『枠組み外しの旅』 一部公開

いよいよ10月27日に、人生初の単著が出る。『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会」である。Amazonでもようやく予約を受け付けることになった。
ただこの間、講演の度に本のチラシをもって宣伝しているのだが、どうも最初はぽかんとされる。「難しい本ではないか?」「福祉と関係ないのではないか?」「福祉の話なら自分には関係ないな」など、反応は様々だが、もう一つタイトルとチラシ内容ではわからない、というご感想を沢山もらう。
確かに、2625円という高い本を買うとき、せめて目次や概要を知らないと、無名の新人の本なんて買う気にならない。僕だって、そう思う。そこで、出版社と相談の上、この本の概要とエッセンスを詰め込んだ「はじめに」と、「目次」を公開することにした。これを読んで頂いたうえで、ご興味があれば、是非ともご自身で購入頂くか、図書館でご注文頂ければ幸いです。では、どうぞ。
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はじめに
小さい頃から、「しゃあない」という言葉が嫌いだった。「しかたがない」を意味する関西弁である。
「どうせ・・・しゃあないやん」
なぜだかわからないが、この「諦め」のフレーズには反感を持っていた。宿命論的に可能性を閉ざす物言い、このフレーズを発語する時の歪んだ「したり顔」。そういう言葉や話し方を見ると、生理的な嫌悪感や反発を抱いていた。
今、改めてこの問題を考えてみると、「どうせ」「しかたない」というフレーズは、自らの潜在能力の最大化にとって最大の「蓋」であり、「呪縛」の言葉である。「どうせ」「しかたない」と述べることで、自分の、社会の、世界の変容可能性を拒絶し、旧来の世界に閉じこもることを容認している。しかも、変えられない現実に対して文句や不満を持ちながら、「でも、しゃあないやん」と、呪詛のように、「諦め」の言葉を発して、自分に言い聞かせようとしている。あたかも自己洗脳のように。そうして、それ以外の世界に蓋をすることで、自分の中に澱のように「諦め」を沈殿させ、その「諦めの沈殿物」によって、自らの魂は毀損され、内側から腐り続けていく。気がつけば若い日に持っていた溌剌とした気持ちはすっかり萎え、日常生活はパターン化されたものになり、余計なことに手を出さず、ため息をつきながら与えられた仕事に我慢して堪え、様々な事も「見て見ぬ振り」をして、感覚や感情にも蓋をして、「つつがない日々」を送ろうとする・・・。
こういう「どうせ」「しかたない」という「諦め」に支配された暮らしは、人間的ではない。人間誰もが持つ成長や変容可能性に蓋をするだけでなく、「諦め」の中で歪められた認知枠組みによって、魂が窒息してしまう。
では、どうすればその窒息しそうな現状、「諦め」に支配された暮らしを乗り越えることができるか?
この本で取り組むのは、この問いへの、僕なりの解決策や具体的方法論の提示であり、その方策を導く「枠組み外し」という認知転換の思想についての考察である。それは、人生における新たな段階への旅立ちであるがゆえに、『枠組み外しの旅』というタイトルをつけた。
「枠組み外し」とは何か。簡単に言えば、私達が「当たり前の前提」としている、「変えられない」と思い込んでいる「常識」「暗黙の前提」そのものを疑うことである。「どうせ」「しかたない」とわかった振りをせず、なぜ「しかたない」とされるのか、本当に変容可能性はないのか、どうすれば変える事が可能なのか、を徹底的に考え続けることである。これは、極めて個人的な、時として「反社会的」な営みである。なぜならそれは、あなたや僕の中に根ざした常識や社会通念そのものとの闘いでもあるからだ。決して楽な営みではない。だが、その枠組み外しをし続ける中で、穴が空く瞬間がある。絶対に変わらないと思っていた強固な常識の固い岩盤が崩落し、その下に、別の新たな可能性を見つけ出さす瞬間が訪れる。この別の可能性との出会いのことを、分析心理学の開祖、ユングは「個性化」と名づけた。この「個性化」を果たす中で、実はあなたや僕自身が、より大きな社会の中で開かれていき、そこから社会が少しずつ変わり始める。つまり、あなたや僕自身の「個性化」を通じて、あなたや僕という一主体が、社会を変える渦の発生源となることも可能なのだ。
この渦のことを、本書では「学びの渦」と呼ぶことにする。
「学びの渦」とは何か。それは、渦の主体となる個人が、自らが囚われている枠組みの限界に気づき、その枠組みを外す学習プロセスに身を置くことから始まる。それが個人の中での「枠組み外し」にとどまらず、その気づいた認知転換に基づいて、行動や態度を変え、世界に対してのアプローチを変える。このような「創発」から、少しずつ渦が拡がり、やがてその「渦」が、「どうせ」「しかたない」と諦めていた固い岩盤を地すべりさせ、その下にある新たな可能世界を発掘する機縁をもたらす。そんな、拡大し変容する渦的存在としての「学びの渦」。
本書では、その「学びの渦」の生成の中で、その「渦」作りに関わる個人が「個性化」を果たすということ、そしてその「個性化」が、福祉社会の変容にも大きく関わっていること、そしてあなたや僕自身も、そのような「学びの渦」に巻き込み・巻き込まれる変容主体になれること、それが「どうせ」「しかたない」という「諦めの壁」を超える方法論であること、といった物語を展開していこうとしている。そして、その「枠組み外し」の論理を支える現象学的還元についても考察したいと考えている。以下、簡単に各章の概要を示しておく。
第一章では、僕自身の「学びの渦」への気づきのプロセスを整理した。ダイエットや花粉症治療という、自分の中では「超えられない壁」と思い込んでいた「悪循環構造」。それらを乗り越える中で、そのフィジカルな変容が、実は「魂の脱植民地化」とつながっていた。また僕自身の変容プロセスの背後には、エクリチュールという枠組み構造への呪
縛がある。そのことに気づき、その枠組み構造という「箱の外に出る勇気」を持てば、自らの変容過程の中からこれまで知らなかった新たな「知」と出会う事が出来る。それは、「学びの渦」を駆動させる学習過程である。
第二章では、個人と福祉社会の相互変容プロセスについて考察した。支援現場が「支配構造」に簡単に転化しやすいことを、教員―学生関係との類同性から検討した。「反―対話」の構造は、支配者側の歪んだ枠組みの押しつけであり、それを超える「対話的プロセス」では、教える側・支援する側が支配的関係性を捨て、新たな関係作りに向けた相互変容過程に、教わる側・支援される側と飛び込むことである。その相互変容過程という学びの渦を開く中で、「地すべり的移行」が可能になり、社会が変わり始める。
第三章では、学びの渦がどう福祉社会を変えていったか、実例を用いて検討した。入所施設や精神科病院でのケアが当たり前、とされた重度障害者でも、地域で暮らせるはずだし、その方法論を模索しなければならない。今では当たり前になったこの概念を、「ノーマライゼーションの原理」として整理して提示し、当時の施設収容が当たり前という常識の固い岩盤を突き崩したベンクト・ニィリエ。彼の足跡を辿る中で、個人の「出現する未来」への気づきと変容が、どのように社会を変える起爆剤となったのか、そして実際に渦はどのように拡大していったのかを捉え直す。
第四章では、「枠組み外し」がどうすれば可能か、について現象学的還元をキーワードに考察した。「どうせ」「しかたない」で済ます常識世界の強固な蓋のことを、精神科医のレインは「一次的存在論的安定」と命名した。その呪縛的な安定を哲学者メルロ・ポンティは「世界の定立」と名づけたが、その「世界の定立」という「枠組み」を外す現象学的還元の旅をする中で、新たな可能世界が立ち上がる。東日本大震災や原発災害という未曾有の危機は、「どうせ」「しかたない」と蓋をして見ないようにしていた「一次的存在論的安定」に亀裂をいれた。これは日常世界崩壊の危機であるが、「世界の定立」構造そのものと向き合い、「枠組みの外」に拡がる新たな可能世界への旅立ちのチャンスでもある。後者に飛び出す「哲学する行動」に必要な視座とは何か、についても整理した。
その上で、第五章では「個性化」と「社会変革」を主題とした。「○○らしく振る舞う」というエクリチュールの呪縛を飛び越え、箱の外から捉え直すためには、一人一人が自らの内奥にあるユニークさを豊かにする、という意味での「個性化」を果たす必要がある。その極めて個人的な「個性化」の営みは、「諦め」を吹き飛ばし、他の個人を変え、地域社会を変容に導く原動力となる。個々人が宿命論的呪縛から「自由」になり、開かれた魂で他者と「かかわり合い」をする中で、新たな何かが創発される。その創発プロセスこそが、学びの渦の正体でもある。
ここに書かれた概要は、書いてみて僕自身も初めてわかった・気づいた動的プロセスである。あなたは、これを読まれて「ほんまかいな?」と疑念を持たれているかもしれない。でも、「どうせ」「しゃあない」と最初から諦めるよりは、たった一つの可能性でもいいから追い求めたい。そんな心意気で本書を書き上げた。よろしければ、この「枠組み外しの旅」にご一緒頂きたい。
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目次
序 深尾葉子
はじめに
第一章 渦を産み出す
 1.悪循環プロセスからの離脱
 2.香港でうがたれた窓
 3.窓の外に見える「魂の脱植民地化」
 4.常識の捉え直し
 5.私自身の悪循環構造
 6.復讐から贈与へ
 7.箱の外に出る勇気
 8.魂の植民地化という悪循環構造
 9.学びの回路とは何か
 10.論語の基本構造
 11.学びの渦
第二章 「反―対話」的関係を超える
 1.五つのステップ 
 2.問題の一部は自分自身
 3.反-対話から対話へ
 4.コミュニケーションシステムに着目する
 5.まず自分から変わる
 6.渦の生成と発展
 7.地滑り的移行
 8.相互変容過程としての私と渦
第三章 渦が拡がる
 1.ノーマライゼーションの育ての父
 2.ニィリエの目指したもの
 3.アブノーマルな現実
 4.析出されたノーマライゼーション原理
 5.U理論
 6.出現する未来を切り拓く社会起業家
 7.ノーマライゼーションという「出現する未来」
 8.渦の拡大と収束
 9.ノーマライゼーションと地すべり的移行
第四章 どうしたら「枠組み」を外せるか
 1.共通する要素
 2.枠組み外しの論理
 3.当事者主体というたたかい
 4.事実と価値の取り違え
 5.正解と成解
 6.構造的制約を括弧に入れる
 7.哲学する行動
 8.呪縛を解き放つということ
 9.渦巻きに必要なこと
第五章 「個性化」と「社会変革」
 1.エクリチュールと心的肥大
 2.箱の外から捉え直す
 3.個性化の先にある共生的価値創出
 4.地域全体の社会復帰
 5.関係性や場全体から読み取る
 6.社会を変える、の誤謬
 7.「諦め」からの解放
おわりに

