楽しみを掘り起こす

ようやっとお休みの日曜日。昨日は学会のお仕事を終えて、懇親会で空きっ腹にビールがダメだったのか、はたまた気が抜けたからか、少ししか飲んでいないのに、茅ヶ崎駅前でクラクラになっていた。スタバでカプチーノを飲んで体制を立て直し、何とか終電で甲府までたどり着く。ヘビーだった。

昨夕、とにかく寝過ごしてはまずい、と読み始めた森博嗣氏の『自分探しと楽しさについて』(集英社新書)。彼の集英社新書の前作3部作は、非常に面白いだけでなく、僕自身の生き方を見つめなおす上でも非常に参考になった(ブログにもかいていた)。なので、今回も早速一昨日の出張の帰りに松本駅の本屋で手に取る。満を持して昨晩読み始めたのだが、何度も頷きながら読んでいると、文量も少ないこともあって、あっという間に読み終えてしまった。ただ、今回は直接引用するというよりも、印象に残ったところを、自分の言葉で咀嚼してみたい。
他人が(往々にして商業目的で)提供する安易で快適な「楽しみ」のパッケージを消費するだけ、よりも、自分で試行錯誤しながら楽しみを見つけ出し何かを創り出す、そしてそのプロセスを楽しむ方が、よほどワクワク出来るのではないか。
彼のメッセージを僕はこう受け取ったが、そこには深く納得する。僕は工作をしないから、ものづくりそのものの楽しさは分からないけれど、似た体験として、料理を思い浮かべる。最初から「○○をつくる」と決めて、料理本に書かれた通りの具材を全て用意して、調味料をグラム単位で計り、レシピ本を再現する、というのは、僕には全く向いていない。その日の冷蔵庫にある物で、時には奥さんの要望も聞きながら、昨日の食事とアレンジを変え、飲む酒に合わせる形で何かを作り上げる。そのプロセスに没頭すること自体が楽しいし、それが見事美味しく出来上がって、楽しんで食べてもらえたら、尚更楽しい。そこには、他者からの押しつけではなく、自分で選び取り、試行錯誤した楽しさがある。もちろん、レシピ本は参考にする場合もある。その場合でも、徐々に自家薬籠中のものとし、自分の中で血肉化して、記号論的消費ではなく、生きた経験としての料理の可能性が拡がる、ということが、楽しいのかも知れない。
そして、森氏の意見とこれも全く同意見だったのが、他人と比べるのではなく、比べるなら昨日の自分と比べる、という視点。僕も未だに他者の成果を見て、自己卑下することも、もちろんある。でも、そういう時って、眠いかお腹空いているか、疲れているか、あるいはそのどれか(全部)が重なる時である。つまり、まともな思考能力が減退している時に限って、他人と比較するという悪弊がゾンビのように蘇ってくる。しかし、私よりも良くできた奥さんは、僕がそうグチグチ言い始めると、「はよ寝たら?」と一喝。事実、翌朝にはそのぐちぐちした気分がすっかり消えているのだから、全く彼女の言うとおりである。
生きているのは、あなたでも、かれでもなく、僕自身。僕が死んだら、僕を巡る世界はオシマイとなる。しかも、そのオシマイの日付は、自分では全く予想が出来ない。ならば、生きている日々を、昨日よりも今日、今日よりも明日、楽しめたら、これほどハッピーなことはない。毎日すべきことは勿論あるけれど、森氏は「それって本当に断れないの?」と指摘する。断れないと拘っている限り、楽しみを制限しているだけではないか、と僕は受け取った。
やりたいこと、できること、そして求められていること。この三つの調和が大切、という福田和也氏の著作を以前にご紹介したが、結局のところ、できることと求められていることがある程度増えてくる中で、ある時点から「やりたいこと」は意識しないと完遂する時間的、精神的余裕が無くなってくる。世間ではそれを「忙殺」と言う。何という言葉だろう。忙しさに、殺されるとは。とはいえ、以前の僕は、正直に告白すると、「できること」「求められていること」を「やりたいこと」と錯覚して、忙殺=自己実現、と錯覚していた。忙しいことが、スキルがあがる、だけでなく、充実している事と錯覚していたのだ。だが、合気道という純粋な(=仕事と全く関係のない)「楽しさ」と出会ったあと、どうも忙殺されていては、練習時間が取れない、ということがわかってきた。3月に今度は3級の昇級試験があるが、今日を入れてあと4回しか練習時間はとれない。本当は5回のはずだったのだが、優先順位の極めて高い「求められていること」にまで、流石に無碍には出来なかった。
もちろん社会貢献として、他人にお役に立てる事をしたい、と思う僕が一方ではいる。だが、昨年あたりのコペルニクス的転回で気付き始めたのは、自分の「やりたい」「楽しい」を一方で充実させないと、本業も煮詰まってしまい、充実感とは対極の、虚しさが充満してしまう、ということだ。ワークライフバランス、なんて言葉を使わなくても、自分の魂にとって良い事とは、今のところ、仕事が凝集性の高い物になっていけばいくほど、対極にある「楽しさ」も試行錯誤しながら、うまい塩梅のバランスをとることだ、と気付き始めたのである。
あと、さすが工学博士だな、と思った森氏のフレーズで興味深かったこと。「自分が楽しい・やりがいがあると思う事は、どういう時に、どんなことをしているか、を抽象的に考えていくと、他の事をする際の楽しさにも応用出来る」といったようなフレーズもあった(今日は敢えて原典を見ずに書いているので、気になる方は新書を買ってください)。
そう、楽しみややりがいの「エッセンス(=本質)」を掴み出すことは、自分の癖の本質を知る事でもあり、自分がそれを他分野にどう応用出来るか、の展開可能性も模索できるチャンスでもある。つまらない人間関係や悪口的批評に毒されているより、こういう楽しい事をちゃんと自分の頭で考えたい、ともつくづく感じた。
なになに?
 「合気道だけでは楽しみが足らんなぁ」
 「もうちょっと楽しめるんとちゃう?」
こんな悪魔のささやきが、心の何処かから聞こえてきた。さて、何を楽しもうかしらん。明日からまた仕事モードに戻るので、今日はそれをのんびり考えてワクワクしよう。

断片化と関連づけ

ここ20日間ほど休みがないので、結構全身ぐったりしている。一昨日は東京、昨日は甲府、今日は長野、明日は茅ヶ崎。そしてようやく明後日がお休みで、大切な合気道のお稽古。毎日場所を変えていると、何だかエントロピーが増大して、頭の中がぐしゃぐしゃになりつつある。昨晩は早く寝て、今朝は5時に目が覚めてしまったので、バラバラになりかけた頭の中を少しだけ整理しておきたい。

