規範を超える事実とは?

 

久しぶりに風邪を引いてダウン。
ここしばらく相当気を張りつめていた日々が続いた後だったので、身体がギアチェンジを求めているようだ。鼻づまりに悪寒がすれば、強制的にローギアに入れ替えざるを得ない。それでも金曜は冷や汗をかき、喉をからしながら日中の集まりや講演だけは何とかこなす。その後の夜の会合やら、土曜の予定は全部お断りし、寝込む、ねこむ

こういう時こそ、安静が一番、を理由に読みかけで放ったらかしだった本を最後まで読み終えるチャンスでもある。

「ひとつの王国の統一性は、それと矛盾する存在の切りはなしを前提として保たれている。それはしばしば事実を犠牲とした規範性の維持によって成し遂げられる。人民はたとえいかなる事実であれ、それが王国の規範に触れるかぎりそれを無視しなくてはならない。このようなことがあまりにもつづくと、無視された事実はだんだんと力をもち、ついには王国を倒すほどのエネルギーを貯えてくる危険性を持っている。このようなとき、いちはやく真実に気づき真実を告げる役割を道化はになっている。しかし、それは危険きわまりないことである。」(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫、190-191

王国だけでなく、あるルールの中で統制されている場は、「事実を犠牲とした規範性の維持」で動いている。そして、「無視された事実」の害や影響が少ない限りにおいて、規範性の維持>事実、という図式は変わらないでいる。だが、「王国を倒すほどのエネルギーを貯えて」しまう前に、その「事実」と向き合い、ガス抜きであれ根本的変容であれ、何らかの対応をしないと、規範性の維持は事実を前に崩壊してしまう。旧ソ連の崩壊であれ、銀行や証券会社の倒産、自治体の破産なども、同じ系譜だ。

だが、昨今多くの場面で「道化」がもたらしてくる新しい事実に、そのまま肯定的評価を与えていいのかどうか、もよくわからない。

「2001年4月。ブッシュ政権の第一予算管理局長であるミッチ・ダニエルは連邦予算審議会のテーブルにおいてこう発言した。『我々政府の仕事とは、国民にサービスを提供することではなく、効率よく金が回るようなシステムを作り上げることだ』」(堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』岩波新書、41

この本では、かの「王国」が重んじる統一性を保つ規範として「効率よく金が回るようなシステム」がこの10年近く採用されてきたこと。その結果、「事実を犠牲とした規範性の維持によって成し遂げられる」ゆえの、犠牲となった事実について、サプライムローンやハリケーンの被害者だけでなく、イラク戦争に従事する米軍や関連民間会社にも、その犠牲者が送り込まれている現実を、フットワークのよい取材で明らかにしている。流れが一面的に見える部分もあるが、王国の規範的な流れと対極をなす動きを指摘するためには、これくらいの「偏り」が必要なのかもしれない。

福祉国家から民営化へと大きく軸が動いてきたのは、確かに官僚制などの制度疲労である。だからといって、新自由主義のみが、唯一の解ではない、とこれも少なからぬ人々が気付き始めている。だが、ではそうではない「解」を、どの「道化」が出してくれるのか。このあたりが、謎のままだ。おそらく色んな政治家や学者は、それぞれの「解」を差し出しているのだろう。でも、どの解答案も「王国を倒すほどのエネルギー」とは何か、の本質をつかめていない。僕にしてもしかり。そして、その本質への近似性が、現在の所一番説得力があると思われている解が「新自由主義的」なるものなのかもしれない。だが、これだって、多くの事実を犠牲にしている、というのは、先のアメリカのルポを見てもわかるところ。ということは、それ以外の何か、がどう出てくるのか、が今、見えない、という混迷の中にいるのだろう。

とまあ、文章のまとまりをどうつけてよいのか、混迷の中にいるうちに、今日はお仕事に出かけなければならない時間。鼻はまだムズムズするが、スーツに着替えて、出かけるとするか。

「失望とフラストレーション」で終わらないために

 

「多くの人は、自分がどんな信念をもっているかにすら気付いていない。したがって、その信念を理解しようとしたり、修正しようとしたりする機会はあまりない。他人への接し方に関して、自分の信念がどう影響しているのだろうか? その点がわかっていないと、自分とは違った考え方や行動を受け入れるのは難しいだろう。(略)
私とあなたがお互いの信念にきづかなければ、それぞれが相手を厄介者扱いする。反対の考え方を持っているわけだから、相手の考えを聞くのは骨の折れる作業になる。お互いを侮辱し合うことにもなりかねない。互いにうまくやっていくのは至難の業だ。
このように、自分の考えを持っていると、相手に何らかの行動を期待してしまう。そして、相手も別の考えに基づいて、別の行動をこちらに期待する。信じるところが違えば、お互いの期待は成就せず、失望とフラストレーションだけが残る。一方、お互いに相手の考えを理解しようと努めるなら、性急に決めつけることなく相手の主張に耳を傾けられる。」(マデリン・バーレイ・アレン『ビジネスマンの「聞く技術」』ダイヤモンド社、63-64

ここ最近、幾つかの〆切やら、新しい展開やらの真っ直中にあって、なかなかブログの更新が出来ない。もう少し長めに書きたいネタも二つほどあって、家のデスクの前に置いてあるのだが、その時間がとれない。今日も、今日が〆切の原稿の詰めの段階で、長々書いている余裕はないのだが、でも、最近読み返しているこの本の、「自分がどんな信念をもっているかにすら気付いていない」という部分は、まさに僕自身に当てはまる。今、幾つかの状況で「失望とフラストレーション」が生じている。何でだろう、と、困惑している時に、実はパートナーに同じ事を言われた。「みんなあんたのように考えている訳ではないよ」。そういわれてみて、ハタと気付いたのだ。そうか、僕は僕の「信念」を前提に話しているのだ、と。

