六甲山の法則

 

はやりものに捕まってしまう。そう、今年流行の胃腸にくる風邪だ。

土曜の夜に、東京で買ってきた生ハムとチーズに、クリスマス用に取っておいた、ちと高いワインを空けてみた。そこまでは問題なし。日曜日は何だか朝、全く何もする気がおきず、ぼんやりテレビの前で過ごす。そして、昼にパートナーが作ってくれた少しオイリーなパスタを食したあとくらいから、何だか胃もたれする。ま、そのうち消化すると思いながら、プールで一泳ぎして、帰りは鳥一でクリスマス用の鳥の丸焼きも購入。この日は行きつけのぶどう農園で今年出来た白ワインの一升瓶を一ケース、分けてもらったので、「今宵は地鶏に地ワイン」と考えていた。ところが

帰宅後、半身浴をしていたが、やはり胃の不快感が無くならない。胃薬もあまり効いていないようだし、それに何より関節や背中が痛む。もしかして、やはり風邪のようだ。その時、風呂で読んでいた本の一節からいろんなことを思い出す。

「何かを失うための最良の方法は、それを離すまいともがくことだ」(G・M・ワインバーグ著『コンサルタントの秘密』共立出版、p131)

このワインバーグ氏の箴言から何を思いだしたかって? それは、「六甲山の法則」である。

昔から、少年タケバタヒロシは胃腸が弱かった。そのくせ食い意地が張ってついつい食べ過ぎるから、よくお腹を壊したものである。そんなヒロシ君の、ある休日の話。その日は六甲山にドライブに連れて行ってもらえることになっていた。ヒロシ君は大のドライブ好き。父親の運転する車の助手席に座っているだけで、うきうきする、そんな少年だった。だが、そんな楽しいドライブの当日、ヒロシ君は誰にも言えない悩みを抱えていた。それは、お、お腹がいたいのだ。昨日食べ過ぎたからかもしれない。とにかく、下痢気味でしんどいのだ。でも、ヒロシ君はどうしてもドライブに連れて行ってもらいたい。せっかくのチャンスを台無しにするのでは、と思うと、正露丸を親に隠れてこっそり飲んで、我慢して六甲山まで向かった。その結果、六甲山で酷い下痢に見舞われ、しかも夏なのに六甲山は寒かったこともあり、さんざんな目にあったのだ。

なぜ20年以上前のこんな逸話を思い出したのか。それは、「したいことが後に控えていると、無理をしてでもそれを遂行しようとする」という自分の癖を思い出したからである。例えば、せっかく地鶏と地ワインを買って、パートナーと二人で食そう、としているのだから、無理をしてでもそれを実現しよう、と。予期された楽しみの為には、諦めずに我慢してでも遂行しよう、と。でも、それって、「それを離すまいともがくこと」そのものであり、その結果として「何かを失うための最良の方法」になってしまっているのだ。

焦る必要はない。鳥もワインもドライブも、また今度があるのだ。「今日しかない」と近視眼的に求めるからこそ、無理と歪みが生まれ、うまくいくはずのものまで台無しにしてしまう。今は食べ物の話だけれど、それ以外にも、いろんな事に対して「離すまいともがく」ことによって、結果的にそれを失ってこなかっただろうか。そんなことに気づいてしまったのだ。

「六甲山の法則」は、ほどよい諦めの決断が、次につながることを教えてくれている。そして、この無理をしないというほどよい諦めを知る人のことを、世の中では「おとな」と呼ぶらしい。32も終わりになって、ようやく大切な大人の一箇条を知ったようだ。

二つの排除

 

土曜日の朝、日の出の時刻、真っ裸で富士山を眺めていた。

ところは「ほったらかし温泉」。たまたま昨晩は10時半過ぎには床につき、パートナーと、「明日早起きしたら、久しぶりにほったらかしにでも行こう」と言ってたら、ほんとに5時半過ぎに目覚めてしまったのだ。6時前の甲府はまだ真っ暗だったが、車を30分ほど走らせて山梨市の山間までやってくるころには、ようやく明るくなってくる。こんな早い時間にもかかわらず、まあ沢山の車が止まっていること。しかもナンバーは練馬に横浜にと皆さんわざわざ関東近県からお越しになる。ここしばらく、テレビで再三この温泉が取り上げられたから、これだけの沢山のお客さんなのだろう。もちろん露天風呂も結構な人の数なのだが、それでも明けゆく空と曇り空の中に見え隠れする富士山を眺めていると、気分がすこーんと開放的になる。

で、開放的な気分もそこそこに、自宅に帰って身支度をした後、今度は東京へ。今日は午後から研究会がある日なのだ。電車の中で予習の本も読めてしまったので、以前から目をつけていた新宿の靴屋に立ち寄る。大阪でお世話になっている髪切り職人氏に教えてもらった靴屋なのだが、今日聞けば、この新宿店が本店だとか。非常に履きやすくて、かつ格好良い靴を、割とリーズナブルな価格で提供してくれている。以前大阪の同系列の店で買った革靴も大変気に入っているのだが、難点は着脱の際に引っかかり、少しくるぶしもいたい部分。今回はそれを伝えると、もっとラクチンな一足を出してもらう。履いてみたら、イメージにぴったり。即決で購入。その後、ジュンク堂でめっけもんの本も買い、伊勢丹ではパートナーがご所望のチーズに生ハムも買って、研究会の場所へ直行。クリスマス商戦まっただ中で非常に混み合った新宿で、しかもわずか1時間の滞在時間にしては、実に効率的だ。たまに都会に出てくるからこそ、「短期決戦」でぴったり決まると、嬉しい限り。

その後、研究会での議論の的が「社会的排除」。
ある本
を下敷きに議論をしていったのだが、もう一つこの概念がしっくりこない。「様々な人々が排除されている現実」はよくわかるのだが、彼ら彼女らは「排除されている立場」として資本主義経済にしっかり組み込まれている。再分配や資源へのアクセスからは排除・制限されているが、そのような立場として資本主義経済に組み込まれている(排除されていない)人々のことを、どう考えたらいいのか、がもう一つわからなかったのだ。

