文化相対性と「三角測量」

寝正月、というより、読書三昧の正月を過ごした。

本当は正月休みの間に、とあるところからお誘いを受けた英語論文の書き直しの構想を練ろうと思っていたのだけれど、あまりに年末は疲れ切っていたようで、30日になってふと「もう3日までは大学に行かない!三が日は徹底的に休む!」と決め込んでしまったのだ。それは、本当に正解だった。
今年の年越し本に選んだのは、川田順造氏の一冊。レヴィ・ストロースの訳者によるエッセイという気軽な気持ちで読み始めたら、なかなか味わい深い一冊だった。
「大日本帝国の滅亡後の新しい教科書が、まだ出来ていなかった秋の新学期には、国語や歴史の教科書の何頁何行目から何行目まで、墨を塗りなさいという、教壇の上からの先生の指示にしたがって、教科書に習字の筆で墨を塗る、いわゆる『墨塗り体験』もした。こんな素晴らしい道徳教育はなかったと思う。(略) 墨を塗りながら、子ども心におもしろく思ったのは、新聞雑誌の訂正広告と同じで、ああここが具合が悪くなったのだなと、かえってはっきり分かり、印象づけられることだ。同時に、墨を塗ればなかったことになるというのも、なんだか不思議だと思った。これはやはり、『文字に記されている』ということに、異様な価値を与える文化が生む思考であろう。(略)文字に書かれたことにこだわりすぎるのは、文字をそのまま反映して考え、動く主体性のないロボットのように、生徒をみなすことに通じかねない。」(川田順造『日本を問いなおす』青土社、p27)
「墨塗り体験」というのは、あるレジームで是とされたことが、別のレジームでは非とされること。旧体制から新体制へと移行する際に生じる価値転換に、字を消すいう原始的作業を通じて自分自身もその現場に立ち会う事によって、どの部分が「具合が悪くなったの」かがよくわかる、という経験を川田氏はしている。それだけでなく、「墨を塗ればなかったことになる」という、文字への絶対的な価値観と、逆に文字さえ消せば不問とされるのか、という問いかけを、川田少年へと植え付ける。
「後に大学で勉強するようになってからも、私には、そしておそらく私と同じ『墨塗り世代』に多かれ少なかれ共通して、書かれたもの、権威をもって教えられるものへの根強い不信感がある。その増幅された結果として、『古典』に対する信頼というものを、私は抱けない。」(同上、p28)
これは、僕たちが継承出来ている智慧だろうか?「書かれたもの、権威をもって教えられるもの」を何となく信じ込んでしまう、「古典」をありがたく信頼してしまう。これらの心性は、僕のような30代だけでなく、40代から団塊の世代にかけても存在するのではないだろうか。ある眼鏡(価値観)の偏りを直視し、常に相対的に考える、という視点をどれだけ持てているだろうか。一方川田氏は、この相対的な視点を、文化人類学を通じてより豊かなものにしている。
「アフリカの非文字の世界に魅せられて研究を続け、そこから逆に、人が会うと名刺を交換する日本の文字偏重社会にも存在する、無文字性と声の領域の豊かさに『耳を開かれ』た。」(同上、p28)
川田氏がここで書いているアフリカと日本、声中心と文字中心の対比の中で浮かび上がる文化の価値相対性の論点は、ちょうどクリスマスの頃に読んでいた、別の本と通底する論点であった。
「聴者の文化は『察すること』がキーワードになっている。だから、相手から何か聞かれたときは、その質問意図を理解した上で答えなければならない。(略)ろう者の会話では、イエス・ノー疑問文で何か聞かれたら、必ずイエスかノーで答え、相手の反応を見てから発話を続けるかどうかを決める。もし、イエスかノーで答えられる事柄でなかったら、イエスかノーで答えられることではないということを言うのだ。(略)イエス・ノー疑問文に対して、イエスかノーだけで答える発話行為は、聴者では、その質問に対して不快を持っているとか、答えたくない、ということにもなるらしい。まさに『察する文化』である。聴者のそうした会話のやりとりのしかた(選び方)があることは、頭では理解しつつも、どうしてそんな選び方をするのか感覚的に理解出来ない。(略)でも手話学習者には、ろう者的な会話の運び方を身につけてほしい。手話を身につけても、会話のやりとりが聴者的であったら、ろう者との間で快適なコミュニケーションがとれないだろうと思う。ある言語を身につけることは、その言語の話し手の文化をも身につけることだから。」(木村晴美『日本手話とろう文化』生活書院 p45-47)
日本語を話す文化と、日本手話でやりとりする文化。同じ日本で生活をしていても、手話言語と日本語は全く体系も考え方も違う。だからこそ、木村さんはこの本の副題を「ろう者はストレンジャー」とする。そう、日本語と日本手話は、同じ日本のコンテキストを共有していても、言語が違う事により、「その言語の話し手の文化」も異なるのだ。ただ、日本国内では、日本語話者の方が日本手話使用者より圧倒的に数が多いので、数の論理におされ、その事に気づいている人は少ない。アフリカの無文字文化(=文字を書かない・介さない文化)を、文字文化に比べて劣る、と勝手に線引きするのと同じような暴力性や独断性を、日本語を話さない文化であるろう文化に当てはめていないだろうか。
かくいう僕だって、先月、聴覚障害者のシンポジウムのコーディネーターを引き受け、にわか勉強を始める間では、ろう文化のことをちゃんと理解してはいなかった。そして、川田さんと同じ文化人類学者で、かつろう文化を研究している亀井さんは、手術によって部分的に聴力が獲得出来るかもしれないと言われている「人工内耳」の問題に引き寄せて、この部分を実にわかりやすく、しかし鋭く指摘している。
「自分たちが少数者となり、多数者の幸せを強要される側になったとき、初めてその気持ちは理解できるのかもしれません。人工内耳を警戒するろう者たちのことを『医療の恩恵を拒否する偏屈な人たち』のように見るのは、聴者の立場を一歩も出ていない自文化中心主義の姿勢です。ろう者が受けてきた受難の歴史や、それゆえに共有されている歴史観も含めて、文化全体の中で理解する文化相対主義の視点をもちたいものです。」(亀井伸孝『手話の世界を訪ねてみよう』岩波ジュニア新書 p142)
「耳が聞こえる方が良いに決まっている」という発想こそ、「聴者の立場を一歩も出ていない自文化中心主義の姿勢」である。これは、文字文化の方が、無文字文化より優れている、という発想と同様の自文化中心主義(エスノセントリズム)である。そして、自文化が必ずしも優れているとは限らない、ということは、川田氏が『墨塗り体験』で体感した叡智であり、これは今だって例えばPCの普及や電子辞書が、それまでの紙で書く、紙で調べる、を多いに覆す事態になっていることをみれば、よくわかる。私たちの文化の常識は、それほど脆く、アヤシイものなのに、必要以上にその常識を当たり前と受け止め、それ以外のものを受け入れる柔軟性に欠けているのである。亀井さんや木村さんの本を読みながら、僕自身が如何に日本手話やろう文化の独自性に無知であったか、だけでなく、これまで手話使用者に対して、マジョリティの日本語使用者の立場で、ある種のエスノセントリズム的な視点で接していたのではないか、と文字通り「目が見開かれた」。
さて、川田氏の本に戻ると、彼はフランスで博士号を取り、フランスの職人技術のフィールドワークもしている。また、アフリカのフィールドワークも重ねていて、さらには日本でも職人文化の聞き取りを行っている。この中から「文化の三角測量」という視点を提示する。このフレーズが気になって正月早々取り寄せた別の本ではこのように説明しておられる。
「文化の比較には大別して二つの行き方があると思います。一つは連続の中の比較で、隣接する地域の文化間における伝播、受容、受容拒否など、相互の影響関係を比較によって検討するものです。もう一つは断絶における比較で、私が提唱する『三角測量』の場合ですと、日本、フランス、西アフリカ(旧モシ王国)のように、十九世紀末まで互いに直接交渉がなく、地理的にも隔たった、自然条件もまったく異なる地域で、それぞれの道を歩んできた文化の比較です。第1の連続の中の比較の目的を『歴史的』と呼ぶとすれば、第二の断絶における比較では、まったく異なるようにみえる現象を比較しながら掘り下げることで、その現象の人間にとっての根源的な意味を、比較を通して『論理的』に問うことを目的としている、と言えるかもしれません。」(川田順造『文化の三角測量』人文書院、p129-130)
この「地測の方法から比較的に借用した」(p129)という三角測量は、二者関係からではなく、三者関係から物事の本質(=その現象の人間にとっての根源的な意味)を探ろうという方法論である。実は、ろう文化のことを考えながら、僕がもともとフィールドワークで関わってきた精神障害者の方々の文化の問題を考えていた。フーコーの解説本を読み漁っていたのも、狂気が「文化」から「治療対象」にどう変わっていったのかについて、フーコーがどのようなアプローチで迫っているのか、を知りたかったからである。
改めてこの問題を文化間比較の問題として捉えてみると、様々な疑問が浮かんでくる。例えば、ろう文化のような独自の言語を持つ手話使用者と、幻聴や幻覚、うつなどの独自の感覚を持つ精神障害者と、それらの経験のない日本人の連続性と差異はどこにあるのだろうか。あるいはた、障害者文化と言っても、自立生活運動の文化、知的障害者のピープルファーストの文化やろう文化と、精神障害の文化がどう違うのか、もこの「三角測量」的に見る事が出来ないか。更に言えば、先のブログで「今年の目標」的に書いたノーマライゼーションを巡る問題も、北欧・アメリカ・日本でこの理念をどのように受容したのか、という文化間での三角測量的に眺めることができるのではないか。
紋切り型に文化で図式化することの危うさは勿論一方で理解しながら、また「『文字に記されている』ということに、異様な価値を与える文化」に自分がいることにも意識的でありながら、文化相対的にこれまで追い続けて来た課題に迫る事はできないか。そんなことを、正月読書から夢想している。

正夢になるか!?