情報の断片化やフラグメント。
パソコンは、昔はしばしばフラグメント化された中身を「最適化」する作業をしないと、作業が鈍くなった。最近のものであっても、たまにそういうPCの中身のお掃除をしないと、反応速度がのろくなる。あの最適化作業を眺めていて面白いのは、バラバラに散らばった、青や黄色や赤で象徴化されたデータが、徐々にまとまり毎に整理されていく様相だ。
最適化が必要なのは、現実社会においても同様ではないか、と思う。
特に今のように、情報が錯綜し、溢れすぎる情報が奔流していると、そう感じる。朝からツイッターで昨晩からのタイムラインをボンヤリ眺めているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまう。Gメールに、大学とニフティからの転送されてきたメールも、一晩でごっそり溜まっている。ウェブもチェックしたいし、最近はキンドルでインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(ヘラトリ)を読み出したら面白くてつい見てしまう。読みたい本もわんさか溜まっている。気がつけば、インプット過多、というか、溢れすぎているような気がする。その中で、多分ぐちゃぐちゃに脳の中で情報の断片化が起きているような気がする。ちなみに言えば、上述のように、2月は出張がめちゃくちゃおおいので、スケジュールの断片化、も激しい。
そういう時だからこそ、意識して情報と思考の「関連づけ」と「まとめ上げ」が大切なような気がしている。
最近、アクチュアルな関心を持つ内容については、外見的・表層的なタグとしては無限定に読み進めている。エジプトの革命、渋沢栄一の伝記、河合隼雄に昭和天皇の論考・・・一見したところ、あまりに無限定で雑学王的な読み方だ。でも、自分の中では、ここしばらくコミットしている仕事の背後にあるコンテキスト理解のために、大切な断片である、と感じている。
例えば昨日は地域包括支援センターの職員研修だった。山梨ではありがたい事に、東京や大阪で教員をしていては、普通は頂けないご縁を頂ける。障害者福祉の専門である僕が、高齢者分野で講師をさせてもらえることは、まずない。専門家が一杯いるからだ。更に、年長のエライ先生が多くいると、若輩の僕にチャンスなど回ってこない。でも、山梨では不思議とご縁を頂き、障害者分野にもみっちり4年ほど関わり、高齢者も主任ケアマネ研修から3年ほど関わり、芋づる式に昨日は包括の研修、来週は居宅ケアマネの研修に立ち会わせて頂く。そして高齢者分野の支援者の方々と関わって、問題は障害と非常に重なっている、と実感する。
その研修の中で、高齢障害問わず、今求められているのは、メゾレベルの課題である。個別支援というミクロと、制度改革や市町村レベルの福祉計画というマクロ、この二つの解離が激しい。どうやって、その地域における解決困難事例を、町の課題として計画や施策に反映するか。このメゾレベルでのギアチェンジに苦しんでいるのが、地域包括支援センターと地域自立支援協議会の共通課題であったりする。そして、そういうメゾレベルの課題については、その地域のコンテキストを読み込んだ上で、地域の物語の編み直しを、官官、官民、民民の壁を越えて共同編集し、物語の再構築をする必要があるため、マクドナルド的な全国一律の対応などはなからできっこない。で、そういう内容は「コミュニティーソーシャルワーク」とか、「地域福祉」というジャンルで呼ばれているようだが、個別地域の物語(ミクロ)を越えて、あるいは難しい理論の羅列(マクロ)でもなく、ミクロレベルでの困惑に寄り添うテキストもあまり見られない。そこで、こちらにお鉢が回ってくるのである。気がつけば、博論以来、ずっとメゾレベルの研究と実践をしているような気もする。
そして、メゾレベルの問題に取り組んでいて、かつ福祉領域であまり役立つ「先行研究」やノウハウがないと、ついつい目は他領域に向かってしまう。「学習する組織」や「非営利組織のマネジメント」などの組織論を囓っていったのも、現場で求められている事に応えるための、付け焼き刃的アプローチが最初だった。
だが、無理をしても周辺領域の本を読み漁っているうちに、どうやら福祉だけで閉じてしまうことの問題性も見えてきた。メゾレベルでの問題解決を志向している、という自分の視座さえ固まれば、表面的なジャンルが何であれ、その本とのご縁を感じる事が出来れば、内容から学べる物は少なくないのではないか、と。
例えばエジプトの革命が、今、凄く気になる。国内の新聞はようやく最近解説を始めたが、2週間前は、本当に報道が断片的だった。今までドメスティックな関心しか持てなかったが、今回はなぜか凄く気になって、ツイッターでエジプト人の英語ツイートでアルジャジーラーの内容をフォローし(そのアカウント自体もツイッターで知った)、そして忙しくてお蔵入りしていたキンドルを引っ張り出して、先述のヘラトリを読み始めた。我が家は未だに地デジ化してないアナログで、しかも数ヶ月後に引っ越す予定なので、衛星放送の対応も新居でいいや、と思いしていない。なのでBSも見れないので、意識しないと情報が本当に入ってこない。しかし、逆に言えば情報を意識して取り出すと、そこには自分の関心領域との関連性が、最近少し見えてきた。
それは、「政策の窓」に関するものだ。
キングタンは「政策の窓」モデルの中で、「問題の流れ」「政策の流れ」「政治の流れ」の三つの流れがある、という。そして、その流れがそれぞれ平行線を辿っている時は、どんなにエネルギーを傾けても、機が熟さず、物事は変わらない。しかし、問題の極大化に政策が気づき、それと政治家のアクションが同期したティッピングポイントを迎えた時、急に物事が反転し、大きな政策転換が起こるチャンスを迎える、という。エジプトの革命を、その前夜から眺めていると、3つの流れの押し合いへし合いが、大洪水のように奔流し、結果としてのムバラ
ク大統領の演説と、その直後の大きな抵抗、そして数時間後の政権崩壊へと進んでいった。そして、チュニジアからエジプト、そしてバーレーンなどに伝わりつつある流れの背景について、ヘラトリで興味深い記事も読んだ。ガンジーの流れを組むアメリカの政治学者、Gene Sharpの非暴力革命の考えは、セルビア経由でアラブの若者にも引き継がれた。それとネットによる国民へのメッセージ伝達の相乗効果が繋がった結果、というのだ。さらには、オバマ大統領のムバラク追放の容認の背景には、アルカイダへの対抗勢力を、今の若者達の民主化運動の中に見出している、とも。
事の正否はわからない。だが、コンテキストの転換点、ティッピングポイントを巡る物語、として眺めると、非常に他人事には思えない。
今、我が国の政治は、本当に混沌としている。そして、霞ヶ関の官主導も、非常に混沌としている。この前の、内閣府障害者制度改革推進会議、総合福祉法部会。私たち部会委員が出した中間まとめに関して、厚労省の「コメント」は、ほぼ全否定だった。きつく言うと、「出来ない言い訳のオンパレード」だった。国の審議会で、国自身がその委員の内容に全否定する、というのは、恐らく殆ど見られない光景だ。そのヒステリックにも見える厚労省のコメントと現状肯定の論調をみていても、それだけ、今、内務省以来続いている霞ヶ関の伝統も揺らいでいる、と感じている。
インド、セルビア、エジプト・・・、ではないが、「窓」が揺れている、開きつつあるのは、他国だけでなく、アクチュアルな日本の今の問題でもある、と感じている。そして、それは先ほどのメゾレベルの話にも繋がる。
地域包括支援センターと地域自立支援協議会に共通するのは、そのような中央の政策の歪みや限界が、現場の中で極大化しつつある、という現状だ。困難事例の高まり、地域力の低下、社会資源の少なさ・・・等の課題に、以前なら厚労省は輝かしい解決モデル案を示し、それを主管課長会議で示された都道府県が「伝達研修」をして、という上意下達型の中央集権的モデルで収斂できていた。だが、今は、国は膨大な資料を出してはいるけど、元を辿るとどこかの成功モデルを国モデル化しただけに過ぎない。つまり、中央集権的な政策主導に、かなりのかげりが見え始めている。一言で言うと、国の情報を待っていても、あんまり期待出来ない。
その中で、現場の疲弊感、待ったなしの現状を変えるためには、メゾレベルで何とかするプレイングマネージャー力が求められているのである。それは、コンテキストが開いた時に、瞬時に判断して、局面を切り開く力、とも言えるだろう。そして、それは幕末から明治の当初の混乱期を乗り越えた、渋沢栄一の内在的論理を読んでいても、非常に参考になるのだ。
話は右往左往した。
でも、そういうコンテキストを抱きながら、目の前の日々の仕事に取り組んでいると、複眼的・立体的に物事が見えてきて、忙しいけど、くたびれるけど、面白い。まだ、完全には関連づけ出来ていないが、自分の中では、ノーマライゼーション生成の議論も、あるいは1968年的な状況の変容局面も、その意味では「関係あり」とみている。だが、忙しくてなかなか文献を読み進める時間もなくて、それを確かめきれない。
しかし、渋沢栄一伝を書いている鹿島茂氏の言葉を借りれば、渋沢栄一が強みとして持っていた「帰納的能力」とは、ある種のメゾレベルの力なのかもしれない。現場の事象から、、その背後にあるシステムを見抜く能力。今日は児童・障害者・高齢者の施設での苦情を受け付ける担当者の研修がある(本当にあれこれしてますね)。でも、その現場で出てくるリアリティと、昨日の地域包括支援センターで出てきたリアリティ、それに国の改革の話など、システム的な課題として、共通している。問題は、一件断片的に見えるもの、氷山の下に隠れているものを、その断片を拾いながら、どうやってメゾレベルの共通性として整理し、現前化して見えるようにしていくか、ということである。それが出来た時には、政策提言としても、あるいは論文や著述としても、一つの説得力をもって、響く。あるいはそれが「政策の窓」が開いた瞬間であれば、コンテキストの変容にも役立つかもしれない。
そのタイミングはいつ来るかわからない。だが、そのタイミングに向けて、バタバタしながらも、「まとめ上げ」と「関連づけ」だけは、怠らないでいたい、そう思う。

記号から記憶へ

ものごとは、奥深く掘り下げないと、本質に突き当たらない。出来事の記述の背後にある、何らかの核に至るためには、出来事の記述は表層的であり、余計だ。だが、その表面の記述をしていないと、一体何のことなのか、が、読み手だけでなく、書き手の僕自身にもわからなくなることがある。

昨日のブログに続き、今日も連投する。その最大の理由は、「昨日書かれなかったこと」が気になるからだ。昨日のブログは、表層的記述編。なので、今日はその表層を取っ払って、中身だけをざっくりと書いてみたい。
記憶。昨日、エリ・ヴィーゼルのインタビュー記事を紹介したが、その中で触れられた「記憶」というキーワードが、ずっと引っかかっている。
大斎原という記憶。そこに何もないが、何かがかつてあった、という記憶。その記憶の古層は、確かにその場に鳥居や看板、あるいは移しなおしたご神体などをつうじて、あるいは様々な文献の記述や写真を通じて、表面化している。だが、それらの表層の背後に、何かが、今も、ある。一昨日、雪景色の大斎原の鳥居の風景の記憶を心の中から取りだした時、やはり、何かがここにあった、し、今もある、という実感も共に、立ち上がる。
記憶。
土地を歩くとき、以前は記憶とは無関係に、単にA地点からB地点の移動、という意識でしか歩いていなかった。鉄道少年だったヒロシ君は、時刻表を片手に、金沢、鹿児島、松江などという記号に憧憬を持った。それは「雷鳥」「なは」「あさしお」という特急列車の呼称という記号に憧れたのと一緒だ。実際に当該列車に乗ってその目的地にたどり着いた時も、現地で何かをする、というより、トンボ帰りの旅が多かった。それは、むしろ記号を実際に確かめる旅であったのかもしれない。
大人になって、旅ガラスになっても、基本的にはその記号的旅の延長線上にあった。ただ、余暇ではなく仕事での旅だったので、記号的消費だけでなく、現地での用務、というのも重なる。しかし、現地での用務が済むと、多少は美味しい何かを食べたり、あるいは人と会う等の例外はあっても、基本的にトンボ帰り。もちろん家庭平和の為、というのは大きいけれど、それよりも、記号論的旅の属性が身体に染みついていたから、だと思う。
だが、昨年あたりからだろうか、記号論的旅がモノクロ世界だとすると、急にその旅に様々な色合いが出てきた。鮮やかさと深みが増す旅となってきたのだ。そして、それは記憶と結びついている。初めての土地にもかかわらず。
それは、その土地の記憶、その場所を巡る記憶とアクセスし始めたからだ、と思う。
以前なら、海外旅行であっても、ガイドブックを持参するだけであった。あのガイドブックというものも、よく考えてみれば、記号論的消費の最たるもの。どこに何が売っている、あそこのこれは美味しい、そこのこれは絶対に見逃せない・・・その土地の食べ物、売り物、見せ場を平面的・等価的に陳列して、記号の一つとして、多少の順位付けをしながらも、整理して羅列する。それは、時刻表のダイアグラムと変わらない、記号論的な陳列。「モデルルート」なんて、時刻表的な時系列表示との近似が伺えるものもある。
たしかに、そういう記号は、消費をするのには、便利だ。だが、記号の消費は、その消費をするだけで満足度が高いだけに、記号の消費「にしか」目を向けさせなくなる。記号という形で有徴化、現前化しているものの背後に、様々なコンテキスト、というか地があるのに、他人に形づけられた徴のみを確認して帰るだけならば、時刻表マニアの記号論的旅行の領域から出ない。そして、高度消費社会において、この記号論的枠組みから外れるのは、ますます難しくなってきている。ネットの情報はスマートフォンでも取れてしまうので、現地でも、臭いよりも雰囲気よりもウェブという仮想記号空間に浸ってしまうのだ。
だが、その固着した枠組みを外れる方法もある。
Don’t think, FEEL!
これはブルース・リーの明言だ(そうだ)。僕は映画とのご縁があまりないので、彼がどういうコンテキストで言ったのか、しらない。ツイッターで流れてきた言葉だ。しかし、どういう来歴であれ、その言葉という記号に感じ入った上で、自分の中で咀嚼して、自分の中で血肉化した上で再文脈化すれば、それは記号ではなく、記憶になる。そう、何であれ、自分の中で再文脈化することが、記号が記憶へと変成される上で大切なのだ(と書いていて気づく)。
思えば、大斎原との出会いも、その来歴などについての記号論的解釈を読み、現地を実際に訪れただけでは、あくまでも記号論的消費に留まる。やはりそこには、そこで何かを考えるのではなく、まず感じ、その上で、自分の中で再文脈化する。自分のこれまでの物語と、どのような関連づけがああるのか、新しい一ページは、これまでのページとどう接続するのか、それらを未分化な中から立ち上がるように、熟成させていくからこそ、出会いという発光に感応し、心の中の印画紙に染みつき、何らかの文様として立ち現れるのである。
そう、出会いという発光は一瞬でも、それに感応できるかどうか。また感応した何かを、現像液→停止液→定着液につける一連の作業を通じて、自分のこれまでのコンテキストに関連づけした上で、記憶の一角にしっかりと位置づけられるか、にもかかっている。そうしないと、それまでの土地や場所の記憶ともふれ合えないし、自分の中での記憶としての再文脈化もなされないのである。そういう意味では、他者や見知らぬ土地の記憶を、自分の記憶としてとどめる為の再文脈化作業を、感じながら、耳を傾けながら、目を見開きながら、出来るかどうか、が、記号から記憶への昇華において、非常に大切になってくるのだと思う。

