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ストックホルムより

 

たった1週間のスウェーデン調査。土曜日は甲府でも大雪だったので、バタバタと荷造りをして、千葉まで逃げて、無事に旅立つ。でも、ここ最近死ぬほど忙しかったからか、色々忘れものが多い。デジカメを忘れて写るんですを買い、海外での変換プラグを忘れホテルで借り、ANAのマイレージカードをコペンハーゲン空港で落としたようで再発行のお願いをする始末。時間的余裕がない中での旅行、というのは、あんまりよろしくない。

昨日は今回の調査の目玉の日。社会庁で、朝から夕方まで、都合3人の人々に、色々インタビューをする。インタビュー自体は成功裏に終わったのだが、そこで緊張の糸が切れたのか、またストックホルムが急に冷え込んできた為もあってか、ホテルに戻ってから、何だか調子が悪い。さらに、昨日までパソコンがネットにつながっていたのに、昨日晩から急につながらない。フロントに電話したら「サーバーがダウンしています」とのこと。僕もそのうち調子が悪くなり、ダウンしかけたので、これだけは忘れずに持ってきた葛根湯を飲んで、夜7時頃には眠りにつく。時差ぼけであまり寝れていなかった+久々に英語を使うストレス+ちゃんと思い通りのことを聞き出せるかという心配など諸々重なってぐったりしていたが、厚着をして汗をかいてねると、夜中には多少ましになる。で、これも忘れなくてよかったのが、即席のみそ汁。身体に染み渡るので、マグカップにいれて二杯飲む。その後ほっこりしてきたので、また眠りにつくと、何とか翌朝には復活。ああ、よかった。

今回はたった一週間なのだが、LSS(障害者の権利法)の実態と支援者教育という二本の柱について、かなりみっちりと、聞き取りを続ける。今日は午前中、神学博士の方と支援者の倫理(ethics)について議論。倫理と聞くと、説教くさい話に聞こえるかもしれないが、さにあらず。対人直接サービス(英語ではHuman Serviceなんて言いますが)に携わるものが持たなければならない価値とは何か、について、じっくりうかがう中で、こういう視点が確かに必要とされているよなぁ、と実感。もちろん、1時間半のインタビューでは、その入口の部分しか聞けなかったので、帰って教えてもらった本をじっくり読みながら勉強せなあかんよね、という項目を発見してしまう。

で、あと5分で、1時間の無線ラン使用権が切れるので、これからの予定も簡単に。
これからイエテボリに向かい、4年間に前にお世話になったグルンデンを表敬訪問。それから、イエテボリでもLSSの実態に詳しい人に聞き取りをする。木金とみっちり働いて、土曜の飛行機に乗って、日曜日には帰国。ほんとはもっとじっくり聞き取りをしたいのだけれど、日本の宿題もぎょうさんたまっております。ただ、やはり日本をつかの間でも離れると、日本でのあれこれを相対的に考え直すチャンスであることは確か。ここ最近、忙しすぎてあんまりゆっくり考える間がなかったので、ちょっと反省モード、で飛行機に乗り込むこととしよう。

では、また。(たぶん次はイエテボリより)

良薬の苦さと堅さ

 

またもやご無沙汰しております。

年度末で、来週スウェーデンに調査に行く準備もあり、12月末から年度末までの特別プロジェクトの仕事も入り込んでくると、文字通り「目の回る」日々である。大学の講義は終わったが、ゼミ生の支援やら、採点・成績評価もある。研修も2月は結構ある。県の仕事も入ってくる。カレンダーを見るとびっちり予定が組まれており、風邪を引く余裕すらない。でも、この間、大阪出張のあたりでは危なかった。兎に角葛根湯を飲んで何とかしのげたけれど

で、今日は前からパートナーと約束していた、今季初のスキーのハズが
朝から、寝覚めが悪い。昨日調子に乗ってスパークリングと赤の2本のボトルを空けてしまったことが、バッチリ身体にきて、二日酔いで全身が怠い。しかも外は甲府でも雪が残っている。何だかこのまま出かけると風邪引きそうだよなぁ、でも今週末からスウェーデンなのに絶対引けないよなぁ。そう思いながら、車に乗り込んで、高速に乗る直前になって、パートナーがジャンパーを忘れたと言い出した。そこでお互い顔を見合わす。「まあ、無理をするな、やめとけ」、ということですね。で、スキーは直前で中止に。

さて、家に帰って荷物を下ろし、せっかく外出モード+珍しい二人揃った休日なので、服を少し軽装にして、バーゲンの広告が入っていた八ヶ岳アウトレットに向かう。小淵沢インターを降りると、結構道に雪が残っているばかりか、日陰はちと凍っていた模様。これで大門峠なんか行ったら、死にそうだった。行かなくてよかった、と実感。ついでに、バーゲンで温かい焦げ茶のズボンなんぞを安く手に入れて大満足。結局運動より買い物をとったのでありました。

事ほど左様にルンルンと今日は息抜きが出来たのだが、目の前の仕事はどれも結構〆切がきているだけでなく、一定の質の高さや自身の向き合う姿勢が問われているものが多い。つかの間の休日の夕べに、改めて、襟を正すために、先週の大阪出張の帰りに読んだ本の一節を触れておこう。