単著に向けた旅立ち

この連休は、やっとゆっくり休めている。

スウェーデン・ノルウェーでの夏休みから帰って来たのが、8月中旬。そこから、単著のゲラを何度も何度も読み直して校正し、紀要論文を書くためにバザーリアの英語論文をコリコリ読み進め、色々な原稿を書きまくり、週に1度は研修に呼ばれたので、パワポを仕込みまくり、喋りまくっていた。合気道の合宿に初めて出かけ、こってり練習し、こってり飲みもした。そうこうしているうちに大学は再開し、大学に出かけた日には溜まった仕事をバッサバッサと片付けていった。そろそろ心身ともにくたびれたな、と思うタイミングで、奇跡的に連休に遭遇。睡眠もうたた寝もたっぷりして、ようやく息吹を取り戻しつつある。
そういえば、単著のことをあまりブログでご報告していなかったので、今日は裏話も含めてご報告を。
(リンク先では、青灯社さんのHPに掲載されている宣伝HPに飛びます。)
この本は、生まれて初めての単著である。
これまで、障害者福祉論精神保健福祉論の教科書、あるいは例の『障害者総合福祉サービス法の展望』の編者はしたことがある。でも、どの本もコンセプトが決まっていて、その中で僕に与えられた範囲で書く、ということから、脱していなかった。あるいは権利擁護脱施設化の本の共著者になったこともあるが、これも部分的参画、である。単著を出すこととは、全く重みが違っている。
実は、本当は9年まえに、単著が出てもおかしくはなかった。外見的には。
2003年の3月に、僕は大阪大学から博士号を頂く。
『精神障害者のノーマライゼーションに果たす精神科ソーシャルワーカー(PSW)の役割と課題-京都府でのPSW実態調査を基にして』
というタイトルで書き上げたのだ。
立派な博士論文を書き上げた人の中には、それを一般読者向けにリライトして、学術書として出版される人もいる。僕の友人や同僚も、そのような形で出版され、評判になった著作もある。それだけ、完成度とまとまりが高い論文なら、そういう事になる。あるいは、出版社からのオファーがなくても、自分の中での区切りをつける為に、学術助成や自費を突っ込んで、出版という形に高める方々もおられる。その中には確かにすごい本もあるのだが、昨今の博士号の急増と共に、博論本デフレ、とでもいうような出版ラッシュの中で、あまり面白くない本も出ていることも確かだ。
で、肝心の僕はどうだったのか?
博論の内容自体は、僕にとってすごく面白かったし、その後の僕自身の研究の糧になる、羅針盤の役割を果たしてくれている。でも、それはあくまでも僕自身に対して、であって、とてもそのまま書籍という形で社会化できるとは思っていなかった。117人の方にお話を伺った事を、その生の声のまま届けるのも一つの作戦であり、博論自体はそういうまとめの中から僕自身の発見を「5つのステップ」としてまとめたのだが、それをそのまま一般の人が読んでも面白い、という形で出すことは、難しかった。何よりも、僕自身の当時の力量が圧倒的に不足していた。というか、僕が発見した面白さや大切さを、その業界の事に全く関心がない人にもスルスルと読んで理解してもらうだけの文章力や器が足りなかった。ゆえに当時は、紀要論文にしただけで、お蔵入りにした。
それから10年弱。
この10年弱は、脱施設・脱精神病院や地域移行、権利擁護、コミュニティーソーシャルワーク、障害者地域自立支援協議会、地域包括ケアシステム、福祉組織・現場職員のエンパワメント、障害者制度改革・・・などと関わってきた。どれも、博論を書く事を通じて得られた問題意識を開いていくなかで、様々な現場との関わりを頂き、その関わりの中で考えを拡げていったものである。その中で、各種の媒体で書かせて頂いた文章もたまり、「権利擁護」に関してなら、一冊分にするだけの原稿が、既に3年まえの段階で揃っていた。それを持って、恩師のとある先生のところにご相談に出かけた時、強烈な問いかけをされる。
「これは、一冊目の単著として相応しい内容ですか? だいたい、人は一冊目の単著が面白くなかったら、他の本は読んでくれない。もっと言えば、いつも同じような内容の焼き直しをしている○○さんとか、△△さんの本とか、君も読んでいないだろう? そうならないためには、最初の一冊はきちんと時間をかけ、手をかけた内容にすべきだ。今まで書いた原稿をまとめて出すのは、その後で十分だ。」
まさに、仰るとおり。何も言い返せない自分がいた。
僕自身、自分が考えて来たことを、そろそろまとめたい、と熱望していた。もっとミーハーな感覚で言うと、同世代が単著を出しているのに、まだ僕自身は出せていないことに、若干の焦りも感じていた。だが、そこに冷や水をかける恩師の一言により、そういうミーハーな熱気は冷め、本当に僕が書きたいことは何か、どうしたら熱気だけでなく、中身まで伝わる内容になるか、を考え始めた。きちんと考え抜いた内容を出せるまで、自分から単著の持ち込みなどをすべきではない、と心に誓った。
そして、その1年後あたりから、このブログでも書き続け、今回の単著のタイトルにもなった、「枠組み外しの旅」がスタートする。きっかけは、香港で読んでいた一冊の本と、その1週間に出会った「魂の脱植民地化」概念であった。そこから、ブログ上で「枠組み外しの旅」の連作を書き続け、それを東洋文化の特集号の中に入れて頂けた。そして、この東洋文化の特集号が出された直後に東大で開かれた合評会の席で、安冨先生から「竹端さんも、今度青灯社から出す『魂の脱植民地化シリーズ』で一冊書きませんか?」とオファーを受ける。「もちろん、喜んで!」と即答している僕がいた。それはなぜか。
それは、やっと僕自身がこれまで考えて来たことをまとめる方向性が見えてきた、というのが一番だろう。東洋文化に「枠組み外しの旅 : 宿命論的呪縛から真の<明晰>に向かって」を書き進める中で、ブログで書いてきた内容と、論文の枠組みがオーバーラップしてきた。これまで、論文というメディアでは、確定的な事実に関してのカリッとした論考、という範囲から逸脱しない自己規制が働いていた。一方で、ブログでは、特に「魂の脱植民地化」概念に出会った後は、自らの関わる現場と、僕が刺激を受ける哲学や思想、そして僕自身の実存を重ね合わせて、深掘りするような文章を書き続けていた。例えば「授業における枠組み外し (連作その7)」、これは単著に入れなかったブログの内容だが、この文章に代表されるように、自分が関わる現場とそれに関連する理論や思想、自らの実存を重ね合わせ、僕自身の見解を書き始めたら、止まらなくなった。これまでブログは本の内容を紹介する事が多かったのだが、それにフックをされつつも、気付いたら論を展開し始めていた。
ゆえに、3月末にオファーが来た時も、すぐに出来そう、という根拠のない自信がむくむくとわいていた。実際、6月末〆切りだったのだが、6月にはイタリア調査に出かける予定でもいたので、2ヶ月弱という短期集中決戦で、原稿を書き上げた。その中で、改めて考え続けていたのが、僕自身の「個性化」の課題である。
これはその時期のブログにも書いたことだが、本というのは、肩書きでも立場でもなく、中身での勝負である。その時に求められるのは「やりたいこと」を全力投球で文章の中に放り込み、それを僕とは立ち位置も考え方も違う読者のあなたに届ける、ということだ。つまり、自分自身の「できること」や「世間に求められていること」にのみ埋没・迎合するのではなく、あくまでも一冊の本という物語を書き進める中で見えて来た世界観を突き詰めること、それが僕自身の「やりたいこと」につながるのである。そしてこの本の最終章を書き始めた時、そのことをユングは「個性化」と表現していた事に、再び出会う。そう、僕はソーシャルアクションとか、社会変革とか、どうしたら「どうせ」「仕方ない」と諦めずに、社会を変える渦を作り、展開することが可能か、を問い続けてきた。この本に書き直して入れた論文の中でも、渦が自生する仕組みを解き明かそうとした。
だが、本を書き進めた最終局面で、「社会を変える」という一方通行的な、上から目線の考え方自体のおかしさ、にも気づけた。自らの個性化を貫く中で、その個性化が他者にも開かれ、他者との真の対話が進む中で、社会をも変える渦が勝手に自生し、廻りはじめるのではないか、と。すると、これまで自分が見たこともなかった地平に、文章が僕を運んでくれた。そして、気がつけば、一冊の本として、原稿が仕上がっていた。
そういう9年あまりの「廻り道」の末に、やっと単著の出版にたどり着けたので、本当に素直に嬉しい。願わくば、より多くの方に手にとって読んで頂きたい。著者としては、それを願ってやまない。

「沈黙と孤立」を超える支援とは?

僕たちは、想像以上に「常識」の眼鏡に拘束されている。特に、自分とは関係ない、と思い込んでいること、普段接していないこと、関心をこれまでもってこなかったこと、関わりのなかったこと、に関しては、常識や通念をそのまま当てはめて、「思考の節約」をする。あるいは、周りの人やマスコミが言う事を、何となくそのまま受け止めている。

