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個別化原理の危機、という岐路

最近、木村敏氏の著作を読み返している。自伝「精神医学から臨床哲学へ」というタイトルが示すように、現象学的人間学の観点から、精神医療を問い直し、哲学的な「木村人間学」を打ち立ててきた、精神医療と臨床哲学の架け橋をする第一人者である。彼の九十年代以後の著作は何冊か読んできたが、自伝を読んで以後、彼が三十代から四十代に書けて書いてきた、比較的初期の作品を読み直す中で、彼の視点の確かさ、に改めて驚かされた。それは、彼があくまでも、病者の症状を外形的に判断する、のではなく、病者の「内在的論理」に肉薄しようとする姿勢である。

「分裂病患者が世界をあるがままにあらしめることをえないのは、個を捨てて個に徹するということが困難になっているためと解せられる。自らの個別化が疑わしいものとなり、我を圧倒し否定しようとする非我の力が次第に増大していくにつれて、分裂病者は次第に世界から身を退いて自閉的な態度をとり、あるいは逆に自然な一貫性を欠いた意志的努力的仕方で、我を世界に向かって主張するのであるが、このような分裂病者の自閉性が形成されていくにあたっては、その最初から、分裂病特有の個別化の危機の様相が明らかに認められると思うのである。これをブロイラーやミンコフスキーのように『自閉性』の面で捉えるも、ビンスヴァンガーのごとく『奇驕性』の面で捉えるも、実は個別化原理の危機という単一の基礎的過程に対して患者がいかに対決するかの有様を、それぞれ異なった両面からみたものにすぎない。」(木村敏『新編 分裂病の現象学』ちくま学芸文庫 p199)
これは1965年、筆者が三十四歳の時に『哲学研究』に寄せた一文である。このときから木村氏は既に狭い意味での(つまり生物学的な)精神医学の範囲をとうに超え、あくまでも患者の世界観の内在的論理に肉薄しようとしているのがわかる。特に、統合失調症と名称が変更された精神分裂病を「個別化原理の危機」と捉え、幻覚や妄想、無為自閉などの「症状」を、「個別化原理の危機という単一の基礎的過程に対して患者がいかに対決するかの有様」である、と50年近くも前に喝破した点が圧倒される。
精神障害者の場合、ライセンスを持った精神保健指定医という医師が「この患者は自傷他害の恐れがある」と認めた場合、本人の同意がなくても、隔離や拘束など、強制入院をさせることが出来る。その背後には、急性症状を示す精神病の患者は、暴れたり、叫んだり、わけのわからないことをして、医師などの外部者と了解不可能であり、その沈静化の為には、「やむを得ず」強制治療を行うことも正当化される、という論理がある。これは、一言で言えば、「訳のわからない、本人もコントロールできない病状は、強制的にでも沈静化しなければならない」という、ある価値前提がある。だが、木村氏は、その単純な論理に異議を唱える。
「病者の治療は、病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうると考えられる。これに対し分裂病の薬物療法は、病者の緊張状況を弛緩させることにより、この緊張から生じている諸種の症状を消失せしめ、病者がある程度の余裕をもって自らの危機的状況に冷静に対処しうるような状態を作ってやるものであるから、精神療法に対してはあくまでも従属的補助的なものと考えられるのである。」(同上、p221)
筆者は別の本(『異常の構造』)の中で、薬物療法を否定する反・精神医学とは違い、反・反・精神医学だ、と書いていた。だが、反・精神医学と共通するのは、薬物療法を第一義的におかず、「あくまでも従属的補助的なものと考え」ている点である。これは、昨年訪問したイタリアの地域精神医療にも共通する点である。筆者は薬物療法の効能について、「病者の緊張状況を弛緩させることにより、この緊張から生じている諸種の症状を消失せしめ、病者がある程度の余裕をもって自らの危機的状況に冷静に対処しうるような状態を作」ること、としている。つまり、あくまでも「個別化原理の危機」にある患者が、その「危機的状況に冷静に対処しうるような状態」になるためには、危機ゆえに極度に「緊張」して、そこから「生じている諸種の症状を消失せしめ」る必要がある、と指摘している。つまり、あくまでも目的は、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうる」と考えているのである。
この論文から半世紀あまり、日本の精神医療の中で、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめることによって達成しうる」と考えている医者が主流を占めているだろうか? もし、主流を占めているなら、長期社会的入院がその「個別化原理の危機」に対応するベストプラクティスとなり得ているだろうか? そんな疑問が浮かぶ。
「精神病といいうるのはむしろ、対人関係の成立をまってはじめて出現するところの、いわば『人と人との間柄』の問題だということになる。」(同上、p243)
この視点に立ったとき、2つの視点がありうる。1つは、「人と人との間柄」の問題(=病気)なのだから、一般的な「人と人との間柄」から退却させる事によって対処しよう、という戦略である。隔離・拘束・社会的入院とは、一言で言ってしまえば、その退却の方法論である。だが、「人と人との間柄」だからこそ、その「間柄」の中で、支援チームが患者と向き合って、「病者の個別化を確立させて危機を克服せしめる」支援に当たることも出来る。イタリアでみた、三田や京都のACTなどで為されている「寄り添い型支援」とは、そのような方法論である。「我を圧倒し否定しようとする非我の力」を前に、「だから病院という世界に一生閉じこもりましょう」とするのか、「その力にどう対処するか、地域の中で一緒に考えましょう」というのか。これは、根本的な価値命題の違いだ。
「世界から身を退いて自閉的な態度をとり、あるいは逆に自然な一貫性を欠いた意志的努力的仕方で、我を世界に向かって主張する」精神障害者の、その「自閉的な態度」や「意志的努力的な仕方」での「主張」という表面を捉えて、それを薬で制圧する事が精神医療の本当の目的ではない。木村さんはそう訴えかけている。そうではなくて、その表面の背後にある「個別化原理の危機」にこそ目を向けてえ、その問題に寄り添い、それを「克服」する支援が出来るかどうか、が問われている、と主張している。僕は、この話と、以前ブログにも書いたバザーリアのあの発言が重なって見える。
「この仕事の基礎となっている接近法は決して病気が中心にあるという事実を避けようとするものではない。しかしながら、この新しい潮流の中ではこれまで患者に、あるいは少なくとも精神病院に内在するものとされていた葛藤がそれら葛藤が因って来たるところのより広い社会に投げ返される-というのは病気というものは本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現と見なされるものだからである。精神医療従事者にとってこのことは全く新しい役割を担うべきことを意味している。つまり患者と病院との関係の中にいて仲介者の役割を果たすのではなく、家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤に介入しなければならないのである。」(フランコ・バザーリア「管理の鎖を断つ」『批判的精神医学 : 反精神医学その後』.イングレビィ編、悠久書房、p321)
「個別化原理の危機」とは、「本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現」と同じである。であれば、単に病院の中で囲い続けることが治療ではない。「患者と病院との関係の中にいて仲介者の役割を果たすのではなく、家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤に介入しなければならないのである」という指摘は、この危機の克服に当たり、支援チームに求められている基本的視座を改めて示していると思う。