「ベーター読みは努力をともなう。口あたりもよくない。堅くてかみくだくのも大変である。よほど意欲がないと、できるものではない。社会へ出ると、学校の勉強ではベーター読みを相当やっていたような人が、そんなことは遠い夢であったかというように、もっぱら通俗のアルファー読みにわれを忘れる。」(外山滋比古『「読み」の整理学』ちくま文庫、p173)

外山氏は、「既知や経験済みのことについてのことばの活動」を「アルファー読み」、それに対して「未知を知るための言語活動」を「ベーター読み」と定義している(同上、p119)。最近、忙しくしていると、つい、アルファー読みで誤魔化そうとする自分がいる。堅くてかみくだく時間がない、なんて言い訳をして、サクッと掴みやすい「アルファー文献」でお茶を濁している自分がいる。最近、ある方からこの間の自分の行動に対する戒めのお言葉を頂いたのだが、それは「ベーター読みが出来ていない」という事を別の形で指摘されたのだった。「通俗のアルファー読みにわれを忘れ」ていないか? グサッとくる問いだ。そして、忙しいからこそ、今日のように休みもちゃんととった上で、「未知を知るためのベーター読み」をしなければ、内部から腐ってしまう。

「ロープウェーがあるから、それに乗って頂上へ行くことも出来るけれども、山に登った喜びはロープウェーでは味わうことはできない。アルファー読みは楽でたのしいだろう。ベーター読みはやっかいである。しかし、ロープウェーがあっても登山が決してなくならないように、いかにアルファー読み向きの読みものが多くなっても、ベーター読みがおそろそかにされてはならない。わかりやすい本があふれるように多い、こういう時代だからこそ、けわしい山に挑むような読書がいっそうつよく求められる。」(同上、p142-143)

時間がないことを、安易にロープウェーに頼る理由としていては、そもそも「けわしい山」に登るための基礎体力すらなくなってしまう。登山経験があるといっても、所詮僕が登ってきた山は、「けわしい山」の麓までの登山に過ぎない。ここからが、本当の登山の「入口」のはずだ。その「入口」で、すでにロープウェーに頼り始めているようでは、「既知や経験済みのこと」の閉じた環の中に入り込んでしまう。忙しいから、時間がないから、色々求められることが多いからこそ、安易な方向に逃げずに、優先順位をつけ、「けわしい山」への努力を引き受けることが大切なのだ。良薬は口に苦し、なだけでなく、咀嚼もしづらい。この苦さや堅さに耐えて、噛み続けることが出来るか。「昔取った杵柄」に固執する人生か、更なる成長を遂げるのか、の分かれ道にさしかかっている。

「資本主義的能力」へのザワザワっ感

 

2週間弱、ブログの更新が止まっていた。
すんません、生きております。元気でもおります。でも、まとまった時間がないんす。

一塊の文章を、出来れば他者の見解も入れながら書き留めようとすると、小一時間ほどかかる。その小一時間が、ここ最近、全く取れなかった。この2週間で一泊二日の出張二回、日帰り出張二回、丸一日の研修一回、講義に原稿に校正にと、目の前の雪の山をかいてもかいても減らない日々。挙げ句の果てに、そんな時間のない中で結構頑張って書いたとある原稿が、依頼元の都合で半分以下に削られる運命に。とほほ、と脱力しそうになる。でも、今日明日はセンター試験のお仕事なので、脱力してもいられない。痩せる思いだが、実際はジムにも行けないので、太りそう。今晩は仕事帰りにこってり泳がねば

そう、あんまり時間が取れないので、いつもの半分の時間で、メモ代わりにでも書いておかないと、フラストレーションがたまる。そこで、今日は30分一本勝負なのであります。

普段色々勉強させて頂いているとみたさんのブログは、今年、更新頻度がグッとあがり、考察されている内容も面白い。今朝読んだ文章ではこんなことが書かれていた。

『大きく引っ掛かっているのは「社会起業」ということばや概念なんだということがだんだんわかってきました。NPOの世界やその周辺の中で、最近、常に語られる「社会起業」。(略)いま、私たちが暮らしている社会の中で、できうることを少しずつ取り組んでいくという視点からみると、当然、これらはありなのでしょうが、どうしても、「資本主義的能力」を前提とした「強い個人」をその主体とする理屈にのって話をするときに、どうしても、ザワザワっとした違和感を感じているようです。』

僕自身もザワザワっ感を感じていたが、こういう風に文字化してくださると、「そうそう」と思わず頷いてしまう。こないだも金子郁容氏の「コミュニティ・ソリューション」を読んでいて感じたザワザワっ感である。金子氏曰く、

「インターネット社会では、次の二つの方向性が同時に進行するであろう。(略)
G
軸-世界が平準化しグローバル・スタンダードが支配的になる。
マーケット・メカニズムが一層重要になりグローバルな活動が必要となる。
C
軸-文化的・経済的多様性と分散化が進む。
たくさんの新しい関係性が発生し多種多様なコミュニティが形成される。
(略)
企業、NPO、行政などの組織がインターネット社会で生き残るには、グローバル性に特化するか、コミュニティ性を高めるか、それとも、(かなり難しいが)その両方を同時に進行するかの三つにひとつということになる。」(金子郁容「コミュニティ・ソリューション」岩波書店、p82-83

この整理自体は「すっきりしている」し、「美しい」のだが、何だか引っかかる部分がある。それがなんだろう、と思っていたのだが、金子氏の整理の背景にはとみたさんのいう『「資本主義的能力」を前提とした「強い個人」をその主体とする理屈』があるように感じられる。