明けましておめでとうございます。今年は珍しく夫婦の両実家に帰らないので、山梨でのお正月。移動もないので、のんびりしています。

年末の31日に、思い立って本棚一列分をかなり整理し、100冊以上の本を整理した。読み終えた後、何となく残していた本。以前から興味があって、保存していた本。明確な意識を持って・あるいは何となく買ってはみたけれど、興味のレインジにその後入らずに読まないままの本・・・。色々な経緯があるけれど、今回それを一度部分的にではあれ、バッサリと断ち切る事にした。本棚に入りきらない、という物理的問題だけでなく、他者が評価している本であっても、自分のアクチュアルな関心に響かない本を置いておく必然性に欠ける、と思い始めたのだ。読んでいない新刊本まで売り払うことは心苦しいが、でもそれはその時点での自分心の虚栄心なり物欲を満たしたのだから、それで満足して、読まずに腐らせるより、誰かの目にとまり、お役に立つ方がいい、と方針転換。5袋分くらいが一杯になって、書棚もスッキリした。
本棚を整理しながら、本と向き合う自分の姿勢、も整理していく。
我が家の両親は本を読むタイプではなかったのだが、幼少の頃は「こどものとも」や「かがくのとも」などの児童書を定期購読してくれていたのでいたので、何度も何度も読み返していた。小学生に上がった頃から、図書館に通いルパンや伝記を読むも、偏見や先入観が強いタイプで、新しいジャンルに積極的にチャレンジする、というタイプではなかった。
それでも10代の初め頃、友人のMくんの薦めで、星新一や椎名誠といった作家を知り、やがてエッセイというジャンルにはまり込み、北杜夫を読みまくった中学時代。そのころ、鉄道オタクだったので、「鉄道ジャーナル」という硬派な鉄道雑誌を読み、鉄道政策を知ったかぶりで語っていた。それが高校時代に入ると写真部に入って、毎月買う雑誌も「アサヒカメラ」へ「転向」。一転にわか芸術写真論などをほざくも雑誌経由の「訳知り顔」知識は相変わらず。太宰治も好んで読んだが、虚栄心を満たす為に古本屋に通って読みもしない小説を買ってみたり、友人に勧められたドグラ・マグラや渋澤達彦などをおっかなびっくり読んでみたりもした。このころ近所に出来た図書館を通じて、河井隼雄や山口昌男なんかも囓り始めたことは、以前書いた事もある。森毅先生のエッセイに影響され、一度にジャンルの違う本を何冊も平行読みする乱読を覚えたのもこのころだ。
その後、大学生になってから、人間科学部という場に居合わせたこともあり、社会学や臨床心理学、文化人類学などの本を読み囓り続ける。僕の中で「第一次村上春樹ブーム」というべき時期も丁度このころだった。だが、修士課程から博士課程に進む中で、自分がフィールドにしていた精神障害者の問題に、それも当事者側から見た世界観や、隔離・収容の問題について深く考える為に、フロイトやユングといった精神分析的視点から離れようとした。と、同時に、大学時代から読んでいた神田橋條司や中井久夫などの精神科医の書き物も意識的に遠ざけた。自分が専門家的スタンスで当事者の視点を「わかったつもり」になることの危なさのようなものを皮膚感覚で感じていたからだろうか。こないだ書いたが、フーコーやゴフマンを避けていたのも、同様の危惧を感じていたからである。ちょうどこの時期に、師匠に弟子入りをし始めたときと重なり、全身全霊で師匠の考え方や生き方から学ぼうとしていた時期でもあったので、仕方なかったのかもしれない。博論を書いている時期は、集中出来ないから、と、村上春樹の全作品も捨ててしまったこともある。
ゆえに、ちゃんと本を乱読ベースで読み直し始めたのは、博論を書き終わってから。村上春樹や内田樹などを貪り読みながら、徐々に読む領域を興味に任せてグイグイ拡げていくも、やはり格段に買う本が増えたのは、山梨で定職を得て以後のこと。一応の専門である障害者福祉に直接関連する分野だけでなく、福祉組織の改革論に携わったので経営学系にも手を染め、あと地方行政ともお付き合いするようになったので福祉政策や福祉国家論の本も読み漁っていった。また、大学院の講座が、今はもう無くなってしまった「ボランティア人間科学講座」という場に居たので、また授業でボランティア・NPO論を受け持っている事もあって、NGOやNPO、そして最近では社会起業家の本などもあれこれ読み続けて領域を拡げてきた。
それが大きく変化したのは、何度も引用しているが、昨年の3月の香港での読書体験ぐらいから。一言では言えないが、アクチュアルな問題意識として、活字をダイレクトに受け止め、生きる思考として自分の経験の中に投射し始めた事が、大きな変容に繋がりはじめた、とでも言えようか。「魂の脱植民地化」というフレーズとの出会いも重なって、自分の社会を見る眼が急激に変容し続けた昨年であった。ゆえに、以前と比べても、爆発的に本を読む・買う量が増え、ジャンルも増殖していった。それが、書棚に本が入りきらない最大の原因とも直結している。
だが、上述のように、単に本の量が増えただけでなく、「そろそろ本を書きたい」という思いが強くなって来ているのも、また事実である。本の一節を書いたり、編者を務めた事はあるが、自分だけの単著を出した事はない。通例では博士論文を一冊の本にする人が少なくないが、僕のはまだ本に出来ていない。博論を書いてから7年間、結局、その問題を様々な角度から掘り返し続けていた(ということもブログに書いてましたね)。そして、先のブログにも触れた安冨先生の論文なども引用しながら、まもなく出るある学会誌に、ノーマライゼーションをテーマに一本論文を昨年書き上げた。この辺りから、ぼちぼち思い始めたのだ。この物語を、もう少し究めないと、と。
このノーマライゼーションという理念については、博論のタイトルの一部にも使わせて頂いただけでなく、日本でこの理念を広めた第一人者のお一人である河東田博さんから直接学ばせて頂いたり、あるいはその後河東田さんとのご縁でスウェーデンで調査研究をするテーマの一つにもなり、スウェーデンでは実際、ノーマライゼーションの「育ての父」とも言われるベンクト・ニィリエさんから直接薫陶を受けるチャンスもあった。またその後、立教大学の「ノーマライゼーション論」も教えさせて頂いたり、とご縁を頂き続けている。その事について、エッセイのようなものも書いた事はある。だが、年末に本棚を整理する中で、ふと、ノーマライゼーションを巡る物語であれば、これまでの自分が乱読してきた本の素材も使いながら、もっと奥深くまで論として辿れるのではないか、と思い始めている。
北欧とアメリカ、日本での「ノーマライゼーション」という理念の受け止め方の違いと、その背後にある文化の違い。あるいは、知的障害の支援者・家族を中心に広まったノーマライゼーション概念と、それを乗り越えようとした自立生活運動・障害学の流れを組む身体障害者との文化間格差。入所施設でのノーマライゼーションもあり、という「日本型ノーマライゼーション」なる異文化受容と変容。これらの主題(図)を、国同士の、障害者と健常者の、あるいは三障害の文化間格差という枠組み(地)で捉えられないか、と思い始めている。
今年、どこまで追いかけられるかわからないが、何とかこのテーマで本になるまで登り切ってみたい、と思っている。有言実行とばかりに、壮大ではありますが、今年の具体的目標として、書いてみました。正夢になれば良いのですが・・・。