つまり、自分が直接関わったり体験したこと以外は、イメージ上の世界、であり、しかもそのイメージは、検証も考察もされていない、「何となくそういう感じだよね」という先入観や偏見に基づいたイメージ世界である。別にそれで生きていくのに困らないなら、それでいい。だが、実際にその世界に関わってみたり、あるいは自分がその世界の当事者になってみたら、世間の常識や通念と全く違うリアリティにびっくりしてしまうケースもある。
例えば、精神病、ホームレス、自殺、ゴミ屋敷、犯罪者の更生・・・こういうカテゴリーは、どれにも「社会の落伍者」といった偏見やマイナスイメージがついており、かつ「自分はそうならない」と思い込みたい人にとっては、見たくもない現実である。また、昔から「自己責任」論や懲罰・排除の対象論、あるいは「仕方ない」「どうしようもない」という諦めのラベリングの対象でもある。「ああいう人って、どうしょうもないね。誰か何とかしてくれないかしら」と。「臭いものには蓋」の対象者となる。身内なら「恥」の対象と言われる。
だが、この常識や通念を打ち破り、そういう人たちに本気で関わろうという人たちもいる。排除や蔑視ではなく支援を差し出す事によって、人間の変容可能性に賭けようとする人たちがいる。今日はその人々の記録について書かれた、二冊の本をご紹介したい。
①『生活保護200万人時代の処方箋―埼玉県の挑戦』(埼玉県アスポート編集委員会編・ぎょうせい)
②『ライファーズ-罪に向き合う』(坂上香著、みすず書房)
①は、「生活保護受給者チャレンジ支援事業(アスポート)」を3年継続する中で、生活保護世帯に本気の支援を提供した埼玉県の実践記録である。この事業の中核を担う大山さんは大学時代からの知り合いで、PHP新書で以前『生活保護vsワーキングプア』を書いた著者としても知られている。今回、彼から献本頂いた。(ありがとうございます)
この本は、具体例がふんだんに盛り込まれ、非常に読みやすいし、かつ夢と希望を読後に持てる一冊である。生活保護世帯が急増する中で、福祉事務所の機能が限界を超えている。ケースワーカーをどれだけ増員しても、こまめな対応がしにくい。かつ、昨今、例の芸能人がらみの「生活保護バッシング」のお陰で、生活保護全体への世間の言われ無き非難の風も強い。そんな状況を変える為の処方箋が、この本には詰まっている。特に興味深かったのが、その変わるきっかけは、「この緊急事態に県も一緒にやりくぬのだ」と覚悟を決めて、全県をまとめて支援体制を構築した(p177)点であろう。今まで「自己責任論」で、事後対応に追われていた行政が、初めてこの問題に真正面から向き合おうとした、という点が、変わるきっかけだったという。
真正面から生活保護受給者の支援に関わろうとしたとき、まず初めに福祉事務所へのニーズ調査を行った。すると、現場のケースワーカーが困っていたのは、「就職斡旋や職業訓練受講などの就労支援」「住居を失った離職者の住宅確保支援」「「ひきこもり・ニートなどの児童・若年層の教育支援」の三つだった。この三つに共通することは何か。それは、規格化・標準化された仕事とは対極の業務である、という点だ。どれも信頼関係構築がないと、そもそも支援が始まらない。また、一度就労や住居、教育から「外れて」しまった人々の復帰支援はすごく手間がかかる。さらにはその方法論がマニュアル化されている訳ではなく、関わりの中で、何度も試行錯誤をくり返しながら個々人にあった方法論を模索するしかない性質のものである。一言で言えば、お役所的に考えたら、規格外の・標準化不能な仕事なのだ。ただでさえ、対応する件数が多い福祉事務所職員が、そんなきめ細やかで長期・継続的な業務をこれ以上抱える事が出来ない。そういうSOSのサインが福祉事務所から出されていた。
埼玉のすごいのは、普通こういう「行政の出来ないこと」は、身内の「恥」として表に出しにくいのに、きちんとそれを真正面から受け止めよう、としたところ。そして、自らの限界を知り、民間団体に「助けて下さい」と協力を依頼し、500人のケースワーカーが配置されている埼玉県全体で、新たに116人の民間の相談支援に携わる人材を「支援員」として活用したのである。
「アスポートの活動は、地域の善意を引き出し、それを丁寧に束ねることで成り立っています。生活保護受給者の支援は、今まで役所が担うものとされ、ある意味では一般の方々からは隔離されたブラック・ボックスの中で行われてきました。それを思い切って外に協力を求めていくことで、多くの方に生活保護受給者の現状を知っていただくことができました。その結果、多くの方が、自分には関係のない特別な世界として『無関心』だった生活保護制度に興味や関心を持ち、『自分にもできることがあるよ』と手をさしのべてくれています。」(p176)
つまり、これまでブラック・ボックスの中で、福祉事務所が「抱え込んで」、結局たらい回しにしたり、自己責任と放置していた案件について、「福祉事務所では出来ないことを、ノウハウを持つ民間の支援員チームに委ね、行政の取るべき責任と取れない(それが得意ではない)責任をわけ、役割分担をして総力戦で取り組んだ」点であろう。そしてそこには大山さん初め行政のワーカー達の、「生活保護の問題は自己責任論ではないし、支援を手厚くすれば、悪循環を好循環に転換出来るはずだ」という信念があると僕は感じた。
この循環性の転換については、以前ブログで考察したことがあるが、ちょっとだけ振り返っておく。
「悪循環から抜け出るためには、その循環のプロセスを含む循環性を認識することが重要である。そしてすべての循環性を否定するのではなく、別の方向へと出発するプラスの循環に入ることである。人が復讐から逃れるのは、マイナスの循環をプラスの循環に反転させることによってだけなのである。」(アンスパック『悪循環と好循環』新評論、p174)
「悪循環から抜け出るためには、その循環のプロセスを含む循環性を認識することが重要である」。この時、循環性の認識とは何を意味するか。それは、表面上見えている問題の背後にある構造に目を向ける、ということである。例えば、「ホームレスの人は、住宅支援をしても、なかなかうまくアパート生活が定着しない」「仕事の斡旋をしても、すぐに『出来ないから』と仕事を辞めてしまう」「母子家庭の子どもは無気力で勉強しようとしない」という問題。これを自己責任と片付けるのは、明らかに「思考の節約」である。そうではなくて、この表面上の「問題」の背後に、どのような「生きる苦悩」があるのか、に徹底的に寄り添おうとすると、違う論点が見えてくる。「ホームレスや無料簡易宿泊所での生活が長くて、計画的に生活する暮らしから長年遠ざかっていた」「以前の仕事をしていた時のトラブルや人間関係の不信を引きずっていて、些細な躓きでも自信を失ってしまう」「勉強に取り残された経験があり孤独だから、学校なんて行きたくない」・・・このような「循環のプロセスを含む循環性」が、表面的な失業・ホームレス・引きこもり、の裏側に存在している。そして、表面上の問題を排除・隔離・蔑視して終わり、とせず、その背後にある「悪循環構造」に目を向け、それを断ち切るための手厚い継続的な支援を行う、というのが、埼玉県の挑戦のすごさ、である。
こう書くと、「そんなことをするのは甘やかしだ」「自己責任ではないか」という非難の声も聞こえそうだ。ただ、そんな安易な「思考の節約」をせずに、立ち止まって考えてほしい。では、そうやって自己責任論で問題を放置して、この悪循環サイクルは止まるのか? むしろ、10年まえには75万世帯だった生活保護世帯が200万を突破したのは、リーマンショックや不況、だけでなく、何でも自己責任論として社会的関与を放置してきた悪循環プロセスそのものの構造的な問題では無いか。であるならば、行政が取るべき責任は、生活保護バッシングの事後対応としての保護費削減という懲罰的対応ではなくて、この悪循環プロセスそのものの「循環性を認識」し、「別の方向へと出発するプラスの循環」構造を作り出すことではないか。そして、埼玉県はその好循環構造を、ブラックボックスを開き自らの限界性を察知し、アスポート事業という官民協働の事業を作る事で、乗り越えたのではないか。そんな風に受け止めた。
この埼玉県の事業の根底にある価値観を、「当事者の変容可能性を諦めずに継続的に支援する」「スティグマや偏見、自己責任論に問題を矮小化しない」「対象者を孤立や孤独から救い出す」「信頼関係の構築が関係性を変える」という点にあるとすると、実はこの悪循環プロセスを変える「好循環」構築支援は、そっくりそのまま、犯罪者の更正支援という②の話につながってくる。
「犯罪者は罪を犯したんだから、処罰されて当然。被害者だって許せないはずだし、そういうロクでもない連中は、一生刑務所に閉じ込めておけばいい。」「やっぱり死刑をきちんと執行する事で、犯罪を許さない姿勢を知らしめることが重要だ」という常識や社会通念。これも、冒頭に書いた事に照らしてみるならば、出来事への感情的反応であり、「思考の節約」である。それはなぜか。犯罪者への厳罰化が、犯罪そのものの抑止力になっているか、を見なければいけない。生活保護行政の厳格化が生活保護受給者の抑止力としては不適切であることは、①の本でも描かれていた。それと構造的類同性を持つことが、『ライファーズ』の中で絵が描かれている。この舞台となる犯罪者の更生を目指す「治療共同体 Therapeutic Community(TC)」のアミティ。このアミティが従来の関わりとどう違うのか。
「アミティとそれらとの大きな違いは、単に問題行動を止めるのではなく、人間的な成長を目指すところにあるといえる。そこに欠かせないのが、人とのつながりだ。大半のレジデントたちは、ここにたどり着くまでの間に他者を傷つけているが、その以前に自らが深く傷つき、人間不信に陥っている。家族や親族との関係はとっくの昔に断たれ、友人や知人と呼べる人もほとんどいない。いたとしても、利益のために利用しあうような関係だ。自分への関心が薄く、総じて人生に投げやりだ。アミティでは、そんなレジデントたちが、自分や他者に感心を持てるように促すところからはじめる。」(p36)
ここでも、①と同様に、信頼関係の再構築が支援の全ての基本になる。アミティが行っているのは、免罪活動ではない。贖罪につなげる以前に、「自分への関心が薄く、総じて人生に投げやり」な犯罪者達に、再び「人間的な成長を目指す」希望を持ってもらうことである。こう書くと「甘やかし」という非難を受けそうだが、本当に罪を購うためには、その罪を直視する勇気を持たなければならない。牢屋に何年入れられても、牢屋で出来ることは、個人の自由を制限するだけであり、外的な規制は出来ても、内面の規制は出来ない。むしろ、これまで「自らが深く傷つき、人間不信に陥ってい」て、自己への信頼を全く持てない人間に、贖罪という最大級の自己との闘いに向き合えといっても、無理だ。アミティの創設者、ナヤ・アービターもこう述べている。
「問題に直面することは決して容易ではない。なぜなら、それは自分を問題行動へと駆り立ててきた、過去の記憶に向き合うことを指すから。自分につながる他者の声を繰り返し、繰り返し、耳にしなくてはならないから。それは、薬物やその他の暴力で蓋をして、感じないようにしていた『真の痛み』を感じることを意味するから。そして、自分の人生を取り戻すためにも、繰り返し、繰り返し、その忌まわしい記憶を語らねばならないから。」(p42)
このアミティた大切にしているのは、刑務所や街中で「サンクチュアリ(本音で語り合える安全な場)」を作ることである。絶望的な人間不信に陥り、その結果として一線を越えて薬物依存や犯罪を繰り返してきた人々。もう「どうせ」「しゃあない」と自暴自棄になっている人々。彼ら彼女らが「自分の人生を取り戻すためにも、繰り返し、繰り返し、その忌まわしい記憶を語」る場を提供すること。その中で、その人の変容可能性を信じている他者に出会うこと。また、実際に語る中で更正をしていった「かつての仲間」の変容場面に立ち会うこと。このような、同じような「生きる苦悩」の極まりを共有する仲間と語り合うセルフヘルプグループがあることで、頑なに現実を見ようとしない犯罪者達が、少しずつ心を開き、罪とも向き合おうとし始めるのである。
犯罪者が罪を重ね続ける累犯。この問題を、単に厳罰化で乗り切ろうとしても、切り札にはならない。むしろ、累犯という「その循環のプロセスを含む循環性を認識すること」が悪循環を抜け出すために、もっとも必要とされていることである。そして、それは刑務所の独房で接見禁止になって正座をしているだけで、その認識に到達出来るわけではない。
「沈黙と孤立が最大の暴力行為だということです。折れた腕はいつかくっつくし、血が流れていてもその上からバンドエイドを貼ればいい。歯が欠けたら入れ歯を入れればいいのですが、沈黙や孤立に即効で効く治療薬はない。それらは強く感情を傷つけ、深い心の傷を残します。」(p236)
悪循環構造を成り立たせているのは、「沈黙と孤立」である。そう語るのは、現在はアミティの母子支援プログラムのディレクターであり、自らも児童虐待・薬物依存・DVを経験し、累犯を繰り返していたがアミティで人生を取り戻したシャナさん。そんな彼女の言葉は、本質を鷲掴みにしている。①を読んでいても感じたが、ホームレスや離職者、引きこもりやニートの若者にも共通するのが、「沈黙と孤立」だ。さらに言えば、僕が関わってきた精神障害者にとって、最も苦しいのも、この「沈黙と孤独」である。それは、標準的な家族や友人関係から疎外・排除され、「豊かな関わり合い」の関係性を見失い(あるいは幼少期から持たず)、自分自身の生きる希望を持てなくなった(そもそも最初からなかった)人々の、生きる苦悩の根源にある。
ここまで書くと、以前に紹介したイタリア精神医療改革の先導者、フランコ・バザーリアの言葉との共通性を感じずにはいられない。
「病気ではなく、苦悩が存在するのです。その苦悩に新たな解決を見出すことが重要なのです。・・・彼と私が、彼の<病気>ではなく、彼の苦悩の問題に共同してかかわるとき、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が明るみに出てきます。この問題は自らの問題であるばかりではなく、家族の問題でもあり、あらゆる他者の問題でもあるのです。」(ジル・シュミット『自由こそ治療だ』社会評論社、p69)
精神病、ホームレス、引きこもり、犯罪者、薬物依存者、ニート・・・これらはマイナスの属性であり、ラベリングである。私たちは、そのスティグマ化された強烈なラベルの虜になりやすい。でも、このラベル「ではなく、苦悩が存在する」という補助線を入れたら、全く違って見えてこないだろうか。<病気><犯罪><失業><ホームレス><引きこもり>というラベリングは、多くの人にとっては、他人事である。だから、「自己責任」と突き放せる。だが、「生きる苦悩」の「絶望的なアピール」として捉えると、僕やあなたとも地続きの地平にある、と認知転換される。僕やあなたも、様々な絶望的な経験を重ねる中で、生きる希望を失い、このような苦悩の最大化に至る可能性もある。であるならば、その人々の悪循環構造を理解し、どう抜け出す支援が出来るか、というセーフティーネット構築支援は「自分事」の課題となる。そして、そこで大切なのが、絶望に結びつく「沈黙と孤立」から救い出す支援なのである。
繰り返し書くが、このような支援は「甘やかし」ではない。むしろ、本当に安全・安心な社会を目指したいなら、困り者を隔離収容しておわり、ではなく、「沈黙と孤立」ゆえに「生きる苦悩」を最大化させた人に寄り添い、信頼関係を構築しながら、その人々の人間的成長を再び願う、息の長い支援をするしかない。でも、人の苦悩は、人が本気で寄り添う中で、確実に変容していく。それが、二冊の本に書かれていたことの本質であり、僕がイタリア視察以後、感じ続けていることである。隔離や排除という暴力行為ではなく、沈黙や孤立を超える為の、一人一人に寄り添うパーソナル・サポートを構築する体制作り。これは、様々な悪循環構造を乗り越える為に、高齢・障害・児童・生活保護・虐待防止・犯罪更正・・・などの表面的なジャンル分けを超え、「生きる苦悩」が極大化した人々への支援の共通枠組みとして、見ていく必要があるのではないか。そんなことを感じた。

