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テンションの高さとストレス

最近、どうも体調がよくない。体重が10キロ減ってから、肉襦袢コート!を脱いだ事もあって、カイロとパッチがないと寒い。あるいは、割とお腹がちくちくとする風邪未満、状態が頻発し、葛根湯を飲んで事なきを得ている事も少なくない。結構キツイ日程だが、身体はそれに悲鳴を上げているようにも見える。

だが、一方で、そう感じるのが普通なのであって、今まで「無痛」だったのではないか、とも考える。必要以上に食べ過ぎても、飲み過ぎても、あるいは何処かに痛みを感じても、それを「しんどさ」「寒さ」「辛さ」と感じないように、感覚的センサーが摩耗していた、あるいは無自覚的に鈍麻させていた、とも考えられる。「○○すべきだ」「○○なんて出来ない」という事を言い訳にして、体重減は諦めていた。それは、単にダイエットを諦めていただけでなく、五感のセンサーのメッセージ自体も聞こうとせず、消費社会的イデオロギーの因襲にすっぽり覆われていたのかもしれない。「美味しものを一杯食べたい」「24時間戦えますか」「休みもエンジョイしなくっちゃ」といった消費を喚起させるイデオロギーを内面化して「自分のしたい事」として刷り込まれ、それを所与のものとしたとき、「そうじゃないんだけどなぁ」という五臓六腑のメッセージに蓋をして、突っ走っていた、それが「無痛」状態を引き起こしていたのかもしれない。
そう思うきっかけの一つに、今朝のNHKニュースの花粉症対策の報道がある。北海道大学の教授が、杉の木の無いある町と共同で、杉花粉対策のツアーをやっている、とのこと。大自然の中で、リラックスしながら自然を体感してストレスを減らし、食事療法もして、アレルギーと闘いやすい身体作りをしている、という作りだった。その詳細は正直あまり記憶に残っていない。だが、アレルギー体質の改善方法として、早寝起き・3食をしっかりと食べる・ストレスを減らす、という3つが出てきた時、ふと繋がった。早寝早起きとバランスの良い食事はきちんと実践出来ている。やっぱり残るは「ストレス」だなぁ、と。そう、それは実はある医師にも言われていたのだ。
僕自身、仕事の面ではあまりストレスを感じない方であった。肩こりも最近まで無自覚だったし、胃が痛んだ事なんて、20代にある大ちょんぼをやらかした時くらいであった。ストレスから自由な生活を送っている、と勝手に思いこんでいた。ところが、こないだ主治医である漢方医に、花粉症の薬をもらいにいった時の事。西宮に住んでいる時から9年くらい通っていて、低炭水化物ダイエットを教えてくれた恩人でもある。その先生に、一年間着け続けている体重の変化(=痩せたグラフ)を自慢しにいったついでに、「さて次の課題である花粉症の根本治療は・・・」と水を向けてみると、全く意外な一言を仰った。
「タケバタさんって、緊張が強いタイプでしょ」
「えっ・・・・」
青天の霹靂、自分自身は、150人とか200人の前でも平気で講演しているし、そんな緊張するタイプとは思っていない。何でですか?と伺うと、更に驚く。
「だって、テンション高く、ということは、文字通り緊張が高いんでしょ。そうやって緊張を高めて物事に臨むことって、ストレスフルなのかもしれませんよ」
目からウロコ。
確かに講演などでエンジンをかけるとき、エンジンの回転数をローギアでグイグイ引っ張るかのように高めて、速度を高めてから全速力で突っ走る、というパターンが多い。そういえば一昨日の講演も、「1時間半マシンガントークのように話し続けておられましたね」と司会の方に言われたし、そう言われることは少なくない。僕自身、それが自分なりのスタイルだ、と勝手に思いこんでいた。だが、実はそのスタイル自体が自分自身に緊張をもたらし、つまりはストレスの原因であり、かつそれに無自覚(=無痛)であるとするならば・・・。
そう考えると、診察室であっけにとられて、グラグラと目の前の常識が崩れ去るような、そんな時間を味わった。そして、主治医に今回処方された漢方薬が、気を静める効果を持つ薬。実際それが効果をどう現すかわからないが、飲む際にはいつも意識する。確かに自分自身、緊張しいかもなぁ、と。それを、まくし立てて喋る事で、誤魔化しているのかもなぁ、と。
まくし立てること。
これは、先制攻撃的に、ガツンと自分がパンチを食らわせる事で、相手を威圧する手法。タレント弁護士出身でワンフレーズポリティックスがお得意の某府知事なんかも、この手法。もしかしたら彼自身も、テンションの高い、つまりは緊張しいなのかもしれない。そう言えば独善的で強引な発言が目立つなぁ・・・。
でもまあ、そんな他人の批判はよろしい。僕自身の実存にとって、この「緊張しい」という問題は、自分のストレスの自覚、「痛み」の自覚のためにも、大きなパラダイムシフトをもたらす効果がある。多分以前からそのことを知っていただろうに、10キロ痩せた変容をとげた今だからこそ、その話題を「言っても良い時」であろうと判断され、ご教示頂いた主治医も、なかなか鋭いなぁ、と感じる。そう、人は説得ではなく納得しなければ変わらない。自分自身が、納得のレセプター(=感受性、心の器)を拡げないと、その本意をきっちり受けとめられない言葉がある。二元論的発想や、ガンバリズム的消費社会イデオロギーにどっぷり染まっていた9年前には、そんな指摘は、絶対に受け容れられなかっただろう。だが、今だからこそ、体重の変容を通じて五感や五臓六腑のセンサーに耳を傾けられるようになったからこそ、次の、本質的課題が、目の前に提示されているのだ。
自分の、緊張(テンション)が高い、という現実を、自覚した上で、どう折り合いを付けて生きていくか。
多分勝手な想像だが、抗ヒスタミン薬の服用という対処療法では解決出来ない根本的な花粉症治療とは、生き方を見つめなおす事、だとも思う。
だからといって、講演や対外的な仕事を断る、という短絡的な問題ではない。今日もこれから松本で研修を頼まれている。また、どうも自分はそういう支援現場の職員エンパワメントという臨床的な仕事は嫌いではないだけでなく、そこそこ出来る力も持っていて、かつ世間にも求められているようである。ただ、講演の際、もう少し肩の力を抜いて、リラックスして、伝える、というのも大切なような気がする
講演を始めたのも丁度博士号を取り終わったあとの8年ほど前からだったが、とにかく実力不足を実感していたので、力を入れて、メッセージを込める、ということを、重視していた。今でも「情熱的な講演」とも言われる。でも、それって裏を返したら暑苦しいだけ、とも言える。また講演以外でも、研究会や学会発表の場でもその傾向があるようで、知り合いの研究者の中には「元気だけが取り柄だね」と揶揄する人もいるし、「うるさい」としかめ面する人もいる。今までそれは故無き誹謗中傷だと思いこんできたが、案外それは、僕自身のある一面の真実を照らし出している、とも思えてきた。そう、うるさい、のである。そう言えば、先週の某研修の感想にも、一人だけそう書いていた人もいたっけ(笑)
自分の弱点は、自分の個性や本質の表れである。直したくなければ、別に直さなくてもいい。でも、それを無痛と思わず、何らかの「痛み」を感じるのであれば、虚勢を張らず、そのことと正直に向き合っても良い。最近、そう思い始めている。それが、身体の五臓六腑や五感のセンサーの感度の上昇、体調や体温の微妙な変化への気づきとも同期していると思う。
ならば、2月3月は講演が多いが、その一つ一つの講演も、内容を伝えるだけでなく、伝え方(=形式)で、どう緊張を下げ、かつその中に魂を込める、という技芸が磨けるか、も考えないとと思う。本当の臨床家は、メッセージを届ける、だけでなく、相手に受け取りやすい内容と形式で届けている。自分自身にとって、その部分は、生き方の模索であり、かつ花粉症の治療でもある。近視眼的現世利益と、中長期的実存の問題は、「テンションの高さ」というところで、離れがたく結びついている。これとどう向き合うか。明日で年男を迎える自分の、これからの課題でもある。