「人生の正午」にさしかかり

春は憂鬱。年度末のバタバタと、その後のどっと疲れも重なり、すっかりブログもご無沙汰していた。

こんなに桜が咲き、野菜も美味しくなり、暖かくなるのに、なぜ憂鬱なのか。精神病の友人・知人もみな、春はしんどい、とおっしゃる。寒暖の差がめまぐるしくかわり、自律神経のコントロールも効きにくい。気持ちは前向きでも、身体は冬眠モードからなかなか目覚めない。心と身体の一体感のなさ。そして、目まぐるしい気候の変動。そんなことがあって、調子を崩す人が多いと聞く。僕もそう聞いて、以前からの春先のしんどさを、やっと納得できた。爾来、春先はいつも気怠い、と納得している。
だが、タケバタヒロシ38歳の春は、その例年の気怠さ以外の、より大きな心身バランスの不全感を感じている。
分析心理学の祖、ユングは中年を「人生の正午」と名付けた。そして、「午前」にあたる30代までが、外向的・社交的な関係性や成熟を育む時期だとすると、「午後」の時期は、内向的・精神的な関係性や成熟を育む時期だと整理している。で、その「正午」にあたる中年が、外向から内向へ、社交から精神的関係性へ、と転換期にさしかかる時期である、と指摘している。これは理論的な話だけではない。彼自身の自伝を読んでいると、30代後半、フロイトと決別をした後から、彼は外向的な肩書き・成功を追い求めるのではなく、自らの内面世界との対決に迫られ、人生の危機にさしかかる。彼はその危機を乗り越える冒険の始まりにおいて、何故か住まいの近所にある湖畔の石を拾って、城や棟を作る建築遊びに夢中になっていった。
「私は自分自身の神話を見出す途上にあるという内的な確かさがあるのみであった。というのは、この建築遊びは、ひとつの始まりにすぎなかった。それは一連の空想をさそい出し、後になって私はそれを注意深く書きとめておいた。このようなことは私に適合していた。そして、この後も、何らかの空虚さに立ち向かうときは、私は絵を描いたり、石に彫刻したりした。そのような体験はすべて、成熟されかかっている考えや仕事のための入門の儀式となった。」(『ユング自伝1ー思い出・夢・空想ー』みすず書房、p250)
ユングにとって、建築遊びや絵描き、彫刻などの創作は、自らの内的な「成熟されかかっている考えや仕事のための入門の儀式」であった。つまり、内面の旅に漕ぎ出すための、入り口の役割を果たしているのである。その中で、彼自身の中で少しずつ「内なる声」がはっきりとしたイメージを持ち始める。この際、ユングは次のようなアプローチを用いて、対決していく。
「大切なことは、これらの無意識的な内容を、それらを人格化することによって自分自身と区別することであり、同時に、それらを意識と関係づけることである。これが無意識的な内容の力をとり去る方法である。それらは常にある程度の自律性をもち、それら自身の区別された同一性をもっているので、人格化するのはあまり困難なことではない。この自律性は、これらを自分自身と調和させるのに最も不都合なことであるが、無意識がそれ自身をこのような方法で示すという事実は、われわれがそれを取り扱う最上の手段を与えてくれることになっている。」(同上、p267)
ユングの言う「自分自身の神話」は、簡単に形作られる訳ではない。無意識のイメージは、茫漠で、しばしば不安感や空虚さ、焦燥感など、ネガティブな、しんどい気分で襲ってくる。ユングはそれらの空想を書き留め、やがてアニマという人格を与えることで、統合していく。彼は自らの中で蠢く、「ある程度の自律性をもち、それら自信の区別された同一性をもっている」存在を、アニマ(心の中での異性としてイメージされる何か)として「人格化」して、その「自律性」を促すことによって、自らの意識と区別し、「自分自身と調和させる」ことに成功し、やがて「集合的無意識」の発見からユング心理学の体系化へと、考えを進化・深化させていった。(アニマ・アニムスについて詳しくは復刊されたエンマ・ユングの『内なる異性』を参照)
そして、注意深く観察していると、このような「人生の正午」に、創作を通じて、自らの中での無意識のイメージを分化(differentiation)させていった存在は、彼以外にもいる。
例えば作家の森博嗣氏。彼は名古屋大学工学部の准教授だった39歳の時、『すべてがFになる』でデビューし、一躍人気作家になり、ご本人曰く「一生分稼いだ」とのことで、今は大学も作家業もやめて、もっぱら工作とガーデニングの日々を送っている。彼は最近のエッセーの中で、自らの物語形成に通じる何かを、次のように語っている。
「抽象的思考というものは、結局は、そういういう風に考えられる頭、面白い発想、新しい思いつきが生まれる『場』を作ることが第一であり、そういう『場』というのは、一朝一夕にできるものではなく、毎日毎日、自分の思考空間を観察して回り、具体的な雑草を見つけたら抜き、こんなのがあれば良いなというものの種を蒔く、そういう手入れを少しずつ続けてこそ、ゆっくりと、しだいに現れてくるものなのではないか。」(森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮新書、p179)
彼自身は、模型製作にまとまったお金が必要だから小説を書いたらあっという間に売れた、とよく書いている。事実、そうなのだろう。だが、彼の模型製作も、あるいは小説執筆も、本業以外での『場』を作ることであった、とも感じられる。そこで、「毎日毎日、自分の思考空間を観察して回り、具体的な雑草を見つけたら抜き、こんなのがあれば良いなというものの種を蒔く、そういう手入れを少しずつ続け」るなかで、小説や、あるいは自らの「人生の午後」の歩み方を成熟させていった。そんな風に感じてならないのだ。
あるいは、また作家になるが、村上春樹氏だって、そういう部分があるように思う。
僕はたまに無性に彼の小説やエッセイを読み返したくなる。この春は、どうしても『遠い太鼓』が読み返したくて、単行本を持っているのに、また文庫本を買って読み直していた。これは、彼が30代後半から40にさしかかるあたり、ギリシャやイタリア、イギリスなどのヨーロッパ生活を続けていた時期に書いたエッセイある。僕もちょうど彼がこの作品を書いた時期と同じ年齢にさしかかり、その内容の断片断片が、すごく心に刺さってくる。例えば、『ノルウェイの森』を書き終えた、38歳の時の、こんな一節など。
「朝が訪れる前のこの小さな時刻に、僕はそのような死のたかまりを感じる。死のたかまりが遠い海鳴りのように、僕の身体を震わせるのだ。長い小説を書いていると、よくそういうことが起こる。僕は小説を書くことによって、少しずつ生の深みへと降りていく。小さな梯子をつたって、僕は一歩、また一歩と下降していく。でもそのようにして生の中心に近づけば近づくほど、僕ははっきりと感じることになる。そのほんのわずか先の暗闇の中で、死もまた同時に激しいたかまりを見せていることを。」(村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫、p250)
彼自身が小説を書く中で、「少しずつ生の深みへと降りていく」。そして、近づいていく「生の中心」とは、「死もまた同時に激しいたかまりを見せている」、生と死の交錯点でもある、という。そんなぎりぎりのところに、小説を書く中で降りていく。降りて行かざるをえない。その先にしか、彼自身が求める何かはないから。そこは「死の高まりが遠い海鳴りのように」震わせる危険をはらんでいるが、彼は降りて行かざるをえないのだ。
「人生の正午」。それは、そのような危険極まりない、無意識的なイメージや抽象的な思考の「場」に降りていき、そこでの世界と対決するかどうか、を、あなたにも、そして僕自身にも問いかけている、時間の踊り場。おそらくその際に、外向的・社交的な具体の世界にとどまる事も、不可能ではないだろう。だが、そのような「アンチ・エイジング」は、外見的にいくら取り繕えても、内面を蝕むばかり、僕はそう感じる。「人生の午前」と「人生の午後」は、物語のフェーズが違うのだ。そのとき、具体から抽象へ、外面世界から内面世界へ、意識のみの論理的・合理的世界から無意識の世界も含めた不合理な<生命>や<自然>の世界に、つまりは「生の中心」に、「降りていく」ことが出来るか? それが、問われている。
猪突猛進で、前ばかり向いて、突っ走ってきた。そんな僕も、そろそろと、「自分自身の神話を見出す途上にあるという内的な確かさ」と向き合い始めている。「人生の正午」が、春とともに始まった。そんな、2013年の春です。

自分の愚かさを勘定に入れる

先週火曜日から風邪を引いて寝込む。熱は治まったようだが、咳がひどくて眠れず、自宅療養の日々。なので、今週は結果的に布団読書の日だった。その中で、内田先生の増補版の本を読んでいない事に気付き、ゲホゲホしながらの読書。彼の論は雑だとか、あるいは資料的裏付けがなされていない、とか色々な批判も読むが、僕はそれより、物語の語り部としての内田視点から、学ぶことが多い。例えば、こういうあたり。
「人はどうしても、自分につごうのいい情報は過大評価し、自分につごうの悪い情報は過小評価しがちになります。でも、そのことをいつも念頭に置いておけば(つまり『自分の愚かさを勘定に入れる』ことを忘れなければ、あまり大きなミスは犯さないで済むはずです。」(内田樹『増補版 街場の中国論』ミシマ社、p84)
増補される前のバージョンの本も買って読んでいるし、彼のこのフレーズはブログや至る所で繰り返し読んでいるが、でも僕にとっては、すごく今日的で大切なフレーズだ。それは、「自分の愚かさを勘定に入れる」ことほど、言うは易く行うは難し、なのである。むしろ、自分の認知バイアスは不問に付して、認知バイアスを極大化させるような情報の取捨選択をしやすい。ツイッターが怖いのは、誰をフォローするかを選択できるので、自分が好きな言説をチョイスすると、結果的には自分の周りの世論はみんなこう言っているのにマスメディアは報じていない、という独りよがりが横行する。原発問題でも大阪市長選でもTPP問題でも、是非が分かれる問題においては、どちらの立場を取るかは自由だが、その立場に関する「自分の愚かさ=認知バイアス」を「勘定に入れ」ないと、問題の本質を全く読み誤ってしまう。
そして、もう一つ、様々な事象を読み解く上で、大切な視点がある。それは、内在的論理に寄り添えるかどうか、である。
「どのように傍目から理不尽に見えるようなふるまいであれ、たいていの場合、先方の政府や国民にとっては『主観的には合理的な根拠』がある。それを『おまえのしていることは私にはよくわからん』といくら大声で言ってみても始まらない。どうして、『そのようなこと』が先方にとっては『主観的に合理的であり、かつ正義にかなっている』ように思えるのか、その判断の構造を理解しなければ、生産的な対話は始まらない。」(同上、p32)
意見が分かれる問題というのは、こちらが正しいと思うことと、相手や他者がそう思うことに、極端な開きがある場合である。その時、自分と極端に違う意見に対しては、「理不尽に見える」。だが、それは自らの「理」からすれば「不尽」であっても、相手にとっては何らかの内的必然性があるから、行っているのである。つまり、「『そのようなこと』が先方にとっては『主観的に合理的であり、かつ正義にかなっている』」という内在的論理があるのだ。その内在的論理の構造を、相手の眼鏡にたって、虚心坦懐に理解しようと努め、あるいは徹底的に分析し続ける中で、初めて「生産的な対話」に結びつく、という。
これは、自分自身の判断根拠が「多くのあり得る根拠の一つに過ぎない」と認め、別のソリューションもあり得る、と認めること、つまり『自分の愚かさを勘定に入れる』こと、と繋がる。逆に言えば、自分が愚かではないという高見の視点から、『おまえのしていることは私にはよくわからん』というような不遜な発言が出てくるのである。「理不尽」に見える相手の行動にも、何らかの合理性がある。でも、その合理性を、現時点で私は理解していない。それを理解したい。そのような視点が、「生産的な対話」への道を開くのだ。
なぜこの視点が大切なのか。それは、次のフレーズを元に考えてみたい。
「僕たちにはうまく想像することのできない種類の心情や感動が隣国の人々を統合させているという事実を、僕たちはせめて知識としては知っておいた方が良い。」(同上、p239)
自分の想像や理解を超える何かが「他者」の内在的論理を構成している、ということを理解しないと「対話」が成り立たない、という骨法は、中国理解に限らず、イスラムでも、北朝鮮でもアメリカ人でも、あるいは発語が困難な人であっても、あるいは自分の大切なパートナーであっても、自分以外の「他者」を理解する上での、基本のき、であるのだ。例えば、家族間だって、普段からのおしゃべりや経験の共有によってわかり合えている、と思い込んでいるが、親密なはずの家族間でもわかり合えないことは少なくない。家族を恋人や友人、会社の同僚、隣近所・・・と置き換えていけば、どんどんその率が高くなる。にもかかわらず、ある程度の情報共有で、そこそこの理解が出来ていると思い込める(それが誤解であっても)関係性があるから、問題化していない。
だが、その関係性が十分に構築できていない相手とは、それが誰であっても、「わかり合えない他者」として存在している。その時、相手のことを理解したいと思うなら、自らの振る舞いの正しさを「当たり前の前提とする」(=という自分の愚かさ)を括弧でくくり、相手なりの『主観的には合理的な根拠』を探さなければならない。だが、例えば国際問題の専門家でも、障害者・高齢者支援の専門家でも、「専門家」と名乗る人ほど、自分自身の無謬性(=自分は正しいし間違いようがない)の虜に無意識になりやすい。特に、対象者が例えば中国内陸部の農民や、精神病院入院患者、など、一般の人がアクセスしにくい対象者であればあるほど、「こういう人は○○だ」という専門家の知識は絶対化しやすいし、素人はその専門家の言説を信じ込みやすい。だが、その専門家自身が、自らの「愚かさ」を常に検証しない限り、認知バイアスはどんどん膨らみ、自らの専門性は、自らの眼鏡を曇らせる、時には視野をふさぐ、邪魔な知識となり得るのだ。
専門家、と言われる人ほど、あるいは一定の年齢や経験を経るほど、これまでに構築してきた、自らの認知体系を固守したがる。だが、その認知体系は、残念ながら誰であっても、認知のバイアスとなる。誰だって、「愚かさ」を内包している。だが、その「愚かさ」に自覚的であるか、その「愚かさ」をなかったことにするか、で、自分自身の行動や判断は大きく異なる。大学教員という立場も、自らの知識の虜囚になり、その知識に縛られ、認知バイアスの中で窒息死しやすい職業である。
常に、他者の内在的論理を学ぼうとする気持ち、および『自分の愚かさを勘定に入れる』謙虚さ、は忘れたくない。風邪の寝床で、そんなことを考えていた。

