私は誰?(増補版)

 

変なエントリーで、すいません。

実は、この春、当スルメHPをブログを除いて閉鎖したのでありますが、その際、自己紹介ページも省いてしまいました。なので、たまたま覗かれた方は、いったい誰だよ、とお考えかも知れません。じきに最低限の自己紹介を掲載する予定ですが、名無しであれこれ無責任に書くのはいやなので、とりあえず最低限のご挨拶を。

タケバタと申します。大学教員をしております。くわしくは、こちらを。

で、こういう自己紹介、つまり「私は誰か」を規定するにあたって、実に興味深い二つのブログ記事を拝読した。

ひとつはたまに引用させて頂く、大阪のとみたさんのここ何回かのブログ。中途半端な研究者の姿勢を鋭く斬っていく筆力にいつも自分の身を切られる思いをしながらも、欠かさずに読ませて頂いているのだが、気がつけば己のブログがまな板にのっておりました。で、そのまな板のうえで、もう一つの調理材料にされていたのが、こちらはお会いしたことは無いのだが、ブログを拝読させて頂いているlessorさんの記事。とみたさんが「まな板」に載せられたことを受けて、大変興味深いことを書いておられる。普段、一方的な読者のつもりだったブログに自分の書いた何かが載っけられていると、何だかこそばゆい。

このなかで、lessorさんが私の紹介を、「スルメコラムの作者さん(過去に名乗っておられたこともあったと思いますが、一応伏せときます)」と書かれて頂いたので、一応、最初に名を名乗ってみたのだ。ただ、この自己規定の段階で、先にご紹介したお二人のブログから、大きく問いかけられている(と自分で勝手に議論を引き継いでしまう)。「あんたは、誰なん?何してくれんのん?」(いや、こんなガラのわるい言い方は、私しかしないでしょうね

とみたさんは、福祉現場の要役をしながら、研究者としての視点もきっちりお持ちなので、こういう視点で問いかけられる。

「私の中では、現場から求められる研究者像というのを実はいまだに捨てきれず、模索し続けている。
 いわゆる基礎的研究=現場に即にはやくにはたたないけれども、絶対に必要となる研究。(実は社会福祉にはこれがとても少ない と思っている)
 と、もう一つは、現場の実践を吸い上げて、現場とは違う視点で切ってくれる研究。
 いまの研究は、現場の紹介でしかない なんていうと、また叱られるだろうが、中途半端だと思う。」
「事件は現場で起きているんだ!」 では・・・

片腹痛し、とはこのこと。自分自身がここ数年、疑問に感じ、また自分自身がそうなのではないか、と反省してきたのは、この「中途半端」さである。とみたさんの分類で、価値ある研究をしている方を障害者福祉の分野で考えてみると、前者の代表格としては立岩真也氏などが、後者の代表格としては北野誠一氏や、我が師、大熊一夫氏、大熊由紀子氏などが思い浮かぶ。で、この対比をしながら、立岩氏が大熊一夫氏に関して、実に興味深いことを書いていたことを思い出した。

「さて「学者」は何をするか。大熊は前記のインタヴューで、学者の作品は「味も素っ気もないものになっている。つまらない文章ばかりだし、こんな研究して何で障害者のためになっているのかわからないようなものばかり目立つ。」と言う。そうかもしれない。
 もちろん、統計的な調査がこうしたルポルタージュと並存し互いに補って意味があることはあるだろう。では、前回取り上げたゴッフマンの著作のような質的調査、フィールドワーク、エスノグラフィー、エスノメソドロジー、などど呼ばれたりするものはどうだろう。私は、ジャーナリズムの作品とこれらの間になにが違うというほどはっきりした違いはないし、またある必要もないと考える。ただ、大熊の批判を肯定しながら居直るような妙な言い方になってしまうのだが、衝撃・感動・・・をとりあえず与えなくてもよいという自由が「研究」にはあって、それがうまくいった場合には利点になるとも思っている。」
(立岩真也「大熊一夫の本

私は大学院時代、前述の二人の師から、そして最近ではアメリカ調査にご一緒させて頂く北野さんからも、「障害者のためになっているのか」という視点を徹底的にたたき込まれた。だが、「障害者のためにな」る議論を本質的に掘りさげていくと、「現場の実践を吸い上げて、現場とは違う視点で切ってくれる」という事の深みと難しさに突き当たる。それは、フィールドワークやエスノグラフィーの「まがいもの」は、下手をしたら「現場の紹介でしかない」ものになるからだ。そしてそういう「研究」は、「ジャーナリズムの作品とこれらの間になにが違うというほどはっきりした違いはない」だけでなく、すぐれた「ジャーナリズムの作品」よりも遙かにレベルの低いものになってしまうのである。そういえば、こないだ「にわか読書」をしたブルデューもこう書いていた。

「一部のエスノメソトロジー研究者達は、一次経験を記述するだけで満足しており、そうした経験を可能にしている社会的条件、すなわち社会構造と思考構造との一致、世界の客観的構造とその構造を把握している認知構造との一致について自問することがありません。したがってこの研究者たちは、現実の現実性(実在性)について、もっとも伝統的な哲学のもっとも伝統的な問いかけを繰り返す以上のことは何もしていないのです。」(ブルデュー「リフレクシヴ・ソシオロジーの実践」ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブソシオロジーに向けて』藤原書店 p301

このブルデューのいう「一次経験を記述するだけで満足しており」という事態に対して、とみたさんは同じ点から、次のように書いている。

「人類学的な調査手法がひろがり、参与観察や質的調査法がいろいろな場面で利用されるようになった。しかし研究者が研究の方法として使うときいくら参与観察者として現場にいても、その人は現場の人ではない。その逆もしかり。こんなあたりまえのことが当たり前になっていない気もする。」(「事件は現場で起きている」では 研究者は?

もちろん参与観察や人類学的手法そのものが問題、というのではない。方法論の中途半端な理解と応用が、百害あって一利無し、の可能性となっているのだ。この点、エスノグラフィーの大家、佐藤郁哉氏も、次のように警告している。

「ご都合主義的引用型、天下り式のキーワード偏重型、要因関連図型の場合には、いずれも一般的・抽象的な概念の世界に重きをおくあまり、対象となった人々の意味を読み取っていく作業がおろそかになってしまったものだと言える。また、これらの場合は、対象者たちの思いや考え方に対する研究自身のコミットメントは非常に浅いものになるため、研究者個人の体験や思いが研究者コミュニティと対象者たちの意味世界を媒介する上で果たす役割は、非常に小さなものとなる。
 それとは逆に(略)、ディテール偏重型と引用過多型およびたたき上げ式のキーワード偏重型の場合には、対象者たちの個別具体的な意味の世界に対する研究者のコミットメントは、やや過剰気味のものとなっている。その結果として、対象者達の言葉や行為の意味を一般的・抽象的な学問の言葉へと翻訳していく作業は、中途半端なままにとどまってしまうことになる。」(佐藤郁哉『質的データ分析法』新曜社、p28-29)