その際、「信じるところが違」うという事実に気付いていなければ、「自分とは違った考え方や行動」に出逢った時に、「相手を厄介者扱い」にしてしまう可能性がある。すると、結果として「お互いの期待は成就せず」、となるのだ。幾つかの暗礁に乗り上げかけている課題は、おそらくこの「私とあなたがお互いの信念にきづかな」いことが原因になっているようだ。で、それを変えるために、「だからあなたがわかっていない」と言ってしまうのは、全くの悪循環。そう、僕が気付いたのなら、僕から変わる必要があるのだ。

正直、「相手も別の考えに基づいて、別の行動をこちらに期待する」状況にあって、「相手の考えを聞くのは骨の折れる作業」である。それは、単に話を聞くのが面倒だ、というのではなくて、異質な何かと、自分の信念とは違う何かと向き合うことが、イコール自分自身のゆがみや偏りと直に向き合うことになるからだ。つまり、「反対の考え方」を直視する事から、反射的に自分の考えの枠組み、というものが照らされて、しんどいのである。ツーと言えばカーとならない事態だからこそ、対話の困難性の中に、困難をもたらす自分自身の要因をも見出すのだ。そりゃ、人間自分の嫌な部分を見たくない。話が通りやすい人と慣れた会話でお茶を濁す方が楽ちんだ。だからこそ、対話はしんどいのである。

さあ、しんどいその状況下にあって、逃げるか、真正面から向き合うか、が問われている。
でも、どうせなら「失望とフラストレーション」で終わるのは、あまりに面白くない。すると、残されている選択肢は、「性急に決めつけることなく相手の主張に耳を傾け」ることを通じて、「相手の考えを理解しようと努める」しか、ないのだ。何だ、答えは簡単だ。でも、これほど、言うや易し行うは難し、なことはない。

文字の向こうっかわ

 

日曜の研究会で先輩の研究者から、「これ面白いよ」と貸して頂いた一本のビデオ。昨日学生さんに手伝ってもらってDVDにダビングして、その映像をチェックし始めたら、あまりに面白くて最後まで一気に見てしまった。その映像のことを書こうとネットで調べてみたら、何と一部がダウンロード出来るではないか!

Living in the Freedom World: Warren
Personal Stories of Living in the Community by People Who Once Lived in Oklahoma’s Institutions

これは留学経験のない僕でもわかりやすい。なんせ、映像に字幕がついているし、横にはスクリプトまで載っている。最初映像を見た際は、それらが全くなかったけれど、オクラホマの入所施設にかつて住んでいた、そして現在は地域で暮らしている知的障害を持つ人々やその家族が、どんな思いをしていたのか、の変遷が、英語を超えてダイレクトに伝わってくる。

「俺はちえおくれなんて呼ばれたくない。そんな言葉、絶対に使ってほしくない。」
I don’t like to be called retarded. That shouldn’t be used.

予備校時代の恩師の先生が、「タケバタくん、英語を英語として捉えたらあかん。文字の向こうっかわにある、誰かがあなたに何かを伝えたいという思いに添わなあかん」と仰っておられたのを思い出す。その映像の向こう側に、施設で嫌な経験をし、今自由を取り戻した多くの「人」がいて、映像を通じてその大変さや苦労、今の楽しさを僕に語りかけてくれている。英語という「文字の向こうっかわ」とダイレクトに繋がると、字幕がなくとも、なんかじんわりしてくるものがあるのだ。

で、この映像はどこのサイトのものなんだろう、と調べてみると、なんとミネソタ州の発達障害者福祉局。アメリカの発達障害者福祉法は権利法としてすごい、と知識で知っていたけれど、こんな大切な映像もアーカイブで残していて、しかもそれらを通じて多くの人に普及啓発しよう、としているのが凄い。なんてクリックしていくと、面白い映像が出てくるは、出てくるは。とりあえず試しに見てみた次の映像も、やはり15分間釘付けだった。

Person-Centered Thinking: Supporting Self-Determination

パーソン・センタード・プランニング。日本では本人中心計画と言われている、専門家主導ではない新しい支援の考え方である。その訳本をいくつか読んでみても、原著を眺めていても、なんかその本質がしっくりこなかった。だが、上記の映像をみて、その疑念が吹っ飛んだ。自己決定の尊重や、あるいは責任主体として動けるように支援する、といった難しそうなことを、実にわかりやすく解説してくれているのだ。

他にもParallels In Time:A Six-Hour History of Disabilityとか、興味津々の内容がてんこ盛り。ちょうどある報告書の〆切直前で、そんなもん見ている暇ない、と怒られるかも知れないが、実は今まとめているのが、まさに日本における知的障害者の地域生活移行について、当事者たちがどう考えておられるのか、というインタビューデータのまとめ。この作業をする中で出てきた当事者たちの思いと、このアメリカの当事者たちの語りが、本当にパラレルなのだ。そういう、歴史性や普遍性を持つ内容故に、心揺さぶられていたのかもしれない。でも、そろそろ本業に戻らなくっちゃ。

以上、マイブームの報告でした。

議会と福祉

 

5月11日のブログで、大阪の権利擁護に関する府単独の制度が財政再建を理由に廃止になりかけている事を書いた。その最後に、こんな内容で締めくくった。

「では、どうすればいいのか? そのヒントを今日の記念講演の話し手であった野沢さん(毎日新聞)が指し示してくださった。これは非常に示唆に富むのだが・・・そろそろおねむなので、続きはまたあとで。」