年末進行モード

ようやく昨日あたりから、やっと年末休暇らしくなってきた。

月曜火曜と二日連続東京出張&忘年会というハードなスケジュールも終わった昨日、遠方より友来る。昨年同様、年末に山梨まで遊びに来てくれた友人を、「ほうとう+鳥もつ煮+馬刺し」という山梨3点セットでもてなした後、甲府盆地を望む温泉でじっくり昼風呂を浴び、その後我が家で午後3時頃から昼酒のスタート。途中で奥様も参戦し、アペリティフの果実酒からビール、ワイン3本と飲みまくりながら、しゃべり倒す。彼とは9ヶ月ぶりの出会いなのだが、昨日の話の続きのように話し続けていたら、もう最終のあずさの時間。また来年!と送り出した。
そして今日は文字通り年末モード。昨日の宴の大食器洗い大会をした後、チゲ鍋の残りを朝からつついて、近所のスーパーに。ここのスーパーはお総菜も美味しいのだが、おせち料理の具材もバラバラに小売りしてくれるのが嬉しい。この冬はちょっと働きすぎたので実家に帰る事を諦め、休養モードのわが夫婦は、どちらもおせち料理を作った経験はない。しかも奥様はあまり煮染めは好みではない。個人的には京都出身の人間なので、棒鱈が食べたいなぁ、とも思うが、わざわざ取り寄せて作るほどでもないな、と思い、そのスーパーでとりあえず、数の子や黒豆などの定番品をいくつか買い込む。その後、別の大型店舗のスーパーで刺身やカニ、すき焼き用の肉など、これもまた正月的なラインナップの買い物をし、その後、本屋と酒屋でそれぞれ買い込んで、ついでに蕎麦屋で年越し蕎麦も食べて帰宅。もう明日から三が日まで、外に出ないぞ!と決意。年末年始はノンビリ過ごすのです。
今、年賀状を印刷しながら今年を振り返っていたのだが、僕自身、ものすごく動きが多い一年だったなぁ、と思う。あずさ回数券、って、そう言えば昔は3ヶ月以内に使い切れなくて文字通りの「持ち腐れ」をしたこともあったのに、昨年あたりからは2ヶ月に一度程度になり、今年は一月に一度では済まなくなる。6枚綴りの回数券なので3往復。一月で東京に三往復以上していると、流石にくたびれる。今月は7往復・・・。二回も買っていたのですね。そりゃあ、くたびれる訳だ。それ以外にも、12月には三重に二回、大阪に一回出かけているし、文字通りの「流浪する民」。
このように、動きが多いのは、単なる物理的移動だけではない。ようやく今頃になって、様々な物事への興味関心のレインジが爆発的に拡がっているので、それに応じて爆発的に本を買いまくっている自分がいる。読み切れていないのではあるが、多分去年よりそれでもどん欲に吸収しようとしている。見えている範囲の狭さに気づき、もっと広い世界の中へと漕ぎ出したい自分がいて、こわごわとではあるが、リミッターをかけずに、飛びだそうとしている。そういえば職場の同僚の先生が仰られた事が忘れられない。「私たち大学教員は、大学での研究と学務のお勤めさえ果たせば、それ以外に研究する自由を与えられているのだから、どん欲にやりたい事をやらないと」。本当にその通り。その自由を、「○○すべき」という外的規範で縛っていたのが、今までの自分だった。そして、その外的規範を内面化して、出来ない事の言い訳にしていた。でも、今気づいてみると、その言い訳に基づいて、自分が出来ない事を正当化しているのだから、マッチポンプ的言説。その呪縛から自由になれば、今からでも新たな地平へと漕ぎ出せるのだ。
どこに行くのかは、わからない。でも、何らかの自分なりの作品をそろそろ産み出したい、と願う自分を最近ジワジワ感じている。それが論文なのか、エッセーなのか、単著なのか、未だよくわからない。だが、一皮むけつつある今だからこそ、書けそうな事、書いておきたい事。そのデッサンを、年明けから出来ないか、と夢想している。そのためにも、この正月はたっぷり寝正月で英気を養わねば。
最近のブログは引用とそこから触発されたリプライ、という、学術的形式にゴリゴリと傾いていたきらいがあった。少し来年は、もう少しタケバタ的な論を、引用に引っ張られずに出してみようかな、と思っていたりする。読んで下さっている皆さんからも、「小難しい」というおしかりを受けた。今まで、このブログは自分の閃きと備忘録、考えの整理の場だったが、少し読者をイメージした文章も書けるように、来年はちょびっと方向転換してみたいと思います。
というわけで、明日ブログを書くかわからないので、皆さんよいお年を!

「内的説得力のある言葉の関係」へ

今年もあと10日。日々、怒濤のように過ぎ去っていくうちに、早くも年末。

最近、何かしらもう一枚の皮が剥がれかけようとしているようだ。それは、なんて言えばいいのかわからないが、便宜的に「世間を見る意識・世間から見られる事についての意識」の変化、とでも言ったらよいだろうか。
中山元氏のフーコー解説本を「フーコー入門」(ちくま新書)→「生権力と統治性」(河出書房)→「思考の考古学」(新曜社)と読み進める中で、フーコー的思考の面白さと共に、自分の物事を見るスタンスとの異同についても考え始めている。その時代に「見えていた常識」と、その常識の範囲外にあって「怪物的なもの」とされた非常識。その時代の理性の範囲内で回収出来なく、排除されていた視点。フーコーはそれを過去に振り返り、確認する中で、見えていなかった過去と対比する形での現在を形づけようとしている。このフーコーの仕事を丹念に翻訳し、わかりやすい日本語で紹介して下さる中山元氏の著作に導かれながら、考え込んでしまうのだ。「はて、この世界と僕はどのように結びついているのだろうか」と。
狭い範囲における専門、と言うならば、一応は障害者福祉政策や社会福祉学や福祉社会学、NPO論などの範囲をうろついている。だが、それらのテーマについても、決して学びが盤石ではないなかで、思想系の海に、35にもなって、今更飛び込んで行くことについて、ためらいや不安は勿論ある。だが、こないだの同窓会で出会った、学生時代からみすず書店と岩波文庫を持ち歩いていたFくんが、何気なく語った一言が僕の中では忘れられない。
「30代になって、読める内容もあるしなぁ」
そう、教養として20代に哲学・思想にチャンレジしようとして、いつも挫折していたのは、翻訳書が難しい、というだけでなく、自分にとってアクチュアルな関心として迫ってこなかったのだ。だから、池田晶子氏や内田樹氏のような、よい媒介役が書いてくれた内容は理解出来ても、その向こう側にいるヘーゲルやソクラテス、フーコーやレヴィ=ストロースにまでは、到底辿り着けなかった。自分の中でのアクチュアルな問題意識と、先達の哲人達の世界が、重なる事は殆どと言ってなかったのだ。だが、最近それが少しずつ変容し始めている。
そのことを説明するのにうってつけな整理の枠組みを、こないだ読んだ。
阪神・淡路大震災以後の被災者の語りや防災活動をアクションリサーチとして追い続けている矢守氏は、その著作の中で、バフチンの理論に依拠しながら、非常に興味深い整理をしている。
「たしかに、被災者たちが切々と語る体験談は、『権威的な言葉』から遠いように感じられるかも知れない。しかし、(略)『権威的な言葉』とは、権威的な内容をもった言葉ではないし、通俗的な意味で社会的権威をもつ人が発話した言葉でもない。それは『ジャンル』間に結ばれる権威的な対話的定位のもとで発される言葉のことである。したがって、語り部の言葉が、<被災者の方の貴重な体験談>として一方向的に、かつ一度きりに語られるとき、それは、侵しがたい『権威的な言葉』と化していた可能性が十分にある。だから、それは無条件の是認(『みなさんの気持ちがよくわかりました』という感想)か、無条件の拒否(『私たちが求めていたのはそういう種類の話(『震災の語り』)ではないのです』という反応)のいずれかを将来しているのだ。」(矢守克也『アクションリサーチ-実践する人間科学』新曜社、p127)
これは「被災者の体験談」を、「学校で体験談を語る障害者」と変えても、ほぼ同じ問題性がある。語る者自体に「社会的権威」があろうがなかろうが、障害者と健常者という「『ジャンル』間に結ばれる権威的な対話的定位のもとで発される言葉」であれば、その言葉が『権威的な言葉』になる、というのだ。そして、その一方向的・一度きりの「貴重な体験談」という名の「権威的な言葉」であれば、受け手は「無条件の是認/拒否」という二者択一のモードに追い込まれやすい、というのもよくわかる。これは一方向的な「銀行型教育」と、双方向の「課題提起型教育」の違いを明らかにしたフレイレの議論と通底する議論だからだ。(ちなみにフレイレの議論は以前ちょこっと書きました。
そして、フレイレが「課題提起型教育」と示している、双方向な対話というオルタナティブを、バフチンは、そしてそれに依拠する矢守氏は次のように整理している。
「課題解消へ向けた鍵-少なくとも鍵の一つ-は、『震災語りのジャンル』(語り手)と『防災語りのジャンル』(受け手)との権威的な対立構造が支配する『語り部のジャンル』を、『内的説得力のある言葉』が支配する『語り部のジャンル』へと変化すること、別の言い方をすれば、『語り部のジャンル』を、『認知的・表象的理解』に限定されることなく、『関係的・応答的理解』の全般を活用したジャンルへと再構成することにあると言える。」(同上、p129)
バフチンは「権威的な言葉の関係」に「内的説得力のある言葉の関係」を対置させた。前者が、二者間での言葉のジャンルが異なり、その二つのジャンルの間は独立・無交渉であるのに対して、後者の側は、二者間での言葉のジャンルに重なりが生じ、他の内的説得力のある言葉と緊張した相互関係を気づく中で、新しい意味を相互的に構築するという(同上、p122)。矢守氏はそれを、「被災経験を語りたい・伝えたい語り部」と、「防災の話を聴きたい聴き手」の間のズレとして捉えたが、これも障害者問題でそっくりそのまま当てはまる。「社会の中で障害を持って生きることの『生きづらさ』『生活のしづらさ』を知って欲しい障害者」と、「単に授業だから・単位の為に聞いている学生」の間では、「権威的な対立構造」が支配しやすい。その壁を乗り越える為には、お互いの世界観(言葉のジャンル)に食い込むような「関係的・応答的理解」が進むような、「内的説得力のある言葉の関係」を両者の間で結ばない限り、話が自分事として受け手の側に伝わらない。
これは僕自身も納得し、痛感する問題だ。僕はこの6年ほど、障害者や高齢者の福祉政策を、法学部で、10代後半から20代前半の若者に伝えている。福祉学科ではない彼ら彼女らにとって、アクチュアルな問題意識として福祉の課題が自らの「言葉のジャンル」に記銘されてはいない学生が殆どである。そんな中で、こちらが一方的に授業を構築しても、「権威的な言葉の関係」しか築くことは出来ず、結果として受け手は「無条件の是認/拒否」という二者択一のモードに追い込まれやすい。これを避けるには、彼ら彼女らの「言葉のジャンル」や「内的説得力のある言葉」と、自分の提供したい素材との重なるポイントを探し、引き出し、その中で、お互いが揺さぶられながら、緊張した相互関係を結び、変容しながら、一致出来るポイントを探すしかない。一方向の授業より遙かに難しいが、その枠組みの問題性を知っていながら実践しないのは知的誠実さに欠けるので、毎年必死になってそのポイントを探っている。今年の地域福祉論はそのポイントを「生きづらさ」にしたら、自殺、精神障害、ホームレス、子どもの貧困についてもアクチュアルな問題として学生に感じてもらえるようになってきた手応えがある。
実はこの「内的説得力のある言葉の関係」を構築できるのか、という論点は、体験や経験の受容・伝承や普及啓発の場面だけでなく、知の受容そのものにも当てはまると思い始めている。ここで、一番最初のフーコーの議論にようやく戻ってくるのです。(ずいぶん回り道しましたねぇ・・・)
大変お恥ずかしい告白となるのだが、僕の中で、哲学者・思想家とは不幸にして、「権威的な言葉の関係」しか築けない場合が多かった。池田晶子氏や内田樹氏などを、その初期の著作から熱心に読み進めて来たのは、両氏が先達の英知を「権威的な言葉の関係」ではなく、「内的説得力のある言葉の関係」として読み手の私に提示してくれていたからである。それゆえに、僕自身にとって必然性のある、アクチュアルな内容として、響いてきた。思えば今の僕自身の「ものの考え方」に少なからぬ影響を、両氏は与えて下さっている。実際に直接お会いした事はない(池田さんは夭折されてしまった)が、僕は本を通じて(内田先生の場合はブログも通じて)、両者と「内的説得力のある言葉の関係」を築いてきた(と勝手に思い込んでいる)。そして、10年、15年とそういう関係を築いた中で、少しずつ僕自身の中に、メディア(媒介役)としての池田・内田氏が伝えようとして下さったヘーゲルやフーコーなどの息吹が入り込んでいるのを感じるのだ。だから、ここ最近、そういう先達の著作と直接対峙しても、「読めそう」、つまりは「僕の言葉のジャンルと先達の言葉のジャンルに重なりを見いだせそう」(=内的説得力のある言葉の関係を築けそう)と思い始めているのである。
確かに精神障害者の問題を考える研究者が、なぜ35才になるまでフーコーを読まなかったのだ?と問われるかも知れない。それは実は博士課程の学生の時から言われていた。もちろん「監獄の誕生」や「狂気の歴史」は以前から買って持っている。だが、敢えて読もうとしなかった。それは、言い訳的になるかもしれないが、僕自身が「自分の言葉のジャンル」を確立する前に、大思想家の「言葉のジャンル」に触れてしまうと、「自分の言葉のジャンル」が無くなってしまうことを恐れていたからだと思う。社会学の大家の先生が「安易にフーコーやゴフマンを読むと、それに流されやすい」と言われていた事も思い出す。
だから、僕は20代後半の大学院生時代、研究室で文献を読むことよりも、なるべく多くの当事者の方のお話しを伺ったり、現場に通ったりする事にエネルギーを傾けていた。「作業をしない作業所」でのおしゃべり、精神病院への病院訪問のボランティア、当事者会のお手伝い・・・など、精神障害を持つ人の「生の声」に少しでも多く、耳を傾け続けようとしてきた。そして、その「声を聞く」ということは、やがて当事者だけでなく支援者にも拡げ、支援現場の職員の苦悩にも耳を傾け続けてきた。結果的にPSWのことで博論を書いたのも、その時点では当事者の内容そのもので論を書くほどの「自分の言葉のジャンル」を持ち合わせていなかったからかもしれない。それよりも、支援者の支援のあり方であれば、僕自身が「内的説得力のある言葉の関係」を築ける、と思えたのかも知れない。
そして精神病院や入所施設の構造的問題を「全制的施設」として整理した社会学者、アーヴィング・ゴフマンの名著『アサイラム』も、博論の時には結局読まないままであった。真面目に同書を読んだのは、3年前に立教大学での「ノーマライゼーション論」を非常勤講師で担当した時だった。これも遅すぎるのかも知れないが、僕の中では、その時の内的必然性があった。ある程度、地域移行やノーマライゼーションの問題を考え詰める中で、ようやくゴフマンと出会ったことで、安易に彼の言葉や理論に流されずに、しかしきっちりと彼の理論を受け止める主体に僕自身が成長していたのだと思う。
そういうプロセスを経て、今年の暮れになって、フーコーと出合う内的必然性を感じている。他の人には到底お勧め出来ないが、僕自身の軌跡にとっては、結果的に今で出会ってよかったのだと思っている。20代後半に、多くの精神障害の当事者の方と、大学院生という「大したこと無い肩書き・立場」で出会っていたからこそ、その言葉のジャンルと『内的説得力のある言葉の関係』が築けた後だからこそ、フーコーを読めそうな気がしている。もし順序が逆であれば、今はじっくり時間をとって何度も現場に通うなんて余裕はないし、変にマクロな言葉に毒されてしまうと、ミクロの当事者のお一人一人の語りなんて聞けない高慢ちきな「学者先生」になっていたかもしれない。すると、35才にもなって、という年齢的な卑下やためらう必要もない、とようやく思えるように(いま)なった。
いやはや、相変わらず亀のようなのろさです。

