ドグマと鯰

昔から、人に説明をするのは下手ではなかった。だが最近、それゆえに自身の話す内容の深さと拡がりの度合いについて、はたと考え込んでしまうことがある。

中学生の頃から、「どうしてこの先生はこんなにも説明がヘタなのだろう?」と疑問を持ちながら聞いていることが多かった。もっと、こういう言い方をしてくれたら、スッとわかるのに・・・。だから、わかりやすく伝えてくれようとしている先生の言うことは好きだったし、クラスメイトに何かを教える機会があったら、極力自分が感じ考えるわかりやすさ、を実践しようと試みてきた。自分が大学生になったとき、疑うことなく真っ先に始めたバイトは塾講師と家庭教師。なにせ、「わかりやすく伝える」という自分の得意なことを活かせて、それでお金が貰えるからである。以来一回りの期間、対象が小中学生から受験生、そして予備校生や大学生と変わっていきながらも、ずっと「わかりやすく伝える」という職業が自分の天職だと感じてきた。

実は受験英語を教えていた時には堂々と言えなかったのだが、僕の英語力はハッキリ言って低い。多分英語教師になりたくて努力され、プロとして第一線で活躍されている多くの方々に比べて、英語能力は格段に低いのではないか、と思われる。ボキャブラリーも貧困だし、時事ネタもフォローアップしていないし、会話力もなっていない、とも思う。それでも、なぜ曲がりなりにも受験生をずっと教えてこれたのか、そして一定程度の評判を得ていたのか、それは「わかりやすく伝える技術」が他の先生方より勝っていたからだろう。英語がわからない、と駆け込んでくる学生さんの、どこがどうわからないか、というわからなさと真正面から向き合い、わからない一番下のポイントまで戻って、そこからわかるように教えていく、というごく単純なノウハウを、教えられる立場だった中学生だったころから直感的に知っていた。だから、それを講師になった際に実行すれば、当然誰だってわかってくれる、ただそれだけなのだ。でも残念ながらそんな簡単な技術を身につけていない学校の先生が多すぎて、僕は10年間ほど、高校3年生の「わからなさ」と付き合い続けてきた。きっと、僕より絶対に英語能力は高い先生に教わったはずの学生さんでも、「わからなさ」を「わかる」に変える、その一点がそれらの先生方には出来てなかったので、僕はおかげさまで大学生から院生にかけて、食いっぱぐれることはなかった。つまり、英語を教える、というより、ある対象への向き合い方を教える、ということを僕は天職として続けてきたのかもしれない。その対象が、ある時期までは塾講として受験英語を教え、今は大学の専任で福祉を教え、と変わってきただけ、とも言える。

ただ、この二つの違いは、実はかなり大きい。受験英語は、英文法という体系があり、会話や発音などにも一定の規則性がある。それらの基本的な型をどう身体化した上で、未知の問題に慣れたパターンを当てはめていくか、ということが問われる分野だ。「ドラゴン桜」に出てくる川口先生の基本例文など、まさにその身体化すべき暗唱文だ。昔お世話になった竹岡先生がこのたびその例文を「ドラゴンイングリッシュ」として出版され、アマゾンなどでも売れに売れているようだが、基本例文をたたき込む、というのはまさに受験英語の王道である。(ちなみに僕が受験英語を教えるきっかけを作ってくださり、また僕の英語も鍛えてくださった恩師のT先生は、この竹岡本に相当貢献をされておられます。) 一方、今大学で教えている地域福祉やボランティア、NPOなどの分野には、「基本例文100選」なるものが体系だっては存在しない。だから、「わかりやすく伝える」ことが得意なタケバタであっても、「何を」伝えるのか、のその根幹の部分の選択の際に、大きく考え込んでしまうのだ。そこで、冒頭の「自身の教える内容」について、その是非のみならず扱う内容の深さや拡がりがシビアに問われてくる事態にただいま遭遇しているのである。

僕自身、体系的に地域福祉やボランティア・NPOを学んだ訳ではない。たまたま「日本の精神障害者のノーマライゼーション」という一つの小さな小さな縦穴を、無心にずっとずっと掘り進めていったら、ある時にそれが「開けた」ような気がした瞬間が訪れ、掘り当てたその地平に立って隣接領域の様々な理論・言説に改めて触れたとき、自分が掘ってきた軸との距離・位相と照らして、何となくマッピングをして眺めることが出来るようになっていた、というだけである。いわばGPSのように、対象物・対象概念と自分の核との距離の測定から、その対象の占める位置を予期できるようになり、その精度が少しずつ上がってきた、とでもいえようか。そう考えた時、学生の皆さんに伝えるべきなのは、このGPS的なマッピングの構図なのか、あるいは自分の核なのか? あるいはGPSを働かせる事によってつかまえることが出来た地域福祉論なりボランティア・NPO論の実態なのか。

もちろん普通に考えれば、地域福祉論を教えているのなら、地域福祉について教える、というのが、当たり前すぎる正解である。それに異論はないし、それは実践しているつもりだ。ただ、教える際に、自分がどの観点でその地域福祉なりボランティア・NPOを捉えているか、という立ち位置(自分の核となる部分)と、どういう測定方法で計っているのか、という方法論を伝えることなく、これらの分野を教えることは危険なのではないか、と感じている。受験英語と違い、地域福祉やボランティアは、180度違う観点から教えることが可能だ。端的に言えば、「必要だ」とも言えるし、「いらない」とも言える分野なのだ。では、どうして「必要」・「いらない」のか、を説明するには、その価値を支える体系なり、現代社会におけるマッピングなり、を伝えることなしに、これらのものを伝えることは出来ない。ただ、基本例文100選なる「ハズレのない骨格」がまだきちんと固まっていない新たなジャンルにおいて、何かを伝える際に描くマッピングは、あくまでもタケバタが自分の衛星(核)を通して掴んだマッピングや全体像である、という留保付きであることを何度も伝えないと、気づけばその内容はドグマ化してしまうのだ。そして、ドグマにならないように、これらのマッピングとその中での各内容の深さと拡がりを伝える、というのが恐ろしく難しい、と最近感じているのである。