客観的時間の呪縛を超えるために

以前から気になっていたことがずばりと言語化されている記述に出会うと、圧倒される事がある。
「現代の人間たちは、時間を合理的に管理することを基礎において、人生を設計し、残された時間を有効に使おうとする。そうしてそうすればするほど、現代の私たちは、時計の刻む客観的な時間=量的な時間に自分の時間世界をゆだねながら、その固有の時間の一部を切り売りすることによって自分の固有の時間を維持するしかなくなる。すなわち他者に自分の時間を投げ出すことによって、時間の合理的管理を維持するのである。」(内山節『時間についての十二章』岩波書店、p251)
なぜこの表現にギクリとしたのか。それは、僕自身がこの「時間の合理的な管理」という病にかかっているからである。
一昨日から昨日かけて、大阪と三重で出張だった。このブログの原型も、電車の中で書いていた。移動が多いと、しかも移動先で予定が複数入っている場合、時間をこちらが主体的に管理しないと、うまく電車に乗り継げなかったり、あるいは目的地にたどり着けなかったりする。その場合には、当然、時間の合理的な管理管理は必要不可欠になる。それは、仕方ない。
だが、単に移動中だけでなく、たとえば休日を過ごすときでも、あるいは家や職場で原稿書きなどの仕事をしていても、常にこの「時間の合理的管理」を意識してしまっていることに、以前から気づいていた。「今日は一日有意義に過ごせた」かどうか、を自らへの評価基準として問いかける事が、僕にはしばしばある。そして、あまり有意義に過ごせなかった、と自己評価する際、それはイコール時間を合理的に管理できていない、とか、時間を効果的に使えなかった、という主観的評価と結びついている場合がしばしばある。
この問題性とは、「時間の刻む客観の時間」に自分の「固有の時間の一部を切り売りする」事によってのみ達成される、ということだ。評価基準として、一般的に「合理的」とか「効率的」「効果的」と言われる時間を使っているかどうか、という、究極の意味での客観的な時間や他者評価に自らの時間を売り渡していることの問題性である。
これがなぜ、どのように問題なのか。もう少し、内山さんの議論をたどってみよう。
内山さんは、客観的な時間に対置して、関係的な時間、という概念を提起している。農業や漁業、林業ならば自然と、職人なら対象物と、教員や支援者なら学生や支援対象者と、お商売なら顧客と、関わり合う中で、時間を共にする中で、「働く」という営みを成立させている。しかし、関わりを意識しながら働く、という当然の前提が、いつの間にか後景化していくなかで、客観の時間にあわせる、ということが、どのような仕事でも主眼となりはじめる。そして、客観的な時間が関係的な時間を、ある時点から凌駕し始める。
「技術革新はこの二つの時間世界の均衡に変化をもたらした。ここでモデルになったのは、テーラーやフォードがつくりだしたあの生産過程である。労働の単純化と、システム的な管理が進行していく。労働とは時計の時間とともにすすめられる作業である、とでもいうような構造ができあがっていく。直線的で等速の縦軸の時間が次第に労働を支配するようになり、私たちはこの時間世界に投げ込まれるかたちで、自分たちの労働存在をつくりださなければならなくなった。」(同上、p181)
このフォードのベルトコンベア式労働に代表されるのは、時間の標準化と規格化、平準化と均質化である。誰がやっても、同じような労働が成立するはずだ、という強い規範的意識を背後に持ちながら、標準化と規格化の圧力は強くなる。それが、大量生産や大量消費に結びつき、資本主義体制の強化の論理になったとき、この客観的時計世界の圧力を、個人が変えられない所与の前提として受け入れざるを得なくなる。それと共に、それ以外の時間の豊かさを「後ろめたい」と感じたり、なかったことにする。すべての時間の使い方を、この客観の時間で査定して、「有意義な時間」を管理できているかどうか、という評価基準に落とし込む心性へとつながっていく。その中で、関係的世界からますます遠ざかっていく。そして、客観の時間が唯一の査定基準となると、自らがますます追い込まれる事態となる。
「自分の労働に何らかの価値や意味があることをどこかで期待している私たちは、自分の労働の価値への自己確認をくりかえしつづける。そしてそうなればなるほど、労働は個人の個的な、自己完結的な労働になって、労働がもっていた関係の世界、労働存在の時間世界を喪失しながら、労働の時間基準は時計の世界へと純化していくことになるだろう。すなわち労働の価値を自己確認する時代とは、労働とともにあった関係的世界や、労働とともにあった、その労働に固有な時間世界の喪失した時代を表現しているのである。」(同上、p229)
本来、関わり合うことが主軸になる場面では、「労働の価値の自己確認」が主題化されることはあまりない。畑を耕すにしても、学生と向き合うにしても、関わり合う中で、自らも相手も変容していきながら、一つの関係を取り結び、その中から「他者」との協働の中で何かを作り上げる。この関係性が豊かに取り結ばれていれば、「この仕事に価値があるのか」「こんな事をやっていて意味があるのか」といった問いかけは、本来生まれてこない。
だが、「労働の単純化と、システム的な管理」の進行、とは、関わり合うあなたと私の関係性を主軸にした関係性から、「自己完結的な労働」へと転化してきた。「お天道様との関係性の中での農業」から、「単位面積当たりの生産性をどうあげるかを追求する農経営管理」に、「学生と教員の全人的かかわり合い」から「就職率(進学率・国家試験合格率・・・)の追求という教育管理」に、主眼が変わってきた。このような「成果至上主義」では、成果率という客観的な数値やデータが大切になり、その成果を生み出すためにどのような関係性が切り結ばれたか、というプロセスはなおざりにされる。そして、働きかける側も、働きかけられる側との関係性の豊かさで自己評価するよりも、「成果率」という「自己完結」的なデータにがんじがらめになり、ひいては「その労働に固有な時間世界」を「喪失」することになる。これは、視聴率とか市場独占率、四半期単位の営業成績、などと置き換えたら、多くの労働に共通する「疎外」である。内山さんは、単に労働者個人の労働における疎外ではなく、関わり合うという関係性からの疎外である、とも指摘している。
生きづらさやむなしさを感じる、あるいは労働以外でも客観的時間で自己管理・自己経営に気づいたらのめりこんでいる。これらの現象は、「労働存在の時間世界」の「喪失」の帰結であるのかもしれない。そして、生きづらい、むなしさが前掲化される社会、とは、労働における「かかわり合いの豊かさ」という関係性からの疎外の結果もたらされるものであるのかもしれない。
では、どうしたら関係性の時間を取り戻すことが出来るのだろうか。
「おそらく私たちは、関係によってつくられていく時間存在を、自己の存在として確立していく方法を確立したとき、はじめて近代的な疎外を克服する方途を発見するのである。」(同上、p192)
ごく当たり前のことであるが、自分自身の労働、という自己中心的な、「個人の個的な、自己完結的な労働」概念を放棄することが必要不可欠である。これは言うは易く行うは難し、だ。世間は成果主義で評価しようとしていても、自らの労働の価値判断を、成果ではなく関わりあいの観点でとらえ直すことが出来るか。顧客を、自らの成果率向上の一手段に貶めるのか、その顧客との全人的なかかわり合いの中で、ある商品なりサービスを通じて、お互いが変容する物語の共有ができる、と考えるか。大げさに考えれば、時間論の転換は、自らが関わる労働に対する価値観を大きく問い直す。何のために働くのか、どう生きたいのか? このような根源的な問いを、成果率の問題に矮小化させる事なく、抱き続け、関わり続けることができるか、が問われている。
関係性とは、一朝一夕では構築できない。どれだけ直接に対面していても、成果率などのデータでなく、その商品やサービス、支援などに関わる人の「お顔が見える関係」を築こうとしなければ、客観的な時間支配から脱出することは出来ない。だが、たとえインターネットでの間接的関係であっても、想像力を働かせ、相手との関係性を構築しながら何らかのプロジェクトを進めることも、不可能ではない。大切なのは、いま・ここでの出会いを、客観的時間の呪縛から離れて、関係的時間の観点で問い直し続ける、そういう丹念な時間の織り込みなのかもしれない。
「有意義な時間を使えているのか?」という問いかけを、「いま、ここで豊かな対象世界とのかかわり合いが出来ているか?」と変えてみよう。細切れ仕事であれ、家事であれ、合気道であれ、余暇であれ・・・。客観的時間の効率的管理、という脅迫的で息苦しい他者評価の物差しから解放され、自らの魂の喜びや豊かさとアクセスできるための鍵が、この関わりの時間の豊かさの「再発見」に隠されているのかもしれない。