「創発的価値の生成」への賭け

「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある。」

これは佐藤優氏の至言である。彼は「国家と神とマルクス」(角川文庫)の中で、マルクスに基づく資本主義理解と、国体の護持の為の国際外交論、そして神学者としてのキリスト教理解を融合させながら、自分自身の論を進めている。国家主義者、キリスト教主義者、マルクス主義者と、主義者を見た時、確かにこのうち二つは重なっても、3つ全部が重なる事は滅多にない。それは、対象をただ信奉する(鵜呑みにする)「主義者」とは違い、絶対的なものの内在的論理を徹底して掴もうとする努力をしているからである。そのうえで、「複数ある」と宣言する辺りが、非常に説得力がある。
さて、僕自身も、去年辺りまでなら、この佐藤氏の至言は、「そういうものなのかな」というボンヤリした理解だったのだが、今年になってそれは共感を伴いつつある。その導き手のお一人が、新刊をご恵贈下さった。非常に興味深く読み終えた終章で、次のようなフレーズに出会った。
「社会をよりまっとうな方向に動かしていくためにすべきことは、創造的な出会いを通じて、一人一人が自分自身の真の姿に恐れず向き合う勇気を持つことである。暗黙知の十全な作動が価値を生み出すのであり、そのためには創発の作動を疎外するものに勇気を持って目を向け、取り除かねばならなない。個々人のこの努力を背景として、人々は創造的な出会いを積み重ねることが可能となり、それが社会の要素たるコミュニケーションの質を高める。組織もまた同じように、自らの真の姿に直面し、それを改め、社会という生態系のなかにふさわしい地位を見出す必要がある。それは個々人の創造性の発揮を促すことではじめて可能となる。」(安冨歩『経済学の船出-創発の海へ』NTT出版、p258)
この3月、大きく自分の認識がパラダイムシフトをする過程で運命的に出会った「魂の脱植民地化」というフレーズ。この言葉を聞いたのが、阪大の深尾先生との出会いであり、深尾先生に導かれて、共同研究者の安冨先生の主催するセミナーに訪れたのが同月末。その後、安冨先生が書かれた『ハラスメントは連鎖する』『生きるための経済学』『やわらかな制御』と読み進めていった。そして、そこに書かれている世界観が、従来のPDCAサイクルに代表される操作主義的な計画制御(線形的制御)の図式の内在的論理とその限界を指摘した上で、そうではないオルタナティブな視点を、複雑系科学の知を補助線としながら展開しておられることに興奮せざるをえなかった。
率直に申し上げて、僕自身、哲学や思想に関しての理論的な学びは、浅い。それよりも、求められるままに、現任者研修等を通じて福祉現場で働く人の変容や成長の支援に携わったり、あるいは自治体の障害者福祉政策の変容のお手伝いを、この5,6年、続けていた。だが、無鉄砲では臨めないので、折に触れ、お手本を求めて経営学・社会学・社会福祉学・臨床心理学等の理論書・啓蒙書・教科書を独学・後付的に読み進めていったのだが、それらの本の中で書かれている「科学的知識」と、現場で求められている智慧の解離の溝は深かった。本を読んでも読んでも埋まらないどころか拡がる解離を前に、ある時から少しずつではあるが自分の頭で考え始めた。そして、今年、自分事として取り組み初めている事が、安冨先生が言うように、「創造的な出会いを通じて、一人一人が自分自身の真の姿に恐れず向き合う勇気を持つこと」なのかもしれない。
暗黙知や創発、という言葉は、デカルト的心身二元論の世界では扱いきれない領域である。それであるが故に、組織的に科学の世界からはネグレクトされてきた。『デカルトからベイドソンへ』を著したバーマンはそれを、世界の脱魔術化と呼んだが、ベイドソン的世界観や非線形の科学が焦点化しつつあるのは、脱魔術化された計画制御でははみ出してしまう、しかし現実社会ではネグレクトすることの出来ない叡智。バーマンはその世界を「再魔術化」と呼んだが、魔術という言葉でひとくくりにすると誤解が大きい。むしろ、心身二元論を越えた、でも以前の神秘主義や錬金術とは違う、魂と科学の有機的融合、とでも言えようか。こう書くと、ニューエイジ系や新興宗教系と誤解・勘違いされそうなのだが、大きく違う。古来引き継がれて来た自然科学・社会科学・人文科学の体系的叡智を批判的に継承した上で、脱魔術化以後にネグレクトされた魂の問題ときちんと引きつけようとしているのが、安冨先生の一連の仕事なのである(と僕は勝手に理解している)。まさに、「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある」とうい視点なのだ。
「もし、飢餓もなく、道具もいつも安く手に入り、情報も氾濫しているとしたらどうであろうか。当然のことであるがこの場合には、商品をいくら供給しても創発は起きない。商品の消費が価値を生まなくなっているのである。欠乏しているのは、商品ではない。商品も情報も過剰な時代に不足しているのは、人々の創発への構えのほうなのである。それを開くことが、価値を生み出すために不可欠である。」(同上、p166)
「今の学生は受け身的」「自発性が足りない」といった言説はよく聞かれる。たが、それは属人的要素の問題ではない。安冨先生が書くように、商品も情報も道具も過剰であれば、「創発への構え」がふさがれているのである。これは、「学びへの構え」と言い換えてもよいだろう。その構えを「開くことが、価値を生み出すために不可欠」という指摘も、深く納得出来る。潜在能力を活かす出会いがなく、学びに対して斜に構えている学生に、自分で探し求める面白さが伝わった時の顔つきの変容ぶり。あるいは、当事者や支援者ときちんと向き合い、試行錯誤しながら新しいシステムを構築する中で福祉政策に携わる面白みに気づいた自治体職員の輝いた表情。そういうダイナミックな気づきや変容を間近で見る中で、逆に現在の教育システムや官僚制に内在する「創発の構え」が塞がれた現実がよく見えてくる。そして、僕の仕事も「構えを開き、価値を生み出す」支援だったのかもしれない、と思い始めている。
そして、「構えを開き、価値を生み出す」のは、何も他人に向けて、だけではない。
「ホイヘンスの共感実験系が、二つの柱時計と接続部分とから構成される一つのシステムであったように、人間の身体も多くの部分が相互に接続されることで構成されている。その全体が、ある一定の人間の身体たるにふさわしいratioを共にしている限りにおいて、身体自身の本質に属することになる。」(同上、p246)
「同期」現象を発見した科学者のホイヘンスは、二つの振動数の異なる柱時計を同じ部屋に置いておくと、両者が自然と同じ振幅数になることを発見した。この共感実験は、二脚の椅子を背中合わせにして、背もたれを渡すように二枚の厚板を起き、それぞれの板から柱時計をぶら下げていると、「共感」し出した、という。そこで人為的に力を加えて「共感」を崩すと、椅子がガタガタ揺れた、という。つまり、二つの振動数の異なる柱時計は、椅子と厚板と共に、一つのシステムとして構成され、「共感」し、「同期」したのであった。このホイヘンスと同時代に生き、親交もあったスピノザの「エチカ」の中に、ホイヘンスの理解を通じて初めてアクチュアルな理解が可能になる箇所がある、と安冨先生は言う。その一つが、人間の身体における同期性を導き出した上記の部分である。
これは、自己の体重変容を成し遂げた今であれば、実感を持って納得できる。これまで、いくら脳みそで「ダイエットしよう」と思っても、三食きちんと食べなければ、という「食毒」状態の時代には、その身体に深く埋め込まれた「食毒」のratioに支配され、決して大規模な体重減少はままならなかった。だが「三食教」こそが呪縛である、と気づいてみると、物事は大きく展開する。「食べなければ」という型にはまった精神から自由になることは、そう簡単ではなかった。だが、「炭水化物の摂取量を減らす」「前の晩に食べ過ぎたら、翌朝食べない・減らす」という単純な原則を実践し続ける中で、身体のratioのリズムが変容し、体重はググッと減少し、1月の80.8キロから、今朝は69.8キロへ。そして、この実際の体重の変容に、精神も魂も大きく衝撃を受け、体重変容後のratioに心も同期しつつある。それが、自分自身のここ最近の変化、と思うと、安冨先生の「エチカ」の解釈も、深く頷ける。
当初はご恵贈頂いた本の書評を書こうかと夢想したのだが、今の僕にはその全体像を描ききる力はない。よって、その断片から受け取った、私自身の「同期」部分の一部を書いただけで、これ程長い文章になってしまった。最後に、この本の中で一番気に入っているフレーズ(の一つ)を引用しておきたい。
「ある仕事が創発的価値を生成するなら、その仕事は有効である。」(p105)
僕は今、幸運な事に今の仕事の中で、「創発的価値の生成」に賭け続けていられる。そのことへの感謝と、いくつになっても、どの仕事であっても、この「創発的価値の生成」こそ、最優先に仕事をしていたい、と強く願っている。