物語、記憶、捉え直し

雪景色の大斎原(おおゆのはら)には、誰もいなかった。何もない空間に、雪が降り続けていた。だが、昨日見た八咫烏(やたがらす)が金色に光る大鳥居を心の中に想起させると、そこにはかつて何かがあったし、今も何かがあるのではないか、という実感が、今でもじんわりと沸いてくる。昨日は、そんな希有な経験ができた。

さて、事の発端は、3年前に遡る。もともと、三重県の障害者福祉に関する特別アドバイザーの仕事を頼まれたのが、ご縁を頂くきっかけ。当初は、人材育成を目的とした研修のお手伝いを頼まれていた。だが、1年、2年と続けていくうちに、当たり前の事だが、人材育成と地域作りは地続きで連続性があることに気付き始める。その中で、松阪や伊賀、伊勢、鳥羽など県内のいくつかの市にもお呼び頂き、やりとりを続けてきた。特に鳥羽市では尊敬する北野誠一さんと一緒に自立支援協議会の立ち上げ支援に参画し、大変面白い展開を肌身で感じることができた。
そういう流れの中で、先週末、熊野にお呼び頂く。紀南・紀北地域という、三重県南部は、最も社会資源が少なく、県庁所在地である津から行くのも遠く、情報も人口も人材も少なく・・・と様々な好ましくない条件が重なっている。その中で、どう地域作りをしていったらよいか、のきっかけ作りになるような講演会を午前に開いた上で、午後はコアなメンバーでの戦略会議的なグループワークに関わって頂きたい、というご依頼を受けた。
私は別に街作りのプロではない。が、ミクロレベルの個別支援だけでなく、支援組織の変革(メゾ)や地域自立支援協議会を通じた地域作り(マクロ)に関われる人材育成、という事に携わっているうちに、何となく地域毎の特性を踏まえた、その地域らしい展開のあり方とは何か、についてのアドバイスを求められるようになってきた。そんな力も経験もないのだが、求められたら応答責任を感じてしまったお節介タケバタは、山梨でも三重でも、無い知恵を振り絞って考えているうちに、メゾからマクロにかけての地域支援とミクロレベルの個別支援との解離に気づいた。その解決は、地域毎に当然その方法が違うのだが、少なくともどういう歪みがあるのか、あるいはどこから焦点化していけば解決の糸口が見つかるのか、を一緒に探る事くらいは出来そうだ。そんな気持ちで、共に問題を探す探偵業、というか、その地域課題(=ゆがみの部分)を指摘する整体士のような、ともかくそんな臨床家的な仕事に関わるようになった。
今回も紀南・紀北で求められたのは、そのような臨床家役割。どこまで出来るか分からないけど、と思いながら、津の研修ではなかなかお会い出来ない方々に、こちらから出かけてお話しさせて頂くチャンスはそうないので、喜んで出かけた。甲府から7時間強、の汽車旅はなかなかハードだったが、沢山の学びがあった。
今回、行きの列車の中では、この地域についての両極端の本を二冊、抱えていた。
『神々の眠る「熊野」を歩く』(植島啓司著、集英社)
『紀州-木の国・根の国物語』(中上健次著、角川文庫)
前者が熊野の聖や光に焦点化したとすると、後者は熊野の賤や影をルポした作品。だが、熊野の聖性の中には、自然の驚異も含めた影の部分が折り重なり、差別を主題化した紀州の影の物語にも、その土地を生きる人々の力強さという光が差し込んでいる。交互に読み進めながら、少しずつ紀南・紀北にも馴染んでいくのには良い「予習」だった。
そして、一昨日の一日研修を通じて聞こえてきたのは、ある意味、両側面の双方が鈍化した中での地域課題としての析出、という形であろうか。荒くれ者の漁師町や博打打ち的な馬喰・木材商、それらに支えられた遊郭、等の光と影、という中上健次が主題化した世界は、彼のルポが書かれた1977年にはまだ根強く前景化していたが、今はすっかり後景化している。ある種のグローバル化、ではないが、熊野らしい地域課題ではなく、全国の地方に共通する課題、高齢化率も上昇し、不景気で町全体に元気がない、という課題が前景化している。良くも悪くも地域を支えた・縛った「らしさ」が鈍磨しつつある。その一方で、山も海もある豊かな自然と温暖な気候に支えられた人間関係の豊かさは、残っている。時間感覚のゆっくりさ、もスローな生き方、なんて言う以前から、当たり前の前提としてある。確かにその中から排除されてしまう人がいる、という問題もあるが、でも人の優しさ、地元に対する愛着度、などは紀南・紀北の人々にとって、大きな自信の源になっていることも、よく分かった。
そんな紀北や紀南の実情を変えるために、僕が一昨日のたった1日の研修で出来た事は、きっかけ作り、にしかすぎない。ただ、本人中心や社会モデル、という支援の原則と、その地域・組織・人固有の物語を活かした支援体制作り、という普遍性とローカリティの融合が大切だ、ということは、ご理解頂けたようだ。国の方針や教科書的知識は、特に「困難事例」を前にすると付け焼き刃的にしかならない。その際、ご本人に寄り添う、という意味のローカリティと、本人中心という支援の原則に照らした、探偵業的な解決の糸口探しが求められる。これは、何も個別ケースだけでなく、「その地域における解決困難な事例」を考える地域自立支援協議会や、地域包括支援センターの仕事にも直結している。そういうメゾ・マクロ支援においても、国の動向や教科書的知識に流される事無く、本人中心という原則と、その地域のこれまで・今・これからというローカリティの文脈をどう読み解くのか、そして地域の物語をどう書き換えていくのか、が求められている。そんな事を、いつもよりは少しゆっくりと、お話ししたつもりだ。(それでも紀州時間では早口だったのだろうが…)
で、そんな仕事をこってり終えて、昨日は県の方がわざわざ休みを取って下さり、熊野から本宮、新宮と半日のことりっぷに連れて行って下さった。圧倒的な印象に残ったのが、冒頭に挙げた熊野の本宮跡である大斎原と、新宮の南方熊楠記念館。
大斎原の何もなさ、は、行きの列車の中で読んでいた、ノーベル賞受賞者のエリ・ヴィーゼルのインタビュー記事を想起させた。
ナチスの強制収容所経験を持つ彼は、エジプト革命がツイッターやフェイスブックを通じて伝播した事を聞かれ、情報が膨大になることによって、人々の関心が散逸し、少し前の出来事もすぐに忘れ去ってしまうことに警句を述べる。「目撃者として気にし続けることは、大きな状況への関わりである。(Bearing witness is a huge commitment) 」という言葉に代表されるように、日々過ぎ去りゆくこと、雑事にかまけていくうちに「過去」とされる記憶にどれほど寄り添い、関わり続けるか、が大切であると感じる。例えば熊野の記憶。聖なる土地と言われた時代があり、その後明治から大正、昭和にかけて、文明開化の過度な影響を受けて廃仏毀釈や近代産業を重視しすぎた結果、木材を切り倒し、自然が荒廃し、神社も寺も廃れ、大斎原も流されてしまった。その後、昭和の60年の間に、紀伊の国の光も影も含めた地域特性も、鈍磨してしまった。
でも、その事に単に悲嘆するのではなく、その地域の固有の物語に耳を傾け続け、そこから普遍的な支援原理と接続させる中で、その地域らしい住みやすさの追求という新たな物語をどう捉え直せるか。これは、目をそらさずに目撃者として関わり続ける中でしか、生まれてこない。地域生活支援という営みは、特に過疎が進む地域においては、単に目撃者であるだけでなく、福祉以外の商工や観光などの領域も視野に入れ、関わり続ける事が求められているのかもしれない。その中で、町の歴史という記憶に、新たな光を差し入れる役割を持っているのかもしれない。二泊三日で、そんな事を考えていた。

テンションの高さとストレス

最近、どうも体調がよくない。体重が10キロ減ってから、肉襦袢コート!を脱いだ事もあって、カイロとパッチがないと寒い。あるいは、割とお腹がちくちくとする風邪未満、状態が頻発し、葛根湯を飲んで事なきを得ている事も少なくない。結構キツイ日程だが、身体はそれに悲鳴を上げているようにも見える。

