「離脱」「発言」と「全制的施設」

週末、次の学会発表に使えそうなので、遅まきながらハーシュマンを読んだ。実にシンプルな論理だが、ステップを踏んでいく内に色々な場面で使えるロ
ジックとわかり、非常に面白い。少し、考えを整理するために、ややお勉強メモ風に書き進めていく。

「企業、その他の組織は、それらが機能する制度的枠組みがいかにうまくつくられていようと、衰退や衰弱、すなわち合理性・効率性・余剰生産エネル
ギーが徐々に喪失していく状況にいつも、そして不意にさられると考える」(ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』ミネルヴァ書房、p14)

ハーシュマンは同書の標語を「たえず生まれてくるスラック生産者がいる」としている。スラック(slack)とは「緩んだ」「たるんだ」「いい加減
な」という意味なので、どんなに合理的な組織で制度やシステムがしっかりしていても、そういう「スラック」は生まれてくる、ということだ。確かにどこの組
織だって、何らかの組織的疲労を抱えていない組織はない。

その上で、スラックに対応するオプションとして「離脱(exit)オプション」と「発言(voice)オプション」の二つがある、とする。このうち
前者は、「ある企業の製品の購入をやめたり、メンバーがある組織から離れていく場合」を、後者は「広く訴えかけることによって、自らの不満を直接表明する
場合」を、各々指している(p4)。そしてスラックなシステムに対してこれまで経済学的には「離脱」が、政治学的には「発言」が、それぞれ対処方法として
好まれたとした上で、「離脱と発言、つまりは、市場力と非市場力、経済的メカニズムと政治的メカニズムとは、文字通り対等な力と重要性を持つ二つの主役と
して導入」(p18)することにしたのが同書の肝である。

ここから「離脱」と「発言」、そして「離脱」せずに「発言」をする背景にある「忠誠」の論理を、様々な例を用いて説明していくのだが、螺旋階段を少
しずつ拡大しながら昇っていくようで、実に面白い。以下、断片的に興味深い部分を拾っていくとしよう。

「品質の変化に対し需要があまりにも非弾力的である場合、収益低下はごくわずかなものとなる。したがって、何か間違ったことが起こっているという
メッセージを企業が受け取ることがないのは明らかであろう。」(p26)
「離脱するか否かの決定は、発言の行使が効果的なものとなるかどうかの見込み次第である場合が多くなるだろう。もし発言が効果的だと顧客が十分に納得すれ
ば、彼らがそのとき、離脱を延期するのも理にかなっている。」(p40)
「離脱オプションと比較して、発言は費用がかかるうえに、顧客・メンバーが購入先の企業、所属先の組織の内部で行使できる影響力・交渉力に左右され
る。」(p43)
「離脱には、でるか否かのはっきりとした意志決定以外に何も必要でないが、発言は、その本質上、常に新たな方向に進化していく一つの技芸(アート)であ
る。」(p47)

上記を自分の関わる仕事に当てはめたら、どのような事が言えるだろうか。

例えば障害者福祉サービスで言えば、特に重度障害のある方の地域生活支援を支えるサービスは、その量が不十分である場合が多い。すると、他に選択肢
がない故に、「離脱」も出来ないだけでなく、「発言」をすることへのリスクや恐れから、そもそも何も言わずに「お世話になってるから…」と「何も言えな
い」場合も少なくない。すると、「品質の低下」に対して「需要が非弾力的」、つまり「離脱」も「発言」もしない場合、「何か間違ったことが起こっていると
いうメッセージを企業が受け取ることがない」、ゆえに、「品質の低下」を改善しようとしない、組織のスラック化が進んでいくことになる。

あるいはもう少しサービス供給の多い介護保険サービスなら、「離脱」「発言」のオプションの双方が選択されているかもしれない。現に病院選択と同
様、「でるか否かのはっきりとした意志決定以外に何も必要でない」「離脱」というオプションは、デイサービスなどでは多く使われている、という。一方、
「発言は費用がかかるうえに、顧客・メンバーが購入先の企業、所属先の組織の内部で行使できる影響力・交渉力に左右される」。つまり、「離脱」に比べて
「時間」も「交渉力という手間」(=技芸)も必要とされる。すると、「発言の行使が効果的なものとなるかどうかの見込み」がなければ、黙って「離脱」する
だろう。

ただ、この議論を「全制的施設」に当てはめると、少し事態が複雑になる。

1950年代のアメリカの精神病院でのフィールドワークを行ったゴッフマンは、精神病院における患者と職員の関係、および精神病院の構造そのもの
が、刑務所や強制収容所、僧院などといった他の施設と類似していると気づいた。そして、「アサイラム」の中で、それらの施設を総称して全制的施設
(total institution)と名付け、その特徴として、次の4つがある、と整理した。

・生活の全局面が同一場所で同一権威に従って送られる。
・構成員の日常活動の各局面が同じ扱いを受け、同じ事を一緒にするように要求されている多くの他人の面前で進行する。
・毎日の活動の全局面が整然と計画され、一つの活動はあらかじめ決められた時間に次の活動に移る
・様々の強制される活動は、当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプランにまとめ上げられている。(E・ゴッフマン
(1961=1984)『アサイラム−施設被収容者の日常世界』誠信書房、p4)

その上で、全制的施設においてはしばしば「無力化」が起こるという。

「個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常
の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろ
う。」(同上、p16)

ここからは、全制的施設においては基本的に「個人の自己が無力化される過程」がしばしば見られること。それは、上記の4つを果たす「どの全制的施設
においてもかなり標準化している」事態であること。さらには、それは「当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプラン」の
中から結果的に産み出される「スラック」の個人への投影であること、などを読み取る事が出来る。

こういう全制的施設においては基本的に「離脱」も「発言」もままならない。このような組織をハーシュマンはギャングや全体主義的政党として例示して
いる。それらの組織では、「組織が離脱に対し高い代償を支払わせることが出来る」(ハーシュマン、同上、p103)。確かに「ここしかない」と言われ続け
ていれば、「離脱」はしにくい。そういうところでは、「発言」もしにくくなる、という。

「離脱費用が高いことによって、発言の効果的手段となる離脱の脅しが取り除かれてもいるので、こうした組織(ギャングや全体主義政党)では、発言も
離脱も両方とも抑えつけることが可能となる場合が多くなる。この過程で、こうした組織は、だいたいに置いて、二つの回復メカニズムを自ら剥ぎ取ってしま
う。」(同上、p104)

「離脱の脅しが取り除かれる」組織においては、「発言」も「抑えつけることが可能」であり、「二つの回復メカニズムを自ら剥ぎ取ってしまう」。この
事態は、少なからぬ全制的施設でも当てはまると思う。これを全制的施設の利用者から見ると、「そこ以外の場所では暮らせない」という「離脱オプション」が
そもそももぎ取られ、それであるが故に「お世話になっているから」と何も「言えず」、文句があってもじっと我慢して「忠誠」のスタイルになる。すると、全
制的施設の運営者側から「扱いやすい利用者」として遇される、現実的なメリットがあるがゆえに、ますます「発言」という手段を選ばず沈黙していく。そうい
う「発言」からの「離脱」が、全制的施設では見られるような気がするのだ。

では、このような事態には何も解決策がないのだろうか。それを、ハーシュマンはラルフ・ネーダーに代表される、「消費者オンブズマン」に求める。そ
のような「消費者の発言の制度化」をする手段として、次の三つがある、と指摘している。

「一つはネーダーのように独立した、進取の気性に富んだ人によって、また一つは公的な規制機関の再活性化を通じて、そしてもう一つは、一般市民に販
売を行っている、より重要な企業の側で予防的活動が強化されることを通じて、制度化されることになるだろう。」(p46)

介護保険施設のようにある程度の選択肢がある場合は、三つ目の「企業の側」」での「予防的活動」(市場調査や目安箱、利用者満足度を測る等)を取ろ
うとする動きがあるだろう。だが、選択肢が少ない「全制的施設」の場合、「進取の気性に富んだ人」による「発言」オプションの選択や、「公的な規制機関の
再活性化」がないと、うまく機能しない。しかも、全制的施設の住人は「発言」「離脱」のオプションが「剥ぎ取」られている場合も少なくない。であるからこ
そ、外部者による全制的施設の訪問活動やオンブズマン活動といった「発言」「離脱」の支援活動が大切になってくるのであり、その制度化も大切なのである。

とまあ、こんな感じである論文ではハーシュマンの議論を使おうと考えている。これくらいでお気づきの方には「またあんた、このテーマね」と言われそ
うだけれど…。

大著に刺激された連休最終日

 

連休最終日の今日も「スーパーあずさ」の中。今日は甲府から新宿の上り列車は満席だったので、指定席を取っておいた価値があったが、帰りのこの列車は指定席も自由席もガラガラ。ならば、自由席にしておくべきだった。とはいえ、連休中の混雑具合をよくわかっていなかったので、連休中の列車は全て指定席を取る。27日から確か明日まで「あずさ回数券」は使えないのだが、その間、27日は国の会議で、29日は打ち合わせ、1日と今日5日は勉強会で、都合4回も東京に向かう日々だったので、回数券が使えないのは痛い。だって、指定席をとったら、2往復で16000円超え。ちなみに回数券は6枚綴りで16800円。細かい話で恐縮だが、でも1往復分が安くなるのは、僕にとっては大きな違い。連休中は出費多端でございました。

