と在庫をすっかり忘れていた本も多い。また、一日でやってしまったので中途半端ではあるが、今の時点での興味関心に基づいて書架を並べ直したので、非常に各棚の発するエネルギーが好ましく、また強い。自ずと各本棚に手に届く割合も高い。これだけでも、早く家に帰りたくなる配置だ。
それだけでない。これは妻の成果なのだが、キッチンもかなり使いやすく変えた。もちろん新居がキッチンとダイニングのセパレートになっている事が大きいのだが、それ以外に引越を気に、大量にモノを捨てた。本だけでなく、中途半端な収納用具や、使わない食材なども(昨日は8年前が賞味期限の蜂蜜も捨てた)。すると、めちゃ料理しやすい。キッチンのコックピットで、ほとんど動かずとも、ひょいひょいと調味料も食材も料理器具も手に取れる。今までどれだけ導線が悪かったのだろう、と再認識させられる。
あと、リビングも、なるべくモノをあれこれ置かないよう、目の上の高さ以上はすっきりするように心がけている。ここは、まだ引っ越して間もないので、志半ばだが、少しずつ、整い始めている。
引っ越す前のマンションは、立地もよく、大家さんもフレンドリーだったが、とにかく収納が極端に少なかった。ゆえに、物持ちの我々夫婦は、自然と部屋が雑然としてきて、争いや怒りに満ちる事になる。道具は、夫婦で暮らすための、あくまでも手段。でもその手段が自己目的化し、ある種、手段に支配されると、「夫婦がくつろぐ」という目的が達成できなくなる。超してきた当初はそれでもモノが少なかったが、この6年間であれやこれやが増えた。ならば、そろそろカタツムリよろしく「宿替え」の時期だね、ということになり、引越シーズンでもなければ、仕事先が変わった訳でもないのに、引っ越したのだ。
新居でも、引っ越して以後も、モノを捨て続けている。
これまでのため込む癖と向き合うのは、楽ではない。それは、自らの性格の、ある種のコアの癖の部分と向き合うことだから。なので、休み休みしないと、爆発しそうになる。でも、少しずつ片付けながら、少しずつモノとの距離の取り方、住まい方について、以前と違う場で、引越の段ボール箱を一つずつ開けながら、その場を構成する要素を大きく変えながら、毎日を位置取り直している。自分たちの場所(=トポス)を構築し直している。
以前なら、出来合いのトポスに身を合わせるだけで精一杯だった。もっといえば、トポスを重視する以前に、生きるだけで精一杯だった。だが、多少なりとも、目の前の日常生活だけでなく、その日常生活を構成する場の重要性に気づく時期を迎えた。すると、トポスを意識的に変容させることによって、今までよどんでいた流れを再活性化させて、新たな出会いや物語が生まれ始めそうな予感がしている。断捨離ではないけれど、場の再活性化の為には、確かにモノと向き合う姿勢の変容は悪くない。そして、捨てるだけでなく、自らの現時点での処理能力で向き合えるだけのモノに絞った上で、モノと向き合い直す、つきあい直す、使い倒すことこそ、活き活きとした暮らしなのではないか、と思い始めている。
新居第一号のブログは、そんな予感を言語化してみた。自己成就すればよいのだけれど。

新たな展開の予感

二週間近くのご無沙汰です。

相も変わらず日帰り東京出張が二日連続で続いたり、など仕事も確かに忙しいが、この二週間で、いろいろな事が変化していて、時間的にも物理的にもブログに時間をとれなかった。備忘録的にその変化を少し記録しておきたい。