支援という探偵業

つい、先日の話。

ある学生のレポートを見ていたら、明確なコピペの疑いが強かった。彼ら彼女らの息づかいとは違う文章が書かれていると直感で感じたら、とりあえず最も違ってそうなフレーズやセンテンスをグーグルでひいてみる。すると、今回の場合は一発で出てきた。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら」(「もしドラ」)の読書感想文だったのだが、とある小論文添削会社のHPに載せられた感想文の例を、大部分パクっていた。上下を入れ替えたり、部分的に言葉を直したりしているけど、カットアンドペーストそのものである。証拠を印刷した上で、学生に聞いてみた。
彼は、すぐにコピペであることを認め、こう言った。
「クラブで忙しくて、大会も続いたから・・・」
クラブやサークルで忙しい事は、理由にはならない。現に、うちはトップアスリートの学生も多いが、海外遠征などで忙しくても、課題をきちんとこなす学生を何人も知っている。今年元アスリートだったゼミ生の卒論は、めちゃくちゃレベルが高い内容を書いてくる。文武両道の学生は、うちの大学には沢山にて、それが大学の幅の広さ、層の厚さの基盤をなしている。なので、同じアスリートの仲間に対しても、「クラブで忙しい」なんて泣き言は、「ふざけるな」と言われるぞ、と言うと、彼も頷いた上で、次にこういう言い訳をした。
「でも、どう書いていいのかわからないから」
「もしドラ」を本当に読んだのか?と聞くと、「読んだ」と答える。一応僕も読んでいるので、あらすじを言ってもらうと、確かに最後まで読んだようだ。「ほんならなぜちゃんと自分の言葉で書かないの?」と聞くと、「どう書いていいのかわからなかったから」という本音が出てくる。「例えば君のクラブに引きつけて考えた時、参考になること、同じようなことはなかった?」と聞くと、「それなら一杯ある。例えば・・・」としゃべり始めた。「それを書いたら、立派な感想文だよ」というと、先ほどまでしんどそうな顔をしていたのが、急に笑顔になって、「それなら今週末、書けます」ということに。じゃあ月曜日までにメールで送ってね、と伝えて、話が終わった。
僕は、このエピソードに、支援の本質の一端が現れているような気が、昨日からしている。それは、昨日の相談支援の現任者研修で、このエピソードを話しながら、こんなふうに繋げてみたのだ。
コピペというのは、明らかに「ダメ」な行為である。れは、間違いがない。しかし、学生が「ダメ」である行為に踏み込んだ時に、「ダメだ」と頭ごなしに言っていても、生産的ではない。
もしこの学生のように「ダメだ」ということを内心分かっていた学生でも、それなりの理由があって「ダメ」な行為をした方が利益がある、と思ってやっていたのだから、それを「ダメ」と言っても、相手は損得勘定の利益計算をして、「怒られておけばいい」「言い訳をすればよい」という表層的な理解で終わる。また、もし相手がなぜ「ダメ」なのか理解していなかったら、単に「先生に怒られた」というイメージしか残らない。「意味も分からず怒られた」と思った場合には、逆ギレしたり、あるいはパニックになるかもしれない。
どちらの場合であっても、「ダメだ」と伝えるだけでは、全く「ダメ」であることには変わりない。
では、どうすればよいのか。
「ダメ」である行為をした相手とは、その行為をしてしまったし、これからも繰り返す可能性がある、という意味で、何らかの支援を必要としている人とする。そして、こちらは「それがダメである事」を知っていて、その「ダメ」を注意して、直したい、繰り返して欲しくない、という支援をする側である、としてみる。
叱責型解決法は、両者が「ダメ」であることを知っていて、また相手を叱責し、突き放して自分で考えさせれば自ずと「ダメ」な理由と解決方法がわかる、という考え方である。ある種、我が子を谷に突き落とすような、「かわいい子には旅をさせろ」的な、経験から自分で学べ、という姿勢である。ある程度、相互扶助的ネットワークや親戚・近所づきあいが強かった時代においては、突き放しても、近所のおじさんや、親戚のオバサンなどの別のロールモデルから、かくまって貰ったり、叱咤激励してもらう中で、何となく理解し、乗り越え、成熟する、というモデルも「あり」だったのだろう。あるいは、センスの良い子なら、そういうものがなくても、自分で考えて、獲得していく人もいるかもしれない。
だが、ここで論点として取り上げたいのは、そういうセンスが特段良くない場合、あるいは怒られても繰り返す可能性がある場合である。叱責が効果的に本人の態度が変わるきっかけとはならないケースだ。
その場合、叱る、という行為で何とかなる、と思っている、支援するこちら側が、何らかの態度変容が求められている、とは言えないだろうか。
「あいつは叱っても全く言う事を聞かない」という時、それは自分が「叱る」以外の支援アプローチを持っていない、ということを図らずも口にしている、とは言えないだろうか。そして、それは、プロの支援者(福祉であれ、教育であれ)としては、失格ではないだろうか。
最近、支援とは、ある種の探偵業に近い、と思っている。
探偵とは、自分の眼鏡を相手に押しつける人ではない。今、検察が信頼を低下させているのは、最初から結論を決めて、それに発言を無理矢理誘導する、という、探偵としてあるまじきやり方をしているから、である。その辺りの詳しいいきさつは、「国策捜査」という言葉を流行らせた佐藤優氏の著作を読めば、その論理構築の無理矢理さ加減の記述は、枚挙に暇がない。
だが、本当の探偵なら、全くその逆で、状況の中から、メッセージの痕跡を拾い集め、それをつなぎ合わせる中で、真の理由を少しずつ推理し、試し、解決へと導いていく。ただ事件と支援の根本的差異は、殺人事件なら、「真の犯人」は、特定可能かどうかは探偵の腕次第だが、必ずいる。しかし、支援の場合、「真の理由」なるものは、ある種本人と社会の相互作用の中で、変容する。動機も行動も、本人と環境の相互作用で変化する。そういう流動性があることが、殺人事件と支援では、異なるが、とにもかくにも「自分の眼鏡」を押しつけても、何も解決には導かないことには変わりない。
先のコピペ学生の場合、たまたま僕が叱責型の限界を感じていて、また時間もあったので、コピペする背景には何があるか、を相手と共に探ることが出来た。だから、短時間で表面的理由(クラブが忙しい)の背後にある真の理由(どう書いていいのかわからない)という所に結びつき、それを変える為の支援(クラブの内容と似ている所に引きつけて書いてご覧)と言えば、じゃあ週末に書けますという解決策を導くことが出来た。
これを、例えば「問題行動」「反社会的行動」をする人の支援、に当てはめてみると、僕などより遙かに大変長いプロセスがあるが、ある種の共通性はあるのではないか、と思う。本人がその行為が悪い、ということが理解できていないかもしれない。あるいは「ダメだ」という言語的コミュニケーションを「叱責的解決」と理解できず、パニックになったり、暴れ出すかもしれない。言語的コミュニケーション自体が苦手な場合もあるかもしれない。でも、支援する側としては、探偵になって、何がその背景にあるのか、どういう場面でそういうことが起こるか、繰り返されるとしたら何が鍵となっているか、を探しながら、少しずつ本質に迫っていき、本人が「ダメな行為」をする事で表現したかった事を理解し、それをしないでも済む為の方策を探りだそうとする。これは、力量ある支援者なら、当たり前のようにやっている支援の王道でもある。
だが、これには時間と手間が相当にかかる。一言で言えば、面倒くさい。それに比べると、叱責モデルは、こちらの規範に相手を従わせるだけで済むし、探偵の手間と暇も必要ないし、何よりラクだ。だから、人は支援する側-される側の権力性にものせられて、気づいたら叱責解決モデルを採用する。
こう書いていて、気づいた。「しばる・とじこめる・くすり漬けにする」、という安易な暴力装置に頼る解決方法も、実は叱責モデルの延長線上にあるのではないか、と。精神科病院や入所施設で、認知症高齢者や知的障害者、精神障害者が「問題行動」を起こした際に、言っても聞かないから、としばしば取られる「解決策」。これは口での叱責が聞かない場合の、「処置」としての「叱責」ではないか、と。そう言えば、懲罰的に一ヶ月とか保護室や静養室(共に外からは鍵がかかるが中からは開けられない個室)に閉じこめている例は、未だに見聞きする。これも、支援する側の思考停止・思考の省略に陥っている帰結ではないか、と。
そして、かく言う教師の僕自身だって、言葉での呪縛や行動の固定化(とじこめる)、あるいは一定のやり方しかないという洗脳(ある種のくすり漬け)で、安易に問題を解決しようとしていないか。自分の歪みを相手に押しつけようとしていないか。相手を導く、と思いこみながら、やっていることは無自覚で破壊的な権力行使を行っている場合はないか。そんな問いが突き刺さっている。
むろん、ここに書いた事の半分も、当の場では話せなかったけれど、自分自身の課題として、喉に突き刺さっている。まずは、この問題について、もう少し探偵業を続ける必要がありそうだ。