で、忘れてしまわないうちに、その示唆に富む話の一つを。

毎日新聞の野沢さんと言えば、「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」を作った立役者のお一人。それに至る波瀾万丈のストーリーは「条例のある街」という魅力的な本の中にぎゅっと詰まっている。詳しくはこの本かあるいはDINFのHPをご一読頂くとして、野沢さんの話を伺っていると、千葉の話と大阪の話が実は構造的に似ているような気がしていた。

千葉の場合、この条例を作ろうとする「知事」と、知事に反対して条例を潰そうとする「議会」、そしてこの条例を何とか通したい「障害者団体」、という構図があった。で、大阪の場合、福祉関連予算をカットしたい「知事」と、その問題に当初はあまり関心のなかった「議会」、そしてこの予算削減を阻止したい「障害者団体」。「知事」のベクトルが逆向きである、という点や、「議会」のコミットメントの違いがあるが、共に都道府県単独の事業(条例なり制度)を創設・廃止しようという局面で、首長の裁量権が問われている、ということには変わりない。そんな感じがしていたので、質疑応答の際、「この構造的な類似点に関連して、大阪はどうしたらいいか、について千葉の取り組みからアドバイスがありますか?」と伺ってみた。すると、次のようなアドバイスが寄せられた。

「千葉では、議会中に議員宛に『やっぱり必要、みんなで作ろう!』という名のニュースレターを作って、頻繁に情報提供をしていた(このニュースレターは大熊由紀子さんのHPで全部読めます)。また県議会議員への戸別訪問だけでなく、県議に影響のある市町村議員へも、協力要請に出かけた。これまで全く議員に接したことのない障害児の父母が、とにかく条例を通したい一心で、全く縁のなかった議員さんに話しかけにいった。これが、県議会での反対の空気を変える大きな原動力になった。だから、大阪でも、府議会議員の全会派、そして市町村議会議員などに、その制度がなぜ重要か、なぜ存続する必要があるか、伝える必要がある。」

このお話は、実に意義深いものであった。障害者福祉に引きつけると、長野の田中県政時代にはじまった県立西駒郷からの地域移行や宮城の浅野県政時代に謳われた「施設解体宣言」など、首長はよくスポットライトがあたるが、その一方、議会議員に光はなかなか当たりにくいし、注目もされにくい。しかし、確かに中高の教科書にも書いてあるように、首長の仕事をチェックするのも、地方議会の大きな役割なのである。知事の政策が障害者福祉に逆機能を示し始めたら、それをチェックし、順機能するように促すのも議会の役割である。実際、大阪でも障害者団体の様々な取り組みも功を奏し、議員レベルでのこの問題に関する関心が増え始めているようだ。地方議会が人気の高い橋下知事にどのようなアプローチをしようとしているのか、実質的なアクションに至れるのか、今後が多いに注目される。

ところで、この議会と福祉に関しては、実は私も少しだけ今後コミットする予定である。実はうちの大学と山梨県の昭和町議会が木曜日、政策提携に調印をした。議会側には議員のスキルアップやコンサルティングを、学生側は「学生議会」などを通じて議会運営を実地で学ぶ、というwin-winの連携である。大学側の提携元である「山梨学院大学ローカル・ガバナンス研究センター」にちょこっと関わりがあり、今年の二年生ゼミの皆さんには昭和町の福祉について足で稼いで調べてもらい、この11月の「学生議会」で質問してもらう予定。議会や議員と首長や町の政策の関わりを、生身で体験してもらおう、と思っている。この際、千葉や大阪の、「首長」と「議会」と「課題を抱えた市民」という構造から、私たちが学べることは少なくない。今度のゼミで、その話もしてみることにしよう。

*追伸:以前このブログでも呼びかけた大阪府の「精神障がい者権利擁護システム事業(精神医療オンブズマン制度)」の廃止案撤回を求める署名が合計1万7022名分集まり、23日、集約団体から大阪府に提出されました。このブログを通じてご協力下さった方がいらしたら、感謝と御礼を申し上げます。
*追伸その2:いつもお世話になっているこのブログの管理人mamnag氏のお陰で、コメント欄が復活しました。スパムコメントが滅茶苦茶あったので、一時全面的にストップしていたのですが、そのデータをサーバーから消して下さったので、何とか復活です。こちらも以後、ごひいきに。

東京と大阪の魅力的な会の告知+α

 

ここ最近、肯定的であれ批判的であれ、制度や法律の激変の「後追い」をしている催しものが多い。それはそれで仕方ないのだが、本当に参加して充実する、オモロイ講演会なりシンポジウムって、やはりその制度の枠組みを超えた部分にある。こないだ紹介したNPO大阪精神医療人権センターのオンブズマン活動の講演会しかり。

で、そんな制度の枠組みに囚われない、本質的な議論や問題提起が聞ける講演会が、何と同じ日に東京と大阪で開催される。僕自身、東京の講演会の主催側なので、大阪の方にいけず、非常に悔しい!!! 