佐藤氏は「現場の言葉」と「理論の言葉」の「文化の翻訳」こそが、質的研究の成否を裏付ける最大の鍵だ、と主張している。さきにご紹介した現場のお二人は、「理論の言葉」にも精通しながら、「現場の言葉」の世界に生きる、「翻訳者的存在」であるからこそ、中途半端な研究(翻訳になっていない駄作)に憤っておられるのではないだろうか。次のlessorさんの指摘に、そのあたりが端的に表れている、と僕は感じる。

「研究者が中途半端に現場に入り、現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足するぐらいならば、「現場のものの見方」に擦り寄ろうとするのではなく、徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すことで見えてくるものに期待をかけたほうがずっと有意義だと思う。」(現場と学問の距離

このlessorさんの言う「「研究者としてのものの見方」を押し通すことで見えてくるもの」という指摘こそ、ブルデューの「そうした経験を可能にしている社会的条件、すなわち社会構造と思考構造との一致、世界の客観的構造とその構造を把握している認知構造との一致について自問」と重なってくるし、佐藤氏の言う「現場の言葉」を「研究の言葉」へ翻訳する作業なのだと思う。そして、それこそとみたさんの言う「現場とは違う視点で切ってくれる研究」であり、そうした研究は、「衝撃・感動・・・をとりあえず与えなくてもよいという自由が「研究」にはあって、それがうまくいった場合」となる。繰り返して言うが、「うまくい」かない研究は、衝撃も感動も、そして「現場とは違う視点」もない、「既に自明視されているようなことをさも自分が発見した」「自己満足」にしかすぎないのである。

こううねうね書いてきて、ようやくタイトルに突き当たる。(よく大阪のMさんに、もう少し短くなんないかなか、とお叱りを受けるが、本当に長い

「私は誰なのか?」

誰、というのは個人タケバタという意味で指しているのではない。そうではなくて、研究者という肩書きを標榜して、糊口を凌がせていただいている者として、そう名乗るだけの充分な視点や力量を兼ね備えた誰か、になりえているか、という問いである。「一次経験を記述するだけで満足して」いないか、「徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すこと」が出来ているか、その上で、「こんな研究して何で障害者のためになっているのかわからないようなもの」でごまかしてない、誰かになれているか、である。

もし、研究者という立ち位置で、それが出来ないのであれば、とみたさんやlessorさんのような優れた「翻訳者」が大学で教えられた方が、よほど福祉政策に実りある展開となる。lessorさんは謙遜されて、「現場のプレイヤーとして研究を深めることに徹する研究者もまた存在してよいはずなのだ」と仰っておられるが、「よい」だけでなく、むしろそういう本物の「翻訳者的研究者」こそ、今の中途半端な社会福祉学界の閉塞性を切り開く役割をして頂けるのであろう。

で、だからこそ、タイトルの問いが、もう一度胸に突き刺さる。

僕自身は、誰なんだ? 「現場のプレイヤーとして研究を深めることに徹する研究者」と対比しても、多少なりとも役立てる何かがあるのか。本当に研究者などと名乗っていいのか。

鋭いお二人の分析から、崖っぷちでしがみついている自分自身が見えてくる。

参与的客観化

 

連休の最終日に、以前からしたかったファイルメーカーによる研究メモの構築がようやく完成。で、その第一号として、こないだ読んだブルデューの著作を読み返しながら、抜き書きとバタメモ、という形で30弱ほどメモしていく。そして、その最後の「抜き書き」を前に、考え込んでしまった。

「社会学者とその対象のあいだの関係を客観化することは、今のケースからはっきりわかるように社会学者がその対象に思い入れをする(投資する)という、対象への「利害=関心」の根源の傾向を断ち切るために必要な条件です。ゲームの中にいて他のプレイヤーに対して抱くことのできる、単純な、還元主義的で一面的な見方ではなくて、ゲームからリタイアしているがゆえに把握することのできる、ゲーム全体についての包括的な見方という意味での客観化がおこなえるためには、対象に介入する目的で科学(社会学)を利用する誘惑をあらかじめ捨てていなければなりません。社会学の社会学、そして社会学者についての社会学だけが、科学的目的を直接追求することを通じてねらえるような社会的目標をある意味でコントロール出来るのです。参与的客観化は、社会学の技法のうちでおそらく最高の形式です。この客観化は、参加という事実の中に刻み込まれた客観化のもたらす利益をできるだけ完全に客観化し、その利益とそれがもたらすあらゆる表現とを停止させることを足場としなければ、わずかでも達成する見込みはありません。」(ブルデュー「リフレクシヴ・ソシオロジーの実践」ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブソシオロジーに向けて』藤原書店 p318-319

この「参与的客観化」が、現時点で一番難しい。なぜなら、現時点で僕自身、「対象に思い入れをする(投資する)」行為に突入していないか、と言われたら、多いにしている自分を発見してしまったからである。つまり、ある種のゲームプレーヤーになっているから、「単純な、還元主義的で一面的な見方」に終わってしまうのだ。この間、アドバイザーや様々な現地調査で失敗した多くの事例は、いつの間にか自分がゲームプレーヤーになる愚を犯すが故の問題である。彼の言葉が、グッと胸に刺さって痛い。

恥ずかしながら、少し前まで自分自身が、世の中の為になるのならプレーヤーでないと、という「単純な、還元主義的で一面的な見方」に終始していた。しかし、それなら研究者をやめ、実践家なり政治家なり、プレイヤーに転向する必要がある。実際、前回のブログで紹介した西水さんは世界銀行における実践家に転向したし、熊本県知事の蒲島郁夫氏は、政治を「参与的客観化」する立場から、文字通りのプレイヤーに転向した。そういう生き方もある。

ただ、現時点での僕は転向していない。その段階で、「プレイヤー気取り」をしても、実は真のプレイヤーではないのである。なのに、プレイヤーのように「科学的目的を直接追求する」行いそのものが、実は問題があり、誤った結論を導くだけなのだ。この位相のズレの無理解がもたらす行為の失敗の構図に、今ようやく、少しずつ気がつき始めた。遅すぎる、というおしかりを受けそうだが

「ゲームからリタイアしている」というか、プレイヤー気取りでも、実は本当は現時点ではプレイヤーではないのである。であれば、その立ち位置をきちんとわきまえてゲームを眺める「がゆえに把握することのできる、ゲーム全体についての包括的な見方という意味での客観化がおこなえる」のである。そして、それはプレイヤーでないからこそ出来る、ゲーム全体への貢献なのかもしれない。

色々な現場に、今年度も関わる。だが、その現場への関わりが、プレイヤーとしてなのか、参与的客観化が求められる研究者としてなのか、で、そこから出てくるアウトプットが大きく異なる。連休以後、いよいよ本格化する今年度の関わりに対して、「参加という事実の中に刻み込まれた客観化のもたらす利益をできるだけ完全に客観化し、その利益とそれがもたらすあらゆる表現とを停止させること」がどれだけ出来るか。

隘路を抜けられるかどうか、の瀬戸際である。

風通しの良さ

 