だが、文字通り自腹を切っても今日の勉強会は価値があった。今日の勉強会のネタは、全部で485ページある大著であり、全米障害者運動の軌跡という副題が付けられた『哀れみはいらない』(シャピロ著、現代書館)。著者のシャピロ氏はジャーナリストだけあって、広範な取材に基づきながら、インパクトのある見出しと引きつける内容で、読者をグイグイと引き込んでいく。以前のブログで我が師匠大熊一夫氏の名言「文章は省略と誇張だ」を紹介したが、まさにそのジャーナリスト魂が籠もっている大作である。この本は原作が93年、翻訳が出たのが99年と10年前の本だ。僕自身、7,8年前に読んでいて、その時も感動しながら読んだが、今回再読して、以前は全く読めていなかった事に改めて気づかされた。以前に何が読めていて、どこを読み落としていたのか、という事に触れながら、この本やそれをダシに展開された今日の勉強会の議論を振り返ってみたい。

例えば第一章からして、なかなか刺激的なタイトルである。「ちっぽけなティム、超がんばりやのかたわ、そして哀れみが終わるとき」。いきなり放送コードに引っかかる文言が飛び込んでいく。ポリオ撲滅運動に使われた「ポスターチャイルド」の障害者自身のエピソードから始まるこの章では、慈善や哀れみの対象としての障害者から、障害者像がどのように変容していったか、をインタビューやエピソード紹介を通じて掘り下げていく。その例として出された「テレソン」は、日本の某局が行っている「24時間テレビ」のモデルになったチャリティー番組である。洋の東西を問わず、スタート当初は「かわいそうな障害者」という取り上げ方をされていたが、そこから「障害を持ってもそれを克服しようとする障害者」、そして今では「障害がある人でも社会参加を」という風に取り上げ方が変わってきている。その背景に、障害者自身の固定観念との闘いや権利獲得運動が密接に結びついている、と整理してくれる。

ここからは、ネガとポジの両方の議論で盛り上がっていた。「障害者をこういう風に扱って欲しくない」という抗議運動と、でもそうすることで差別が隠蔽されてしまう、という論点である。障害のある人とのおつきあいがほとんどない人にとって、障害者のイメージは良くも悪くもテレビなどのメディアを通じての出会いになる。そこで例えば精神障害者を「わけのわからぬ殺人者」のようなステレオタイプで描くドラマがあるとすると(実際にいくつもあったのだが)、そういうイメージが強固なものになる。だが、国民的アイドル時代の酒井法子が手話を使っていたドラマによって、聴覚障害者の理解がかなり進んだ側面もある。どちらにせよ、テレビというメディアはイメージの増幅器の為、うまく使えば普及啓発に、逆方向では差別偏見に、大いに「役立つ」装置である。一方、この章のタイトルにもある「かたわ」をはじめ、障害者関連の幾つかの用語は「放送禁止用語」として登録され、実際にテレビに出てこない。このあたりは森達也の『放送禁止歌』に詳しく書かれているが、こういう「言葉狩り」をする事によって、差別が解消されるどころか、むしろ言葉を使わないことによって何となく議論を誤魔化し、差別の実態と正面から向き合わない事態が生じていることも、また、事実である。一方で、マスコミの取り上げ方次第で、「哀れみの対象」にも、「社会参加している普通の人」にも、パラリンピックの日本代表のように「一流選手」にも取り上げ可能だし、「放送禁止コード」でそもそも「無かったこと」にされる事も可能であるのだ。

実はこの研究会には障害者支援の中間組織NPOの関係者もいたので、そもそもNPOのアドボカシー側面や、そこにおける広報戦略に、議論が飛躍していく。障害者のことをもっと知って欲しい、という普及啓発をするにあたって、これまでNPOの宣伝戦略は下手くそではなかったか、と。例えばアートやメディア、広告代理店などのPR戦略のプロときっちりと障害者NPOが連携出来ていたか、と。今、NPOのパブリシティ戦略を支援するNPOも出始めているが、そういう広報や宣伝などのイメージ戦略にどれほど障害者NPOが自覚的であるか、も問われているよね、と議論が展開する。当日体調不良で不参加だった、アートにも造詣の深いHさんが、そういえばそういう視点の重要性を訴えておられたことを思い出す。このあたりは、僕自身の勉強課題でもある。

で、全章をこの感じで紹介するのは時間がかかるので、特に議論がふくらんだ章をあと1つ2つ、ご紹介する事にしよう。

4章「障害者の公民権確立に尽くした『隠れ軍隊』」では、差別禁止法である「障害を持つアメリカ人法(Americans with Disabilities Act: ADA)が90年に成立するまでに、いかに多くの障害当事者だけでなく、民主・共和双方の議員や、彼ら彼女らに説得するロビースト、弁護士などの多様なステークホルダーが動いてきたか、という事についての物語が展開される。実はこのADAの興味深い点は、共和党政権のパパブッシュ時代に、与野党の賛成多数で成立した、という点である。その際、次のような戦略がとられていたのは興味深い。話はADA以前の共和党レーガン政権時代、ADAの前身とも言われた、公共施設への障害者アクセスの義務づけをしたリハビリテーション法504条の履行を巡る闘いを巡るエピソードである。

「ブッシュ副大統領との交渉の場で保守派のレトリックを使った。障害者は自立を求めている。福祉による依存から脱却して仕事を得たがっている。行政からのパターナリスティックな援助はいらない。こう言った。(略)ブッシュの目からうろこが落ちたのは、今の障害者は従来の利益集団のように官僚を説き伏せて言いなりにさせることを求めていない、自分たちの力を付けたい(セルフ・エンパワーメント)のだと言われた時だった。」(同上、p180-181)

実はこのことは、ADAが施行後のほぼ20年間の動きをフォローした本にも、次のように書かれていた。

「アメリカの障害者権利獲得運動のレトリックの多くが、自分を恃むこと(self-reliance)や自立(independence)などの極めて保守的な用語に焦点化されているし、ADAは年々強まりつつある福祉(削減)改革を求める政治状況の中で採択された。障害者の権利獲得運動は革新的な目標を持っていたが、そこで使われたレトリックは伝統的な正当性をもって保守派に訴えかけるものが使われた。」(Bagenstos “Law and the contradictions of the disability rights movements” Yale University Press)

アメリカの障害者権利獲得運動が、ADAという形で差別禁止法を、世界に先駆けて90年に生み出す土壌に、アメリカらしい開拓者精神に適合的な「自分を恃むこと(self-reliance)や自立(independence)」というレトリックが用いられた事。それが「福祉による依存から脱却して仕事を得たがっている。行政からのパターナリスティックな援助はいらない。」という独立独歩の思想に結びつく形で展開されたこと。こういう保守派も納得するフレーズが使われた点が大きかった、というのも、読んでいて興味深い点だった。ただ、Bagenstosの本では、その後のADAの展開がうまくいかない理由として、最高裁判所がこの法律の効力を弱めた事に加えて、ADAだけでは何ともならない問題、を指摘している。このに関しては、例えばパーソナル・アシスタントや移動支援というような、職場にたどり着く前の身辺介助や移動手段の確保は福祉領域の問題であり、その部分が差別禁止法で解消されず、むしろ90年代の財政赤字と福祉削減の潮流の中でより厳しい状態に追い込まれ、障害者雇用率が格段に進まなかった事を指摘している。

おそらく、我が国に議論を引きつけるなら、障害者に対する差別を禁止する法律だけではなく、スウェーデンのように障害者への福祉サービスを権利として保障するサービス法が求められている、と整理出来るだろう。今、内閣府が設置した障がい者制度改革推進会議において、親会では差別禁止法とサービス法の双方が議論され、先月から後者の内容を集中的に議論する総合福祉法部会も設置された。僕自身、その部会の委員にも就任したので、上記の議論はとても他山の石には思えない。もちろん「自立」は大切だが、経済的自立やADLの自立以外にも、自立生活運動が提起した「自己決定・自己管理の自立」がある。この「自己決定の自立」は「行政からのパターナリスティックな援助はいらない」という議論に適合的だが、でも、それだけを言うと、自己決定や自己管理が苦手な当事者はどなるのか、という議論につながる。このことについて、以前ある教科書の中で、こんな風に整理した事がある。

「これまで自立生活運動の流れを汲んだ新しい自立観について見てきた。だが、「自己決定」にハンディのある障害者もいる。重度の知的障害や精神障害のいずれか、あるいは両方ともがある人など、「自分で決める」ということについても、不可能ではないが、多くの支援が必要だ。例えば24時間介護が必要で、かつ言語的コミュニケーションが難しい重症心身障害児(者)と呼ばれる方々の地域自立生活支援においては、その方の快不快を支援者が読みとった上で、その方の最適な生活を組み立てることが必要とされている。このような重度な障害を持っていても、その地域でその人らしい個性を持ち、尊厳を持って暮らせるように支援していく、という「個性や尊厳の自立」の支援も大切な課題である、といえる。」(竹端寛「障害者福祉の理念」『シリーズ基礎からの社会福祉 障害者福祉論』ミネルヴァ書房)