だが、一方で、そう感じるのが普通なのであって、今まで「無痛」だったのではないか、とも考える。必要以上に食べ過ぎても、飲み過ぎても、あるいは何処かに痛みを感じても、それを「しんどさ」「寒さ」「辛さ」と感じないように、感覚的センサーが摩耗していた、あるいは無自覚的に鈍麻させていた、とも考えられる。「○○すべきだ」「○○なんて出来ない」という事を言い訳にして、体重減は諦めていた。それは、単にダイエットを諦めていただけでなく、五感のセンサーのメッセージ自体も聞こうとせず、消費社会的イデオロギーの因襲にすっぽり覆われていたのかもしれない。「美味しものを一杯食べたい」「24時間戦えますか」「休みもエンジョイしなくっちゃ」といった消費を喚起させるイデオロギーを内面化して「自分のしたい事」として刷り込まれ、それを所与のものとしたとき、「そうじゃないんだけどなぁ」という五臓六腑のメッセージに蓋をして、突っ走っていた、それが「無痛」状態を引き起こしていたのかもしれない。
そう思うきっかけの一つに、今朝のNHKニュースの花粉症対策の報道がある。北海道大学の教授が、杉の木の無いある町と共同で、杉花粉対策のツアーをやっている、とのこと。大自然の中で、リラックスしながら自然を体感してストレスを減らし、食事療法もして、アレルギーと闘いやすい身体作りをしている、という作りだった。その詳細は正直あまり記憶に残っていない。だが、アレルギー体質の改善方法として、早寝起き・3食をしっかりと食べる・ストレスを減らす、という3つが出てきた時、ふと繋がった。早寝早起きとバランスの良い食事はきちんと実践出来ている。やっぱり残るは「ストレス」だなぁ、と。そう、それは実はある医師にも言われていたのだ。
僕自身、仕事の面ではあまりストレスを感じない方であった。肩こりも最近まで無自覚だったし、胃が痛んだ事なんて、20代にある大ちょんぼをやらかした時くらいであった。ストレスから自由な生活を送っている、と勝手に思いこんでいた。ところが、こないだ主治医である漢方医に、花粉症の薬をもらいにいった時の事。西宮に住んでいる時から9年くらい通っていて、低炭水化物ダイエットを教えてくれた恩人でもある。その先生に、一年間着け続けている体重の変化(=痩せたグラフ)を自慢しにいったついでに、「さて次の課題である花粉症の根本治療は・・・」と水を向けてみると、全く意外な一言を仰った。
「タケバタさんって、緊張が強いタイプでしょ」
「えっ・・・・」
青天の霹靂、自分自身は、150人とか200人の前でも平気で講演しているし、そんな緊張するタイプとは思っていない。何でですか?と伺うと、更に驚く。
「だって、テンション高く、ということは、文字通り緊張が高いんでしょ。そうやって緊張を高めて物事に臨むことって、ストレスフルなのかもしれませんよ」
目からウロコ。
確かに講演などでエンジンをかけるとき、エンジンの回転数をローギアでグイグイ引っ張るかのように高めて、速度を高めてから全速力で突っ走る、というパターンが多い。そういえば一昨日の講演も、「1時間半マシンガントークのように話し続けておられましたね」と司会の方に言われたし、そう言われることは少なくない。僕自身、それが自分なりのスタイルだ、と勝手に思いこんでいた。だが、実はそのスタイル自体が自分自身に緊張をもたらし、つまりはストレスの原因であり、かつそれに無自覚(=無痛)であるとするならば・・・。
そう考えると、診察室であっけにとられて、グラグラと目の前の常識が崩れ去るような、そんな時間を味わった。そして、主治医に今回処方された漢方薬が、気を静める効果を持つ薬。実際それが効果をどう現すかわからないが、飲む際にはいつも意識する。確かに自分自身、緊張しいかもなぁ、と。それを、まくし立てて喋る事で、誤魔化しているのかもなぁ、と。
まくし立てること。
これは、先制攻撃的に、ガツンと自分がパンチを食らわせる事で、相手を威圧する手法。タレント弁護士出身でワンフレーズポリティックスがお得意の某府知事なんかも、この手法。もしかしたら彼自身も、テンションの高い、つまりは緊張しいなのかもしれない。そう言えば独善的で強引な発言が目立つなぁ・・・。
でもまあ、そんな他人の批判はよろしい。僕自身の実存にとって、この「緊張しい」という問題は、自分のストレスの自覚、「痛み」の自覚のためにも、大きなパラダイムシフトをもたらす効果がある。多分以前からそのことを知っていただろうに、10キロ痩せた変容をとげた今だからこそ、その話題を「言っても良い時」であろうと判断され、ご教示頂いた主治医も、なかなか鋭いなぁ、と感じる。そう、人は説得ではなく納得しなければ変わらない。自分自身が、納得のレセプター(=感受性、心の器)を拡げないと、その本意をきっちり受けとめられない言葉がある。二元論的発想や、ガンバリズム的消費社会イデオロギーにどっぷり染まっていた9年前には、そんな指摘は、絶対に受け容れられなかっただろう。だが、今だからこそ、体重の変容を通じて五感や五臓六腑のセンサーに耳を傾けられるようになったからこそ、次の、本質的課題が、目の前に提示されているのだ。
自分の、緊張(テンション)が高い、という現実を、自覚した上で、どう折り合いを付けて生きていくか。
多分勝手な想像だが、抗ヒスタミン薬の服用という対処療法では解決出来ない根本的な花粉症治療とは、生き方を見つめなおす事、だとも思う。
だからといって、講演や対外的な仕事を断る、という短絡的な問題ではない。今日もこれから松本で研修を頼まれている。また、どうも自分はそういう支援現場の職員エンパワメントという臨床的な仕事は嫌いではないだけでなく、そこそこ出来る力も持っていて、かつ世間にも求められているようである。ただ、講演の際、もう少し肩の力を抜いて、リラックスして、伝える、というのも大切なような気がする
講演を始めたのも丁度博士号を取り終わったあとの8年ほど前からだったが、とにかく実力不足を実感していたので、力を入れて、メッセージを込める、ということを、重視していた。今でも「情熱的な講演」とも言われる。でも、それって裏を返したら暑苦しいだけ、とも言える。また講演以外でも、研究会や学会発表の場でもその傾向があるようで、知り合いの研究者の中には「元気だけが取り柄だね」と揶揄する人もいるし、「うるさい」としかめ面する人もいる。今までそれは故無き誹謗中傷だと思いこんできたが、案外それは、僕自身のある一面の真実を照らし出している、とも思えてきた。そう、うるさい、のである。そう言えば、先週の某研修の感想にも、一人だけそう書いていた人もいたっけ(笑)
自分の弱点は、自分の個性や本質の表れである。直したくなければ、別に直さなくてもいい。でも、それを無痛と思わず、何らかの「痛み」を感じるのであれば、虚勢を張らず、そのことと正直に向き合っても良い。最近、そう思い始めている。それが、身体の五臓六腑や五感のセンサーの感度の上昇、体調や体温の微妙な変化への気づきとも同期していると思う。
ならば、2月3月は講演が多いが、その一つ一つの講演も、内容を伝えるだけでなく、伝え方(=形式)で、どう緊張を下げ、かつその中に魂を込める、という技芸が磨けるか、も考えないとと思う。本当の臨床家は、メッセージを届ける、だけでなく、相手に受け取りやすい内容と形式で届けている。自分自身にとって、その部分は、生き方の模索であり、かつ花粉症の治療でもある。近視眼的現世利益と、中長期的実存の問題は、「テンションの高さ」というところで、離れがたく結びついている。これとどう向き合うか。明日で年男を迎える自分の、これからの課題でもある。

支援という探偵業

つい、先日の話。

ある学生のレポートを見ていたら、明確なコピペの疑いが強かった。彼ら彼女らの息づかいとは違う文章が書かれていると直感で感じたら、とりあえず最も違ってそうなフレーズやセンテンスをグーグルでひいてみる。すると、今回の場合は一発で出てきた。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら」(「もしドラ」)の読書感想文だったのだが、とある小論文添削会社のHPに載せられた感想文の例を、大部分パクっていた。上下を入れ替えたり、部分的に言葉を直したりしているけど、カットアンドペーストそのものである。証拠を印刷した上で、学生に聞いてみた。
彼は、すぐにコピペであることを認め、こう言った。
「クラブで忙しくて、大会も続いたから・・・」
クラブやサークルで忙しい事は、理由にはならない。現に、うちはトップアスリートの学生も多いが、海外遠征などで忙しくても、課題をきちんとこなす学生を何人も知っている。今年元アスリートだったゼミ生の卒論は、めちゃくちゃレベルが高い内容を書いてくる。文武両道の学生は、うちの大学には沢山にて、それが大学の幅の広さ、層の厚さの基盤をなしている。なので、同じアスリートの仲間に対しても、「クラブで忙しい」なんて泣き言は、「ふざけるな」と言われるぞ、と言うと、彼も頷いた上で、次にこういう言い訳をした。
「でも、どう書いていいのかわからないから」
「もしドラ」を本当に読んだのか?と聞くと、「読んだ」と答える。一応僕も読んでいるので、あらすじを言ってもらうと、確かに最後まで読んだようだ。「ほんならなぜちゃんと自分の言葉で書かないの?」と聞くと、「どう書いていいのかわからなかったから」という本音が出てくる。「例えば君のクラブに引きつけて考えた時、参考になること、同じようなことはなかった?」と聞くと、「それなら一杯ある。例えば・・・」としゃべり始めた。「それを書いたら、立派な感想文だよ」というと、先ほどまでしんどそうな顔をしていたのが、急に笑顔になって、「それなら今週末、書けます」ということに。じゃあ月曜日までにメールで送ってね、と伝えて、話が終わった。
僕は、このエピソードに、支援の本質の一端が現れているような気が、昨日からしている。それは、昨日の相談支援の現任者研修で、このエピソードを話しながら、こんなふうに繋げてみたのだ。
コピペというのは、明らかに「ダメ」な行為である。れは、間違いがない。しかし、学生が「ダメ」である行為に踏み込んだ時に、「ダメだ」と頭ごなしに言っていても、生産的ではない。
もしこの学生のように「ダメだ」ということを内心分かっていた学生でも、それなりの理由があって「ダメ」な行為をした方が利益がある、と思ってやっていたのだから、それを「ダメ」と言っても、相手は損得勘定の利益計算をして、「怒られておけばいい」「言い訳をすればよい」という表層的な理解で終わる。また、もし相手がなぜ「ダメ」なのか理解していなかったら、単に「先生に怒られた」というイメージしか残らない。「意味も分からず怒られた」と思った場合には、逆ギレしたり、あるいはパニックになるかもしれない。
どちらの場合であっても、「ダメだ」と伝えるだけでは、全く「ダメ」であることには変わりない。
では、どうすればよいのか。
「ダメ」である行為をした相手とは、その行為をしてしまったし、これからも繰り返す可能性がある、という意味で、何らかの支援を必要としている人とする。そして、こちらは「それがダメである事」を知っていて、その「ダメ」を注意して、直したい、繰り返して欲しくない、という支援をする側である、としてみる。
叱責型解決法は、両者が「ダメ」であることを知っていて、また相手を叱責し、突き放して自分で考えさせれば自ずと「ダメ」な理由と解決方法がわかる、という考え方である。ある種、我が子を谷に突き落とすような、「かわいい子には旅をさせろ」的な、経験から自分で学べ、という姿勢である。ある程度、相互扶助的ネットワークや親戚・近所づきあいが強かった時代においては、突き放しても、近所のおじさんや、親戚のオバサンなどの別のロールモデルから、かくまって貰ったり、叱咤激励してもらう中で、何となく理解し、乗り越え、成熟する、というモデルも「あり」だったのだろう。あるいは、センスの良い子なら、そういうものがなくても、自分で考えて、獲得していく人もいるかもしれない。
だが、ここで論点として取り上げたいのは、そういうセンスが特段良くない場合、あるいは怒られても繰り返す可能性がある場合である。叱責が効果的に本人の態度が変わるきっかけとはならないケースだ。
その場合、叱る、という行為で何とかなる、と思っている、支援するこちら側が、何らかの態度変容が求められている、とは言えないだろうか。
「あいつは叱っても全く言う事を聞かない」という時、それは自分が「叱る」以外の支援アプローチを持っていない、ということを図らずも口にしている、とは言えないだろうか。そして、それは、プロの支援者(福祉であれ、教育であれ)としては、失格ではないだろうか。
最近、支援とは、ある種の探偵業に近い、と思っている。
探偵とは、自分の眼鏡を相手に押しつける人ではない。今、検察が信頼を低下させているのは、最初から結論を決めて、それに発言を無理矢理誘導する、という、探偵としてあるまじきやり方をしているから、である。その辺りの詳しいいきさつは、「国策捜査」という言葉を流行らせた佐藤優氏の著作を読めば、その論理構築の無理矢理さ加減の記述は、枚挙に暇がない。
だが、本当の探偵なら、全くその逆で、状況の中から、メッセージの痕跡を拾い集め、それをつなぎ合わせる中で、真の理由を少しずつ推理し、試し、解決へと導いていく。ただ事件と支援の根本的差異は、殺人事件なら、「真の犯人」は、特定可能かどうかは探偵の腕次第だが、必ずいる。しかし、支援の場合、「真の理由」なるものは、ある種本人と社会の相互作用の中で、変容する。動機も行動も、本人と環境の相互作用で変化する。そういう流動性があることが、殺人事件と支援では、異なるが、とにもかくにも「自分の眼鏡」を押しつけても、何も解決には導かないことには変わりない。
先のコピペ学生の場合、たまたま僕が叱責型の限界を感じていて、また時間もあったので、コピペする背景には何があるか、を相手と共に探ることが出来た。だから、短時間で表面的理由(クラブが忙しい)の背後にある真の理由(どう書いていいのかわからない)という所に結びつき、それを変える為の支援(クラブの内容と似ている所に引きつけて書いてご覧)と言えば、じゃあ週末に書けますという解決策を導くことが出来た。
これを、例えば「問題行動」「反社会的行動」をする人の支援、に当てはめてみると、僕などより遙かに大変長いプロセスがあるが、ある種の共通性はあるのではないか、と思う。本人がその行為が悪い、ということが理解できていないかもしれない。あるいは「ダメだ」という言語的コミュニケーションを「叱責的解決」と理解できず、パニックになったり、暴れ出すかもしれない。言語的コミュニケーション自体が苦手な場合もあるかもしれない。でも、支援する側としては、探偵になって、何がその背景にあるのか、どういう場面でそういうことが起こるか、繰り返されるとしたら何が鍵となっているか、を探しながら、少しずつ本質に迫っていき、本人が「ダメな行為」をする事で表現したかった事を理解し、それをしないでも済む為の方策を探りだそうとする。これは、力量ある支援者なら、当たり前のようにやっている支援の王道でもある。
だが、これには時間と手間が相当にかかる。一言で言えば、面倒くさい。それに比べると、叱責モデルは、こちらの規範に相手を従わせるだけで済むし、探偵の手間と暇も必要ないし、何よりラクだ。だから、人は支援する側-される側の権力性にものせられて、気づいたら叱責解決モデルを採用する。
こう書いていて、気づいた。「しばる・とじこめる・くすり漬けにする」、という安易な暴力装置に頼る解決方法も、実は叱責モデルの延長線上にあるのではないか、と。精神科病院や入所施設で、認知症高齢者や知的障害者、精神障害者が「問題行動」を起こした際に、言っても聞かないから、としばしば取られる「解決策」。これは口での叱責が聞かない場合の、「処置」としての「叱責」ではないか、と。そう言えば、懲罰的に一ヶ月とか保護室や静養室(共に外からは鍵がかかるが中からは開けられない個室)に閉じこめている例は、未だに見聞きする。これも、支援する側の思考停止・思考の省略に陥っている帰結ではないか、と。
そして、かく言う教師の僕自身だって、言葉での呪縛や行動の固定化(とじこめる)、あるいは一定のやり方しかないという洗脳(ある種のくすり漬け)で、安易に問題を解決しようとしていないか。自分の歪みを相手に押しつけようとしていないか。相手を導く、と思いこみながら、やっていることは無自覚で破壊的な権力行使を行っている場合はないか。そんな問いが突き刺さっている。
むろん、ここに書いた事の半分も、当の場では話せなかったけれど、自分自身の課題として、喉に突き刺さっている。まずは、この問題について、もう少し探偵業を続ける必要がありそうだ。