この連休はどこにも出かける予定はない。こないだのアメリカ調査で調べたことの一部をある雑誌で報告する事になり、その原稿書きに休みを使うことに。そんな半分仕事モードの連休初日、ジムに行く途中の本屋で偶然出会った一冊から、実に多くのことを気づかされ、学ぶことが出来た。

「国家指導者が本腰を入れて貧困と戦えば、十五年で『半減』どころか、貧しさを知らぬ世の中さえ無茶ではない。それでも、貧困削減が世界各国の首脳を賛同させる課題になったことを、素直には喜べなかった。動機が気に入らなかったからだ。(略)
 カネや情報、そのうえ企業まで国籍や国境などおかまいなしになった今日、先進国が抱える二十一世紀の課題は、移民問題につきる。地球人口の過半数を占める途上国との格差をなんとかせねば、空恐ろしいことになるというのが、北の本音だと見た。一方、途上国の権力者の多くは、国連宣言により政治的に動く安易な援助が増大し、よりいっそう甘い汁を吸うことを期待する。南北の私利私欲が合致するからこそ『ミレニアム宣言』なのだと考えた。
 政治家や官僚は、民衆の悩みや苦しみを肌で感じることが不得意だ。どん底の生活にあえぐ貧民のことなど、数字と頭でとらえていればましなほうだろう。先進国でも途上国でも違いはなく、我が国も例外ではない。」(西水美恵子『国をつくるという仕事』英治出版、p220-221)

抑制の効いたピリリと辛口な文章。しかし、単に批評家の辛口ではない。世界銀行の責任者(最後には副総裁)として、一貫して援助対象現場の、特に貧困でマージナルな地域に通い続ける中でこそ「数字と頭」を超えた生の「民衆の悩みや苦しみを肌で感じる」体験を積み重ねてきた。そのリアリティから、どんな「権力者」とも一歩も引かずに是々非々の戦いを続けてきた「闘士」だからこそ、政策の背景にある「動機が気に入らなかった」のである。

不勉強な私は、この本を読んで初めて世界銀行の役割の重要性をもよくわかった。そして、彼女がその世界銀行のミッションを実に真っ当に果たそうとしていることも。

「世界銀行グループは加盟国国民の『共済組合』だと知る人は意外に少ない。市場から好条件で借りる力のない『組合員』に、いろいろな形で長期復興開発資金を用立てるのが本命。(略)
 気が遠くなるほど長い融資だ。今日生まれた乳飲み子が社会人となるまで国体が持続するかを見極めなければならない。その確率判断をもとに貸倒引当金を計上し、準備金高を決定するのだから、真剣勝負。(略)
 初めは、恐ろしい大責任だと考え込んでしまった。悩み抜いた末、国体持続の判断は、歴史的観点を踏まえたうえで、国民と国家指導者の信頼関係を感じ取るしかないと思った。だから、草の根を歩き巡り、貧村やスラム街にホームステイをし、体を耳にするのが仕事なのだと決めた。そそてい、その判断をもとに良い改革への正の外圧となることが、世銀のリスク管理と営業の真髄だと考えた。」(同上、p31-32

世界銀行の「本命」である融資に必要な「確率判断」という「真剣勝負」をするために、悩み抜いた末、その真剣勝負には「国民と国家指導者の信頼関係を感じ取るしかない」と考える。国民の本音に向き合い、「体を耳にするのが仕事なのだと決めた」。そして「良い改革への正の外圧となること」を「真髄と考えた」。

さらりと書かれているが、ここに込められた意味合いは実に深い。プリンストン大学助教授の職を辞して着いた新たな職場で、「加盟国国民の『共済組合』」という意味合いを徹底的に「悩み抜いた」。だからこそ「草の根を歩き巡り、貧村やスラム街にホームステイをし、体を耳にするのが仕事」という原則に辿り着いた。そして、副総裁になってもこの原則を守り抜き、アジアの各地で文字通り「草の根を歩き巡り」続けた。そして、そこで援助対象になる当事者の思いや願いを肌で感じ続けたからこそ、大統領や軍のトップが相手であっても、誰かさんと違って文字通り「恐れず、怯まず」、正しさを貫くことが出来た。

彼女の様々な国での、草の根への目線は本当に温かい。解説の田坂広志氏が「自分の姿を見る」「共感」の姿勢で彼女が臨んで来たからだ、と指摘しているが、まさに彼女はどの国でも対象国の貧困削減や貧村の幸福を「自分事」として願っている。だからこそ、現地の人に教えられ、だからこそ、怯まない力が備わる。そんな彼女の「正しい」行いは、権力者だけでなく、多くの現場の人びとやジャーナリスト、官僚や政治家をも動かす。

こういう、声なき声に耳を傾け、そこで語られた社会的弱者の声に基づく「正しい行動」を積み重ねる彼女の文章には、お仕着せがましさや不遜な部分が感じられない。個人のエゴや主張ではない、普遍性のあるロゴスが言霊となって、風通しの良さとして文体にも表れている。読み手も読んでいて、実に気持ちが良い。そしてその普遍的な魂に触れて、己の中にも気持ちの良い風がサーッと流れ込んでくる。

今、自分の「現場」で、自分のミッションを「悩み抜い」て考え詰めているか。「自分の姿を見る」ことから、「共感」に基づいた、真っ当な仕事が出来ているか。読みすすめる中で文字通り、襟を正したくなる一冊だった。自分に出来ることは何だろう。そう、改めて考え直した。

お知らせ

 

業務連絡的なお知らせです。
来月、うちの大学で、山梨と三重で行ってきたタケバタの仕事を、少し整理してお話しするチャンスをいただきました。今井先生のご発表も興味津々です。資料代が1000円かかりますが、よろしければお越し下さいませ。

ローカル・ガバナンス学会第5回研究会のご案内
日 時 : 平成21年5月23日(土)14時00分~17時00分
場 所 : 山梨学院クリスタルタワー6階講義室
当日の研究会内容
テーマ :「地域医療を考える公立病院問題を中心に
報告者 : 今井 久(山梨学院大学現代ビジネス学部長、同学部教授)
コメンテーター : 若尾直子(山梨まんまくらぶ代表)
コーディネーター :外川伸一(山梨学院大学法学部教授)
テーマ :「自治体福祉政策の現状と課題」
報告者 : 竹端 寛(山梨学院大学法学部准教授)
コメンテーター : 内藤豊春(山梨県福祉保健部障害福祉課課長補佐)
コーディネーター :丸山正次(山梨学院大学法学部教授)

http://www.ygu.ac.jp/logos/guide.html

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竹端報告:障害福祉政策を題材に、自治体福祉政策の展開における課題と政府間関係の問題について考えたいと思います。報告者は、平成18年度から山梨県の障害者相談支援体制整備特別事業「特別アドバイザー」として、28市町村を訪問すると共に、市町村や圏域毎のローカル・ガバナンスの仕組みである「地域自立支援協議会」作りを行ってきました。また、県自立支援協議会座長として、県と市町村のより良い関係作りのお手伝いもしてきました。この実践報告の後、特別アドバイザーの関わりは県や市町村にどのような影響を与えたのか、見えてきた課題は何か、等を山梨県障害福祉課の内藤豊春氏からコメントを頂き、その後、フロアとの質疑応答・討論を行います。
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二つのロゴス