「自己決定の自立」だけが重視されると、その「自己決定」やコミュニケーションによる選択の指示が苦手だったり出来なかったり聞き取りづらい人の意見はないがしろにされるおそれはある。アメリカの障害者福祉のダークサイドは、そういう人がナーシングホームに閉じこめられていて、そこから出てこれない、という「幸・不幸の分水嶺」(第10章)がある。それは保守的な「自立」思想ともある意味結びついているADAでは解消出来ない部分でもある。そこで、「自立」の4つめの柱として、「個性や尊厳の自立」という柱を立ててみたのである。ついでにいうと、この「個性や尊厳の自立」については、北野誠一先生の議論に引き寄せながら、以下のようにも整理してみた。

「「自立生活支援モデル」について北野は「身体障害者が『やりにくい時』だけでなく、知的障害者や精神障害者が『分かりづらい』時に、支援者による障害者の個性と関心に基づいた情報提供や情報解説によって、本人の自己意志や自己選択が表明できるまで支援を活用すること」と述べている。これは、「自己決定」にハンディのある障害者への支援、という点で、「個性や尊厳の自立」と同じである、と言えよう。」(竹端、同上)

おそらく「個性や尊厳の自立」を射程に入れた際、ADAのような差別禁止の法制度でカバー出来る部分と、それとは別の福祉分野でのサービス法による支援の双方がくっつかないと、うまくいかない。「福祉からの依存の脱却」の論理だけでは生活出来ない重度障害者の事を見据えたシステム検討が強く求められている。この本を読みながら、改めてそのことを感じた。

こう書いていたら、既にいつもの文章量の倍になってしまったので、今日はこの辺で。とにかく、様々な論点を触発させられる大著だった。

内省的・生成的対話に向けて

 

最近、「対話」的環境について考えていたら、良い本に出会った。

「私たちは、すべてのステークホルダーの人間性と自分自身の人間性に目を向け、耳を傾け、心を開き、受け入れない限り、人間の複雑な問題に対する創造的な解決策を生み出すことは出来ません。創造性を発揮するには、私たちの自己のすべてを必要とします。」(アダム・カヘン『手ごわい問題は、対話で解決する』ヒューマンバリュー、p136

本のキャッチコピーに書いてあるとおり、著者カヘン氏は「アパルトヘイトを解決に導いたファシリテーター」である。そのカヘン氏が、数多くのファシリテーションの成功と失敗を眺めながら、最終的にうまくいくかどうか、は、互いが囚われから「オープンネス」になって、相手の話を「聴くこと」。自分の本当の想いや願い、本音を率直に「話すこと」。それに基づいて、参加者が内省}(reflection)の中から自分自身の囚われに気づき、新たな考えや相手の意見も共感を持って受け容れること。その共通の土台の構築が、真の問題の解決であること、を伝えてくれている。

また、オットー・シャーマー氏による聴き方の4分類も興味深い。一つ目の「ダウンローディング」とは、「自分のストーリーを支持するようなストーリーだけを聞き流す」こと。二つ目の「ディベーティング」は、討論会や法廷のように「外側から」互いの話を聴く。この二つは、「既存の考えや現実をただ単に提示し、再生しているだけで、何も新しいものを生み出」さない、とした上で、次の2つの聴き方が大切という。それは、三つ目の「内省的な対話」であり、「自分自身の声を内省的に聴き、他の人の話を共感的に聴く」こと。四つ目は、「生成的な対話」であり、「自分や他の人の内側から聴くばかりでなく、『システム全体』から聴く」ということである。(同上、p138-139)

我が身に振り返って考えてみると、自分自身が余裕もなく器の小さい、偏見や先入観に固執している時には、確かに自分に都合の良い情報のみを収集する、という意味で、「ダウンローディング」そのものだった。これがアブナイのは、どの情報を入れても、「ほら、やっぱりその通り」という妄想の肥大化に直結する聴き方である、という点である。自らの枠組みの「怪しさ」「不安定さ」「偏狭さ」に疑いの余地を持たないが故に、全く非妥協的であり、文字通り「議論の余地がない」。そういう矮小さに満ち溢れていたら、やがて一人、二人と自分の周りから人が消えていくだけである。

次の「ディベーティング」に必死になる事も、片腹痛い話だが、よくわかる。特に、「僕の方を見てよ」という自己顕示欲が強くなった時、とにかく自分に振り向かせる為に、対話の場面で、「外側から」互いの話を聴き、自らのストーリーにくっつける為に、時には大げさに批判したり、無理矢理自分に引きつけた議論をする。ディベートと同じように結論は「私は正しい」と最初から決まっているのだから、その「正しさ」に合致させるように、説き伏せ、ねじ込み、否定する。こういう聴き方は、正直言って自分自身の内面の「フラジャイル」な感受性の豊かさのかなりの部分に蓋をしたり抑圧して、一面的な自己の強化にしか適していない。だが、その戦略が成功したら、ある程度の喝采を世間から浴び、それと同時に嫌悪感も植え付ける。個人的な好き嫌いはないが、勝間和代氏の言動に「ついていけない」と感じるのは、おそらく彼女が「ディベーティング」のプロとして世に出ているからなような気がする。

で、3つ目の「内省的対話」。これは、僕自身はこのブログを開設して5年が過ぎたが、ある時期から意識し続けてきたことでもある。これは、僕がこの5年間で大きく影響を受けた内田樹氏の次の見方にもダイレクトに繋がっている。

「私たちは知性を計量するとき、その人の『真剣さ』や『情報量』や『現場経験』などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。」(「ためらいの倫理学」内田樹著、角川文庫)

「内省的」というのは、自分自身の限界にどれくらい自覚的であるか、という事に近いと思う。このブログでは繰り返し書いてきたのだが、「○○は悪い」「△△はダメだ」と批判する時、その批判をしている主体である己の「正しさ」の無謬性に無自覚である事が少なくない。You are wrong!の背後にあるI am right!の絶対性への問い。それが「自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか」につながる。そして、そういう疑いの眼差しを、他者への批判の時と同じくらいの熱心さで、自分自身にも向けることが出来る時、真に「知性的」である、という内田師の発言は、心から納得する。僕自身、このブログを書くという、ある種の自己治癒的な行為を通じて、自身の無謬性への自覚に至る流れに自覚的であったし、そのことに気づく中で、自分とは異なる立場の「他者」がなぜ、そのような発言をするか、その発言事態には否定的であっても、発言主体に対しては理解して、「そう言わざるを得ないのだなぁ」と共感的に聴けるようになってきた。

そして4つ目の「生成的な対話」。これは、自分自身がここ数年のチャレンジの中で、問われ続けている課題でもある。「自分や他の人の内側から聴くばかりでなく、『システム全体』から聴く」。このことは、本当に耳を澄ませないと、なかなか出来にくい。特定の個人であれば、仲良くなれば、先の「内省的な対話」は出来る。あるいは、ある著者との「対話」であっても、その著作をずっと読み続ける中で、「仮想的」であっても、自分自身が気づかされるという意味での「内省的対話」は出来ると思う。僕はそのことを村上春樹や池田晶子、内田樹といった「書き手」から沢山学んだ。だが、何らかの「渦」や「物語」を創り出そうとすると、個人の「内省的対話」では済まされない。まさしく「『システム全体』から聴く」ことが求められる。

山梨で障害者福祉に関する県の特別アドバイザーをして3年が立つ。その中で、ある時期から一貫して取りくみ続けたのが、「『システム全体』から聴く」ことであった。当事者、家族、支援者、市町村、県、民生委員様々なアクターの声を聴き続ける中で、個々のお立場やバイアスの限界が見え、それと同時に何となくの全体像というマッピングが、自分の中で、ボンヤリとではあるが、見えてきた。その時、時として個々のステークホルダーに反発されることがあっても、「『システム全体』から聴く」中で、必要と思われる事を選択し、取り組んできた局面もあった。なぜそう思うの、と聴かれて、理路整然とした一応の答えは準備していても、率直なところ「何となくそんな感じがするから」としか思えないで、判断した局面もあった。だが、それでもこけずに何とか展開してきたのは、多少なりとも僕自身が「『システム全体』から聴く」という姿勢を取ってきたから、のような気がする。これは、三重県の特別アドバイザーの仕事の展開でも、同様の事を感じる。

こう振り返ってみると、冒頭のカヘン氏の整理は、文字通り他人事ではなく、自分事として納得する整理だ。

「私たちは、すべてのステークホルダーの人間性と自分自身の人間性に目を向け、耳を傾け、心を開き、受け入れない限り、人間の複雑な問題に対する創造的な解決策を生み出すことは出来ません。」

そう、「耳を傾け、心を開き、受け入れ」るためには、相手と己の「人間性」に目を向ける必要がある。そして、その為にもまずは己の「人間性」のバイアスを、否定も肯定もせずに、あるがままとして認識する必要がある。そして、そのバイアスを強く意識した上で、相手のバイアスにも目を向け、それも否定せずに「あるがまま」として認識する。そうすると、思惑や立場の粉飾を取り払った、議論の流れや渦のようなものが微かにではあるが、感じられてくる。大切なのは、その渦や流れを見つけたら、躊躇せずに飛び込んで、波に乗る、ということなのだ。そういう意味でも、「創造性を発揮するには、私たちの自己のすべてを必要」というのにも、深く同意する。文字通り全身全霊をかけて自分自身を投げ込まないと、何らかの「創造性」には至らないのである。その際、自分の中での躊躇や蓋をした何か、が一番の足かせになることも少なくない。