ドグマは語り口や説明力で巧みに騙すことが出来る。僕も振り返って考えると、自身の不勉強を語り口で騙したつもりになった場面も、非常勤時代にはみられていた。だからこそ、この現場において、語り口や説明力で騙されない、基本例文にあたるようなホンモノの内容が問われている、と感じている。さて、その際の「ホンモノ」の「基本例文」とはいったい何なのか・・・。なにか、どじょうや鯰をつかまえる心境になってきた。

元気を出して

今朝もほったらかし温泉の露天風呂にいた。

昨晩は山梨に来て初めての、我が家でのお食事会。同僚お二方をお招きして、午前様までワイワイと歓談を続ける。奥さまの勤め先の近所のお肉屋ですき焼き用の肉を仕入れ、アペリティフにはスパークリング、そしてメインにはフルボディの赤ワインで、るんるんと盛り上がる。仕上げに県内産のグラッパまで出す頃には、もうトロントロン。色々しゃべって、大変楽しい会であった。Mさんからは美味しいどら焼きのおみやげまで頂く。今日、妻と共に堪能させて頂きました。ありがとね。

で、ワイン3本を3人で開けたので、よく考えたら一人一本の計算。当然、お客様をお見送りした直後、歯磨きだけかろうじてして眠り込んだので、朝起きたらギトギトべとべと。今日はオープンキャンパスで模擬講義の予定も入っていたので、このままではいかん、と一念発起!?して、朝から奥さまといそいそほったらかし温泉に出かけたのだ。今朝は時折小雨が降りながらも、富士山がバッチリ見えた。なみなみと注がれたお湯の向こう側には、すすきと富士山、そして甲府盆地が拡がる。何という雄大かつ豪華な借景。見とれているうちに、あっという間に一時間は過ぎていた。帰りにまた例のトマト屋で1週間分のトマトを仕入れ、いったんおうちに帰る。朝食後、スーツに着替え、大学に。

オープンキャンパスでは、30分で模擬講義をする。普段の3分の1の時間で、しかも受験を考えている高校生の皆さんに何をお伝えしようかな、と思案したあげく、普段の講義と趣向を変え、社会保障全般の話を、図解を元に皆さんと考える、というスタンスをとってみる。一昨日、パワポで作り込んだ資料だ。そして、せっかくの機会なので、大学における授業のエッセンスも伝える。100%をその場で理解する必要はない。自分の中で、問いが生まれるきっかけになればいい。○×で答えが決まっていない、現実の社会問題を扱う場合には特に、問題解決や課題構築能力が問われる。なので、答えを覚えるだけの暗記型勉強から、課題発見・方策思考型の考える練習を大学でしてほしい。そのために、視野狭窄にならずに、鳥の眼で全体のマッピングをしながら物事を考える訓練を続けてほしい・・・。お節介おばさんかもしれないが、若い皆さんへのメッセージは次から次へと出てくる。それと、社会保障の問題を絡めながら、マイクを皆さんにむけながら話していると、あっという間に30分は流れ去った。

ありがたかったのは、その後模擬面接をしていたとき、授業を聞いて興味を持ってくださった学生さんが何人か声をかけてくださったこと。3割4割しかわからなかったけど、興味が持てた。その言葉がすごく嬉しかった。僕の仕事は、ある意味で学生さんの中に「疑問」と「興味」を抱かせることである。すると、100%わかる話しかしない、というのではなく、「なんかようわからん部分もあるけど、めっちゃ興味があるし、もっとそのことについて知りたい」というモチベーションに火をつけることが出来れば、教員としての職務は全うできた、と思う。そういう意味では、手前味噌かもしれないが、昨日今日とお話しさせて頂いた高校生の皆さんの何人かに、「気になる」「知りたい」火をつけられたのかもしれない。もしそうだとしたら、そういう機会を与えて頂いたこと、そしてその場で話を出来たこと、に感謝したい、と素直に感じた。そして、模擬面接の場で真っ直ぐ僕に向かってくれる高校生の皆さんと出会って、改めて大学教員としての責任と自覚を痛感する。皆さんのこの真摯な姿に、授業を通して応えたい、そう思いを新たにした。

オープンキャンパス終了後、さすがに疲れておうちで一寝入り。汗をぐっしょりかいて1時間ほど眠ると、だいぶすっきりした。その後、ミュージックフェアをつけながら、昨日の宴の後かたづけにいそしむ。島谷ひとみや徳永英明が歌う竹内まりやの曲を口ずさみながら、30分近くかけて山ほど食器を洗う。こういう時に、スウェーデンのように大容量の食器洗い機があればなあ、と思ってしまう。でも、「元気を出して」など往年のヒットソングを大声で歌いながら食器を片づけていると、気分もすっきりしてくる。よく考えてみると、彼女の歌は不倫がテーマの曲も多い。でも、歌詞よりどちらかというと全体の流れで彼女の歌が好きなので、気にせず歌っている自分がいる。最近そういえばカラオケにも言っていないなぁ・・・。あと「元気を出して」のカバーで今日出てこなかったのは、最後のサビの部分のハーモニー。Impressionという竹内さんのアルバムでは、最後のコーラスを山下達郎と竹内、そして薬師丸ひろ子がハモっています。特に、その中でも薬師丸さんの部分が秀逸。今日のミュージックフェアではそこを省いていたのが残念。まあ、あれを再現するのは難しいかもしれないけれど。でも、妙にあの高音が懐かしく感じた。そういえばあのアルバムを借りたのが高校3年の時。そして、それから一回り年を重ねて、今日はその12年前の私、相手に講義なんぞしている自分がいた。改めて、年月がたったんだなぁ、としみじみ感じる。