で、帰りの電車の中で、ジュンク堂で見つけた本を眺めていて、疑問にわかりやすく答えてくれる記述にであう。

「社会的排除の問題構成がみえにくくなりがちなこういう状況に対して、非-市民および部分的市民の排除の問題を検討する議論を参照する必要がある。非-市民は『外で排除されるもの』であり、部分的市民は『内で排除されるもの』である。具体的にいえば、非-市民はそもそもシティズンシップを持たない不法滞在の外国人や、国境を阻まれる難民である。部分的市民は、シティズンシップをもっていても二級市民扱いされ、十全な権利を享受出来ない女性やマイノリティなどである。後者に『内からのグローバル化』というベックの概念を重ね合わせるならば、コミュニティ内の部分的市民のあり方こそが、内部に生起するグローバル化の端的なあらわれであることがわかる。」(亀山俊朗「シティズンシップと社会的排除」福原宏幸編『社会的排除/包摂と社会政策』法律文化社、87-88)

研究会で議題に上がった本がフランスを念頭においた分析だったので、亀山氏が整理するところの「非-市民」の排除問題に大きく焦点化されていた。だが、日本においては「部分的市民」と見なされる人々の排除の問題が小さくないだけに、「非ー市民」の議論で「部分的市民」問題をどう捉えていいのか、がよくわからなかったのだ。だが、このように二つを整理した上で、両者の包摂に必要な戦略を提示してもらえると、少し頭の中がすっきりする。

ちょうど研究会でも、「コミュニティ内の部分的市民のあり方」についての議論が進んでいた。特に障害者を「部分的市民」として隔離・収容してきた歴史があり、今、地域移行という政策転換を行おうとしている(その中で多くの問題も発生している)日本において、この問題をどう考えたらいいのか。こういった障害者と社会政策のあり方をきちんと考えるために、研究会に足を運んでいる、というのが、僕の偽らざる実感。そうしてにわか勉強する中で、この問題は奥が深いことがわかってくる。

「『福祉国家のリベラル化』の立場からみると、再配分の軽視は、一級市民と二級市民の格差、『内で排除されるもの』と『外で排除されるもの』の分断を、結果として肯定することになる。『トランスナショナルな包摂』の立場からみると、再配分へのこだわりは、閉鎖的なナショナリティへの執着と同義であり、市民と非ー市民の分断を固定化する。」(同上、95

日本の障害者福祉にのみ目を向けると、議論の中心はやはり「再配分へのこだわり」になる。これはもちろん必要なのだけれど、こだわりすぎることによって、「閉鎖的なナショナリティへの執着」という結果をもたらしてしまう。このあたりのバランスを欠いた議論は、実に危険だ。とはいえ、「一級市民と二級市民の格差」問題を、黙っている訳にはいかない。ここ最近、この研究会で福祉国家と社会政策について議論してきたが、まだまだわからないことだらけ。現場との関わりも続けながら、こういうマクロ的視座からの勉強もし続けないとまずいなぁ、と感じながら、甲府への帰路についていた。

靴と対話

 

なんだか久しぶりの休日らしい休日。土曜日は研究会で終日東京だったが、金曜日と日曜日の2日も休みが取れる。なんて、当たり前なことなのだが、ここしばらくそんなことはなかったので、なんたる幸せ。

金曜日は前からパートナーと約束していた、御殿場のアウトレットまで出かける。靴とベルトを探しに出かけたのだが、ズボンとベルトを購入。濃紺のズボンは、履いてみるとピッタリ、というだけでなく、あら不思議、細身に映る。ダイエットも大切だけど、こういう姑息な手段も時には重要。で、靴を買うつもりで入った革製品のショップで、靴は気に入ったものがなかったのだが、ベルトが自分のイメージに近いものを発見。イメージ、っていうか、単に今のベルトの代替品が欲しかっただけだ。このベルト、確か高校生の頃?くらいに、実家近くのジーパン屋で購入したもの。下手すれば、15年近く使っている計算になる。もうボロボロのヨレヨレ。確か3000円程度で購入したものなので、減価償却はとっくに済んでいる。今回は、皮の専門店で、その3倍程度の額のベルトを購入。多少は見栄えも気にしないと、ねぇ。

で、この革製品のお店で、手入れについて聞く中で、ふと「ラパーを今使っているのですが」と口に出すと「うーん、あれはちょっとねぇ」という話になる。よくよく聞いてみると、蜜蝋の製品は、光沢は出せるけど、皮の保湿には効果がないそうだ。動物の皮も、乳液と同じ成分のクリームが良い、というのは、人間の肌と同じ。試しにヨレヨレの15年選手のベルトにそのクリームを塗ってもらうと、表面がすべすべになる。塗っている際にしみこんでいくのもわかる。お店の人も「今日は暇なんで」と、ついでに財布までクリームを塗って頂く。何だか「店頭実演のおじさんに引き込まれて商品購入」の図式そのものだが、黒と茶のクリームを購入。早速、今日のお休みに塗って見ると、靴がしっとりしてくるのがわかる。なるほど、そんなにカラカラだったのですね。これは大変失礼しました。面倒くさくても、ちゃんと皮の特徴を理解した上で、その特徴に添ったお手入れが必要なようです。

で、かなり強引なのだが、面倒くさくても特徴を理解した上でレスポンスしなければ、というのは、人間でも同じ。こないだとある場で、私がある意見に対応しているのを聞いていた第三者から、「タケバタさんって愛があるねぇ」とコメントされる。「どういうこと?」って聞いてみると、「だって、ああいう発言にもちゃんとレスポンスしようとしているもの」という答え。確かに、その場では、少しややこしい問いが僕に投げかけられていた。でもそこで「あんたはわかっていない」「僕の意図は別にある」という居丈高な振る舞いをすることや、相手の発言を無視するようでは大人げない(といいながら、僕自身、これまで結構そうしてしまっていたのだけれど)。

最近気付き始めたのは、そういう発言の中にも、何らかのヒントが隠されている、ということ。それに気付き始めてから、この種の、ジャストミートではない返球(他人はそれを暴投とかいう)の中には、たまにとんでもなく「拾い球」もある、と思い始めている。こないだもそうだった。