1,Evernoteが習慣化する。
前回のブログを書いた24日から、Evernoteを使い始めたのだが、これはかなり習慣化してきた。毎朝、前日の記憶を頼りにEvernoteに日記を書き始めたのだが、まあ、書くことがあるわ、あるわ。ブログやツイッターなどのアウトプットは「他人に見られる」ことを基本としているので、実はこれでもかなり取捨選択して、抑制気味に書いている。別に暴発したいのではなく、他人の目に触れるには値しないけれど、自分では書いておきたいその日の出来事や、他人の印象や発言、等を、書き出したら、結構書くことがあるのである。朝からどん詰まりに忙しい日以外は、朝起きてご飯を食べるまでの隙間時間に、ツイッターを見ながらこちょこちょ書いている。
いや、それだけでなく、研究にも活用している。ちょうど来週の11日が、福祉社会学会での学会発表があって、予稿集は書いておくっているのだが、まだその内容を仕上げていない。どうせだったら、とこれまでにため込んできたアイデアも含めて、EvernoteでB6カードよろしく書きためている。すると、アイデアの思いつきや、忘れかけていた記憶の再生など、色々な効果が出始めた。これまで福祉社会学会では2008年からずっと、地域自立支援協議会というメゾレベルの現場のダイナミックスについて、その本質に迫れないか、とあれこれ考えてきた。ただ、ぼちぼち今回あたりでいったんまとめをして、論文にしなければ、と思っている。そのため、具体的な事象に埋没せず、「問いの次数を上げる」ことが求められる。そして、僕が今、研究上でデッドロックにさしかかっているのは、「木を見て森を見ず」ではないが、個別具体の事にこだわってしまい、問題の本質にまで迫れていなからである。
ちなみに、この「問いの次数を上げる」というのは、内田樹さんがよく言っているフレーズである。彼のHPを引いてみると、大変興味深い例が載っていた。読み返していて「そうそう」と思う直近の例を、今ブログであれこれ書き始めたのだが、内容が表に出来ない部分もあったので、これはEvernoteの日記に移行する。そう、これまで書けない内容については書かれずに死蔵されて来たのだが、それを書いて消化・昇華させることが出来るのも、良いところです。と、脱線しているけれど、とにかく研究のまとめをそろそろせにゃまずいので、俯瞰的にこれまで考えて来たことをまとめるにも、Evernoteは活躍し始めている。
2,引越作業とゴミ捨て大会が進む
あと2週間ほどで、市内の別の場所に引っ越すことにした。今の場所は足かけ6年住んでいる。朝は鳥のさえずりで目覚める、大変良い場所なのだが、心機一転したかったのと、次の家のご縁が見つかったので、思い切って引っ越すことにした。そのため、連休明けくらいに業者に段ボール箱を運び込んでもらい、以来少しずつ、段ボール箱に詰めながら、部屋の整理も同時並行的に行っている。
その中で、読んでいない本でも、今の関心から外れてしまった本は、今回思い切って処分することにした。段ボール箱に引っ越し先にも持って行く本を詰める中で、この本とはご縁がないな、と思う本は処分用に分けていったのだ。数にして200冊は超えただろうか。感じ的に段ボール箱で2-3箱分くらいは避けただろうか。大学でフリマをし、8000円くらいのお買い上げになった。それは被災地の障害者支援団体に振り込む予定だ。それでも、14箱は新居に持って行くのだから、決して少なくはない。
2回分の週末を本詰めにかけた後、昨日あたりから、「開かずの箱」やゴミゴミした周辺領域、にも手をつけ始めた。「とりあえず」詰め込んである雑多な内容を、一度地面にさらけ出して、本当にいるものだけを取り出し、あとは捨てる、という地味で面倒くさい作業だ。本を箱詰めするより肉体は使わないが、実は精神的にクタクタになる。なぜなら、真実は細部に宿るから。