 

土曜日、久しぶりにお会いしたMさんから、「タケバタ君、やせた?」と嬉しいお声かけ。いえ、体重は変動はありません。でも、ここ数ヶ月、毎朝の腹筋を続けているせいで、ポッこりお腹が引き締まったのであります。いやはや、継続は力なり。

で、そのMさんとお会いしたのが、大学院時代に博論へと導いてくださった指導教官「ゆきこさん」が主催された「えにしの会」。別の研究会で泣く泣く1回欠席した以外は、毎回参加し、様々なことを学ばせて頂いている。今回、この会の前後で二冊の「えにし」を頂いた。

一つが、当日のシンポジウムにも登壇された権丈善一氏。以前から氏の社会保障に関するスタンスや研究から沢山学ばせて頂いていて、生ケンジョウ先生を見れるのを楽しみにしていた。話の枕に、「忙しい研究者、というのは本来論理矛盾だ」と仰っておられたが、しかし社会保障審議会の委員もしていて、著作も多く、挙げ句の果てに当日の講演は事前に原稿を作ってそれをネットでアップまでしている。議論は精密なのに、仕事が速い。こういうキレの良さは100年経っても学習出来なくても、本当に爪のあかを煎じて飲ませて頂きたいくらいだ。

で、内容はリンクを張った講演原稿を参考にして頂くことにして、権丈氏の論理の鮮やかさは、例えばこの日の副題である「足りないのはアイデアではなく財源である」といったワンフレーズの名言にも如実に表れている。この名言に関しては、行きの予習に読んだ彼の最新刊でも、審議会での発言として、次のような決め台詞が載せられていた。

「日本は小さすぎる福祉国家、低負担・低福祉国家と呼んでもよいと思います。だから、医療・介護も崩壊しているのだし、少子高齢化は手つかずのまま何十年も放置されてきたのです。この低負担・低福祉国家を中負担・中福祉国家にするということは、負担が増えるのみならず、しっかりとした社会保障の確立も国民に約束できる話になります。」(権丈善一『社会保障の政策転換』慶應義塾大学出版会、p71)

今、日本の政治家で、ここまで論理性と説得力を持って言い切れる人間がどれだけいるだろう。いや、研究者だってそうだ。エビデンスと論理的確かさにしっかり裏打ちされた上で、あるべき姿を明快に論じる。しかも彼の中では財源問題は、「しっかりとした社会保障の確立も国民に約束できる」という目標のための、あくまでも方法論上の課題として提示されている。こういう社会保障学者の議論には、素直にうなずける。

方法論としての財源問題、と言えば、自立支援法成立以前からずっと、介護保険との統合、1割負担という定率負担の是非を巡る議論が続いてきた。この際、障害福祉の分野に1割負担を導入する論者が必ず言っていたのは「介護保険に統合すれば財源が安定するし持続可能になる」「応能負担では低所得の障害者は殆どタダでサービスを使うことになり、サービスの乱用に繋がる。権利としてのサービスは、お金を払えば確立出来る」というロジックであった。

しかし、これって「今の目の前ですぐに使える道具を使って財源不足を解決するには、この案しかないよね」という目先の議論にしかすぎない。真の問題は、介護保険に統合すれば障害者福祉は薔薇色だ、という「アイデア」にあるのではなく、足りないのは介護・福祉に投入される「財源である」、というシンプルな俯瞰図に、ミクロな目の前しか見えていないと、ついつい気づかない。気がつけば意図的に作り上げられた(=偏りのある)ロジックに踊らされる。権丈先生の本を読み、実際の話を伺っていて、当たり前の話だが、物事を鵜呑みにせず、自分の頭できっちり確かめる大切さを、改めて感じた。

そして、この自立支援法の応益負担に関しては、次の名言をふと思い出す。

「応益負担は「{無実の罪で収監された}刑務所からの保釈金」の徴収に等しい」

自立支援法が審議された社会保障審議会の席で、この歴史的名言を述べた盲ろう者で初めての東大教授、福島智氏。土曜日は、氏を4年以上取材し、膨大なインタビューや周辺取材を基に出来上がったルポタージュ『ゆびさきの宇宙-福島智・盲ろうを生きて』(生井久美子著、岩波書店)が、ちょうどこの会の開催に合わせて出版され、販売されていた。著者の生井さんから直接サインをしてもらい、ルンルンと帰りの列車で読み始めたら、面白くて深くて、一気に読んでしまう。ご本人は謙遜されて

「著者は生井久美子になっていますが、私『も』、本づくりの一員に加えてもらったというのが、ありのままの気持ちです。」(同上、p256)

と書かれているが、まさに福島氏と二人三脚で、「この世にいま、『福島智』という人が生きていること」の凄さと不思議さ、面白さやその他色々なものを一冊の中に込めている。福祉分野のルポとしては、アメリカ障害者運動の歴史を追った大作『哀れみはいらない』(シャピロ著、現代書館)とはテイストが違うけど、面白さと深さで言えばあの名著と並ぶ、ここ最近で読んだ本の中でも最も良かった一冊だ。そして、生井さんの丹念な取材を通じて見えてきた「福島智」という身体から出てくる言葉を読み進めるうちに、僕が知っている別の世界へと気がつけばつながっていた。

「人間が存在する『意味がある』とするなら、その意味は、まさにその存在自体にすでに内包されているのではないか。もしそうなら、障害の有無や、人種、男女など個人のさまざまな属性の違いなどほとんど無意味なほど、私たちの存在はそれ自体で完結した価値を持っている。
でも、私たちは日常的な問題につきあたり、現実的な課題にとりくむとき、ついそのことを忘れてしまいがちです。
人間の存在がそれ自体に秘めた、生きているという最高度の『目的』よりも、ある個人が具有する能力や特性などの『手段』の方をより重視してしまう傾向があるのではないか。さまざまな現実的な問題にぶつかったとき、私たちにとって最大の、そして最重要の仕事が『生きること』そのものにあるという原点に立ち返りたいと思います」(前掲、p190-191)

手段と目的の転倒の認識、これは権丈氏が掴んでいた宇宙観と通じるものであり、哲学の巫女を自称する池田晶子氏がしばしば述べた「相対的な自分を超えた、誰にでも正しい本当の言葉」として、心の内奥にズバッと迫ってくる。そして、この宇宙観について、福島さんと生井さんの協働作業の中から、こんな言葉が紡ぎ出される。

「『盲ろう者の状態』が宇宙空間のようなものだとすれば、この私の生きている状態は、自分の存在の意味を考えさせられる状態なんです。たとえば、夜空を見上げた時、有史以前からおそらく無数の人間が自然に対する畏怖の念とともに、自らの生の意味を漠然とでも考えてきたと思います。『盲ろう』の状態は、もちろん本物の宇宙空間とは違いますが、それを想像させる面がある。いわば、『認識のプラネタリウム』を経験するとでもいうのでしょうか」(同上、p192)