「ひっくり返し」の醍醐味

気がつけば、3週間近くブログを放置していた。

この間、ツイッターにぶつぶつ呟く時間はあったのだが、ブログにまとめて議論する時間が取れなかった。授業がない「夏休み」だが、何だかその内実、めちゃんこ忙しいのだ。
ノルウェーから帰ってきた後、イタリア語の勉強を再開すると共に、バザーリアの英訳された論文集を読み始める。そのタイトルが、Psychiatry Inside Out、日本語にするなら「精神医療をひっくり返す」。確かに、既存の価値体系そのものをひっくり返す面白さがある。毎日10頁程度しか読み進められないが、やっと半分を超えたところ。その間に三重や東京や大阪への出張が入ったり、あるいは単著原稿のゲラが送られて校正をしていたりして、なかなか読み進められないが、とにかく現時点で気になる「ひっくり返し」の醍醐味をいくつか備忘録的にメモしておく。
現象学を学び、サルトルを手放さず、弁証学的な対話を続けてきたバザーリア。マルキシズムに親和的な事もあって、彼の文章はかなりの左派的な過激さを帯びている。が、深く読み込んでいけば、すごく真っ当な「ひっくり返し」の論理である。例えば「狂気」を議論しているとき、では「健康」って一体何だろう? 健康な人の中に狂気は潜んでいないのか?と問い直す。あるいは、障害者は生産能力が低いとして隔離収容の対象になるが、そもそも「生産性」って一体何だろう、と問い返す。劣っている、狂っている、不適応である・・・といった「逸脱」のラベリングに対して、そもそもその「逸脱」のラベルを貼ろうとする資本主義体制そのものの「狂い」や「不適切さ」を問いの主題とする。精神病者の暴力行為をとがめる資本主義社会の暴力性そのものを問いかける。私達の社会で「当たり前」「正しい」とされている事そのものに疑いの眼差しを入れる(call into question)。このあたりが、実に興味深い。
で、この社会での「当たり前」「正しさ」への疑いを持つ、という視点は、何も69年的な発想で時代遅れ、ではない。現代日本社会においても、実に必要とされている視点である。
ちょうど昨日は、某市役所での職員研修だった。福祉課だけでなく、商工や環境、土木課の職員も対象にして、「孤立死・自殺・虐待を防ぐために、市職員として出来ること」というお題で話をする。その中で、一番興味を持ってもらったのが、いわゆる「ゴミ屋敷」問題と「用地買収」問題の共通性だった。
「ゴミ屋敷」と「用地買収」の共通性とは何か。それは、異なる思惑を持つ人と、どのように共通の理解を構築し、変容可能性を模索するか、ということだ。たとえば、「ゴミ屋敷」の場合、近隣住民から市役所に対して「何とかしてほしい」という苦情が入る。あるいは、例えば道路や施設を作る際、用地買収に応じない家が一軒だけ残ると、建設が進まない。その時、「ゴミを捨てない家庭」「立ち退きを拒否する家庭」は、社会秩序に従わない、逸脱者、というラベリングを貼りたくなる。
だが、そのラベルを貼ってみたところで、問題は解決しない。それどころか、対応に当たる役所の担当者が、その相手にラベリングを貼って、斜め上からの目線で接している、ということは、必ず「逸脱者」とレッテルを貼られた相手に伝わる。すると、まとまるはずの問題でさえ、まとまらない。これは一体どういうことか?
以前、用地買収のプロのお話を伺ったことがある。その中で、今はやってはいけないけれど、当時のプロは、例えば絶対に土地を売らない、と頑なに拒絶する家庭には、日本酒の一升瓶を下げてご挨拶に伺っていた、という。そして、売って下さい、というのではなく、日本酒を酌み交わしながら、売ってくれない訳をじっくり伺うというのだ。ゴミであれ、土地であれ、そこにこだわりを持つからこそ、手放したくない。その「こだわり」を「変だ」とか狂っているとか逸脱している、と片付けず、その人らしいこだわりとして、その背後にあるその人の人間性、人生観、これまでのパーソナルヒストリー、それらにじっくりと耳を傾ける、というのである。そういう風に語ってもらう中で、少しずつ、その人の中でも何かが溶け始め、結果としてそこから解決策がじんわり産み出されることもある、というのである。
もちろん、これはどんなときにも解決する魔法の方策、ではない。でも、少なくとも「強制代執行」とか「強制入院」とか、警察権力を活用して強制的に排除する思考は、明らかに高圧的であり、「反ー対話」的である。問題が解決しないとき、それはどちらか一方が「逸脱している」「狂っている」「おかしい」のではない。実は、対話をする中で、単にそうやって排除する側、追い詰める側の方の矛盾や問題点が表面化することだってある。その時に、私達の社会の主流となる「正しさ」や「常識」そのものも問い直し、書き換えるような柔軟性を持ち、現場で必要な解決策に結びつけていくことが出来れば、実は「困難事例」とラベリングされるケースであっても、動き始めるのだ。そして、動き始めてみると、「困難事例」とラベルを貼っていた支援者側の「困難性」が、その事例への対応に析出されていた、なんてことも、少なからずある。
つまり、常識に従うことが正しい、という論理自体を「ひっくり返す」「問い直す」ことによって、その論理の持つ暴力性やイデオロギー性、あるいは抑圧的権力性そのものにも目を向ける事が出来るのだ。
ひとは、納得しないと、態度を変容しない。説得では、山は動かない。その時、納得出来ない人を「わからずや」と糾弾したり、縛ったり、閉じ込めたり、薬漬けにしたりしても、態度は変わらない。態度を変えられない、変えたくない、その根拠にこそ耳を傾け、共感する。その中で、変えたい社会と変わりたくない人の双方にある「歪み」も先鋭化される。その歪みの構造的問題をお互いが理解し、その中で、とにかく妥協できるポイントを少しずつ探る中からでしか、解決策は見いだせない。「ひっくり返し」の醍醐味とは、現象学のエポケーにも通じる、「常識的な通念を一旦括弧に括った上で、根本から問い直す営み」なのである。なぜこの人はゴミを溜めるのか、なぜ土地を売ってもらえないのか。ゴミや土地を通じて、その人が大切にしているもの、表現したいもの、信条としているものはなにか。そういう自分とは異なる世界観を排除せず、それを尊重する「ひっくり返し」の論理を、ご本人に寄り添う中で構築していければ、そこから事態を打
開する信頼関係も生まれてくるのではないか。
現に用地買収をしている、「ゴミ屋敷」への対応をしている、自治体現場の最前線で働いている人が、一番頷いてくれた場面であった。

9 years have passed

 