日常世界の蓋を開ける

一昨日、ある本をきっかけに、ツイッターに連続書き込み(連ツイ、なんて言っていますが)をしていた。こんな感じだった。
takebata1/29 11:59
『影の現象学』を読み終える。道化論を読んでいて、1年半前、僕もバリのバザールで道化に出会っていた、と気づかされた。あの頃から、僕の中で「影」が胎動し始め、少しずつ抑圧の水門から漏れ出て着始めた、と考えると面白い。ちょうど合気道にはまり、心身二元論の殻の限界を感じていた頃でもある。
takebata1/29 12:02
僕にとっての「影」とは何か? 何に光をあて、何を置き去りにしていたのか。その事を、他者の光と影の分析物語を読みながら、ぼんやり考えていた。村上春樹は河合隼雄とはおしゃべりはするけど、彼の著作は読まないと断言していた。確かに、大変よく似ているが故の、直感なのだろう。
takebata1/29 12:06
正月休みに「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み直していた。影を無くした世界と、暗闇で闘う二つの世界の交錯物語。これは「影の現象学」と重ね合わせると、大変味わいの深いテーマである。どちらがよい、のではない。どちらの道を辿っても、漸近線に到達する良さなのだ。
takebata1/29 12:08
実は、僕は村上春樹全作品の中で、今まで「世界の終わり…」が一番苦手な作品だった。その世界に入り込みにくいと感じていた。「ねじまき鳥…」に訳も分からず埋没していたのとは、対称的だ。だが、「影」について今回考える中で、今だからこそ、ようやくあの作品と向き合えるようになった、と感じる。
takebata1/29 12:11
アクセルを踏み続け、七転八倒してきたのが、20代後半から30代前半だった。一筋の光を求め、影を封印してきた。ようやくうまく回転し始めた後になって、自分の中での空虚さが見え始めた。それが「影」の主題化だったのかもしれない。そして、影と共に生き始めると、違う味わいを感じ始めている。
takebata1/29 12:14
20代を思い出すと、モノクロで単調な印象しか残っていない。それはそれで必死だったのだろうけど、この二年ほどの鮮やかさとは、違う感じもする。あるいは、実はその頃こそ、暗闇の真っ直中にいたのかもしれない、とも思う。今、潜り終えたから、客体化して見れるようになったのかも。
takebata1/29 12:18
善と悪、光と影、天と地…単純な二項対立にすがり、正義の審問官の立場を求めると、息苦しい。両者を認識し、そのバランスを体感的にとりながら、どう自分の中で育んでいけるか。そろそろ、自分の風向きも変わってきたのかもしれない。
『影の現象学』とは、河合隼雄氏の講談社学術文庫に収められた名作。この間、割とフーコーや現代思想に関係する本を読んでいたので、何となくバランスを取りたくなって読み始めた。その中で先述のトリックスター=道化論が大きなフックになったのだ。
バリ島に初めて出かけたのは、2009年の9月。数年前から沖縄や台湾などのアジアに急に興味を持ち始め、昔出かけて良い思い出が無かった奥さんを説き伏せて、バリ島に出かけたのが、丁度1年半前。かなり奮発して高級ホテルに泊まっていたのだが、道化にあったのは、バリ島の中心地、デンパサールの市場。突いて2,3日目で、まだ土地勘もバリの流儀もわからず、かつ疲れていて、暑い市場。地元の人ではない人はあまり見変えない、ディープな場所。そこに、奴がいた。
「気を付けて!」
ゴミゴミした街にグッタリしていた僕に、妻の鋭い一言が投げかけられる。何ごとか、と思ってみてみると、ナップサックのチャックが半分開いている。そして後ろを振り返れば、奴が居た。袖半ズボンで、にたにたしている、「住所不定無職」という言葉がピッタリ似合いそうな同世代風の男。変な声をかけながら、後ろからブラブラついてくる。非常に鬱陶しくて、またすられかけた事に腹も立って、とにかく妻と歩き続けた。すると、ずっと笑いながら、マニー、なんて声をかけながら、着いてくるのだ。更にうちの奥さんが振り返って厳しい目線をかけたら、物陰に隠れて、いないいないばあ、みたいな事もしてくる。呆れてものも言えず、とにかく止まらず歩いて居た。彼は地元のごろつきとしては知られているようで、途中、市場のオバサンに「こら、何しとるかぁ」みたいな現地語で怒られている。でも、我知らぬ顔で「こんちわ」なんて言っている。そんな「奴」だったのである。それが何故、道化だったのか。
「影の現象学」においては、山口昌男のトリックスター論に依拠しながら、道化の現れるカーニバル(=市場)という祝祭空間とセラピールームの共通性について、次のように整理している。
「それは『開かれた世界』であり、人々の『自由な接触』を可能として、そこでは誰も『平等、または対等』であり、人や物が常に移動する『流動性』が存在する。そこで人々は所有物を手放したり、獲得したりする『変貌』を経験し、そこに生じる増幅された声、音、笑いなどは『非日常』のイメージを喚起する。そして、『これらのイメージが分かちがたく融合されて、市場の『象徴性』が成り立つはずであり、それは日常世界を支配する<分けられた><距離感を主軸とする><固定的な><変わることのない>生の形式と対立するはずである」(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫、p222)
僕が出会ったごろつきが、単なるスリか道化なのか、という真相は、むしろどうでもいい。それより、その時には単なるグッタリする思い出にしか過ぎず、忘れていた何かを、河合氏の著作を通じて、新たに再解釈した中身の方が、僕にはアクチュアリティのある面白さだ。つまり、僕はバリ島で、カーニバルに出かけて道化に出会い、セラピールームの如き変容の過程にいた、という仮説を立ててみると面白いのではないか。それが、上記の連続ツイートに繋がっていく。
2009年と言えば、肩書きが准教授に変わった後でもある。気持ちは大学院生の自分にとって、何だかしっくりこずに、またその立場にも慣れていないのが正直なところであった。また、その一方で、世間的な肩書きは増え、社会的な仕事も増えていく。「対等」「平等」な仲間との付き合いよりも、「先生」と言われる機会も増えていった。自分の中で様々な何かが固着し、流動性を失い、このまま静かに沈殿していくのではないか、という無意識の恐怖を感じていたのかもしれない。それが、バリに行く少し前に始めた合気道でもあった。上記で少し書いたが、合気道では、先生として敬われることもなく、一初心者としてリセット出来る。毎回練習する技が、なぜ、どうしてそうなっているのか、さっぱり分からない。バンバン投げられる。でも、それがなぜだか気持ちいい。そうそれは、<分けられた><距離感を主軸とする><固定的な><変わることのない>日常世界では味わえない、ある種の非日常性だったからではないか、と今なら感じる。
その中で、日常世界を大過なく過ごすために抑えつけていた蓋を開け、心の中での「流動性」を取り戻し始めたころだからこそ、バリではそれとは気づかずに道化に会い、また少しずつ「変貌」もし始めたのかも知れない。そう言えば、と思って、その時のバリ島の記録を今、検索をかけて見直してみて、笑ってしまった。山口昌男も村上春樹も、ちゃんとバリ島で読んでいるのである。繋がっていますね。
あと、村上春樹の事をツイッターで書いていたので、彼の該当部分も探し出してみた。
「僕は、ユングの著作ってほぼ読んでない。ただ僕が物語という言葉を出したときに、それをいちばん正確に受けとめてくれるのは、やっぱり河合(隼雄)先生かなという気はするんですよ。僕は、河合さんとは難しい話はほとんどしないんです。会ってもバカ話ばっかりしてるんだけど、ときどきふっと『物語』という言葉が出てきて、あ、この人、僕の考える物語っていうのがどういうものなのかをちゃんと知っているんだなという風には思いますね。そういうのがあんまりわかり過ぎちゃうとまずいと思うから、あんまり話さないようにしているんです(笑)」(村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋 p108-109)
また、昨日出たばかりの彼のエッセーを集めた本の中にも、こんな一節が載っていた。
「僕は何度も河合さんにお目にかかって、話をしているんだけど、本当に核心に突っ込んだ話をしたことはなかった。『そういう事を話すのは、もう少し時間を置いた方がいいだろう』という気がしたから。しかしそうしている間に河合さんは病を得て亡くなってしまわれた。本当に残念です」(村上春樹『雑文集』新潮社 p320)
村上春樹と河合隼雄といえば、一冊だけ短い対談を『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)という形でまとめている。だが、その本では、確かに物語論の入口はあっても、あくまでもイントロダクションで終わっているような気がしていた。もちろん、お互いがその「物語」の深淵について、少なからぬものを共有していながら、『そういう事を話すのは、もう少し時間を置いた方がいいだろう』という直感が、それ以上の二人による共通の井戸掘りの可能性の機会は、遂に訪れないままとなってしまった。
そこで、僕が勝手に想像する二人の「物語」論の共通性について。両者とも、単純な二項対立や、システムという名の日常性を重視していない。村上春樹の小説は、現実という表層のすぐ下に、恐ろしい魑魅魍魎や純粋な悪の世界が跋扈していて、たまたま開いた裂け目から、その悪に引きずり込まれた(=召還された)「僕」が、それとどう闘っていくか、を主題にした内容が多い。これは、河合隼雄氏が「影の現象学」で述べていた、夢の中でどのような事が主題化され、それが生きている日常世界と、その本人の中でどう繋がっているのか、についての考察と共有する部分が高い。共に、自分がコントロール出来る範囲の自我だけでなく、その背後に拡がる広大な自己の世界を描くため、負のエントロピーの高い統制されたシステム的物語からは、かなり逸脱している。だが、それだからこそ、太古の神話性とも共通する普遍性が高く、両者とも日本語話者以外の広い世界でも読者を獲得している、とも言える。つまり二人とも、日本語というエクリチュールに依拠しながらも、その文体や話法に限定されない普遍の深みに、物語という方法論を通じて降りたっているのではないか。
さて、この考察が正しいのかどうか、はわからない。だが、村上春樹と河合隼雄の両氏は、膨大なテキストをアウトプットしている。村上春樹氏は、これからも出し続けてくれるだろう、と、ファンとしては期待もしている。だがその一方で、僕は二人の物語論を受け、僕自身が抱く影や悪、システムについて考えながら、自分なりの物語を描き出せばいいんだ、と少しずつ思い始めている。偉大な二人の先達から受け継いだ(と勝手に思いこんでいる)バトンを、僕という個性を通じて、どういう形で表現していけばいいか。それを、いつまでも先達に甘えているのではなく、自分ならどう書くか、を考えたいと思い始めているのだ。
日常世界を大過なく過ごすために抑えつけていた蓋を開け、心の中での「流動性」を取り戻し始めて、はや一年半。日常世界と少しずれたところで、沢山の事を感じ、考えてきた。それが、少しずつ、シントピカルに繋がっている。また、関連性を、自分の中で見出す中で、今、この本と出会う意味や必然性(=妄想?)が、以前より強まっている。
連ツイの最後の言葉が、今日の締めくくりにもピッタリだ。
「そろそろ、自分の風向きも変わってきたのかもしれない。」

取り戻し、産み出そうとする予感

物語を書き始めようとしている。

といっても、小説ではない。ある一つの主題を巡る、大状況と個別具体の人々の交錯関係を巡る物語。年明けから、少しずつそのテーマが響いている。そのことを何人かの同僚にお話しすると、関心にピッタリとあう本をご紹介下さる。たまたま手にとって読み進める本が、「ストーリーテリング」の方法論や、あるいは分析の視座を構築する際、非常に役立つ何かだったりする。
セレンディピティ
偶然性の産物。単なる錯覚、なのかもしれない。もともと向こう見ずな表面と、どこかで手堅さを求める深層の二面性を持つ自分にとって、深層の自分は表層を抑圧的に見てきた。それが、良い意味では抑制と自己統御になり、悪い意味では偏見や囚われ、ともなっていた。
昨年の途中当たりから、そのシャッターを下ろす防御機制の水門を、開け始めた自分がいる。様々な流れが、一気に体中に流れ込み、一時は溺れそうになりかけた。心がかき乱されるとはこういうことか、と実感したこともある。だが、徐々にその水圧や、新しい流れとも、うまくフィットするようになってきた。
新たな流れを受け止め、日常の自分に戻った時、これまで自分が死蔵していてすっかり忘れていた様々なパーツがくっつき始めている。今まで「関連づけ」というものは、表面的には意識していたが、学問的なルールに従う事が「適切な身振り」であると無意識的に感じ、あまり旺盛な「関連づけ」をしていなかった。だが、「遠い太鼓」がなっているなら、その通層低音に耳をそばだて、とにかく音の出る何かを探り当て、論倫的にどう繋がるかの前に、感覚としてまずくっつけてから考えてもよい、と思い始めた。論理より直感を大切にし、自分のテーマに大切にしよう。そう思えば、いわゆる「守備範囲」から外れる、と外形的に思われる本であるか否かは全く関係なく読んできた。
そして、その経験を重ねていくうちに、少しずつ、物語として何かが書きたい、というイメージを強く持ち始めた。それはちょうど村上春樹氏のインタビュー集を読み終えた頃から、明前となり始める。僕にとって、村上春樹氏の著作全ては、自分の人生の中で、かけがえのない何かであるとこは間違いない。折に触れ、何度も読み直している。だが、まさか彼の作品を読んで、自分も物語が書きたいと思うなんて、想像だにしなかった。
だが、彼が物語の創作の秘密を語るインタビュー集の中で、物語作成について、深い井戸を掘り、何らかの普遍(それが純粋な悪という形態を取る場合が多い)とアクセスする「僕」の物語を書き続けた著者の、普遍とのアクセスについての物語創世記から、強い影響を受けた。そう、井戸を掘って、私という個性を通じて、普遍の魂にアクセスする。それなら、僕にだって出来るし、確か以前掘った井戸がある。その井戸は、博論を書く混乱の中で、8年前に掘り終えて、そのまま放ったらかしてある。今、その井戸を模倣するのではなく、もう一度新たな気持ちで、一から掘り直してみたら、色々なものと出会えるのではないか。
そう思い始めると、読書においても、様々なものがシントピカルに見えてくる。多分、書きたい物語が具体化・前景化し始めたので、それとの「関連づけ」で様々な本と接していることが、大きな理由だと思う。まるで探偵であるかのように、様々な断片をつなぎ合わせて、推理の仮想実験をしていく過程。ボンヤリとした枠は決まったものの、その内実はまだ、謎だらけ。ゆえに、一つ一つの断片が、パズルのピースをつなぎ合わせるような楽しさ。
今朝書いているこのブログも、こんなことを書くとは全く思っていなかった。そもそも、普段のこのブログは、他人のテキストと対話しながら、考えあぐねがら、1時間とか2時間かけて書く、というのが定番だった。たった半時間も経たないうちに、わーっと自分の想いをまとめていく、というスタイルのブログではなかった。
そういう意味では、昨晩飲まなかったので、久しぶりに河井隼雄氏の『陰の現象学』を何となく読み直し始めた影響が大きいのだと思う。これも自分はまだ学部生だったころに確か読んだきりだった。あのころの記憶は全く忘れているが、多分すごく難しく感じながら、読んでいたのだと思う。一回り以上たって、今の自分は違う読み方をしている。それだけでなく、あのころより色々な形で、自分の今と「関連づけ」を意識化出来ている。お勉強として学ぶ、のではなく、アクチュアルな自分の課題と関連づけながら、読み進めている自分がいる。そうして、その影響を受けて、このブログで、表面上の取り繕う自分の水門を文章でも外して、とにかく感覚的に書き飛ばしている自分がいる。そして、書き飛ばしてみて、案外面白く繋がっていくことに気づいている自分もいる。
別にシュールレアリズムやオートマティズムではない。確実に僕の意識は文章に関与している。
これに関連して、思い出したことがある。もう10年以上前の大学院生の頃、人生が八方ふさがりになった時期があった。その頃、僕の言動によって、様々な方々に多大な迷惑をかけてしまった。それまでは、今よりも遙かに勝手なほら吹きが多かったが、その反面、文章も伸びやかに、というかある種の無知な純朴さで、感覚的に書き飛ばしていた。その中に面白さの断片があったようで、あるミニコミで何度か連載を持たせて頂く事もあった。だが、僕の中では衝撃的なその事件以後、感覚的な側面で書き飛ばす、という事を、見事に封印した。蔵の奥底にしまい込んで、重くて厚い扉をしっかりと閉め、出てこれないように閉ざした。
封印と言えば、もう一つ思い出すのは、昔、僕は小学校時代からラボという英語教室に通い、そのテープを繰り返し聞いていたので、ヒアリングも発音も、割と出来ていた。だが、中学の塾に通い始めた時、過度な巻き舌が、周りの仲間の嘲笑の的になった。それ以来、僕はその巻き舌を封印し、以後月並みなジャパン・イングリッシュ使いになったのを思い出す。今、その封印を解いてもよいと頭で分かりながら、巻き舌が使えない自分がいる。
そう、過去に封印したものは、それを解いてもよい、と思っても、なかなかその封印は解かれない。自分にかけた呪縛は、ほどけるまで時間がかかる。だが、もしかしたら感覚を重視させた文章を書く、という事は、今少しずつ解凍され、その書き方を思い出しつつあるのかもしれない。ただ、以前とは全く同じではない。論理の規制というか伴走者がいる。その伴走者と共に、でも直感的に魂が、僕の個性という乗り物が感じる事を、書き出してみて、見知らぬ「あなた」へとアクセス出来ないか。その手段として、ある物語を書くことが出来ないか、と感じている。
そろそろ始まりの時なのかもしれない。