日常世界の蓋を開ける

一昨日、ある本をきっかけに、ツイッターに連続書き込み(連ツイ、なんて言っていますが)をしていた。こんな感じだった。
takebata1/29 11:59
『影の現象学』を読み終える。道化論を読んでいて、1年半前、僕もバリのバザールで道化に出会っていた、と気づかされた。あの頃から、僕の中で「影」が胎動し始め、少しずつ抑圧の水門から漏れ出て着始めた、と考えると面白い。ちょうど合気道にはまり、心身二元論の殻の限界を感じていた頃でもある。
takebata1/29 12:02
僕にとっての「影」とは何か? 何に光をあて、何を置き去りにしていたのか。その事を、他者の光と影の分析物語を読みながら、ぼんやり考えていた。村上春樹は河合隼雄とはおしゃべりはするけど、彼の著作は読まないと断言していた。確かに、大変よく似ているが故の、直感なのだろう。
takebata1/29 12:06
正月休みに「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み直していた。影を無くした世界と、暗闇で闘う二つの世界の交錯物語。これは「影の現象学」と重ね合わせると、大変味わいの深いテーマである。どちらがよい、のではない。どちらの道を辿っても、漸近線に到達する良さなのだ。
takebata1/29 12:08
実は、僕は村上春樹全作品の中で、今まで「世界の終わり…」が一番苦手な作品だった。その世界に入り込みにくいと感じていた。「ねじまき鳥…」に訳も分からず埋没していたのとは、対称的だ。だが、「影」について今回考える中で、今だからこそ、ようやくあの作品と向き合えるようになった、と感じる。
takebata1/29 12:11
アクセルを踏み続け、七転八倒してきたのが、20代後半から30代前半だった。一筋の光を求め、影を封印してきた。ようやくうまく回転し始めた後になって、自分の中での空虚さが見え始めた。それが「影」の主題化だったのかもしれない。そして、影と共に生き始めると、違う味わいを感じ始めている。
takebata1/29 12:14
20代を思い出すと、モノクロで単調な印象しか残っていない。それはそれで必死だったのだろうけど、この二年ほどの鮮やかさとは、違う感じもする。あるいは、実はその頃こそ、暗闇の真っ直中にいたのかもしれない、とも思う。今、潜り終えたから、客体化して見れるようになったのかも。
takebata1/29 12:18
善と悪、光と影、天と地…単純な二項対立にすがり、正義の審問官の立場を求めると、息苦しい。両者を認識し、そのバランスを体感的にとりながら、どう自分の中で育んでいけるか。そろそろ、自分の風向きも変わってきたのかもしれない。
『影の現象学』とは、河合隼雄氏の講談社学術文庫に収められた名作。この間、割とフーコーや現代思想に関係する本を読んでいたので、何となくバランスを取りたくなって読み始めた。その中で先述のトリックスター=道化論が大きなフックになったのだ。
バリ島に初めて出かけたのは、2009年の9月。数年前から沖縄や台湾などのアジアに急に興味を持ち始め、昔出かけて良い思い出が無かった奥さんを説き伏せて、バリ島に出かけたのが、丁度1年半前。かなり奮発して高級ホテルに泊まっていたのだが、道化にあったのは、バリ島の中心地、デンパサールの市場。突いて2,3日目で、まだ土地勘もバリの流儀もわからず、かつ疲れていて、暑い市場。地元の人ではない人はあまり見変えない、ディープな場所。そこに、奴がいた。
「気を付けて!」
ゴミゴミした街にグッタリしていた僕に、妻の鋭い一言が投げかけられる。何ごとか、と思ってみてみると、ナップサックのチャックが半分開いている。そして後ろを振り返れば、奴が居た。袖半ズボンで、にたにたしている、「住所不定無職」という言葉がピッタリ似合いそうな同世代風の男。変な声をかけながら、後ろからブラブラついてくる。非常に鬱陶しくて、またすられかけた事に腹も立って、とにかく妻と歩き続けた。すると、ずっと笑いながら、マニー、なんて声をかけながら、着いてくるのだ。更にうちの奥さんが振り返って厳しい目線をかけたら、物陰に隠れて、いないいないばあ、みたいな事もしてくる。呆れてものも言えず、とにかく止まらず歩いて居た。彼は地元のごろつきとしては知られているようで、途中、市場のオバサンに「こら、何しとるかぁ」みたいな現地語で怒られている。でも、我知らぬ顔で「こんちわ」なんて言っている。そんな「奴」だったのである。それが何故、道化だったのか。
「影の現象学」においては、山口昌男のトリックスター論に依拠しながら、道化の現れるカーニバル(=市場)という祝祭空間とセラピールームの共通性について、次のように整理している。
「それは『開かれた世界』であり、人々の『自由な接触』を可能として、そこでは誰も『平等、または対等』であり、人や物が常に移動する『流動性』が存在する。そこで人々は所有物を手放したり、獲得したりする『変貌』を経験し、そこに生じる増幅された声、音、笑いなどは『非日常』のイメージを喚起する。そして、『これらのイメージが分かちがたく融合されて、市場の『象徴性』が成り立つはずであり、それは日常世界を支配する<分けられた><距離感を主軸とする><固定的な><変わることのない>生の形式と対立するはずである」(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫、p222)
僕が出会ったごろつきが、単なるスリか道化なのか、という真相は、むしろどうでもいい。それより、その時には単なるグッタリする思い出にしか過ぎず、忘れていた何かを、河合氏の著作を通じて、新たに再解釈した中身の方が、僕にはアクチュアリティのある面白さだ。つまり、僕はバリ島で、カーニバルに出かけて道化に出会い、セラピールームの如き変容の過程にいた、という仮説を立ててみると面白いのではないか。それが、上記の連続ツイートに繋がっていく。
2009年と言えば、肩書きが准教授に変わった後でもある。気持ちは大学院生の自分にとって、何だかしっくりこずに、またその立場にも慣れていないのが正直なところであった。また、その一方で、世間的な肩書きは増え、社会的な仕事も増えていく。「対等」「平等」な仲間との付き合いよりも、「先生」と言われる機会も増えていった。自分の中で様々な何かが固着し、流動性を失い、このまま静かに沈殿していくのではないか、という無意識の恐怖を感じていたのかもしれない。それが、バリに行く少し前に始めた合気道でもあった。上記で少し書いたが、合気道では、先生として敬われることもなく、一初心者としてリセット出来る。毎回練習する技が、なぜ、どうしてそうなっているのか、さっぱり分からない。バンバン投げられる。でも、それがなぜだか気持ちいい。そうそれは、<分けられた><距離感を主軸とする><固定的な><変わることのない>日常世界では味わえない、ある種の非日常性だったからではないか、と今なら感じる。
その中で、日常世界を大過なく過ごすために抑えつけていた蓋を開け、心の中での「流動性」を取り戻し始めたころだからこそ、バリではそれとは気づかずに道化に会い、また少しずつ「変貌」もし始めたのかも知れない。そう言えば、と思って、その時のバリ島の記録を今、検索をかけて見直してみて、笑ってしまった。山口昌男も村上春樹も、ちゃんとバリ島で読んでいるのである。繋がっていますね。
あと、村上春樹の事をツイッターで書いていたので、彼の該当部分も探し出してみた。
「僕は、ユングの著作ってほぼ読んでない。ただ僕が物語という言葉を出したときに、それをいちばん正確に受けとめてくれるのは、やっぱり河合(隼雄)先生かなという気はするんですよ。僕は、河合さんとは難しい話はほとんどしないんです。会ってもバカ話ばっかりしてるんだけど、ときどきふっと『物語』という言葉が出てきて、あ、この人、僕の考える物語っていうのがどういうものなのかをちゃんと知っているんだなという風には思いますね。そういうのがあんまりわかり過ぎちゃうとまずいと思うから、あんまり話さないようにしているんです(笑)」(村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋 p108-109)
また、昨日出たばかりの彼のエッセーを集めた本の中にも、こんな一節が載っていた。
「僕は何度も河合さんにお目にかかって、話をしているんだけど、本当に核心に突っ込んだ話をしたことはなかった。『そういう事を話すのは、もう少し時間を置いた方がいいだろう』という気がしたから。しかしそうしている間に河合さんは病を得て亡くなってしまわれた。本当に残念です」(村上春樹『雑文集』新潮社 p320)
村上春樹と河合隼雄といえば、一冊だけ短い対談を『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)という形でまとめている。だが、その本では、確かに物語論の入口はあっても、あくまでもイントロダクションで終わっているような気がしていた。もちろん、お互いがその「物語」の深淵について、少なからぬものを共有していながら、『そういう事を話すのは、もう少し時間を置いた方がいいだろう』という直感が、それ以上の二人による共通の井戸掘りの可能性の機会は、遂に訪れないままとなってしまった。
そこで、僕が勝手に想像する二人の「物語」論の共通性について。両者とも、単純な二項対立や、システムという名の日常性を重視していない。村上春樹の小説は、現実という表層のすぐ下に、恐ろしい魑魅魍魎や純粋な悪の世界が跋扈していて、たまたま開いた裂け目から、その悪に引きずり込まれた(=召還された)「僕」が、それとどう闘っていくか、を主題にした内容が多い。これは、河合隼雄氏が「影の現象学」で述べていた、夢の中でどのような事が主題化され、それが生きている日常世界と、その本人の中でどう繋がっているのか、についての考察と共有する部分が高い。共に、自分がコントロール出来る範囲の自我だけでなく、その背後に拡がる広大な自己の世界を描くため、負のエントロピーの高い統制されたシステム的物語からは、かなり逸脱している。だが、それだからこそ、太古の神話性とも共通する普遍性が高く、両者とも日本語話者以外の広い世界でも読者を獲得している、とも言える。つまり二人とも、日本語というエクリチュールに依拠しながらも、その文体や話法に限定されない普遍の深みに、物語という方法論を通じて降りたっているのではないか。
さて、この考察が正しいのかどうか、はわからない。だが、村上春樹と河合隼雄の両氏は、膨大なテキストをアウトプットしている。村上春樹氏は、これからも出し続けてくれるだろう、と、ファンとしては期待もしている。だがその一方で、僕は二人の物語論を受け、僕自身が抱く影や悪、システムについて考えながら、自分なりの物語を描き出せばいいんだ、と少しずつ思い始めている。偉大な二人の先達から受け継いだ(と勝手に思いこんでいる)バトンを、僕という個性を通じて、どういう形で表現していけばいいか。それを、いつまでも先達に甘えているのではなく、自分ならどう書くか、を考えたいと思い始めているのだ。
日常世界を大過なく過ごすために抑えつけていた蓋を開け、心の中での「流動性」を取り戻し始めて、はや一年半。日常世界と少しずれたところで、沢山の事を感じ、考えてきた。それが、少しずつ、シントピカルに繋がっている。また、関連性を、自分の中で見出す中で、今、この本と出会う意味や必然性(=妄想?)が、以前より強まっている。
連ツイの最後の言葉が、今日の締めくくりにもピッタリだ。
「そろそろ、自分の風向きも変わってきたのかもしれない。」