食器を洗って、買い物に出かけたあと、我が家でささやかな宴。今日は奥さまのお誕生日なので、山梨の白ワインとキムチ炒めで乾杯する。改めて、この1年間の激動ぶりについて話が深まる。実のところ、昨年の10月15日には、山梨に引っ越す、なんて思いもよらなかった。改めて、一年間の様々なご縁や、激動の日々に思いを馳せる。そして、たった半年前まで奥さまの稼ぎで食べさせて頂いたことに深く感謝する。次の一年が、彼女にとってもっと幸せで、より充実した日々になることを、心から願うバタであった。

アウトプットの一日

昨日今日とはずっと、なんやかんやと作っていた。

明日が高校での模擬講義、明後日がオープンキャンパスでの模擬講義、なので、両方とも資料作成にまず追われる。ついでに27日の市民講座の〆切も重なっていたので、昨日からとりあえずレジュメを三種類作り上げる。最近すっかり図解にはまっているので、土曜はパワポで図解資料をたっぷり入れてみた。法科大学院の模擬法廷というめっちゃ立派な建物で行われるので、多少はパワポもかっしり作っておかないと、建物に負けてしまっては格好が悪い。その後もずっと引き続き、科研費関連の資料やら履歴書やら作っていた。

で、午後に入っていた予定が当日キャンセルになったので、午後はここぞ、とばかりに、来週のレジュメと格闘する。来週末から週明けにかけて神戸大阪韮崎、で自立支援法案関連の勉強に呼んで頂いたので、そろそろ真面目にレジュメを作らないとまずい時期なのだ。なので、昨日は目をしょぼしょぼさせながら、前回書いた276枚をとにかく眺めきった。利用者負担の減免などで新しいデータも出ていて、色々チェック。ついでに入所施設利用者の数も載っていて、改めてげんなり。知的障害者で10万人、身体障害者で4万人が入所施設にいる。それに精神病院入院患者34万人のうち、少なく見積もっても社会的入院は10~15万人はいるので、足して25~30万人以上の人が、未だに入所施設・精神病院に「社会的入所」しているのだ。一方、北欧諸国では入所施設はゼロ。精神病院だって日本の人口換算で7万人分しかない。民族、文化や考え方が違うといっても、この違いは一体なんなんだ。改めて、ため息が出る。25万人といえば、甲府市の人口20万より多いのだ。これらの人が、なぜ地域移行や退院促進の対象とならないのか? なぜ集団生活を続けなければならないのか? なぜ地域で自分らしい暮らしをする機会が阻まれているのか? では自立支援法における「自立」の「支援」とは一体なんなのか? ・・・本当に、様々な疑問が次から次へと浮かぶ。

そんな疑問やら憤りやらため息をついているうちに、神戸用に作ったパワーポイントが32枚に。これに10~20枚の資料をつけたら、2時間あっても話しきれるか不安な量だ。もっとポイントを絞ればいいのかもしれないが、関西のソーシャルワーカーの皆さんがわざわざ甲府の私を呼んで下さるのだから、手抜きもしたくないし、全力投球でお話をしたい。そんなことを考えていると、どんどん資料が増えて、まずくなってきた。

こうやってレジュメを作っているうちに、あっという間にお外は真っ暗に。もうじき学祭があるからなのか?、外では応援団の人が太鼓ドンドン、声を張り上げ練習されている。明日は高校では二回目となる模擬講義。高校2年生の皆さんに、先述の入所施設の構造的問題についてお話しする、というこゆい80分になりそうだ。でも、前回の高校でも、真っ直ぐな眼差しで、精一杯聞いて頂いた。今回はどんな出会いがあるか? 今から楽しみだ。ここ二日、パソコンを前にして格闘して目がショボショボ。なので、こんばんは美味しい魚で一献傾け、鋭気を養おう。というわけで、そろそろ研究室を退散します。

図解と潤滑油

今日は朝から東京で勉強会。国際的な障害者の差別禁止条約締結に向け、女性や子供、人種など、これまでに履行されている他の差別禁止条約に関わるNGOからのヒアリングの場に出かけ、色々勉強していた。その場で、今日はせっせと図を書いていた。

事のきっかけは「図で考える人は仕事ができる」(久恒啓一著、日経ビジネス人文庫)。図解すればものごとがクリアに見える、という筆者の主張は結構わかりやすく、ここしばらくのマイブームなのだ。昨日も社会保障のお勉強をしていて、読んだ本を図解でまとめてみると、あーら不思議。結構ビギナーでも簡単に整理できて、しかも問題点もクリアにわかってくるのだ。なので、今日も朝から子供の権利条約や女子差別撤廃条約などの履行状況に関するNGOの発表を聞きながら、せっせこキーワードを元に図解を作っていた。そして、意外や意外、図を書いているうちに、自分の興味関心や問題点もきれいに整理できてきたのである。この図解ブームは、ここしばらく僕の中で続きそうだ・・・。

