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「西向く侍」のおわりに

 

あと数時間で「師走」。「西向く侍」さんの最終月もあっという間に過ぎていく。

デロンギ話を先週書いたら、早速3人のMさんからご連絡頂く。ありがとうございます。東京のMさんは、お母様がお使いのようで、「電気代高い&ぬくくなるのに時間がえらいかかる」というご助言を頂く。新潟のMさんからは、「本格的な暖房器具としては,お勧めできません」が、「寝室で,就寝間際及び早朝起き上がるまでの時間帯にタイマーをかけて使用する等の使用方法は,良い感じです」とのこと。ご助言ありがとうございます。実は、これを体感しております。というのも、たまにこのブログに登場するわが大学のM先生から早速「うちで一台余っているけど使ってみる?」とお貸し頂いたのである。ブログに書いてみるものである。M先生、ありがとうございます。実際にリビングではあまり役立たなさそうだけれど、寝室の窓の付近に置いてみると、一番弱いモードでも実に温かい。さて、電力代はどうなるか、が心配なのですが

さて、11月もおわりなので、月曜以後のメモ書きをグーグルカレンダーを見ながら振り返ってみる。火曜は講義を二つして、地域包括支援センターの取材。高齢者の主任ケアマネ研修が来月あるのだが、今年はそのデザインも描くお手伝いをしているので、「現場を勉強しなさい」と言われ、3カ所の包括を見学に出かけるスケジュールの二カ所目。その昔、PSW117人調査をやった博論を思い出す。あのころと違い、県でアポを取ってもらい、かつ県の人と一緒に出かけるので、遙かに楽ちん。かつ、県内屈指のケアマネの達人へのインタビューである。面白くない訳がない。

で、水曜日はテスト監督に講義が二つ、その後は3時間以上の会議でグッタリ。木曜は「ローカルガバナンス研究」というオムニバス講義で「ローカルガバナンスと自治体福祉政策」という新ネタの披露。大学では「教育者」としての顔を見せているのだが、この日の授業は初めて研究者として「自分が考えていること」を学生にぶつけてみた。ゼミ生には「難しかった」「早口だった」と不評だった一方、お聞き頂いたM先生とE先生から、存外のお言葉を頂く。ローカルガバナンスという概念を意識せずに考えていたが、案外支援者エンパワメントや官民パートナーシップは、この地域におけるガバナンス概念に親和性があるようだ。

で、金曜日は6年ぶりに母校へ。出身講座での公開講座にゲストで呼んで頂いたのだ。元厚生官僚のT先生と障害者運動のリーダーのお一人であるTさん、そして竹端という三人のTが集まったのだが、議論していたのは極めて真っ当な政策論議。部分保険としての介護保険と、トータルな支援としての障害福祉サービスの異同について、極めて刺激的な論考が展開される。惜しむらくは、この議論が自立支援法が出来る前にされなかったこと。今回のセッションでも改めて、2004年から5年にかけての議論がいかに「お金がない」という身も蓋もない熱にうなされた議論だったか、を再確認する。

その後金曜は寄り道して終電を逃し(何せ京都午後8時16分が終電なので)、京都の実家に投宿した後、翌朝7時45分の新幹線身延線で甲府に。昼からシンポジウムの司会者の仕事が待っていたのだ。で、今回も実家近所の本屋で買った本が、また当たりだった。

「たいていは、小さな見逃してしまうような事実、こまかい言葉の端々に、意外な真実が隠されていることが多い。小さな事実に興味を示さない弁護士もいるが、私は違う。『こういうことがあるならば、きっと付随的にこういうこともしているのではないか』と読む。それが『深読みの佐伯』と言われるゆえんだろう。相手の話を細心の注意出来て、こまかく慮って深読みしていくと、『この事件は、もしかすると、この点を突くと勝てるかもしれないな』ということがわかってくる。ウラを読むのは、想像力による疑似体験なのである。言葉で示された彼の個々の経験をトレースして、言葉に示されていないすき間を埋めていく。それによって彼のウラとオモテの経験を疑似体験し、隠されている真実に迫る。実証の一つの方法なのだ」(佐伯照道『なぜ弁護士はウラを即座に見抜けるのか』リュウ・ブックス・アステ新書、p42)

この本は、タイトルが与えるイメージよりも遙かに多くのことを伝えてくれた。多分「凄腕弁護士の超交渉術」といったタイトルの方がもっと売れるのではないか、とも感じる。自分と異なるスタンスの相手とどう交渉すべきか、について、筆者の経験に基づいた非常にプラクティカルな方法論が示されている。その中で、単なる方法論で終わらせてはもったいない、と思ったのが、少し長くなかった引用した上記の一節。

細かい端切れを「見逃してしまう」のではなく、『こういうことがあるならば、きっと付随的にこういうこともしているのではないか』と「深読み」する。この「ウラとオモテの経験を疑似体験し、隠されている真実に迫る」方法こそ、尊敬する伊丹先生が「論理重合体合成法」と言っていた方法論である。一言で言うと「少数のデータ、多少のケース、それらをつなぐ論理、それらの総体で意味のある全体像を描き出す」方法論である。深読みと想像力を駆使して、目の前に見えない「全体像を描き出す」方法論は、まさに「実証の一つの方法」なのである。また、お世話になっているK先生と海外出張を共にさせて頂いた時、彼が文献を読みながら常に自問していたのが『こういうことがあるならば、きっと付随的にこういうこともしているのではないか』という問いだった。真っ当な推論とはこういうものか、と初めて気づかされたのだが、こういう「小さな事実」に基づく推論の繰り返し、こそ、思わぬ地平に出るための最大の要素だと改めて感じさせられた。「こまかい言葉の端々」から、「意外な真実」を探り当てるか、捨て置くか、大きな分かれ道である。