社会起業も、何冊か囓ってみたが、やはりその中心には「強い個人」がいる。もちろん、そういう人々が何らかの器を作って、ソリューションを考えていくのだが、そこには「この人がいなくなってしまってはオシマイ」の壁が常にある。これは「強くない(=弱い)個人」を支える仕組みである時には、非常に危険なロジックだ。特に福祉の現場って、これまでだって公的支援が弱い中で、アントレプレナー的にゼロから構築してきた名うての支援者が一杯いた。そういう現場をすごいなと眺めていて、でも感じる危険性は、「この組織はあの人がいなくなればどうなるのだろう」という問題。人に依存するヒューマンサービスの組織では、ある程度仕方ない、ともいえなくないのだが、でも、組織が潰れてこまるのは、サービスを受けている「強くない(=弱い)個人」。しかも、その人の「弱さ」は、人間的なもの、というより、「資本主義的能力」という部分的な「弱さ」である。それを補完する為の仕組みが、「資本主義的能力」に基づいた論理で構築されていたら、危ういのではないか。何だかそんなことを感じている。

どうも尻すぼみだが、そろそろ出社の時間。続きはまた、細切れの30分に。

ウダウダから可視化へ

 

気がつけば正月休みも終わり、こちらも仕事モード。
申し遅れましたが、今年もこのブログをどうぞよろしくお願いします。

で、タケバタは新年早々の出張。昨年末にエアエッジ君を購入してしまったので、「しなの」の車中からでもこのスルメが更新できてしまう。いいんだか、悪いんだか。

この正月も1300キロかけて、実家ツアーに出かけてきた。渋滞予測の通り、今年は分散型だったようで、行きも帰りも若干の渋滞はあったものの、おおむね順調に旅を続ける事が出来た。日程を去年よりも一日延ばした、ということもあってか、だいぶのんびり出来た帰省であった。本当に電源を抜いたようになると、このオシャベリさんが、ほとんどぼんやり口数少なくなってしまう。特に後半の京都の実家では、気も抜いた為、酔いも早くまわり、おとそも大していただかないうちに、すっかり出来上がって、居眠りしてしまう。

そのおかげもあってか、昨日一昨日とジムに出かけたが、今年はほとんど正月太りすることなく、帰宅することが出来た。ちゃんと岡山でも京都でも歩く機会もあったし、正月早々悪くない滑り出しである。この調子で新年からバランスを取っていかないとねぇ。

で、山梨に帰った翌日から、こちらは仕事始め。年末にある程度仕事を片づけておいた、と思ったら、さにあらず。そういえば年末に「年明けまでにA4で10枚程度」「2月の学会発表を」なんて恐ろしい宿題も引き受けてしまった事もあって、年明けからデッドラインのある仕事がわんさかある。そうそう、来月はスウェーデン調査に行くつもりだが、その日程の確定も、年末になってようやく決めたところ。どうも昨年の特に後半は、決断力が鈍くなる(遅くなる)がゆえに、仕事が後手後手に回っていたことが多かった。その背景には、こんなつぶやきが隠されている。

「この決断をしてもよいのだろうか」「他の条件が整わないと」「正しい判断だろうか

普段のええかげんなタケバタからは想像できないかもしれないが、僕の本来の性格は「石橋を叩いて渡る」タイプであった。だから「機が熟すまで」「ギリギリまで」判断材料を並べて、ウダウダ悩むことも少なくなかった。もちろん、何にも考えずに右から左、という思考は問題がある。とはいえ、一定量以上の仕事を扱うようになってくると、多くのタスクに関して、先送りしていると、そのうち忘れてしまう。それよりは、「えいや」と決断して、駄目だったらその時考える、という方が、多少はましなのではないか、ようやくそう思い始めたのだ。

こんな事を書いていると、自己啓発系ビジネス書の亜流のようだが、でも実際、決断の先送りは、あまりよい結果をもたらさない。それでも不安な場合、まずはその要素を全部書き出して検討してみたらいい、ということで、ある方に教えてもらったマインドマネージャの体験版をインストールしてみる。なるほど、放射線状に整理してみると、不安や未決材料も可視化されてくる。不安なのは、考えがまとまらず、しかもそのまとまらない要素が整理(可視化)されていないから起こる場合が、僕の場合は多い。それなら、こうして決断が鈍る際にはどんどん可視化していくことによって、とりあえずの決断が出来る。そのプロセスを残しておけば、後で再検討する時も、どの時点でのどの判断に問題があったか、を理解することが出来る。天才型ではない人間にとって、自身の直感を可視化して補強するこの手法は、結構使える。というわけで、昨年末からマインドマネージャーにお世話になって、どんどんマインドマップを作って整理していく。おかげで、未決状態だった懸案の仕事もだいぶ整理できた。後は書くだけである。

今年はこういう思考の補助具をフル活用して、ウダウダしていずに、もう少し仕事(や決断)の効率化とスピードアップ(もちろん質を落とさずに)をしなければ、と改めて思う。やることは、次から次へと振ってくる。断る、という選択肢もあって、もちろんそうさせて頂く場合もある。でも、社会的使命、というほどではないけれど、このスタンス・現場であるが故にお願いされた仕事では、断れない場合もある。一度引き受けたなら、いい加減に終わらしたくない。でも、正月に電源を抜く日々をすごして実感するのだが、こういう休暇もちゃんとコンスタントにとらないと、バッテリーが上がる、だけでなく、回路がショートする日もそう遠くないような気もする。しかも、そういう最終的なバランスは、他人ではなく自己責任。ならば、仕事の効率化と休みの確保、という当たり前のような(かつ日本ではなかなか確保しにくい)ことをするしか、楽しく一年は過ごせない。