「これらの事例に共通していたことは、自分の仕事のより大きな目的は何であったかを参加者が思い出し、さらに、なぜそれが個人、また全体にとって重要なのかを感じたり、思い出したりすることが出来たことです。そして、それは、彼らが共有するコミットメントの源となりました。困難な問題を解決するためには、共有化された新しい考え方以上のもの、共有化されたコミットメントが必要なのです。また、全体性に対する感性やそれが私たちに何を求めているのかを感じる力を磨く必要もあります。」(同上、p156-157)

問題が困難である場合、目の前の困難性にのみ目が行き、その中で己の立場の正当性と相手の不当性についての互いの議論の応酬でおわる場合が少なくない。だが、現実は、誰かが一つの絶対的正解をもっている訳ではないからこそ、解決が困難なのだ。であれば、参加者に共通する「より大きな目的は何であったか」という一歩引いた俯瞰的な視点に立ち、その俯瞰的視点から、己のすべき「コミットメント」とは何か、を気づく事が、事態打開の「渦」のコアになる。その「共有化されたコミットメント」という名の「渦」さえ出来てしまえば、あとはその「渦」の流れに耳を澄ませ、感じる力を磨く中で、その「渦」が自生し、育まれていく。時にはバックラッシュ的揺り戻しがあっても、「全体性」という名の「渦」を信じて、その流れに棹せずに載っていけば、きっと「より大きな目的」にたどり着ける。その方法論は当初予期した内容とは違っても、「渦」の共有があれば、そこから何かが創発される。そう感じている。

この渦作りは、市町村や都道府県レベルであっても、安易ではない。ましてや、国レベルに置いて、をや。介護保険制度や障害者自立支援法など、高齢者・障害者システムは、今多いに揺れている。ただ、多くの論者が疲弊的現実を前にして、「より大きな目的」を忘れてはいないか、が気になる。その上で、自身のパースペクティブを絶対化する「ダウンローディング」や、乱暴な正当化の為の「ディベーティング」に終始してはいないか、が気になる。方法論的差異を闘うより、大切なのは「より大きな目的」を実現する為の手段を構築するために、「共有化されたコミットメント」をどう生み出すか、という「内省的な対話」である。そして、それに基づいて、どういう苦しい局面でも、新たな方法論を産み出す為に連携する「生成的対話」である。この何かが生まれる「渦」にちゃんと「波乗り」出来るか、が、「手ごわい問題」を「解決」できるかどうか、に、大きく結びついている。そんなことを学んだ一冊であった。

述語的な編集能力

 

昨晩、ツイッター上で、『支援者は「黒子の専門家」たるべし』、と呟いたら多くの反応があった。今朝起きて、その反応を色々眺めながら考えていたのだが、その背景に、少し前にも書いた主語と述語の関係があるような気がする。で、僕は自分でもこのブログで何を書いたかわからなくなると、「サイト内の検索」をかけてみるのだが、今回「述語的」でひいてみると、1年前のエントリーが出てきた。何だっけ、とすっかり自分が書いた事も忘れてみてみると、こんな事が書いてあった。

木村氏は、私というものを、主語的なものと述語的なことの二つから構成される、としている。アイデンティティとか私の唯一無二性という時、それは主語としての、取り替えの効かない「もの」としての私であり、彼はそのことを「リアリティ」と呼んでいる。そして、それ以外に、リアリティを持った私が、いろいろな現場で、様々な人や出来事との「あいだ」で繰り広げられる多元的な現実は、述語的な「こと」であるという。私は同じでも、することは、その時々で違ってくる。職業人をする、家庭人をする、職業と言っても僕で言えば、研究する、教育する、実践するといった様々な「する」から成り立っている。この時々によって違う「する」の現実を、先のリアリティに対比させて「アクチュアリティ」と呼んでいる。
(「私の両義性」http://www.surume.org/column/blog/archives/2009/03/post_343.html

この木村氏というのは、「あいだ」論で有名な木村敏氏。氏の語り起こし本である『臨床哲学の知』(洋泉社)に触れて、上のように整理していた、ようだ。何せ1年前のエントリーなので、すっかり忘れていた。で、今回少し気になって当該部分を読み直してみる。するとこの述語的な自己としてのアクチュアリティについて、なかなか興味深い論が出ていた。

「主語の『私』はそこにつけられる述語がどのようなものであれ、いつも固定的な同一性に閉じこめられた『もの』だといっていいでしょう。(略)このリアリティは固定的なものですから、生命的ななまなましさには欠けています。」(木村敏、前掲、p25)
「述語という物は、判断がそこにおいて営まれる、主体的な自己という場がなければ成り立たない。その意味では、あまねく客観的に成り立っている訳ではないのです。合奏でも演劇でもそうですが、この述語的な感覚で捉えられた、いまここでその『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』、これをわたしは『述語的な自己』という言葉で表現している」(木村敏、同上、p27)

木村氏によれば、「主語的な自己」は「固定的な同一性に閉じこめられた『もの』」、一方で「述語的な自己」は、「その『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』」である、という。そしてその「主体的な場所」においては、客観的ではなく、「判断がそこにおいて営まれる」という。少し前にも書いたが、「主語的」な心性というのは、「我が我が」という「固定的な同一性」を全面展開することである。その際、周りの人々は、いくらその「我」が有名であっても、「同一性」の押しの強さに嫌になることもある。それは、「固定的な同一性に閉じこめられた『もの』」に対する嫌悪感であり、他との対話を拒否した「もの」の「生命的ななまなましさには欠け」ている事に関する違和感でもあるような気がする。

一方、「述語的な自己」とは、「『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』」である、という。「我が我が」と固定化された何かを押しつけることはないが、そこで行われている様々な「こと」を客観的に傍観するのではなく、主体的に判断しながら、その「こと」に積極的に参与していく。しかし、あくまでも「主語的な同一性」に固着化するのではなく、合奏や演劇のように、他との「あいだ」、全体との「あいだ」の文脈を読み込みながら、「生命的ななまなましさ」を一緒に創り出していく。そういう述語的心性は、こないだ引用した松岡正剛氏の考え方と、極めて近い。

「私たちは主語を強調したことで、思索の主体を獲得したように見えて、かえってそこでは編集能力を失い、むしろ述語的になっているときにすぐれて編集的なはたらきをしているはずなのである。」(松岡正剛『知の編集工学』朝日文庫 p279)

つまり、主語的な「我が我が」という事に固執すると、「かえってそこでは編集能力を失」うという。むしろ、述語的な心性でいると、アクチュアリティのある、「生命的ななまなましさ」をもった「編集的なはたらき」が可能である、という。

長く二つの論を引用したが、僕は「黒子という専門家」で言いたかったのは、支援者やソーシャルワーカーは、編集者に似ている、ということだ。あくまでも目的は対象者の魅力の最大化。その為に、黒子としてコンテキストの調整や見立てを行う。「我が我が」という「リアリティ」を編集者が強調していては、編集対象の著者や登場人物の「アクチュアリティ」は散逸する。あくまでも、目的は対象者の「アクチュアリティ」やその魅力を最大限に活かす「こと」であり、その目的遂行のための手段として、主体的に判断しながら様々な「こと」を遂行していく。この「述語的な自己」を持つ人こそ、名編集者と言われるのだ。そして、これはそのまま支援者論にもつながる。

よい支援者は、決して己の「我が我が」を強調しない。あくまでの対象者のライフ・ヒストリーをまずはじっくり読み込む。対象者の「主語」が「いま・ここ」に至までの「こと」の歴史を読み込んだ上で、困難課題となっている「こと」をどうしたら解きほぐし、「いま・ここ」ではないオルタナティブな状態を構築出来るか、を主体的に判断して、支援プログラムに落とし込んでいく。その支援の「アクチュアリティ」は、対象者の「いま・ここ」に合わせたオートクチュール的な一回性であり、あくまでも対象者の「主語」を引き立たせる為の支援者の「述語」的な編集能力に基づく「一回性」の創出である。そういう優れた「述語的(=黒子的)編集者」能力を、私がこれまで出会ってきた尊敬すべき支援者の方々は持っている、そんな風に感じるのだ。

そう考えたら、述語的な編集能力を持っている支援者には、対象者とその環境を読み解く文脈把握力というリテラシーの高さが要求される。これは、共感力と同じで、テキストには落とし込めないし学校でも教えられない「職人技」的なものではないか。支援者の質の向上の文脈で標準化・規格化の議論がされる際、僕がその議論に馴染みにくいのは、標準化された「科学的な知」からは、この「述語的編集能力」がこぼれ落ちてしまうから、である。論理的な思考能力、エビデンス・ベースドな知識の取得という標準化・規格化は前提条件で、その上で「我こそは専門家」という「リアリティ」に固執せず、対象者の魅力の最大化を目指す「アクチュアリティ」を支援者がどう持てるのか。このあたりが課題のような気がする。