東京の方は、障害のある方が施設から地域に生活を移行させるとはどういうことか、を検証するプロジェクトチームの2年以上の調査研究の報告集会(ちなみに昨年度報告はこちら)。大阪の方は、30年間かけて地域での福祉コミュニティー作りを続けてこられた老舗NPOの記念集会。この激変時期に、改めて市民活動とは何か、まちづくりとは何か、を考え直す絶好のチャンスになりそう。後者に出れず非常に残念なタケバタだが、せめて告知だけは掲載させて頂く。西の人は大阪に、東の人は東京に、でもいいけど、どちらも魅力的なので、東西関係なく、ご関心の向く方に足を運んでくださいませ。(ちなみにこの告知ついでに、一番下に僕自身に関連する告知も

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長野県知的障害者入所施「西駒郷」の地域移行を検証する研究報告会
(テーマ未定、微変更可能性あり)

日時 2008629日(日)12時から17時まで
場所 日本財団ビル大会議室(東京都港区赤坂1丁目22号)

<アクセス>
地下鉄銀座線「虎ノ門駅」3番出口徒歩5
地下鉄銀座線・南北線「溜池山王駅」9番出口徒歩5
地下鉄丸ノ内線・千代田線「国会議事堂前駅」3番出口徒歩6

[
羽田空港から] 駅間所要時間 4050

京浜急行🙁都営地下鉄 浅草線に直通)→新橋→(東京メトロ銀座線)→虎ノ門

東京モノレール🙁浜松町でJRに乗換え)→新橋→(東京メトロ銀座線)→虎ノ門

[JR
東京駅から] 駅間所要時間 7 (東京メトロ丸の内線に乗換え)→国会議事堂前

内容 西駒郷からの地域移行検証研究報告<研究班>
    報告を受けて
     *地域相談支援の立場から
     *建築家の立場から
     *行政の立場から など   
    シンポジウム「西駒郷から街へ出ました!」
     *知的障害者ご本人3
     *コーディネーター 玉木幸則(西宮市・メインストリーム協会)

詳細は近日中にアップ

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「寝屋川市民たすけあいの会30周年記念講演会&シンポジウム」
 
寝屋川市民たすけあいの会は、1978年に「一人一人の人間が尊重され、差別のない社会を目ざし市民自らの手による寝屋川ボランティアビューロー(たすけあいホーム)を拠点として 人と人との交流の場づくり たすけあいのネットワークづくり 市民による福祉のまちづくりを活動の目的として発足しました。それから30年が経過しました。
私たちは、たすけあいホームを拠点として、「支え」「支えられ」の関係を地道に少しずつ積み重ねてきました。しかし、今日、人と人とのつながりの希薄化や地域のつながりの脆弱化の一方、社会福祉のあり方や市民活動のあり方も様変わりしてきています。そんな社会情勢がかわる中で、たすけあいの会としても2001年にNPO法人を設立し、事業を行うようにもなりました。その理念は変わらないものの、時代の流れの中で、形が変わらざるを得ない部分もあるように感じます。
活動をはじめて30年。区切りとして、改めて、たすけあいの会の活動の意味をどこに見出すのか、そしてたすけあいの会がめざしてきたまちづくり=ともに生きる地域づくりのためにどのような考え方や行動が必要なのかをそれぞれの地域で実践をされているみなさんとともに、考えていきたいと思います。

【日時】 平成20年6月29日(日)13:00~16:40
【会場】 寝屋川市立総合センター(中央公民館)2F講堂

(1) 記念講演会
「寝屋川市民たすけあいの会の30年の活動から
地域福祉、市民活動の原点を考える」
上野谷加代子さん(同志社大学教授、寝屋川市民たすけあいの会前代表)

(2) シンポジウム
「多様な市民のたすけあい、暮らしあいをつなぐ
 ともに生きる地域づくりをめざして
《コーディネーター》
守本友美さん(皇學館大学教授・寝屋川市民たすけあいの会運営委員)
《シンポジスト》
佐野章二さん(有限会社ビッグイシュー日本代表)
清水明彦さん(西宮市社会福祉協議会・障害者生活支援グループグループ長)
大谷秀之さん(社会福祉法人ならのは理事長)
冨田昌吾さん(寝屋川市民たすけあいの会)

定 員  400名
参加費  無  料(申し込み不要)
後 援  寝屋川市、寝屋川市社会福祉協議会、大阪ボランティア協会
主 催  寝屋川市民たすけあいの会 (担当:冨田)
572-0061 寝屋川市長栄寺町5-1  

詳細はホームページ内にて

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タケバタの告知
自分のことでお恥ずかしいのですが、最近私も関わらせて頂いた本が4冊ほど発刊されています。

「障害者福祉論 シリーズ・基礎からの社会福祉 4」(ミネルヴァ書房)
編者として関わらせて頂いた一冊。私は障害者福祉の理念!編と、自立支援法の解説、という二つの極の関係のような章を書かせて頂きました。シリーズ名にあるように、わかりやすく書くように、読みやすいように、と心がけたつもりです。

「精神保健福祉論 精神保健福祉士養成テキストブック 4」(ミネルヴァ書房)
いくつかの学校でこの精神保健福祉士の教科書を使った講義をしてみて、どうもしっくりこず、補足プリントを配りまくった覚えがあります。その理由に権利擁護の項目の物足りなさも感じていました。なので、自分も編者として関わらせて頂いたので、その辺の不全感を解消する内容にしたつもりです。国家試験対策でありつつ、既存の教科書とはテイストが違うと思います。

「支援の障害学に向けて」(現代書館)
『3章:「入院患者の声」による捉え直し』で、以前に書いたNPO大阪精神医療人権センターに寄せられる電話相談の内容を分析することから端を発して、なぜ精神医療オンブズマン活動が必要なのか、を分析しております。

「福祉先進国における脱施設化と地域生活支援」(現代書館)
リンクしたのは、今回のために検索していた見つけた好意的な書評。素朴に嬉しいですね。僕は「地域移行と権利擁護」という項目で、スウェーデンやアメリカと比較しながら、日本の地域移行政策に関して、敷地内ホームや退院支援施設の論点も踏まえて書きました。先述の西駒郷の報告書を今書いている途中なのですが、改めて地域生活移行と権利擁護の深い関係を実感しつつあります。

というわけで、一応最近の成果報告もさせて頂きました。

「本歌どり」の効能

 