Since I lived in Gothenberg.
学校英語に載っているフレーズそのものを話している自分がいた。
2003年の10月から、2004年の3月までの5ヶ月間、調査研究でスウェーデン第二の都市、イエテボリに暮らしていた。結婚して丸一年が経った時期で、妻も仕事を休んで付いて来てくれた。そう話すと、「羨ましいですね」とよく言われる。僕も、「隣の芝生」としてなら、いいなぁ、と感じるだろう。だがその実、当の本人達は、生き抜くのに必死だった日々だった。
何とか博士号は半年前に頂いたものの、就職先が全く見つからない。そもそも博論を書き終わった1月から、研究者公募サイトを眺め始めて、4月からの仕事にありつけるはずもない。だが、博論調査に必死で、また新しくできた大学院講座の一期生だったため、博論後の人生設計についてアドバイスをもらえる状況では全くなかった。よって、それまで博論完成に向けて全力投球だった日々から、急に「無職」状態に追い込まれる。僕が大学院に入った年から大学院重点化政策が広まっていった為、院生が急増し、一方で若手向けの常勤ポストは高倍率になる、という需要と供給のアンバランスが始まった、と理解できたのも、自分が無職になってから。詰めが甘い、といえばそれに尽きるのだが、とにかく、仕事がなかった。
そんな折り、調査研究チームに加えて頂いた先生のご好意で、海外調査研究に応募するチャンスが廻ってきた。初めての海外長期滞在を、求職中に行くのもどうか、と思ったが、どうせ仕事がないなら、 と思い切ってその話に乗せてもらうことにした。常勤職を持ったら、なかなか長期に海外に行けない、という常識すら、その当時は持ち合わせて居なかったのだから、どこまでも世間知らずだった。
選んだ先は、スウェーデンのイエテボリ。そこに、知的障害者のセルフアドボカシーグループとして国際的にも有名な、Gurundenという団体がある。お世話になった先生もその団体と懇意にしておられ、僕自身も2年ほど前に見学させて頂いたご縁もあった。そんな関わりから、その団体の支援者アンデシュをご紹介頂き、彼をコンタクトパーソンとして、調査をスタートする事になった。研究所や大学を受け入れ先にするのではない、という事が、結構特異であるということも、当然のようにわかっていなかった。
そんな何もわからないひよっこが、いきなりスウェーデンに住むことになった。もちろん、スウェーデン語は全くわからない。関西弁英語も実に怪しい。でも、とにかく行って何とかするしかない。幸いにして研究者公募サイトはインターネット見れるから、スウェーデンから就職活動すればよい。そんな、向こう見ずな「冒険」が始まった。
それは、僕自身にとっては、文字通りの「冒険」だった。
一応のテーマとして、グルンデンセルフアドボカシーの実態を調べることと、彼ら彼女らの活動を支えるスウェーデンのLSSという法律の運用実態を調べること、という二つの課題は持っていた。だが、それをどう形にするか、行ってみなければわからない。いや、それより遥か以前に、受け入れ先の支援者アンデシュは本業で忙しく、なかなかメールでのコンタクトもうまくいかない。仕方ないから、切羽詰まってどぎまぎしながら生まれて初めての国際電話をかけ、なんとかビザもギリギリ発給されるものの、住む場所も決まらず、そもそもアンデシュが空港に迎えに来てくれるか、も半信半疑なまま、とにかく荷物をまとめて飛び立った。留学経験も無いため、何をどれだけ持参してよいのかもわからず、荷造りは出発当日の朝まで全く進まず、妻に叱られながら、何とか手当たり次第にようなスーツケースに詰め込んで、とにかく飛行機に乗り込んだ。もう出発時点で、先の全く見えない旅の始まりだった。
そんな不安だらけの出国だったので、イエテボリの空港でアンデシュが迎えに来てくれただけで、涙が出るほど嬉しかった。なんとか、無事、着いたことに。もちろん、それは試練の終わりではなく、始まりだった。家探しに時間がかかり、ホテルやユースホステルをスーツケースを抱えて転々としていた。やっと決まった借家でも、電話やネット回線を一から契約するのに時間がかかる。携帯電話もインターネットにしても、海外パケ・ホーダイとかWifiなんてなかったので、新たに向こうで回線をひき、電話機やモデムも買い求める。それらの一つ一つのインフラの整備に時間がかかり、かつ全てスウェーデン語での手続きなので、アンデシュの支援がなければ何も始まらない。でも、彼は支援者業務という本業が忙しい・・・。つまり、日本でなら一人でさっさと出来る生活形成の一つ一つを積み上げるのが遥かに大変で、ついでに!調査も始めなければならないので、毎日たいしたことはしていないはずなのに、くたびれ果てる日々であった。
でも、多くの人に支えられ、何とか調査だけは進展し始める。スウェーデン語障害!を持つ僕のサポートは、アンデシュだけでなく、知的障害を持つグルンデンの会長、ハンスが引き受けてくれた。なんでも学校を途中で行けなくなって、家にずっと閉じこもっていた時期があったそうだ。その時期見ていた昼間のテレビは、アメリカやイギリスの映画、ドラマの輸入番組。しかもスウェーデンでは吹き替えをせず、字幕だったので、見ているうちに英語を覚えてしまったそうだ。彼の話を聞いていると、一体知的障害とは何か、がよくわからなくなってしまうが、そのハンスが、イエテボリの21の自治区のソーシャルワーカーへのインタビュー調査にずっと付き合ってくれた。彼がいなかったら、そもそも 調査現場にさえ辿り着けなかったりろうし、英語が苦手な 調査対象者とのコミュニケーションは絶望的だっただろう。
また、現地在住の日本人通訳のTさんにも、公私ともにお世話になった。ノーマライゼーション原理の育ての 父であるベンクト・ニイリエさんに生前にお会いでき、半日の貴重なインタビューができたのは、Tさんのアレンジと通訳の賜物だ。また、それ以外にも、彼女のネットワークを通じて、沢山の現場のインタビューをさせて頂いた。そしてその際は、家で引きこもりがちだった妻も同行させていただき、我々夫婦にスウェーデン生活での細々とした相談に載っていただいた。時にはご飯をご一緒したり、ご自宅にお招き頂いて、日本語で話せる時間と空間を与えてくださったことが、夫婦にとっては本当にこの上なく貴重で有り難い経験だった。
そんな、毎日生き抜くのに必死な日々だったので、今より遥かに時間はあったはずだが、全く生活に余裕はなかった。スウェーデン語を学ぼうとしなかったのも、ズボラではなく、本当にそこまでの余裕が回らなかったのだ。ましてや、イエテボリ市内だけでなく、スウェーデン国内も、殆ど観光に行けていない。今から考えたらもったいない話だが、その当時は、そんな悠長な事を言える器ではなかった。就職活動もうまくいかず、最寄りの郵便局から大学宛てに履歴書を送り続けるも、大半がなしのつぶて。ようやく二次面接にこぎ着け、自腹で!日本まで帰国するも、不採用。そう言えば、面接後、イエテボリに帰る日、関空への橋を渡る列車の中で、別の大学から携帯電話あてに二次面接の通知が届き、当日飛行機をキャンセルして、追加料金をたんまり払い、ましてや、またもや東京まで面接を受けに出かけ、挙げ句の果てに両方不採用、といむ憂き目にもあった。
さらに言えば、白夜で有名なスウェーデンは、裏を返せば冬はほとんど日差しから遠ざかる日々。我々が着いた10月末の一週間は晴天に恵まれたが、その後は「魔の11月」の到来。急に日照時間ががくんと減り、朝九時にならないと明るくならない。スウェーデン人ですら、自殺者が増えるこの時期。やっとスウェーデンに馴染んだ頃の我々には、気候的変化もきつい試練であった。
そういう様々なマイナスカードに喘ぎながらも、なんとかスウェーデンでの五ヶ月間を、文字通り、生き抜いた。
あれから、もう9年。(やっと本題に戻る。今日も前置きにしては長すぎました。)
白夜を知らない、だけでなく、楽しいスウェーデンでの観光をろくに出来なかった妻に、結婚10年の節目に夏の北欧を楽しんでもらいたい。 ついでに、お世話になった方々にも再会したい。そんな思いで、授業が終わった直後に、イエテボリに二人でむかった。
9年ぶりのイエテボリは、ほとんど変わらぬ街並みのまま、暖かく我々を迎えてくれた。お世話になったTさんのお宅に寄宿させていただき、郊外の美しい公園や、街が一望出来るお城にもお連れ頂いた。どちらも、もちろん初体験。初めて、といえば、いつもそばを通り過ぎるばかりだった美術館にも、初めて出かけた。我々が拠点としたお宅を外から眺めたり、よく通った近所の八百屋や魚屋、酒屋のあたりをウロウロもした。やっと、月並みな旅行者として、イエテボリを楽しむことが出来た。
そしてイエテボリを離れる日の朝、休暇中だったアンデシュが何とか時間を作り、会いに来てくれた。彼からその後のグルンデンの発展ぶりや、ハンスを始めお世話になったメンバー達の近況を伺ったあと、ふと、彼にこう漏らした。
「あの当時は全く余裕がない日々だった。あなたに助けてもらわなかったら、私たち二人は生き抜くことは出来ませんでした」
すると、アンデシュは笑顔でこう応えた。
「何にもない中から、調査をやり遂げ、五ヶ月間、二人で暮らしていた。よく、冒険をやり遂げたと思うよ。」
その語りを聴いて、万感の想いが胸にこみ上げた。そして、その科白と出会うために、9年ぶりにイエテボリを再訪したことに、ようやく気がついた。9 years have passed.  僕たち夫婦にとって、時間はかかったが、以前に比べ、少しは成長したことをも実感できた再訪でもあった。

至福を求めよ

「神話の力」のシリーズ映像をYouTubeからダウンロードして、見続けている。そのなかで、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが私たちに、こう問いかけている。
「自らの至福を生きているか」
キャンベルはサンスクリット語を研究するなかで、永遠と完全性、そして至福の三つが重要だと知る。そして、生きている間に実現可能なのは、最後の至福だけであると気づく。そこから、自らも至福を求めて生き続け、また教え子達にもせよそう語り続けた。
「至福を求めてごらん。すると、思いがけないところから手がさしのべられ、自らの至福の世界へと至る扉が開かれるよ」
彼の言葉は、神話研究という人間世界の古層を掘り続けてきた第一人者の確信・核心として、強く胸に突き刺さる。深い共感と共に。
僕自身が至福を生き始めたのは、つい最近になってから。それまで、社会の規範的な「空気」や社会的立場に拘束されていた。いや、それはあたかもシートベルトを締めるように、常識になっていた。車の場合は、物理的な事故に陥るリスクに備えてシートベルトをするのは、理にかなった発想である。規範や空気、立場の「拘束衣」に従うのも、車と同様、リスクヘッジだ、と思いこんでいた。
物理的事故への対応のためのシートベルトは、身を守るものである。では、社会的規範や空気、立場という拘束衣は、身体や精神を護ってくれるだろうか。実はその真逆で、身も心も拘束衣の枠の中に押し込め、縛り付ける、奴隷の道具として機能しているのである。そして、その拘束衣の権威と信頼を護る為、その拘束衣から自由になろうとする人のことを、「わがまま」だとか、「狂ってる」とか、「逸脱者」というラベルを貼って、ごく一部のはぐれ者である、と矮小化する。勧善懲悪的二元論で、拘束衣に従うこと=善、という世界観の維持に必死である。科学や医学も、時としてその根拠付けの手段と成り下がる。
その「もっともらしい」世界観は、でも僕やあなた自身の世界観とイコールではない。両者は必ず矛盾だらけである。そのとき、わかったような声で「人間、好きなことばかりしては生きていけない」と囁く声が聞こえる。その声が、拘束衣を纏ったマジョリティから繰り返し聞こえてくる声だからこそ、私たちは惑わされそうになる。「世の中って所詮、そういうものなのか」と。
だがこれは、神話のエピソードを用いるならば、自らの前に立ちはだかる試練、とも言える。人生の大きな岐路において、一見安逸に思える拘束衣世界に留まるか。あるいは、不安や危険に満ちていそうな、自らの個性化という物語世界を切り開こうとするのか。前者に身をゆだねれば、自らの諦めと引き換えに、予測可能な手堅い世界が待ちかまえているように、思われてきた。だから、特に戦後日本では、自己を拘束衣と同一化して、積極的にその服に身体を慣れさせる中で、会社人間的メンタリティーを作り上げた。その結果、物質的繁栄は見事に獲得できた。
今、日本的な拘束衣システムそのものの岐路に差し掛かっている。自らの至福を求めるという個性化に至る道に蓋をして、必死で働いて、獲得した物質的繁栄。そこでは、プライスレスなものまで商業化しようと企てていた。個性化や至福はマーケットえは絶対に買えない、という事実を忘れさせる偽装工作を、拘束衣世界は巧みに構築した。「夢の国」「憧れのブランド」「貴重な逸品」という差違を表す記号は、拘束衣世界の本質を眩惑させた。だが、それは確かに社会的規範や空気、立場の護持には役立つが、自らの至福を切り開くモノではなかった。
自らの至福を追い求めるにはどうしたらよいか?
その答えは、数千年前から、実は変わっていない。自らの内なる声に耳を傾け、魂の想いに蓋をせず、そのワクワクドキドキを維持し、高め続けるしかない。以前に比べて移動や行動、商品獲得の自由はこの数十年で爆発的に増大したが、それと引き換えに情報化社会の中での拘束衣は、よりソフトに、そして巧妙に、しかも着実に、私たちを締め上げようとする。
拘束衣世界に「世の流れだ」と迎合するのか、「にもかかわらず」魂の声に耳を傾け続けるのか。
至福を求め続ける戦いは、極めて現代的な問いでもあるのだ。もちろん僕は、どちらに進むか、とっくに決まっているけれど。