「厳しい自律」ゆえのハイパフォーマンス

前回のエントリーのタイトル、「魂がわたしにおいて考える」というフレーズが殊の外気に入ったので、そのままエントリーをせずに2週間たってしまった。

このようなエントリーをすると、「宗教臭い」「精神世界系にイッてしまったのでは?」「科学的手続きを無視しているのか」などという批判があるかもしれない。以前の僕なら、そういう「世間の目」を気にして、あまりブログでもそういうことは書かなかった。だが、「正しく考える」とは何か、を終生考え続けていた池田晶子さんの著作を読み直す中で、そういう表層的な批判ではない、本質的な何かを、このフレーズを通じて学びつつある自分がいる、と改めて気づかされる。
「普遍を経験する個人固有のやり方、それが個性である。もし小林の言葉が、己の個性を主張するためのものであったなら、なぜそんなものが他人に感動をもたらすことが可能だろう。彼の言葉が彼の個性によって、われわれの普遍に触れている、われわれの心は敏感にもそれを感じて、それに感動を覚えるのである。感動とは、生もしくは心が、自身に深く触れたときに生じるわななきのようなものだろうか。」(池田晶子『新・考えるヒント』講談社、p107)
小林秀雄の「言葉」を用いながら、別の観点から同じ事を照らし直す池田晶子という作家の力量が存分に現れている一冊。7年前より、今の方が滋味深く感じられ、読み直す中で様々なエキスを頂く。その中でも、もっとも今回グッときたフレーズが上記の中でも、特に次の一節。
「普遍を経験する個人固有のやり方、それが個性である」
たった一行で本質を突いている。そう普遍という魂は、私という個人固有のやり方を通じて、現前に現れる。だからこそ、「魂がわたしにおいて考える」=「個性」でもある、といえよう。その時、考えられた言葉は、個人というビークルに乗って運ばれてくるが、「彼の言葉が彼の個性によって、われわれの普遍に触れている」からこそ、受け手側も「感動を覚える」のである。
更に続けると、この個性とは、決してエゴや自己主張の類ではない。「私」の存在証明や自己顕示欲の陳列をしている限りにおいて、自分の殻の内側の壁を越えることが出来ない。そう言えば養老孟司氏はそれを「バカの壁」と言っていたような気もするが、その時代のドミナントストーリーを鵜呑みにして、それに無意識に依拠しながら他人の悪口を言って糊口をしのいでいる「評論家」にこそ、まさにその壁が当てはまる。更に言えば、全てを唯脳論的に語りながら、実は私を越えた普遍にアクセスする氏の語り口は、あれはあれで「普遍を経験する個人固有のやり方」という意味での「個性」なのだと思う。
すると、ここで月並みな、でも僕自身にとってはアクチュアルな問いが、回転して突き刺さる。
「タケバタ自身の発言は、『私(=エゴ、自己顕示欲、バカ・・・)の壁』を越えているのか、個性といえる何かなのか?」
現在はどうか、は後になって振り返ってみないとわからないが、残念ながら自信を持って言えるのは、20代後半までは、特にこの壁の中でもがき苦しんでいたような気がする。
きちんと考える事が出来ず、単に焦ってばかりいた20代後半。大学院生という不安定なポジションで、ひたすら声高に、わあわあ叫んでいた。「○○は間違っている(オカシイ、変だ、ダメだ・・・)」と口泡飛ばして力説している時、実は「そう主張(査定)している私こそ正しい」と言う事を、他人に認めてもらいたくて仕方なかったのかもしれない。そういうゆがみ・ひずみは、男子より女子の方が直感的に感知しているようで、とある年上の研究者から「元気だけはいいね」といつも皮肉を言われていた。力説の内容よりも、その口調への皮肉に終始する彼女に、内心すごく腹立たしかったが、それは彼女が僕自身の内容の薄っぺらさが形式に現れていることを、直感的に指摘してくる事に、耐えられなかったから、かもしれない。つまり、自分の歪みが、自分の発言に全面的に現れていたのだ。そりゃ、喋れば喋るほど、他人は説得されるどころか、拒否的反応を示すのも、実に真っ当だ。そうやって、悪循環のサイクルに陥っていた。
その悪循環から、どうにかこうにか抜け出せた(と思いこんでいるだけかもしれないが)のは、おそらく30代で大学の教員になってから。ブログを通じて、ずっとこの「査定者の無謬性」問題を考え続けてきたのも、大きな助力にはなっている。だが、それよりも大きかったのは、大学院生の頃は「参与観察者」という傍観者の立場だったのだが、それ以後の現場では、アドバイザーなどのより踏み込んだ形で関わるアクション・リサーチ的立ち位置が求められるようになった、というのも多い。簡単に言えば、「高みの見物」という名の「傍観者的批評家」では済まされず、現在進行形の何かにアクチュアルに関わる事が求められ始めたのだ。その時、言葉の責任と重みを改めて再認識させられると共に、軽い言葉では現場では全く通用しない事、いい加減な言葉使いや態度では現場を荒らすだけでまとまりが付かないこと、正しい言葉できちんと伝えることが出来れば現場の変容に役立つこと、などを、体験しながら学んで来た事が大きいと思う。
現場の変容の支援とは、一言で言うならば、その現場の雰囲気を正確に掴んだ上で、そこに作用するゆがみやひずみを突いて、ダイナミズムを変容させる、という仕事だと思う。その際、自分のこれまでの経験や先入観という「私」に左右されていては、決して現場のリアリティに届かない。自分の枠組みを相手に当てはめたところで、何の解決も産まないどころか、返ってゆがみの肥大化に寄与してしまう。百害あって一利なし、になりかねない。
その際求められるのは、まずはひたすら虚心にその現場の声や雰囲気を感じ、聞くことだ。そうしてチューニングが合った段階で、第三者である僕からみて、その現場に共通する論点を整理して伝えること、これがどうも「普遍を経験するタケバタ固有のやり方」であり、タケバタの「個性」であるようだ。この癖をうまくつかみ、現場で素直に活かす事が出来た時、思いもしなかった展開の中から新たな可能性が見開かれる。逆に、焦ったり、偏見の眼鏡で曇っていたりして、きちんと耳をすましたり、五感をとぎすませることが出来なかったら、出来合いのストックフレーズを押しつけて、その現場でのセッションは全く実りのないものになってしまう。
そういう経験をしているからこそ、次のフレーズは実にアクチュアルな内容として、僕にも響いてきたのだ。少し長いが引用してみる。
『「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。
「なまもの相手」というのは、要するに「こういう場合にはこうすればいいという先行事例がない」ということだからである。
どうしていいかわからない。
どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。
そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。
どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。
それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。
私が知り合った「理系の人たち」はどなたもそういう「なまの現場」に立っている方たちである。
現場にとどまり続けるためには「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要である。
そのことを先端研究にいる人たちはみんな熟知している。」
(内田樹ブログ 『特殊な能力について』
私は内田氏が挙げているような方々と肩を並べられる実力では、勿論ない。だが、この「『わからないはずなのだが、なんか、わかる』という特殊な能力」というのは、強く同感する。単なる妄想なのかも知れないが、僕も現場の方々との共同作業をやっていて、たまに『わからないはずなのだが、なんか、わかる』という経験をする。そして、その予期は、大体において外れることなく、ピタッとあたる。自分の認知の歪みや理論などに盲目的に支配されず、現場の風が意味するところを体得し、その流れに抗うことなく、でも適切に棹することが出来ると、全く予期しない場所まで気づいたら運ばれていることもある。そういう経験をしているからこそ、その後に書かれている内田氏の分析にも、鳥肌が立ってしまった。
『だから、その「特殊な能力」をどうやって高いレベルに維持するか、そのことに腐心する。
先に名前を挙げた方たちのふるまいをみていると共通点がある。
それは「やりたくないことは、やらない」ということである。
これは領域を問わず、先端的な研究者全員に共通している。
やりたくないことを我慢してやっていると、「わからないはずのことが、わかる」というその特殊な能力が劣化するからである。
どうしてだか知らないけれど、そうなのである。
だから、自分に負託された使命が切迫している人ほど「特殊能力の維持」のため
に、さまざまなパーソナルな工夫を凝らすようになる。
池上先生が水に潜ったり、三砂先生が着物を着たり、池谷さんがワインとクラシックにこだわったり、茂木さんが旅したりするのは、それぞれのしかたで「そうすると、自分の特殊な能力が上がる」ことがわかっているからである。
別に趣味でなさっているわけではないのである。
「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たちは、だから総じていつも上機嫌である。
上機嫌であることが知性のアクティヴィティを(「おめざ」のあんこものと同じくらいに)向上させることを彼らは知っているから、「決然として上機嫌」なのである。
オープンマインドとハイ・スピリット。
これが知的にアクティヴな人の条件である』
(内田樹、同上)
この中でも最も気に入っているのは『「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たち』というフレーズだ。一見すると、「やりたくないことは、やらない」というのは、ワガママに見える。この高度資本主義社会は、このテーゼに「ワガママ」という強固なタグを付けて、人々を飼い慣らしてきた。また、そうやって他律的に支配されて、マニュアル的に働いている方が、「やらない」という自律的判断を選び続けるしんどさ、断る面倒くささ、その後のコンフリクト・・・を考えるより、ラク、なのである。だからこそ、「やりたくないことは、やらない」というのは、「厳しい自律のうちにある人たち」しか出来ないのだ。
これを逆から考えてみよう。「やりたくないことをやる」ということは、マインドセットを呪縛される、ということでもある。他者の呪縛的な言葉に表面上従って、中身では反発している身体は、そのアンテナの感度を下げ、無神経・無痛状態になることで、どうにかこうにか、日々をやり過ごす。すると、考える事自体が毒になってしまうので、やがて「こんなもんでいいか」と投げやりになり、身近な安逸に専心し、その先の何かを目指そうとしない。ゆがみやひずみも、「仕方ない」と自分の中に死蔵させ、そのままにしてしまう。すると、「確定的にわかる範囲」以外の何かのセンサーも切れてしまい、狭い範囲で自閉的な繭にくるまれたような日々になってしまう。これが、「やりたくないことを我慢してやっている」ことの代償だと思う。その代償を払っても、世間の中では浮かない、という日本の風土に土着的な「疾病利益」が大きいからこそ、なかなか「やりたくないことをやる」呪縛の外に出るのは、特に日本においては大変だ。
だが、僕も30代になってから少しずつ、特に昨年の変容の後から大胆に、「やりたくないことは、やらない」という実践を積み重ねつつある。そうすると、実に体内の風通しもよくなり、従来の固い頭(=固着した精神)では受け容れられなかった様々な新しいアイデアも、すっと身体に馴染み始めている。その中で、自己主張や自己顕示欲がだんだん狭隘なものに感じられ、その先にある「わたしを通じて考える」「魂(=普遍)」へのアクセスを志向するようにもなってきたのだ。そして、その「魂がわたしを通じて考える」営みを生の現場で続けてみると、「わからないはずのことが、わかる」瞬間が、どうも増えてきたような気がするのである。
さて、この気づきからどう展開していくのか、僕にはさっぱりわからない。だが、「決然として上機嫌」というのは、これまでも、そしてこれからはなおさら、大事にして行きたいと思う。