「真にすぐれた作家はすべての読者に『この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ』という幸福な全能感を贈ってくれる。そのような作家だけが世界性を獲得することができる。『コールサイン』のもっとも初歩的な形態が『本歌取り』である。(略)
あらゆる作品は(音楽であれ文学であれ)、その『先行項』を有している。その先行項をどこまで遡及し、どこまで『祖先』のリストを長いものにすることができるか。読者が作品を享受することで得られる快楽、ひとえにそこにかかっている。」(内田樹「X氏の生活と意見」

先行研究の大切さについて、これほどわかりやすく書いてくれている題材はない。
そう、オリジナリティあふれて、しかもめちゃオモロイ論考って、結構「本歌どり」をしていたりする。「先行項」の「遡及」が多いからこそ、そこから引き出せる学恩も多いし、実りも多い、ということ。

オリジナリティとは、完全に自分だけで作りだした、というものではない。もちろん、そういうスタイルもある。だが、そう自画自賛しているものの大半は、ストックフレーズがあったり、あるいは何らかの元ネタがあるもの。で、それに無自覚に、かつインディペンデントな振りをするより、どうせなら、自分の引き継いだ恩恵に自覚的でありたい。僕自身も、今まで色々まとめる際にオリジナリティばかり着目して、返ってストックフレーズに埋没していた傾向がある。そうではなくて、学恩を徹底的にしゃぶり尽くし、先行研究の良さをなめ尽くす中から、より多くの叡智を引き出すことが可能なのだ。つまり、「本歌どり」に耐えうる偉大な作品から引き出そうとするなら、無限の叡智を引き出すアクセスを確保したことになる。逆に言えば、「本歌どり」に耐えられないクズ作品に関わっていては、無駄になる、ということだ。

そうやって振り返ってみると、僕の回りにも「本歌どり」したくなる作品は少なくない。だが、それらを本気でしゃぶりつくし、「本歌どり」しまくったか、といわれると、心許ない。受け継げるものときちんと引き継いでいるか。今からの作品に「本歌どり」が応用できるか。それらが、自分に試されていると思う。

同一平面上からの跳躍

 

ある言説を批判する際、その言説と対になる、という点で、同一平面上からの批判に陥る場合が少なくない。根元的な批判をしているつもりでいて、実は批判対象と同じ土台にいるということに無自覚な場合である。例えばこんな風に。

「旧改憲派は、自分たちをナショナルな他者、国内の他者との関係で自己同定化(アイデンティファイ)している。そこには国外的な他者との関係が脱落している。(略)しかし、旧護憲派も、その事情は変わらない。彼らは、この旧改憲派のナショナルな共同性を否定し、自分たちをインターナショナルな他者、国外の他者との関係で自己同定化することで、反共同性の立場に抜け出たと考えるが、それは単なるイデオロギー的な反転にすぎない。そこでのインターナショナルな他者との関係も、それが国内の他者を廃した同一の他者とのイデオロギー的な連帯に過ぎない以上、わたしのいうイデオロギー的な共同的関係のままである。彼らの理論が、二千万人のアジアの死者への謝罪をいいながら、三百万人の自国の死者をその関係のなかに位置づけられないのは、これも、そこにあるのが単一な他者との同一的な-つまり共同的な-関係であることの現れなのである。」(加藤典洋『敗戦後論』ちくま文庫、p342)

あるものごとを批判する時、そういうやり方ではダメで、こういうやり方こそ正しい、と説く。だが、「そういうやり方」と「こういうやり方」の両者が、その基盤に置く認識自体が共通である限り、優劣を決することができない、つまりはどっちでも「半人前」であることがある。加藤氏はそれを敗戦後の戦争責任における「ねじれ」の問題として鋭く整理し、わかりやすく提示してくれている。だが、これは日本の戦争責任問題に限ったことではない。

最近とみに感じるのだが、私自身も「○○はダメだ(問題だ、おかしい)」という時に、そのダメだと思う状態の文脈を支配する論理の上で、その議論を展開していることがある。まるで、「ダメだ」と主張することによって、返ってそのダメだと言われる主張を反射的に必要とし、強調しているかのように。

ある物事を感情論や表層的な論理でのみ批判していると、批判されている物事と、前提の認識が同じ、ということもある。本当にその物事がダメだ、と思うのであれば、前提の認識こそ揺さぶるような「対論」を出さないと意味がない。しかし、認識そのものを焦点化するにはじっくり考えた上での論理展開が必要。それならば、目の前で出てきている現実をとりあえず叩き、そうではない別の現実を提示すればいい、という理屈になりやすい。だが、その別の現実も、目の間の現実との対比関係の中で初めて現実味を帯びてくる、という前提付きのものであれば、普遍性に欠ける。

正-反-合という弁証法的展開を考えた時、ある「正」に対して「反」を考えるのはもちろん大切。だが、同一平面を考えるだけでは、その両者を止揚する形での「合」にたどり着けない。時代を突き抜け、膠着した局面を打開するためには、正と反が陰陽のように両立するその「同一平面」こそを正反(陰陽)両面から分析し、その両者の存立基盤となる「同一平面」こそを覆すような「合」という新たな局面から、状況を捉え直す事が大切だ。これは、実社会においても、ある活動の肯定的言説と否定的言説を、合わせ鏡のように捉えて見ると、実感することでもある。時として、あることの否定は、その否定された対象への強烈な憧憬を陰に秘めている場合が少なくないからだ。

同一平面の分裂状態を見抜くためには、二項対立的状況に安住するのではなく、その認識基盤そのもの(=つまりは自分の信念そのもの)をグラグラ揺らしてみなければならない。最近身の回りに起こる様々な陰陽図を眺めていて、そう深く感じ入ったのであった。

オンブズマン制度の危機

 