繭とたこ焼き、そしてゼミ合宿

河口湖でのゼミ合宿から帰ってきた。
甲府は今日も過酷な熱波だが、河口湖では夜はふとんをかぶって眠らないと寒かった。たった1時間弱で、全くの別世界。そりゃあ、河口湖の近所に住んでいる某先生が、「甲府にはいられない」という理由はわかります。まあ、冬の雪かきは大変そうだけれど。
実はゼミ合宿というものは、僕は学生時代、経験したことがない。学部生の頃は、「放し飼い」の社会学専攻だったので、指導教官の先生のご自宅や近所の喫茶店で卒論指導を受けていたし、大学院生の頃は、師匠に弟子入りしていたので、師匠のご自宅や近所の飲み屋でご馳走になっていた。(食べてばかり?) つまり、幸か不幸か、僕自身は1:1の指導というものを、ずっと受け続けてきた。
だが、自分が教員になると、事情が変わる。うちの大学では、教員の少なくない数が、自らもゼミ合宿を学生時代に経験され、そして今では主催しておられる。確かに僕が指導を受け持つ学生の数も、僕が指導を受けた大学と比較すると、格段に多い。よって、1:1のお付き合いは物理的に厳しくなる。でも、個々の学生達との関わりの濃度を落としたくない。すると、ゼミ合宿という機会は、実は結構大切な場になりそうだ。そういう事に、赴任して2、3年するうちに気づき始めた。
そこで、確か5年前くらいから始めたゼミ合宿。回を重ねるごとに、その面白さがわかってくる。今年の合宿では、その醍醐味のようなものが、やっと言語化できるようになってきた。
僕のゼミは、テーマを全くの自由としている。以前はそれでも福祉や社会問題、あるいはボランティアやNPOに関するもの、という限定をつけていたが、昨年あたりから、それも放棄した。というのも、こちらがテーマを限定しようとしても、学生たちがそれで「トキメキ」を感じない限り、卒論はうまく仕上がらないからである。これは一体どういうことか?
僕が卒論指導において大切にすることは、実は狭義の意味での「学術性」の担保ではない。こういうことを書くと同業者から怒られるかもしれないけれど、研究者に今のところなる予定のない学生たちに、狭義の意味での学術的方法論を身につけることを第一義的な目的にする卒論は、彼ら彼女らのトキメキと一致しない。もちろん、コピペをしない、とか、引用のルールを守る、とか、先行研究についてはできれば調べてレビューをする、とか、ある程度のお作法は学んでもらう。でも、それが自己目的化したら、学生たちのテーマとのつながりが薄れてしまい、結局のところ、わくわくできない卒論となってしまうのだ。
では、なにを卒論指導で大切にしているのか。それは、学生の自らの実存と直結する、内的なワクワクやドキドキを感じられるテーマを探求すること、である。それは、僕自身の枠組みや守備範囲の中での卒論指導をすることを放棄し、学生たちのテーマに寄り添った、産婆役としての卒論指導に徹する、ということへの方針転換でもある。結構大胆な方針転換だが、ここ二、三年で、気づいたらそうなっていた。その最大のきっかけを作ってくれたのが、四年生のMくんである。
彼は、昨年から「教育をテーマにしたい」と言っていたものの、なかなかそれで自分の中でトキメかなかったらしく、探索が進まなかった。また、ゼミも来たり来れなかったり、というスナフキン的な感じであった。こういうパターンの学生は毎年のようにいるのだが、こちらが鋳型をはめようとすると、一応僕に敬意を払ってくれて、その鋳型にはまろうと涙ぐましい努力はしてくれるのだが、結局うまくいかない事例が多かった。それでもこれまでは、他の方法論を知らなかったので、やいやい口うるさく「ああしたら」「こうしたら」と指導してきたが、なんだかそれもいらぬお節介のような気がして、「まあ、そのうち芽吹くだろう」と放ったらかしておいた。すると、今年度がスタートしてからのゼミで、急に宣言したのである。
「僕のトキメくテーマは、たこ焼き、です」
と。
た、たこ焼き、ですか?
お話を伺えば、築地銀だこが大好きなのだけれど、どうもネット上では、あれは邪道だとか、本流ではない、という悪口がかかれていて、それが悲しい、と。でも、僕は銀だこが大好きで、そういう悪口を言われるのは悲しい、と。そして、銀だこを食べながら卒論をどうしようか、と考えていて、トキメくテーマなら、このたこ焼きこそ、僕がトキメくテーマである、と気づいた、と。
もちろん、それを聞いたとき、一瞬唖然としましたよ、そりゃ。
でも、よく考えてみたら、彼の実存とたこ焼きが深く関係しているなら、そこから内的探求を始めた方が、ぜったいにうまくいくはず、である。そういえば、僕が大学生だった頃、一学年下の後輩たちが「浪速文化研究会」をやっていて、たこ焼きカルチャーの研究もしていたな。粉もん研究ってあったような・・・。そういう古い記憶がよみがえってきたので、これはご縁、とばかりにOKを出した。
で、今日のゼミ合宿での発表は、ある意味ですごかった。
「たこ焼きと世界平和の関係を調べたい」
す、すごいです。でも、よくよく伺ってみると、人種差別はたわいのないことで、人々を差別している。肌の色の違い自体に問題がある訳ではない。人間が、それを問題化しているのだ、と。同じように、銀だこと大阪のたこ焼きのどちらかが優れているか、も人為的ではないか。たこ焼き自体が悪いのではなく、そこに優劣を付ける人間の考え方に問題があるのではないか。
確かにそういわれてみれば、エスノセントリズムやナショナリズムの問題も、国境や民族間で線を引いて差違を際だたせている人間の方に問題があるわけで、この差違の問題をきちんと考えたら、たこ焼き論争にも応用できるの、かもしれない。そう思えば、このたこ焼き研究は結構深いのかもしれない。合宿の中で、こんな議論が深まっていった。
そして、おもしろいのは、そういう風に殻を破ってトキメキを表明する学生が現れると、その学生に背中を押されて、自らのトキメキや実存と結びつく話をし出す後輩たちが出てくる、ということだ。今回の合宿では、つりと哲学、とか、関ジャニと私、とか、そういう議論が展開されていく。もちろん、つりも関ジャニもたこ焼きも、僕の専門ではない。でも、自分の専門で区切りをつける、というのは、あくまでも僕自身がコントロールしようという、管理や支配型の思考だ。そう、今日のゼミ合宿をしていて気づいたのは、実は僕自身が、管理や支配的なゼミ運営を放棄した、ということなのかもしれない。僕が専門として指導できる範囲の内容に無理して学生たちを押さえ込もうとしたら、どうしてもその鋳型にはまらない学生たちが出てくる。そのとき、僕の考えを押しつけるのではなく、彼ら彼女らのトキメキに正直であってもらう。その結果、僕がぜんぜん専門外のテーマになったとしても、そこから出たとこ勝負で応援するしかない、そう踏ん切りができたのかもしれない。
こうなると、ゼミ合宿の意義は大きくなってくる。
僕がある程度予想や予見可能性が高いテーマであれば、合宿をしなくても、ゼミという限られた時間内でもコントロール可能だ。だが、学生たちの主体性や自主性、トキメキやワクワクを大切にする、ということは、彼ら彼女らの本音や想い、願いにじっくり耳を傾けなければならない。3年生は8人、4年生は4人いて、毎回のゼミで何名かに発表してもらい、全員から質疑応答してもらうスタイルでゼミを進めているのだが、このじっくり聴く、ということは、どうしても限られたゼミ内では限度がある。すると、どこかで一度根を詰めて、時間を気にせず、ゆっくり語り尽くす場面が必要になる。
すると、木曜午後の1時間半〜3時間、僕の研究室で、という限られた枠組み、時間内、のスタイルが、その彼ら彼女らのトキメキやワクワクを表明する上で、限定条件となる。もっと本気で自らも語り、仲間の語りに耳を傾ける、というある程度の時間とゆとりをもった集中的な議論の場がないと、その個々人の実存と向き合うことはできない。よって、ゼミ合宿は、そのような殻を破る場、となるのである。
今年のゼミ合宿も、多くの学生たちが、普段のゼミより何歩も自らの内側に入り込んで、内面に切り込んだ、自らの実存に密接に関連するテーマで発表をしてくれた。その後、議論もずいぶん深まった。土曜の午後の4時間半、そして日曜の午前の3時間半、と合計8時間の、実に濃密な時間。それは、あたかも蛹が繭の中で、孵化する時間のような、24時間寝食を共にする、濃度の濃い、かつゼミ内で閉ざされた時間と空間。だが、そういう共振の場の中で、共有化がはかられ、やがてその中から、一人一人のゼミ生のオリジナリティが生まれてくる。それが、非常に興味深い内容として発展し、他のゼミ生に伝播する。
このような間主観的な相互作用が現れる場として、ゼミ合宿は非常に効果的だな。
5回目にして、ようやくその効能が少しは言語化できたような気がした。