で、この深読み想像力は、実はケアマネジメントの現場でも深く必要とされている。何か困って相談に来る人が、いきなり全ての本音を言ってくれるわけではない。また、本人がこれでいい、と自己決定したのだからその主張をそのまま鵜呑みにする、というのも、時として間違っている場合もある。例えば家族から見放され、身体能力も落ち、「もうどうなっても良い」と支援者にこぼした人に、「この人は自暴自棄です」とアセスメントするだけなら、専門家などいらない。セルフネグレクト(自分自身に対する虐待状態)に至る背景や、本当はどう思っておられるのか、まできちんと判断する事が求められる。その際、「小さな見逃してしまうような事実、こまかい言葉の端々」から色んな要素を斟酌し、どう「意外な真実」を探りあてるか。どう本人が本当に望んでいるものごとに近づけるのか。支援者側が「ウラとオモテの経験を疑似体験」する中で、誠実な「深読み」をしていく、このことはアセスメント現場でもまさに求められている課題なのだ、と感じさせられた。

お買い物の一日

 

今月初めての休日。というか、グーグルカレンダーを見てみたら、先月26日以来だから、1ヶ月ぶりの休日。よく風邪も引かずなんとか駆け抜けてきました。一応先週火曜日にインフルエンザの注射を打ったものの、冷え込みは激しいし、予定は目一杯を振り切れているし、パートナーにも「その日程は異常」と言われる始末。おかげでジムにはいけず、じわじわ太ってくる。毎日ストレッチを朝か晩のどちらかにやっていたが、これからは朝晩やらないと、まずそうだ。入試の出張だった静岡で来ていたスーツも少しきつめのピッタリ、だったしね。

さて、今朝は久しぶりに目覚ましもかけずに9時過ぎまで眠れた。静岡のホテルはラッキーにもダブルベッドの広い部屋だったのだが、借りた加湿器がかなりうるさく、じっくり眠れなかったのだ。しかも業務が業務だけに、身体もくたくた。おかげで良く寝て、今日はさっぱりである。

で、「休日なのにバタバタするの」と言われてしまいそうだが、結局目覚めたら、ちょこまか動き始める。午前中は今井さんに会いに出かける。今井さんは、山梨県で今私がやっている仕事のパートナーとしてご一緒させて頂いているだけでなく、公私ともに様々に学ばせて頂いている。そう言えばこのブログでは紹介していなかったけど、こないだは二人の仕事を記事にして頂いた。今は手術後のリハビリ中だが、順調に回復途上であるようだ。お見舞いに行ったはずなのに、仕事上のアドバイスを沢山頂いてしまう。

で、その後いつものJA直売所「よってけし」で野菜を買い込む。白菜や大根、ネギがたんまり出ている、ということは、秋の実りそのものだ。水菜に春菊、かき菜にクレソンと青物野菜をたんまり2500円ほど買い込む。その後夜の鍋用のお魚なども買い込んで帰るともうお昼。ニンニクと唐辛子のベースにホールトマト、ネギ、シーチキン、クレソンの茎を入れてパスタに絡める。そして食べる際にクレソンの葉っぱを乗っけてみると、まあ何と美味! 二人でぺろっと平らげてしまった。

昼からは、多少まどろみ、大学で授業の準備をした後、午後の「買い物大会」。電気ストーブではとうとう限界が来たので、灯油を入れに出かけ、ついでに電気あんかが急にショートしたので、替えのあんかも買いに行く。静岡は温かかったが、山梨のここ数日の冷え込みは本気モード。電気あんかがないと、ほんと寒いし、ストーブがないと、部屋の中は凍りそうだ。デロンギのオイルヒーターを買うかどうか迷っているのだが、結局灯油を入れにいってしまった。あのオイルヒーターは暖まるまでに時間がかかるらしいのだが、うまく活用出来るかどうか、少し自信がない。どなたか愛用者の方がいれば、教えてくださいませ。

で、その後いつものトマト屋に寄る。ここは正式にはブドウ農家なのだが、ブドウのない11月から6月までトマトを作っておられ、めちゃんこうまい、とこれまで何度かこのブログでも書いた覚えもある。で、この秋初めてのトマトを買いに伺うと、ワインの新酒が出来ている、と聞かされる。ここのブドウを使ったワインは一昨年から分けて頂いていて、さっぱりとして美味しいので、一升瓶なのだが、スルスル飲めてしまう。しかも鍋の時にピッタリ。そう、今晩は鍋の予定なので、まさにピッタリ。デラウェアなので少し甘め、ということで、とりあえず一本頂いて、早速冷やしてみる。