フーコーという補助線

久しぶりに何もない土曜日。昨日は終電で帰ってきたので11時過ぎまでぐっすり眠り、昼からのんびり読書。こういう平安なる一日が、最近はなかったなぁ、と反省。

お供の音楽は、芸事の導師さまが教えてくださったRCAのLiving Stereo限定復刻版60枚組。日本では売り切れでアマゾンでは2万円が付いていたが、アメリカのアマゾンではまだ在庫があって、送料込みで1万5000円弱。LP録音の最高峰・最良の弾き手・曲目を一枚250円で楽しめるのは、何という贅沢。今年に入ってから、同僚のH先生が、芸事に詳しい導師としてクラシックの世界の奥深くに誘ってくださっている。デュプレやグールド、ペレイラにカザルスといった特定の音楽家の作品しかよく知らず、チェロやピアノの協奏曲が多かった僕にとって、たとえばサンソン・フランソワのショパンに出会ったこと、幻想協奏曲の魅力を知れたこと、あるいは上記の60枚組で未知の楽曲・弾き手とご縁が出来たことは、誠にありがたい限り。自分の使っていない領域が拡がる思いだ。
という前ふりを書いていたら、今日主題化したい内容と結びついていることに、今気づいた。さて、今日のフックはいつもの内田樹さんから。
「日常的な経験からも分かるとおり、私たちは決して確固とした定見をもった人間としてテクストを読み進んでいるわけではありません。(略)テクストの方が私たちを『そのテクストを読むことができる主体』へと形成してゆくのです。」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書p125)
これは今の自分には深い納得が出来る。テクストを楽曲と変えたら、僕自身のここしばらくの変容そのものを体現しているからだ。
「私たちは決して確固とした定見をもって人間として楽曲を聴き進んでいるわけではありません。楽曲の方が私たちを『その楽曲を聴くことができる主体』へと形成してゆくのです。」
僕自身、先達である導師さまに薦められ、自分の興味関心のレインジにはまる楽曲を聴き進めるなかで、「楽曲の方が私たちを『その楽曲を聴くことができる主体』へと形成」してきたのである。これはワインでも同じで、ワインの導師様であるMさんにずっと8年ほどお世話になり、Mさんからワインを買い続けているからこそ、自分の中での「ワインを楽しむことができる主体」が創り出されてきたのだと思う。このようなご縁と繋がりによる豊穣な何かとのアクセス、ほど愉悦的なものはない。
・・・と書いてみて、この文体そのものが、実は内田先生のエクリチュールを結構拝借しているなぁ、と改めて感じる。特にこの「愉悦的なものはない」なんて書き方、以前の僕はしなかった。実は昨日、大学時代の仲間と久しぶりに新宿で飲んでいたのだが、このブログをたまに読んでくれている友人が二人ほどいて、そのうちお一人の麗しきNさんから「タケバタはどんどん学者っぽい文章になっているなぁ」と言われた言葉が引っかかっていた。彼女は企画戦略を練る部署で企業戦略を端的に一枚で伝えるための仕事をしている、という。その立場から見ると、僕の文章は確かに回りくどいし、ブログに用いる語彙もどんどん抽象的なものが増えてきている。言われるように「学者的」なのかもしれないが、それは半ば意識的に、内田樹氏のような知性に憧れ、それを勝手に文体として真似て学ぼうとしているからなのかもしれない。
で、文章がうろうろしているが、実はその内田樹氏の思考プロセスと近似している内容を、別の著者によるフーコーの入門書の中に見いだした。
「この読もうとする主体の中に存在する<盲目性>に、フーコーは固執し続ける。眼の構造には、眼自体を見ることができないという盲点があるが、読むという行為にもある読み得ない<盲点>が存在する。それが意識されないことによって、そもそも読む対象として構成されず、気づかれない領野が存在するのである。」(中山元『フーコー入門』ちくま新書 p17)
この「読むという行為にもある読み得ない<盲点>が存在する」という記述に出会ったときに、僕は数日前に読んだ内田先生による以下の文章を強く思い出さずにはいられなかった。
「つねづね申し上げているように、情報というのは実定的なものには限られない。
実定的な情報のピースを並べて、「絵」を描くことは可能だし、「当然このことについて報道されていてよいはずの情報」が組織的に欠落している場合にも、そこで何が起きているかを推察することは可能である。
要は「文脈を読み当てる」ということである。」(内田樹「なぜ日本に米軍基地があるのか?」
彼は「毎日新聞」を読む中で、公安調査庁が「どういう情報ソースを基におまえは文章を書いているのか?」と疑わせる程の確度の深い『街場の中国論』を叙したと書いている。その事が、新聞報道を読むだけで(ということは特定の深い情報源にアクセスせずに)なぜ可能になったかの理由を書いている上述の部分で、「文脈を読み当てる」と書いている部分が興味深い。つまり、書かれていること、だけでなく、「組織的に欠落している」「当然このことについて報道されていてよいはずの情報」に気付き、そこから推察することで、「文脈を読み当てる」ことが可能だと書いている。これは、読む対象(=書かれていること)にのみ没入するのではなく、「読み得ない<盲点>」があるということに気付き、そこに配慮や眼目を注ぐ、ということに他ならない。そして、「読み得ない<盲点>」も含めて、誰がどのような事を言ったか・言わなかったか、というコインの両面をパズルのように組み合わせ、その推察の中から「文脈を読み当てる」という思考であり、それをフーコーは「系譜学」として高めていったのである。
実はこのことは、内田先生自身が、フーコーに寄せた文章で次のように書いている。
「フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。それは、『これらの出来事はどのように語られてきたのか?』ではなく、『これらの出来事はどのように語られずにきたか?』です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。その答えを知るためには、出来事が『生成した』歴史上のその時点-出来事の零度ーにまで遡って考察しなければなりま
せん。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の『いま・ここ・私』を『カッコに入れて』、歴史的事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーはニーチェの『系譜学』的思考から継承したのです。」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書p86)
『これらの出来事はどのように語られずにきたか?』
この問いから、「出来事の零度」にまで辿って考察する内田先生の「推察」のスタイルこそ、自分の眼鏡を押しつけず、相手の眼鏡で「文脈を読み当てる」作業そのものであり、系譜学的思考そのものなのかもしれない。そして、その「読み当て」た「文脈」の確度が深いからこそ、あれだけの説得力と読者層を獲得しているのだと思う。そういう思想家内田樹氏の方法論的秘密に、フーコーという補助線を使って、少しだけ迫れたような気がした。