以前も、同じような質問をされたことがあった。その事について、こないだもさらに聞かれる。正直、前回聞かれた時は、「なぜこの人はわかってくれないのだろう」という問いから、「こういうわかっていない人は問題だ」という非難追求モードに変わっていた。きちんと相手の出したボールを、受け止めて、投げ返していなかった。まあ、お陰で「わかってもらえないのなら、論文でも書いて証明してみよう」と一本の論文を書き上げるよいインセンティブは頂けたのだけれど。

今回、3年ぶりくらいに同じような質問をされた。でも、今回は、その相手の発言を聞いていて、他の人に同様な質問をされ、その中で、相手がどういう意図でそういう質問をしてきたのか、の全容がようやくわかってきた。で、わかってきてみると、以前は「あんたが理解していない」という追求モードだったが、逆にそのモード自体が、相手からすると「福祉の研究者は一面的だ」という事の証拠になっている事が判明。つまり、私のその行為含めて、それって「偏りがあるのではないですか?」というご指摘を頂いていたのだ。その偏りを自覚するどころか、頑なにその偏りにしがみついて、「あなたはわかっていない」モードで語りかけてしまっていたのだから、これは何と愚かしい。そういうことに、3年もたってようやく気づかせて頂いたのだから、ちと進歩はあったのだろうか。

そう、面倒くさくても、相手の特徴や意図をしっかり理解した上でレスポンスしていれば、思わぬ「めっけもん」があるんですね。

問題解決の前に

 

快晴の甲府。パソコンのある部屋から見える愛宕山はようやく朱色に色づいている。

今日は今から富士山の麓まで車を走らせる。といっても、観光ではなくお仕事。富士北麓圏域の障害当事者やご家族、支援者や行政関係者の前で、特別アドバイザーとして半年仕事をしてきたことを報告しに行く場面だ。今年は仕事で御坂峠を何回越えたことだろう。全県的に巡って、色んな関係者の話を伺う中で見えてきた課題を整理し、その現場現場に合うような内容を現場に返していく。そういうやり取りが続いて来たし、今日の現場でもそうなるだろうと思う。

こういう場合、正解が一つ、なんてことはあり得ない。その現場の特性に合わせた形で、しかもぶれてはいけない視点だけはしっかり入れながら、現場に受け入れやすい形で伝えていくにはどうすればいいのか。まさに、自分の見立てる力、掴む力、そして伝える力が試されている。そんな試行錯誤をしている最中だからこそ、次のフレーズは、身に染みる。

「返答のパターン
1.最初に、集中する。
2.つぎに、相手の感情の構造に入る。
3.最後に、状況を転換する問題解決の行動をとる。
まず、このパターンを完遂するには創造性を維持する必要があるため、最初はかならずしっかりと集中する。つぎに、相手の発言の『感情的内容』に触れる方法を探し、自分の感情と相手の感情の状態をリンクさせる。感情的内容は『ここにいることをどう思っているのだろう?』という第二の普遍的質問を使えばわかる。最後に、相手は何を実現したいのかという肝心の内容に進み、どのような手段をとれば相手の望む状況に近づくことができるかを判断する。」
(ジェラルド・M・ワインバーグ『コンサルタントの道具箱』 日経BP社、p150に基づき、文章は一部省略と入れ替えをしている)

色んな現場に呼ばれ、時には研究室にお越しになり、様々な論点が出される。そこで、何らかの対応が求められる。その際、振り返ってみると、この3つのプロセスを経ていけば、何らかの打開策が見つかっていく。逆に言うと、「相手の感情の構造」を理解することなく、もっともらしい答えを出したところで、問題は何ら解決しない。この相手とは、担当者個人レベルのこともあれば、その部署レベル、あるいはその地域レベル、と言うこともある。とにかく、感情的なものに入っていくためには、こちらも自分が集中して、感情的に安定している必要がある。

そういう機微が、少しずつだが、わかりはじめた。学生であれ、市町村であれ、当事者であれ、支援する際の基本は「相手の望む状況に近づくことができるか」であることに何らか変わりない。こちらの価値観を押しつけるのではなく、「相手の望む状況」への接近支援、それが今の私に課せられているミッションだ。だからこそ、自分が集中できる余裕がないと、物事はうまくいかない。今日もルンルン富士山を眺めながら、気持ちよくドライブして出かけるとするか。

引っかかった骨

 

喉に骨がつっかかると、気持ちが悪い。
よけて食べたつもりなのに、喉の奥で突っかかっている。ご飯を呑み込んでみても、なかなか一緒に流れてくれない。忘れたふりしてご飯を食べ続けても、喉の奥からその存在を絶え間なく教えてくれる。

そんな、引っかかった骨のような言葉もある。

自分が何気なくその場の雰囲気の中で口から出た言葉。その中で、こちらは意図した訳ではないのに、結果的に何らかの「ひっかかり」が残ってしまった言葉もある。意図せざる結果、バタフライ効果のように、あらぬ方向から、何らかのハレーションが生じることもある。

その際、真っ先に頭に浮かぶのは、自分の意図を強化する形での「○○のつもりだった」「それは誤解だ」「俺は悪くない」。しかし、なんと主張したところで、現実に小骨は突き刺さっている。意図とは違っても、大骨ではなくても、確実に、自分が簡単に取れないところに、何らかの骨が突き刺さってしまっているのだ。

さて、どうしたものか。

もちろん、実際の骨の大半は、そのうちに取れる。
それと同様に、言葉の小骨も、意図せざるにせよ引っかけた側は、そのうちその発言を忘れてしまう。ただ、魚の骨と言葉の違い、それは、言葉の場合、引っかかった側はなかなか忘れてしまわない可能性がある点だ。その骨がずっと突っかかるばっかりに、相手に対して、微妙な距離感や、下手をすれば一生の傷になる可能性もある。

意図せざる結果、であっても、結果的に小骨が引っかかっている。
この引っかかった小骨、個人の努力だけでは取れないことも勿論多い。だが、だからといって「知らんぷり」をしているのか、出来る範囲で誠実に「ご飯を呑み込む」、つまり骨を取り去る努力をしてみるか。そのどちらかで、大きく変わる。