池田晶子氏が、哲学的思索を通じて得た『認識のプラネタリウム』という内面宇宙に、福島氏は18歳で盲ろうになり、期せずして放り込まれてしまった。だが真っ当に考え続ける中で、『完結した価値』に気づいた。その『完結した価値』つまりは「宇宙」に気づいたからこそ、そこから反射され、福島智という身体を通じて伝わってくる言葉は、個人某の主義主張を超えた、普遍的なロゴスとしてストンと心の中に入ってくる。

神格化や絶対化するつもりは毛頭ないが、権丈氏にしても、福島氏にしても、論理的に考え抜いた末に、個人の思惑を超えたロゴスとして伝えてくださると、私たちは深く頷き、心揺さぶられる。そんな事を感じた週末であった。

縦穴を掘る

 

丸二日、のんびり出来た。こういう時間を忘れていた。

当たり前の土日が、いつの間にか当たり前ではなくなっていた。仕事の整理も出来、好きな本をルンルン読み進め、JAの直売所で春真っ盛りの野菜を買い込み、夜は酒盛り。調子にのって酒を飲み過ぎた一点が響いて、今日は少し気持ち悪い。唯一の汚点だ。ビールをコップに一杯、ワインはボトル半分、が分岐点で、ここは超えてはいけない一線だ、としみじみわかる。20代でもないのだし、こういう次の日に残すのは、それこそもったいない。

で、週末読書では多くの発見があった。

一つは沢木耕太郎の「旅する力」(新潮社)。月並みな言い方だが、彼の「深夜特急」を読んで海外に憧れた者の一人として、あのシリーズを書いていた沢木氏の回顧録的なエッセーが面白くない訳がない。同時に、あるライターが、自分らしいスタイルを獲得するための試行錯誤の記録、としても、読み応えがある。ここしばらく、自分が身につけつつあるスタイルを自覚化しつつある僕にとって、スタイルを巡った思考に引きつけられてしまう部分が強いのだ。

で、スタイルと言えば、一気に読んでしまった池田晶子氏の「魂とは」(トランスビュー)にも惹きつけられた。実はこの本は昔、法蔵館から出た「魂を考える」の大幅増補版である。著者は2年前に亡くなっているのだが、遺稿をもとに、この春3冊も本が出る、というのは、著作全てを愛読している人間にとって、嬉しい限り。しかも、この前書いたように、以前読んだはずなのに、ほとんどそのテイストは覚えていないだけでなく、今回、前回と全く違う読みをしていることがわかる。「え、そんなことを書いていたんだ」という部分を、いかに前の自分は読み飛ばしていたことか。よく言えばこの10年間でのリテラシーが少し上がった、ということだし、正直に言えば、自分のアホさ加減が丸わかり、である。

この大幅増補版で、今回新たに増補された部分に、今の問題意識と大変重なる所をみつけた。

「横軸でものを語るっていうのは、事実ではなく、価値を語っているんだと思います。たとえば、ある主義をかざす人は自分の主義を正義だという。ほかの主義をかざす人は、ほかの正義を主張する。だけれども、『正義』というこの言葉の意味自体を考えようとは決してしない。彼らが語っているのは、事実ではなく、どこまでも自分の価値観なんです。」(前掲、p218)

片腹痛くなりつつ、まさにその通り、と頷く。少なくとも今はそうではないと思いたいが、ちょっと前までは、僕自身も「横軸でものを語る」ことしか出来なかったからだ。で、その横軸と対称的に、「事実」や「言葉の意味自体を考える」ことを指して、彼女は「縦」に考える、という。別のところで、その縦軸での見方をこんな風に述べている。

「古典が古典たり得るのは、それらが自分を主張することなく真実を述べているからである。だからこそ後世の他人が読んでも、『自分を読んでいる』という感じになる得るのである。真実よりも先に自分を主張するものは偽物だから、遅かれ早かれ、歴史から姿を消す。やはり、どの時代の人も、他人のエゴよりも自分の真実に触れたいと思うものだからである。」(前掲、p226)

確かに、池田晶子氏の本にはまっていても、それは池田晶子氏の考え方、というよりも、「哲学の巫女」を自称する彼女を通じ、『自分を読んでいる』から、面白いのだ。しかも、この文章も初出は10年前の文書だが、決して古びていないし、「古典」として残っている。大学院生の時、世間を賑わせたある思想が嫌いで、その分野の専門家の先生に「そういう風潮ってオカシイと思う」と息巻いた際、その先生は「放っておけばいい」と喝破しておられた事を思い出す。なるほど、その先生は「真実よりも先に自分を主張するものは偽物だから、遅かれ早かれ、歴史から姿を消す」という真理の眼で喝破しておられたのだ、と今頃になって気づく。

そして、文章を書く仕事を少しずつさせて頂くようになった自分自身に、今、この刃が突き刺さっている。僕の書く文章は、「他人のエゴよりも自分の真実に触れ」られるような、真実への探求という深みがあるだろうか。「真実よりも先に自分を主張する」「偽物」になっていないだろうか。あるいは、「真実」の探求という縦軸の井戸を掘るのにつかれて、安直な横軸(=主張)を「真実」らしく「偽装」してはいないか。

「偽装食品」は食の安全を脅かす。同じように「偽装言論」は言論への信頼を脅かす。事実、言論に力がないのは、今に始まったことではない。だが、他人はどうであれ、自分自身は「偽装」する安直さに逃げたくない。それが、沢木氏が獲得したスタイルに通じる何か、だと思う。

こう書いていると、頭の中もスッキリすると共に、ようやく酒も抜けてきた。さて、今週も頑張ろうっと。

バトンをつなぐ

 

春になると、様々な方が配属変えや転勤、退職など移動していく。

私の周りでも、これまで一緒のチームを組んできた方が移動になったり、退職されたり、色々な変化が起こっている。率直に言えば、気心知れてきた方々と離れるのは、心情的に、寂しい。

だが、仕事として、システムとして運用を続けていくためには、そういう「寂しさ」とは別次元で、きちんと持続可能な形で引き継げるか、が最大の焦点になる。「その人がいなくなればオシマイ」の仕組みであれば、それは個人事業であり、システムではないからだ。これは大学院生の時から、私がずっとテーマにしていることでもある。

精神科のソーシャルワーカーに「半ば弟子入り」する中で、一人職の現場で、職人芸的に、地域作りを一人でコツコツ積み上げて来られた「名人」に多く出会うことがあった。彼ら、彼女らは、多くの仲間を作り、地域の社会資源を作りながらも、独特のスタンスで、独自の地域展開を続けてきた。多くの利用者から本当に慕われていて、その「職人」は時間外など気にせずに、その世界を作り上げるのに没頭している。ただ、その方の事を語る利用者が、ある時こんな風に呟いたのが、すごく気になった。