こうして久しぶりのドメスティックなお買い物なので、どこでもたんまり色々買い求めて、気がつけばもう食事時。楽しいつかの間の休日は、本当にあっという間に消え去っていく。明日はまた、授業県庁現場訪問ツアー第二弾である。今晩は新酒を楽しんだら、早く寝よっと。

「ゆがみ」に気づく分岐点

 

「人は、自分のわかるようにしか、わからないのである。わからないことについてのわかり方は、自分のわかるようにわかるしかないのである。それで自分のわかるようにしかわかったことになっていないということが、わかっていない。これが、たいていの人のもののわかり方である。だから、いきなり現れたその人が語る聞き馴れない言葉、わけのわからない言葉も、やっぱり自分のわかる仕方でしかわかることができない。」(池田晶子『人生は愉快だ』毎日新聞社、p39

仕事で訪れた静岡のホテル。昨晩のアルコールを流すべく朝風呂に浸かりながら、上記のくだりを読んで、ハッとさせられる。確かに、自分自身、「自分のわかる仕方でしかわかることができない」し、そのことが「わかっていない」。

他人から聞いて、取材して、本を読んで、現場を訪れて、自分の頭で考えて・・・「わかった」つもりになっている。だが、その「わかった」とは、大概において、「自分のわかるようにわかる」という限定された理解である。自分の殻を破って、事象そのものへ近づくような、量子力学的跳躍のような、一皮むけた「わかった」は滅多に訪れない。それより、自分の殻の中に、未知の事象を押し込める、枠組みの中での理解である。自分の殻や枠組みそのものへの疑いを持つことがなく、その殻や枠組みの内部に取り込める未知だけを既知として部分的に導入しているのである。創造のない加工貿易。近視眼的な自己の体系の正当化には役に立っても、中長期的な「自分のゆがみ」の補正には役立たない。むしろ、自分の殻の中に「わかる」を押し込めることは、もともと持つ「ゆがみ」を強化するだけなのかもしれない。

未知の何かに触れたとき、自身の「ゆがみ」そのものと向き合うことに、苦しみしか感じないか。あるいは、普段無意識下に押し込められた「ゆがみ」への気づきと喜べるか。ゆがみと「わかる」瞬間に、彼岸と此岸のどちらに向かうのか。その選択の積み重ねの結果、今の自分がいる。そのことの重みを感じる一節だった。

プレイングマネージャーとして

 

今宵は「かいじ」車内の人。三重の五回研修で一応無事に「留めを打つ」ことが出来、文字通り「肩の荷が下りた」状態で、のぞみ号から最終一本前の「かいじ」に辿り着いた。

それにしても市町職員研修(三重は合併で村がないのです)を、実際、市町が今年度課題として取り組んでいる「障害福祉計画の見直し」という大テーマにぶつけ、困難事例の「捉え直し」、給付率分析から自分たちで「見直し原案」を考える研修、というのは、受講者側だけでなく、企画者側にとっても「言うは易く行うは難し」の見本のような内容だった。私自身も、従来の一回こっきり研修なら「言いっぱなし」で逃げることが容易に可能だったのだが、今回はこの研修実践の成果を、市町さんもアテにしているだけでなく、県もご自身の障害福祉計画作りに大いに参考にされる、という。まさに、どこまで何が出来るのか、が本当に問われる研修だった。それゆえに、第4回から5回にかけての内容の作り込みが、実に大変だったのである。

だが、今回相当手間暇かけて、また県担当者だけでなく、受講生の立場から研修企画者側にご一緒してくださったM市のMさんのお力添えも多分に活用し、かつ見学者のつもりだったミヤモトさんも巻き込む中で見えてきたのは、本当の人材育成は、今回やったくらいの「手間と暇、そして知恵と情熱」を必要としている、ということだった。逆にいえば、これほどの「手間・暇・知恵・情熱」をかければ、その地域の特性にあった、やった甲斐のある研修、明日の施策の改善につながる実践型研修が可能なのだ、ということも、やってみてよくわかった。今、山梨でサービス管理責任者研修の組み立てもこれと同じ線でやっているので、この部分は本当に実感として感じる部分である。また、終了後の反省会でちらっと見た受講者の感想の中にも、「議論の時間が足りなかった」「来年度もこういう研修を受けたい」「光が見えた」という嬉しい声が載せられていたことも、嬉しい限りだ。

やっつけ仕事でなく、魂を込める仕事は、正直へとへとになる。だが、そういう中から何かが変わる契機になるのであれば、やりがいは一塩だ。いつもブログを見てくださるM先生が「タケバタさんはプレイングマネージャーだね」と仰ってくださったが、確かにその方向で仕事をしているのかもしれない。プレイヤーとして、システム作りに関わりながら、マネジャーとして人びとの意識付けや現任者教育にも関わる。乗りかかった舟なので、しばらくこの路線で突き進んでみようかしら。ちょっとくたびれるけれども。

研修の5つのステップ

 

先週30度の世界にいたとは思えないほど、日本は寒いし、タケバタは目まぐるしい。

帰国日の水曜日は甲府まで戻ってスーツケースを家に置いたら大学に戻って臨時ゼミ。木曜日がちょうど昭和町で「学生議会」。我が2年ゼミ生が二人議場で質問するので、その予行演習が必要だった。予行演習をして、心を込めた質問をする為の練習をみっちりしたので、カトウくんもカミジョウさんの二人とも、実に立派な発表をしてくれた。木曜の質問の後、何人かの関係者の方々にも褒めて頂き、ゼミ教員としては一段落。