整理しながら気づいたのが、世界的な差別禁止の流れにしても、いかに国内法、そして自治体の条例といった、国内・地域レベルでの実践が出来るよう、NGOと行政、そして地域が連携していけるか、ということ。これは、今の自立支援法案とも重なる。つまり、地域を耕さねば、豊かな障害者支援も、権利保障もへったくれもないのだ。これは、今日の話を聞きながらも強く思った。この地域の豊かさについて、日本らしい何かをどのように構築していくのか、が、どの分野のNGO/NPOでも問われてくるのだとおもう。そして、このときに、日本に昔からあった互助・連帯組織である民生委員や町内会、自治会などと、こういった新しい(しかも多くが西洋文化だと思われている)NGO/NPOのムーブメントがどう連結するのか、ここが問われている、と切に感じている。

そんな真面目なお勉強をして、甲府に帰り着いたのが午後7時半。そのまま、駅から近くの居酒屋に直行する。今日は二年生ゼミの飲み会なのだ。初めてのゼミコンパだったが、皆さんちょっとずとエンジンがかかってきて、もりあがってきたようだ。色々おしゃべりして、僕の家の近所に住んでいる体育会所属の学生さんと早退する。何でも彼の寮は9時45分に点呼があるそうな。僕も今日は朝6時起きでくたびれていたので、財布にタクシー代だけ残して、あとは有り金(と言っても少ないのですが・・・)全部置いて、退散する。彼ら彼女らがお金を気にしながら飲んでいるのを見て、僕も学生時代にピーピー言っていたのを思い出した。ま、今だって貧乏には変わりないのだけれど、こうやって学生時代に先生方に一杯おごって頂いたのだから、少しは次の世代に還元せねば、と思う。帰りのタクシーで件の学生が、「こういうゼミの飲み会ってすごく楽しいですね。息が合ってきたような気がします」と言ってくれたのが、すごく嬉しかった。この2年のゼミではプロジェクトをやっていて、大学から補助金までもらったのだが、それを後半年で上手に成就させるには、ゼミ生の一致団結が必要不可欠なのだ。それをするためにも、今日の飲み会が、いい潤滑油になれば、と願っている。

潤滑油、といえば、明日は3年ゼミの飲み会。こちらは、今後の就職活動の成就も祈願して、の別の意味での潤滑油となるべく企画された飲み会。僕は財布が軽くなり、体重は重くなるが、まあこれも業務の一環。ジムと授業で動き回って、体重は軽くしなきゃ、ね。でも財布の軽さはさて、どないしまひょ・・・。

ラタトゥーユと276枚

トマトの季節が戻ってきた。
6月頃に見つけた、大学の近くの激安ガソリンスタンドの向かい側の農家が、トマトの販売を再開したのだ。

ここのトマトは、本当に目を丸くするほど美味しい。以前ブログにも書いたが、実家やお世話になった先生に送ったところ、どなたからも大好評。僕自身、毎週なくなる度に買いに出かけていた。7,8,9月はブドウの季節なのでトマトはいったんお休み、で、10月から来春の6月まで、トマト販売を再開される、とのこと。道沿いにたてられた「のぼり」を見つけて、真っ先に立ち寄る。おうちの方がいらっしゃって、割れたトマトもたんまり頂いた。これが割れていても、めちゃくちゃ美味しいのだ。早速今晩はラタトゥーユにしてすり下ろしトマトもたんまり入れる。ハッシュドビーフの素もあるのだが、そんなの必要もない位にコクが既に出ている。今は煮込み中だが、早く食べるのが楽しみだ。昨日韮崎の農協直販所で買った地物のニンニク君達や、土がかぶったにんじんもいい役を果たしている。特に、にんじんは皮をむくと、霜降り肉のような美しい文様が現れた。これが美味しくない訳がない!! 飲み差しの赤ワインもドバッと入れて、豚バラ君も大満足のようだ。いやはや、ほんと待ち遠しい。

で、ついでに報告すると、ほったらかし温泉に再び出かけた。朝早くある方から電話を頂いて目が覚めたので、「どうせなら休みだし、朝の露天風呂に浸かりにいこう」という算段だ。これがまあ、気持ちのいいこと。霧がかかっていてご来光、という訳にはいかなかったが、それはそれでよろしい。幽玄なる霧がかった風景と、目の前のススキ、それを眺めながら朝からぼーっとするのも、また格別である。しかも、休日でも人は少ない。ごくらく極楽。

で、休日に疲れも落としながら、一方でちゃんとお仕事もトボトボしている。先週末に社会保障審議会、その翌日に都道府県の障害保健福祉主管課長会議、が相次いで開かれ、国会で今議論されている自立支援法関連の具体的な資料がたんまり出てきた。社保審の資料で5MB、主管課長会議で12MBである。主管課長会議をプリントアウトしたら、276枚!!!あった。これを読むのか、と思うとゲッソリする。だが、今国会での成立と来春の施行を目指して、この資料から厚労省の本気度が伝わってくる。ぱらぱら眺めるが、具体的に減免措置の細かい規則など、施行規則の大枠につながるものがドバドバ出ている。こりゃあ担当者はしばらく寝ずの作業をしてたんだろうなぁ、と思いながら、1時間近くプリンターが発奮するのを見ていた。

で、それを眺めていて、いよいよこちらのスタンスが問われるな、とも感じる。以前このブログにも書いたが、ハッキリ言って276枚を真面目に追いかけていたら、すっかり厚労省の枠組みに居着いてしまうのだ。これが障害者にとってどういう意味があり、障害者の地域自立生活支援を支援する点でどう問題なのか、をしっかり頭の片隅に置きながら読み込んでいかないと、いつの間にかミイラ取りがミイラになってしまうのだ。そのためには何らかの補助線が必要だ、と感じていた時、近所の本屋でまさにドンぴしゃ、の一冊に出逢った。それが、「社会保障を問いなおす」(中垣陽子著、ちくま新書)だ。