○○さんにすごくお世話になっているし…○○さんがいなくなったら、この地域はもうオシマイやな」

これは、○○さんへの敬意や好意に基づいた感情的な発言である。もちろん、○○さんがいなくても、実際その地域が「オシマイ」になることはない。ただ、経験的にみて、その地域のキーパーソンが退職したり、移動することで、その地域のネットワークや活動がグッと落ちる、という事は充分ありうる。この「地域」を「組織」「経営者」「上司」に言い換えたら、あまたのビジネス本でいつも言われている話と通じる。甲斐の武田信玄公は「人は石垣、人は城」と仰ったが、確かに「人」が、その地域なり、組織なり、ネットワークなりをつなぐ要、である。

いくらシステムを作り上げても、そこに魂が籠もらなければ、形骸化する。どこの世界でも、形骸化されたシステムの弊害に悩まされる人は沢山いる。その際、やっぱり「人」でしょ、という言葉はよく聞くフレーズだ。ただ、この際の「人」が、属人的なもの、だけなのか、というと違うような気がする。固有の「○○さん」がいなくなれば、本当に「オシマイ」なのか。それは、「○○さん」がどのような仕組みを作り上げてきたのか、にもよるのだ。

確かに一人職の現場で無から有を作り上げるには、突き抜けた個性が必要だ。ある種の尋常的ではないエネルギーがあるからこそ、何もなかったところに、ゼロから何かが構築されていく。ベンチャー企業に象徴されるように、創設期は、まさにカリスマがいるからこそ、一個人が始めたことが、コンセンサスを得て、一定の形なり企業体になっていくのだ。

ただ、ここで大切なのは、ある程度の形が出来てくると、人に属さない、継承されるべき「型」が必要になってくる。一人で全部を統治できないから、委任することも必要だ。ベンチャー企業で仲間だけでやっていた事でも、組織体にすると、新たに人を雇い、上司部下の関係を整備し、俸給体系も作り上げる。それらは皆、何らかの「型」である。で、この「型」を作る際、作り手の「魂」が埋め込まれた「型」として継承されるか、単に形骸化した「型」として受け止められるか、で、その仕組みが大きくかわる。それが、ベンチャー企業や老舗や大手として残れるかどうか、の鍵だし、福祉組織だって続くかどうか、の瀬戸際にこの問題がある。端的に言えば、作り上げたミッションが死なずに生き続けるかどうか、である。

以前、研究者として第三者的に眺めていた時、その魂の継承が大切だ、というのはわかっても、では具体的にどうすれば、ということまで想いも至らなかった。だが、気がつけば、第三者ではなく、わりあい当事者的な立場で、その継承場面に立ち会うことが増えてきた。その際、ある方が非常に興味深いことを言っていた。

「全部を型にしてしまってはマニュアルになる。そうではなくて、引き継いだ人が自分で考え、作り出せるような、遊びのある緩やかな継承が大切ではないか」

この「引き継いだ人が自分で考え、作り出せる」環境作り。このフレーズは、すごく私自身も気に入っている。そう、私自身が、まったく自分で改良する余地のないものを渡されたら、絶対につまらないからである。誰だって、自分がその業務の「オーナー」を引き継いだなら、自分の考えや色を入れたい。それが、前任者の色に染まっていて、常に前の色と今の色を対比されたらたまらない。そんな「手あかまみれ」のものは、さわりづらい。とはいえ、無から有を作り上げたものであればあるほど、固有の色は削ぎようもなく付いてしまっている。

以前の私なら、その色を守ることが、そのオリジナリティを守ることだ、と思いこんでいた。だが、それは違うとようやく気づく。色は、時々によって変化する。人が代わり、構成要素が変わり、時代が変わる中で、変化するのが当たり前、なのだ。変えてはいけないのは、その色ではなく、色を作り上げたプロセスに内在した、「どうやって何らかの色や形を作り上げようか」という試行錯誤の視点、そのものなのではないか。つまり、そのシステムなり業務なりを「自分事」として受け止め、前任者から託されたバトンを、「自分事」として持ち直して、自分なりの試行錯誤、を始めることではないか。

そういえば、僕自身が託されたバトンについては、いつもそうやって「自分なりの試行錯誤」を通じて見るからこそ、いつのまにか「自分のバトン」になって、次の人に引き渡していたような気がする。

このバトンリレー、自分が渡される側から渡す側になる場面が増えるほど、いかに上手に渡せるか、が今後の課題になってくるのだろう。

同じ本を

 

二度買う阿呆は何度かやったことがある。しかしこの度、遂に3度買う愚行を犯してしまった

こないだのブログでも触れた木村敏氏の語りおこし「臨床哲学の知」(洋泉社)を読んで以来、別の氏の作品の理解がグッと上がってきた。とりあえず手元にすぐに見つかった「時間と自己」(中公新書)を読んでみるが、以前途中で挫折したこの新書も、今回はすんなり入ってくる。やはり彼のキー概念であるアクチュアリティとリアリティが自分の中にかなり浸透しているので、論理展開が「読める」のだ。

そういえば、ある人が、氏の「心の病理を考える」(岩波新書)を評価していた事を思い出し、「持っていたハズなのに」と書架を探す。でも見つからない。新刊は絶版になったが、幸いアマゾンでは廉価で古本が買える。で、届いた矢先、学生さんと研究室で話している際、ふと二冊目が見つかる。中を見たら、中にあれこれ書き込んでいる。あ、やっちゃった。

この「以前買っていたのにちゃんと探さずに二冊目を買ってしまう愚行」は、特にバタバタしている時期に買った書物で起こりやすい。在庫整理もままならず、書架にとにかく投げ入れていれば、気になる本が未購入と誤認され、同じ本を買う愚行に繋がる。ここ1,2年でそんな「ペア」が4,5回続いた。

それだけでも哀しいのだが、今回は何と一昨日のゼミ中、学生に本を紹介するつもりで何気なく書架をみていて、出てきたのだ、3冊目の「心の病理を考える」。しかも中をみたら、これはこれで書き込みがある。汚い筆跡はどう考えても僕自身だ。ということは一度読んだことを忘れ、二度目にまた同じ本を購入して読み、さらに今回三度目の購入。しかも興味深いのは、一冊目に線を引いた箇所と、二冊目のそれとが違うのである。超好意的に言えばよく学んでいる、でも普通に言えば、学びがきちんと実になっていない、とでもいえようか。

閑話休題。
しかし、木村敏氏の「あいだ」論が、今回ほどグッと胸に迫ってくることは、今までなかった。それは、全く別の本を読んでいて、木村氏と通底する議論を発見したからである。

「社会的世界のなかに存在するものは、関係です。行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもなく、マルクスがいったように『個人の意識や意志からは独立して』存在する客観的諸関係なのです」(ブルデュー「リフレクシヴ・ソシオロジーの目的」 ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブ・ソシオロジーへの招待』藤原書店、p131)

「行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもな」い、「客観的諸関係」、について、ヴァイツゼッカーの議論を引きながら木村敏氏はこんな風に捉えている。(ちょうど二回の読書で線を引いておいた箇所に見つかった)