魚を食べなければ、小骨は引っかからない。言葉を発しなければ、ハレーションは起こさない。
しかし、僕は魚も言葉も必要としている。

骨はどうやってとれるのだろう。そして、この引っかけた一件から、僕自身は何を学ぶのだろう。
何にせよ、同様の「引っかけ」だけは、繰り返したくない。

ぶれない原則

 

鍋では山椒の佃煮にブリ大根がグツグツいっている。

久方ぶりにちゃんと食事を作っている。日曜はお隣の長野県に出張。仕事のついでに立ち寄った諏訪の魚屋で甘エビにブリの刺身に生牡蠣をゲット。ついでに半額になっていたブリのアラも買って、夜の間に仕込んでおく。最近この仕込みの時間がとれなくて、なかなかきちんとした料理が作れないのが残念。だから、パートナーがもらってきた山椒も佃煮にするために、ついでに火にかける。つまみ食いしているうちに、口の中が「ぴりりと辛い」。でも、ゆっくり料理が出来るのは、至福の時間である。お供のコノスル(白ワイン)も美味だ。

というくらい、悲しいかな、最近はドタバタする日々。結局11月はブログの更新がたった三日。たぶん、これまでのワースト記録だ。土曜日には、このあやしいブログを読んでます、と仰る奇特な方にも遭遇。でも、こんなに更新が少ないと、さすがにもう読まれないよなぁ。と思ってみたり。

土曜日は東京で朝から学会主催の研究会に出席。自分の発表もあったが、他の基調講演や実践発表もすごく楽しめた。それだけでなく、事務局の人々の細やかな心遣いに脱帽。R大学の大学院生の方々なのだが、現場のソーシャルワーカーでもあるので、非常にしっかりした事務局体制で、かつ細やかな気を遣っておられる。アドミニストレーションがしっかりしている会は、本当に参加していて気持ちよい。ありがたい限りだ。

ありがたい、と言えば、なんと私の博論を読んだ、という方にまで遭遇。自分の論文は、誰も興味が持ってくれない蛸壺分野で水脈のない井戸を掘っている気分だったので、多少なりとも興味を持ってくださる方と遭遇出来るだけで、ありがたい。きちんと井戸を掘り続けなければ、と気持ちを新たにする。

で、強引に数珠繋ぎしていくと、気持ちを新たにするフレーズは、今日の風呂読書の一節にもあった。

「大学教員という恵まれた、安定した境遇に身を置きながら、そして自らの行動に目を向けることなく、自分の分析対象を厳しく断罪するのでは、おそらく多くの理解と共感を得ることは出来ないだろう。他人に向ける厳しい批判の目は自らにも向ける必要があるし、自分自身を許す行動は他人をも許さなければならない。(中略)反論の余地のない極めつけの言葉を並べられ、積極的な前向きの意欲がわいてくるわけではない。むしろ逆である。かえって意気消沈し、今度こそ本当にやる気を喪失してしまわないとも限らない。私たちは他人から理解され、評価されることによって、自らを動機づけることがある。極めつけはどの対極にあって、相手を全面的に否定してしまう。それが『理論』の名において、あるいは『専門家』の口から発せられることのマイナスの効果は絶大である。」(「『論理的』思考のすすめ」石原武政著、有斐閣 p113-4

商店街をフィールドワークにしておられる経営学者の箴言は、福祉の現場にもそっくり当てはまる。「反論の余地のない極めつけの言葉」がどれだけ巷にあふれているだろう。いくら研究者がああだこうだ言ったところで、結局の所、現場の最前線にたつ方々が「積極的な前向きの意欲」を持たない限り、何もかわらない。なのに、その現場の人々をディスパワメントするような言説が、何と研究者などの外野からはかれていることか。高見の見物、というのは、本当にたちが悪い。「『理論』の名において、あるいは『専門家』の口から発せられる」言葉には、好むと好まざるとに関わらず、権威やパワーがつきまとってしまう。だからこそ、そのパワーが現場の方々のエンパワメントにもディスパワメントにも繋がることに、自覚的であらねばならないのだ。

それは、今日のケアマネ研修の現場でも強く感じた。

今日から県のケアマネ従事者研修(初任者)の講義が始まった。今回、5日間のプログラムを、特別アドバイザーの立場から、コーディネートさせて頂いた。その関係もあり、今日もあれこれ喋っていたのだが、現場の皆さんを前にして、私が何を語るか、も大きく問われている、と実感。なんせ相手の皆さんは、私とは違い、実際の相談支援の最前線にたたれる方々ばかりである。自立支援法の批判をしたところで、その自立支援法を活用して、現場の支援を組み立てるべき役割をもたれている。「○○が悪い」といっても、実際に明日の支援にどう結びつけるのか、現場をどうよりよくするのか、が問われている方々だ。その方々に、多少なりとも腑に落ち、かつ元気になって現場に帰って頂くために、どのような講義内容が必要だろうか。そういうことも、ちゃんと考えると結構たいへん。でも、博論以後、ずっと追いかけているのが、そういう「支援者が諦めないための何か」なので、こういう現任者講習のコーディネートを任せて頂けることも、感謝感謝。

「自分自身を許す行動は他人をも許さなければならない」と言われたら、ほとんど何の行動も「許」しまくりになりそうだ。ただ、どんな場合でもぶれてはいけない原則として、「聞く耳を持つ」「変化を恐れない」「何とか自分の頭で理屈を構築」ということだけは、譲れずに大切にしている。これらを大切に護り、どう当事者の権利擁護を大切にした研修なり、支援なりが構築できるか? ここらが課題だよなぁ、と思いながら、仕事おわりの赤ワインも身にしみる今宵であった。

石を積み上げる

 