取り戻し、産み出そうとする予感

物語を書き始めようとしている。

といっても、小説ではない。ある一つの主題を巡る、大状況と個別具体の人々の交錯関係を巡る物語。年明けから、少しずつそのテーマが響いている。そのことを何人かの同僚にお話しすると、関心にピッタリとあう本をご紹介下さる。たまたま手にとって読み進める本が、「ストーリーテリング」の方法論や、あるいは分析の視座を構築する際、非常に役立つ何かだったりする。
セレンディピティ
偶然性の産物。単なる錯覚、なのかもしれない。もともと向こう見ずな表面と、どこかで手堅さを求める深層の二面性を持つ自分にとって、深層の自分は表層を抑圧的に見てきた。それが、良い意味では抑制と自己統御になり、悪い意味では偏見や囚われ、ともなっていた。
昨年の途中当たりから、そのシャッターを下ろす防御機制の水門を、開け始めた自分がいる。様々な流れが、一気に体中に流れ込み、一時は溺れそうになりかけた。心がかき乱されるとはこういうことか、と実感したこともある。だが、徐々にその水圧や、新しい流れとも、うまくフィットするようになってきた。
新たな流れを受け止め、日常の自分に戻った時、これまで自分が死蔵していてすっかり忘れていた様々なパーツがくっつき始めている。今まで「関連づけ」というものは、表面的には意識していたが、学問的なルールに従う事が「適切な身振り」であると無意識的に感じ、あまり旺盛な「関連づけ」をしていなかった。だが、「遠い太鼓」がなっているなら、その通層低音に耳をそばだて、とにかく音の出る何かを探り当て、論倫的にどう繋がるかの前に、感覚としてまずくっつけてから考えてもよい、と思い始めた。論理より直感を大切にし、自分のテーマに大切にしよう。そう思えば、いわゆる「守備範囲」から外れる、と外形的に思われる本であるか否かは全く関係なく読んできた。
そして、その経験を重ねていくうちに、少しずつ、物語として何かが書きたい、というイメージを強く持ち始めた。それはちょうど村上春樹氏のインタビュー集を読み終えた頃から、明前となり始める。僕にとって、村上春樹氏の著作全ては、自分の人生の中で、かけがえのない何かであるとこは間違いない。折に触れ、何度も読み直している。だが、まさか彼の作品を読んで、自分も物語が書きたいと思うなんて、想像だにしなかった。
だが、彼が物語の創作の秘密を語るインタビュー集の中で、物語作成について、深い井戸を掘り、何らかの普遍(それが純粋な悪という形態を取る場合が多い)とアクセスする「僕」の物語を書き続けた著者の、普遍とのアクセスについての物語創世記から、強い影響を受けた。そう、井戸を掘って、私という個性を通じて、普遍の魂にアクセスする。それなら、僕にだって出来るし、確か以前掘った井戸がある。その井戸は、博論を書く混乱の中で、8年前に掘り終えて、そのまま放ったらかしてある。今、その井戸を模倣するのではなく、もう一度新たな気持ちで、一から掘り直してみたら、色々なものと出会えるのではないか。
そう思い始めると、読書においても、様々なものがシントピカルに見えてくる。多分、書きたい物語が具体化・前景化し始めたので、それとの「関連づけ」で様々な本と接していることが、大きな理由だと思う。まるで探偵であるかのように、様々な断片をつなぎ合わせて、推理の仮想実験をしていく過程。ボンヤリとした枠は決まったものの、その内実はまだ、謎だらけ。ゆえに、一つ一つの断片が、パズルのピースをつなぎ合わせるような楽しさ。
今朝書いているこのブログも、こんなことを書くとは全く思っていなかった。そもそも、普段のこのブログは、他人のテキストと対話しながら、考えあぐねがら、1時間とか2時間かけて書く、というのが定番だった。たった半時間も経たないうちに、わーっと自分の想いをまとめていく、というスタイルのブログではなかった。
そういう意味では、昨晩飲まなかったので、久しぶりに河井隼雄氏の『陰の現象学』を何となく読み直し始めた影響が大きいのだと思う。これも自分はまだ学部生だったころに確か読んだきりだった。あのころの記憶は全く忘れているが、多分すごく難しく感じながら、読んでいたのだと思う。一回り以上たって、今の自分は違う読み方をしている。それだけでなく、あのころより色々な形で、自分の今と「関連づけ」を意識化出来ている。お勉強として学ぶ、のではなく、アクチュアルな自分の課題と関連づけながら、読み進めている自分がいる。そうして、その影響を受けて、このブログで、表面上の取り繕う自分の水門を文章でも外して、とにかく感覚的に書き飛ばしている自分がいる。そして、書き飛ばしてみて、案外面白く繋がっていくことに気づいている自分もいる。
別にシュールレアリズムやオートマティズムではない。確実に僕の意識は文章に関与している。
これに関連して、思い出したことがある。もう10年以上前の大学院生の頃、人生が八方ふさがりになった時期があった。その頃、僕の言動によって、様々な方々に多大な迷惑をかけてしまった。それまでは、今よりも遙かに勝手なほら吹きが多かったが、その反面、文章も伸びやかに、というかある種の無知な純朴さで、感覚的に書き飛ばしていた。その中に面白さの断片があったようで、あるミニコミで何度か連載を持たせて頂く事もあった。だが、僕の中では衝撃的なその事件以後、感覚的な側面で書き飛ばす、という事を、見事に封印した。蔵の奥底にしまい込んで、重くて厚い扉をしっかりと閉め、出てこれないように閉ざした。
封印と言えば、もう一つ思い出すのは、昔、僕は小学校時代からラボという英語教室に通い、そのテープを繰り返し聞いていたので、ヒアリングも発音も、割と出来ていた。だが、中学の塾に通い始めた時、過度な巻き舌が、周りの仲間の嘲笑の的になった。それ以来、僕はその巻き舌を封印し、以後月並みなジャパン・イングリッシュ使いになったのを思い出す。今、その封印を解いてもよいと頭で分かりながら、巻き舌が使えない自分がいる。
そう、過去に封印したものは、それを解いてもよい、と思っても、なかなかその封印は解かれない。自分にかけた呪縛は、ほどけるまで時間がかかる。だが、もしかしたら感覚を重視させた文章を書く、という事は、今少しずつ解凍され、その書き方を思い出しつつあるのかもしれない。ただ、以前とは全く同じではない。論理の規制というか伴走者がいる。その伴走者と共に、でも直感的に魂が、僕の個性という乗り物が感じる事を、書き出してみて、見知らぬ「あなた」へとアクセス出来ないか。その手段として、ある物語を書くことが出来ないか、と感じている。
そろそろ始まりの時なのかもしれない。