何がドンぴしゃって、この本は、今回の厚労省の改革の裏側にある社会保障全体の改革について、「身の丈にあった」「安心感のある」「不公平感の少ない」「わかりやすい」という4つの切り口から「あるべき姿」を解説している。しかも著者は今は政府系財団の主任研究員だが、平成13年度の国民生活白書「家族の暮らしと構造改革」の筆者でもあるのだ。これを読んでいて、ここ数日紙面を賑わせている診療報酬の改正の問題、介護保険と高齢者医療の相乗りの問題、など社会保障「改革」の問題がまさに取り上げられているのだ。なるほど、この国民生活白書の方向で、今の制度改革が進み始めているのね、という全体像が、この本を読む中で少しずつわかってきた。それと共に、自立支援法案関連の資料を読み込んでいて疑問に思っていた様々なキーワード、あるいは厚労省の切り口も氷解してきた。こういう国策の流れの中で、障害者政策に関しても、経済活力重視と社会保障充実の二つに折り合いを付けられる「皆が仕方ないと納得できるポイント」に落とし込むために1割負担を原則とし、不公平感を和らげる為のホテルコスト徴収、など介護保険改革とクロスオーバーする部分を障害者福祉にも応用し、合わせてわかりやすい制度設計で、何とか制度維持を目指そう、という流れなのだ。

そして、その大きな流れが見えて来たとき、ふと「障害者はこの法案で安心感を持てるのか」という疑問が浮かぶ。つまり、原則1割負担の前提となる所得保障の問題である。障害者の基礎年金6万6000円が安すぎる、という事実に触れないまま、サービス利用料に関する減免措置の議論をしたって、根本的解決にならない。逆に言えば、このポイントを無視して、厚労省の資料をいくら真面目に読んだって、障害者が安心できる社会保障制度への改変へとつながらないのだ。このことを、ちゃんとまとめて伝えていかなければ、と問題点がだいぶクリアに見えてきた。資料を読み込みながら、飲み込まれないように、腹を据えて資料と格闘しよう。でもその前に腹が減っては戦が出来ぬ。そろそろ煮込みも出来てきた。さ、真面目な話はこれくらいにして、美味しいラタトゥーユを頂きますか。でも、ビールかワインを飲んで、このテンションは続くのか・・・。そもそも、276枚を読む気力が残っているのか・・・。

連鎖反応とドーナツの穴

ここしばらく、日々の最低限をこなすのに一杯一杯な日々が続いてきた。

一つには後期の授業が始まってまなし、なこと。講義が二内容三コマに増え、新たな予習に追われていること。これで相当時間的にタイトになっている。先週末以来、お腹の調子も万全ではない。疲れもたまり、口内炎もでき、運動する暇もない。なのにデスクトップのスケジュール帳には積み残しの仕事が、日々累積していく。毎日大学に12時間滞在しても、とにかく仕事が片づかない・・・。どこかでこの連鎖を断ち切らにゃ、と思い、まずは今晩、禁酒にしてみた。ここしばらく、ずっと毎日飲んでいたので、一日くらいは休肝しないと、多分身体さんも悲鳴をあげているのだろう。おかげで放ったらかしのスルメを、酔いつぶれずに書くことが出来る。

その一方で後期になって、以前宣言した授業改革が、少しずつ、功を奏し始めている。前期の課題点を変えるために、いくつかの試みを始めたが、それは今のところどれもうまく進み始めている。明確な姿勢と、裏打ちするデータ、それとコツコツとした予習の積み重ね、という至極真っ当な三種の神器を、半年もして、初めて実践できるようになったのだ。そうやって真っ直ぐ学生さんに向いていると、彼ら彼女らからも、少しずつ真剣なまなざしが返る率が高くなってきた。これだから、真剣直球勝負は面白い。まあ、実のところ年期も経験もない僕には、フォークやカーブの授業展開で的確にポイントを突く、という曲芸は出来もしないので、直球しかないのだが、こうして真っ直ぐな言葉、を誠実に伝えているうちに、伝わるものの深さと広さが少しずつ拡大していけば、と願っている。

今日は珍しく会議がない水曜日だったので、少しは自分の仕事も出来る。いよいよ国会で障害者自立支援法の審議が始まるので、関係者とその関連での打ち合わせ。今日の社会保障審議会や検討会での国の説明の強引さが話題になる。厚労省の優秀なるお役人の皆さんも、実のところ、この強引な展開に、本当は困っているんだろうな、と思う。だって、誰が見ても、今度の法案はあまりにもどぎつく、えげつない給付抑制方策が盛り込まれているからだ。これは厚労省単体の問題ではなく、三位一体改革や700兆円の財政赤字の問題などとリンクした「国策」レベルの問題。厚労省の官僚だって、きっと財務省や政府の「国策」命令にサラリーマンとして従わざるを得ないのだろう。ただ、その財務省や政府に物申せる唯一の立場の国会議員が、どうも大政翼賛会なのか、あるいは初当選組が多いからか、この法案の内実をあまりご存じでない(関心がない)方も少なからずおられる、と漏れ聞く。法案に問題点があり、その作成者である厚労省は「上かの指示」と言われ、その「上」のお目付役である国会議員が不勉強や無関心。ならば、この法案に関しては、誰も責任を問わず、誰も責任が取れない中で特別国会でするりと通過するおそれがある。ドーナツの穴のように真空現象が起きているのだ。で、その真空地帯で、結局困るのは、国会議員でも官僚でもなく、地域で暮らす障害者自身。なんちゅうこっちゃ、と思う。