久々の休日。今朝の甲府の青空と同じように、清々しい。

今日は今から近所で午前中にお仕事があるのだが、それを除くとこの3連休、誰かから頼まれてどこかに行くという仕事が一つもない。ああ、喜ばしや。逆に言えば、11月頭から連続20日間あまり、全く休みなく働き続けていた事になる。さすがに最後の方は「キレ」やすくなっている自分を発見。この3連休だって、査読論文の修正やらとある教科書の校正やら、と家仕事をこなしながらだから完全なるオフ、にはならないけれど、でも「ゆっくり眠る」「ぼんやりする」ということなきまま突っ走っていると、本当によくないよね、と実感する。昨日は1ヶ月以上ぶり位にプールにも出かけ、30分間泳ぎ続ける。その後、身体が怠くってまったく仕事にならなかったのだが、これもそれだけ使っていない筋肉があった証拠。いやはや、きちんとメンテナンスしないとね。

そしてこの週末は校正系の仕事が多いので、その前に、と連休前の木曜の夜にジムで昇降マシン!?を漕ぎながら読み始めた本が、読み始めたら止まらない。久しぶりの休み前だし、と丑三つ時くらいまでに読み終えてしまう。

「こんなふうに始まるレシピがある。
たまねぎのみじん切り1と1/2カップを用意する。110グラムの無塩バターで、たまねぎがきつね色になるまで炒める。たまねぎは捨てる。バターはとっておく。
わたしの書くバターには、捨てたたまねぎの風味が閉じこめられている。書く作業の大部分は、完成した文章には姿をあらわさない。書く作業の大部分は、何を捨てるか決めることである。この本に書かれた1語につき、少なくとも5語を検討したうえで使わないことに決めている。ところが、不思議なことに残した言葉の中には、もうそこにない言葉の風味がとじこめられているのだ。」(ジェラルド・M・ワインバーグ著、伊豆原弓訳「ワインバーグの文章読本」翔泳社、p94)

ワインバーグの名はソフトウェア工学の世界では有名で、僕もとあるパソコンの天才からその名前を教えてもらったのだが、彼の書く本は独特の言い回しと、上手ではなさそうな翻訳のお陰で、最後まで読み終えた本は1冊もなかった。その割に3冊くらい持っているのは、今回の本の中のフレーズを借りると「文章がひどくて、内容に入り込むことができないのだが、入り込みたいという気持ちはいつもある」(同上、p109)からだ。しかし今回の本は翻訳が読みやすく、装丁もさっぱり風通しがよく(詰め詰めのげんなり、という形ではない)、しかも副題の「自然石構築法」とあるように、石を積み上げて壁を作るように、どのようにすれば無理なく様々な形の違う石から美しい壁ができあがるか、を書いてくれているので、非常に参考になった。で、ようやくバターの話である。

「もうそこにない言葉の風味がとじこめられている」言葉や文章。なるほど、奥行きのある文章というのは、きっとこういう風な文章を言うのだろう。あれもこれも盛り込もうと無理をして、ダラダラ言葉を重ねるのではなく、ひとたび草稿段階で色々書いた後、「何を捨てるか決め」、実際にバッサリ切り落とす。この作業を重ねるから、文脈に、段落に、全体に「風味」が出てくるのだ。そして、その「風味」を出すための極意を、別の章で著者はこんな風にも書いている。

「すべての章から一割けずる」(同上、p121) 「あとで一割削減法を使うとわかっているので、最初の草稿は『引き締める』ことを気にせずに自由に書くことが出来る。気楽に構えると、書くことがもっとおもしろくなる。」(同上、p129)

このブログが依頼・投稿原稿と違うのは、文字数を気にせず、気楽に構えて書けるからだ。逆にそれ以外の原稿には文字数(時には文体など)の指定がある。その指定という枠組みを気にすると、内容が萎縮しがちだ。だが、そうではなくて、自分のテイストを出すためにルンルン書き上げて、オーバー気味に書いて、そこからサクサク一割削れば、「もうそこにない言葉の風味がとじこめられている」言葉や文章になる、というのは、当たり前だが、改めて納得する理屈。「習うより慣れよ」を信条とするタケバタとしては、早速、査読論文の修正に活用してみる。

夏に出した査読論文なのだが、レフリーからは「BC」判定を頂く。どちらも、もう少し日本の内容に引きつけて(今回はアメリカのことを書いたので)書き直したら、掲載してもよい、というご助言を頂く。まさに仰る通りなのだが、既に元々の論文は字数制限一杯だ。そこで、「一割削減法」を使おう、と兎に角全ての章から一割削減を目標に赤ペンを片手に向き合ってみる。すると、冗長な文章がちゃんと出てくること、出てくること。それを削るだけで、あっという間に一割削減して、しかもこれまでより読みやすい流れが出来た。そこで、頭とおしりに日本の文脈に引きつけた内容を一割盛り込む。だが、それではまだ、本体との関連が充分にひっついていないので、今日もう一度一割削減法を実施した上で、書き足した部分と、本体とをくっつけるための「すきまを埋める」作業が必要になる。

「自然石の壁を作る場合と同様、文章を書く時にも余分なモルタルは好ましくないが、空積みの壁に使われる石には何の接合力もない。文章の石もうまく合わさらないことがあり、理論的には凸部をけずり落とした方がいいのだが、それも出来ない場合がある。そういう時には、石同士をぴったり合わせるために、小石やくさびやモルタルを足す必要がある。」(同上、p200)

そう、一割削り、更に必要な文脈を挿入したあとだからこそ、全体をくっつけるための「小石」「くさび」「モルタル」が最後に威力を発揮する。だがその際、すでに積み上げた石同士のつながりが充分に機能しているからこそ、最後に付け足す小石やくさびが念押しの補強になるのだ。逆に言えば、まだ積み上げた石同士がしっくり重なっていないのであれば、よりふさわしい重なりに入れ替えしないと、モルタルを塗りたくったところで、返ってその空疎や論理のすき間が目立ってしまう。なるほど、ワインバーグ氏のいうように、きちんと自然石を積み上げることをイメージしながら文書を書いていくのが、やはり一番大切なようだ。

さて、今から午前のお仕事なので、帰ってきて、最後の仕上げの段階にかかるとするか。

器量を構成する三要素

 

ブログが10日間も空いてしまった。この間、チェックして頂いた方がおられたとしたら、すいません。通常1週間以上空くブログは、読者が離れる、と言われているのですが、なんだかここしばらく、文字通り「忙殺」されていて、更新が出来なかったのです。(その割に他人のブログはちらと覗いているのだが)