「魂がわたしにおいて考える」

僕はフランス語が読めない。だが、最近読み囓っているものが、どうもフランスにご縁があるものが多い。そういえばある人がツイッターで僕が愛読する内田樹氏の文章を「おフランスな」と言ってたっけ。そんなミーハーな理由で手に取った一冊で、しびれた。
「ランボーは誰もが素朴に信じてきたこの図式に根底から異議を申し立てる。私たちは当然のように、考えているのは自分自身であると思っているけれども、このことはそれほど自明の事実だろうか。『私』という主語と『考える』という述語の関係は、それほど堅固でゆるぎないものだろうか。もしかすると、デカルトにならって『私は考える』というのはまちがいではないのか。むしろ私たちは、『人がわたしにおいて考える』というべきなのではあるまいか。」(石井洋二郎『フランス的思考』中公新書 p104)
「人がわたしにおいて考える」というフレーズは、ランボーが詩人になる直前の10代に、恩師の先生に送った書簡の中に記されていた有名な言葉だという。僕は、ランボーの名前だけしか知らない無教養な人間なので、もちろんこのフレーズは知らない。だが、ランボーを『フランス的思考』に含めた著者の石井氏によれば、この本で取り上げるランボーやフーリエ、サド、ブルトン、バタイユ、バルトの6人には次のような特徴があるという。
「彼らはいずれも反合理主義・反普遍主義の地下水脈から養分を吸い上げながら、それぞれ独自のしかたで豊穣な思考の地平を切り拓いてきたという点で、同じ一本のヴェクトルに貫かれている。」(同上、p30)
デカルトは、西洋合理主義、心身二元論の祖と言われ、「我思う、ゆえに我あり」というフレーズは僕でも知っている。世の中の事象全てを疑っていっても、この疑いという思考を私がしている、と言う事自体を否定することが出来ない。ここから、精神と肉体を切り離して眺める思考が生まれ、やがては神の摂理に果敢に挑む物理法則の発見というタブーも、肉体に代表される物質の客観性という視点の中から生まれてきた。だが、その「私は考える」ということに対置して、ランボーは「人がわたしにおいて考える」というのである。しかも、石井氏はフランス語の原文を検討しながら、ランボーの言う「人」について、次のように推察する。
「日本語やフランス語といった個別の言語は、私たちが誕生したとき、すでに無条件の前提として与えられていたものであって、けっして固有の人格に属するものではない。つまり、それらはあくまでも私たちにとっては純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』である。そんな言葉を通して紡ぎ出された思考が、どうして『私』という個人のものでありえよう?」(同上、p105)
「人」とは「私」という個人ではない、「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」である。ではこの「外部」や「他者」とは一体何なのか。筆者はランボーの次の一節を引く。
「多くの個我主義者(エゴイスト)たちが、自分を作者だと表明しています。またみずからの知的な進歩を自分のものにしてしまう個我主義者たちも、他にたくさんいます。-しかし重要なのは、魂を怪物的なものにすることなのです。」(同上、p111)
個我主義者=エゴイストを「私」と捉えた時に、それに対置するものである「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」として「魂」を用いる。この時、私の予感は核心につながった。「ランボーってあの人と同じことを言っている」と。
「『意識』の語と、<私>の語が、どうもうまく重ならない。『私の意識』という言い方が腑に落ちない。『私は意識』というのも変である。<私>の語がどうしても宙に浮く、どこにどう押し込めてみても、『意識』の語からはみ出してしまうのだ。『私の意識』と『言っている』その当のものを、どうしても名指せない。これは、どういうことなのだろうか。誰でもない意識は、<私>の語を『言う』ことで、誰かではない<私>となった。しばらくは、そう考える事で納得しようとしていたのである。<私>というこの奇怪な一単語、こんなものが宇宙の辞書に存在することが変なのだ、と。しかし、あるとき、<魂>の語が来た。おそらく、『言葉の魂の力』によってここにきた。それは、ピタリと、ここにはまった。
あ、納得-。
深い、納得。『なぜ』納得なのか、この事態の意味を、私は見究めてみたいのだ。全てを認識する誰でもない意識が、にもかかわらず誰かでない<私>であるのは、それが、<魂>だからである。」(池田晶子『魂を考える』法蔵館,p35-36)
そう、「人がわたしにおいて考える」というのは、「魂がわたしにおいて考える」とすれば、ぴったりと収まる。「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」である「魂」は、「わたし」において考えることで、他者と私の出会いが起こり、一人の中で思考として定着する。これは「みずからの知的な進歩を自分のものにしてしまう個我主義者」のエゴイスティックな所作とは逆ベクトルで、「わたし」が「絶対的な『他者』」という「世界」とつながる経験でもあるのだ。だからこそ、「堅固でゆるぎない」ものとされてきた「主語」と「述語」の言語的結び目の強固さを解き放たれ、世界と直接的な対話がはじまるのである。
僕が西洋哲学の古典に齧り付こうとしては挫折をし続けていたが、池田晶子氏の作品だけは自分の中で染み渡るので、ほぼ全て読み続けてきた。そして、彼女もそう言えば小林秀雄を通じてランボーのことを書いていたな、とも思い出す。冒頭で挙げた内田樹氏も、哲学の主題を非常に染み込む言葉で伝えるので読み続けてきたのと同様だ。すると、内田樹氏や池田晶子氏も、「反合理主義・反普遍主義の地下水脈から養分を吸い上げながら、それぞれ独自のしかたで豊穣な思考の地平を切り拓いてきた」という点で、フランス的思考、とラベルをつけていいのかどうかは置いておくとして、一本の線の中で繋がっているような気がする。内田氏のブログの言葉を借りれば両人とも、「コロキアルでカジュアルな文体の上に、学術的なアイディアや政治的な理念が乗っている」文章であるから、僕たちにもアクセス可能なのだ。そういえば、内田氏と対談した作家、高橋源一郎氏はこんな風にも言っている。
「内田さんは、その『ものすごく難しいもの』と『みんなが持っている経験』とがつながるような回路を見つけようとしているんじゃないかなと思うんです。」(原武史編『知の現場から』河出書房新社 p28)
そう、池田晶子や内田樹という作家は、哲学・思想を専門とする人には評判が悪い(ようにネットの悪口を見て感じる)。だが、二人の本は普段哲学・思想に手を伸ばさない人にも読まれている。そして、決して「1冊でわかる○○」のように、あんちょこ本のようにレベルは落としていない。でも、面白く、読みやすい。それは口語体という「コロキアルでカジュアルな文体」という「みんなが持っている経験」をベースにしながら、「学術的なアイディア」でかつ「ものすごく難しいもの」が繋がる回路を、文章の中で指し示しているからである。そして、そのことについて、当の内田樹氏が高橋氏との対談の中で、自身の「ニッチ産業」について、次のようなコメントを寄せている。
「そういうわずかな断片的記憶からいろんなものがずるずるずるずる出てくるわけ。コアになるような、きっかけになるような記憶の断片がそこらじゅうに転がっていて、生まれてからこれまでに溜まったそういう記憶の薄片をなめていると、蚕が糸をはくようにそこから想念がずるずると出てくる。
それまで、物を書く人というのは、特異な経験をしたりとか、際立った才能を持ったりとか、ある分野で特殊な才能を持っている人であって、そうではない凡庸な人間は、指をくわえて見ているだけなのかなと、ずっと思っていた。自分も指をくわえて見ている側だなと思っていたんだけれども、あるときにそうではないように思えるようになった。ひとつひとつは凡庸な経験で、何も特筆すべきことなんかないんだけれども、それらの中には何か僕にしか書けないもの、でもみんなと共有できるようなものが詰まっている。」(同上、p27)
決して内田氏が「凡庸な人間」だとは思わないが、でも彼がここで言っていることは、今の自分の問題意識に引きつけて、非常によく分かる。内田樹も池田晶子も、形を変えて、切り取り方を変えて、同じテーマで何度も何度も書いている。でも、その時その時の「凡庸な(=みんなが持っている)経験」の「断片的記憶」を土台として、「蚕が糸をはくようにそこから想念がずるずると出てくる」過程が、そこらの他者のブログやエッセイでは見られない味わいなのだと思う。もちろん単に感想文で終わる事は論外として、それをわかったようなわからんようなジャーゴンでくるんで終わり、とはしない。難しい議論でも、ゆっくり読んで考えれば必ずわかるような明晰さで、一見すると必ずしも明晰には思えない哲学的議論の階段を昇っていくのである。それは文字通り、「ずるずるずるずる出てくる」想念を、論理の糸でつなぎながら、階段として示していく中で、気がつけば「ものすごく難しい学術的アイディア」の核心に降り立っている、とでも言えると思う。まさに、内田・池田両氏のスタイルは、そういう凡庸な中から繰り出される非凡、という世界観の体現なのだと思う。だからこそ、ずっと僕は読み続けてきた。
さらに、最後に少しだけ附言すると、僕自身もそういうスタイルで何かを書きたい、という憧れを、もち始めている。僕は典型的に「凡庸な人間」であり、ずっと「指をくわえて見ている側」だったのだけれど、それでも記憶の断片から関連づけや連関を強める中で、養蚕的な営みとして何かを出していくことが出来るのではないか、と少しずつ感じ始めている。何が書けるのかはわからない。でも、『魂がわたしにおいて考える』なにかを、僕の持っている素材を使いながら、書き進めていくことが出来ないか。その中で、自分がこれまで出合う事が出来なかった「絶対的な他者」と出合える瞬間が来るのではないか。初夢なのか妄想なのか、はたまたビジョンなのか、よくわからないけれども、そう念じている。
追伸:「魂がわたしにおいて考える」というフレーズは、案外僕をどこかへ導いてくれそうな気がしてきた。僕がこれまで書いてきたこと、今書こうとしているテーマ、さらには将来繋げていきたい何か、も、「わたしにおいて考える」内容ではあるが、「絶対的な他者」としての「魂」とアクセスしていれば、タコツボ的学者論文ではなく、何らかの普遍的世界へと、内輪以外の読者へと、アクセス可能な文章になるのではないか、とも