琉球弧と「あいだ」としての沖永良部島

気がつけば12月。師走だけでなく、11月も突っ走っていた、と回顧的に思い出す。このブログに書いていないのは、先週の旅日記。1週間前、鹿児島にいたのだ。

ちょうど親戚の法事の為に、沖永良部島に出かけることになっていた。直行便はないので前回は那覇から往復していたのだが、そういえば鹿児島には小学校時代からの友人が住んでいて、最近結婚したばかりだ。鹿児島には是非とも訪れみたい。でも、沖縄は好きなので、何とか1日でも寄りたいなぁ・・・。そんなよこしまな欲望に魅せられて、航空運賃は高く付いたが、鹿児島→沖永良部→那覇を巡る3泊4日の旅に出かけた。
沖永良部島は、実に興味深い位置づけをしている。その地政学的意味について、今まで考えようとしたこともなかった。だが、こないだ佐賀で「陶磁器から知る、アジアの中の日本」に目覚めたあたりから、文化の伝播における地政学的な遠近の問題に関心をもちはじめた。そこで、今回の旅のお供には、直前に東京駅丸善で買い求めた次の二冊を携えていったのだが、実にキーブックとしては役に立った。
『沖永良部100の素顔-もうひとつのガイドブック』(東京農大出版会)
『沖縄・奄美と日本』(谷川健一編、同成社)
実は旅の直前にもう一冊、フックになる本を読んでいたことが、次の二冊に向かわせるきっかけだったのかもしれない。
「この弧状なす列島の民族史をめぐって、いま、再審のときが訪れようとしている。(略)たとえばそれを、わたしはとりあえず、『ひとつの日本』から『いくつもの日本』への転換と呼んできた。この列島の、縄文以来の民族史的景観にたいして、『ひとつの日本』というフィルーターを自明にかぶせてゆく歴史認識の作法は、すでに破綻している。いたるところに、『ひとつの日本』の裂け目が覗けはじめている。いま、『いくつもの日本』への道行きが、避けがたい課題と化して浮上しつつある。」(赤坂憲雄著『東西/南北考-いくつもの日本へー』岩波新書)
民俗学には全く門外でも、「いくつもの日本」というフレーズには、なにやら魅力的な響きを感じた。僕自身、これまで「ひとつの日本」を暗黙の前提としていたことに、このフレーズに出会って気づいた。そして、中国-朝鮮-九州を巡る陶磁器の伝播の形を直接目にする機会を通じて、東アジアの連続性と、その連続性の中での、様々な土着との融合による変容過程についても、焼き物の色彩・文様の変遷を通じて目にしてきた。その「予習」があったので、鹿児島→沖永良部→那覇と巡る旅の中でも、連続性と変容という「いくつもの日本」が感じられるかもしれない、という予感があったのかもしれない。それは、琉球弧という文言で、実感を伴い始めた。
「琉球弧とは、日本列島西南端の九州島から南約1,260kmの洋上に199余の島々が花緑のように分布し、地理学上で「南西諸島」「琉球列島」などと総称される。現在の行政区分上では北半分の薩南諸島38島は鹿児島県に、南半分の琉球諸島161島は沖縄県に所属する。ちなみに南西諸島という呼称は明治時代中期以降の行政的名称で、それ以前は「南島」や「南海諸島」「西南諸島」と呼称されてきたが、ここでは広く地理学・地学的名称として、国際的に認知される「琉球弧」という名称を使用する。」(小田静夫 「琉球弧の考古学」 より)
不勉強な僕は今回の旅で初めて知ったフレーズなのだが、確かに言われてみれば、鹿児島と台湾の間には、沢山の島々が「花緑のように分布」している。鹿児島から沖永良部にむかう飛行機のなかでも、その島々の多さには目を奪われた。現在は沖永良部島とそのすぐ南の与論島までが鹿児島県、沖永良部から晴れていれば薄く島影が見える沖縄本島からは沖縄県、という位置づけになっている。だが、「100の素顔」でも指摘されているが、沖永良部島の言語・文化的ルーツは薩摩ではなく琉球である。そして、先の沖縄戦の時には米軍は上陸しなかったが、島の人によると海上からの砲撃を沢山受けたという。戦後、米軍統治下で島のレーダー基地建設も米軍によって進められ、実際に米軍も駐留したが、1953年の奄美群島の返還の際、日本に返還された。だが、その当時、北緯27度線以北(徳之島以北)の返還論というデマも飛び交い、薩摩・琉球の常に間の位置づけで揺らいできたのが沖永良部島だと言う。
この沖永良部島での丸一日の滞在は、実に印象深かった。
前日に訪れた鹿児島中央駅は、新幹線の開業と共に再開発されたらしい駅ビルが建っていて、BeamsだのZaraだの、山梨にはない、東京のブランドショップが建ち並ぶ。あまり東京に行かないうちの奥様は、香港以来となるZaraで早速お洋服をお買い求めになっている。店員さんの話し方が薩摩弁であることを除けば、ここが立川(札幌、大津・・・)であっても不思議ではない、郊外の大規模都市の駅ビルである。ある種、日本(ヤマト)的世界の縮図としての鹿児島中央駅の駅ビルである。
そして、翌日に訪れた那覇は、大都会なのだけれど、街並みや風情は台北や香港に似ている。沖永良部から那覇に向かうセスナ機では、沖縄本島西海岸をかなり低空で飛んでいたのだが、普天間や嘉手納などに広大な土地の米軍基地を抱えている。その敷地の広さ、芝生や職員住宅の広さと、その敷地の外の地元民の住宅の密集ぶりの対比の中に、今なお植民地状態に近い沖縄、という位置づけが、意識しなくても目に飛び込んでくる。ここは、間違いなく日本的世界の縮図とは違う。
であるがゆえに、鹿児島と那覇の「あいだ」に浮かぶ沖永良部島は、まさに「あいだ」であり、独自の様相を見せていた。奄美諸島にあって、薩摩藩によるサトウキビの強制植え付けの経験が少ないが故に、独自の商業農業として、ユリやフローラルなどの高収益作物の植え付けが明治期から盛んであった。今は、ジャガイモやマンゴーなども収穫している。そういう先取性と、南国ゆえのノンビリ・ゆったりした暮らし。しかし、過疎地域に共通する職不足故、高校卒業後は職を求めて島外に移り住む子ども達が多く、高齢化率が上昇している(今は3割)。ヤマトと琉球の、魅力も問題点も、それぞれ混ざり合う境界として、しかし独特の魅力を持つ独立した島として、沖永良部は存在していた。
で、一番印象深かったのが、親戚の叔父さんが持っている山にピクニックに出かけた時の事。山に自生するシークルブ(島みかん、沖縄ではシークワーサー)を収穫してご覧、といわれ、楽しいミカン狩りをしていたのだが、ミカン狩りを終え、休憩場所となっている小高い丘に登ってみると、緑の山の向こうには、真っ青な海と地平線。そして、その向こうにうっすら浮かぶ沖縄本島。日々の喧噪など全く忘れて、その緑と青、そしてシークルブのオレンジのコントラストを堪能していたのであった。

内在的論理と僕の3年半

旅先からの帰り道、名古屋駅の売店で見つけた400ページの本を、帰りの汽車の中から読み始め、今日一気に読み終える。博学でストーリーテラーの佐藤優氏の自伝的作品が、面白くない訳がない。