「箱の外に出る勇気」

表題のフレーズは、スタンフォード大学の別府晴海先生の名言である。以前のブログでもご紹介したが、改めて、ご紹介する。

「新しい概念を創出することが『箱の外に出る』ことだと思います。『箱の外に出る』ことは必ずしも生産性のある創出にはなりませんが、『箱の外に出る』勇気が、学問にはいると思います。英語でもthink outside the boxと表現します。『自己の呪縛を乗り越える』と同時に、『(学問上の)常識(ドミナントストーリー)の呪縛を乗り越える』ことだと私は理解しています。」(東洋文化92号、p12)
この「箱の外に出る勇気」は、学問だけで無く、日本社会のあちこちで必要とされている勇気だな、と感じている。
例えば、いじめ問題について。
ふと、ツイッターを読んでいて、ある知人が昔いじめられていた、という呟きに接した。その時、彼女は「窓際のトットちゃん」が、自分に自信を持ち続けるためのよりどころだった、と。その気持ち、僕にもよくわかる。
僕もトットちゃんは、貪るように何度も何度も読み返した。いつの間にか、その本は実家からも無くなっていたけれど、それはその本が必要なくなるくらい、僕の心の中に刻み込んだからかもしれない。トットちゃんは、言わずもがなの黒柳徹子さん。そのたぐいまれな才能も、最初の学校では「不的確」と診断されていた。窓の外のおじさんに呼びかける、絵を描いたら画用紙をはみ出して机にまで書き出す。こういう「状態」を見ると、今ならすぐにでも「○○障害」「○○病」、とラベリングがされるかもしれない。
でも、トットちゃんは違った。自分を丸ごとうけとめてくれるトモエ学園や小林先生がいた。(そう言えば等々力渓谷という言葉はトットちゃんで覚えた) トットちゃんの行動は、逸脱でも問題行動でも何でもなく、丸ごと受け止められ、みんなからも祝福され、そして愛された。その経験が、トットちゃんの根底的な生きる自信につながり、やがて大スターに育っていった。
この話を重ね合わせながら、そう言えばトットちゃんの世界に浸っていたのは、僕が「箱の外に出る勇気」を持ち合わせていなかった、小学校5,6年生の頃だったな、と思い出す。
あの頃、僕は毎日が本当につまらなかった。毎日が嫌で仕方なかった。マンションの11階に住んでいたのだが、「ここから飛び降りたら楽になれるのだろうか」とばかり考えていた。僕は、クラスの中でいじめられていた。
「ここじゃないどこか」への憧れ。それは、狭いクラスという世界内に閉じ込められ、そこで自らが肯定されず、毀損され続けることへの、大いなる反発でもあった。でも、当時10才のタケバタヒロシには、そういう「ここじゃないどこか」が、どこにあるのかわからなかった。あまり読書家でもなかったので、かろうじてトットちゃんを読み、桂川の河川敷を自転車でブラブラしながら、退屈な毎日、嫌な日々に倦んでいた。
なぜ今、こんなことを書いているのか。それは、今が、その当時の僕と比べたら比較にならないほど、めちゃくちゃ楽しいからだ。
3年まえに始めた合気道はやっと一級までこれた。次はいよいよ憧れの袴・黒帯の世界への挑戦。最近やっと様々な技の理屈が身体に馴染んできて、技が見えるようになってきて、すごく練習が楽しい。テニスも長らくお休みしていたが、うちのテニス部の学生コーチに教わったら、やっとサーブが入るようになってきた。イタリアから帰ってきて始めたイタリア語基礎文法の教科書は、7月末までに終える、という目標を達成できた。この夏は網笠山や甲斐駒ヶ岳の山登りにもチャレンジしようとしている。
と書くと、趣味の世界ばかりだが、仕事の世界も、楽しい。もちろん、義務的な関わりはゼロでは無いけれど、ゼミや講義の中身も、ここ数年、教えている僕自身の方がワクワクと楽しめている。研究も、単著用の原稿を書き終えた後にイタリアの精神医療改革の事を勉強し始め、社会を変える為の思想史を学び直そうと充実している。今日で講義は終わるけど、夏に研究したい課題は山ほどある。
こんな、仕事も遊びも、そして家庭環境も満足する日がくると、10歳のタケバタヒロシは想像もしていなかった。あの頃の記憶はほとんどなく、退屈そうに自転車でブラブラするか、ベランダや廊下から下を眺めて「ここから飛び降りることができるよなぁ」と考えていたイメージだけが強烈に残っている。そういう、「箱の中」の狭い記憶。
思えば、その後四半世紀かけて、ずっと「箱の外」を希求し、そこに「出る勇気」を持つために、試行錯誤してきたのかもしれない。小学校のクラスの中、という狭い狭い「箱の中」での権力関係や同調圧力。それが嫌で嫌で仕方なかった。でも、出る術をしらなかった。僕にとって、そこから脱出する術は、特に運動に対する苦手意識も強かったので、勉強しか無かった。中学校で出会った塾に救われ、塾長に対して議論をふっかけてもきちんと受け止めてもらった経験が、少なからぬ自信につながった。その塾で、議論が出来る仲間にも出会った。そして、高校、大学、と、京都市南区吉祥院という狭い世界以外の人が集う場に出かけた事により、僕の世界観、価値観は急激に広まった。予備校生の時、大阪の十三まで通ったことが、結果的に京都の呪縛(つまらん盆地根性)から離れるために大切だった。京都大学を志望したのに、センター試験で点数が足らずに阪大に入ったことが、その盆地根性から抜け出し、結果的に今、研究者になるための大切な条件だったのだから、不思議なものだ。
そうやって、徐々に世界観を広げる中で、自分自身の関わる日常世界や「世間」の狭さに気づき、その「箱の外」に拡がる世界の広さに驚き始めた。「箱の中」しか知らない人間にとって、その箱が何か、は問わないお約束になっている。「どうせ」「しかたない」と諦めの対象だ。だが、たまたま中学以後、自分自身が諦めずに変わるきっかけをもらえたから、承認される場を得たから、トットちゃんと同じように、自分の中で小さな自信が生まれ始めた。そこから、世界が変わり、気づけば今、甲府にいて、楽しい毎日を過ごせている。
大津のいじめ事件の報道は、ほとんど見ていない。だが、その繰り返される惨事に接していると、日本社会の「箱の中」の同調圧力の強さというものが、苦々しい記憶と共によみがえってくる。そんなしんどい境遇のただ中にいる人に、「大人になったら楽しいこともあるよ」なんて、無責任な事は言いたくない。でも、その自らの辛い環境が「箱の中」であると気づく事。そして、その「箱の中」から「外に出る勇気」を持てば、そして実際に外に出てしまえば、箱の中が実にちっぽけな、どうでもよい世界だったことに気づくのである。その、世界「間」移動を果たすことが出来たからこそ、今の学校教育という「箱の中」の構造的問題性が、やはり気になるし、ここは変えてほしいと思う。個々の教員や学生の問題では無く、これは管理教育とか、少人数学級に出来ない人員配置とか、そういう社会構造の問題である。
でも、その一方、今、しんどい思いをしている、四半世紀前の僕に向かっては、こう伝えたい。
「箱の外には、実におもろい世界が拡がっている。それを見つけるために、つまらん箱の中の流儀に縛られている必要はない。箱の外に出る勇気を持って、旅に出よう。そのために、本を読んだり、あるいは運動したりして、自分の中で、基礎体力・人間力をつけよう。そうして、嫌な時期が過ぎ去るのを待つのだ。嵐の中ではドタバタもがくより、今自分が出来る基礎体力・人間力作りをコツコツ積み重ねる方がいい。止まない嵐はない。嵐が止んだ時、船出すればいいのだ。死にたい、なんて考えていても、何も変わらない。自らが変わるための努力をする中で、嵐がやんだその一瞬のタイミングを捕まえ、脱出しよう。そのために、力をつけるのだ。」

産婆役という”かまえ”

昨日、ゼミ生から相談を持ちかけられる。これからの生き方に困惑して、どうしていいのかにっちもさっちもいかない、というご相談である。家から外にも出られず、悶々としていた、という。確かに顔の表情はこわばり、身体の動きも硬い。最近ゼミに顔を出さず、昨日のゼミも、先輩に相談してやっと出てこれた、という。

そういう学生さんを前にすると、講演や講義の時とは違う僕のモードが到来する。それは「対話」モードである。
昨日のゼミ生も実際に語っていたが、僕の前に相談に現れる学生達は、何らかの具体的なアドバイスを求めて現れるわけではない、という場合も少なくない。アドバイスを聞いてすぐに実行できるくらい余裕があれば、何もこんなに困り果てない。まず、自分の中でその困惑の正体が掴みきれず、どこから考えていいのかわからず、濁流の中に飲み込まれたように、とにかく困惑の海の中で疲れ果てている、という状態のこともある。
そういう学生さんと「対話」する際、まず大切なのは、じっくり時間をかけること、である。
木曜日は4限がゼミの時間だが、その後も、だいたい予定を入れないでいる。すると、ゼミを延長することもあるが、昨日のように特定のゼミ生とゆっくり対話する時間も出てくる。そういう時間的な余裕があれば、次にすることは「待つこと」である。
どう言っていいのかわからず、何から話していいのかわからない。そんな彼ら、彼女らが、でも僕を前にして、一生懸命、言葉を発しようとする。それは、未分化な気持ちや想念を具現化する、という意味で、「言分け」であり、身体全体から言葉を絞り出す、という意味で、「身分け」でもある。(言葉によるゲシュタルト化としての「言分け」、生身のアクチュアリティで世界を分節化する「身分け」については、丸山圭三郎の『言葉と無意識』講談社現代新書を参照)
そういう、ゼミ生の中から「世界が立ち上がる」瞬間に、間主観的な存在としてたたずむ僕。相手の「言葉」が「分かれて」くる瞬間を信じて、待つ僕。こう位置づけると、僕の役割は、助言者や指導者、ではなく、ソクラテスのような「産婆役」である。大切なのは、今、世界に向けて「身分け」をし、その中で自らの言葉を「言分け」ようとしている彼・彼女の呼吸に同期させていくことである。その波長をシンクロナイズさせていくなかで、そっとお餅つきの返し手のように、時には言葉を添える。すると、波長が合致してくるので、深い部分で、ゼミ生の中に、声が、届く。そこから、堅い殻の中に閉じ込めていた何かが、少しずつ融解し始める。そして、言葉が、出てくる。
生命が誕生する時と同じように、言葉が誕生する時、それはおずおずと、少しずつ、振り絞るように出てくる。時には、涙が先行する場面も少なくない。でも、そうやって、「身分け」しながら、そのプロセスの中で「言葉」が「分け」られていくなかで、全身を覆っていた緊張感が少しずつ、溶けていく。その中で、とつとつと、少しずつ、言葉が増えていく。
こういう場面に身を置いた時、しばしば、「お忙しい先生に時間を割いていただき、ご迷惑をおかけして、すいません」とお詫びされることがある。でも、僕は、昨日も次のように、返礼していた。
「あなたと共に、こうやって時を過ごす中で、僕はあなたから何らかの『元気』を頂いています。それは、二人の間で分かち合うものが増え、そしてあなたがそのわかちあいの中から、何かを産み出しつつある、その過程を共に出来たからこそ、頂けた気です。また、僕自身が、あなたの役に立っている、ということから得られる気でもあるのです。」
むかし、相談への「かまえ」が出来ていなかった頃、「取るべき責任と取ってはいけない責任」を理解していなかった頃、僕は相談を受けることにクタクタになっていた。だが、ゼミ生に鍛えられる中で、少しずつ、対話の”かまえ”のようなものを身につけ始めた。こちらから投げかけるのではない。相手から出てくる何かを、ただ信じて待つ。その中で、産婆役として、そっと手を添える。しかも、控えめに。
そういう波長を合わせる産婆役に徹していると、新たな言葉という「生命」が立ち上がる瞬間に出会えるのかもしれない。