自転車に乗って

自転車を手放してもう何年になるだろう。

関西に住んでいるとき、自転車は文字通り、日常生活になくてはならないものの一つだった。それが、甲府に引っ越してきて、坂道の途中にあるマンションに暮らしたことと、車で職場に通うようになったことが重なって、いつの間にか自転車から遠ざかっていた。家人がしばらく使っていたが、そのうち使わなくなり、甲府に来て数年で自転車を処分してしまった。

昨日、八年ぶりに自転車を手に入れ、乗ってみた。実に爽快なこと。この感覚を忘れていた。
ちょうど坂道の途中から街場の住宅地のマンションに引っ越したので、そろそろ自転車に乗ってもいいな、と思っていた頃だった。この前、職場まで何度か歩いて出かけたら、四十五分程度で歩けてしまった。これなら、自転車があれば、二十分程度で通勤できそうだ、という実感がつかめた。また、引っ越した後、身延線の善光寺の駅から二十分程度歩いて職場まで通っているので、それなら自転車で出かけた方が自由度も上がりそうだ、と考えていた。

そんな折りに、ホームセンターで手ごろな価格のシティサイクル車なるものと出会う。五段変速で、かごもついていて、パンクしにくいタイヤで、実にリーズナブルな価格。これなら、と思い、買ってみた。そして、昨日からルンルン乗り回している。すると、甲府盆地がこれまでとは違う風景で見えてくるから、不思議なものだ。

甲府に引っ越して八年、気がつけばいつの間にか、自動車移動の目線になっていた。八年も甲府市内に住んでいれば、だいたいナビなしでも土地勘はわかる。だが、昨日、今日と自転車でフラフラしていて気づくのは、いつもの風景が新しく見える、という不思議な体験だ。
例えば甲府市内は神社がすごーく多い。街中を走っていると、至る所で神社やその分所、御旅所などのような場所がある。これは、車では素通りしていて、気づかなかったところだ。あと、いつもいく目的地に行くのでも、自転車なら狭い路地をずんずん進める。これも、関西にいた頃はよくぶらぶらしていたのに、甲府に来て忘れていた感覚だ。そして、甲府市内はあまり高い建物がなく、富士山と日差しの方向を確認すれば、だいたい適当に走っても、大まかな方向感覚がずれない、というのもありがたい。
さらに、古い街に特徴的な事だが、狭い路地が非常に多い。これは、車なら恐ろしくて入り込めず、歩いていたら引き返すのが面倒なので後ずさりするが、自転車ならどんどん冒険できる。すると、車の通るメインストリートは実は後付け的にできた道で、路地のようなクネクネ曲がった道が、街中の、あるいは畦道の、本来の道であることがわかってくる。たぶんこの辺は、武田信玄時代や徳川時代の地図と重ね合わせて考察すれば、あるいはアースダイバー的に眺めれば、もっと色々掘り下げられるのだろう。
しかし最も驚いたこと、それは走っている僕が、昔のわくわく感を取り戻していることである。

そう、十代までの僕にとって、自転車はいつも相棒だった。

小学生時代、退屈な日は、桂川の河川敷や近所の街中を、いつも変速機付きの自転車で走り回っていた。何か面白いことはないかな、何にもないな、と思いながら、桂川の鉄橋から新幹線や在来線の走るのを眺めたり、たまには五条大橋や伏見あたりまで、時には嵐山・木津川までも、ぶらぶら自転車をこぎ続けていた。また、高校時代には、ボーイスカウトでヤマモリ君と台風警報が出ている中、琵琶湖一周をしたこともある。あるいは、亀岡から篠山、三田まで山道を走ったことも。雪の降る真冬、小説の続きを読みたくて、マウンテンバイクをこいで近所の本屋をハシゴした日々・・・。
そういえば、なにげに五段変速がついている新たなチャリをこぎながら、以前の自転車が相棒だった日々を、思い出していた。そして、二十代後半は、大学院の修業時代とバイトに明け暮れ、ずいぶん楽しみから遠ざかり、自転車も車も、生活の手段に成り下がっていたことに、改めて気づく。さらに言えば、今、三十代の後半にして、やっとチャリ生活を再び楽しめる状態になってきた、とも。
自動車や特急電車、新幹線、飛行機と、移動手段の選択肢が格段に増えた。そして、甲府に暮らし始めてからの八年間は、ひたすらあちこちに出張し、移動し続ける日々だった。そういう日々だったからこそ、自転車というスロースピードの世界観が、実に新鮮な表情で、再び僕の前に迫ってきた。待ち時間や接続時間、あるいは道の狭さなどに拘束されることなく、街中をすいすいと走る世界。身体にダイレクトに負荷がかかり、風がきついとしんどいけれど、それも含めて楽しく感じれるようになったことが、実にありがたい。最近都会でおしゃれで高級な自転車が流行っている理由もよくわかる。同僚や知り合いが自転車道にはまりこんでいくのも、何となくわかる気がする。まあ、今の僕には、ホームセンターの五段変速がちょうどいいけれど。

すばやく・ぱっぱと・らくちんに、という効率や効用性の観点からいけば、自転車は劣るのかもしれない。でも、その効率や何か、は、規格化・標準化され、工業化・製品化されたそれだ。一方、自転車は、確かに商品なのだけれど、人の直接のエネルギーが介在し、その自由度が増えるだけ、標準化・規格化されたものから離れ、開放性も自動車より大きいのかもしれない。
そういう気づきをもたらしてくれた、自転車との再会。それは、常に猪突猛進になりがちな僕自身の社会への見方を、ちょっぴりと豊かで、そしてゆったりとしたものにしてくれるのかもしれない。
合気道とは違う筋肉を使っているようで、ふくらはぎに疲労感を感じながら、そんなことを考えていた。

語り合うという力

初めて出会う人による語り合いの場は、最初はおずおずと、ピリピリと始まる。ここは安心して話せる場なのか、どういうメンバーが参加しているのか、私の考えは的外れではないか。

だが、いったん落ち着いてはなせる場だとわかると、言ってみたかった言葉が口をついてでる。あるいはその話を聴いている人も、「そうそう、私も」と思わず合いの手を入れて、語るはずのなかった何かを語り始める。その雰囲気に引き込まれ、他の人が「そう言えば私の経験では」と話が広がる。深まる。その中で、気づいたら本質的な内容が議論されている。

先日、僕が出会ったのは、そんな「語り合うという力」が大きな何かを産みだそうとする瞬間だった。

ところは三重県。障害種別を越え、支援者や行政職員に自分たちの思いを伝える「研修リーダー」を養成するための、当事者だけの研修の場面での出来事だ。三重の自立生活運動の拠点、ピアサポートみえの松田愼二さんが総合司会を行い、西宮で長年自立生活運動に取り組み、近年はNHK教育テレビのバリバラ!でおなじみの玉木幸則さんと僕が助言者、そして松田さんと一緒に活動するお二人の障害当事者がファシリテーター、という陣容で取り組んだ。

こういう場は、障害当事者主催なら、以前から行われていた。だが、特筆的なのは、それを三重県が主催の研修で実現できた、ということだ。でも、今回の研修において、県職員はあくまでも書記役に徹し、当事者たちが安心して話せる場を作る、という松田さんの設定は活かされていた。そういう意味では、障害者運動が培ってきたノウハウが、都道府県レベルの研修で本格的に活用された初めてのケース、ともいえるだろう。

なぜ、そのような場が必要なのか。

その理由は、大きくわけて3つ、考えられる。

1つ目が、当事者同士で障害種別を越えて、自分たちの障害や病気のしんどさ、生活のしづらさ、生きづらさを共有できる場がないからだ。障害や病気を抱えて暮らす、ということには、特有のしんどさがある。手や足の自由が利かない、目が見えない、耳が聞こえない、幻聴が聞こえる、理解するのが難しい・・・。このような病気や障害があることでの特有のしんどさが、それぞれの障害にある。だけでなく、その障害ゆえに、日々の日常生活で、社会関係を営む上で、様々なハードルや障壁にであう。前者を機能障害とするならば、後者は社会的不利や生活障害、ともいえるだろうか。もちろん、障害が異なれば、病気や障害のしんどさは異なる。だが、そのようなハンディを抱えて日々暮らすことに、どのような生活のしづらさや生きづらさがあるのか、という部分では、障害の種別を越えた共通点がある。これは、語り合う中で、他の障害の人の話を聞きながら、「そう言えば私も同じような悔しい思いをした」「そういう気持ちは分かる」という分かちあいが生じる。そして、そういう障害種別を越えた当事者間での「思いや願い」の共有の場が、地方都市ではなかなかないのが実状だ。

2つ目は、そういう障害当事者の内在的論理を、支援する側や関係する行政職員が知らない、という問題点である。支援者は障害の特性や支援のやり方、については「知ったかぶり」が出来る。あるいは行政職員なら、現行法や制度、その運用実体や基準等について「知ったかぶり」が出来る。両者にあえて「知ったかぶり」と書いたのは、本当に知っている訳ではないのに、当事者の前でえらそうにその「振り」を必死にしている職員も少なからずいるからだ。まあ、その問題はおいておこう。だが、支援を受ける障害当事者が、その支援を受けての生活にどんなことを思っているのが、どういうしんどさや生活のしづらさを抱えているのか。そういうリアリティについては、実はちゃんと知らない支援者や行政職員も少なくない。そういうことは「知ってるつもり」になったり、あえて聴かなかったり、聴く必然性を感じていなかったり。そんな場合も少なくない。障害当事者に対しての行為が、相手の立場からどう評価されているのか。このような業務評価は、自らの行為の本質に関わる部分である、がゆえに、これを意識的・無意識的に避けようとする支援者も、少なくないような気がする。