「マルクス経済学を学んでもマルクス主義者になる必要はまったくない。資本主義システムの内在的論理と限界を知ることが重要なのだ。人間は、限界がどこにあるかわからない事物に取り組むときに恐れや不安を感じる。時代を見る眼から恐れと不安を除去するために二十一世紀に初頭のこの時点で『資本論』を中心にマルクスの言説と本格的に取り組む意味があるのだ。」(佐藤優『私のマルクス』文春文庫 p15)
彼の著作で「内在的論理」という概念を知ったいきさつについては、3年前のブログに書き残していた。その時は、次の本を引用している。
「いまから約200年前、ドイツの哲学者ヘーゲルは、『精神現象学』を著し、この世界に現れる出来事をどのように解釈したらよいかについて、ユニークな方法を提示した。(中略)ヘーゲルの分析手法の特質は視座が移動することだ。ヘーゲルは、特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする。対象の内在的論理をつかむことと言い換えてもよい。その上で、今度は、対象を突き放した上で、学術的素養があり、分析の訓練を積んだ”われわれ(有識者)”にとっての意味を明らかにする。更に有識者の学術的分析が当事者にどう見えるかを明らかにするといった手順で議論を進めていく。当事者と有識者の間で視座が往復するのだ。この方法が国際情勢を分析する上でも役に立つ。」(佐藤優『地球を斬る』角川学芸出版 p266-7)
僕はこの「内在的論理」という言葉との出会いで、少しだけ、表層的なものの見方から深められたような気がする。それは改めて三年前のブログを読んでみて感じることだ。僕にとってはまだ3年しか経っていないのか、と驚いたのだが、山梨では2007年から、三重では2008年からご縁を頂き、地域における障害者福祉の支援体制作りのアドバイザーの仕事をしている。その際、ある方にアドバイス頂き、まずは山梨県内全ての市町村を訪問し、その自治体の「内在的論理」を掴むことからスタートした。それは、結局のところすごくよいプロセスだった、と思う。
この3年半で、山梨県内全てに地域自立支援協議会を立ち上げ、県の自立支援協議会も模索しながら座長として運営の一翼を担い続けた。その時に、まずはこのアドバイザーの仕事を始めて一年目に行った、市町村や当事者・家族団体、地域の集まりなどの声を徹底的に聴き続け、「対象の内在的論理をつかむ」試みをまず行ってきた。それがあったからこそ、そのあと「対象を突き放した上で」、山梨の中であるべき自立支援協議会像を描き、それを各地域にお伝えし、上記のあるべき姿が「当事者にどう見えるかを明らかにする」中で、県と地域の自立支援協議会の像を、官民協働チームで描きあげていったのだと思う。このとき、こちらの眼鏡を当てはめるという思考停止・思考の省略を辿らず、相手の眼鏡からものを見ようと「内在的論理」を掴むことに努力したことが、その後の展開にとって大きな一助となったのは間違いない。
「内在的論理と限界を知ること」の大切さは、結局何かを変えようとしても、あるいは守ろうとしても、その営みを成功させるためには必須の事である。僕自身、単なる批判者であった時代には、そのことがわからなかった。だが、3年半前から県の仕事に関わり、今年からは国の仕事に関わる中で、内在的論理を掴むことのない、思いこみや偏見、無理解やコミュニケーション不足に基づく「いい加減な発言」が、いかにして場を壊すのか、を様々に垣間見た。また自分がその加害者、被害者になったこともある。すると、遠回りなように見えても、虚心坦懐に「内在的論理」を掴むことから物事を進めないと、結局はものごとはまとまらない、とわかるようになってきた。今の総合福祉法部会も、4~9月くらいまで、立場の異なる多くの55人の内在的論理を掴み続ける苦労(迷走と批判する人も多いが)をしたから、10月からの作業部会で、意見がまとまり始めているのだと思う。
内在的論理と僕の3年半、に話が逸れたので、佐藤氏の著作に戻ろう。
この本(「私のマルクス」)を通じて、血気盛んだった佐藤氏が、学生時代にいかにマルクスやキリスト教と出会い、この二つを自身の世界観の構築の柱にしたか、を垣間見ることが出来る。それはまた、同志社大学神学部における様々な師との出会いでもある。疾風怒濤の大学時代に、猛烈に勉強し、飲み、学生運動に関わった氏の思考の遍歴を、実に鮮やかに物語として語りながら、しかも「私のマルクス」として伝えられる筆者の力量には、いつものことながら、本当に驚かされる。
僕自身、佐藤氏が出会ったフロマートカや内田樹氏にとってのレヴィナスのような、人生を変える思想家には出会っていない。35歳になってしまったので、もうそういう出会いとしては遅いのかも知れない。あるいは僕にとっては、思想家との出会いだけでなく、様々な現場との出会いがじわじわ世界観を形作ってきたのかもしれない。あるいは、思想家と対峙出来る程の文章を読み解く訓練に欠けているかもしれない。そうであっても、自分にとっての大切な思想家との出会いを、今からでも待ち望んでみたい、そんなことを読後感に持つ一冊だった。

陶磁器から知る、アジアの中の日本

始まりは今年の8月、ソウルを訪れた時にさかのぼる。

学会発表のための3泊4日の滞在だったのだが、初日だけ少し時間が出来たので、国立中央博物館に出かけた。この博物館は、以前は韓国総督府の豪華な建物を使っていたのだが、植民地時代の禍根、と壊され、合わせて郊外に移転したもの。生まれて初めての海外が韓国への修学旅行だったので、20年前に、旧の博物館に訪れたことがある。だが、その時には文化や芸術は「他人事」に過ぎなかった為、一つ一つの展示品についての記憶は全くなかった。
だが、この夏の訪問では、大きく「自分事」に転換する。陶磁器や仏像の歴史についての展示品が、どれも中国(大陸)と日本の「中央=あいだ」としての朝鮮半島という位置づけで展示されているのだ。考えてみれば当たり前のことなのだが、仏教はインドから中国、朝鮮を通じて日本に渡る。陶磁器だって、中国の景徳鎮から朝鮮半島を経て、日本に辿り着いている。確かに教科書的には「知っているつもり」だったが、その両者がどのような変遷を経ているのか、を「実物」の展示に沿って辿ることが出来ると、リアリティが全く違う。陶器に関しては、シルクロードを通じてトルコにまでどう伝わったか、も展示しており、その1ヶ月前にトルコ・イスタンブールのトプカプ宮殿を訪れていた自分にとって、バラバラだった断片が少しずつ「つながる」面白さを感じ始めた。このときから、アジアの中の日本、というキーワードが少しずつ自分事になりはじめたのかもしれない。
それがより強固なものになったのは、9月に調査で訪れたロンドン、調査の合間にホテルから歩いていけた大英博物館。ここも15年前の大学生の時に訪れているはずだが、今回はかなりじっくり眺めた。しかもご一緒くださったI先生は文化的素養に溢れる先達。なので、日本史も世界史も高校途中で投げ出した阿呆な僕にも、わかりやすく世界の至宝の背景を教えてくださる。そういう前提があったので、アジアの陶器コーナーに行った時に、これまた圧倒された。イギリスは基本的に世界中の財宝を集めて(かっぱらって?)きたので、チャイニーズという英語が与えられた陶器も、中国-朝鮮-日本のコレクションが半端ではない。それらをじっくり眺めるうちに、先月韓国で感じた三国のつながりがより強固なものになり、アジアの中の日本、という言葉がより響き渡り始めた。
そういう流れの中で、昨日から佐賀に来ている。今日開かれるチャレンジフォーラムin SAGAで地域移行のシンポジウムの司会を仰せつかったのだ。ただ、甲府から佐賀までは6時間かかるため、前後泊することになった。ならば、と福岡空港からレンタカーを走らせ、有田に向かったのである。ソウルやロンドンで見た陶磁器文化を、ちゃんと国内でも確認してみたい、と。そこで、これもI先生から教えられた佐賀県立九州陶磁文化館に訪れて、いやはや実に楽しかった。
ちょうど開館30周年記念として「珠玉の九州陶磁展」をやっていたのだが、この特別展示に出展されていた陶磁器が実に魅力的なものばかり。1670年代という江戸時代に、こんなに鮮やかで、粋で、大胆で、かつ細密な焼き物が生まれていた、という事に、改めて驚かされた。確かに当時のオランダ人が見たら、絶対持って帰りたくなるよね、とも。東インド会社を通じてドイツのマイセンやイギリスの陶磁器文化にも伝播したことも、改めて頷けた。
それから、一つ一つの展示品を見ていて、改めて気づいたのは、一枚の皿の中に籠められた世界観の豊かな広がりについてである。例えば色絵橘文大皿。ただのミカンの木、と侮るなかれ。幹の描かれ方の豊かさ、力強さが濃い青色で、実り豊かな橘の実は黄色で、そして葉っぱは黄緑色で描かれていて、白磁の背景に実に活かされている。今この文章は、感動のあまり初めて買った美術館のカタログを見ながら書いているのだが、実物の照り具合や質感は、残念ながら写真では再現されていない。その鮮やかさ、力強さと、一枚の皿の中の世界観が見る者をまさしく魅了する。そんな展示品だった。
で、そういうご縁ができたので、その後1時間半しか時間がなかったのだが、現代の有田焼の窯元や直売店でもいくつか気に入ったものを買い求める。染付宝尽文の大皿、染付唐草の半月皿、そして青磁の小皿に箸置き・・・単に美しい、というだけでなく、自分が直前に見た歴史や伝統との繋がりを感じさせる、現在の作品の数々。古伊万里でなくても、今のデザインの中に、過去との繋がりを感じさせる作品の数々に出会い、過去ともつながりを持てた気がした。時間がなかったので足早に去ったが、有田の街の豪奢な建物の数々に、明治期以後にいかに有田が反映し続けたか、の足跡も感じられた。佐賀は大陸が近くて黄砂が強かったこともあいまって、焼き物を通じてアジアの中での日本というテーマが自分事になった一日であった。さて、そろそろ仕事に出かけます。

エクリチュール、パラダイムと社会モデル

ブログは二週間ぶり。ツイッターは毎日ブツブツやっているが、長めの文章を自分用に書く余裕がなかった。6000字の依頼原稿に、講演用パワポを2,3本作って、あと授業でも新ネタをするのでその仕込みににわか勉強したりするうちに、あっと言う間の二週間。そして、今日は久々のお休みなのだが・・・