その後木曜夜は大学で最低限の火曜の授業の準備。というのも、金曜日は一日山梨県でケアマネ研修に立ち会い、その後講師の北野先生と一緒に京都まで戻り、夜10時半から西大路駅までナカムラ君と久しぶりにウダウダ。土曜日は絶対に外せない大阪精神医療人権センターのシンポジウム。その後懇親会打ち上げと続いて、翌朝は三重へ。来週も三重なので、月刊ミエから、週間ミエ状態だ。来週の研修のための打合せをみっちり5時間ほど行い、ワイドビューふじかわ号の人となる。そして、今回もまた、ふじかわ号読書で、実に多くの刺激を受ける。

「安定状態から集団を活性化するために、『揺さぶりのマネジメント』が必要とされる。集団を揺さぶり、安定の眠りから覚醒させ、そして新しい方向へと導くためのマネジメントである。そのためにしばしば必要となるのは、次のような五つのステップだと思われる。
かき回す(あるいは、ゆらぎを与える)
切れ端を拾い上げる
道をつける
流れをつくる
留めを打つ(あるいは、仮り留めを打つ)」
(伊丹敬之『経営の力学』東洋経済新報社、p29)

三重で「チーム三重」の皆さんと共に作り上げようとしている市町職員エンパワメント研修が、まさにこの5つのステップであり、かつここしばらく苦労して、日曜の午後にようやくたどり着いたのが、の事だったので、「留めを打つ」という発言には思わず「その通り!」と叫びそうになった。そして僕が従来型の研修で物足りなかいと感じていたことも、この5つのステップの中に書かれているので、深みを感じてもいた。

講演で呼ばれて、僕はアヤシイ人間なので、どこでもだいたい「かき回す」。しかし、その一回こっきりでオシマイなので、単に「あいつはかき回しやがって」でおわりがちだ。思えばそれ故にしばらく干された領域もあったように最近伺っている。ま、干された本人は無頓着なのであまり気にしていなかったのだが。で、山梨でも三重でも、連続研修のコーディネート側に回り始めて、一番力を注ごうと気にしているのが、この以後のステップだ。そこで、以後はだいたいどの研修でも大切にされているが、ここで肝心なのはの「切れ端を拾い上げる」というステップだと思う。この点について、伊丹氏はこんな風に書いている。

「かき回された人々がやり始める様々なことの中から、きらりと光るもの、その組織のあるべき姿を示唆するようなことをマネージャーが取り上げることである。切れ端とは、現場の小さな提案であり、試みである。それをマネージャーがわざわざ拾い上げることによって、その切れ端が象徴するような方向こそが組織全体が進むべき方向であることを、マネージャーが示していることになる。そればかりでなく、その拾い上げられた切れ端をそもそも作りだしたメンバーの立場からすれば、『こういう切れ端を持って行けば取り上げてもらえるのだ』という刺激にもなっている。」(同情、p30)

そういえば、金曜の山梨の研修で、三田優子さんが堺市の自立支援協議会の成果を話して下さっていたが、まさに三田さんもこのを重視しておられた。現場のワーカーさんや当事者達が大切だと思うことを取り上げ、それを深めるための助言をしておられる。これは、後々の「道をつける」ための大切な「切れ端」であり、それを協議会座長として、メンバーと一緒になって拾い、深める営みをしておられるから、変革が起こり始めているのだろう。

三重の研修でも稚拙ながら模索してきたのは、こののステップだった。二回目の研修で参加者の声を聞きたい、と当日研修に参加している3人のベテランワーカーに「インタビューする」ということをやってみた。これが、多くの参加者にとって、大きな転機になりはじめる。自らのピアの立場の他の行政職員の中に、これだけのことをやれている人がいる、という気づきは、外部者から「揺さぶられる」だけでなく、「その切れ端が象徴するような方向こそが組織全体が進むべき方向であることを」自分自身で気づくきっかけにもなったのだ。

ゆえに、それ以後の研修で「道をつけ」、「流れをつくる」過程も自ずと決まってきたし、しつこいタケバタは、拾った「切れ端」をしゃぶり尽くすように使い、発言して頂いた方も企画側に急遽合流して頂き、一緒にデザインをしてきた。そして、研修以外に3回三重に足を運んで打合せで苦しみながら、昨日の夕方、ようやく「留めを打つ」目処がついたのだ。

さて、今日は山梨でケアマネ研修3日目。金曜日に三田さんと北野さんという強力なコンビで「揺さぶり」は十分にかかった。今日の「ケアマネジメントの展開」を通じて、どう「道をつける」ことが出来るか、が問われている。そういう展開になるように、意識して出かけなければ。そんなことも気づかされた、有り難い一冊であった。

+20度の街角より

 

日曜日の朝4時の甲府は、10度を下回る気温。Tシャツに長袖シャツ、そしてフリースではあまりに寒い。マフラーを首に巻いても、ブルブル震えていた。だが、成田空港から乗り込んだチャイナ・エアラインでは機長が「現地のただいまの気温は摂氏28度」なんて言っている。ご冗談でしょう、というか、英語のヒアリングに問題がある、と思っていたのだが、現地に到着して、唖然。確かに暑い、むしむししている。温度計は30度! +20度の世界に辿り着いてしまった。