このブログは単なる備忘録で終わるのはつまらなくて、ない頭を振り絞って+αを付け足そうとするのだが、そのためには1時間弱、というまとまった時間が必要で、そのまとまった時間が全く取れない日々が続いている。今日はパートナーが夕方車を使うので、早めに帰ることがようやっと出来た。なので、先週末の出張で遅まきながら買ってみたipodに入れるためのCDをインポートしながら、久しぶりにスルメと向き合う余裕が出来た。

そう、先週末は久しぶりに大阪に出張し、もともとのフィールドである精神障害者関連の現場の方々と議論や交歓する時間を持つことが出来た。やはり古巣は大切だ。ここしばらく、山梨の地域福祉の問題にグッと入り込んでいて、今年中に色々な新規事業が県・市町村レベルで立ち上がっていくお手伝いをすることに奔走されているものだから、なかなか当事者や支援者の方々の本音と向き合う時間がない。そういう状況だったから、大阪と神戸の現場の方々との議論の中で、改めて自立支援法の問題や社会保障制度改革全体の論点などを確認することが出来た。

現場のリアリティから離れたままでは、研究者のすることが「机上の空論」になってしまう危険性が高い。とはいえ、教育現場も現場だし、行政の現場もまた別の現場。つまり、自分が関わる色んな分野をバランスよく渡り歩きながら、螺旋階段的に上っていかなければならない。その渡り歩く分野が限定されている間はそれも難なく出来たのだが、その範囲や深度が広く深くなればなるほど、一つ一つの現場が「おざなり」で「いい加減」になる可能性がある。既にその兆しも見えていて、だから尚更、自身の器が問われているのだな、と感じるのだ。先週末の出張の帰りの車中で、それにピッタリの文言と出会っていたので、その感じがより深まっている。

「『あの人は器量が大きい』とか、『彼には器量がないから』といった表現を日常的によく聞く。その器量とは、何だろうか。私は、三つのものから器量は構成されているように思う。
(1)考えることのスケールの大きさと深さ
(2)異質な人を受け入れる度量
(3)想定外の出来事を呑み込む力」
(伊丹敬之『経営を見る眼』東洋経済新報社 p113-114)

以前にも丹氏の「創造的論文の書き方」を引いたことがあるが、氏の経営学のエッセンスが詰まっている入門書的な本書を読んでいて、目から鱗、の部分がたくさんあった。特に、この器量の部分に関しては、まさに今、自分自身が問われている3つのポイントと見事に重なるが故に、揺れる車中で実にあれこれ考えるきっかけを与えて頂いた。そういえば大阪の現場で再会した奈良のKさんも、「高血圧の人は揺れる車内で本を読む方が、頭が沈静化されて考えやすい」って言っていたっけ。どうりで僕も電車内でしかまともに勉強できないわけだ!? ま、そんな戯れ言はおいといて、伊丹氏はこの3つの内容を、次のようにパラフレーズもしている。

「第一の要件は、思考のパターンである。日頃から大きく深く考えるから、その人は『大きく、深い人物だ』と思える。周りの人には思いもつかない範囲まで考えたり、徹底的に考えたりしているから、みんなが納得する意見を言えるようになる。(略)第二の要件は、対人関係のパターンである。自分とは違うタイプの人を斥けない。どんな人かよくわからない段階でもまず前向きに信じてみようとする。そうした対人関係のパターンを持っていると、他人はその人に近づきやすくなるだろう。(略)第三の要件は、さまざまに自分の周りで起きてくる出来事への対処のパターンである。想定外の事が起きてしまうのは、世の常である。そのときに、うろたえずに落ち着いて的確な対応ができるかどうかで、その人の器量のかなりは決まる。想定外の出来事を呑み込むとは、まずその出来事を自分なりに大きな地図の中に位置づけることである。自分の置かれた位置がわからなければ、適切な対応の考えようがない。そしてさらに呑み込むとは、位置づけた後の事後処理をきちんとできるということである。その事後処理能力があれば、じつは事前にさまざまな出来事が起きても何とかなる、と思えるだろう。」(同上、p114-115)

ここしばらく、何故にブログを全く更新する余裕がないほど「忙殺」状態だったのか? それはまさに伊丹氏の指摘するこの3つの要件で、私自身の器量の臨界点を超えるような日々であったが故だと感じる。様々な問題が同時多発的に生成していく時に、どこまで僕自身が「徹底的に」「大きく深く」考えるか、が問われる。その際、考えきらずに未成熟な論や考えを開陳すると、思わぬ異論反論も続出する。そういう「想定外の出来事」に、ここしばらく色々遭遇する機会が多いのだが、出会ったショックでついつい「自分の置かれた位置」のマッピングがおろそかになることが少なくない。それゆえ、「事後処理能力」も頼りないから、なかなか「呑み込む」までに至らないケースもある。そういう至らなさを前にして、自信の未熟さが嫌になり、殻に閉じこもろうとするか、あるいは「自分とは違うタイプの人を斥けない」で、異論反論も「まず前向きに信じて」みることが出来るか、で次の展開が違ってくる。僕の数少ない得意な事に「まず前向きに信じ」ることがあるのだが、その基本フレームすら歪んでしまいそうな、そういう弱さと久しぶりに向き合う日々だったのだ。

そして、この人間の弱さに関する至言も、伊丹本の中に鎮座していた。

「人は性善なれども弱し」(同上、p249)

僕も心からこの至言に同意する。研究者として問題はあるかもしれないが、僕は人間を「性悪」として捉えたくない。あの人に言っても仕方ない、という悪口はどんな現場でもよく聞く。確かに「仕方ない」ほどの「前科」があるのかもしれないし、僕自身もその被害に遭っている(and/or今後遭う)かもしれない。でも、そうだからといって、「仕方ない」と決めつけることは、僕の信条としては好きではない。その人が、周りに「仕方ない」と思われてしまうような行動をとる背景には、その人なりの「弱さ」が背後にあることが多い。「どうしょうもない」「わからずや」と言われている人だって、「性善」に産まれたけれど、色々な重なりのなかで、「弱さ」が全面に出てしまい、それをカバーする為に、いつの間にかズルズルと位相が変わってきたのだ。その「弱さ」と「性善」の両方を見ることなく、どちらか一方だけを「過信」することは、実に危険だと思う。そういうことを、たったワンフレーズでサクッと整理している、このエッセイの凝集性はかなり高い。己にそんな文章が書けるか、と言われると、まだまだ年季も知恵も足りない。精進、精進。