3つ目は、上記の理由から、これまで障害当事者と支援者、行政職員が、お互いの役割や立場を越えて、「障害を持って地域で暮らすしんどさや大変さ、生きづらさ」について、平場で話し合う、という場面があまりに少なかった、という理由である。行政交渉などの公的な場面においては、「要求・反対・陳情」などの敵対的なモードが支配的であった。また、障害者地域自立支協議会という、市町村レベルでの関係者の議論の場が法的に整備されたが、その場で何を話していいのか、誰に話し合ってもらえばいいのか、について、自治体レベルでの当惑は未だにあり、十分にこの協議会が機能していない自治体も少なくない。ましてや、障害者の代表だけが形式的に参画するけれど、支援する側・される側の本音がつっこんで語られる場、になっている地域自立支援協議会がどれほどあるだろう。

このような状
況下にあって、都道府県が主催する研修会の場で、この3つの問題を乗り越えるために、障害当事者と支援者、行政職員が出会い、平場で「障害や病気のしんどさ、生活のしづらさや生きづらさ」について語り合い、学びあう機会を作ることは、非常に価値があることなのである。そういう意味では、こういう画期的な研修を主催する三重県もなかなか先駆的である。

ただ、いきなり「出会いの場」といっても、心の準備も必要なので、今日はまず1つ目の課題をクリアする為に、障害当事者だけの語り合いの場を作ってみたのだ。すると、出てくること、出てくること。

・ヘルパーが「風邪を引いてはいけないので外出を控えましょう」と保護的になる
・自己主張をわがままだ、と受け止められる
・職場で頭ごなしに叱られ排除されることが多く、何をどうしたらよいのか教えてもらえない
・恋愛の場面で、自分の思いをきちんと相手に伝えられない。受け止めてもらえない。
・困っている内容を抱えた一人の人間、ではなく、障害者として見られる
・私のしんどさ、を理解しようと話を聴くことなく、「あなたは○○だから」と決めつける

これらの内容に共通するのは、人と人という形できちんと出会えていない、という実体である。障害者と健常者、支援する側とされる側、という役割や立場の関係での出会いの中で、人間対人間の「本音」の部分のやりとりがされていない。「お顔の見えるおつきあい」がなされていない、というリアリティである。そして、そこで語られる中身を聴いているうちに、これは単に障害者だけの問題なのか、と考えさせされた。

このような「生きづらさ」の課題は、たとえば学生支援をしていても、しばしば耳にする話だ。あるいは、派遣労働の問題、正規社員でも「追い出し部屋」や「ブラック企業」などでは、同じように「人として扱われない」現状に対する怒りやつらさが、様々なメディアを通じて漏れ聞こえてくる。昨今しばしばバッシングにあう生活保護を受給されている方も、同じような蔑みや劣等感を感じておられる方も少なくない。すると、ここで語られている課題が、決して一部の障害者のわがまま、ではなく、あなたや私にも共通する、日本社会の構造的なゆがみや抑圧、同調圧力の表出形態である、と見えてくる。すると、これらの語りが、決して「他人事」ではすまされないのだ。

そして、障害理解、あるいは障害者支援の根本に、福祉政策の根本に、この「他人事ではない」という感覚の共有があるかないか、が、実は大きな分かれ道にあるのではないか、と僕は感じる。しょせん可哀想な方々の哀れな悲劇、と「他人事」で感じている限り、それはいつも周縁の問題、と「後回し」になる。だが、これらを「後回し」にし続けることで、結局自分自身の「生きづらさ」もどこかで後回しにしていないか。自分自身の、日本社会の閉塞感や生きづらさの問題を「自分事」として捉えるならば、障害のある人の「生きづらさ」の問題を「自分事」として伺う、語り合うことが、自分自身の「生きづらさ」「生活のしづらさ」の問題を見つめるための「遠回りなようでいて、実は近道」となるのではないのか。

だからこそ、問題の本質を直視するためにも、「語り合うこと」が想像以上の「力」を持っているのだ。

そういえば、参加したある人が、ぽつりとこんな感想をもらしていた。

「こういう場以外で、生きづらさ、とか、生きるとは何か?なんて語ることはありませんよね」

その通り。
いや、むしろ、こういう場がないと、「生きづらさ」や「生きるとは?」が語られる事のない社会の閉塞感こそ、問題の核心部分にあるかもしれない。だからこそ、「語り合うこと」が力を持つのだ。

書き手の存在感と覚悟

珍しく二日連続でブログをアップする。昨日のマスコミ報道に関するブログに関連して、毎日新聞の若手現役記者、蒔田さんが大変興味深い文章を書いている。蒔田さんは「難病カルテ」というご自身の連載の中で、取材対象者には必ず実名で出てもらっている、という。その理由について、次のように書いている。

「一つは、「難病」と聞くだけで依然、偏見を抱く人がいることへの無理解を解消し「病気を持って暮らす」ことが、後ろめたいことではないということを、新聞記事という場を通じて、病気を抱えている人に訴えかけたい、という思い込めていました。顔も名前も隠すことなく、公の場に出ていい、ということをその患者さんに託した、とも言えます。