台湾にやってきたのは、とある学会で発表するから。今、山梨や三重でお手伝いさせて頂いている、地域自立支援協議会という組織について、障害者福祉政策における地方分権と裁量権の行使、それにリーダーシップの観点から議論しようとしている。酷い英語原稿だったのだが、いつもお世話になっているミヤモトさんにかなり助けてもらって、ようやくまともな文章になった。明日発表なので、実は内心どきどきしている。ちゃんと話が出来るかなぁ、と。

今回、今まさに生起している問題を、しかも英語論文でまとめようとして、かなり苦しんだ。もちろん、自分の当該問題に対する視点や論点が固まっていないことも、かなり発表するにあたって困難な要因だ。だがそれ以上に、英語で論理を組み立てる事が、単に語学音痴である以上に、苦痛をもたらす。それは、自分の論理がかなりいい加減である、という問題点だ。

これについて、日本を出る前に、非常に示唆的な本を読んだ。藤田斉之氏 (『英作文・英語論文に克つ!!―英語的発想への実践』、創元社)によれば、日本語は話し手中心の言語の典型例であるのに対して、英語は聞き手中心の言語の典型である、というのだ。つまり、日本語では話者がしゃべりたいようにしゃべり、わからなければ、往々にして、それを聞く側のリテラシーの問題とされる。だが、英語では、聞き手がわかるように話す義務が話者に課せられており、伝わらないのは、話者のせいである、という思想なのだ。この論理を自分の英語と日本語に当てはめると、悲しいほど同意してしまう。

日本語で論文を書いたり学会発表している時、論旨はクリアでなくても、特に学会発表時などは、日本語でべらべらしゃべれてしまうので、まくし立てて無理矢理話を作ってしまうことがある。一旦アヤシイ論理でも自分の中で出来あがってしまうと、そのロジックに自家薬籠中(=自家中毒?)となってしまい、そのドツボの陥穽について気づくことなく、そのままわかった気になって文章を書いたり、発表を終えたりする、という無謀なことを、実に安易にしてしまっている。

だが、英語論文ではそれが許されない。自分の論理が相手に伝わっているか、が最大の論点になるのだ。文学的美しさ、というよりも、プラクティカルな意味で「話が通じる」ということが大切なのだ。自家中毒的なナルシスティックな文章などもってのほか。論理の陥穽にはまることなく、理解しやすい論理をどう組み立てるか、が最大の焦点になっているのである。文化や母語が違う相手にでも伝わりやすい文章・話を目指すこと、それは自分の論理がどれだけシンプルで、相手に伝わりやすい流れか、が露呈するリトマス試験紙でもある。そして、僕の場合往々にして、自分の論理がシンプルではなく、伝わりやすくない流れである、とわかってしまって、ぐったりするのだ。

そうはいっても、何とかパワポと当日プレゼン用の原稿も用意した。後は、明日午前中を乗り切ればいいだけだ。不安もあるけど、この間疲れていて、だいぶ眠いので、今日はこの辺で。

五箇条の類似性

 

気がつけば10月おわり、カーラジオからは「後二ヶ月で今年も」という声が聞こえてくる。今日の甲府はめちゃんこ寒くて、最高気温が15度程度。車の暖房もこの冬初めて強めに入れた。

まあこの1週間も、目の回る一週間、そのものだった。1週間前の三重の研修は、満足もして頂いたが、次回に向けての課題もてんこ盛りだった。「現場の人に、明日から役立つ研修を」をテーマに、東京のMさんと神戸のOさんのお二人のゲストにも助けて頂きながら、の研修なのだが、設定した課題「困難事例から福祉計画へ」という設定が高すぎたため、なかなか求めるゴールにたどり着かない。受講生の質がどうの、という話ではない。時間が足りなさすぎる、ということが、この研修の中で明らかになった。本来なら3日くらい、じっくり時間をかけてやるべきなのを、2日分でやろうとするから無理があるのだ。

そう言えば、スウェーデンで行政職員の研修の機会を垣間見ることがあった。以前、グルンデンの知的障害当事者と支援者が介護の専門学校で講演するのを聞きに出かけた時のこと。あれは海の近くの快適なホテルか、セミナーハウスのようなところ。広々とした空間でくつろいだ雰囲気。1時間半に一度は必ずコーヒーブレイクの時間があり、お昼は昼食会場で結構豪華なお昼ご飯を食べた。そういうリラックスした空間だからこそ、普段とは違う気持ちで、新しい研修内容もすっと頭に入ってくる。だが、時間的にもキツイ講義+演習を、詰め詰めの会場でやっていると、集中力が続かず、文字通りの「酸欠状態」になってしまう。帰り、東京駅でMさんと別れた後、言いようのない疲労に襲われていたのだが、多分にこの物理的・時間的な制約に起因するところが少なくない。(もちろん研修のデザインの問題もあるが)。そんなことを考えていた時、ふと浮かんだのが、先に挙げたスウェーデンの研修風景だったのだ。やはり、研修デザインは、余裕を持ってやらなきゃね、と肝に銘じていた。