大阪で立ち寄ったスターバックスで、カプチーノを入れるコップがもうクリスマス仕様になっていって、恐ろしく早く過ぎゆく日々に唖然とする今日この頃。でも、今年は本当に自分の器の小ささを実感しつつ、その器を広げるために試されている日々である、とも感じる。それほど、これまでに味わってこなかった、「異質な人」にも「想定外の出来事」にも遭遇しえているのだ。その遭遇をチャンスとして「受け入れ」「呑み込む」ことが出来るように、「考えることのスケール」をどう大きく、深くすることが可能か。まあ、これまでこの課題とがっぷり四つで向き合ってこなかったのだから、忙殺されようと、しっかり向き合ってみようかしら。そんな元気を、大阪の現場と伊丹氏の本から注がれた。

応答性と応責性

 

気がついたら秋真っ盛り。こちらは仕事真っ盛り

先週の土日は、多忙に睡眠不足に温度変化が重なって、とうとう風邪を引いてしまった。偶然にも日曜日の予定がなかったので、一日寝ていたら、何とか復活。月曜日の午前中まで横になっていたが、午後からは県の仕事小論文対策の授業、火曜は一日授業に学生対応、水曜は3つ授業に5時間強の会議、木曜日は授業が終わって夜は会議、金曜は9時から5時までのロングラン研修打ち上げ、と、文字通りの「目まぐるしさ」。今日明日は原稿執筆のために時間を取っておいたのだが、さすがに午前中は二度寝する。それくらいしないと、来週もえげつない日程なので持たない。シャツのボタンを付けたり、植木鉢の植え替えをしたり、と人間らしい仕事をしているうちに、ようやくリラックスしてきた。あたまが柔らかくなってきたので、「そういえば」と先週末に読んだ本を読み直す。

「僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。しかしどれだけ文章を連ねても結論が出ない、どれだけ書き直しても目的に到達できない、ということはもちろんある。たとえば-今がそうだ。そういうときにはただ仮説をいくつか提出するしかない。あるいは疑問そのものを次々にパラフレーズしていくしかない。あるいはその疑問の持つ構造を、何かほかのものに構造的に類比してしまうか。」(村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」文藝春秋、p163

「書くという作業を通して思考を形成していく」というのは、僕自身も全く同じだ。しかも、思慮が浅い僕の場合は、なかなか「目的に到達できない」ことも多い。その際、僕らが出来ることは、ムラカミさんが言うように、「仮説」を提示するか、疑問を「パラフレーズ」する、あるいは疑問の構造を「類比」すること。「仮説」にしても、言い換え(パラフレーズ)にしても、構造類比にしても、「問い」への何らかのレスポンスという意味では共通している。「わかりません」と安易に口にせず、何らかの形でその問いへの「応責性=説明責任」(accountability)を引き受けようとする。この姿勢こそ、「思考」を引き受ける姿勢だと思う。

ここ最近、仕事上の責任が増えてくるが、その際、単に対象に対する責任を全うするという意味での「応答性」、だけでは済まされない事態が増えている。自分のとった行動の影響に対する責任が伴ったり、その行動に対して説明することや批判を受けることも厭わない、という意味での「応責性」も、全うしなければならない事態に直面するのである。自身の行いには誰だって「応答性」があるのは当たり前だが、その波及効果も含めた「応責性」を引き受けるのは、正直、結構しんどいものである。しかしながら、公的性格を帯びた仕事であればあるほど、この「応責性」が重くのしかかってくる。そのような、結果責任に対して「わかりません」といえない事態だからこそ、「目的に到達できない」場合でも、せめて「仮説」を提示する、それが無理でもパラフレーズや構造類比など、一歩でも半歩でも歩みを進める、という姿勢が求められるのだ。

この際、感情的にグラグラしていては、何も始まらない。悩ましいのは山々だが、持てる選択肢についてきちんと考えた上で、決断し、歩を前に進めなければならないのだ。書きながら考える、という営みと同様に、活動しながら考える、ぶつかりながら考える、という姿勢でないと、事態は打開されない。ゆえに、しんどくても、風邪を引くほど弱ることがあっても、這ってでも、「思考」を引き受ける有責性が自分にはあるのだ。何とも因果な人生。ま、それを引き受けたのが他ならぬ自分自身なので、仕方ないのだが。さてはて、明日も〆切とドタバタ格闘の予定。匍匐前進でも、ちょっとは進めるはずである。なかなか簡単に「結論が出ない」が、まあよりよい「仮説」を求めて、漕ぎ出すとするか。

チェンジ・エージェントとダウンローディング

 

忙中暇なし、なのだろうか。やってもやっても、タスクが完了しない。

ここしばらく、最低限のto doをこなすだけで、結構精一杯である。〆切を落とさないように、とデッドラインをつけているのだが、毎日何かしらの〆切日が来ていて(一部過ぎていて)、雪かき仕事のようにせっせこせっせこ、かきつづける日々。ここ1,2週間で季節はぐっと変容し、今朝はストーブにトレーナー姿。朝がグンと冷えてきた。急に乾燥気候になり、洗剤負け体質の手は荒れてくるし、喉は毎朝イガイガしている。今、風邪を引いたらめちゃくちゃ大変なので、十分な睡眠と、うがい手洗いだけは必須だ。そう思って夕べ帰宅時にうがいをしながらシャツのボタンを外していたら、うがい液がシャツに付いた。ヨウ素は取れにくい、と妻に聞いて大ショックだったのだが、シミ取り液をつけてすぐに洗濯機を回してみると、何とか取れる。ふう。忙しいから、と手を抜くと、大変である。