また、難病患者さんの中には、外見からはその症状が分からなかったりするため、周囲から理解、受けるべき配慮が得られなかったりする。写真を付けることで、「普通」に見えている人が抱えている状況をできるかぎり伝えたい、という意図がありました。」(蒔田備憲  実名掲載と被取材負担について~連載を通じて考えたこと )
その上で、メディアの実名報道問題について、このような視点を投げかけている。
「重要だと考えているのは、実名・顔出しについて、取材を受けることや記事が載ることへのリスクと負担について、被取材者にどれだけ説明できるのか、ということです。」(同上)
僕はこれを読んで、強く共感した。それとともに、研究者の書く研究論文と、新聞の共通点について考えていた。それが、「客観性への呪縛」、および「主語を消すこと」である。
新聞でも論文でも、「客観性」というものが大切にされている。科学論文では「反証可能性」「再現可能性」が重要視され、新聞では「事実をきちんと伝えること」が前提となる。また、論文では「私は・・・だと考える」という文体は原則アウトだ。事実や論理に語らせる文体なので、「・・・から○○と考えられる」という受動態になる。また、毎日新聞は以前から署名記事が多かったが、社説に代表されるように、無署名の記事が多い。さらには、署名入りの記事であっても、記者の個人的見解が全面に出される、というのではなく、「警視庁の発表によると・・・と見られる」などの文体がならぶ。
この新聞や論文の「文体」にこそ、実は不信感のまなざしが注がれているのではないだろうか?
一応これでも査読論文もいくつか書いているのだが、その際の事実の組み合わせには、明らかに僕自身の主観が入り込んでいる。新聞だって、書き手がどのように内容を切り取るか、どの角度から文章を眺めるか、には、主観が入っている。新聞はそれでも公平性を重視して、意見の分かれる論評については賛否両論を書いている。研究論文では、事実や論理の組み合わせに妥当性があるかどうか、査読者に評価される。だが、それであっても、消された「書き手である私という主語」は、どこかで厳然と残っているのである。それを、さも「無機質な事実」であるかのように語っているのである。
しかし、小沢バッシングや原発問題、あるいはTPPや尖閣問題など、その問題についての価値観が大きく分かれる問題については、さも「無機質な事実」であるかのように語っている、その語り口に不信感がもたれたのではなかったか? いっそのこと、記者や新聞社という「書き手」が、「私は○○と考える」とはっきり書いてくれたら、そっちの方がよほどすっきりするのではないか。「小沢はダメだ」でも、「原発は廃炉にすべきだ」でも「尖閣は国有化すべではなかった」でも、何でもよい(もちろん、各事象に関して、それとは逆の見解でも良い)。きちんと、「私は(わが社は)○○と考える」と書いたうえで、その根拠を説明する。そういう記事を読み比べる中で、読者は自分自身がどう考えるか、を判断する材料とする。それならば、ネット記事ではなく、紙の新聞を買い続ける価値があると思う。
では現実は、とみてみると、裏にある程度の意図や考えがありながら、表面的に客観報道の「ふり」をしているので、きわめてわかりづらいし、あいまいに見える。本当に事実のみを伝えているのなら、それはそれでわかる。だが、その事実をある角度から、こういう意図を持って伝えたいな、という「書き手の欲望」がありながら、、「私は○○と考える」とせずに、「・・・と見られる」などと推測的文体になってしまうため、いったい何のことかよくわからなくなってしまうのだ。
その点、蒔田さんの連載「難病カルテ」には、書き手である蒔田さんの姿が見える。彼は記事で「私は」とは書かない。だが、登場人物の姿に寄り添い、その方が社会の中でどんなに苦労をしながら、でも一人の人間として生きていこうか、を書こうという意思が、その文体には表れている。単なる「客観的表現」ではなく、その登場人物の内在的論理をつかみ、その人の目線から、病気のしんどさと生活のしづらさを書こう、という書き手の姿勢が見えているのだ。
先にも引用したが、蒔田さんは「実名・顔出しについて、取材を受けることや記事が載ることへのリスクと負担について、被取材者にどれだけ説明できるのか」が重要だ、という。その信頼感を構築する中で、取材をする側とされる側の相互行為が成立する。あくまでも新聞に出てくるのは、取材をされた難病の方である。でも、その人を連載の中で表現しようとする書き手である蒔田さんの主観も、この記事の中に盛り込まれている。お互いの主観や主体性が響きあう中で、記事という作品に仕上がっている。
実は、本来は論文だってそういう側面がある。特に社会学や社会福祉学のようなフィールドワークの論文であれば、そのフィールドで参与観察者がどのように感じたか、という感覚的な何かがあるはずである。それを、あたかも「彼らは・・・だった」と客観的に表現したところで、その観察をしている観察者である私の評価や視点が、どうしてもその中に入り込む。フィールド現場の対象者と、それを調査する私が、その現場で関わるのであれば、きっちりその関わりを主体的に研究者が受け止め、その中で、主体的にどのように切り取るのか、という覚悟が問われる。
阪神淡路大震災後の被災地では「調査公害」なる言葉がはやった。研究者が仮設住宅などにやたらめったらやってきて、信頼関係も構築されないうちに質問用紙を渡されて、自分の研究関心のためだけの調査が山ほ行われた、ということに対する批判である。これは、昨日のブログでも批判した、大きな事件や事故が起こるたびに、犠牲者やその家族のもとにマスコミが殺到して「お気持ちは?」と問い詰めるメディアスクラムと同じである。調査公害もメディアスクラムも、それが一過性であること、相手の論理を無視して取材者・調査者の論理だけが先鋭化すること、その後の姿をフォローもすることなく被取材者・被調査者には不信感と不満が残ること、が共通の問題である。つまりは、信頼感に基づく「お顔の見える関係」が構築されない、というのが、最大の問題なのだ。
個人の悲劇の物語、被災者のトラウマというデータ、などは、取材者・調査者にとって「おいしい」素材にみえる。それは、大して深堀しなくても、その劇的な表面だけで、一つの紋切り型のストーリが出来上がってしまうからである。でも、物語やデータの背後には、そうなってしまうまでの、紆余曲折や複雑な構造が背後にある。それらをすっ飛ばして、「うれしい」「悲しい」「つらい」「苦しい」「許せない」という表面的感情言語を捕まえて、それを表現したほうが、「わかったふり」ができる。そこに、いくつかの事実をまぶしたら、消費しやすい一つの物語が構築される。
しかし、感情の背後にある機微まで含めて表現するからこそ、物語が立体的に見えるはずである。なぜ「つらい」「許せない」のか。そうはいっても、それとは逆の気持ちに揺れ動くことはないのか。それを、何度も足を運んで、声に耳を傾けて、時には一緒に歩きながら聞き取るからこそ、ぽつり、ぽつり、と表面的な感情以外の何かが聞こえてくる。それは、語り手の「私」だけでなく、そこに具体的な手触り感のある、信頼できる調査者・取材者の「あなた」がいるからこそ、語れる何か、である。そして、その「あなた」に語る「私」の語りこそ、迫力があるのである。そういう意味では、いくら語り手の一人語りに見える文章であっても、そこに取材者・調査者の存在感が厳然としてある。だからこそ、一人語りが、立体的に立ち上がってくるのである。
新聞やモノグラフを読んでいて、そういう語りの背後にある取材者・調査者の存在感が立ち上がってくるものが、あまりない。それが、「客観性の呪縛」や「主語を消すこと」による、書き手の意図の去勢であるとしたら、随分不幸な出来事である。
僕自身は、初めての単著を書く際、悩んだ末、「僕」という文体を採用した。その理由を、こんな風に書いている。
「大学院生の頃は割と自らの考えをはっきりと述べていたが、大学教員になった後の僕の文体は、その発言に社会的責任が付与された(と自ら思い込んでいた)事もあり、なるべく内面の価値観を出さない文章にしよう、「正しい発言」をしようと、抑制的であった。いわゆる「正解幻想」に陥っていた。まして「僕」という主語は、個人ブログ上で用いることはあっても、論文や書籍などの公の文章で書く時には忌避していた。そういう意味で、僕自身は大学教員というものに文字通り「形(=エクリチュール)から」入り込んで、気がつけば自らの思考や感覚を縛る結果になっていた 。」(竹端寛『枠組み外しの旅―「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p37-38)
論文を書く中で、いつの間にか「価値中立」の「正解幻想」に浸り、そこに呪縛されていた。客観的な「ふり」をすることに慣れていた。それが、自らの思考や感覚をも縛り、大学教員としての「正しさ」の虜囚になっていた。それをぶち壊したくて、あえて「僕」というブログの文体を使い、自分の頭でぎりぎり考え続けた。その中で、書き手の意図を去勢することなく論理を展開する中で、自分なりの「個性化」という大きな発見に出会えた。
だが、これは、単に主語を入れるかどうか、「筆者」と「私」と「僕」というどの主語を選ぶか、という問題ではない。文章の書き手が、その対象世界に対してどのように向き合い、どう取り組み、どう表現するか、という覚悟の表明が求められているのだ。その覚悟があれば、そこには主語がどうであろうが、書き手の主語がなかろうが、書き手はきちんと文章の中に存在している。そして、僕が新聞や論文を読んで心打たれる文章とは、どんな対象世界を論じるものであれ、書き手の存在感と覚悟がきちんと浮かび上がってくるものなのだ。
もちろん、僕だってまだまだ修行中の身ではある。だが、無味乾燥な、魂の抜けた文章だけは書きたくない。心からそう思う。

事件・事故報道の社会モデル

大きな事件や事故が起こったとき、マスコミはかならずその遺族のもとに殺到する。「今のお気持ちを!」と。確かに、不慮の事故で亡くなられた方は、実に無念だと思う。その方のご家族やかかわりのある方の落胆、憔悴は本当に大きいと思う。

だが、マスコミがその不幸な現場に殺到して報道合戦になる、という事態は、不幸の商品化のような気がしてならない。「知る権利」を盾に取り、視聴者・読者の欲望を建前に、人の不幸のど真ん中にズカズカと土足で入るような報道はないだろうか。
いや、単に報道被害の問題を言いたいだけではない。そもそも、大きな事件や事故が起こったとき、どうして「被害者の不幸」や「加害者の凶悪性」といった、個々の問題に「ばかり」目を向けるのか。きついことを言ってしまえば、「私ではない他人の不幸」「私ではないひどい凶悪犯罪者の愚行」に対する憐みや非難、興味本位の関心が、「客観」や「中立的」な報道の陰に隠されていないか。
本当にその事件や事故が「お気の毒」と思うなら、本当にその犯罪が「許せない」と報じるなら、なぜそのような事件や事故が起こったのか、を一個人や一組織の悲劇や性格、逸脱性、異常性といった個人因子に帰結させて満足していてはいけないのではないだろうか。
アルジェリアの事件では、イスラムの原理主義と独裁国家、という構造的暴力や貧困、搾取の問題が指摘されている。随分以前のブログに書いたが、尼崎のJR脱線事故なら、JR西日本という会社の体質、だけでなく、少しでも遅れたらヒステリックに怒り出す乗客や日本社会の時間への強迫性の問題が背後にあるはずだ。つまり、個々の犠牲者の不幸を、個々の加害者の無責任を、本当に許さないなら、個々の不幸・無責任を追い掛け回し、憐みと糾弾にエネルギーを注ぐより、再発防止やその問題の構造的課題の分析にこそ、調査報道として精力的に取材に取り組むべきではないか。
僕が専門とする障害者福祉の世界では、「個人(医学)モデル」と「社会モデル」という二つの考え方がある。前者は、障害は個人の悲劇や不幸であるととらえ、その障害を治すこと、健常者世界に戻ることが目標とされる。一方、後者の社会モデルでは、障害は一つの個性であり、障害があるままでの自立が目指される。すると、障害は個人の問題ではなく、障害ゆえに社会の中で生活しづらさがある場合、個人の不幸ではなく社会的差別や抑圧の問題、とされる。問題なのは個人、ではなく、社会の側をどう変えるのか、が焦点化される。
今のマスコミの事件や事故報道を見ていると、どうもこの「個人モデル」に依拠しているようにしか思えない。事件の特異性や奇異性、属人性ばかりを強調する。これは事件報道に限らず、政治の話題だって、政策的課題という社会モデル的視点ではなく、いつの間にか政局や政治家個人の資質といった個人モデル的な視点に歪曲化される。率直に言って、社会構造を扱うより、個人を称揚したり貶めたりするほうが、「わかりやすい」と考えるからだろう。
でも、それは「わかりやすい」のではなくて、「わかったふり」をしているだけではないか。本当に問題を理解し、より良い社会に変えていきたい、と願うなら、属人的要素の悲劇を追い掛け回したり、加害者の異常性・逸脱性をことさら糾弾するだけでは、何も変わらないことに、当のマスコミだって、気付いているはずだ。そして、心ある記者は、そういう地味な取材も続けておられる。
本当に必要なのは、複雑で、地味に見える、構造的な問題に目を向けることだ。それをひも解いていくと、アルジェリアの問題だって、笹子トンネルの崩落だって、JRの脱線だって、「他人事」では済まされない。問題を引き寄せて考えると、どこかで「私の日常」と地続きな問題である。決して遠いテレビの向こうの「他人事」の問題、と高をくくっていられない。今の自分だって、もしかしたら被害者にも加害者にもなりうる課題だって、決して少なくない。そのような社会構造の暴走や暴力と、逃げずに向き合い、自分事として考えること。そのための補助線や解説こそ、マスコミが果たせる役割のはずだ。池上彰氏の解説スタイルが視聴者に受けているのも、「複雑な問題を、無視せず逃げずに考えるための補助線」という視点で見れば、頷ける。
問題を個人化・矮小化させて、その不幸を追い掛け回す、他責的で消費者的な振る舞いをマスコミが続けていることは、果たして再発防止のために適切なアプローチなのだろうか。事件や事故報道も、やはりその背後にある構造的課題に肉薄する社会モデルに向かうべきではないか。
今朝テレビをつけたら、主要なテレビチャンネルが一斉に、アルジェリアから日本に帰ってくる政府専用機、およびそこから出される棺の映像を、生中継で大々的に映していた。この事件も、再発防止に向けて、社会モデル的にきちんと取材してほしい。政府から死者の実名が公表されたが、遺族や関係者を追いかけ回し、「お気持ちを」と迫るより、マスコミにしてほしいことがある。そう感じた。