で、土曜日は少しは休めたのだが、日曜日から再びドタバタが再開。日曜日は研究室の外は学祭真っ盛りだが、こちらは火曜の二コマの講義準備に追われる。というのも、月曜日から障害者相談支援従事者研修が始まったからだ。月曜はしゃべり手でもあるが、僕自身、昨年同様企画側にもまわっているので、1回を除き5回のシリーズ、全部に立ち会う事になる。すると、月曜日はこの後ジムに行ったらすっかり夕方。火曜日は2コマしたあと、2組のお客様を迎えたら、これでタイムアウト。水曜日は逆に3コマ授業をして県庁で今度は高齢者の主任ケアマネの研修のために、キーパーソンとなって下さる方との意見交換会。これも結果的に4時間くらいかかって、県庁を出る頃には外は月夜。で、木曜日は授業の後、夕方今度は東京へ。しかも、電車の中ではパタパタPCにかじりついている。そう、文科省関連の来年度の研究費申請の学内受付が、今日金曜日の〆切なのだ。日曜日あたりからボチボチ取りかかったが、形にするには時間がかかる。結局ここ数日、毎朝5時起きでキーボードを叩きまくって、何とか今朝、提出。やれやれ。

とはいえ、今日も一日、行事が目白押し。午前中は地域移行に関する県のお仕事があり、終わるやいなや県民文化会館へ。社会福祉協議会の総会があり、その後「ミニ講演」が出番だったのだ。で、今回「ミニ」な理由は、私の前に、高齢者劇団の方々による「リフォーム詐欺」のコミック劇があり、その解説編で権利擁護課題をお話しする、というお仕事だった。そこで、演劇中に、騙す側が相談しているシーンで使われた「リフォーム詐欺の心得五箇条」がなかなか心憎い。その五箇条とは、確かこんな感じだった。

その1,人のよさそうな家を狙う
その2,丁寧な言葉と笑顔で接近する
その3,相手の気づかない点を指摘する
その4,時々専門用語も使う
その5,小さい仕事をやって、段々大きな仕事へと変える(次々販売)

この五箇条を見ていて、ふと気づいた。これって中途半端な研究者だってそうかも、と。

相手の気づかない点(その3)を、時には専門用語を交えて話す(その4)のは、この生業の得意技。でも、実力がない人は同業者には見透かされるので、なるべく包容力の多い素人相手のごまかしになりがちとなる(その1)。自分に自信がないから、勢い必要以上に丁寧な言葉と笑顔で接近する(その2)。で、小さな仕事でつけいる先を見つけたら、徐々に大きな詐欺的仕事に発展する(その5)。詐欺商品が、住宅改造という実物か、理論なり研修というパッケージなのか、という違いがあっても、笑えるほど、類似点がある。僕が、「研究詐欺」になっていないか、そのチェックを自らの方に向けると、何とも覚束ない

「研究詐欺」にならないためには、当たり前すぎて愚問だが、「新たな勉強をし続けるのか?」がまさに問われている。忙しくても、何とか勉強の時間は確保しなくちゃ。そう思いながら、日々の「緊急」課題に囲まれている。その中には「緊急だが重要ではない」仕事も含まれているのに、緊急モードで対処するうちに、「急がないけど重要」という課題(例えば上記の勉強など)がすっぽり抜けてしまいそうなのだ。あぶない、あぶない。

時間がないのを言い訳に色々したいけれど、それを言っちゃあオシマイだ、と改めて感じながら、劇団のお芝居を舞台袖から眺めていた。

現場と研究と

 

今朝も三重にいる。いつもの駅前のホテルだが、今朝は5度目にして初めて、海側ではなく山側の部屋。雨の津の街を眺めていると、甲府とも京都とも違う、町並みから田んぼ・林、そして山並みへと続く風景が実に面白い。

さて、今日は以前から何回か事前打ち合わせをしていた、市町村職員エンパワメント研修の当日。お題となっているのは、「「『困難事例』を福祉計画にどうつなげるか」。福祉の現場では、都会や田舎に限らず、全ての問題が円満に解決されるわけではない。むしろ、現状のその地域の社会資源や支援体制の中では「解決」が「困難」な「事例」が少なくない。そういう『困難事例』に対して、「しかたない」「不幸ですね」と個人のせいにしているだけでは、何も問題は解決されない。そういう「困難事例」に接している市町村の福祉担当職員が、何を「困難」に感じているか、どうしたら「困難」を克服できる「解決」案が出せるか、について、これまであまりも学ぶチャンスがなかった職員もない。そこで、上記のような研修にいたるのである。

で、実はこの研修は、最近の竹端の「困難」な挑戦に直結している。来月の台湾の学会で、この「困難事例」を市町村行政がどう克服できるのか、について話してみよう、と慣れない英語を必死に格闘していたのだ。英語で「困難事例」に近い表現として、“wicked problem”というものがある。辞書を引くと、「たちの悪い問題」。あ、なかなか解決出来にくい、そういう「たちの悪い問題」ってあるよね、と文献を探していると、出てくるは、出てくるは。なるほど、どこの国の現場でも、定型化されない、○×でマニュアル化出来ない問題といろいろ戦っておられるのですね。