省略と誇張

 

「文章は省略と誇張だ」

これは我が師匠、大熊一夫氏の名言だ。『ルポ・精神病棟』(朝日文庫)などのルポタージュで医療や福祉現場の実態にギリギリと迫る姿勢は、現在でも全く変わらない。最新刊、『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(岩波書店)は、イタリアへの長期取材をもとに、「精神病院は必要悪」という私たちの偏見を木っ端みじんに砕いてくれ、なおかつオルタナティブとしてのコミュニティメンタルヘルスの実践をエピソード豊かに紹介してくれる名著である。本業以外でも、料理の腕前も超一流で、阪大の退官記念は講演+オペラのリサイタルをするほどの本格的な歌手、男前でお洒落と、師匠に勝てるところが全くない不肖の弟子である。お陰で、料理とファッションの楽しさの入口を囓られて頂きました。

その師匠の文章論の極意が冒頭の一行につまっている。確かに新聞や週刊誌は「見出しで決まる」。いかにタイトルを魅力的で、かつ本文の内容を凝縮させたものにするか。読者の「読みたい」という心に火をつけることが出来るか、が問われている。研究者の論文は「誇張」はしてはいけないけれど、でも、どの部分を売りにするのか、をメッセージとして最前面に出すことは実に重要だ。あと、読みやすさも。ずっと内弟子のように近くでその仕事を垣間見させて頂いて、文章の推敲を何度も重ね、言葉を実に大切に扱ってこられた師匠の後ろ姿は未だに目に焼き付いている。「タケバタ君は文章が下手だねぇ」と言われながらも、真っ赤に添削してくださったお陰で、少しは読みやすさのある文章に改善された、のかもしれない。

そして、最近、件の「文章は省略と誇張だ」という名言を実感する場面が多い。それが、ツイッターである。

このブログは書きたければどれほどでも書ける。それが時として思考の散逸、寄り道、回り道に繋がることもあれば、思考のドライブがかかって書き終わる頃には見知らぬ空間に連れて行ってくれることも(たまには)ある。だが一方ツイッターは、140字という縛りがある。既に多くの識者が指摘している事だが、俳句や連歌の様に、字数制限の中でだからこそ、ワンフレーズの中にどれほどの内容を込めようか、という「省略の美学」的なものがある。また、「誇張」とまではいかなくても、効果的な表現で目を惹くことは、膨大な呟きの大海の中にあっては、時として大切である。まさに、ツイッター的な言説空間こそ「省略と誇張」がものをいう空間なのである。

それゆえ、如何に情報量を圧縮して濃厚な140字を創り出すか、に僕は今、興味がある。そういえば、これも師匠の名言として、「文章は半分くらいに縮めるとちょうどよい」というのもある。私たちは最初の草稿では冗長な文章になることは少なくない。だからこそ、出来上がった文章をドンドン刈り込んでいく中で、締まりのあるキビキビとした文章が出来る、という。半分に削るのは苛酷だが、でも2割3割刈り込んでいく作業の中で、無駄な部分がそぎ落とされるのを実感する。ツイッターでも、20~30字オーバー気味に書いてみて、その後、どの部分が不要・冗長か、を検討しながら縮減していくのは、よい練習になる。だから、あれはあれで、よい文章修行になりうる、と思う。

うちの奥さんが「ツイッターひろし」と揶揄するので、遊んでばかりいるのではありませんよ、と、ちょっぴり反論した今日のブログであった。(今日もtakebataで呟いております)

事実確認的発言と行為遂行的発言

 

オースティンの『言語と行為』を読む。内田樹氏のブログや著作で気になって随分昔から「積ん読」状態にあったのだが、過日の本棚の総入れ替えで、全面に押し出されてきた。言語運用の政治について興味を持ったのも、同書を紐解く理由になった。

(今日のブログは第一次消化のお勉強メモなので、読みづらいと思います。あらかじめ、読みにくくてすいません、と謝っておきます。)

従来の哲学は、ある発言が真か偽か、という「事実確認」の枠内で判断しようとしていたが、それは発言の対象となる命題が先にあって、それを発言内容が正しく伝えているか、を判断しようとする。だが、それとは全く逆の発言もある、というのが、この本のパラダイムシフトに関わるところだ。

「陳述を文(あるいは命題)として考えることを止め、むしろそれを、発言行為(文や命題はその発言行為から論理的に構成されたものである)として考えるようになれば、われわれはますます陳述の全体を一つの行為として研究することに近づくことになる。」(オースティン『言語と行為』大修館書店、p36)

ここから筆者は、「事実確認的発言」ではない「行為遂行的発言」を設定する。

「『行為遂行的』という名称は、『行為』(action)という名詞と共に普通に用いられる動詞『遂行する』(perform)から派生されたものである。したがてt、この名称を用いる意図は、発言を行うことがとりもなおさず、何らかの行為を遂行することであり、それは単に何ごとかを言うというだけのこととは考えられないということを明示することである。」(同上、p12)

そのうえで、発語には、次の三つのパターンがある、とする。
・意味を持つ「発語行為」
・何ごとかを言いつつある一定の力を示す「発語内行為」
・何ごとかを言うことによってある一定の効果を達成する「発語媒介行為」

しかもこの3つのパターンは、一つの文章の表明の中に含まれている。

「『私は明日来ることを約束します』という発言によって、私はまず第一に、このような文法的文章構成を行うという意味で『発語行為』を遂行し、第二に、この文を発話することによって『約束する』という『発語内行為』を遂行し、さらに、第三に、この文を実際に発言することによって、たとえば、ある状況では、聞き手を喜ばされたり、あるいは、場合によっては逆に、驚かせたりするという『発語媒介行為』を遂行することができるのである。」(坂本百大「訳者解説」同上、p328)

ある言葉を話すという「発語行為」に、その言葉が意味する内容を発語によって指し示す「発語内行為」、それからその発語から媒介されて発語対象者に何らかの事を抱かせる「発語媒介的行為」。この3つは共に、事実確認的発言ではなく、行為遂行的発言の三つの機能である。そして、行為遂行的発言をカテゴリー毎に次の5つのクラスとして分類している。

・判定宣告型価値あるいは事実に関する証拠や理由に基づき、明瞭にそれと識別される限りにおいて何らかの判定を伝えること(「分析する」「診断する」「推定する」「算定する」「認定する」)
・権限行使型一連の行為の経過に対する賛成、反対の決定、ないしその行為の経過に対する弁護を与えること(「許可する」「免職する」「警告する」「推薦する」「請願する」)
・行為拘束型それによって話し手がある一定の経過を伴う行為を行うように拘束されること(「約束する」「決断する」「同意する」「受け入れる」「提案する」)
・態度表明型他の人々の行動と運勢に対する反応という概念と、他の人物の過去の行動ないし現在行っている行動に対する態度およびその態度の表現(「陳謝する」「感謝する」「起こる」「無視する」「のるう」「祝福する」)
・言明解説型意見の開陳、議論の進行、語の用法、言及対象の明確化などに伴うさまざまな解説の行為において使用される(「肯定する」「指摘する」「指示する」「言及する」「記述する」「定義する」「解釈する」)

このうち、一番興味深いのは、最後の「言明解説型」である。その他の四類型は、価値判断や主観的な色合いが濃いため、比較的「行為遂行的発言」とわかりやすい。だが、最後の「言明解説型」は、一見すると言及対象の明確化や議論の遂行などを価値中立的に行っているようにも見える。だが、例えば「○○について言及する」という言葉にせよ、その言葉を話す「発語行為」だけでなく、その言葉が意味する○○について発語によって指し示す「発語内行為」、それからその○○への言及が媒介となって、聞き手に何らかの事を抱かせる「発語媒介的行為」が含まれている。つまり、従来は事実確認的発言と思われていたものの中に、かなりの程度、行為遂行的発言が混ざっている、ということである。

以上、回りくどい説明であったが、実は重要な意味が含まれている、と僕自身は感じている。

例えば最近ナラティブな研究が盛んであるが、聴き取った物語を編纂する書き手は、あたかも「事実確認的」な言語を用いている場合が少なくない。だが、実際のところ、物語を編集して記述する、というのは、一つの歴史観の表明であり、「行為遂行的発言」である。「本当は○○であった」と「言及する」こと(「発語行為」)は、そう発言する事によって「○○」の信憑性に真実性を持たせ(「発語内行為」)、それを読み手もそれが真実として信じる(「発語媒介的行為」)という三つがセットになるのである。○○に「明確な殺意があった/なかった」「大虐殺は○○の規模であった」などの、密室で起こった(証拠のない)事件や、あるいは確定的な資料が残っていない(あるいはそれが歴史的争点になっている)出来事を入れてみると、多くの論争が、事実確認的論争ではなく行為遂行的論争であることが見えてくる。しかも、論争の当事者が、自身の発言の行為遂行的側面を組織的にネグレクトして、事実確認的側面のみを盲信している場合、議論が全く噛み合わない。

フィクションの世界であれば、行為遂行的なストーリーという読者の含意が前提とされているから、問題は少ない。だが、ノンフィクションや論文の類の中でも、事実確認的なフォーマットで語りながら、行為遂行的発言で満ちている事も多い。さらにたちが悪いのは、これが事実だ、という論証スタイルで、行為遂行的発言を「事実認定」して、歴史を書き換えていこう、という例が、少なからず見られる、という事だ。