前回の引越は、プータローだった西宮時代から、常勤となった新天地へと移る時期と重なった。かつ、引越の1週間前にアメリカ調査から帰って来て、その間にインフルエンザにもかかり、送迎会を軒並みキャンセルする、という失態も重なった。その上で、1週間で引越準備を完了する、というかなりクレイジーなスケジュール。とにかく箱詰めして、前の日は徹夜して、必死になって片付けて、ふらふらになりながら夕方の高速道を甲府に向けて走っていたのを、ぼんやり覚えている。あの頃は全く人生にゆとりがなくて、引越をするだけで精一杯だったのだ。
その後、甲府に超してから、山梨での生活に慣れるのに2,3年かかった。それは、常勤の仕事に慣れるのに、と言い換えてもいいもしれない。で、慣れた頃から、山梨県や三重県での障害者福祉のアドバイザーをし始めたので、加速度的に仕事が忙しくなる。妻はその頃から、引っ越ししたい、と言っていたのだが、今度は忙しくて余裕がなくなったので、とてもじゃないけれど、と拒否していた。乱雑な部屋をみて、ここからどうやって荷物を整理できるのだろう、と途方に暮れていたのも、一因であった。
それが昨年の心境の変化のあたりから、ぼちぼち動いてもいいのではないか、と思いを改める。そして、昨年の夏には不動産屋も廻ったり、学内で声もかけてみたが、なかなか物件は見つからない。そんなもんかなぁ、と思っていた矢先、今年の年明けに、身近な知り合いから、分譲マンションを人に貸したい、というご縁と出会う。いわく、5月末をめどに実家に戻ろうと思っている、とのこと。3月は仕事も立て込んでおり、引っ越し代も高いので、半年後の引越なら余裕もありそう、ということで、話がとんとん拍子で決まった。
6ヶ月の心理的余裕は、確かに大変良い。少しずつ片付けながら、心理的にも、今までの固着した考えを捨てていくのに、それくらいの時間が必要なようだ。実際、今回は連休明けから、よほどの用事がない限り、土日は引越のためにまるまる時間を確保している。その中で、今まで先延ばしにしてた「開かずの箱」「ゴミだめ」とも、向き合うことが出来ている。自分に余裕があるから、これまで蓋をしていた様々な「ゆがみ」「よどみ」と向き合えるようになってきたのだろう。使わないパソコンソフトやハード、読み返さない記録、聞き返さないカセットテープ、袖を通さない洋服、など、この際一気に処分する。毎週ゴミ袋を一杯にするたび、少しずつ心が軽くなっていく実感がある。そして、パソコンラックや、普段使わない重いスーツケース、不用意に取っておいた紙袋、などもとにかく捨てまくる。すると、変なもんで、部屋がだいぶシンプルになり、良い気が流れるようになってきた、ような気分になる。断捨離ではないけれど、引越を機会に、モノとのつきあい方を、大きく見直そうとしている。
3,蘊蓄ハイキング隊、はじまる
先週の金曜日から突然始まったこの企画。ちょうど、「せっかく山梨に来たのに、山梨の自然とふれあっていなかったなぁ」と思い始めた矢先に、大学の同僚A先生から、ハイキングのお誘いを受けたのだ。曰く、「大菩薩峠の半日ハイキングとその後の温泉」という、なんとすばらしい企画。
前日は雨だったのに、その日は非常に晴天に恵まれ、実に気持ちのいいハイキング日和。同僚が多いハイキングなので、山歩きしながらもピーチクパーチク、蘊蓄や阿呆な話に余念がない。かつ、隊長のS先生が、装備もばっちりで、山歩きのことだけでなく、森羅万象についての蘊蓄の大家。よって、蘊蓄ハイキング隊と決まったのでありました。
大菩薩峠の尾根から見る雲海の景色は実に美しく、隊長の言う「山登りはいっぺん出かけてみると、その魅力にはまるよ」という言葉を、文字通り実感した。この夏はこの隊の企画に乗っかって、僕も山梨の山と、一つずつご縁を頂こう、と思う。
Evernoteも引越も、蘊蓄ハイキング隊も、胎動する何か、を感じ始めるエピソード。どこに進むかはわからないけれど、何だか新たな展開の予感がする三題噺、でした。