僕自身はこのことに対して、現状を変えるほどの知力も能力も政治力も、もちろんない。ただ、まっとうな議論が、まっとうにされるように、せめて地域・現場レベルでもお手伝いすることくらいしかない。そう思っていたら、偶然、なのかご縁があったのか、今度は東部地区でこの法案の勉強会をしたいので講師に、という依頼の電話を受ける。前回の東山梨地区での講演の噂を聞きつけて、わざわざお電話くださったのだ。山梨は人口が少なくお顔の見える関係が築きやすい分、福祉関係者が地域の人々を巻き込み、そして自治体の担当者や首長も本気になれば、政府の制度を超える地域の豊かさが構築できる可能性がある、と思う。国レベルが「ドーナツの穴」状態なら、せめてその穴を埋める実体は、地域から作っていくしかない。それを、僕レベルでもお手伝い出来るのなら、えんやこら、と走り回ろうと思う。こうやって首をしめるから、またスケジュール帳には未決リストが溜まるのも目に見えているのだが、まあ、「ほっとかれへん」病にかかったタケバタ、いつものように気づいたら走り始めていた。

豊かな土曜日

今日は久しぶりにのんびり、の土曜日である。

今週から後期の授業が始まり、いろいろ授業関連のゴタゴタまであったもんだから、今週一週間は相当根を詰めていたし、疲れ果てていた。で、昨日の朝から、少しお腹を下し、ちょっと風邪も引きかけていた。昔から季節の変わり目にはよく風邪を引く、見た目とは違い内面は心身共に結構ナイーブなタケバタ。甲府もここ一週間で冷え込み、ついには昨晩、冬用羽毛布団に変えたところだ。今日は衣替えも一部始めたし、夏モードから急に秋モードに変遷しつつある。

そして、「風邪を引いちゃあいけないから」というのを最大の言い訳に、昨日は韮崎まで野菜を買いに出かけた後、午後は最低限の仕事をしに大学へ。月末は決算関係の書類の締め切りなので、どうしても処理をしなければならない。まあ、ついでにあれこれ片づけられなかった残務処理も終え、昨日は早々研究室を後にする。久しぶりに、二度寝を挟んで10時間以上爆睡できた。おかげでお腹の調子も元に戻る。

午後は、先述の通り、衣替えとちょっとばかしお仕事。夏物の服を片づけながら、服装の在庫確認。服はあんまり気にかけていないようでいて、結構な数、持っている事を再確認。これからはあまり無駄に服を買い足すのではなく、一点豪華主義にしたいなぁ、などと夢想する。でも、アルマーニのスーツを買うほどの余裕財産はないのだけれど・・・。寝室のクローゼットがすこしかけすぎできつそうだったので、仕事部屋にスーツをかけるスキマハンガーなるものをホームセンターで買い求める。ついでにフライパンも。某「お値段以上」という宣伝でお馴染みの店でフライパンを3ヶ月前に買うのだが、ハッキリ言ってすぐに焦げ付き、1000円のフライパンでは役に立たないことが判明。今回はテフロン加工の3000円強の代物を購入。早速今晩炒め物に使ってみたが、伝導率が向上したためか、少ない油でもニンニクの炒まり具合が非常に良い。おかげで黒酢あんかけの炒め物は大変美味しかった。

今宵はホームセンターと、酒屋を経由して温泉に出かける。この酒屋では蕎麦焼酎をゲット。以前書いたがふと立ち寄った石和の酒屋で、県内の酒蔵が作る蕎麦焼酎がやけにすっきりとした味で美味しい。僕以上に文句言いのパートナーが満足して、今回は一升瓶を買い求める。あと、その酒屋さんで頂いたブドウが美味しかったことをお店の方に伝えると、「今日もあるから」と、また別品種のブドウを頂いてしまう。なんという幸せ。るんるん気分で、「ほったらかし温泉」へと向かう。地元の人にも有名なこの温泉。ほんとによかった。(例えば以下のHP http://www.navi-city.com/yu/yu2.html

何がよかったって、夜7時頃に出かけたのだが、満点の星空と夜景を眺めながらの露天風呂なのだ。土曜の晩なので駐車場はほぼ満杯なのだが、大変儲かっているようで最近「あっちの湯」と「こっちの湯」という二カ所体制にしたため、たくさんの人が入っていても、ゆっくりつかれる。二年前、スウェーデンに滞在していた折、正月休暇に北極圏のイエリバーレに友人と共に出かけたのだが、あのときの夜景を彷彿とさせる。空気がきれいで、街灯の数が都会ほど多くなく、きらめき方が独特なのだ。ただ、極北で常勤職も決まらない不安定な時期の正月と今とでは、夜景を眺める際の心持ちが随分違うことを、湯に浸かりながら再確認する。あらためてこの二年間の激変ぶりに思いを馳せながら、今の職場への感謝と、これからせねばならない仕事の在庫整理などを、星を眺めながらぼんやりしている。昔から、お風呂に入っている際に様々な整理や踏ん切りをつけてきたタケバタにとって、露天風呂は最適なデフラグの場所。今日も気づけば一時間、ぼんやり様々なフラグメントを解消する作業に当てていた。

こんなすてきな温泉が、ショートカットの無料高速道路(西関東自動車道)を使えば自宅から15分の距離。しかも入浴料はたったの500円! 日の出の30分前から年中無休でオープンなそうなので、朝早く目覚めたら、一度ご来光を拝みに出かけよう、と思う。しかも、運が良ければ富士山も見える、とも。こりゃあ楽しみだ。お風呂で鋭気を養い、自宅でおニューのフライパンで黒酢あんかけを作り、コスパ直送の1000円赤ワイン(プロメッサ・ネグロアマーロ)も上等なお味で、大変豊かな土曜日であった。ありがたや、ありがたや。