相互主体と「問題行動」

今日は、元教え子が働く入所施設で「虐待防止法を機に考える、権利擁護と支援の質の向上」という研修をしてきた。

僕は入所施設や精神科病院からの地域移行について積極的に書き、話す論者である。だが一方で、実際に施設や病院現場で働く人の研修にも、時として呼ばれる。
今日も「先生って地域移行論者なんですよね」と言われた。もちろん、政策的にはその方向にすべきだ、と思っている。だが、明日から全部をそう切り替えるわけにはいかない。僕も関わった、障害者福祉の新法制定に関する骨格提言の中では、「地域基盤整備10か年戦略」も提言した。そのような方向性の転換を政策的に果たす中でも、一方で、今ある入所施設や精神科病院に暮らす方々の権利を擁護する取り組みも必要不可欠だ、と感じている。これは、学生時代から学ばせていただいているNPO大阪精神医療人権センターが一貫してとっているスタンスでもある。精神科病院を少しでも減らす政策提言と、今ある精神科病院での権利擁護活動。それは、車の両輪の課題である。
で、入所施設の中で利用者と密に接する支援者の方々と、少人数の場で話をする中で、気付いたら色々話していた。いくつか備忘録的に書いておきたい。
僕は、「意思決定支援」が必要な人を支える施設こそ、相互主体の考え方を徹底的に考えなければならない、と感じている。
この相互主体の考え方は、重症心身障害者の地域生活支援の拠点である、西宮市の青葉園の清水さんがしばしばおっしゃっておられることである。僕も何度も青葉園で学ばせていただいたが、やはり青葉園のやり方で一番重要なのが、この相互主体の考え方である。青葉園ではこれを30年前から言っているのだが、最近では、社会学者の三井さよさんが、次のように整理している。
「当事者のふるまいや思いを、自らの関与や多様な人たちとのかかわりのなかから探り、そのつどいま何が起きているのか、誰が何をどのように必要としているのかを問い直そうとする支援のあり方である。個別ニーズの判断に対してかかわりが先行している。そしてそのかかわりの内実は、支援者以外の人たちにも開かれた、多様な人たちが個別に当事者との間で育んでいくようなものである。」(三井さよ「かかわりのなかにある支援」『支援』vol1、三七頁)
対象者のニーズが、客観的な「個別ニーズ」として存在しているわけではない。支援者と当事者がかかわりあう中で、お互いの関わりのプロセスを問い直す中で、そのかかわりが支援者と当事者という1:1からより多くの関わり合いに開かれていく中で、ニーズそのものが変容していく。青葉園では、重症心身障害といわれる重い障害を持つ人と、その支援者たちが、本気のぶつかり合い、関わり合いをしながら、お互いの主体性を発揮させながら、相互に変容していくプロセスを大切にしていた。その中で、居酒屋で飲み会をしてみたり、カラオケや公民館活動に参加したり、重度障害者とカテゴリー化された人が排除されていた「ふつうの暮らし」にチャレンジする中で、その人の活き活きとした表情を増やし、わくわくや希望を膨らませていこう、という試みである。それを、言語によるコミュニケーションが難しい、意思がわからない、IQが測定不能、と言われた人と構築していこうとしてきた。
そして、多くの入所施設でこれまでも、そしてこれからも問われているのは、このような相互主体的な、関わり合う支援をどれだけ豊かに行ってきたか・これから行えるか、という問いである。これは、権利擁護の根本的課題とも通底する。
入所施設や精神科病院は、利用者と支援者の権力の非対称性が大きく、第三者の目が入りにくい密室性もあり、権利の侵害が起こりやすい構造を持っている。その中で、権利擁護を重視しようとするならば、利用者を変える前に、支援者の志向性を変える必要がある。権力の非対称性にどこまで自覚的か、がまず問われる。そのうえで、支援者が当事者から学ぼうとするか、そして支援者同士で支援の質を高めるための相互評価ができるか、も問われている。もちろん、権力の非対称性は、脱施設・脱精神病院をしないと拭い去れない。だが、今日明日の施設、精神科病院の権利擁護課題として、この部分は必要不可欠である。
先に支援者と当事者は相互主体的である、と述べたが、入所施設や精神科病院のように、生活場面においてずっと同じ関係性が継続する現場であれば特に、支援者の側の主体性が、当事者の主体性に与える影響は大きい。支援者が、当事者の将来の夢や希望、潜在的可能性について、「この人はこんなに重度の障害だから」「どうせ家族は施設入所希望だし」など、「どうせ」「仕方ない」と見切りをつけていたら、権力の非対称性が大きい現場で、支援者の顔色を見ながら暮らしている利用者にとっては、その影響は計り知れないほど大きい。
「僕はここでおとなしく我慢しているしかない」「ここしか、ない」
このような諦めや絶望は、やがて本人の主体性をどんどん矮小化させていく。逆に言えば、本人が諦めから絶望から自由になり、「どうせ」「しかたない」以外の可能性に気付くことができれば、潜在能力はどんどん開花される。これは、僕は西駒郷の地域移行調査に関わって、強く実感したポイントである。
つまり、入所施設や病院での支援者が「どうせ」「しかたない」とあきらめていれば、その諦めは利用者の主体性にも色濃く反映される。であれば、まず支援者があきらめず、施設現場でどう当事者との豊かな関わりを行い、その人の可能性開発にかけるか、が問われている。
そのためにも大切になるのは、「問題行動」「困難事例」への対処だ。
そもそも、ある行為に対して「問題」や「困難」というラベルを張る時点で、支援者から利用者に対して、あなたが「問題」「困難」なのだ、という宣言でもある。その際、支援者の側の力量不足、理解不足を棚にあげて、当事者の行為のみが「問題」「困難」とされる。そのような行為を通じて、その障害当事者がどのような自己表現をしたかったのか、その行為にはどのような内的必然性や内在的論理があるのか、という部分への推測や分析には
至らない。そういう「無理解」には、本人だってますます不満を強め、そのストレスとしてさらに劇的な行為という形で返礼し、その悪循環は加速度的に循環していく。
だがその際、相互主体的に考える、ということは、関わり合いを大切にする、ということである。支援者である私の側がどのようにかかわることによって、この知的障害の方は、どういう反応をされるのか。その相互行為の集積として、どのような行為が生まれるのか。それを「問題」や「困難」とみなすとき、それはある行為という形で当事者がアピールしておられる内容を理解できていない支援者の側の「問題」であり、「困難」なのである。つまり、問題性や困難性は、本人の側ではなく、支援者の側にあるのだ。
そう考えると、自らの支援や関わり方をどう変えることで、そのような「問題行動」や「困難事例」がどう変容するか、を自らの実践に問い直すことが求められる。これは、自閉症や認知症の人でも、まったく同じ論理である。主体性のコントロールに障害を持つひとと関わるときに、支援者の主体性や志向性が、本人の主体性に影響を与え、その相互関係の中で、「問題行動」「困難事例」と表出されてくる場合が少なくない。そこを、本人のせいと矮小化することが、もっとも危険な支援なのかもしれない。
もちろんこれは地域生活支援でも共通の課題である。だが、それが入所施設や精神科病院の中であれば、なおさらそのラベリングは重大な問題を含む。地域であれば、様々な機関の支援を受けるために、何らかのSOSの表現に関しても、キャッチされる可能性が高い。だが、入所・入院の場合は、生活の全場面を一法人、一施設、少数の支援者しか関わらない。ということは、そこで関わりの独占から、支配的関わりが構造的に生まれやすい。その中で、いったん張られた「問題行動」「困難事例」が、その人の名前と同じか、それ以上に強固なラベルとなって、それ以外の可能性に目を向けられないことも起こりうる。「あの人は問題行動が多いからね」なんてしたり顔で噂されているのは、グループホームでも、特養でも、あるいは老人病院でも共通して起こりうる事態だ。
だからこそ、本人と関わり合うなかで、新たな可能性を支援者と利用者が一緒に模索する、その中から、支援者にとっての「問題」や「困難」の背後にあるものを探り当て、新たな支援アプローチの模索へと転換を行う。そういうプロセスを通じて、まず支援者が変わり、その支援者の変容が本人の変容支援へとつながる。その中で、問題行動や困難事例というラベルもはがれていく。こういうプロセスに、入所施設や精神科病院のスタッフが積極的にコミットできるか、が大きな課題となっているのである。
つまり、「問題行動」や「困難事例」と突き放している限り、支援者にとっての「問題性」や、支援者の抱える「困難性」を責任転嫁する事態になりかねない。支援者と当事者が、その線引きやラベリングを超え、どのような相互主体の物語を構築できるのか。そのうえで、入所施設や精神科病院しかない、という「どうせ」「しかたない」の物語を、どう別の物語へと書き換えていくことができるか。これが、入所施設や精神科病院のスタッフに求められている課題である。
とまあ、こういう事を言いたかったのだけれど、書いてみたら随分話と違っていたような気もする・・・。