文化相対性と「三角測量」

寝正月、というより、読書三昧の正月を過ごした。

本当は正月休みの間に、とあるところからお誘いを受けた英語論文の書き直しの構想を練ろうと思っていたのだけれど、あまりに年末は疲れ切っていたようで、30日になってふと「もう3日までは大学に行かない!三が日は徹底的に休む!」と決め込んでしまったのだ。それは、本当に正解だった。
今年の年越し本に選んだのは、川田順造氏の一冊。レヴィ・ストロースの訳者によるエッセイという気軽な気持ちで読み始めたら、なかなか味わい深い一冊だった。
「大日本帝国の滅亡後の新しい教科書が、まだ出来ていなかった秋の新学期には、国語や歴史の教科書の何頁何行目から何行目まで、墨を塗りなさいという、教壇の上からの先生の指示にしたがって、教科書に習字の筆で墨を塗る、いわゆる『墨塗り体験』もした。こんな素晴らしい道徳教育はなかったと思う。(略) 墨を塗りながら、子ども心におもしろく思ったのは、新聞雑誌の訂正広告と同じで、ああここが具合が悪くなったのだなと、かえってはっきり分かり、印象づけられることだ。同時に、墨を塗ればなかったことになるというのも、なんだか不思議だと思った。これはやはり、『文字に記されている』ということに、異様な価値を与える文化が生む思考であろう。(略)文字に書かれたことにこだわりすぎるのは、文字をそのまま反映して考え、動く主体性のないロボットのように、生徒をみなすことに通じかねない。」(川田順造『日本を問いなおす』青土社、p27)
「墨塗り体験」というのは、あるレジームで是とされたことが、別のレジームでは非とされること。旧体制から新体制へと移行する際に生じる価値転換に、字を消すいう原始的作業を通じて自分自身もその現場に立ち会う事によって、どの部分が「具合が悪くなったの」かがよくわかる、という経験を川田氏はしている。それだけでなく、「墨を塗ればなかったことになる」という、文字への絶対的な価値観と、逆に文字さえ消せば不問とされるのか、という問いかけを、川田少年へと植え付ける。
「後に大学で勉強するようになってからも、私には、そしておそらく私と同じ『墨塗り世代』に多かれ少なかれ共通して、書かれたもの、権威をもって教えられるものへの根強い不信感がある。その増幅された結果として、『古典』に対する信頼というものを、私は抱けない。」(同上、p28)
これは、僕たちが継承出来ている智慧だろうか?「書かれたもの、権威をもって教えられるもの」を何となく信じ込んでしまう、「古典」をありがたく信頼してしまう。これらの心性は、僕のような30代だけでなく、40代から団塊の世代にかけても存在するのではないだろうか。ある眼鏡(価値観)の偏りを直視し、常に相対的に考える、という視点をどれだけ持てているだろうか。一方川田氏は、この相対的な視点を、文化人類学を通じてより豊かなものにしている。
「アフリカの非文字の世界に魅せられて研究を続け、そこから逆に、人が会うと名刺を交換する日本の文字偏重社会にも存在する、無文字性と声の領域の豊かさに『耳を開かれ』た。」(同上、p28)
川田氏がここで書いているアフリカと日本、声中心と文字中心の対比の中で浮かび上がる文化の価値相対性の論点は、ちょうどクリスマスの頃に読んでいた、別の本と通底する論点であった。
「聴者の文化は『察すること』がキーワードになっている。だから、相手から何か聞かれたときは、その質問意図を理解した上で答えなければならない。(略)ろう者の会話では、イエス・ノー疑問文で何か聞かれたら、必ずイエスかノーで答え、相手の反応を見てから発話を続けるかどうかを決める。もし、イエスかノーで答えられる事柄でなかったら、イエスかノーで答えられることではないということを言うのだ。(略)イエス・ノー疑問文に対して、イエスかノーだけで答える発話行為は、聴者では、その質問に対して不快を持っているとか、答えたくない、ということにもなるらしい。まさに『察する文化』である。聴者のそうした会話のやりとりのしかた(選び方)があることは、頭では理解しつつも、どうしてそんな選び方をするのか感覚的に理解出来ない。(略)でも手話学習者には、ろう者的な会話の運び方を身につけてほしい。手話を身につけても、会話のやりとりが聴者的であったら、ろう者との間で快適なコミュニケーションがとれないだろうと思う。ある言語を身につけることは、その言語の話し手の文化をも身につけることだから。」(木村晴美『日本手話とろう文化』生活書院 p45-47)
日本語を話す文化と、日本手話でやりとりする文化。同じ日本で生活をしていても、手話言語と日本語は全く体系も考え方も違う。だからこそ、木村さんはこの本の副題を「ろう者はストレンジャー」とする。そう、日本語と日本手話は、同じ日本のコンテキストを共有していても、言語が違う事により、「その言語の話し手の文化」も異なるのだ。ただ、日本国内では、日本語話者の方が日本手話使用者より圧倒的に数が多いので、数の論理におされ、その事に気づいている人は少ない。アフリカの無文字文化(=文字を書かない・介さない文化)を、文字文化に比べて劣る、と勝手に線引きするのと同じような暴力性や独断性を、日本語を話さない文化であるろう文化に当てはめていないだろうか。
かくいう僕だって、先月、聴覚障害者のシンポジウムのコーディネーターを引き受け、にわか勉強を始める間では、ろう文化のことをちゃんと理解してはいなかった。そして、川田さんと同じ文化人類学者で、かつろう文化を研究している亀井さんは、手術によって部分的に聴力が獲得出来るかもしれないと言われている「人工内耳」の問題に引き寄せて、この部分を実にわかりやすく、しかし鋭く指摘している。
「自分たちが少数者となり、多数者の幸せを強要される側になったとき、初めてその気持ちは理解できるのかもしれません。人工内耳を警戒するろう者たちのことを『医療の恩恵を拒否する偏屈な人たち』のように見るのは、聴者の立場を一歩も出ていない自文化中心主義の姿勢です。ろう者が受けてきた受難の歴史や、それゆえに共有されている歴史観も含めて、文化全体の中で理解する文化相対主義の視点をもちたいものです。」(亀井伸孝『手話の世界を訪ねてみよう』岩波ジュニア新書 p142)
「耳が聞こえる方が良いに決まっている」という発想こそ、「聴者の立場を一歩も出ていない自文化中心主義の姿勢」である。これは、文字文化の方が、無文字文化より優れている、という発想と同様の自文化中心主義(エスノセントリズム)である。そして、自文化が必ずしも優れているとは限らない、ということは、川田氏が『墨塗り体験』で体感した叡智であり、これは今だって例えばPCの普及や電子辞書が、それまでの紙で書く、紙で調べる、を多いに覆す事態になっていることをみれば、よくわかる。私たちの文化の常識は、それほど脆く、アヤシイものなのに、必要以上にその常識を当たり前と受け止め、それ以外のものを受け入れる柔軟性に欠けているのである。亀井さんや木村さんの本を読みながら、僕自身が如何に日本手話やろう文化の独自性に無知であったか、だけでなく、これまで手話使用者に対して、マジョリティの日本語使用者の立場で、ある種のエスノセントリズム的な視点で接していたのではないか、と文字通り「目が見開かれた」。
さて、川田氏の本に戻ると、彼はフランスで博士号を取り、フランスの職人技術のフィールドワークもしている。また、アフリカのフィールドワークも重ねていて、さらには日本でも職人文化の聞き取りを行っている。この中から「文化の三角測量」という視点を提示する。このフレーズが気になって正月早々取り寄せた別の本ではこのように説明しておられる。
「文化の比較には大別して二つの行き方があると思います。一つは連続の中の比較で、隣接する地域の文化間における伝播、受容、受容拒否など、相互の影響関係を比較によって検討するものです。もう一つは断絶における比較で、私が提唱する『三角測量』の場合ですと、日本、フランス、西アフリカ(旧モシ王国)のように、十九世紀末まで互いに直接交渉がなく、地理的にも隔たった、自然条件もまったく異なる地域で、それぞれの道を歩んできた文化の比較です。第1の連続の中の比較の目的を『歴史的』と呼ぶとすれば、第二の断絶における比較では、まったく異なるようにみえる現象を比較しながら掘り下げることで、その現象の人間にとっての根源的な意味を、比較を通して『論理的』に問うことを目的としている、と言えるかもしれません。」(川田順造『文化の三角測量』人文書院、p129-130)
この「地測の方法から比較的に借用した」(p129)という三角測量は、二者関係からではなく、三者関係から物事の本質(=その現象の人間にとっての根源的な意味)を探ろうという方法論である。実は、ろう文化のことを考えながら、僕がもともとフィールドワークで関わってきた精神障害者の方々の文化の問題を考えていた。フーコーの解説本を読み漁っていたのも、狂気が「文化」から「治療対象」にどう変わっていったのかについて、フーコーがどのようなアプローチで迫っているのか、を知りたかったからである。
改めてこの問題を文化間比較の問題として捉えてみると、様々な疑問が浮かんでくる。例えば、ろう文化のような独自の言語を持つ手話使用者と、幻聴や幻覚、うつなどの独自の感覚を持つ精神障害者と、それらの経験のない日本人の連続性と差異はどこにあるのだろうか。あるいはた、障害者文化と言っても、自立生活運動の文化、知的障害者のピープルファーストの文化やろう文化と、精神障害の文化がどう違うのか、もこの「三角測量」的に見る事が出来ないか。更に言えば、先のブログで「今年の目標」的に書いたノーマライゼーションを巡る問題も、北欧・アメリカ・日本でこの理念をどのように受容したのか、という文化間での三角測量的に眺めることができるのではないか。
紋切り型に文化で図式化することの危うさは勿論一方で理解しながら、また「『文字に記されている』ということに、異様な価値を与える文化」に自分がいることにも意識的でありながら、文化相対的にこれまで追い続けて来た課題に迫る事はできないか。そんなことを、正月読書から夢想している。

正夢になるか!?