井の中の蛙が

大海を知り、愕然としてしまった。

時は水曜の夜、3つも会議を終えた後、学科の先生方が主催される研究会での出来事。
地方分権が進む中での、市民と自治体の関係の在り方、政府の役割などについて、個々の専門の立場から論議を重ねていこう、という趣旨の会で、福祉の現場から考えてみては、とお誘いを受け、僕も参加させて頂くことになった。そこで、我が大学の先輩の先生方の研究分野やその内容について、ほぼ初めて、聴かせて頂くことになった。どの先生も結構興味深くって、ついついあれこれ質問したい衝動に駆られてしまう。それに対してタケバタは、自分自身でもまだしっくり来ない、多少分裂気味の話をして、とっちらかしてしまう。

スウェーデンのノーマライゼーションが思想法制度実体、という、ある種上からのノーマライゼーションが現場にまで浸透している。一方、日本の場合、法制度がノーマライゼーションの思想なども反映しておらず、法レベルでの不備が多いから、現場でその穴埋めをするために、個々人のネットワークが組織間ネットワークへと昇華し、その中で地方独自のサービスや制度を作り上げていく。そしてそれが全国各地に広まり、普遍性の高いものについては厚労省など国レベルでも目を付けられ、やがて法改正時に組み入れられていく。つまり日本では「下からのノーマライゼーション」が築き上げられているのだ。この際に、僕が今、障害者福祉の現実に照らして考えると、気になるのは次の二点。「下(現場)でどのようなネットワークを構築して行くべきか」という問題と、では法制度や国レベルでは現場の声を待たずとも、障害者差別禁止の法整備やノーマライゼーションなど、ちゃんと守るべき・構築すべき思想、価値、法制度は無いのか? この二つについて、考えていきたい。

ほんとは、地域レベルでは、福祉関係者と他のNPO、社会起業家、そして既存の自治会・町内会組織などとの連携の在り方について、とか、政府間関係や財源論の在り方について、だとか、キーワードは色々頭に浮かぶのだが、まだ練り切れていなくて、きちんと説明出来ない。口で言った時より、多少は書いてみた方がこなれたような気もするが、どうもまだまだ「練り不足」であることは事実だ。

その後、場を近くの飲食店に移して、議論は続いたのだが、そこで、とうとう僕の地金が出てしまう。色々質問したい、言いたい病が出てしまい、先生方の議論に随分水をさしてしまった。主催者のM先生は、笑顔で上手にフォローしてくださりながら、僕の至らぬ発言をわかりやすくまとめてくださったり、あるいは怪しい言説をそれとなく軌道修正してくださったりする。また、論旨の矛盾をそれとなく訂正してくださる先生もいる。二杯目のビールが疲れた頭と身体に回ってしどろもどろになりながら、でも「まずい、やばい、勉強が致命的に足らん・・・」という警告音がドンドン大きくなっていく。議論全体は聴いていて楽しいのだけれど、自分が決定的に文脈理解力に欠けている事実を突きつけられ、急に拡がった大海を前に、茫然自失としてしまう。なんて視野が狭かったんだ!、と。こんな気分は、院生の時以来だ・・・。

「あの時いらんことをしゃべらず、黙って聞いていたらよかったなぁ」と帰りのタクシーで考えてみるが、まあ後の祭り。それにこれまでだってタケバタの定石パターンは、とにかく口出しする自分の不勉強が明らかになり大恥をかくようやく気づいてトボトボ勉強し始める、という回路だ。まあ、今回だって、本気でこのことも一から勉強せんとまずい、というインセンティブにはなった。そう思うと、最近外部講師などもさせて頂き、ちょっと天狗になりかけていたタケバタに、「冷や水」と「大海」を知らせてくださっただけでも、この研究会に本当に感謝せねばならない。ああ、日々精進精進。

授業改革の所信表明演説

後期の授業が始まる。大学もとたんに活気づき、それと共に教員の忙しさも加速する。

昨日は一日、今日やる二コマの授業のイントロダクション作りに追われていた。前期と授業方針を変えるつもりなので、作り込むのに時間がかかる。前期の授業での反省点を踏まえ、資料の出し方や学生さんにコミットしてもらうやり方、その中身などについて、「きっちりした枠組みの中で自由に考えてもらう」という方向へと方針転換を目論んでいる。

これまで非常勤も含めて大学や専門学校で教える際は、「自分が教わった時の記憶・印象」を授業に反映させる部分が多かった。僕は大学時代もあまり授業に真面目にコミットしてなかったし、また先生方もレッセフェール(自由放任)的授業スタイルの方が多かったので、僕自身が授業をする際も、そのスタンスを基本的に踏襲していた。だが一方、大学や専門学校教師よりもキャリアが長い塾講師に置いては、それとは全く違うスタンスで臨んでいた。最近で言うとあの阿部寛演じる「ドラゴン桜」みたいに、徹底的にたたき上げる予備校英語講師だったのだ。偏差値30からの東大受験、と同じノリで、実際に高校3年の4月に中学英語も怪しかった学生さんでも、「やる気で本気になれば、偏差値の20や30くらい数ヶ月で上げる」という成果は数多く出してきた。中身は単純な話で、一番わからない底(例えば中学二年の現在完了形ならその部分)まで降りていき、そこからわかるまで教え、あとは短期間で徹底的にわかる範囲の拡大をしながら、基本例文の暗唱を含めた基礎力を徹底すれば、ドラマの姿は現実化可能なのである。もひとつ言えば、英語がそうやって変わると、他の教科でも「変えられるんだ」という自信がつき、自分自身への低いセルフイメージと低い学力の両方を数ヶ月で吹っ飛ばすことも、実際にしてきた。