所詮、世の中は「共同幻想」であるのかもしれない。でも、その「幻想」の中にある、事実確認的発言と行為遂行的発言を、少なくとも僕自身は峻別して、聞いたり書いたりしたい。今日のこのブログもそのような「発言内行為」に基づいて、未来の自分の「行為拘束型」言明になればよいのだが

スイッチの転換点

 

朝日が実に気持ちいい甲府である。

一昨日、ゼミの学生達とインド料理屋に出かけ、ナンを食べ過ぎたようで、体重増加と胃もたれを併発し、昨日は朝・昼とも食べずに水分補給だけで過ごした。すると、72キロ台に。夕食はチキンステーキにルッコラのサラダ、それからワインにアテのチーズ、とたらふく食べても、今朝計ったら72キロ台は変わらず。ちょうど低炭水化物ダイエットを始めて3ヶ月。当初体重が80.8キロだったから、三ヶ月で7,8キロ減、とは自分でもなかなか優秀だと思う。

そして、ダイエットという方法を通じて、色んな新しい発見があるのが、面白い。ちょうど一ヶ月前にこのブログに引用したガンディーの発言を、一昨日実体験していた。

「私はたくさん食べます、消化不良になります、医者のところへ行くと、錠剤をくれます。私は治ります。またたくさん食べて、また錠剤をもらいます。こうなったのは薬のせいです。もし錠剤を使わないとしたら、消化不良の罰を受け、二度と過食しないようにしたでしょう。医者が間に入ってきて、過食を助けてくれたのでした。それで身体は楽になりましたが、心は弱くなってしまいました。このようにして最後には、心をまったく抑えられないような状態になってしまいました。」(ガーンディー、『真の独立への道』岩波文庫、p78)

インドつながり、ではないが、ゼミの飲み会で、酒を抜いたのもあって、焼きたてのナンを「今日はいいよね」とパクパク食べる。飲み放題なのに学生達がビールやウィスキーといった単価の高いものを注文しないので、やさしい「マハール」の店員さんは、マンゴーラッシーと追加サラダを無料で追加してくださった。ただでさえボリュームが多い「マハール」なのに、さらに量が多くなり、美味しいからついついパクパク。そういう循環の果てに、帰宅後、お腹がはち切れんばかりに、久しぶりに苦しかったのだ。

そこで、ふとガンディーの先の名言を思い出した。そう、以前はこういう時にはパンあたりを飲んで、苦しさをすっと紛らわせていたよな、と。「呑む前に飲む」というCMも、そういう風潮を煽っているよな、と。すると、「食い過ぎた」という身体からのシグナルを薬で掻き消す事によって、身体からのシグナルをドンドン読み解けないモードに編成されていったのかな、と。ガンディーは「心は弱くなってしまいました」と言っているが、この「弱さ」とは、身体からのシグナルから耳を塞ぐことと、自己コントロールが可能だという幻想の肥大化の双方を生み出しているのではないか、と。そして、この自己コントロール幻想は、やがて「強いられた自己決定」につながりはしないか、と。

ちょうどこないだの福祉政策の講義で優勢思想について取り上げた。その際、出生前診断の話にも及んだ。障害を持つ子が生まれると胎児の段階から分かった時、あなたらどうしますか? その問いかけに、多くの学生達が困惑していた。診断は受けない、受けても産む、あるいは受けたら出産は躊躇するかもしれない。実はこの議論には、「強いられた自己決定」の議論がまとわりついている。診断を受ける事も自己決定、産む・産まないも自己決定。そして、その結果責任も自己決定。しかし、障害があるから不幸な子供になる、というのは、社会の支援の不備であるにも関わらず、そんなスティグマを内面化して判断する事自体、実は「障害は不幸だ」という一元的価値観に縛られた、「強いられた自己決定」の側面はないか、と。

この「強いられた自己決定」の論理は、先の「自己コントロール幻想」ともつながる。飲み過ぎたって食べ過ぎたって、薬を飲めばOK。この論理は確かに楽なコントロール方法である。何せ、自分自身の行動を自分で律することがなくとも、薬という他者がコントロールしてくれるし、しかもそれは「自己コントロール」であるという「幻想」を結果的に抱かせてくれる。だが、実際のところ、それは「薬への依存」を強いる風潮をもたらし、ついには「心をまったく抑えられないような状態」に陥れる可能性もある。そしてさらに言えば、その依存的なマインドになれば、薬物依存症の経験を持つ倉田めばさんの言う、「薬物依存者が薬物をやめると依存が残る」という状態とも地続きになっている。
http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020417-1.html

医学そのものを否定している訳ではない。が、胃薬は、文字通り毒にも薬にもなる。身体のシグナルを、「食べ過ぎだ」「苦しい」といった辛さも含めて、聞き取れる間、向き合える間は向き合って、どうしようもない時に補助的な、最終手段として薬を活用する間は、まだ「薬」でいられる。だが、安易に薬に依存して、それを使えば苦しさなんて大丈夫、というマインドを形成する中で、「心をまったく抑えられないような状態」に転がりこんでいく場合、いつしか「薬」は「毒」の機能を持つ。そして、その「毒」は、自らの依存的な現実を、自己決定だから仕方ない、自分が悪い、と内面化して「強いられた自己決定」を強化する機能をも持ちうる

昨日、朝昼と抜きながら、ボンヤリと「強いられた自己決定」や「依存」のスイッチが見えた。そして、自分が一旦あちら側に傾き欠けていたのだな、とこちら側から眺めている自分にもまた、気づいた。

可動領域を拡げるために

 

最近どうもゴリゴリとした文章はブログに、身辺雑記的なものはツイッターに、と使い分けている(ちなみにアドレスはtakebataです)。ツイッターも初めて1ヶ月半くらいだが、徐々に使い方も覚えて、いろんなマスコミ外情報なんかを横目で見ながら、たまに乙な言葉に連歌のように下の句的コメントをつけて返したり、して遊んでいる。話半分で読んでいても、マスコミが報じない事が多すぎる、と実感しつつある今日この頃。

でも、今日は天気も良いし、久しぶりの土日連続のお休みなので、たまにはブログも身辺雑記。140字では、書ききれないしね。

今日は午前中、色々な予約やら注文やらを片づけ、昼食後、ようやく靴をおろす。9年前に師匠と調査の帰りに出かけたミラノで買った黒の革靴は、格好は良いのだが、小指は痛いし、トウの部分の装飾が一部めくれていた。なので、10日ほど前に出かけた御殿場アウトレットで、以前から目をつけていたグレンスコッチの革靴を安くゲットする。ただ、磨いて防水スプレーをかける時間がなくて、なかなかおろせなかった。ちなみに御殿場ではポロのスプリングコートもゲットしたのだが、こちらは先週以来の寒波でこんなに大活躍するとは思わなかった。翌日の神戸出張だけでなく、今週は寒かったので、三重の出張でも「持っててよかった」と実感。

そしてその後は、ぐちゃぐちゃの部屋の中の整理。負のエネルギーが溜まりまくっているようだったので、とりあえず机の上と本棚だけは何とかしたい、と着手。松岡正剛氏は半年に一度、徹底的に本棚の並びを変える、と言っていたのを思い出し、僕も試しにやってみる。ジャンル別、というより、意味連関での並べ替えをしていたら、奥からわんさと「積ん読本」が顔を出す。買った割に、全然読んでくれていないよ、という多くの書籍の訴えに「イテテ」と思いながら、並べ直す。確かに読んでおりません。すいません。興味関心が移ろいゆき、挙げ句毎晩飲んでいるのでなかなかなんて言い訳をしながら、でもちょっとまずいなぁ、とも。

こないだからツイッター仲間となったある先生は、「積ん読本」を「リファレンスの為です」と言い切っておられたが、歴史系の先生だから、それもあり。僕の場合、特に家の書棚からは小説とか新書とか、書評や雑学的興味関心で買ったハードカバーの類がわんさか出てくるのだ。「パスカル的省察」「取り替え子」「ブルー・セーター」「高慢と偏見」「心はなぜ不自由か」「交易する人間」色んなジャンルの良書が、未読のまま、ざくざく出てくる。その一方で、アマゾンで今月もジャンジャカ注文し、旅先の大型書店で強迫観念的に買い込む自分が一方でいる。読まなければただのゴミ、だ。本とのつきあいは、ほんと、考えなければならない。

ただ、この春はだいぶ志向性・嗜好性が変わりつつあり、一方で、様々なジャンルにジャンプして読書体験を拡げたい、とウズウズしている自分もいる。なので、やっぱり注文してしまう。せめて出来ることは、サクサク読んで、買うスピードを緩めることくらい。いやはや、気をつけなければ。

で、ここしばらく、芸事の導師になってくださった道楽者の件の先生から、CDをごっそり借りる。前回はサンソン・フランソワのショパンやドビュッシー、ラベルのピアノ曲集と落語。今回の第二弾は、宗教音楽特集と昭和の名人落語選の続き。移動中の車内でフランソワ先生を聞き出したら、やみつきになってしまった。なんというエレガント。今までグールドやペレイラ、アルゲリッチなど硬質ではっきりとした弾き手が好きだったので、ルービンシュタインでも柔らかい演奏に感じていた。だが、サンソン・フランソワのエレガントさは、その比ではない。思わずボックスをまたアマゾンで注文してしまい、ついでにアルゲリッチの管弦楽のボックスも注文してしまう。アマゾンの戦略にはまりすぎ、である。あ、カザルスのボックスも手にしてしまいました