「厳しい自律」ゆえのハイパフォーマンス

前回のエントリーのタイトル、「魂がわたしにおいて考える」というフレーズが殊の外気に入ったので、そのままエントリーをせずに2週間たってしまった。

このようなエントリーをすると、「宗教臭い」「精神世界系にイッてしまったのでは?」「科学的手続きを無視しているのか」などという批判があるかもしれない。以前の僕なら、そういう「世間の目」を気にして、あまりブログでもそういうことは書かなかった。だが、「正しく考える」とは何か、を終生考え続けていた池田晶子さんの著作を読み直す中で、そういう表層的な批判ではない、本質的な何かを、このフレーズを通じて学びつつある自分がいる、と改めて気づかされる。
「普遍を経験する個人固有のやり方、それが個性である。もし小林の言葉が、己の個性を主張するためのものであったなら、なぜそんなものが他人に感動をもたらすことが可能だろう。彼の言葉が彼の個性によって、われわれの普遍に触れている、われわれの心は敏感にもそれを感じて、それに感動を覚えるのである。感動とは、生もしくは心が、自身に深く触れたときに生じるわななきのようなものだろうか。」(池田晶子『新・考えるヒント』講談社、p107)
小林秀雄の「言葉」を用いながら、別の観点から同じ事を照らし直す池田晶子という作家の力量が存分に現れている一冊。7年前より、今の方が滋味深く感じられ、読み直す中で様々なエキスを頂く。その中でも、もっとも今回グッときたフレーズが上記の中でも、特に次の一節。
「普遍を経験する個人固有のやり方、それが個性である」
たった一行で本質を突いている。そう普遍という魂は、私という個人固有のやり方を通じて、現前に現れる。だからこそ、「魂がわたしにおいて考える」=「個性」でもある、といえよう。その時、考えられた言葉は、個人というビークルに乗って運ばれてくるが、「彼の言葉が彼の個性によって、われわれの普遍に触れている」からこそ、受け手側も「感動を覚える」のである。
更に続けると、この個性とは、決してエゴや自己主張の類ではない。「私」の存在証明や自己顕示欲の陳列をしている限りにおいて、自分の殻の内側の壁を越えることが出来ない。そう言えば養老孟司氏はそれを「バカの壁」と言っていたような気もするが、その時代のドミナントストーリーを鵜呑みにして、それに無意識に依拠しながら他人の悪口を言って糊口をしのいでいる「評論家」にこそ、まさにその壁が当てはまる。更に言えば、全てを唯脳論的に語りながら、実は私を越えた普遍にアクセスする氏の語り口は、あれはあれで「普遍を経験する個人固有のやり方」という意味での「個性」なのだと思う。
すると、ここで月並みな、でも僕自身にとってはアクチュアルな問いが、回転して突き刺さる。
「タケバタ自身の発言は、『私(=エゴ、自己顕示欲、バカ・・・)の壁』を越えているのか、個性といえる何かなのか?」
現在はどうか、は後になって振り返ってみないとわからないが、残念ながら自信を持って言えるのは、20代後半までは、特にこの壁の中でもがき苦しんでいたような気がする。
きちんと考える事が出来ず、単に焦ってばかりいた20代後半。大学院生という不安定なポジションで、ひたすら声高に、わあわあ叫んでいた。「○○は間違っている(オカシイ、変だ、ダメだ・・・)」と口泡飛ばして力説している時、実は「そう主張(査定)している私こそ正しい」と言う事を、他人に認めてもらいたくて仕方なかったのかもしれない。そういうゆがみ・ひずみは、男子より女子の方が直感的に感知しているようで、とある年上の研究者から「元気だけはいいね」といつも皮肉を言われていた。力説の内容よりも、その口調への皮肉に終始する彼女に、内心すごく腹立たしかったが、それは彼女が僕自身の内容の薄っぺらさが形式に現れていることを、直感的に指摘してくる事に、耐えられなかったから、かもしれない。つまり、自分の歪みが、自分の発言に全面的に現れていたのだ。そりゃ、喋れば喋るほど、他人は説得されるどころか、拒否的反応を示すのも、実に真っ当だ。そうやって、悪循環のサイクルに陥っていた。
その悪循環から、どうにかこうにか抜け出せた(と思いこんでいるだけかもしれないが)のは、おそらく30代で大学の教員になってから。ブログを通じて、ずっとこの「査定者の無謬性」問題を考え続けてきたのも、大きな助力にはなっている。だが、それよりも大きかったのは、大学院生の頃は「参与観察者」という傍観者の立場だったのだが、それ以後の現場では、アドバイザーなどのより踏み込んだ形で関わるアクション・リサーチ的立ち位置が求められるようになった、というのも多い。簡単に言えば、「高みの見物」という名の「傍観者的批評家」では済まされず、現在進行形の何かにアクチュアルに関わる事が求められ始めたのだ。その時、言葉の責任と重みを改めて再認識させられると共に、軽い言葉では現場では全く通用しない事、いい加減な言葉使いや態度では現場を荒らすだけでまとまりが付かないこと、正しい言葉できちんと伝えることが出来れば現場の変容に役立つこと、などを、体験しながら学んで来た事が大きいと思う。
現場の変容の支援とは、一言で言うならば、その現場の雰囲気を正確に掴んだ上で、そこに作用するゆがみやひずみを突いて、ダイナミズムを変容させる、という仕事だと思う。その際、自分のこれまでの経験や先入観という「私」に左右されていては、決して現場のリアリティに届かない。自分の枠組みを相手に当てはめたところで、何の解決も産まないどころか、返ってゆがみの肥大化に寄与してしまう。百害あって一利なし、になりかねない。
その際求められるのは、まずはひたすら虚心にその現場の声や雰囲気を感じ、聞くことだ。そうしてチューニングが合った段階で、第三者である僕からみて、その現場に共通する論点を整理して伝えること、これがどうも「普遍を経験するタケバタ固有のやり方」であり、タケバタの「個性」であるようだ。この癖をうまくつかみ、現場で素直に活かす事が出来た時、思いもしなかった展開の中から新たな可能性が見開かれる。逆に、焦ったり、偏見の眼鏡で曇っていたりして、きちんと耳をすましたり、五感をとぎすませることが出来なかったら、出来合いのストックフレーズを押しつけて、その現場でのセッションは全く実りのないものになってしまう。
そういう経験をしているからこそ、次のフレーズは実にアクチュアルな内容として、僕にも響いてきたのだ。少し長いが引用してみる。
『「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。
「なまもの相手」というのは、要するに「こういう場合にはこうすればいいという先行事例がない」ということだからである。
どうしていいかわからない。
どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。
そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。
どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。
それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。
私が知り合った「理系の人たち」はどなたもそういう「なまの現場」に立っている方たちである。
現場にとどまり続けるためには「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要である。
そのことを先端研究にいる人たちはみんな熟知している。」
(内田樹ブログ 『特殊な能力について』
私は内田氏が挙げているような方々と肩を並べられる実力では、勿論ない。だが、この「『わからないはずなのだが、なんか、わかる』という特殊な能力」というのは、強く同感する。単なる妄想なのかも知れないが、僕も現場の方々との共同作業をやっていて、たまに『わからないはずなのだが、なんか、わかる』という経験をする。そして、その予期は、大体において外れることなく、ピタッとあたる。自分の認知の歪みや理論などに盲目的に支配されず、現場の風が意味するところを体得し、その流れに抗うことなく、でも適切に棹することが出来ると、全く予期しない場所まで気づいたら運ばれていることもある。そういう経験をしているからこそ、その後に書かれている内田氏の分析にも、鳥肌が立ってしまった。
『だから、その「特殊な能力」をどうやって高いレベルに維持するか、そのことに腐心する。
先に名前を挙げた方たちのふるまいをみていると共通点がある。
それは「やりたくないことは、やらない」ということである。
これは領域を問わず、先端的な研究者全員に共通している。
やりたくないことを我慢してやっていると、「わからないはずのことが、わかる」というその特殊な能力が劣化するからである。
どうしてだか知らないけれど、そうなのである。
だから、自分に負託された使命が切迫している人ほど「特殊能力の維持」のため
に、さまざまなパーソナルな工夫を凝らすようになる。
池上先生が水に潜ったり、三砂先生が着物を着たり、池谷さんがワインとクラシックにこだわったり、茂木さんが旅したりするのは、それぞれのしかたで「そうすると、自分の特殊な能力が上がる」ことがわかっているからである。
別に趣味でなさっているわけではないのである。
「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たちは、だから総じていつも上機嫌である。
上機嫌であることが知性のアクティヴィティを(「おめざ」のあんこものと同じくらいに)向上させることを彼らは知っているから、「決然として上機嫌」なのである。
オープンマインドとハイ・スピリット。
これが知的にアクティヴな人の条件である』
(内田樹、同上)
この中でも最も気に入っているのは『「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たち』というフレーズだ。一見すると、「やりたくないことは、やらない」というのは、ワガママに見える。この高度資本主義社会は、このテーゼに「ワガママ」という強固なタグを付けて、人々を飼い慣らしてきた。また、そうやって他律的に支配されて、マニュアル的に働いている方が、「やらない」という自律的判断を選び続けるしんどさ、断る面倒くささ、その後のコンフリクト・・・を考えるより、ラク、なのである。だからこそ、「やりたくないことは、やらない」というのは、「厳しい自律のうちにある人たち」しか出来ないのだ。
これを逆から考えてみよう。「やりたくないことをやる」ということは、マインドセットを呪縛される、ということでもある。他者の呪縛的な言葉に表面上従って、中身では反発している身体は、そのアンテナの感度を下げ、無神経・無痛状態になることで、どうにかこうにか、日々をやり過ごす。すると、考える事自体が毒になってしまうので、やがて「こんなもんでいいか」と投げやりになり、身近な安逸に専心し、その先の何かを目指そうとしない。ゆがみやひずみも、「仕方ない」と自分の中に死蔵させ、そのままにしてしまう。すると、「確定的にわかる範囲」以外の何かのセンサーも切れてしまい、狭い範囲で自閉的な繭にくるまれたような日々になってしまう。これが、「やりたくないことを我慢してやっている」ことの代償だと思う。その代償を払っても、世間の中では浮かない、という日本の風土に土着的な「疾病利益」が大きいからこそ、なかなか「やりたくないことをやる」呪縛の外に出るのは、特に日本においては大変だ。
だが、僕も30代になってから少しずつ、特に昨年の変容の後から大胆に、「やりたくないことは、やらない」という実践を積み重ねつつある。そうすると、実に体内の風通しもよくなり、従来の固い頭(=固着した精神)では受け容れられなかった様々な新しいアイデアも、すっと身体に馴染み始めている。その中で、自己主張や自己顕示欲がだんだん狭隘なものに感じられ、その先にある「わたしを通じて考える」「魂(=普遍)」へのアクセスを志向するようにもなってきたのだ。そして、その「魂がわたしを通じて考える」営みを生の現場で続けてみると、「わからないはずのことが、わかる」瞬間が、どうも増えてきたような気がするのである。
さて、この気づきからどう展開していくのか、僕にはさっぱりわからない。だが、「決然として上機嫌」というのは、これまでも、そしてこれからはなおさら、大事にして行きたいと思う。