朝ご飯を食べたところで妻から、「今日は大掃除をします!」という宣言。ちょっとダラダラしたいなぁ、と思うものの、我が家での主導権が僕にあるはずもなく、「埃っぽいでしょう?」といわれたら、全くその通り。それから衣替えも中途半端だし、仕事部屋のエントロピーも増大しすぎ(ようは汚いだけ)だったので、一念発起。妻から渡されたマスクをして、窓も開け放ち、午前中一杯かけて、ゴミを捨てまくる。
この商売をしていると紙ゴミが死ぬほどある。DMも色々届く。それにデジカメやらレコーダーの空き箱も散乱している。そういうものをバシバシ捨てて、「とりあえず入れておく箱」なるものを作ったがゆえに死蔵されていた様々な本・雑誌・書類も、「読んでいなけりゃ、ただのゴミ」と捨てまくる。ついでに仕事部屋の床に投げ散らかしていたマフラーやら上着やらも、洗濯機に放り込んだり洋服棚に返したり。
まあ、こう書くだけで、如何に整理が出来ていないカオス状態だったかが丸わかりでお恥ずかしい限りだが、9月半ばの海外調査帰国後からの1ヶ月は目の前の原稿書きで忙殺され、その後も出張だの講義だの急ぎの仕事に追われていたので、やっとこさの掃除。何度か以前に触れた事があるが、『ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門』(カレン・キングストン 著、小学館文庫)ではないけれど、部屋からガラクタが少なくなると、だいぶと仕事がはかどるのです。あと、石油ストーブのタンクに灯油も入れて、手袋も冬用靴下も出してきて、これで冬支度までとりあえずは完了。つくづく今日の晴天に感謝。
閑話休題。ちょうど昨日ツイッターで、メモ的に書いておいた事を、少し膨らませてみたい。昨日の連続ツイートで、こんなことを考えていた。
 
認識枠組みその1  内田樹 『階層社会の本質的な邪悪さは、「階層社会の本質的な邪悪さ」を反省的に主題化し、それを改善する手立てを考案できるのが社会階層上位者に限定されているという点である』 
 
認識枠組みその2 自分の常識や前提が、偏った体系を選び取っている、他の可能性もあり得る、と理解するのは簡単ではない。それを分かりやすく語るのは、内田氏もそうだが、山本七平「空気の研究」も思い出す。でも、分かりやすく語る為には特定の文脈依存が避けられず、今の学生には理解がしにくい。
 
認識枠組みその3 授業で障害の医学モデル・社会モデルの話から、常識の捉え直しの話をすると、共感と反発の双方に別れるのが面白い。障害者のために、であれば理解出来ても、自分も含めた社会の常識こそ問題、と言われると、その常識=自分と思いこんでいる人は、自己否定された様な気になる。
 
認識枠組みその4 元々社会から否定されてきた障害者にとっては、社会の常識を相対的に見る事を強いられてきたのであるが、その経験のない人(=『健常者』)にとっては、認識枠組みを揺さぶられる事は非常に不愉快。だから隔離収容といった「見ない振り」の選択肢が生まれてきた部分もある。
 
認識枠組みその5 障害の異化モデル、って、常識の揺さぶりやメタ認知への誘いの部分がある。ただ、揺さぶった後に、どのようなオルタナティブがあるのか、という世界観まで提示できないと、それはよく言われるように「対抗文化」で終わり、ドミナントストーリーの書き換えではなく強化にも繋がる。
 
認識枠組みその6 こないだ読んだ「デカルトからベイドソンへ」も、今読んでいる、「社会とは何か」も、社会を巡るドミナントストーリーがどのように書き換えられて来たのか、の歴史を辿っていて、面白い。その中で、ようやくフーコーを読む「必然性」のようなものも生まれてきた。
 
認識枠組みその7 僕が全部読んでいる池田晶子と内田樹、この二人に共通しているのも、認識枠組みそのものへの問い、である。しかも二人は平易な言葉で、僕にも分かるように語る。二人の補助線があったからこそ、僕もメタの学問である形而上学に近づけた。さて、ここからどう自分なりに書き出すか。
 
内田樹氏の「エクリチュール」論から、アイデアを拝借して始めたこの連ツイ。内田氏はよく言っているが、例えば批評家の物言いも、クールに批評出来ているようでいて、その言い方自体が実は定型的である、という。それを彼は「やんきいのエクリチュール」という絶妙なる比喩で指し示しているが、確かに「やんきい」は、一旦その表象を選び取った段階で、その振る舞い方の枠組みから自由になることができない。おなじことが、批評家であれ、政治家であれ、言えるのではないか、と。そのうえで、そのエクリチュールに自覚的である、メタ認知が出来ているかどうか、が、エクリチュールの牢獄から抜け出すために必要不可欠であることを、彼の文章から感じ取っていた。
 
そして、これはその3~5あたりで書いた事だが、実は障害者というカテゴリーに当てはめられた人は、「健常者」なるものから差異化され、排除されるなかで、意識的に「健常者」のエクリチュールを相対的に眺めざるを得ない位置に立たされる、とも言えないか、と考えてみた。ただもちろん、障害者カテゴリーに追いやられた障害者が、健常者エクリチュールなるものに自覚的にすぐになるわけではない。ただ、社会学者ゴフマンが名著『アサイラム』で示したのは、入所施設や精神病院などの「全制的施設」における施設利用者エクリチュールが極めて標準化されたものであることと、それを分析する事によって、健常者社会のエクリチュールも逆照射が可能である、という卓見であった。
 
「個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろ う。」(E・ゴッフマン (1961=1984)『アサイラム?施設被収容者の日常世界』誠信書房、p16)
 
それまで主流であった「障害」を「治療の対象」と見なす思想を「障害の医学モデル」とラベルした上で、障害者は治療の対象ではなく、障害のままでの自分らしく生活したい、という自立生活運動が沸き起こる中で生まれてきた「障害の社会モデル」。この中では、施設で障害者として「個人の自己が無力化される」ことを良しとせず、逆にその無力化の過程は「社会の抑圧・差別」である、と、健常者エクリチュールの相対化と徹底的な批判を産み出していった。これはフェミニズムの論法から多いに触発されたものでもあるが、あるエクリチュールの構造的論点を浮かび上がらせ、ドミナントストーリーの書き換えを目指す、という点で、画期的な考え方でもあった、と言えると思う。
 
今年の「地域福祉論」の講義では、テーマを「生きづらさ」としている。認知症や依存症、統合失調症や自殺、ホームレス、貧困などの問題を扱いながら、それらの問題の当事者の方々が語る「生きづらさ」を通じて、今の日本社会そのものを捉え直せないか、という大風呂敷を、こんなに忙しい時期にもかかわらず、画策しながら自転車操業の日々である。「生きづらさ」という境界が、ドミナントストーリーの境界ともつながり、社会の常識という名のエクリチュールを浮き彫りにする輪郭線になるのではないか、と。そんなことを考えている中で、ツイッターにも書いた『デカルトからベイドソンへ』では、このエクリチュールの自覚にも繋がる重要な記述がなされている。
 
「ベイドソンの言うように、人間の行動は第二次学習に支配されている。第二次学習の結果習得した予測の型にコンテクスト全体がうまく適合するような行動をとるのである。言いかえれば、第二次学習は自分で自分の正しさを規定する。この性質は大変強力であるため、たいていの場合は生まれてから死ぬまでずっと存続する。むろん『回心』を経験し、ひとつのパラダイムを捨てて別のパラダイムを探るようになる人も少なくない。だがいくらパラダイムが変わっても、第二次学習のパターンそのものにはとらわれたままであり、このパターンの正しさを『証明』するような『事実』を見しつづける点は変わらない。ベイドソンの考えでは、この束縛から逃れるための唯一の道は『学習Ⅲ』である。『学習Ⅲ』においては、ふたつのパラダイムのどちらが良いかということはもはや問題ではなくなる。パラダイムというものそれ自体の本質を理解すること、それが学習Ⅲである。」(モリス・バーマン『デカルトからベイドソンへ』国文社、p248)
 
「やんきい」から「アイドル」へ、エクリチュールを変えた人もいる。あるいは「大学生」から「会社員」のそれへと変える人もいる。「ひとつのパラダイムを捨てて別のパラダイムを探るようになる人」であっても、自分が受け入れた新たなパラダイムの「パターンの正しさを『証明』するような『事実』を見しつづける点は変わらない」ようであれば、それはそのエクリチュール・パラダイムの内部にいて、そこから自由になれない。そこから自由になるためには、「パラダイムというものそれ自体の本質を理解する」「学習Ⅲ」が必要である。この記述は、内田樹氏の次の発言ともつながる。
 
「エクリチュール批判は「自らがいま書きつつあるメカニズムそのもの」を対象化しうるエクリチュールによってなされなければならない。はたして、それはどのようなエクリチュールであるのか。自分たちが嵌入している当の言語構造を反省的に主題化できる言語、自分たちが分析のために駆使している言語の排他性そのものを解除できる言語。そのような不可能な言語を私たちは夢見ている。」(内田樹「エクリチュールについて(承前)
 
「自分ちが嵌入している当の言語構造を反省的に主題化できる言語」こそ、学習Ⅲの言語につながるのではないか、ということまではたどる事ができた。そして、それは障害の社会モデルが提示しようとしたものとも、ある種の共通性を持つのではないか、とも感じている。この学習Ⅲが導き出す、「パラダイムというものそれ自体の本質を理解する」プロセスを、さまざまな「生きづらさ」の論点に照射して眺めることが出来ないか。逆に言えば、「生きづらさ」の論点から、現代日本社会のエクリチュール・パラダイム自体の「本質」を理解することが出来るのではないか。
 
そんな大風呂敷を広げているがゆえに、毎週の授業でえらい困っているのであった。さて、火曜日に向けて、そろそろ予習に励まなくちゃ。