というわけで、今年はちゃんと働くけれど、ちゃんと休みもとろう、と心に決めたのでありました。
手始めは、2月のスキーから。しっかり楽しめるように、今月の〆切三昧を乗り切ろうっと。

場面と自身の変容

 

今年もこの時期、帰省中。岡山の山間の街には、ちらほら小雪が舞っている。

今年は帰省渋滞がほとんどなかったので、比較的楽に実家までたどり着く。そして、昨日からご馳走をおよばれしはじめたので、今日はテクテク歩く。身を切る寒さだが、ここで手を抜くとブロイラー状態になってしまう。今日と、明後日くらいは多分散歩に行くことが出来るだろう。暇を見つけて歩いておかねば。

で、今は掘り炬燵でメールチェック。とうとうエアエッジなるものに手をつけてしまったので、こうして山間部でもネットにつながってしまう。いいのだか、悪いのだか。月6000円、と聞いて、それなら仕方ないかな、と契約したのだが、その後、ある友人から「でも年7万2千円なんでしょ?」と言われて、グサッとくる。このエアエッジ君に投資した結果、それほどの価値ある何かが返ってくるのだろうか? 単に無駄遣いに終わるのではないか・・・。ま、ためらっても仕方ないので、せいぜい有効利用するしかない。

さて、今年を総括してみると、何が言えるだろうか? 一言で表現するなら、transformationだろう。といっても、新幹線が変身してロボットになることではない(誰も誤解しないだろうが)。自分自身が大きな変容過程にある、ということだ。

制度政策や福祉現場、支援者に「変わる」ことを求める仕事をしていて、でも自分がそれを突きつけられている事には無自覚だった。しかし、実際に自分が外野からヤジを飛ばしているだけでなく、内野で変革のお手伝いというコーチ役をするようになると、まず真っ先に自分自身の態度・有り様が問われる場面が多くなってきた。変な話だけれど、自分の堅さ・偏狭さ・視野の狭さ、といった内面は、相手とのやりとりでもにじみ出てしまう。まさに、前回のブログでの引用を引くなら、「相手からの返答は自分の接し方へのフィードバック」なのだ。そのフィードバックを相手の真実だと誤解し、ああだこうだと批判しているのは、下手をしたら自分自身に向かってつばを吐いているのと同じになってしまう。あぶない、あぶない。

そこで求められるのは、これも前回の内田先生の引用で行くと、「与えられた状況でのベスト・パフォーマンスは何だろうという技術的で限定的な問題に心身を集中する」ことそのものだ。現状を批判している暇があるのなら、「与えられた状況」をじっくり観察して、相手の理屈もまずは理解した上で、その状況下での「ベスト・パフォーマンス」を模索するしかない。今年、私にとっての最大の変容は、空理空論を叫ぶばかりではなく、この「ベスト・パフォーマンス」の模索を始めたことである。外野から駄目だと叫ぶのではなく、内野から状況を判断した上で、実現可能な変容過程を模索するお手伝いをし始めた、とでも言えようか。そういう部分が、去年までは出来なかったのだが、気がつけばその最前線にいて、求められるようになった。

まあ、タケバタはもともと、こういうブリコラージュ的手法は、案外不得意ではないようだ。

「科学者と器用人(ブリコロール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人は出来事を用いて構造を作る。」(レヴィ=ストロース「野生の思考」みすず書房、p29)

構造(=理論)を精緻に学ぶ、という「科学者」としての基本は、大きな声では言えないが、僕には苦手である。だが、現場にあるリアリティ(=出来事)を元に、その地域にあった構造を作るのであれば、何とか出来るかもしれない。

「彼の使う資材の世界は閉じている。そして『もちあわせ』、すなわちそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。」(レヴィ=ストロース「野生の思考」みすず書房、p23)

このゲームの規則自体は変わっていない。だが、昨年までと今年の違いは、気がつけば「もちあわせ」の中身が変わってきているのである。それまでの「もちあわせ」にはなかったものが、今は使えるようになった。それと共に、今までの「もちあわせ」の切り札として使っていたいくつかの手札は、そのまま今の状況で使うと、返って場を壊しかねない状況になっている。そう、ルールは変わっていないのだが、場面が展開(変容)しているのだ。その場面の変容に合わせて、自分をどうトランスフォームしていけるのか? その際、ぶれてはいけない視点、変えてもいい柔軟さ、はどの辺か? ここらの見極めが、来年、自分自身が成長できるのか、の大きな鍵になっている。そんなことが、大晦日に整理していたら、浮かんできた。

さて、さらに熟考すべく、温泉につかって一年の垢を取ってくるとしよう。
では皆様、良いお年を!