「主体が有機体の、とくに人間のような自己意識的行為者の-この場合にはこれを『主観』と訳し換えることもできるだろう-内部に備わったものでなく、有機体と環境のあいだで、あるいは両者の境界面で絶えず生成消滅を繰り替えしているというヴァイツゼッカーの見かたは、私たちにとってこの上なく重要である。有機体は、だからもちろん人間も、環境に適応して生きていく必要がある。そしてこの適応とは、有機体が絶えず変化する環境との相即関係を通じて、環境との接点でみずからの主体/主観を維持し続けているということなのである。主体とか主観とかいわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない。個体が個体として存続するために当の個体の主体はつねに個体の「外部」で、個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』に成立していなくてはならない、これがヴァイツゼッカーの考えなのである。」(木村敏「心の病理を考える」岩波新書、p59)

この木村敏氏の有名な「あいだ」論の核心部分で、特に「主体とか主観とかいわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない」という点が、ブルデューの意見と非常に近い。ブルデューは先に引いた箇所の直前に、こうも述べているからだ。

「ハビトゥスについて語るということは、個人的なもの、個性的なもの、そして主観的なものさえもが、社会的、集合的だと主張することなのです。ハビトゥスは社会化された主観性です。」(ブルデュー、前掲、p167)

木村氏の言う「個体の『外部』で、個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』に成立していなくてはならない」、つまりは「社会化された主観性」のことを、ブルデューは「ハビトゥス」と呼んだ。そして、この「あいだ」に成立している何かを統合失調症や躁鬱病者の症状の中から顕在化させた木村敏氏に対して、ブルデューは社会学的にハビトゥスを析出しようと試みてきた。

「ハビトゥスの最初の動きをあやつるのは難しいのです。けれども反省的分析によって、状況がわれわれにおよぼす力の一部分は、われわれ自身がその状況に与えたものなのだ、ということがわかります。つまりその状況に対する見方を変えたり、状況に対するわれわれの反応を変えたりできるようになります。反省的分析によってある程度まで、位置と性向のあいだにある直接の共犯関係を通じて働く決定作用のいくつかを支配できるようになります。」(ブルデュー、同上、pp179-180)

「環境との相即関係」はすでに始まってしまっている。その「最初の動きをあやつるのは難しい」。だが、精神病理学の得意とする精神分析に似た「反省的分析によって、状況がわれわれにおよぼす力の一部分は、われわれ自身がその状況に与えたものなのだ、ということがわか」る。

以前に触れたが、わかる、つまり「理解する」ということが、何らかの日常世界の再構成だとすれば、再構成が出来るようになるということは、その構成要素をいじり、その「あいだ」の関係性に意識的な変容を加えることが可能になる、ということである。木村氏の言葉を使うのなら、「個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』」に着目することによって、『非自己』的な環境の変容が始まり、ひいては自己も含めた「決定作用のいくつかを支配できるようにな」るのである。

自分がテーマとする分野のいくつかで、このような「あいだ」や「ハビトゥス」がどのように作用しているのであろうか。両巨匠には並ぶべくもないけれど、自分の分野にもその切り口と視点を応用してみたい、と感じるきっかけとなった。そういう「もうけもん」があった木村氏の名著なのだから、3冊くらい買っても罰は当たらない、かしらん

一人サマータイム

 

4月に入り、朝が早くなった。

寝室のカーテンは遮光タイプだが、扉を開けておくとリビングのカーテン越しに、薄明かりがみえてくる。しかも、最近は10時半とか11時に寝る生活なので、自然と5時過ぎには目が覚める。というわけで、今年も4月から一人サマータイムを導入してみる。朝の時間は頭もスッキリしているので、誰にも邪魔されずに、あれこれ出来るのがよい。

で、朝のドタバタの時間まで後20分なので、とりあえずここ数日で目に付いた記事を引用しておく。

「3時間くらいたって気持ちが落ち着いてきて、最初の1ページなかったもんとして読んでみたんです。そっちの方がいい。この1ページ、何を書いているんやろと思ったら名文を書こうとしているんですね。つまり、声の悪いやつらが高らかに歌ってる。自分は気持ちいいけど、聞いている方はたまったもんやない。『こういう文章を全部とったらいいんだ』と思って、電話しましたよ。そしたら『3時間でわかるとは偉い』と言われた。全部で20枚分くらいありました。自分が気持ちよく書いている文章をとっていったのが、『螢川』なんです。」(宮本輝「自分が酔った文章削って芥川賞」朝日新聞4月6日夕刊)

芥川賞作家が、自身の受賞作の創作過程である同人誌の主宰者から、「これなしで、次のページのここから書き出せるようになったら、君は天才になれる」と言われた。そのエピソードと見出しに深く頷く。そう、「自分が酔った文章」って「自分は気持ちいいけど、聞いている方はたまったもんやない」場合が少なくないんだよね、と。特に、一つのストーリーを作り上げる際、ふと浮かんだ「気持ちいい」フレーズが、文章全体に弾みをつけてくれるので、ついついそのフレーズから書き始めたりする。だが、後から見たら、ナルシスティックな喜びに満ちあふれた部分であり、鼻につく。推敲の際に、。『こういう文章を全部とったらいいんだ』という事態になる。

このまさに同じ展開を、こないだ、とある原稿で体験したので、よくわかるのだ。少し野心的な福祉の教科書のお仕事。4つの項目を1ページ1000字で1~2ページで書いてね、というオーダーだった。しかし、ルンルンと書いていくと、すぐに10ページくらいはいく。編者の友人に「こんなもんでどう?」と聞いてみると、「やっぱ8ページよね」とすげないお返事。書いた当初はその文言に酔っているから、「削れないよ」と思っていたが、側注も使えるので、どんどん削って8ページに収めると、当初より遙かにシャープでよい。そして、削った部分が、まさに宮本氏の言うように「名文」ではないけれど、「自分が酔った文章」なのである。

こう書いていて思い出す。そういえば、これってワインバーグ氏が言っていた「一割削減法」と一緒じゃないか、と。早速自分が引用したブログを引いて確認。ザッと書いて、1割削るとちょうどよい中身に引き締まってくる、という言う文章読本。で、宮本氏が言うのも、僕が実践したのも、その削られる1,2割には、「自分が酔った文章」が対象になる。確かに最初書いた時は、書き手のイントロダクションとして良い導入役となる。しかし、それはあくまでペースメーカーであり、完成した暁には、その部分をサクッと切り落として読者に提示しないと、返ってわかりにくくなる。それでも気になる場合にはどうしたらいいか。宮本氏は、この恩人の同人誌主宰者にこうも言われた、という。

「『長いこと便所にいると、においがわからなくなってしまうのと同じで、いっぺん出た方がいい。『螢川』は少し置いておこう。気づいたことをすべて生かして別の小説を書きなさい。すぐ書ける人間でないと、プロにはなれない』と言われた。それで『泥の河』を書いたんです。『泥の河』を書いて得たもので、『螢川』を手直しした。」