そんな徹底的に学生に介入して、基礎から鍛え上げる予備校教師のタケバタも、大学や専門学校では変に遠慮して、オブラードに包んだような「優しい」授業をしていた。元教え子が大学の授業にモグリで聴講して、「先生、手ぬるいですね」と言われたこともある。その時は、まあパートタイムだし、仕方ない、と割り切っていた(もちろん予備校教師だってパートタイムには変わりなかったのだけれど)。

それが常勤でこの大学にやってきて、半年間授業をしているうちに、少しずつ考え方が変わってきた。確かに受験勉強と違い、○×で割り切れる問題を教えているわけでもない。ボランティア・NPO論も、地域福祉論も、まさに割り切れない問題だ。だから、偏差値型教育の「○×の精度を上げる」という論点と同じ伝え方は勿論出来ない。しかし、とはいえ、全く予備校教師タケバタのメソッドが大学講師として使い物にならないか、といえば、それは違う。むしろ、「徹底的に学生に介入する」「やり方や枠組みを提示して、基礎から鍛え上げる」という方法論を、大学の授業にアジャストするように一部改変しながら使うことだって出来るのだ。現に、日本とは根本的に教育スタイルが違う、と勝手に思いこんでいたアメリカの大学でも、僕が追い求めていたような教師像の延長線上で努力されている先生方が多数いる、ということがわかった(「授業をどうする!カリフォルニア大学バークレー校の授業改善のためのアイデア集」東海大学出版会)。UCバークレーの先生方だって、学生が飲み込み易いように、基礎から高度なレベルまで橋渡し出来るように、授業を必死に組み立て、そのやり方も日夜向上を目指そうと努力されている。この本に出逢って、「変に優しくする必要はない。これまでの予備校講師タケバタのやり方を、うまくアジャストさせる方法を探した方が、自分らしい授業が展開できるはず」と思い直した。

この方針転換の要点は「難しいけど、面白い」だと現時点では感じている。ある程度ハードな内容を授業時でも課すけれど、「言葉として何が言われているかわかるんだけど、結構難しいし全部は今すぐには理解できない。でも何となく面白い」という水準にどう高めて行けるか。そのために、捨てるべきなのは、「学生にわかることしか言わない、伝えない、授業内容として提供しない」という意味での「優しさ」からの脱却なのだ。全てがわかる話しかしない、というのはある種、目の前にいる学生さんを馬鹿にした内容にもなりかねない。学生さんは、何とかわかろうと努力すれば、変わるのだ。わからないけど、理解したい、と願うから、本気になって変わるのだ。その潜在的可能性に賭けて、彼ら彼女らが挫折しないでついてこられるギリギリのラインを探し、そのラインに向けて授業を組み立て、学生へのコミットも求める必要がある、と思っている。それをすれば「難しい」「大変だ」「面倒くさい」という批判は受けるかも知れない。「・・・でも、面白いよね」と、思ってもらえれば、大成功。だって、本当に面白いものって、面倒くさいしハードルも高い壁を越えるから、見えてくる世界でもあるのだから。

まあ、このように、所信表明演説は鮮やかだけれど、あとは授業の実践での実証作業が求められる。だから、勿論授業に手を抜けない。でも、この方向性なら、僕の元々持っているポテンシャルを生かす形で授業が展開できるのではないか、と感じている。なので、忙しさは増えるけれど、学生さんの満足度と、それを通じた自分自身の授業への満足度向上の為にも、いっちょ頑張ってみますか。

またやっちまった

何をって、このコラムを書き終えて、校正の段階で間違えてデータを消してしまったのです。
あーあ。至福の日曜日の、辛口カレーパンとバジルペーストとワインの見事なハーモニーについてせっかくルンルンと書いていたのに、台無しだ。まあでも根が超オプティミストのタケバタなので、「文章を書き直しなさい、という天の啓示だ」と思い直し、どうせなら全く違うことを書こうと思い立つ。

今日は、前回宣言したように、完全なる休日。仕事のメールや論文は全くせずに、午前中は二度寝もむさぼったのだが、昼からはパソコンを前に、文章を書いていた。ある本をエピローグまで読み終えた時、その著者がその本を書くきっかけとなったあるキーワードが、僕自身へのトリガーともなり、何かを伝えたい、と著者への手紙を書き始めたのだ。こんなことは初めての経験で、ワードで5枚ほど書いてみるのだが、どうもしっくりこない。彼女が取材を通じて感じ、考えたことと、僕が日本や海外での調査でこれまで考え続けて来たことの、類似点と相違点の微妙な絡みについて、絡まった糸をほぐすように少しずつ、文字にして書いていくのだが、書いても書いても、核心にたどり着けないような気がしている。でも、にもかかわらず、何かをこの著者に伝えたい、伝える文章を書きながら、自分の中でつながりかけたある想いを一つの考えとしてまとめたい、と感じている。ラブレターと同じで、想いを一気呵成に書いた文章はどうしても「独りよがり」だろうから、とにかく一晩寝かせて、明日もうちょっと考えてみよう、と思う。まだ整理しきっていないので概要だけここに書こうか、と思ったのだが、これも実際に書いて腑に落ちなかったので、消してしまった。文字通り、消化しきっていないようだ。ちょっとこの話題をすっぱり今晩は忘れ去って、体内で思考が熟成されるのを待ってみよう。

明日からは、後期授業もスタートする。僕自身の授業は明後日からだが、後期全体の戦略を練るために、明日からはフル回転の営業再開だ。しかも、10月以後は研究の成果を次々文字にしていかなければならない。過ごしやすい季節になってきたので、本腰を入れて、教育と研究にじっくり向き合う頃合いとなってきた。さて、今からのんびり風呂にでも浸かって、「あまり休めなかった夏休みの最後」を、じっくり味わおう。

今度こそ、無事にアップロードできますように。