「仮想敵」という枠組みからの脱皮

 

年末の甲府最終日、プールとサウナに入った後に乗った体重計は75キロ!を指していた。

思えば今年の年始、正月実家暴飲暴食ツアーから帰った時には、84キロを迎えていた。そこで一念発起して運動と食事のコントロールを始めて早一年。75キロなんて夢のまた夢、と思っていたら、案外来れてしまった。ただ、予断は許さない。何故って先週までは77キロとか78キロ手前だったのに、クリスマスの風邪で2,3日あまり食事摂取から遠のいていた、その後の事だからだ。だから、明日からの「正月実家ツアー」に出かけると大変アブナイ。今年は鞄にスニーカーをいれて、出来れば二日に1度は1時間くらい散歩して、何とか激増を防ぎたいのだが

もちろん、その前に一応煤払いも行う。とはいえ、予定もタイトだったし、昨日今日で終わらせる。しかもパートナーがもともとこまめに掃除してくれていたので、結構早く終了。いやはや、感謝、感謝である。で、一番汚いこの仕事部屋を整理していたら、「読んだ後にブログに書こうとして書類に紛れてしまった本」をいくつか発見。それらをぱらぱらめくっていたら、ほほう、という記事に出会った。

「武道は補正と微調整の『折り合い』の芸ですから、その点が面白いのです。武道の技術的な目標は『敵を倒す』ではなく、『敵をつくらない』ということです。(略)『敵をつくらない』というのは、その敵対要素について、そういうものがもうここにある以上、それが出現する以前の現状に回復することはもう考えず、これから先の人生はこのものの存在を勘定に入れて生きる、というふうに考え方を変えることです。(略)与えられた状況でのベスト・パフォーマンスは何だろうという技術的で限定的な問題に心身を集中する。」(養老孟司・内田樹『逆立ち日本人論』新潮選書、151-153)

この内田先生の「折り合い」の説明は、今年の竹端の仕事を象徴するような話である。

今まで、黒か白か、の二項対立的世界、あるいはこのブログでさんざん書いてきたフレーズで言えば、「あんたは間違っている(=You are wrong!)」という背景にある「そういう私は正しい」(I am right!)という枠組みでモノを見がちだった。だが、傍観者ではなく、コーチ役として現場に立つ立場になると、こういう誰かをワルモノにするロジック、では必ず陥穽に至ってしまう。単一の(モノクロの)理由を作り上げると、その批判された側からのハレーションに必ず合う、という失敗を繰り返してきたのだ。つまり、自分の元々ある枠組みに固執して、新たな要素は、その枠組みの内か外か、のどちらかに無理矢理入れて、世界を納得しようとしてきたのである。書いていて情けないが、随分薄っぺらな世界観だ。

そんな世界観だから、あちこちで「それはちゃうでしょ!」と指摘され、赤っ恥をかきつつ、修正してきた。そう、「このものの存在を勘定に入れて生きる」しかないのである。すると、自分のちんけな枠組みを脱構築するなかで、「与えられた状況でのベスト・パフォーマンスは何だろうという技術的で限定的な問題に心身を集中する」しか、自分が出来ることはないのだ。で、この問題に「心身を集中」する際に、大切になってくるもう一つの問題については、もう一冊の「煤払い本」に書かれていた。

「あなたが偏見に満ちた批判的な態度で接すれば、相手も同じような態度で接してくる。反対に、相手を受け入れ敬意を示して耳を傾ければ、やはり相手も同じように接してくるだろう。(略)あなたが相手を受け入れる程度に応じて、相手もあなたを受け入れるかどうかが決まってくるのだ。(略)相手からの返答は自分の接し方へのフィードバックだ。」(マデリン・バーレイ・アレン『ビジネスマンの「聞く技術」』ダイヤモンド社、206-207)

相手を「仮想敵」と見なすかのような「偏見に満ちた批判的な態度」であれば、それは無理矢理「敵」を増やすのと同じである。だが、、『敵をつくらない』ように、「相手を受け入れ敬意を示して耳を傾ければ」、そこから「折り合い」が産まれる。自分の薄っぺらな世界観に固執するのではなく、「与えられた状況でのベスト・パフォーマンスは何だろう」と考えようとするのであれば、このような積極的妥協、ともいえる「折り合い」が必然であろう。

前回も書いたが、20代から最近になるまで、随分肩肘を張ってきた。周りに認められたいから、と、背伸びをするあまり、「仮想敵」を作りまくって、「あれもダメ、これもダメ」と非協調的対応だった。だが、30代の半ばに近づく年になり、気がつけば、自身の発言に、注目が集まるし、若干なりとも影響される方々も出てきはじめた。それなのに、子供の物言い・子供の世界観、であれば、迷惑千万だし、誰にも聞いてもらえない。ちゃんと耳を傾けてもらえる立場に立たせてもらったのだからこそ、自分が誰よりも相手に対して敬意を払わねば。煤払いの二冊は、えらいもうけもんの二冊だった。

あ、明日は4時起き、5時出発なので、ボヤボヤしてないで、床につかねば。
では、次はうまくつながれば、岡山の山間からです。

六甲山の法則

 

はやりものに捕まってしまう。そう、今年流行の胃腸にくる風邪だ。

土曜の夜に、東京で買ってきた生ハムとチーズに、クリスマス用に取っておいた、ちと高いワインを空けてみた。そこまでは問題なし。日曜日は何だか朝、全く何もする気がおきず、ぼんやりテレビの前で過ごす。そして、昼にパートナーが作ってくれた少しオイリーなパスタを食したあとくらいから、何だか胃もたれする。ま、そのうち消化すると思いながら、プールで一泳ぎして、帰りは鳥一でクリスマス用の鳥の丸焼きも購入。この日は行きつけのぶどう農園で今年出来た白ワインの一升瓶を一ケース、分けてもらったので、「今宵は地鶏に地ワイン」と考えていた。ところが