「本土復帰」と「社会復帰」

今日の甲府は朝から牡丹雪が降り積もる。おとといまで滞在していた沖縄本島とは20度の気温差。だるまストーブに首巻をしております。

僕は旅のお供に本を何冊か持っていく、だけでなく、空港や現地の本屋でも何冊か買ってしまう。「せっかくの旅行なのに」という指摘も受けそうだが、僕にとって、旅先の読書こそ、普段とは違う空気感、違う角度で味わえる絶好の機会なのだ。旅というスパイスは、「本の味わい」を何倍にも増す。
なぜそういうことになるのだろう、と考えていたときに、次のフレーズと出会った。
「時計時間はそれ自体、道具的合理性を根拠とした計算を成り立たせるための、質を剥ぎ取られた仲介物なのである。機械の時間は、労働を組織化するときや企業のバランスシート、また日常生活や公的な暦において、個別的な体験と社会のリズムとの間の区別を一切行わない。すべてが同質的な量でできている標準尺度を用いることで、すべてを測定し、すべてを分解し、すべてを計算するのである。」(アルベルト・メルッチ『プレイング・セルフ-惑星社会における人間と意味』ハーベスト社、P21)
そう、この社会は「時計時間」に沿って動いている。日本の鉄道の正確さは、時計時間を重要視する日本人的心性の賜物、である。電車だけでなく、宅急便の翌日配送(恩名村の農産物も、壷屋のやちむんも、那覇のジュンク堂の本だって・・・)も、この時間時計のなせる業だ。思えば僕の生活は、宅急便にずいぶんとお世話になっている。また、この標準尺度に個別的な体験を合わせる、というのも、日本人的な時間感覚に深く埋め込まれている。だからこそ、旅先で思い通りに物事が進まないと、いらつく。そして、いらついて改めて気づく。自らが、この時計時間に根深く支配されていることに。
そして、時計時間=社会的時間の意識化とは、それとは別のもうひとつの時間への気づきを導く。先述のメルッチはそれを「内的時間」と表現している。
「内的時間は、情緒や情動と結びついた時間であり、身体に宿る時間であることから、社会的時間と極めて異なる特徴を有している。それは多重/多層/多面的で不連続である。その時間のなかに、異質な時間が共存しており、それらが主観的な体験のなかで、互いに継起し合い、交わり合い、重なり合う。またそれは循環的な時間であり、神話的時間のように、出来事はだいたい元の場所に戻ってくる。その循環性は、身体のなかで、情動のなかで、諸々の夢、徴候、イメージ、そして何度も回帰する行動のパターンのなかに、はっきりと生起している。さらにそこには、同時的な時間が存在している。昨日と明日、私の時間とあなたの時間、ここと別のどこか、このようなたくさんの時間が、まさに同時に存在するのである。」(同上、p28)
旅の間の時間は、あっという間に過ぎ去る。前回の旅と今回の旅を重ね合い、思い出し、反芻する。美味しいものや見慣れぬ風景など、圧倒的な迫力を持つ瞬間の時間の深さと、移動中に内面に生起する様々な想念に身をゆだねる茫漠とした時間。それらはまさに、「多重/多層/多面的で不連続である」。時計的時間の制約から解放されるからこそ、かつての、あの場面の、あなたの時間と僕の時間が同期する。その中で、内的時間旅行が始まっている。
ただ、このような内的時間旅行は、あくまでも「旅の間」に限定することが、現代社会の暗黙のルールになっている。「つかの間のバカンス」で時計時間から存分に解放される。これは、旅が終わったら時計時間に復帰することがセットとなっているから、許容されているのである。あくまでも時計時間の支配的枠組みの中での、たまの逸脱。
このように、標準尺度=機械的時間がドミナント・ストーリーである社会では、日常からそれとは違う「内的時間」を生きる人は、夢見がち、とラベルを貼られる。子供、老人、芸術家、シャーマン、障害者、「未開社会」の人々・・・など「周縁」と名づけられた人々の中には、「中心」の機械的時間に対する「社会的不適応」という特徴を持つ人もいる。だが、機械的時間の支配力そのものが、そもそも個々人がもともと持っている内的時間を奪うことによる、魂の植民地化であるとするならば、この標準化圧力、というのは、個々人の生きられた時間の圧殺である、とはいえないだろうか。そして、旅とは、しばし、その生きられた時間を取り戻すための試み、ともいえるのではないだろうか。
そう考えると、一つの問いが浮かぶ。時計時間への過剰適応は、本当に好ましいことなのだろうか、と。
沖縄で垣間見たのは、「本土」の時計時間の標準化圧力に対する、厳然とした抵抗の時間であった。
旅の間、毎日沖縄タイムスを読んでいたが、期間中、辺野古埋め立て申請、あるいはオスプレイの増強配置などの唐突の計画浮上の記事が一面を飾り、それに対する激しい抗議の意見が表明されていた。「いつまで植民地扱い」というタイトルの記事も、紙面で読んだ。だが、甲府で溜まっていた一週間分の新聞を読んでいて、それらの記事がほとんどないことに、愕然とさせられた。そして、前回のブログで引用した奥田博子氏の、次のフレーズを思い出していた。
「本土の主要メディアは、沖縄の<抵抗>を『県民感情』と言い換え、一過性のものにすぎないとする価値付け報道に終始していた」(奥田博子『沖縄の記憶-<支配>と<抵抗>の歴史』慶應義塾大学出版会、p180)
確かに、本土のメディアの取り扱い方を見ていると、沖縄問題は局所的、部分的な扱いであった。安部首相の経済政策や中国メディアへの共産党の圧力と抵抗、などを大きく取り上げたいのがわかる。だが、最近、東京のテレビや新聞というメディアへの信頼が大きく損なわれているのは、その情報の重要性を推し量る物差しの狭さや偏狭さ、ではなかったか? ツイッターやSNSが、情報の断片だけれども、テレビや新聞の情報より重要視する人々が増えてきているのは、このメディア支配の「大きな物語」への疑いゆえではないか? 中央集権的な思考に基づく日本社会の同一化・同調圧力的な政策が、沖縄政策だけでなく、被災地復興政策や障害者政策など、様々な領域で破綻の局面に差し掛かっているからこそ、この機械的時間への疑いのまなざしがますます増えている、とはいえないだろうか。
うねうねと考えてきたが、実は今日話題にしたいのは、ここから、である。
あるドミナント・ストーリーに「復帰」することを「目的」とする、この機械的時間論で、私たちは幸せに生きられるのだろうか?
沖縄の「本土復帰」、障害者の「社会復帰」。これらの「復帰」概念には、元に復元し、回帰することこそが「正しい」という概念があるように思える。だが、そもそも本土の中央集権的同一化思想、あるいは健常者社会の強迫的な労働観念、そのものが、機械的時間の歪みの影響をもろに受けている、とはいえないだろうか。周縁から中心への「復帰」の文脈では、前者より後者が正しいとされる。だが、実は、周縁の独自の物語の中にこそ、中心が失ってしまった内的時間、個々人のアクチュアリティのある自己、が内包されているとはいえないだろうか。
ここからは、かなり暴走的に書き進める。
作家で元外務省の専門官だった佐藤優氏は、最近しばしば「琉球独立論」を説く。ソ連の崩壊時のバルト三国の分離・独立の動きと、今の沖縄の情勢が似ている、と。依存状態にある沖縄が、米軍基地の常設化と経済振興というアメとムチに頼る限り、ずっと本土との相互癒着関係は変わらない。それを「いつまで植民地状態なのか?」と怒りとともに表明する琉球人は、宙吊り状態を超えて、分離独立の道を模索しているソ連崩壊直前のバルト三国の姿に重なる、と佐藤氏は分析しているのである。
これは、障害者問題と重ねると、またもや共通性を感じる。例えば入所施設や精神病院への隔離収容政策は、三食昼寝つきの保障と、一般社会からの隔絶、というアメとムチの政策そのものであった。つまり、障害者は構造的な依存状態におかれていたのである。この構造的な依存状態そのものに「NO!」を突きつけ、ヘルパーの支援を受けながら地域の中で暮らしたい、という自立概念を、青い芝の会をはじめとした障害者たちは打ち出してきた。これは、中央集権的な支配とコントロールに対するNo!であり、自分たちの内的時間、内在的論理を大切にしながら暮らしたい、という訴えであった。そのためにも、健常者中心主義の社会構造こそ、変わらなければならない、と周縁から中心に対しての強烈な異議申し立てを行い続けてきた。
国はいまだに入所施設や精神病院には膨大な国費を投入し続ける一方、地域で自立して暮らしたい、という障害者の支援には極めて抑制的な現実がある。このリアリティは、国の提示する政策や枠組みに従い・依存し続ける障害者には支援の手を差し伸べるが、自立や独立心のある・国に異論や対論を提起する障害者は制裁しよう、という姿勢に重なる。この部分を沖縄人と入れ替えても、また共通性があるような気がするのは、僕の妄想だろうか。
また、精神障害者の「社会復帰」という文脈では、これとは別の問題を感じる。うつ病や不安障害など、様々な病気でいったん職場を追われた人が、フルタイムの仕事に戻りたい、と希求する。だが、そういう人の中には、機械的時間が個々の内的時間を消尽することで成り立つグローバライゼーションの抑圧的文化にへとへとになって、病気という形でSOSを出した人も少なからず、いる。その際、病気療養としてやっと抑圧的時間から解放されたのに、病気が治ったら、また元の抑圧的文化に「復帰」すること「しか」道はない、と思い込むことが、本当に「社会復帰」なのか、という疑いをもつ。
もちろん、それでは食べていけないではないか、という反論もあるだろう。だが、働くことは、必ずしも抑圧的機械的時間への迎合、と同一化ではない。健常者社会のドミナントな規範や枠組みに同調せずとも、自分の内的時間に適合的な形で働く、役割を持つ、という可能性はあるはずである。同じように、沖縄も、本土と同じような形で発展を遂げよう、本土の補助金を出来る限り引き出そう、という発想ではない形での独立の可能性もあるはずである。
つまり、時計時間が提供する標準的な働き方・生き方、これをグローバルスタンダードの支配的な生き方、とするならば、そのやり方にNO!といい続けるやり方を希求する道だってあるはずである。このような、内的時間と社会的・機械的時間を共存させるような、抑圧的でない時間を取り戻すことが、魂の解放にもつながるのではないだろうか。そして、周縁からの「復帰」概念は、単に中央に戻ることではなく、自らの内的時間を取り戻しながら社会的時間と折り合いをつけること、と書き換える必要があるのではないだろうか。
さらにいうならば、これは沖縄問題や障害者問題に限定されるわけではない。僕自身の中にある魂の本性を周縁化し、進歩・発展・標準化・序列化というドミナントストーリーを中心的概念として信奉してきた歴史そのものを見つめなおすことがが出来るか、も問われている。機械的時間への迎合や「復帰」を目的とせず、内的時間を大切に扱うことこそ、真の意味での「個性化」につながるのではないか、と。
深々と降り積もる雪景色の中で、そんなことを考えていた。