方法論の刷新

タイトルは仰々しいが、中身は現実的だ。

ウメサオタダオ展に出かけた、という事を前々回のブログでご紹介した。
今回氏の著作を何冊か集中的に読む中で、以前読んだつもりだったけれど、ちゃんと記憶にも残っていないし、また書架にもなかった大ベストセラー『知的生産の技術』(岩波新書)を、東京出張のついで、昨日オアゾの丸善で買い求めた。
実は読み直す以前にも、改めて方法論の刷新が必要だ、と感じていた。みんぱくにつとめる大学時代の同期のO君から、展示会の折に『特別展「ウメサオタダオ展」解説書「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」』を頂いたのだが、このガイドブックは非常に内容が濃くて、学ぶことが多かった。その中でも、方法論に関しては、山根一眞氏の『情報の整理と再構築の偉大な一歩』というエッセーに非常に心惹かれていた。その中で山根氏が梅棹氏から言われた言葉が、非常にあまたの中に残っていた。
「山根君は『B6カード』を使うことで、情報をどう扱うべきかを学んだ。それで、自分なりの方法や技術を産み出した。そういうことを想定して書いたのが『知的生産の技術』なんです」(p100)
つまり、ばらばらの情報をB6カードに「発想メモ」としてとり続け、何かのテーマについて書くときには、テーマや小見出しからそのカードを引っ張り出して、並べ直し、「こざね法」でカードなりメモなりを組み合わせ、論理を発展させていく。梅棹氏の友人、川喜多二郎氏のKJ法と共に、情報を帰納法的に集約していく中で、大きなテーマでのひとまとまりをつける、という編集機能を備えたやり方が、B6カードによる知的生産技術の要旨である。
このやり方を、パソコンやクラウド時代にどう活かせるのだろう? そう考えていた矢先、昨年の夏に人から教わったけれど、放置していたEvernoteを思い出した。そうか、あれはカードそのものだし、ファイルメーカーと違ってクラウドだから、アンドロイド携帯とも同期出来るのではないか、と。
ネットで調べてみたら、gmailと同時活用している人の本や、『知的生産の技術』との関連性で論じている人の本など、ちゃんと気づいている人は沢山いたのですね。上の二つの本も、早速アマゾンで購入。
仕事の方法論については、山梨県や三重県の障害者福祉のアドバイザーをし始めて、学外での社会貢献の仕事がかなり増え始めた3,4年前に、ビジネス書やライフ・ハック系の本、また「週刊東洋経済」「日経ビジネス」[The 21」などのビジネスマン向け週刊誌をかなり貪り読んだ。その中で、仕事の締め切りに対する意識や、常に先々の仕事を見据えた中で早め早めに処理する技術など、方法論的なものについて、ある程度学んだ、つもりでいた。事実、以前に比べたら、仕事の処理速度はかなり速くなっていたと思う。
ただ・・・。
それでは、事務仕事や講演のパワーポイントなどは早くこなせても、論文など、じっくり考えて文章にしていく作業に活かされていなかった。処理は出来ても、「知的生産」には至っていない、という不全感が、ずっと蓄積したままだった。本は以前より膨大に吸収し、昨年あたりから色々新たな気づきもあって、それをブログやツイッターで時に触れてアウトプットもしているけれど、それはあくまでも情報の断片であり、その情報の断片と、これまで研究してきた自分の研究テーマや主題との関連づけが非常に薄い、と感じた。つまり、以前、我が学科のM先生から言われた「雑学王をどう脱するか?」という壁を、超えられないまま悶々としたままの自分がいたのだ。
そんな中でのEvernoteくんとの出会いは、実は雑学王を脱するための、僕なりの処方箋にもなり得る、と勝手に夢想している。
僕は、いちおう障害者福祉政策の専門家、というタグが貼られているらしい。たしかに、障害者の地域移行や地域生活支援などで、文章も書いている。しかし、それにとどまらず、高齢者福祉や地域福祉、ボランティアやNPO、支援や新しい公共など、より広いコンテキストの中で、自分の研究が位置付いている、と感じている。また、最近どうもユング心理学系が気になって仕方がないが、もともと博論時代からの主題である、「精神障害者のノーマライゼーション」課題の、主観ー実存的問題と、社会環境(の障壁)との相互作用論も、自分の中でアクチュアルな主題となりつつある。複雑系やメタ認知理論、フーコーにメルローポンティも、単なる趣味を超えて、関係があるような気がして仕方ない。
そんな雑食家が、雑学王を超えて、ちゃんと情報を関連づけ、つなぎ直す方法。それが、クラウド環境やITメディアを活用した、現代版のこざね法的、KJ法的法的な「知的生産の技術」ではないか、と感じている。これまで試行錯誤しながら、「情報をどう扱うべきかを学んだ。」 その修行時期がそろそろ終わり、「自分なりの方法や技術を産み出」す時期に移行しているのではないか。そう感じていた。
ゆえに、今日からEvernoteは早速大活躍している。メモを書きまくり、そこで気づいた事はツイッターに加工したり、逆にツイッター内容を貼り付けたりして、メモをどんどん膨らませていく。研究室で死蔵しかけていた幾つかのキーブックも、「著者にとってのだいじなところではなく、自分にとってのおもしろいところ」としての「わたしの文脈」(「知的生産の技術」p112)でノート化していこうと決めた。
ここしばらく、情報をむやみやたらと吸収しているばかりでなく、きちんと分析して、考えて、アウトプットしたい、と思い続けてきた。それが、ウメサオタダオ展という媒介項で、知の巨人とつながり、そこから自分なりの方法論について刷新するチャンスをいただけた。なんとありがたい学恩。
出来の悪い一研究者だけど、氏から勝手に受け継いだと思い込んだバトンを手に、自分なりに知的生産の大海に漕ぎ出したい。