さて、手を抜くと大変なのはジムも同じ。ついつい忙しいと行かなくなってしまい、体重増につながりかねない。ここ二週間は教員テニスクラブにも行けたが、来週から3回ほどは仕事でいけない。なので、週二回は運動を確保するために、昨日もザクッと仕事を切り上げて向かう。あと、同僚の先生に、「ここから体重を落としたかったら、やっぱり筋力をつけねば」と助言をうけ、前回あたりからジムでは30分の運動に、プラス10分の筋トレを入れてみた。本当は家ですればいいのだが、もともと無精な人間、かつ家に帰ると酩酊するタケバタには無理な話。よって、まずはジムで続けよう、と思う。で、そんなこんなでジムで汗をかきながらも、土曜日〆切の仕事用に読み返していた本が、あたりだった。

「チェンジ・エージェントには、判断を保留して、待てよと止まり、観察することができる人がふさわしい。これを仏教の用語では『止観』という。
こういうひとは『そうだったのか。それで一体何が起きているのかな?』『何が問題なんだろうか?』と人々に探求させる問いかけを発するだろう。この姿勢が、変革を形だけに走らせないで、人々に深く探求してもらい、気付きや覚悟を引き出す重要な鍵になるのである。『ちょっと待てよ、私たちは何の目的でそれをやっているのだろうか?』『それは思い込みであって事実は違うのではないか?』といった台詞を周囲に投げかける役をして欲しいのである。」(高間邦男「学習する組織」光文社新書p32)

高間氏は、このチェンジ・エージェントと対比する形で、相談された際に自分の経験や枠組みしか引き下ろすことが出来ない人の反応を「ダウンローディング」と名付けて、こうも書いている。

「このダウンローディングをする人ばかりが集まっている組織では、変革が難しい。この人々はすぐにジャッジ・判定をしてしまうので、今何が起きているのかを幅広く客観的に見ることができいないのだ。また、周囲の人は、否定されたり拒絶される恐れを感じるので、ますます本音を話さなくなってしまう。」(同上、p31-32)

いるいる。こういう「ダウンローディング」な人。だいたい僕がいつも衝突するのは、この「ダウンローディング」な人であったり組織である。何度もこのブログで書いているフレーズで言えば、最初から“You are wrong!”という枠組み(=私と同じであれば正しい、つまり私は正しいという枠組み)しか用意されていない人や組織とは、別の視点を持ってきたら、どうしたってぶつかるに決まっている。そして、ある組織で、ダウンローディングではなく、チェンジ・エージェントとして活躍したTさんの仕事ぶりを、こんな風にまとめている。

「大変なバイタリティで、様々な出来事に対して我がことのように関心を持って取り組んでいた。T氏は五年間、様々な人々に語り続け、ありとあらゆる会合に顔を出して、人々の方向性を合わせ、関心を掻き立て、称えることで元気づけてきた。現在、この会社は売上が倍以上になり、他の支社にも強い影響を与えている。売上だけでなく、会社の文化は生き生きしたものになり、社員自身が会社に高いプライドを持つようになった。もしT氏がいなかったら、変革はここまで成功しなかったかもしれない。」(同上、p36)

今自分がやっている特別アドバイザーの仕事に通底する部分があるような気がする。自分が今、県内で色んな場に出かけてやろうとしていることも、おこがましいかもしれないが、「様々な人々に語り続け、ありとあらゆる会合に顔を出して、人々の方向性を合わせ、関心を掻き立て、称えることで元気づけ」る営みである。それが、企業のように数値で反映されるものではないが、でも地域福祉の枠組みを「要求反対陳情型」から「連携提案型」に変えていくための仕掛け作りをしているなかで、私自身がダウンローディングになっていないか、が大きく問われている。自分の枠組みに固執せず、チェンジ・エージェントとして、現場の人々と一緒に『何が問題なんだろうか?』と問い続け、探し続けられる人間か、が問われているのだ。この模索の際、一番最初にすべき大切なポイントも、ちゃんと著者は教えてくれている。

「重要なのは、事実だけをを共有するのではなく、互いの認知の仕方を共有することである。(略)事実がどうあったかを問題にするのではなく、認知の仕方の違いに気づくようにする。また、オープンな話し合いをしようと思ったら、互いの経験や実際に起きていることを、批判をせずに聴く必要がある。相手をジャッジせずに、ただ聴くことができたら、相手を受容することができる。そうすると生成的な相互作用が生まれ、一人が一人でなくなり、チームとしての集合的な融合が起きて、より探求ができるようになる。」(同上、p41-42)

自分の最近の経験に照らし合わせても、実に大切な指摘だ。
「事実」の「共有」を目指して話し始めも、下手をすると「事実がどうあったか」を巡る対立的関係から神学的論争になりかねない。「○○が正しい」というのが、複数出てくる場合も、少なくない。その当否を審議するのではなく、そういう風に捉える「認知の仕方の違いに気づく」、これは当事者間でボタンの掛け違えの結果、膠着状態に陥っている現場に、まず必要なことだと思う。

「俺はこういう思いで一生懸命やっているのに」という感情的モードで入るとだいたい失敗するのは、その際、「一生懸命やっている」という感情が支配・先行して、相手をその感情的枠組みでジャッジしているからである。すると、自分の枠内に入ればいいけれど、だいたいそういう時は自分の枠組みの外で問題が起こっているから、「何もわかっちゃいない」「どうしようもない」という結論になる。当然こちらが最初からクローズドなモードだから、相手の話をきちんと聴けない。すると、「生成的な相互作用」なんて起こらないし、チームにならないのだ。

そういう現場に求められているのが、まさしくチェンジ・エージェントなのである。そして、チェンジ・エージェントがどういう風に場を構築していくか、を筆者はこうも書いていく。

「遠回りなようでも本物の自分を探求することから、他の人々の経験・気持ちの共有を行い、内外の環境に対する組織的感受性を高め、ありたいビジョンをポジティブに話し合うことから、新しい目的意識・ミッションといった集合的な意志を創造することが効果的である」

さて、私はどの程度の「集合的な意志」の「創造」にコミットできるのだろう?
久しぶりに読んでいてワクワクする本だった。っていうか、以前読んだ時には、全くその辺をスルーしていたことが、恐ろしい。二年前から、多少は成長している、のかもしれない。