今宵は天王寺のホテルの一室から。

土曜・日曜と勉強会や研究会で久々の来阪。それにしても、お昼過ぎに会場に入るために、6時28分甲府発の「ワイドビューふじかわ」に乗らねばならぬのはきつい。鞄の中には研究会の宿題やら、授業の予習関連の文献や資料をとりあえずどっさり入れてきたが、結局寝不足で静岡までうとうと。静岡でカプチーノを飲んで気合いを入れ直し、満員のひかり号でサクサクあすの研究会用の資料を作る。で、出かけたのがNPO大阪精神医療人権センターの総会。実はこの人権センターが地道に積み上げてきた「精神医療オンブズマン制度」が今、廃止の危機にある。

僕自身、このNPOで大変お世話になり、今自分で血肉化されている視点の少なからぬ部分を、ここでの活動や実践を通じて学ばせて頂いた「ホームグラウンド」の危機故に、とあるMLに次のようなSOSの文章を書かせて頂いた。この問題をご存じない方にお伝えするためにも、長くなるが引用してみたい。

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NPO
大阪精神医療人権センターが取り組んできた病院訪問活動(精神医療オンブズマン制度)が、この8月以降、廃止の危機に立たされています。(そのことを伝える新聞記事はこちら。)

大阪府の橋下知事は、4/11に「財政再建プログラム試案」を策定し、総額1100億円の予算削減案を公表しました。府の単独事業で緊急性が低いものは一律カットという内容です。精神医療オンブズマン制度は「費用対効果が見えないからゼロ査定」という厳しい事態に追い込まれています。

このオンブズマン制度は院内での様々な権利侵害が続いた「大和川病院事件」を受けて、退院促進事業と一緒に創り出された仕組みです。密室的な精神医療の現場に風穴を開けようと民間団体が続けて来た訪問活動が、日本で初めて都道府県レベルの制度として認められ、府下全ての精神科病院の訪問を実現し、現在二巡目になっています。

市民による訪問活動やその後の病院側とのやり取り等を通じて、これまで行政監査でも行き届かなかった具体的な改善(公衆電話が閉鎖病棟に常設された、ベッド周りにカーテンがついた、トイレに鍵がついた、保護室にナースコールがついた)が進み始めています。これは、行政監査や第三者評価とは違い、市民の目線で療養環境を視察し、利用者の声に時間をかけて耳を傾ける活動ゆえの成果です。
(オンブズマン制度の概要は次のHPなどもご参照ください)

ただこの活動は、もっとも声が届きにくい(=声が抑圧されている)精神科病院内の患者さんの声を代弁する、という性質上、府知事の元に「大きな声」として届きにくいのもまた事実です。また、数値的な「費用対効果」を測るものとは最も縁遠いゆえに、活動の重要性が財政当局に理解されにくいものでもあります。それゆえの「ゼロ査定」状態だと認識しています。

退院促進事業も、元はと言えば大阪府単独の事業であったものが、その普遍的意義が認められ、全国化されました。病院から地域へ、という風穴が開き始めた今、病院内部の精神障害者の権利を護るために市民が直接病棟まで訪問して、「声なき声を聞く」というこのオンブズマン制度は、まさに普遍的意義があるものであり、その原動力を担った大阪で、その火が消えることは、大きな損失でもあります。「費用対効果」では計れない権利擁護課題を財政的理由を盾に反故にしてしまう今回の動きは、障害者権利条約を批准しようとしているわが国の動きとも大きく異なります。また、最も「声なき声」を代弁する役割の火を消すこの事態は、地方分権の逆機能、とも言えます。

人権センターはこの廃止案は絶対に納得ができないということで、存続を求める署名活動を行っています。そこで、是非ともこの署名活動に御協力頂きたい、と願っております。(署名用紙PDFなどは下記に)
http://www.psy-jinken-osaka.org/
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今回大阪の地でこの話をじっくり聞く中で、改めて行政監査でも精神医療審査会でも拾いきれなかった患者さんの本音の声を拾い、それを実際の処遇改善につなげてきた人権センターの取り組みのダイナミズムを垣間見る思いがした。

それと同時に、自立支援法制定時からも指摘されていたが、市町村や都道府県の裁量的経費は権利保障の観点で非常に危うい、というのが現実化されるような気分でもある。小さな政府論に通ずる、「府単独の事業はあらかたカット」「費用対効果が見えにくいものは効率化の観点でお金をつけられない」というロジックを、裁量権を持つ首長が行使するとどうなるか、ということが、目の当たりになったような気がした。地方分権で、住民の身近な行政で地域の実情に合わせて、というが、一方でこのような権利保障の問題は普遍的な問題であり、一定程度の全国一律の最低保障が必要な気がする。

その際、低きに合わせる、のではなく、トップランナーを続けてきた大阪に合わせるのが、真っ当な施策としては求められるラインだが、その大阪で、知事がトップランナーの位置づけを放棄しようとしており、それに対して国レベルでの歯止めがかけられない、というのは、築き上げてきたトップランナーとしての叡智や財産を全部放り投げる暴挙に思えてならない。

では、どうすればいいのか? そのヒントを今日の記念講演の話し手であった野沢さん(毎日新聞)が指し示してくださった。これは非常に示唆に富むのだが・・・そろそろおねむなので、続きはまたあとで。

「どうせ」を超える可能性

 