精神医療における「自愛」と「自己愛」

安冨先生にご恵贈頂いた『生きる技法』が非常にわかりやすくて刺激的だったので、3・4年ゼミ生全員に読んでもらい、数回のゼミで議論をし続けている。その中で、特に学生達にとって議論が深まった論点の一つに、「自愛」と「自己愛」の違いがある。安冨先生は、次のように命題化している。
【命題3】 愛は自愛から発し、執着は自己愛から生じる
【命題3-1】 自愛とは、自らその身を大切にすることである
【命題3-2】 自己愛とは、自己嫌悪を埋め合わせるために偽装することである
【命題3-3】 自己愛はいつも不安と隣り合わせである
【命題3-5】 自己愛を満足させるために、他人の美点に欲情することが、執着である
(安冨歩『生きる技法』青灯社)
これらの命題を僕なりに解釈し直すなら、自分のあるがままの等身大の状態を受け入れ、認める事が「自愛」である。一方で、今の自分をそのまま受け入れることが出来ず、他者との比較の中で自己嫌悪に陥ったり、あるいは「他人の美点に欲情」し、あこがれて執着することが、「自己愛」である。自らの今を認めることなく、他者との比較という相対軸の中でのみ自らを捉えようとするから、「自己愛」は不安状態の継続であり、「自愛」より振幅の幅が大きい。よって、「自己愛」の状態の人は、「自愛」の人と違い、もたれかかったり罵倒したりする相手に依存的である、とも言える。そのことを、安冨先生は次のようにも命題化している。
【命題11-4】 何かに強く憧れているとすれば、それはあなたが自己嫌悪に囚われていることを意味する
【命題12-1】 自己嫌悪は、他人(親や教師など)に押しつけられたものである
【命題10-2】 夢を実現する過程で得られる副産物が、あなたの糧になる
憧れと自己嫌悪は、不安に基づく「自己愛」のポジとネガの関係にある。そのどちらとも、他者との比較しか存在せず、しかも「他人に押しつけられたもの」でもある。実はゼミ生と議論をしていて、一番ゼミ生が困惑していたのは、「憧れ」と「夢」の違いである。「憧れ」は本当に悪いモノなのか。成長するためには、憧れは大切なのではないか、と。だが、この部分も、安冨先生はわかりやすく指摘している。
「魂がいるべき場所とは、言うまでもなく、この私自身です。そこを離れるというのは、つまり、自分が嫌になっている、ということです。自分の外部にある名声だとか都会生活だとかいった、どうでもいいものを『理想』として設定してしまい、それを手に入れていない自分は駄目な奴だと思い込まされている。そうすると、魂がふらふらさまよって、茫然自失してしまいます。それが『憧れる』ということです。」(同上、p150)
夢は、自らの内部から沸き出でるもの。それに対して、憧れは、他人やメディアから押しつけられたもの。こう整理すると、見通しがよくなる。自分の中でワクワクして、こんなことをしてみたい、と気づいたら思ってしまっている夢。一方で、憧れとは、今の自分への自己嫌悪に基づき、「ここじゃないどこかへ」を希求すること。しかし、どこか、はハッキリとは定まっていない。とにかく、自己否定と自己嫌悪の反転として、何でもいいから「理想」を設定し、それへ憧れて茫然自失になっていること、を指す。よって、「憧れ」だけでは、何も始まらない。一方で、夢とは自らの中から湧き出すもの。それに向けて一歩一歩成長する中で、自らの個性化に向けた道が進み始める(そのことは、少し前のブログで触れた)。だから、その夢が実現したかどうか、には関係なく、「夢を実現する過程で得られる副産物が、あなたの糧になる」のである。
さて、この補助線があると、「自愛」と「自己愛」の違いが見えてくる。それを、僕自身は今、イタリア語学習で実感している。
前回のブログでも触れたが、イタリアからの帰国後に始めたイタリア語文法学習が、途切れることなく毎日続いている。大学生の時にドイツ語学習に失敗した記憶があって、「どうせ」「むりだ」と思い込んでいた。だが、それは「英語以外の外国語がペラペラしゃべれる格好いい人になりたい」という憧れと、その反転としての、「俺には語学的才能がない」という自己嫌悪という「自己愛」の枠組みに埋没していたからであった。そのことに気づいた今、「自己愛」では語学は身につかない事も痛感する。なぜなら、憧れも自己嫌悪も、つまり「自己愛」には、ワクワクする学び、や、それを喜んで継続・反復しよう、という動機と実践に欠けているからである。自らが行動や努力を主体的に我が事として引き受ける、という自発性と有責性が、「自己愛」には欠けている。
「自己愛」に基づく他者への憧れと自らへの自己嫌悪、は、「どうせ」「むりだ」「しかたない」という「出来ない100の理由を並べる」動機にはなっても、「出来る一つの方法論を徹底的に模索する」ことにはつながらない。だが、「出来る一つの方法論の模索」とは、「自愛」に基づく夢の実現に向けた、自らのメタモルフォーゼのプロセス(=つまりは個性化)そのものである。
ながーい前置きになったが、今日一番論じたいのは、表題にも書いた精神医療における「自愛」と「自己愛」の話である。だが、別に臨床における「自愛」と「自己愛」の違いを語りたいのではない。今日ここで議論の遡上に上げたいのは、精神医療構造の「自愛」と「自己愛」の問題である。端的な問いで書くと、
・我が国の精神医療は、自己嫌悪と憧れに基づく「自己愛」の枠組みから抜け出ていないのではないか?
・脱精神病院というのは、精神医療の従事者が「自愛」に基づく「個性化」を果たす上で、必要不可欠な過程ではないか?
という二点である。この問いを一つにまとめるなら、「取るべき責任と取ってはいけない責任」をごっちゃにしていませんか?となる。
以前のブログにも書いたが、精神医療が対象として扱うのは「生きる苦悩」が最大化した(しつつある)人々である。幻覚や幻聴、妄想や問題行動という形で先鋭化した何かの背後には、この日本社会の中で、組織や家族の中で、他者との関わり・つながりの中で、あるいは自分自身の存在そのものと向き合う中で、生きる苦悩がきわまり、自分ではコントロールできず、にっちもさっちも行かなくなった、という背景がある。以前は、その「生きる苦悩」の最大化の表現手段としての「問題行動」に対して、「縛る・閉じ込める」という方法論しかなかった。だが、20世紀の中庸以後、そこに「薬」というものが登場し、制圧可能に見えた。
このことを、一般医療と精神医療の比較軸で並べてみるとわかりやすい。精神医療は、一般医療と常に「比較」して、一般医療ほどの「エビデンス・ベースド」になっていない事への自己嫌悪に陥っていた。逆に言えば、一般医療に近づきたい、という「憧れ」があった。それが、生物学的精神医学への過剰な傾倒や、脳科学への絶対帰依とも言えそうな信仰につながっていく。ドーパミンの動きに作用を及ぼせる薬があれば、きっと行動化は収まるはずだ、と。だが、この推論には、この生物学的な発想が主流を極める一般医療への憧れと、そこに近づけていない精神医療への自己嫌悪に基づく、「自己愛」の構造の部分があるのではないか、と。
繰り返しとなるが、精神医療が対象にしているのは、「生きる苦悩」に向き合うことである。この際、重要で当たり前なことを書くが、「生きる苦悩」とは、「この社会の中で生きる苦悩」のことを指す。脳の気質や機能という生物学的な領域で収まることのない、特定の時代、文化、社会、組織、家庭環境・・・に育つ中で極大化した「生きる苦悩」である。それを、生物学的な視点のみで捉えることに、そもそも捉え方の問題性や限界がある。もっと言えば、「生きる苦悩が最大化した人への支援」に、精神科医が出来る事には限界がある。
薬や精神療法で、その「生きる苦悩」が収まる部分も、もちろんある。その意味では、反-精神医療、つまり精神医療を全否定するつもりはない。でも、精神科医が出来る事には限界が有り、投薬や精神療法以外のことも、「生きる苦悩」に寄り添う支援には必要である。つまり、精神科医が出来る事には限りがある、という自らの限界性に気づく事。この自分のあるがままの等身大の状態を受け入れる、という意味での「自愛」が、今の日本の精神医療に欠けている部分ではないだろうか。だからこそ、イタリアやアメリカのような、脱精神病院やACTのような動きを見ても、「あれは日本には無理だ」「どこかに重病者が隠されているに違いない」「ホームレスになるはずだ」と「出来ない理由」ばかりを探しているのではないだろうか。
日本の、特に民間精神病院の経営者医師に問われているのは、自らが取れない責任まで取ろうとして入院患者を囲い込んでいる、という等身大の事実に向き合うことだろう。この、ありのままの自分を認めること(つまり「自愛」)が出来ないと、いつまでも自己嫌悪と憧れの「自己愛」モードから抜け出せない。政治家が悪い、とか厚労省が悪い、とか、地域の反対運動が大変だ、とか、「出来ない100の理由」を並べて、囲い込みの悪循環に嵌まる。だが、それは本来民間病院が「とるべき責任」を超えている。「取ってはいけない責任」を担わされているのである。
精神医療は、「生きる苦悩が最大化した人々」への、寄り添う方法の、一手段として機能はしている。これは統合失調症や躁鬱病だけでなく、発達障害や依存症にもあてはまるだろう。だが、精神医療「のみ」が役立つのではないし、精神医療が全能だと考えることは、「自愛」ではないく、「自己愛」の思想である。
イタリアで見たチームでの実践は、日本で言うところのチーム医療という枠組みも超えていた。ある利用者が、何らかのトラブルを抱えているとする。すると、その利用者に対して、医師は精神医学的な所見を述べるが、それに対してナースやOT、ソーシャルワーカーが、別の視点から別の見立てを述べる。コメディカルは「医師の指示の下」という呪縛には嵌まっていない。生活場面で生じたその人の生きる苦悩の最大化場面に対して、互いの専門性の観点から、どういう寄り添う支援が出来るのか、を議論して、方針を定める。もちろんそこには、本人の意見や考えが第一義的に尊重される、という前提もある。
精神病院だけで責任を取ろうとしない。医者が最終責任を全て引き受けようとしない。でも、無責任ではない。医師も看護師もコメディカルも、お互いの「取るべき責任と取ってはいけない責任」を自覚し、その中で、最大の努力を果たそうと連携する姿であった。これは、全能感への憧れや、その反転としての自己嫌悪といった「自己愛」とは真逆の、等身大の自分自身の出来る事を追求し、出来ない部分は多職種で連携する、という意味での「自愛」の思想に基づくチーム支援であった。
個々の専門家が、本当に自らの技量を磨き、個性化を果たして行くためには、まず自らの限界性を知る必要がある。だが、我が国の、特に精神病院の現状は、その自らの限界性を見ることなく、患者さんを病院の中に溜め込んで、パターナリスティックに囲い込み、医療化することによって、憧れと自己嫌悪に基づく「自己愛」を育み続けてきたのではないか。だからこそ、入院患者が治らないということに自己嫌悪して、ますますその現実を直視せず、患者を溜め込み続けているのではないか。それが、人口比で他国の5倍以上の入院ベッド数を持つに至ったのではないか。そして、今進行しているのは、従来の入院患者が入院してくれないから、と、認知症患者を精神科病床に穴埋めすることによって、自らの自己愛を増殖させよう・生き延びさせようとする努力ではないか。
安冨氏は、自己愛について、こんなことも書いている。
【命題4-1】 自己愛は、他人を犠牲にする
【命題4-2】 他人を愛することは、自己愛の否定による
「生きる苦悩」が最大化する中で、精神医療に救いを求めて来る人々。その人々を「犠牲」にして、憧れと自己嫌悪の手段として収容や囲い込みを行うのは、自己愛型の精神医療である。今、精神医療に求められている質的転換とは、その人々の「生きる苦悩」に寄り添いながら、精神医療に出来る事には限りがあることを、率直に認めること。その上で、元患者や家族、行政や地域の人々も含めた、医療保健福祉の枠を超えた広い支援チームをつくり、その「生きる苦悩」を抱えた人に寄り添いたい、と希求すること。このような、自己愛を否定し、患者の真の個性化や自己実現を希求するという「他人を愛する」姿勢を持つ「自愛」の存在となること。
抽象的に書いたが、日本の精神医療の構造に求められる質的転換とは、この部分が大きく関わっていると感じる。そして、精神医療に携わる人々も、憧れや自己嫌悪ではなく、脱精神病院や地域精神医療の実現といった、夢のある精神医療を実現する過程に、真剣に関わって欲しい。そう、強く感じる。