「魂がわたしにおいて考える」

僕はフランス語が読めない。だが、最近読み囓っているものが、どうもフランスにご縁があるものが多い。そういえばある人がツイッターで僕が愛読する内田樹氏の文章を「おフランスな」と言ってたっけ。そんなミーハーな理由で手に取った一冊で、しびれた。
「ランボーは誰もが素朴に信じてきたこの図式に根底から異議を申し立てる。私たちは当然のように、考えているのは自分自身であると思っているけれども、このことはそれほど自明の事実だろうか。『私』という主語と『考える』という述語の関係は、それほど堅固でゆるぎないものだろうか。もしかすると、デカルトにならって『私は考える』というのはまちがいではないのか。むしろ私たちは、『人がわたしにおいて考える』というべきなのではあるまいか。」(石井洋二郎『フランス的思考』中公新書 p104)
「人がわたしにおいて考える」というフレーズは、ランボーが詩人になる直前の10代に、恩師の先生に送った書簡の中に記されていた有名な言葉だという。僕は、ランボーの名前だけしか知らない無教養な人間なので、もちろんこのフレーズは知らない。だが、ランボーを『フランス的思考』に含めた著者の石井氏によれば、この本で取り上げるランボーやフーリエ、サド、ブルトン、バタイユ、バルトの6人には次のような特徴があるという。
「彼らはいずれも反合理主義・反普遍主義の地下水脈から養分を吸い上げながら、それぞれ独自のしかたで豊穣な思考の地平を切り拓いてきたという点で、同じ一本のヴェクトルに貫かれている。」(同上、p30)
デカルトは、西洋合理主義、心身二元論の祖と言われ、「我思う、ゆえに我あり」というフレーズは僕でも知っている。世の中の事象全てを疑っていっても、この疑いという思考を私がしている、と言う事自体を否定することが出来ない。ここから、精神と肉体を切り離して眺める思考が生まれ、やがては神の摂理に果敢に挑む物理法則の発見というタブーも、肉体に代表される物質の客観性という視点の中から生まれてきた。だが、その「私は考える」ということに対置して、ランボーは「人がわたしにおいて考える」というのである。しかも、石井氏はフランス語の原文を検討しながら、ランボーの言う「人」について、次のように推察する。
「日本語やフランス語といった個別の言語は、私たちが誕生したとき、すでに無条件の前提として与えられていたものであって、けっして固有の人格に属するものではない。つまり、それらはあくまでも私たちにとっては純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』である。そんな言葉を通して紡ぎ出された思考が、どうして『私』という個人のものでありえよう?」(同上、p105)
「人」とは「私」という個人ではない、「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」である。ではこの「外部」や「他者」とは一体何なのか。筆者はランボーの次の一節を引く。
「多くの個我主義者(エゴイスト)たちが、自分を作者だと表明しています。またみずからの知的な進歩を自分のものにしてしまう個我主義者たちも、他にたくさんいます。-しかし重要なのは、魂を怪物的なものにすることなのです。」(同上、p111)
個我主義者=エゴイストを「私」と捉えた時に、それに対置するものである「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」として「魂」を用いる。この時、私の予感は核心につながった。「ランボーってあの人と同じことを言っている」と。
「『意識』の語と、<私>の語が、どうもうまく重ならない。『私の意識』という言い方が腑に落ちない。『私は意識』というのも変である。<私>の語がどうしても宙に浮く、どこにどう押し込めてみても、『意識』の語からはみ出してしまうのだ。『私の意識』と『言っている』その当のものを、どうしても名指せない。これは、どういうことなのだろうか。誰でもない意識は、<私>の語を『言う』ことで、誰かではない<私>となった。しばらくは、そう考える事で納得しようとしていたのである。<私>というこの奇怪な一単語、こんなものが宇宙の辞書に存在することが変なのだ、と。しかし、あるとき、<魂>の語が来た。おそらく、『言葉の魂の力』によってここにきた。それは、ピタリと、ここにはまった。
あ、納得-。
深い、納得。『なぜ』納得なのか、この事態の意味を、私は見究めてみたいのだ。全てを認識する誰でもない意識が、にもかかわらず誰かでない<私>であるのは、それが、<魂>だからである。」(池田晶子『魂を考える』法蔵館,p35-36)
そう、「人がわたしにおいて考える」というのは、「魂がわたしにおいて考える」とすれば、ぴったりと収まる。「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」である「魂」は、「わたし」において考えることで、他者と私の出会いが起こり、一人の中で思考として定着する。これは「みずからの知的な進歩を自分のものにしてしまう個我主義者」のエゴイスティックな所作とは逆ベクトルで、「わたし」が「絶対的な『他者』」という「世界」とつながる経験でもあるのだ。だからこそ、「堅固でゆるぎない」ものとされてきた「主語」と「述語」の言語的結び目の強固さを解き放たれ、世界と直接的な対話がはじまるのである。
僕が西洋哲学の古典に齧り付こうとしては挫折をし続けていたが、池田晶子氏の作品だけは自分の中で染み渡るので、ほぼ全て読み続けてきた。そして、彼女もそう言えば小林秀雄を通じてランボーのことを書いていたな、とも思い出す。冒頭で挙げた内田樹氏も、哲学の主題を非常に染み込む言葉で伝えるので読み続けてきたのと同様だ。すると、内田樹氏や池田晶子氏も、「反合理主義・反普遍主義の地下水脈から養分を吸い上げながら、それぞれ独自のしかたで豊穣な思考の地平を切り拓いてきた」という点で、フランス的思考、とラベルをつけていいのかどうかは置いておくとして、一本の線の中で繋がっているような気がする。内田氏のブログの言葉を借りれば両人とも、「コロキアルでカジュアルな文体の上に、学術的なアイディアや政治的な理念が乗っている」文章であるから、僕たちにもアクセス可能なのだ。そういえば、内田氏と対談した作家、高橋源一郎氏はこんな風にも言っている。
「内田さんは、その『ものすごく難しいもの』と『みんなが持っている経験』とがつながるような回路を見つけようとしているんじゃないかなと思うんです。」(原武史編『知の現場から』河出書房新社 p28)
そう、池田晶子や内田樹という作家は、哲学・思想を専門とする人には評判が悪い(ようにネットの悪口を見て感じる)。だが、二人の本は普段哲学・思想に手を伸ばさない人にも読まれている。そして、決して「1冊でわかる○○」のように、あんちょこ本のようにレベルは落としていない。でも、面白く、読みやすい。それは口語体という「コロキアルでカジュアルな文体」という「みんなが持っている経験」をベースにしながら、「学術的なアイディア」でかつ「ものすごく難しいもの」が繋がる回路を、文章の中で指し示しているからである。そして、そのことについて、当の内田樹氏が高橋氏との対談の中で、自身の「ニッチ産業」について、次のようなコメントを寄せている。
「そういうわずかな断片的記憶からいろんなものがずるずるずるずる出てくるわけ。コアになるような、きっかけになるような記憶の断片がそこらじゅうに転がっていて、生まれてからこれまでに溜まったそういう記憶の薄片をなめていると、蚕が糸をはくようにそこから想念がずるずると出てくる。
それまで、物を書く人というのは、特異な経験をしたりとか、際立った才能を持ったりとか、ある分野で特殊な才能を持っている人であって、そうではない凡庸な人間は、指をくわえて見ているだけなのかなと、ずっと思っていた。自分も指をくわえて見ている側だなと思っていたんだけれども、あるときにそうではないように思えるようになった。ひとつひとつは凡庸な経験で、何も特筆すべきことなんかないんだけれども、それらの中には何か僕にしか書けないもの、でもみんなと共有できるようなものが詰まっている。」(同上、p27)
決して内田氏が「凡庸な人間」だとは思わないが、でも彼がここで言っていることは、今の自分の問題意識に引きつけて、非常によく分かる。内田樹も池田晶子も、形を変えて、切り取り方を変えて、同じテーマで何度も何度も書いている。でも、その時その時の「凡庸な(=みんなが持っている)経験」の「断片的記憶」を土台として、「蚕が糸をはくようにそこから想念がずるずると出てくる」過程が、そこらの他者のブログやエッセイでは見られない味わいなのだと思う。もちろん単に感想文で終わる事は論外として、それをわかったようなわからんようなジャーゴンでくるんで終わり、とはしない。難しい議論でも、ゆっくり読んで考えれば必ずわかるような明晰さで、一見すると必ずしも明晰には思えない哲学的議論の階段を昇っていくのである。それは文字通り、「ずるずるずるずる出てくる」想念を、論理の糸でつなぎながら、階段として示していく中で、気がつけば「ものすごく難しい学術的アイディア」の核心に降り立っている、とでも言えると思う。まさに、内田・池田両氏のスタイルは、そういう凡庸な中から繰り出される非凡、という世界観の体現なのだと思う。だからこそ、ずっと僕は読み続けてきた。
さらに、最後に少しだけ附言すると、僕自身もそういうスタイルで何かを書きたい、という憧れを、もち始めている。僕は典型的に「凡庸な人間」であり、ずっと「指をくわえて見ている側」だったのだけれど、それでも記憶の断片から関連づけや連関を強める中で、養蚕的な営みとして何かを出していくことが出来るのではないか、と少しずつ感じ始めている。何が書けるのかはわからない。でも、『魂がわたしにおいて考える』なにかを、僕の持っている素材を使いながら、書き進めていくことが出来ないか。その中で、自分がこれまで出合う事が出来なかった「絶対的な他者」と出合える瞬間が来るのではないか。初夢なのか妄想なのか、はたまたビジョンなのか、よくわからないけれども、そう念じている。
追伸:「魂がわたしにおいて考える」というフレーズは、案外僕をどこかへ導いてくれそうな気がしてきた。僕がこれまで書いてきたこと、今書こうとしているテーマ、さらには将来繋げていきたい何か、も、「わたしにおいて考える」内容ではあるが、「絶対的な他者」としての「魂」とアクセスしていれば、タコツボ的学者論文ではなく、何らかの普遍的世界へと、内輪以外の読者へと、アクセス可能な文章になるのではないか、とも