帰宅後、半身浴をしていたが、やはり胃の不快感が無くならない。胃薬もあまり効いていないようだし、それに何より関節や背中が痛む。もしかして、やはり風邪のようだ。その時、風呂で読んでいた本の一節からいろんなことを思い出す。

「何かを失うための最良の方法は、それを離すまいともがくことだ」(G・M・ワインバーグ著『コンサルタントの秘密』共立出版、p131)

このワインバーグ氏の箴言から何を思いだしたかって? それは、「六甲山の法則」である。

昔から、少年タケバタヒロシは胃腸が弱かった。そのくせ食い意地が張ってついつい食べ過ぎるから、よくお腹を壊したものである。そんなヒロシ君の、ある休日の話。その日は六甲山にドライブに連れて行ってもらえることになっていた。ヒロシ君は大のドライブ好き。父親の運転する車の助手席に座っているだけで、うきうきする、そんな少年だった。だが、そんな楽しいドライブの当日、ヒロシ君は誰にも言えない悩みを抱えていた。それは、お、お腹がいたいのだ。昨日食べ過ぎたからかもしれない。とにかく、下痢気味でしんどいのだ。でも、ヒロシ君はどうしてもドライブに連れて行ってもらいたい。せっかくのチャンスを台無しにするのでは、と思うと、正露丸を親に隠れてこっそり飲んで、我慢して六甲山まで向かった。その結果、六甲山で酷い下痢に見舞われ、しかも夏なのに六甲山は寒かったこともあり、さんざんな目にあったのだ。

なぜ20年以上前のこんな逸話を思い出したのか。それは、「したいことが後に控えていると、無理をしてでもそれを遂行しようとする」という自分の癖を思い出したからである。例えば、せっかく地鶏と地ワインを買って、パートナーと二人で食そう、としているのだから、無理をしてでもそれを実現しよう、と。予期された楽しみの為には、諦めずに我慢してでも遂行しよう、と。でも、それって、「それを離すまいともがくこと」そのものであり、その結果として「何かを失うための最良の方法」になってしまっているのだ。

焦る必要はない。鳥もワインもドライブも、また今度があるのだ。「今日しかない」と近視眼的に求めるからこそ、無理と歪みが生まれ、うまくいくはずのものまで台無しにしてしまう。今は食べ物の話だけれど、それ以外にも、いろんな事に対して「離すまいともがく」ことによって、結果的にそれを失ってこなかっただろうか。そんなことに気づいてしまったのだ。

「六甲山の法則」は、ほどよい諦めの決断が、次につながることを教えてくれている。そして、この無理をしないというほどよい諦めを知る人のことを、世の中では「おとな」と呼ぶらしい。32も終わりになって、ようやく大切な大人の一箇条を知ったようだ。

二つの排除

 

土曜日の朝、日の出の時刻、真っ裸で富士山を眺めていた。

ところは「ほったらかし温泉」。たまたま昨晩は10時半過ぎには床につき、パートナーと、「明日早起きしたら、久しぶりにほったらかしにでも行こう」と言ってたら、ほんとに5時半過ぎに目覚めてしまったのだ。6時前の甲府はまだ真っ暗だったが、車を30分ほど走らせて山梨市の山間までやってくるころには、ようやく明るくなってくる。こんな早い時間にもかかわらず、まあ沢山の車が止まっていること。しかもナンバーは練馬に横浜にと皆さんわざわざ関東近県からお越しになる。ここしばらく、テレビで再三この温泉が取り上げられたから、これだけの沢山のお客さんなのだろう。もちろん露天風呂も結構な人の数なのだが、それでも明けゆく空と曇り空の中に見え隠れする富士山を眺めていると、気分がすこーんと開放的になる。

で、開放的な気分もそこそこに、自宅に帰って身支度をした後、今度は東京へ。今日は午後から研究会がある日なのだ。電車の中で予習の本も読めてしまったので、以前から目をつけていた新宿の靴屋に立ち寄る。大阪でお世話になっている髪切り職人氏に教えてもらった靴屋なのだが、今日聞けば、この新宿店が本店だとか。非常に履きやすくて、かつ格好良い靴を、割とリーズナブルな価格で提供してくれている。以前大阪の同系列の店で買った革靴も大変気に入っているのだが、難点は着脱の際に引っかかり、少しくるぶしもいたい部分。今回はそれを伝えると、もっとラクチンな一足を出してもらう。履いてみたら、イメージにぴったり。即決で購入。その後、ジュンク堂でめっけもんの本も買い、伊勢丹ではパートナーがご所望のチーズに生ハムも買って、研究会の場所へ直行。クリスマス商戦まっただ中で非常に混み合った新宿で、しかもわずか1時間の滞在時間にしては、実に効率的だ。たまに都会に出てくるからこそ、「短期決戦」でぴったり決まると、嬉しい限り。

その後、研究会での議論の的が「社会的排除」。
ある本
を下敷きに議論をしていったのだが、もう一つこの概念がしっくりこない。「様々な人々が排除されている現実」はよくわかるのだが、彼ら彼女らは「排除されている立場」として資本主義経済にしっかり組み込まれている。再分配や資源へのアクセスからは排除・制限されているが、そのような立場として資本主義経済に組み込まれている(排除されていない)人々のことを、どう考えたらいいのか、がもう一つわからなかったのだ。