かように自己投資していることについて、若干の言い訳をすると、今、自分自身の様々な部分での可動領域を拡げている、のだと実感する。今までは本業以外のことには割と禁欲的であろう、としていた。故に、気になるジャンルの本も、買ってはみるのだが、耽溺してはいけない、と自制していたのである。まだ1Q84を「積ん読」しているのも、そのせい。だが、本業関連の仕事が加速度的に増える中で、「積ん読」していたり、「そのうち」と言っているうちに、いつのまにか月日が過ぎ去り、結果的にご縁がないまま終わる可能性がある、というシンプルかつ重大な事実に気付き始めた。ならば、忙しくても、いや忙しいからこそ、読みたい本を読み、聞きたい音楽を聞いていないとバランスがとれない、と感じ始めている。このことは、昨年11月、入試のお仕事で泊まった静岡の本屋で買った次の本から教えてもらった。

「『業務内』のことがらが、上記のように、あまりにも機微に触れる(=ヤバすぎる)ことがらの連続で、それを書くことができなかったので、まるでそれを埋め合わせるかのように、敢えて『業務外』のことだけに絞って書き綴っていたのだ。今、読み返してみて思うのは、不思議なことに、『業務外』の記述に『業務内』のことがらがしっかりと反映されているのである。あるいは、もっと直裁的に、共振(シンクロナイズ)していることがある。」(金平茂紀『報道局業務外日誌』青林工藝舎、p3

彼は昔のニュース23のディレクターで、今はニューヨーク支局のTBS記者。昔からお顔と名前を一方的にテレビで見て知っていた記者さんだったが、彼の報道局長時代の「業務外」日誌は、以前ブログにも書いたが、かなりインスパイアされた。そう、忙しい事を言い訳にせず、むしろ業務内の内容がディープになる時期ほど、業務外の豊かさも追求しないと、バランスが崩れて、身が持たない、と。で、「業務外」の彼の志向性からもかなり学んだのだが、今これを書くために彼のブログにたどり着いて、ちゃんと「業務内」でも一級のジャーナリストをしておられる事を再確認。僕もお気に入りブログにいれようっと。
http://www.the-journal.jp/contents/ny_kanehira/

さて、回り道うねうねとしてきたが、先ほどの「可動領域を拡げる」話。本業が忙しいからこそ、本業以外の「業務外」での自分の可能性を試したり高めたりしないと、ただの「仕事中毒」になってしまう。そう、バランスを取るためにも、「業務外の豊かさ」は必須なのだ。ま、こうやって自己暗示をかけないと方向転換がなかなか出来ない自分の不器用さが、一番の問題なのかも知れないが。しかし、机も綺麗になったことだし、5時半からは「業務外」の最大の楽しみであり、ここ一年で身体の可動領域を少しは拡げてくれた、合気道も始まるし。今日は素敵な「業務外」の一日であった。

3つの論に共通する思想

 

最近、はっきり理由がわからないが、何だか松岡正剛氏の本を読み直したくなっていた。ちくまプリマーブックスの『多読術』を読み直したが、それがどんぴしゃり、ではない。やはり筆者の主著を、と思って、『知の編集工学』をネットの古本(ハードカバー)で注文する。届いて読み始めようと思ってふと書架を眺めて、愕然。なんと、朝日文庫から出ている同書を、ちゃんと読んでいるのである。奥付を見ると2005年と書かれているので、もう5年前だろうか。今回、読み始めて、以前引かなかった部分に赤線を引きまくっている自分がいて、ビックリ。それと共に、なぜ今自分が松岡氏の著作を読みたくなっているのか、がよくわかった。それは、己のパラダイムシフトと関連がある。

同書の中で松岡氏は、編集方法を<編纂>と<編集>の二つに分けて整理している。そのうち<編纂>は英語のcompileに相当するものであり、「概念や事項を一対一的に対応させるもの」であり、その例として「事典や辞書の編纂」を挙げている。一方、<編集>はeditに相当し、「編纂よりもずっと自由に要約したり適合させたり類推したりする、幅広い方法をいう」(p197)。また編集工学は「もともと分類的編纂性よりも形容的編集性を重視している」(p277)とした上で、次のように指摘している。

「私たちは主語を強調したことで、思索の主体を獲得したように見えて、かえってそこでは編集能力を失い、むしろ述語的になっているときにすぐれて編集的なはたらきをしているはずなのである。」(p279)

以前読んだときに何にも線を引いていなかった所を見ると、以前の僕は、このことの重要性に気づいていなかったのだろう。だが、今の僕にとって、この部分にはありありとしたアクチュアリティを感じる。そう、「我が我が」と言っている間は、「思索の主体を獲得したように見えて、かえってそこでは編集能力を失い」、狭隘な自己認識の歪みを絶対化しようとする。だが、その主語へのこだわりから間合いをとって、「我が我が」という前に、「どうなっているのか?」という、目の前で行われている事態の述語的展開に目を向けてみると、その述語の流れの中で、何をどう「要約したり適合させたり類推したりする」ことが出来るか、という編集可能性が見えてくる。その編集可能性を筆者は、エディトリアリティと名付けている。その上で、述語的なるものの展開を次のように表現している。

「物語というもの、縮めて言えば5W1Hをくりかえす出来事の連鎖なのだから、その出来事の連鎖に関するいくつかのダイナミック・モデルをつくり、そのモデルに従って情報編集が進むようにすればよい。」(p295)

「出来事の連鎖」としての「物語」の本質は、主語の連鎖より述語の連鎖にある。しかも、その述語の連鎖に関しては、「情報編集」が可能である、という。この際、僕が念頭においている物語の範疇には、個々の支援現場で行われているナラティブな何か、は当然のこと、政策形成過程における物語性も強く意識している。新しい何か、を産み出そうという場面で、「我が我が」と言っている人は、だいたいアテにされなかったり、使い物にならなかったりする。そういう何かを創発する場面においては、具体的な5W1Hの問いを通じて、何をすることで、その目標とする何かを創発出来るか、という述語的心性が問われる。そして、そういう述語的心性の持ち主同士のコラボレーションや、その過程で述語的心性への共感が拡がる事を通じて、物語の渦が段々大きく、具体的に、形を現しながら自己展開していく。そのプロセスを経て、新しい何か、が立ち上がっていく。

そういう情報編集のプロセスこそ、「物語」の本質である、としみじみ感じる。そう考えていくと、「編集とは『関係の発見』をすることなのだ」(p329)という筆者の意図は、よりクリアになってくる。「5W1Hをくりかえす出来事の連鎖」の中で、新たな「関係の発見」を連鎖させていくこと。それが物語編集の本質、なのである。そして、この視点は、この本を読む前に読んだ本と、この本を読んだ後に読んだ本、の2冊をつなげてくれる「物語」ともなった。

ひとつは、以前にもご紹介した安冨歩氏の論考だ。彼は複雑系理論の叡智を社会科学にも応用し、従来のPDCAサイクルに代表される操作主義的な計画制御(線形的制御)の図式では複雑な世の中の連関の輪を変えていくことが出来ない、として「やわらかな制御」を提唱している。この制御は「すでにそこにあるさまざまのものごとを相互に接続し、新しい流れを創り出し、そこに価値を生じさせる」「共生的価値創出」を目標としている(安冨歩『複雑さを生きる-やわらかな制御』岩波書店p108)。つまり、「コミュニケーションのコンテキストを創り出し、新しいコミュニケーションの連鎖を創り出すこと」(同上、p138)をこの制御は目的としている。

この「コミュニケーションのコンテキストの創発」やその連鎖こそ、松岡氏の言う「物語編集」そのものである。そう考えたら、<編纂>はロジカルな線形性に馴染みやすい「計画制御」として、<編集>は複雑な世の中の連関の輪を変えていく「やわらかな制御」と捉えることも出来る。そして、この二つの違いは、安冨氏の文献で知って買い求めた『参加型開発』(斉藤文彦編、日本評論社)の中で、安冨氏が引用された論者とは別の論者によって紹介されている内容とも重なった。

ブルーナーの言う「論理実証モード」と「物語モード」の二つのモードを援用した久保田賢一氏は、「論理実証モード」を「世界で起きる様々な事象を計測、測定しようとする」ものであり、「物語モード」では、「一人一人の人間の生き方を語る日常生活の中に人生の意味を見つけ出していこうとする」ものであるとする。そして、途上国の開発援助のコンテキストにおいて、二つのモードにおけるワーカーの実態を次のように整理している。