連休最後の日の甲府は初夏の陽気。
連休中旬に出かけた小旅行の折、旅先で買った一冊が、この連休中の最大の収穫の1つだった。

「『可能性』という語は、二つの反対語に引き裂かれるようにしてしか使われない。不可能だという意味での『可能性』と、現実的だという意味での『可能性』である。そのどちらでもない、純粋な可能性というゾーンは、存在しないのだ。突然、記録を突破した者は、『可能性』という語に孕まれている二つの意味の間の越境を担ったのだと言ってよかろう。すなわち、彼(または彼女)は、空虚な可能性-可能性=不可能性-を、充実した可能性-可能性=現実性-へとカタストロフィックに反転させる触媒としての機能を果たしているのである。壁を突破した者を一人でも想定できるとき、可能性が、現実性としての様相を帯びる。だから、彼に引き続くアスリートたちは、触媒としての最初のアスリートを反復しているのだと言うことができる。最初のアスリートがなした、可能性を現実性へとつなぐ苦闘を、後続のアスリートたちも反復するのである。」(大澤真幸「逆説の民主主義」角川書店、p144)

世の中には「どうせ」「しゃあない」という言葉であふれている。僕自身も、ダイエットだの、髪の毛が薄くなってしまうことだの、に「しゃあない」と何となくやり過ごしてしまいそうになる。そういう時の思考回路は、どうせ元には戻らないという不可逆的な何か、あるいは大澤氏の言葉で言えば「空虚な可能性」(=不可能性)で一杯になっている。

しかし、彼は記録を塗り替えたアスリートを例に出しながら、ブレイクスルーとは、「『可能性』という語に孕まれている二つの意味の間の越境を担った」と整理。なるほどね。出来た人もいるんだ、という「可能性が、現実性としての様相を帯びる」状態を前にすると、「どうせ」「しゃあない」と言っていた自分は、言い訳を探しているだけ、ということになる。そこで、私たちに迫られるのは、「最初のアスリートがなした、可能性を現実性へとつなぐ苦闘を、後続のアスリートたちも反復する」のか、「あれは特殊な能力を持った人だから、自分には無理だよ」と決め込むか、のどちらかだ。

実は、これって福祉の世界でも全く同じ構造が当てはまる。それを具体的に書くために、著者の論考をもう少しだけ追ってみよう。

「さて、同じことは、知的探求に関しても言えるのではないか。一人の触媒を通して、突然、大記録への突破が可能になるように、真理の深みへと突破した他者-それがマルクスであり、フロイトである-の存在を、いっこの事実として想定しうるとき、われわれは、初めて、実際にも、真理へと到達出来るのではないか。われわれが、真理の深みに到達するためには、その深みへとすでに足を踏み入れているはずの他者の存在を想定し、その他者の、困難な抜き差しならぬ闘いを反復し、あらためて現実化しなくてはならないのだ。」(同上、p145)

「真理」とは、実際に到達していない段階では「不可能性」に他ならない。「そんなの無理に決まっている」と言えば、日本の福祉現場でも何度も耳にしたことのある話である。だが、その「不可能性」を超えて、「真理の深みへと突破した他者」がいると、その「真理」は「いっこの事実として想定しうる」。では、その状態になった際、「その他者の、困難な抜き差しならぬ闘いを反復し、あらためて現実化」する試みにこぎ出すかどうか、ここが大きな分かれ目である。この際によく聞くのが、「あれは北欧(福祉先進地、都会、Aさんの所、○○…)だから出来たのであって、うちでは・・・」「○○と違ってうちは人手不足だから」という「空虚な可能性」(=不可能性)の宣言、である。

他人のブレークスルーを前にしても、「空虚な可能性」(=不可能性)の言い訳をしている方が、遙かに「楽」である。というのも、不可能を可能にするためには、後続する自分自身で、「困難な抜き差しならぬ闘いを反復し、あらためて現実化」しなければならないからだ。その際注意しなければならないのは、その現場を克服する主語は先達でもフロイトでもマルクスでもなく、他ならぬ自分自身なのである。自分自身が主体となって、先達の「闘い」を「反復」しながら「困難な抜き差しならぬ闘い」に自らが挑み、そのなかで「あらためて」自ら自身で「現実化」を勝ち取らなければならないのだ。ブレークスルーの後なので、可能性の光は見えている。だが、その光源に届くための現実的苦闘は、あくまでも自分自身が担わなければならない。決してマニュアルはない。その現場にあわせて「あらためて現実化」を一から模索しなければならない。これが大変だから、少なからぬ人が、件の「あれは○○だから」という言い訳(=不可能性の宣言)にしがみついてしまうのだ。

これは脱施設化や退院促進といった実践レベルに限った話ではない。195060年代に、ベンクト・ニイリエやバンクミケルセンが全制的施設の批判を行った時も、彼らはまさに施設のアブノーマルな現実を前にして、何か変えないとだめだ、と模索し、その中から「ノーマライゼーション」思想という「真理の深みへと突破」したのであった。そして、「その深みへとすでに足を踏み入れているはずの他者の存在を想定し」えたからこそ、60年代以後の北欧・北米での急速な脱施設化が進んでいった、という事も出来る。こういうブレークスルーを目の当たりにしたからこそ、では我が国(地域、施設)でも可能だ、と飛び火していったのだ。

ちょうど連休明けの授業では、ニイリエやバンクミケルセンを扱う。その際に、「その深みへとすでに足を踏み入れているはずの他者の存在を想定し、その他者の、困難な抜き差しならぬ闘いを反復し、あらためて現実化しなくてはならない」と改めて感じている。そうしないと、「われわれが、真理の深みに到達する」ことが出来ないのだ。逆に言えばば、自らが主体的に「反復」と「現実化」にコミットして初めて、その「真理の深み」を心から理解する、といえるのかもしれない。これは、もちろん講義や理論レベルだけではなく、実践でもその通り。タケバタの前にもいくつかの「困難な抜き差しならぬ闘い」があるが、しかし全く初めての闘い、ではなく、どこかの参照できる「真理の深み」がある。それらを「反復し」ながら、自分なりに「あらためて現実化」をどうすすめていくか。