で、帰りの電車の中で、ジュンク堂で見つけた本を眺めていて、疑問にわかりやすく答えてくれる記述にであう。

「社会的排除の問題構成がみえにくくなりがちなこういう状況に対して、非-市民および部分的市民の排除の問題を検討する議論を参照する必要がある。非-市民は『外で排除されるもの』であり、部分的市民は『内で排除されるもの』である。具体的にいえば、非-市民はそもそもシティズンシップを持たない不法滞在の外国人や、国境を阻まれる難民である。部分的市民は、シティズンシップをもっていても二級市民扱いされ、十全な権利を享受出来ない女性やマイノリティなどである。後者に『内からのグローバル化』というベックの概念を重ね合わせるならば、コミュニティ内の部分的市民のあり方こそが、内部に生起するグローバル化の端的なあらわれであることがわかる。」(亀山俊朗「シティズンシップと社会的排除」福原宏幸編『社会的排除/包摂と社会政策』法律文化社、87-88)

研究会で議題に上がった本がフランスを念頭においた分析だったので、亀山氏が整理するところの「非-市民」の排除問題に大きく焦点化されていた。だが、日本においては「部分的市民」と見なされる人々の排除の問題が小さくないだけに、「非ー市民」の議論で「部分的市民」問題をどう捉えていいのか、がよくわからなかったのだ。だが、このように二つを整理した上で、両者の包摂に必要な戦略を提示してもらえると、少し頭の中がすっきりする。

ちょうど研究会でも、「コミュニティ内の部分的市民のあり方」についての議論が進んでいた。特に障害者を「部分的市民」として隔離・収容してきた歴史があり、今、地域移行という政策転換を行おうとしている(その中で多くの問題も発生している)日本において、この問題をどう考えたらいいのか。こういった障害者と社会政策のあり方をきちんと考えるために、研究会に足を運んでいる、というのが、僕の偽らざる実感。そうしてにわか勉強する中で、この問題は奥が深いことがわかってくる。

「『福祉国家のリベラル化』の立場からみると、再配分の軽視は、一級市民と二級市民の格差、『内で排除されるもの』と『外で排除されるもの』の分断を、結果として肯定することになる。『トランスナショナルな包摂』の立場からみると、再配分へのこだわりは、閉鎖的なナショナリティへの執着と同義であり、市民と非ー市民の分断を固定化する。」(同上、95

日本の障害者福祉にのみ目を向けると、議論の中心はやはり「再配分へのこだわり」になる。これはもちろん必要なのだけれど、こだわりすぎることによって、「閉鎖的なナショナリティへの執着」という結果をもたらしてしまう。このあたりのバランスを欠いた議論は、実に危険だ。とはいえ、「一級市民と二級市民の格差」問題を、黙っている訳にはいかない。ここ最近、この研究会で福祉国家と社会政策について議論してきたが、まだまだわからないことだらけ。現場との関わりも続けながら、こういうマクロ的視座からの勉強もし続けないとまずいなぁ、と感じながら、甲府への帰路についていた。

靴と対話

 

なんだか久しぶりの休日らしい休日。土曜日は研究会で終日東京だったが、金曜日と日曜日の2日も休みが取れる。なんて、当たり前なことなのだが、ここしばらくそんなことはなかったので、なんたる幸せ。

金曜日は前からパートナーと約束していた、御殿場のアウトレットまで出かける。靴とベルトを探しに出かけたのだが、ズボンとベルトを購入。濃紺のズボンは、履いてみるとピッタリ、というだけでなく、あら不思議、細身に映る。ダイエットも大切だけど、こういう姑息な手段も時には重要。で、靴を買うつもりで入った革製品のショップで、靴は気に入ったものがなかったのだが、ベルトが自分のイメージに近いものを発見。イメージ、っていうか、単に今のベルトの代替品が欲しかっただけだ。このベルト、確か高校生の頃?くらいに、実家近くのジーパン屋で購入したもの。下手すれば、15年近く使っている計算になる。もうボロボロのヨレヨレ。確か3000円程度で購入したものなので、減価償却はとっくに済んでいる。今回は、皮の専門店で、その3倍程度の額のベルトを購入。多少は見栄えも気にしないと、ねぇ。

で、この革製品のお店で、手入れについて聞く中で、ふと「ラパーを今使っているのですが」と口に出すと「うーん、あれはちょっとねぇ」という話になる。よくよく聞いてみると、蜜蝋の製品は、光沢は出せるけど、皮の保湿には効果がないそうだ。動物の皮も、乳液と同じ成分のクリームが良い、というのは、人間の肌と同じ。試しにヨレヨレの15年選手のベルトにそのクリームを塗ってもらうと、表面がすべすべになる。塗っている際にしみこんでいくのもわかる。お店の人も「今日は暇なんで」と、ついでに財布までクリームを塗って頂く。何だか「店頭実演のおじさんに引き込まれて商品購入」の図式そのものだが、黒と茶のクリームを購入。早速、今日のお休みに塗って見ると、靴がしっとりしてくるのがわかる。なるほど、そんなにカラカラだったのですね。これは大変失礼しました。面倒くさくても、ちゃんと皮の特徴を理解した上で、その特徴に添ったお手入れが必要なようです。