「論理実証モードでは、開発プロジェクトもワーカーもその地域について調べる前にすでに一連の解決方法がパッケージ化されてきた。しかしながら、このような開発プロジェクトがうまく機能しなかったことは、説明するまでもない。それでは物語モードにおける開発ワーカーはどのように振る舞うのであろうか。個々のコミュニティーの状況は異なり、それぞれの問題状況を一般化しても意味がない。それよりも、地域のおかれている文脈の中で人びととともに理論を構築していくことが必要となる。そのためには、内省的実践が求められる。内省的実践とは、『計画を立てる』、『実践する』、『評価する』という三つの行為を、コミュニティーの『いま・ここ』の状況の中で繰り返し行うことである。(略) つまり内省的実践とは、開発ワーカーとコミュニティの人びととで共同で現状を変革していく、実践と内省を何度も繰り返す過程そのものをさす。」(久木田賢一「西アフリカでの開発ワーカーの実践」『参加型開発』p88-89)

この「論理実証モード」とは。<編纂>や「計画制御」と親和性が高い。一方、「物語モード」とは、<編集>や「やわらかな制御」と親和性が高い。というよりも、この3つの本は、基本的に同じチューンを別の語彙を用いて表現しているだけなような気がする。編集工学の創始者と経済学者、国際協力の専門家が、別の切り口から見つけた、同種の視点の捉え直し。「計画制御」による外部者による概念整理の機械的当てはめが、いかにローカルな知の現状を根無し草的にしているか。そして、その根無し草的現実を超えるためには、ローカルな知の叡智に耳を傾け、そこで展開されている物語を編集しながら、「コミュニティーの『いま・ここ』の状況の中で」「実践と内省」という編集作業を繰り返しし続けることが重要である、ということ。そのプロセスの中から、「すでにそこにあるさまざまのものごとを相互に接続し、新しい流れを創り出し、そこに価値を生じさせる」「共生的価値創出」が生まれ、それが新たな「物語」となること。そんなことが見えてくる。

こう考えていくと、今関わっている現場で、どのような「物語」の渦が産み出されてくるのか、が改めて気になる。山梨でも三重でも、計画制御的発想ではなく、なるべく現場のローカルな知をブリコラージュ的に使い倒し、「ずっと自由に要約したり適合させたり類推したりする、幅広い方法」としての「編集」に邁進してきた。というか、それ以外、方法論が僕には見つからなかったので、やみくもに「編集」しまくってきた。チューニングがあわなかった時には、つまりは僕の<編集>が「地域のおかれている文脈」にそぐわなかった時は、まだ多分に「我が我が」モードだったのだろう、と思う。だが、やがて地域のお顔や関係性といった多くの「主語」が見える中で、己の主語性は後景化し、述語的心性としての黒子的編集者のモードに転換してきた。そして、そういう述語的展開の中で、ある一定の物語の構築が、微々たるものであっても、進んできたのだと思う。そういう、生成しつつある渦のベクトルを大切にしながら、新たな渦をどう作り込んでいくか。このあたりを考えるためにも、今一度、「編集」や「やわらかな制御」、そして「物語モード」の意義とその重要性を、しっかと認識したい。

「ヴォイス」への道程

 

ヴォイスについて、気になっている。たまたま同時期に読んでいた二冊の本にそれが指摘されていたからであり、また自分の今の主題でもあるからだ。

「ヴォイスとは、文体やテーマではなく、それを凌駕する自分では選択できない、宿命的にとらわれてしまっているもののことです。歌手で言えば声質ですよね。アレンジが変わっても、メロディーが変わっても、歌詞が変わっても変わらない声質みたいなものがやっぱりある。表現する人には、そういう指紋のようなものがあると思うんです。」(川上未映子『六つの星星』文藝春秋 p92

彼女の一冊目のエッセイ(『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』)を読んで、随分切れる同年代だなぁ、と興味を持っていたが、まだ大人気小説『ヘヴン』は手に取れていない。小説は苦手、というより、読み出したらなりふり構わず止まらなくなるので、自省している禁欲的な自分がいる、と改めて思う。受験生時代の貧しい心性を未だに身体化しているようで、少し悲しい。『1Q84』だって、Book3がもうじき出るのに、まだ読んでいない。今週こそ読んでみよう。ワクワク。

で、もとに戻ると「声質」という「宿命」について、それを「指紋」と表現しているのが面白い。確かに他の誰でもない、その人固有の何か。メロディーやアレンジ、歌詞がどうであれ、ちょっと聴いただけで「あ、あの人だ」とわかる「声質」。高校生から予備校生時代にかけて、中島みゆきにディープにはまっていた頃、コアなファンの友人にカセットテープ!にダビングしてもらい、その当時世に出ていた中島みゆきの楽曲の殆どを聞き込んでいた。その中で感じるのは、確かに歌い方は色々変えても、「かもめはかもめ」「中島みゆきは中島みゆき」なのである。ちなみに「かもめはかもめ」の歌も、研ナオコに楽曲提供しているが、もとは中島みゆきの歌。工藤静香に提供した「慟哭」も含めて、中島みゆきが歌うと、全部が中島みゆきワールドに当然なってしまう。そういう自家薬籠中能力、のようなものがすごく高い歌い手である。

で、今まではそれを聞き手として勝手に消費し、似非批評している立場だったので、気楽だった。だが、文章を書く、表現する側になりつつある自分としては、このヴォイスの問題は、他人事として批判ばかりしていられない。自分の喉元に突き刺さるからである。先の村上春樹氏の話に触れながら、ヴォイスについて書いている本をもう一冊、最近読んだ。

「村上春樹さんも書いていたけれど、作家の条件というのは、自分のヴォイスが見つかるかどうかにかかっている。自分のヴォイスを探しあてたら、あとは無限に書ける。ヴォイスというのは、なんとも他に言いようがないんですけども、語法、口調、ピッチ、語彙、語感などが全部含まれていると思うんです。そのヴォイスを見出すと、言葉が流れるように出てくる。ヴォイスが見つからないと、何を語っても、どこかでつっかえてしまう。あるいは、出来合いのストックフレーズを繰り返す以上のことができない。ヴォイスで語ると、たとえばほとんどがストックフレーズでできている文章を書いても、そこにまったく違う、何か活き活きとしたものが感じられる。」(内田樹・釈徹宗『現代霊性論』講談社p272

最近大流行の哲学者の内田さんと僧侶の釈さんの対談集。僕は、内田樹さんの本は出たらすぐに買う、割とコアと自認するファンなので、今回も楽しみに読んでいた。で、彼は別の作品やブログのエッセイでも何度かこのヴォイスの問題を取り上げているのだけれど、改めて川上未映子さんの語りと重ねてみると面白い。誰しも「指紋」を持っているが、その「指紋」である「ヴォイス」が「探しあて」られるかどうか、「みつかるかどうか」が「作家の条件」というのは、極めて示唆的だ。ちなみに余談になるが、内田樹という恐ろしくプロダクティブな作家がなぜあれほど本を短期間で出しているのか、の理由に、内田氏の独特の『ヴォイス』がある、と僕は深く感じる。

僕は、ある時期まで、何も考えることなく、あるヴォイスの片鱗のようなものを持っていた。それをミニコミ誌に書かせて頂いていたりして、少しずつ育んでいた。だが、ちょうど大学院生のある時期に、様々なトラブルを引き起こし、巻き込まれ、一旦ヴォイスも含めた自分自身のコアな信頼の部分が損なわれる経験をする。そのころから、生のままのヴォイスを出してはいけないんだ、と禁欲的になり、また運悪くちょうどその後に博論を各時期と重なった事もあり、「アカデミックでなければならない」と縛りをきつくし、ヴォイスを封印した。査読論文に通らないのは文体より論証力や編集力、論理性の欠如、なのだけれど、それを文体ゆえと思って、変なゴリゴリの文体に変えようとする自分が居た。

そして、大学に就職した6年前から、このブログを開設する。当時はおずおずと、であったが、ちょっとずつ文章を頼まれもしないのに書き出したのは、自己顕示欲、というより、後付的解釈で振り返るなら、自分のヴォイスを取り戻す試みだったような気がする。ネット上の空間で、多少は他人に見られている、と意識しながら、しかし自分の内面と向き合いながら、色んな本を引用しながら、自分のヴォイスを「探しあて」ようとする旅路。小さい頃からニュース中毒だった故に、自分の頭の中には「ストックフレーズ」にまみれている。その煤を払い、あるいは「ストックフレーズ」を自分なりにパラフレーズするためにも、文章修行をする場。それが、このブログだったのだと思う。

そして最近、少なくともブログに関しては、「言葉が流れるように出てくる」「ヴォイスを見出」したような気がする。そして、今自分の関心は、それを論文や他の原稿でも、ちゃんと活かせるか、という課題である。ちょうど昨日がとある学会発表の予定稿の〆切日だった。一旦書き上げた内容が、まだ「アカデミックでなければ」という囚われから抜け出せず、本当に僕でしか伝えられない何か、が書かれていない、と引っかかっていた。それは何だろう、と考えあぐねている中で、「ヴォイス」を思い出したのである。そう、僕にしか語れない「ヴォイス」であり「指紋」。先行研究を知ったかぶりして引用するより、きちんと「ヴォイス」に向き合いながら、必要な研究を参照しながら、something newを紡ぎ出していく営み。それなら、自己欺瞞に陥らずに出来るし、自分なりに楽しく取り組めそうだ。そんな「ヴォイス」を、ようやく「見つける」ことが出来そうな、そんな分水嶺に差し掛かっている。