普遍性の高い議論からは、数多くの「学恩」を授かってしまった。宝の持ち腐れになるかどうか、可能性という「二つの反対語」をどっちに転がすか? 己の力量次第である。

マッピングと批判的読書

 

年度初めは、色んな事がスタートするので、忙しい。それでも前回更新した第二週目あたりまでは、まだたまにじっくりお勉強する余裕もあった。だが・・・。今期、週に一日、二コマの非常勤をしている。そして、本務校の講義も、半分くらいその内容を変えた。ということは、2.5コマ分の講義を毎週新規構築することになる。これが、結構大変。

もちろん、講義のために内容を整理する中で、自分なりの発見もあり、それはそれで面白い。昔、お世話になったある先生に、「講義を通じて、この本を攻略してやろう、という気概を持つべし」という箴言を頂き、それ以来、教科書以外にも「今週のテーマに関する一冊」を設けてみた。それは第一回講義時にも配っている。そして、今年はその本(あるいはそれに類する本)の、次週に扱う部分を「予習ペーパー」として配ってみている。これは学生に好評で、「予習ペーパーと併せて理解できた」という反響も多い。それは嬉しいのだが、ということは、こちらも準備すべき内容が格段に増えていく。

特に今回「ノーマライゼーション論」という講義の代役(お世話になっている先生がサバティカルなので)を引き受けたので、改めて集中的に「ノーマライゼーション」の議論を読み進めている。1960年代に北米・北欧で沸き起こった理念創出時の議論が、どういう背景から生じているのか、を重ねてみるために、ラッセル・バートンの「施設精神病」やアーヴィング・ゴフマンの「アサイラム」という古典的名作も読み直している。改めて、全制的施設の「構造」を上記二冊で再確認出来ると共に、その全制的施設が「全盛」だったころに、その「構造」を読み解いた上で、アンチテーゼというか、その「構造」を超える理念を打ち立ててきた、創始者たちの理論はそれぞれに深みがある。

非常勤の大学では、学部1コマと大学院の演習を受け持っているので、学部ではその大枠を紹介し、大学院では枠となる文献を毎週何本かまとめて読んで議論している。そのために、改めてノーマライゼーションに関する文献を集めたり取り寄せたりして、時系列的に、そして、北欧と北米で別の議論に進化していくので、その二つに大別して、講義予定に組み込みながら並べていくと、ある理論がどのように受容され、かつ批判されていくのかのマッピングが出来てよい。

先週の大学院演習では、90年代初頭に執筆されたこの理論への批判的論文を「批判的に読む」ということを行った。博論を書いていた時にその論文を初めて読んだ際、何だか変だよなぁ、と感情的反発と不全感を抱いていたのだが、その理由を説明することが出来なかった。だが今回改めて落ち着いて読んでみて、全体的な流れ(マップ)上で眺めて直してみると、なるほどどういう文脈からの批判か、が時代背景と共にわかって面白い。私たちはある言説を、そのものだけで当否・善悪を判断するという間違いをしばしば犯すが、その言説の「文脈」を織り込まないと、「空を切る」かのような「空振り」となってしまう。

5,6年ほど前にその論文を最初読んだ際、そういうマップなく「これは変だ」と憤慨していたおり、その怒りは「何が変だ」という論理的根拠のない「空振り」だったので、説明力に乏しかった。だが、今この講義のためにノーマライゼーションに関する言説の流れを自分なりに再構築する中で読み返すと、その論文が鋭く指摘している問題の、正鵠を得ている部分と、解釈上の問題点と、がくっきり見えてくる。

つまり、以前は「変だ」というメガネで先に見てしまっていたので、そこから叡智を引き出せていなかったが、今回落ち着いて読んでみると、そう解釈するための論理的整理は実に鋭いことが見えてくる。すると、その議論の組み立て方、というか、話法の中からは、私たちが学べることは少なくないのだ。どこまでが説得力があって、どの部分に整合性が危うい部分があるか、を見極める、ということは、「空振り」をしないために、つまりは「的を射る」ためには欠かすことの出来ないことである。何であれ、全否定して「聞く耳持たず」ではなく、きちんと相手の論旨をじっくり聞き取り、その中から尊重できる部分は受け止めた上で、聞き取れない部分・聞き捨ておけない部分については、お尋ねしたり、場合によっては反論を用意する。そういう相手の言説をちゃんと「聴く力」が、改めて問われている、と再発見しつつある。

現場のリアティを知っている院生の方の中には、「何だかすっごく読みづらい」と仰る方もいたが、その生理的嫌悪レベルで止まるのではなく、そこからどのようなパスを受けられるか、それをマッピングしながら考えるのが大切だよ、と申し上げる。まるで数年前の自分に説得しているかのように。そう、これはダメ、あれは変、と切り捨てるのは、逆に言えば、良いと思われる、自分の納得できる議論の盲信と表裏一体の関係にある。評価できる論文にも、何らかの落ち度はつきものだし、評価できない論文でも、それが一定程度のクオリティのあるものであれば、そこから受け継げる学恩は、ある場合が多い。それを無視して、二項対立的な整理をしていたら、地図は描けず、自分自身のメガネの偏差が極端になるだけだ。批判的読書、とは、単にダメだを繰り返すのではなく、丁寧に読みながら、その議論に内包される順機能と逆機能部分を整理して解釈し、それを吸収すること。それを通じて、自分のメガネの偏差そのもの(何を盲信して、何を毛嫌いするのか、に関してのメタ知識)の内実を認識することにもつながる。

という内容の半分くらいは、前回のゼミ時でも気づいていたのだが、今書いていて、初めて色々わかってきた。いやはや、たまにブログは更新するものである。