明けましておめでとうございます。今年は珍しく夫婦の両実家に帰らないので、山梨でのお正月。移動もないので、のんびりしています。

年末の31日に、思い立って本棚一列分をかなり整理し、100冊以上の本を整理した。読み終えた後、何となく残していた本。以前から興味があって、保存していた本。明確な意識を持って・あるいは何となく買ってはみたけれど、興味のレインジにその後入らずに読まないままの本・・・。色々な経緯があるけれど、今回それを一度部分的にではあれ、バッサリと断ち切る事にした。本棚に入りきらない、という物理的問題だけでなく、他者が評価している本であっても、自分のアクチュアルな関心に響かない本を置いておく必然性に欠ける、と思い始めたのだ。読んでいない新刊本まで売り払うことは心苦しいが、でもそれはその時点での自分心の虚栄心なり物欲を満たしたのだから、それで満足して、読まずに腐らせるより、誰かの目にとまり、お役に立つ方がいい、と方針転換。5袋分くらいが一杯になって、書棚もスッキリした。
本棚を整理しながら、本と向き合う自分の姿勢、も整理していく。
我が家の両親は本を読むタイプではなかったのだが、幼少の頃は「こどものとも」や「かがくのとも」などの児童書を定期購読してくれていたのでいたので、何度も何度も読み返していた。小学生に上がった頃から、図書館に通いルパンや伝記を読むも、偏見や先入観が強いタイプで、新しいジャンルに積極的にチャレンジする、というタイプではなかった。
それでも10代の初め頃、友人のMくんの薦めで、星新一や椎名誠といった作家を知り、やがてエッセイというジャンルにはまり込み、北杜夫を読みまくった中学時代。そのころ、鉄道オタクだったので、「鉄道ジャーナル」という硬派な鉄道雑誌を読み、鉄道政策を知ったかぶりで語っていた。それが高校時代に入ると写真部に入って、毎月買う雑誌も「アサヒカメラ」へ「転向」。一転にわか芸術写真論などをほざくも雑誌経由の「訳知り顔」知識は相変わらず。太宰治も好んで読んだが、虚栄心を満たす為に古本屋に通って読みもしない小説を買ってみたり、友人に勧められたドグラ・マグラや渋澤達彦などをおっかなびっくり読んでみたりもした。このころ近所に出来た図書館を通じて、河井隼雄や山口昌男なんかも囓り始めたことは、以前書いた事もある。森毅先生のエッセイに影響され、一度にジャンルの違う本を何冊も平行読みする乱読を覚えたのもこのころだ。
その後、大学生になってから、人間科学部という場に居合わせたこともあり、社会学や臨床心理学、文化人類学などの本を読み囓り続ける。僕の中で「第一次村上春樹ブーム」というべき時期も丁度このころだった。だが、修士課程から博士課程に進む中で、自分がフィールドにしていた精神障害者の問題に、それも当事者側から見た世界観や、隔離・収容の問題について深く考える為に、フロイトやユングといった精神分析的視点から離れようとした。と、同時に、大学時代から読んでいた神田橋條司や中井久夫などの精神科医の書き物も意識的に遠ざけた。自分が専門家的スタンスで当事者の視点を「わかったつもり」になることの危なさのようなものを皮膚感覚で感じていたからだろうか。こないだ書いたが、フーコーやゴフマンを避けていたのも、同様の危惧を感じていたからである。ちょうどこの時期に、師匠に弟子入りをし始めたときと重なり、全身全霊で師匠の考え方や生き方から学ぼうとしていた時期でもあったので、仕方なかったのかもしれない。博論を書いている時期は、集中出来ないから、と、村上春樹の全作品も捨ててしまったこともある。
ゆえに、ちゃんと本を乱読ベースで読み直し始めたのは、博論を書き終わってから。村上春樹や内田樹などを貪り読みながら、徐々に読む領域を興味に任せてグイグイ拡げていくも、やはり格段に買う本が増えたのは、山梨で定職を得て以後のこと。一応の専門である障害者福祉に直接関連する分野だけでなく、福祉組織の改革論に携わったので経営学系にも手を染め、あと地方行政ともお付き合いするようになったので福祉政策や福祉国家論の本も読み漁っていった。また、大学院の講座が、今はもう無くなってしまった「ボランティア人間科学講座」という場に居たので、また授業でボランティア・NPO論を受け持っている事もあって、NGOやNPO、そして最近では社会起業家の本などもあれこれ読み続けて領域を拡げてきた。
それが大きく変化したのは、何度も引用しているが、昨年の3月の香港での読書体験ぐらいから。一言では言えないが、アクチュアルな問題意識として、活字をダイレクトに受け止め、生きる思考として自分の経験の中に投射し始めた事が、大きな変容に繋がりはじめた、とでも言えようか。「魂の脱植民地化」というフレーズとの出会いも重なって、自分の社会を見る眼が急激に変容し続けた昨年であった。ゆえに、以前と比べても、爆発的に本を読む・買う量が増え、ジャンルも増殖していった。それが、書棚に本が入りきらない最大の原因とも直結している。
だが、上述のように、単に本の量が増えただけでなく、「そろそろ本を書きたい」という思いが強くなって来ているのも、また事実である。本の一節を書いたり、編者を務めた事はあるが、自分だけの単著を出した事はない。通例では博士論文を一冊の本にする人が少なくないが、僕のはまだ本に出来ていない。博論を書いてから7年間、結局、その問題を様々な角度から掘り返し続けていた(ということもブログに書いてましたね)。そして、先のブログにも触れた安冨先生の論文なども引用しながら、まもなく出るある学会誌に、ノーマライゼーションをテーマに一本論文を昨年書き上げた。この辺りから、ぼちぼち思い始めたのだ。この物語を、もう少し究めないと、と。
このノーマライゼーションという理念については、博論のタイトルの一部にも使わせて頂いただけでなく、日本でこの理念を広めた第一人者のお一人である河東田博さんから直接学ばせて頂いたり、あるいはその後河東田さんとのご縁でスウェーデンで調査研究をするテーマの一つにもなり、スウェーデンでは実際、ノーマライゼーションの「育ての父」とも言われるベンクト・ニィリエさんから直接薫陶を受けるチャンスもあった。またその後、立教大学の「ノーマライゼーション論」も教えさせて頂いたり、とご縁を頂き続けている。その事について、エッセイのようなものも書いた事はある。だが、年末に本棚を整理する中で、ふと、ノーマライゼーションを巡る物語であれば、これまでの自分が乱読してきた本の素材も使いながら、もっと奥深くまで論として辿れるのではないか、と思い始めている。
北欧とアメリカ、日本での「ノーマライゼーション」という理念の受け止め方の違いと、その背後にある文化の違い。あるいは、知的障害の支援者・家族を中心に広まったノーマライゼーション概念と、それを乗り越えようとした自立生活運動・障害学の流れを組む身体障害者との文化間格差。入所施設でのノーマライゼーションもあり、という「日本型ノーマライゼーション」なる異文化受容と変容。これらの主題(図)を、国同士の、障害者と健常者の、あるいは三障害の文化間格差という枠組み(地)で捉えられないか、と思い始めている。
今年、どこまで追いかけられるかわからないが、何とかこのテーマで本になるまで登り切ってみたい、と思っている。有言実行とばかりに、壮大ではありますが、今年の具体的目標として、書いてみました。正夢になれば良いのですが・・・。

年末進行モード

ようやく昨日あたりから、やっと年末休暇らしくなってきた。

月曜火曜と二日連続東京出張&忘年会というハードなスケジュールも終わった昨日、遠方より友来る。昨年同様、年末に山梨まで遊びに来てくれた友人を、「ほうとう+鳥もつ煮+馬刺し」という山梨3点セットでもてなした後、甲府盆地を望む温泉でじっくり昼風呂を浴び、その後我が家で午後3時頃から昼酒のスタート。途中で奥様も参戦し、アペリティフの果実酒からビール、ワイン3本と飲みまくりながら、しゃべり倒す。彼とは9ヶ月ぶりの出会いなのだが、昨日の話の続きのように話し続けていたら、もう最終のあずさの時間。また来年!と送り出した。
そして今日は文字通り年末モード。昨日の宴の大食器洗い大会をした後、チゲ鍋の残りを朝からつついて、近所のスーパーに。ここのスーパーはお総菜も美味しいのだが、おせち料理の具材もバラバラに小売りしてくれるのが嬉しい。この冬はちょっと働きすぎたので実家に帰る事を諦め、休養モードのわが夫婦は、どちらもおせち料理を作った経験はない。しかも奥様はあまり煮染めは好みではない。個人的には京都出身の人間なので、棒鱈が食べたいなぁ、とも思うが、わざわざ取り寄せて作るほどでもないな、と思い、そのスーパーでとりあえず、数の子や黒豆などの定番品をいくつか買い込む。その後、別の大型店舗のスーパーで刺身やカニ、すき焼き用の肉など、これもまた正月的なラインナップの買い物をし、その後、本屋と酒屋でそれぞれ買い込んで、ついでに蕎麦屋で年越し蕎麦も食べて帰宅。もう明日から三が日まで、外に出ないぞ!と決意。年末年始はノンビリ過ごすのです。
今、年賀状を印刷しながら今年を振り返っていたのだが、僕自身、ものすごく動きが多い一年だったなぁ、と思う。あずさ回数券、って、そう言えば昔は3ヶ月以内に使い切れなくて文字通りの「持ち腐れ」をしたこともあったのに、昨年あたりからは2ヶ月に一度程度になり、今年は一月に一度では済まなくなる。6枚綴りの回数券なので3往復。一月で東京に三往復以上していると、流石にくたびれる。今月は7往復・・・。二回も買っていたのですね。そりゃあ、くたびれる訳だ。それ以外にも、12月には三重に二回、大阪に一回出かけているし、文字通りの「流浪する民」。
このように、動きが多いのは、単なる物理的移動だけではない。ようやく今頃になって、様々な物事への興味関心のレインジが爆発的に拡がっているので、それに応じて爆発的に本を買いまくっている自分がいる。読み切れていないのではあるが、多分去年よりそれでもどん欲に吸収しようとしている。見えている範囲の狭さに気づき、もっと広い世界の中へと漕ぎ出したい自分がいて、こわごわとではあるが、リミッターをかけずに、飛びだそうとしている。そういえば職場の同僚の先生が仰られた事が忘れられない。「私たち大学教員は、大学での研究と学務のお勤めさえ果たせば、それ以外に研究する自由を与えられているのだから、どん欲にやりたい事をやらないと」。本当にその通り。その自由を、「○○すべき」という外的規範で縛っていたのが、今までの自分だった。そして、その外的規範を内面化して、出来ない事の言い訳にしていた。でも、今気づいてみると、その言い訳に基づいて、自分が出来ない事を正当化しているのだから、マッチポンプ的言説。その呪縛から自由になれば、今からでも新たな地平へと漕ぎ出せるのだ。
どこに行くのかは、わからない。でも、何らかの自分なりの作品をそろそろ産み出したい、と願う自分を最近ジワジワ感じている。それが論文なのか、エッセーなのか、単著なのか、未だよくわからない。だが、一皮むけつつある今だからこそ、書けそうな事、書いておきたい事。そのデッサンを、年明けから出来ないか、と夢想している。そのためにも、この正月はたっぷり寝正月で英気を養わねば。
最近のブログは引用とそこから触発されたリプライ、という、学術的形式にゴリゴリと傾いていたきらいがあった。少し来年は、もう少しタケバタ的な論を、引用に引っ張られずに出してみようかな、と思っていたりする。読んで下さっている皆さんからも、「小難しい」というおしかりを受けた。今まで、このブログは自分の閃きと備忘録、考えの整理の場だったが、少し読者をイメージした文章も書けるように、来年はちょびっと方向転換してみたいと思います。
というわけで、明日ブログを書くかわからないので、皆さんよいお年を!