そう、サクッと切ってしまうにはもったいない、と感じた何か。でもその作品に押し込めるには無理があったら、無理に閉じこめずに、切り離して、「気づいたことをすべて生かして別の」作品の素材としたらいい。こういうケチなてんこ盛りを僕も以前はしていた。そうではなくて、気づいたのなら、ある作品を書いている間でも、「別の」何かに着手したらいいのだ。そうすると、時間をおけるから、戻って来た時、元の作品の「におい」がわかる。で、また書き直したら、よりよくなる。

論文にも充分通底する「創作スタイル」について、良いことを教えてもらった。

神話化を超える「わかる」

 

お気づきであろうか。
ブログ管理人N氏のご協力のおかげもあり、このブログの文字はかなり大きくしてもらいました。今まで僕自身は文字を「最大」にして読んでいたのですが、普通の画面では(エクスプローラーの「文字サイズ中」であれば、実に読みにくい小ささ、だった。論考の稚拙さという読みにくさ、だけでなく、文字がそもそも小さくて、取っつきにくかったのだ。

ようやく形式面では整った。あとは、いつも書くように「内実」だけ。

で、今日は久方ぶりに本当のオフ、で、一日家に引きこもり。何もしなくて良い日、がこんなに開放的とは、忘れていた。野菜を買いに行くのもパートナーにお任せし、ジムも平日に回して、とにかく昼寝と読書。極楽である。で、そういう極楽読書をしていると、こないだの議論の続きに出会う。

「ブルデューの眼からすれば、社会学の任務とは社会的世界を脱自然化し脱運命化することであり、すなわち権力の行使を包み隠し、支配の永久化を包み隠している神話を破壊することである。しかしながら、そうした神話破壊は他者に罰を与えたり、他者の内に罪の感情を生じさせることを目的とするのではない。まったく反対に社会学の使命は、行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その『必然性を示す』ことであり、それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き話すことである。」(ロイック・J・D・ヴァカン「社会的実践の理論に向けて」ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブ・ソシオロジーへの招待』藤原書店、pp80-81)

こないだ紹介した竹内洋氏の社会学案内で一番興味を持った一冊。丸善で早速注文し、今日の極楽読書のお供にした。いやはや、面白い。「社会的世界を脱自然化し脱運命化すること」とは、僕の語彙で言えば、「しゃあない」を超えること、だと思う。福祉の現場で、あるいは学生と接していてもよく聞く「しぁあない」(「仕方ない」の関西弁)。ぼくはこの「しゃあない」とか「どうせ」という文言が、努力をしていない言い訳に使われる場合、生理的な嫌悪感と反感を抱く。そして、それは政策の放置、社会を良くしようという営みの放置、に思えるからである。(今、「しゃあない」とスルメコラムの検索窓にひっかけるだけでも、16ものコラムにこの「しゃあない」論考を書いている。例えば一年前も。我ながら執拗だ

そう、何が嫌いって、「どうせ」「しゃあない」にこびりついている「自然化」「運命化」、つまりは「神話化」路線が嫌いだったのだ。その嫌悪の理由が、神話作用によって、「権力の行使を包み隠し、支配の永久化を包み隠している」という事態に対する嫌悪だった、ということが、この文章を読んでいてようやくわかった。不勉強故の遅さ、である

そして、この後のヴァカンの整理もわかりやすい。

「行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その『必然性を示す』こと」

このフレーズの中に、最近ぼんやり考えていた事との接点が多数含まれている。まず、「再構成」と言えば、以前引いた橋本治氏もこんな事を書いていた。

「「『わかる』とは、自分の外側にあるものを、自分の基準に合わせて、もう一度自分オリジナルな再構成をすることである。」(橋本治「わからないという方法」集英社新書、p105

この再構成の作業の中で、「行為がなぜなされたか」ということが初めて再構成をする人間の内部で「わかる」ことが出来、だからこそ、その『必然性を示す』ことも出来うるのだ。そして、「行為を規定している制約要因」の「必然性」を解き明かすこと、このことも、以前引いた佐藤優氏が使う「内在的論理」という言葉で、最近ずっと考えている。彼はこんな風に言っている。

「ヘーゲルは、特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする。対象の内在的論理をつかむことと言い換えてもよい。その上で、今度は、対象を突き放した上で、学術的素養があり、分析の訓練を積んだわれわれ(有識者)にとっての意味を明らかにする。更に有識者の学術的分析が当事者にどう見えるかを明らかにするといった手順で議論を進めていく。当事者と有識者の間で視座が往復するのだ。この方法が国際情勢を分析する上でも役に立つ。」(佐藤優『地球を斬る』角川学芸出版 p266-7)

そう、「対象の内在的論理」という名の「必然性」を「わか」った上で、「今度は、対象を突き放した上で」「われわれ(有識者)にとっての意味を明らにする」。その中から、「それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き話すこと」が可能になる。そこから、対象の内在的論理を掴んだ上で、「どうせ」「しゃあない」を超えるための対案の可能性が生まれてくるのだ。そのためにも、まずは徹底的にその対象を「わかる」必要がある。そして、ようやく最近このような「わか」りかたを、僕自身も身につけ始めたのかもしれない。ふと、1年前に書いたある原稿を思い出す。少し長くなるが、引用する。

「確かにニイリエの1969年の原理は、施設環境を全否定するものではなく、施設環境を改善するための整理となっている。バンクミケルセンの3つの条件にしても然り、である。この点に関しては、『北欧のノーマライゼーションの初期概念は施設中心的なものである』と整理することは、間違いであるとはいえない。
 だが、それは明らかに二人の言説(=つまりは「図」)のみに焦点化したものである。これまでに整理してきたように、ゴッフマンやバートンの「補助線」を用いた際に見えてくるのは、北欧の二人は明確に、全制的施設の構造的問題を、批判の対象にしているのだ。そして、『常人としての自己を維持させる』、つまりは無力化されないための条件とは何かを明確な形にするために、ノーマライゼーションの理念を形成していくのである。そして、その条件を突き詰めていく中で、施設から地域へ、という北欧の実践が自ずから生み出されてくる。二人の理念創設時の「地」の理解からは、このような整理が導き出される。
 私たちは、単なる言葉(=図)だけではなく、その言葉が出てきた歴史的・社会的文脈(=地)を見なければならない。当然の事ながら、『ノーマライゼーション=善』という浅薄な理解も、自分の思いこみの言葉への投影、という点では図のみの理解そのものである。施設か地域か、善か悪か、という言説(=図)のみではなく、その理念や考えがどのような文脈(=地)から生まれ、変容していくのか、をじっくり眺めない二項対立的言説は、本当の意味でのラディカル(=根元的)とは言えない。」(ノーマライゼーションを『伝える』ということ」『季刊福祉労働』119号、2008年)

そう、「図」の背景にある「地」をじっくり眺め、解き明かすこと。その中から「社会的世界を脱自然化し脱運命化すること」が始まるのかもしれない。

少しずつ、自分の視座のようなものが、物事に対処する立ち位置が、定まって来た、と言えればよいのだが