で、かなり強引なのだが、面倒くさくても特徴を理解した上でレスポンスしなければ、というのは、人間でも同じ。こないだとある場で、私がある意見に対応しているのを聞いていた第三者から、「タケバタさんって愛があるねぇ」とコメントされる。「どういうこと?」って聞いてみると、「だって、ああいう発言にもちゃんとレスポンスしようとしているもの」という答え。確かに、その場では、少しややこしい問いが僕に投げかけられていた。でもそこで「あんたはわかっていない」「僕の意図は別にある」という居丈高な振る舞いをすることや、相手の発言を無視するようでは大人げない(といいながら、僕自身、これまで結構そうしてしまっていたのだけれど)。

最近気付き始めたのは、そういう発言の中にも、何らかのヒントが隠されている、ということ。それに気付き始めてから、この種の、ジャストミートではない返球(他人はそれを暴投とかいう)の中には、たまにとんでもなく「拾い球」もある、と思い始めている。こないだもそうだった。

以前も、同じような質問をされたことがあった。その事について、こないだもさらに聞かれる。正直、前回聞かれた時は、「なぜこの人はわかってくれないのだろう」という問いから、「こういうわかっていない人は問題だ」という非難追求モードに変わっていた。きちんと相手の出したボールを、受け止めて、投げ返していなかった。まあ、お陰で「わかってもらえないのなら、論文でも書いて証明してみよう」と一本の論文を書き上げるよいインセンティブは頂けたのだけれど。

今回、3年ぶりくらいに同じような質問をされた。でも、今回は、その相手の発言を聞いていて、他の人に同様な質問をされ、その中で、相手がどういう意図でそういう質問をしてきたのか、の全容がようやくわかってきた。で、わかってきてみると、以前は「あんたが理解していない」という追求モードだったが、逆にそのモード自体が、相手からすると「福祉の研究者は一面的だ」という事の証拠になっている事が判明。つまり、私のその行為含めて、それって「偏りがあるのではないですか?」というご指摘を頂いていたのだ。その偏りを自覚するどころか、頑なにその偏りにしがみついて、「あなたはわかっていない」モードで語りかけてしまっていたのだから、これは何と愚かしい。そういうことに、3年もたってようやく気づかせて頂いたのだから、ちと進歩はあったのだろうか。

そう、面倒くさくても、相手の特徴や意図をしっかり理解した上でレスポンスしていれば、思わぬ「めっけもん」があるんですね。

問題解決の前に

 

快晴の甲府。パソコンのある部屋から見える愛宕山はようやく朱色に色づいている。

今日は今から富士山の麓まで車を走らせる。といっても、観光ではなくお仕事。富士北麓圏域の障害当事者やご家族、支援者や行政関係者の前で、特別アドバイザーとして半年仕事をしてきたことを報告しに行く場面だ。今年は仕事で御坂峠を何回越えたことだろう。全県的に巡って、色んな関係者の話を伺う中で見えてきた課題を整理し、その現場現場に合うような内容を現場に返していく。そういうやり取りが続いて来たし、今日の現場でもそうなるだろうと思う。

こういう場合、正解が一つ、なんてことはあり得ない。その現場の特性に合わせた形で、しかもぶれてはいけない視点だけはしっかり入れながら、現場に受け入れやすい形で伝えていくにはどうすればいいのか。まさに、自分の見立てる力、掴む力、そして伝える力が試されている。そんな試行錯誤をしている最中だからこそ、次のフレーズは、身に染みる。

「返答のパターン
1.最初に、集中する。
2.つぎに、相手の感情の構造に入る。
3.最後に、状況を転換する問題解決の行動をとる。
まず、このパターンを完遂するには創造性を維持する必要があるため、最初はかならずしっかりと集中する。つぎに、相手の発言の『感情的内容』に触れる方法を探し、自分の感情と相手の感情の状態をリンクさせる。感情的内容は『ここにいることをどう思っているのだろう?』という第二の普遍的質問を使えばわかる。最後に、相手は何を実現したいのかという肝心の内容に進み、どのような手段をとれば相手の望む状況に近づくことができるかを判断する。」
(ジェラルド・M・ワインバーグ『コンサルタントの道具箱』 日経BP社、p150に基づき、文章は一部省略と入れ替えをしている)

色んな現場に呼ばれ、時には研究室にお越しになり、様々な論点が出される。そこで、何らかの対応が求められる。その際、振り返ってみると、この3つのプロセスを経ていけば、何らかの打開策が見つかっていく。逆に言うと、「相手の感情の構造」を理解することなく、もっともらしい答えを出したところで、問題は何ら解決しない。この相手とは、担当者個人レベルのこともあれば、その部署レベル、あるいはその地域レベル、と言うこともある。とにかく、感情的なものに入っていくためには、こちらも自分が集中して、感情的に安定している必要がある。

そういう機微が、少しずつだが、わかりはじめた。学生であれ、市町村であれ、当事者であれ、支援する際の基本は「相手の望む状況に近づくことができるか」であることに何らか変わりない。こちらの価値観を押しつけるのではなく、「相手の望む状況」への接近支援、それが今の私に課せられているミッションだ。だからこそ、自分が集中できる余裕がないと、物事はうまくいかない。今日もルンルン富士山を眺めながら、気持ちよくドライブして出かけるとするか。