というわけで、現場での研修と、研究をくっつけて考えてしまっているので、本当にうまくいくか、が非常にハラハラするけれど、でもおもろい。いや、おもろいんだけど、結構しんどい、と言えようか。どっちも方向性を見いだすための、模索のまっただ中にいる。ただ、ありがたいのは、現場には援軍が沢山にて、今日の研修も県内外の応援団で「チーム三重」を創って活動できる点だ。そういうfront lineの現実を、どう論文として多少は普遍的に伝えられるか。その中に、現場の「困難」の生の現実をどれほど織り込めるか。このあたりが課題だろう。

誰のための自立

 

久しぶりに心から納得しつつ、深い感慨を持って読んだ文章があった。

「私は他人から私の自立について何か言われると、主体性を否定されるかのような思いを持ってしまうようだ。それが私への善意と愛と思いやりに満ちたものであっても、である。しかも、実際には自分で自立だなんて難しいこと、重いことは少しも考えて生活していないことを隠した上で『放っておいてよ』と言ってのけるわけだからすごくタチが悪い。自立のためにがんばってきた記憶がないのである。しかし、知的障害があると、いや障害があると、四〇代になっても五〇代になっても自立という目標に向かってがんばり続ける人たちが多いことにびっくりしてしまう。問題は誰ががんばることを決め、望んでいるのかである。」(三田優子「知的障害者の自立」『ケアされること-ケア その思想と実践3』岩波書店p112

実に簡潔にして明瞭である。大概の人は「自立のためにがんばってきた記憶がない」し、他人にとやかく言われると、「それが私への善意と愛と思いやりに満ちたものであっても」、「主体性を否定されるかのような思いを持ってしまう」から「『放っておいてよ』と言ってのける」。僕自身のつたない経験でも、親にとやかく言われるのがとにかく嫌で、よくこの『放っておいてよ』を叫んでいたような気がする。「善意」「愛」「思いやり」があっても、「主体性」が育つ中で、そんなことを言われたくない、という自分独自の視点が育ってくるのだ。多分それが「自立心」なるものだとこれを読みながら思った。

つまり、あくまでもその「自立心」は、個々人の中で芽生え、育まれるものだ。決して誰かに望まれたり、決められたりするものではない。いや、時として「○○からの自立」とは、その対象の○○との愛憎半ばする、しかし○○とは別の私として生きたい、という声明でもあるような気がする。当然その時に、○○の側の思いや願いと、全くずれるとも限らないが、かといって全く一致するとも限らない、そんなものだと思う。

しかし、三田さんが書いているように、「障害があると、四〇代になっても五〇代になっても自立という目標に向かってがんばり続ける人たちが多い」のだ。しかも、その直後に三田さんはグサッと核心をついてくる。「問題は誰ががんばることを決め、望んでいるのかである」と。がんばり続けること周りから強いている現状が、そもそも強いている側(=マジョリティ)の「自立心」とはズレている。もっと端的にいえば、「自分すら出来ないことを障害者に強いている」のである。この欺瞞や問題性を、読みやすい文体とイメージしやすいエピソードを挟みながら、三田さんは私たちの現前に差し出しているのだ。

ちょうど金曜日の苦情解決責任者研修で、支援をするということの権力関係について話をしていたのだが、この文章はまさしくその論点をズバリとついてくる。社会福祉サービスを利用している側にとって、いくら契約制度であれ、「お世話になっている・をしている」という意識はなかなか利用者側も、提供者側もぬぐい去れない。その際、どうしても提供者側から被提供者側への権力関係が生じる。そのことに提供者側が自覚的でない限り、「自分すら出来ないことを障害者に強いている」実情は簡単に生じる。だからこそ、多くの障害当事者が、つらい、悲しい経験を繰り返ししているのだ。

三田さんの文章は、こんな下手くそな評論が吹いて飛ぶくらい、しみじみと感じ入り、読む者に余韻も残す。学生議会で障害者のことを質問する学生だけでなく、市町村の障害福祉担当者への研修などで、直接読んでもらいたい。そう思った文章だった。

ツアー最終日、甲府駅に着く直前の「ふじかわ号」車内で、実に良い文章に出会えた。

研修企画者の類型化?

 

風邪がようやく治った、と思って、教員テニスクラブに久方ぶりに出かける。ねんざなどしないように、入念に足首のストレッチをする。ラケットは、そういえばグリップテープがもろもろになっていて、感触がよくない。こりゃあ、来週でも張り替えなきゃね、と思いながら、とりあえず練習の輪の中に入る。ボレー・ボレーのようだ。久しぶりにラケットを握って、ボールが来たときに打ち返す。力を込める。

ボキィ

鈍い音と共に、痛みが襲ってくる。音の感じは、関節をぼきぼき鳴らした時のような音。しかし、それに痛みが伴う。手をブラブラさせていると、痛みはない。、だが、グリップを握って球を打つとやっぱり痛い。筋違えのようだ。せっかく久しぶりの運動なのに。20分で終了して、あえなく帰宅。骨は折れていなかったのだが、筋が痛んでいる模様で、不幸中の幸いは、こうしてPC入力や車の運転には不自由がないこと。ただ、運動が出来なくなったのが、また少し太ってしまった身体には悲しい。そう、ストレッチって、手もやらないとダメなんですねぇ。