「内的説得力のある言葉の関係」へ

今年もあと10日。日々、怒濤のように過ぎ去っていくうちに、早くも年末。

最近、何かしらもう一枚の皮が剥がれかけようとしているようだ。それは、なんて言えばいいのかわからないが、便宜的に「世間を見る意識・世間から見られる事についての意識」の変化、とでも言ったらよいだろうか。
中山元氏のフーコー解説本を「フーコー入門」(ちくま新書)→「生権力と統治性」(河出書房)→「思考の考古学」(新曜社)と読み進める中で、フーコー的思考の面白さと共に、自分の物事を見るスタンスとの異同についても考え始めている。その時代に「見えていた常識」と、その常識の範囲外にあって「怪物的なもの」とされた非常識。その時代の理性の範囲内で回収出来なく、排除されていた視点。フーコーはそれを過去に振り返り、確認する中で、見えていなかった過去と対比する形での現在を形づけようとしている。このフーコーの仕事を丹念に翻訳し、わかりやすい日本語で紹介して下さる中山元氏の著作に導かれながら、考え込んでしまうのだ。「はて、この世界と僕はどのように結びついているのだろうか」と。
狭い範囲における専門、と言うならば、一応は障害者福祉政策や社会福祉学や福祉社会学、NPO論などの範囲をうろついている。だが、それらのテーマについても、決して学びが盤石ではないなかで、思想系の海に、35にもなって、今更飛び込んで行くことについて、ためらいや不安は勿論ある。だが、こないだの同窓会で出会った、学生時代からみすず書店と岩波文庫を持ち歩いていたFくんが、何気なく語った一言が僕の中では忘れられない。
「30代になって、読める内容もあるしなぁ」
そう、教養として20代に哲学・思想にチャンレジしようとして、いつも挫折していたのは、翻訳書が難しい、というだけでなく、自分にとってアクチュアルな関心として迫ってこなかったのだ。だから、池田晶子氏や内田樹氏のような、よい媒介役が書いてくれた内容は理解出来ても、その向こう側にいるヘーゲルやソクラテス、フーコーやレヴィ=ストロースにまでは、到底辿り着けなかった。自分の中でのアクチュアルな問題意識と、先達の哲人達の世界が、重なる事は殆どと言ってなかったのだ。だが、最近それが少しずつ変容し始めている。
そのことを説明するのにうってつけな整理の枠組みを、こないだ読んだ。
阪神・淡路大震災以後の被災者の語りや防災活動をアクションリサーチとして追い続けている矢守氏は、その著作の中で、バフチンの理論に依拠しながら、非常に興味深い整理をしている。
「たしかに、被災者たちが切々と語る体験談は、『権威的な言葉』から遠いように感じられるかも知れない。しかし、(略)『権威的な言葉』とは、権威的な内容をもった言葉ではないし、通俗的な意味で社会的権威をもつ人が発話した言葉でもない。それは『ジャンル』間に結ばれる権威的な対話的定位のもとで発される言葉のことである。したがって、語り部の言葉が、<被災者の方の貴重な体験談>として一方向的に、かつ一度きりに語られるとき、それは、侵しがたい『権威的な言葉』と化していた可能性が十分にある。だから、それは無条件の是認(『みなさんの気持ちがよくわかりました』という感想)か、無条件の拒否(『私たちが求めていたのはそういう種類の話(『震災の語り』)ではないのです』という反応)のいずれかを将来しているのだ。」(矢守克也『アクションリサーチ-実践する人間科学』新曜社、p127)
これは「被災者の体験談」を、「学校で体験談を語る障害者」と変えても、ほぼ同じ問題性がある。語る者自体に「社会的権威」があろうがなかろうが、障害者と健常者という「『ジャンル』間に結ばれる権威的な対話的定位のもとで発される言葉」であれば、その言葉が『権威的な言葉』になる、というのだ。そして、その一方向的・一度きりの「貴重な体験談」という名の「権威的な言葉」であれば、受け手は「無条件の是認/拒否」という二者択一のモードに追い込まれやすい、というのもよくわかる。これは一方向的な「銀行型教育」と、双方向の「課題提起型教育」の違いを明らかにしたフレイレの議論と通底する議論だからだ。(ちなみにフレイレの議論は以前ちょこっと書きました。
そして、フレイレが「課題提起型教育」と示している、双方向な対話というオルタナティブを、バフチンは、そしてそれに依拠する矢守氏は次のように整理している。
「課題解消へ向けた鍵-少なくとも鍵の一つ-は、『震災語りのジャンル』(語り手)と『防災語りのジャンル』(受け手)との権威的な対立構造が支配する『語り部のジャンル』を、『内的説得力のある言葉』が支配する『語り部のジャンル』へと変化すること、別の言い方をすれば、『語り部のジャンル』を、『認知的・表象的理解』に限定されることなく、『関係的・応答的理解』の全般を活用したジャンルへと再構成することにあると言える。」(同上、p129)
バフチンは「権威的な言葉の関係」に「内的説得力のある言葉の関係」を対置させた。前者が、二者間での言葉のジャンルが異なり、その二つのジャンルの間は独立・無交渉であるのに対して、後者の側は、二者間での言葉のジャンルに重なりが生じ、他の内的説得力のある言葉と緊張した相互関係を気づく中で、新しい意味を相互的に構築するという(同上、p122)。矢守氏はそれを、「被災経験を語りたい・伝えたい語り部」と、「防災の話を聴きたい聴き手」の間のズレとして捉えたが、これも障害者問題でそっくりそのまま当てはまる。「社会の中で障害を持って生きることの『生きづらさ』『生活のしづらさ』を知って欲しい障害者」と、「単に授業だから・単位の為に聞いている学生」の間では、「権威的な対立構造」が支配しやすい。その壁を乗り越える為には、お互いの世界観(言葉のジャンル)に食い込むような「関係的・応答的理解」が進むような、「内的説得力のある言葉の関係」を両者の間で結ばない限り、話が自分事として受け手の側に伝わらない。
これは僕自身も納得し、痛感する問題だ。僕はこの6年ほど、障害者や高齢者の福祉政策を、法学部で、10代後半から20代前半の若者に伝えている。福祉学科ではない彼ら彼女らにとって、アクチュアルな問題意識として福祉の課題が自らの「言葉のジャンル」に記銘されてはいない学生が殆どである。そんな中で、こちらが一方的に授業を構築しても、「権威的な言葉の関係」しか築くことは出来ず、結果として受け手は「無条件の是認/拒否」という二者択一のモードに追い込まれやすい。これを避けるには、彼ら彼女らの「言葉のジャンル」や「内的説得力のある言葉」と、自分の提供したい素材との重なるポイントを探し、引き出し、その中で、お互いが揺さぶられながら、緊張した相互関係を結び、変容しながら、一致出来るポイントを探すしかない。一方向の授業より遙かに難しいが、その枠組みの問題性を知っていながら実践しないのは知的誠実さに欠けるので、毎年必死になってそのポイントを探っている。今年の地域福祉論はそのポイントを「生きづらさ」にしたら、自殺、精神障害、ホームレス、子どもの貧困についてもアクチュアルな問題として学生に感じてもらえるようになってきた手応えがある。
実はこの「内的説得力のある言葉の関係」を構築できるのか、という論点は、体験や経験の受容・伝承や普及啓発の場面だけでなく、知の受容そのものにも当てはまると思い始めている。ここで、一番最初のフーコーの議論にようやく戻ってくるのです。(ずいぶん回り道しましたねぇ・・・)
大変お恥ずかしい告白となるのだが、僕の中で、哲学者・思想家とは不幸にして、「権威的な言葉の関係」しか築けない場合が多かった。池田晶子氏や内田樹氏などを、その初期の著作から熱心に読み進めて来たのは、両氏が先達の英知を「権威的な言葉の関係」ではなく、「内的説得力のある言葉の関係」として読み手の私に提示してくれていたからである。それゆえに、僕自身にとって必然性のある、アクチュアルな内容として、響いてきた。思えば今の僕自身の「ものの考え方」に少なからぬ影響を、両氏は与えて下さっている。実際に直接お会いした事はない(池田さんは夭折されてしまった)が、僕は本を通じて(内田先生の場合はブログも通じて)、両者と「内的説得力のある言葉の関係」を築いてきた(と勝手に思い込んでいる)。そして、10年、15年とそういう関係を築いた中で、少しずつ僕自身の中に、メディア(媒介役)としての池田・内田氏が伝えようとして下さったヘーゲルやフーコーなどの息吹が入り込んでいるのを感じるのだ。だから、ここ最近、そういう先達の著作と直接対峙しても、「読めそう」、つまりは「僕の言葉のジャンルと先達の言葉のジャンルに重なりを見いだせそう」(=内的説得力のある言葉の関係を築けそう)と思い始めているのである。
確かに精神障害者の問題を考える研究者が、なぜ35才になるまでフーコーを読まなかったのだ?と問われるかも知れない。それは実は博士課程の学生の時から言われていた。もちろん「監獄の誕生」や「狂気の歴史」は以前から買って持っている。だが、敢えて読もうとしなかった。それは、言い訳的になるかもしれないが、僕自身が「自分の言葉のジャンル」を確立する前に、大思想家の「言葉のジャンル」に触れてしまうと、「自分の言葉のジャンル」が無くなってしまうことを恐れていたからだと思う。社会学の大家の先生が「安易にフーコーやゴフマンを読むと、それに流されやすい」と言われていた事も思い出す。
だから、僕は20代後半の大学院生時代、研究室で文献を読むことよりも、なるべく多くの当事者の方のお話しを伺ったり、現場に通ったりする事にエネルギーを傾けていた。「作業をしない作業所」でのおしゃべり、精神病院への病院訪問のボランティア、当事者会のお手伝い・・・など、精神障害を持つ人の「生の声」に少しでも多く、耳を傾け続けようとしてきた。そして、その「声を聞く」ということは、やがて当事者だけでなく支援者にも拡げ、支援現場の職員の苦悩にも耳を傾け続けてきた。結果的にPSWのことで博論を書いたのも、その時点では当事者の内容そのもので論を書くほどの「自分の言葉のジャンル」を持ち合わせていなかったからかもしれない。それよりも、支援者の支援のあり方であれば、僕自身が「内的説得力のある言葉の関係」を築ける、と思えたのかも知れない。
そして精神病院や入所施設の構造的問題を「全制的施設」として整理した社会学者、アーヴィング・ゴフマンの名著『アサイラム』も、博論の時には結局読まないままであった。真面目に同書を読んだのは、3年前に立教大学での「ノーマライゼーション論」を非常勤講師で担当した時だった。これも遅すぎるのかも知れないが、僕の中では、その時の内的必然性があった。ある程度、地域移行やノーマライゼーションの問題を考え詰める中で、ようやくゴフマンと出会ったことで、安易に彼の言葉や理論に流されずに、しかしきっちりと彼の理論を受け止める主体に僕自身が成長していたのだと思う。
そういうプロセスを経て、今年の暮れになって、フーコーと出合う内的必然性を感じている。他の人には到底お勧め出来ないが、僕自身の軌跡にとっては、結果的に今で出会ってよかったのだと思っている。20代後半に、多くの精神障害の当事者の方と、大学院生という「大したこと無い肩書き・立場」で出会っていたからこそ、その言葉のジャンルと『内的説得力のある言葉の関係』が築けた後だからこそ、フーコーを読めそうな気がしている。もし順序が逆であれば、今はじっくり時間をとって何度も現場に通うなんて余裕はないし、変にマクロな言葉に毒されてしまうと、ミクロの当事者のお一人一人の語りなんて聞けない高慢ちきな「学者先生」になっていたかもしれない。すると、35才にもなって、という年齢的な卑下やためらう必要もない、とようやく思えるように(いま)なった。
いやはや、相変わらず亀のようなのろさです。