で、昨晩は新大阪の駅前ホテルに投宿。今週末は岡山で学会なので、それにくっつけて、西日本方面!でのあれやこれやの打ち合わせなどを入れ込んでいく。そのついでに、最近祖母が元気がない、と聞いたので、今日は少し足を伸ばして島根まで日帰りで出かけてくるつもり。で、ビックリしたのが、昨日打ち合わせで訪れた西宮駅で今朝の「のぞみ」を予約しようとしたら、満席! そうか、世間は三連休、なのですね。流浪する民は、すっかり世間の約束事を忘れていたのです。ま、それでも何とか席を確保し、今日は島根岡山へ、で、明日は学会が終わった後に三重に。「ついでに」と言うにはあまりなスケジュールだが、10月から12月にかけて、福祉業界は「研修」三昧で、こちらもあれやこれやお手伝いすることになってしまった。なので、珍しく「西日本」方面に行くときは、ついでに、ついでにと重ねていった結果、こうなってしまう。あれまぁ。

さて、昨日の西宮の打ち合わせでは、今度山梨の障害者ケアマネジメント従事者研修にお越し頂く玉木さんや北野さん議論。この研修は各都道府県で必ず行うものなのだが、全国的にみて、その落差が色々あるようだ。山梨の場合、昨年と今年の研修のデザインに参画させて頂いているので、何とか「来て良かった」「自分が変わるきっかけとなった」研修に高める為の仕掛けと仕込みをしている。

研修に講師の立場で関わらせて頂くことが多くなって、よくわかりはじめたこと。それは、研修を依頼する側のスタンスやデザイン如何で、その研修の持ち味や中身は大きく変わりうる、ということ。研修の善し悪しは、講師の力量や話術にも勿論左右される部分がある。だが、それよりも、研修企画者側が、研修のミッションをどう定義し、聞きに来る人に「どう変わってもらいたいか」というビジョンを持っているか、それを講師に伝えて、講師からその部分に対する叡智を引き出せるか、にかかっているのだということだ。
実は研修のデザイン如何によって、講師の力量を何倍に活かす可能性も、逆に何分の1かに減じる可能性もあるのだ。つまり、研修の「仕込み」と「仕掛け」が、その研修を正負の両方に引っ張る大きな要因となるのである。

そこで、この設計をする側が、上記の「仕込み」と「仕掛け」にどれだけ自覚的か、という点が肝になるのだが、実際はどうだろうか。私が講師依頼された場合は、よほどのことが無い限り、出来る限り事前に打ち合わせの時間をとって頂き、研修担当者と議論する場を作って頂く。そうして、少なからぬ担当者の方と会う中で、次のような類型化が出来るのではないか、と感じ始めている。

【丸投げ型】:とりあえず職務だからやるけど内容はよくわからない(興味がない)ので講師に丸投げ
【暗中模索型】:その内容にある程度興味も持っているのだけれど、具体的にどうしたらいいのかよくわからない
【積極的対応型】:企画者側にある程度こうなってほしいという意図や問題意識があり、それを講師に伝えた上で、後は講師に任せ、ミッションを遂行してもらいたい
【共同設計型】:企画者としてプランニングを十分にし、各講師にも企画段階から練り上げる為に関わってもらい、一緒に研修を作り上げる役割を主体的に担ってもらう
【専制型】:全体について完全に企画者側が主導権を握り、講師には指示されたパーツのみの働きを求める

実際に研究室におこしになる方で、のタイプにはめったに出会わない。だいたいはのどれかの方である。それでも年に1,2度はでおこしになる方と出会うのだが、その落差に驚いて唖然としてしまう。そういう「丸投げ」研修は、正直こちらも気乗りがせず、無難にこなして逃げ帰ることがある。

そして、の暗中模索タイプの方なら、こちらが適切な問いを投げかけることによって、その方の中で何かかがはじけ、タイプに変化される方もいる。これって、実は「学習」に対する姿勢の類型化でもある。全くやる気がなくてこなすだけの勉強()から、自分に必要なところだけをつまみ食いする自習に近い状態()まで。で、自習して学べるのならいいけど、本では学びにくいエッセンスや新しい視点を取り入れるために研修がある、とするなら、「どうしていいのかわからない」という状態()から、「こうすればもっと良くなるとワクワク新たな試みを続ける状態」()に高める、というのは、普段ゼミ生の指導でやっている事と同じ、なのだ。そういう意味で言えば、研修企画者の為の研修、的なものが本当は必要なのだが、どうも見回しても、適切なそういう研修はないようである。

なので、お節介タケバタは、の人に出会うと、ついになってほしい、とあれこれ聞いてしまう。その結果、ありがたいことに継続的に研修の依頼が来る、という面は、多少は効果があった、ということで喜ぶべき事なのだろうけど、10月から12月までみっちり入った研修を見て、とほほ、とも。まあ、これぞ身から出た錆、ではなくて、良い循環、なのですね。

というわけで、自分が企画者側に回った際は、何とかが出来ないか、と苦慮している。その際、遠くても、可能であれば会ってミーティングすることも大切。だから、昨日は西宮で、明日は岡山で、明後日は三重で、それぞれ仕込みの打ち合わせをするのだ。どんなものでも手間暇かけないと良いモノはできない。そんな当たり前のことを今更ながら実感しているうちに、のぞみ1号は広島駅へと近づいていた。