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これから出来うること

今回の東日本大震災で、被災された全ての方々の、安全確保が一刻も早くなされることを祈っています。また、原発の危機的状況が、一刻も早く回避されることも。
今はあまりに目の前の出来事の悲惨さに私自身も目を奪われがち。だが、被災地の事を思えば思うほど、少し長期的な展開を見据えて考える必要がある感じている。 
阪神淡路大震災のからの復興支援を丁寧に研究された西山さんによると、被災後の復興支援とボランティアやNPOなどの関わりは、次の6つのフェーズに別れる、という。
第1期:緊急救援期(震災後1週間)・・・生命の救済、緊急避難、物資供給
第2期:避難救援機(1995.1~3月)・・避難所での緊急支援、物資供給、生活再建に向けて支援
第3期:復旧・復興期(1995.4~12月)・・・生活再建、仮設住宅での生活支援、自立支援活動への展開
第4期:生活再建期(1996~1997年)・・・ボランティア活動の再構成、事業化への展開、被災者の生きがいづくり
第5期:まちづくり・社会のしくみづくり期(1998~1999年)・・・運動方向の明確化、ミッションの再確認、情報公開、ネットワーク形成
第6期:市民社会の再構築期 (2000~現在)・・・企業、行政、地縁組織へのインパクト、
NPO・NGOの自己変革
西山志保 2007 『改訂版 ボランティア活動の論理』東信堂、p69)


今日明日、の緊急救援期に、遠くにいて、避難支援の専門家でもない素人の私が、すぐに出来ることは、まずは募金。災害緊急対策用の道路を自家用車で渋滞に巻き込んだり、あるいはニーズの高くない物資を勝手に送りつけるよりは、義捐金の方がよい。ただ、この義捐金なら即効性が高くない、と思われる方もいると思うが、例えば、そういう緊急支援に長けたボランティア団体への寄付などは、実に有効だと思う。
たとえば災害救援で定評の高い日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)は、すでにブログで必要な情報を流し始めておられる。こういう情報に眼を向けて、現地でその時期その時期に本当に必要とされる物資を届けたり、あるいは現地や現地以外でもボランティアできることがないかを考えるのも一つの手である。
ただ、阪神淡路大震災の教訓を、今回の東日本大震災に活かすとするならば、この復興は、間違いなく長期戦になる、ということだ。そして、少なくとも第二期の避難救援期から、第三期の復旧・復興期にかけて、外部のボランティアや物資などで、必要とされるニーズも沢山出てくる事が予想される。たとえば、多くの自治体でボランティア受入のためのボランティアセンターを、地元の社会福祉協議会などで立ち上げるだろう。また、そのボランティアセンターを通じて、避難所の運営ボランティア、あるいは被災地の片づけなど、人海戦術が必要な場面も紹介されるだろう。さらに、第四期の生活再建期以後は、「わが町の復興」を地元市民の手でどう創り出していくか、それを外部の市民もどう支えるか、が問われる。(たとえば中越復興市民会議のHPなどを参照)
であれば、僕自身には何が出来るだろうか。正直、昨日は呆然とテレビに釘付けになっていたが、今朝からまずは自宅の食糧備蓄やガスボンベ確保などの安全の確保をした(世界平和の前に、まずは家庭の平和が大切)。そしてその後、自分自身の溜まっている仕事を片づけ始めている。来週は卒業式に出張に、と公的に入っている仕事も少なくないので、その対応をまずする。その上で、仕事を前倒しに片づけて日程的な余裕を作っておいて、また上記のウェブやツイッターなので情報を追いかけながら、自分がどのタイミングで、何をしたらよいのか、を考える。そのためにも、今は冷静に自分のすべき本業をしながら、時間を確保するために仕事を前倒ししようと考えている。
もちろん、こんなものに唯一の正解は、当然ない。みなさんも、ご自身なりの「これから出来うること」をお考えになればいいと思う。そして、募金だとか、あるいは例えば東北の商品を買ったり、あるいは第三期以後なら東北旅行をしてお金を現地に落としたり、もそれはそれで大切な貢献だと思う。トルコの地震の直後、現地の救援チームに同行したが、現地では観光業がかなり打撃を受けていて、地元経済に深刻な影響を与えていた。復興とは生活復興だけでなく、経済復興も大切なので、自粛すべき時と内容は、冷静に見定めた方がいいと思う。
いろいろ書いたが、言いたいことはシンプルだ。「ほっとかれへん」と思うからこそ、浮き足出さず、情報を分析しながら、自分の立ち位置も冷静に考えて、自分でも役立てる行動に移すべきタイミングを考える。これに限ると僕自身は、現時点では考えている。

春の蠢き

昨日は久しぶりに平日にお休みを頂き、奥様とドライブ。

本当は一泊二日で温泉に出かけるはずだったのだけれど、諸般の事情でキャンセルして、御殿場のアウトレットに出かける。僕は何にも買うつもりは無かったのだけれど、彼女が見たいと言って入ったレイバンのグラサンをかけてみたら、あまりに顔の骨格や作りにピッタリで自然。これまでかけていたグラサンは妻に大変不評だったし、6年前の代物なので、グラサンにしては高かったけど、買ってしまいました。意外とヤッピー系なところもあり、ですね。
で、買ってしまいました、と言えば、昨晩デジカメの一眼レフまで買ってしまいました。
事のはじまりは、昨日、御殿場でふらっと入ったニコンのアウトレットショップ。もうカメラから遠ざかって随分立つが、これでも一応高校時代は写真部にいて、中古カメラを何台か持っていたのです。あの当時、白黒写真が主流で、部室兼暗室に入って写真を焼いたりするのが、非常に面白かった事を覚えている。あと、あの時代の友人は今でもやり取りする仲間が多いのも、写真部で得た大きな収穫。このブログサイトの管理人N氏も、1年後輩の写真部部長繋がりだから、もう20年近い付き合いに。彼には本当にお世話になっております。
さて、高校時代は熱狂的に写真にはまっていたのに、飽きっぽいのと、大学の写真部になじめなかったのと、写真以外の刺激が沢山ありすぎる中で、いつしか写真から遠ざかってしまった。デジカメも、研究室と自宅にコンパクトのものを二台ほど持っているが、何だかおもちゃみたいで味気なく、プリントアウトするのもまとめるのも面倒で、ほとんど使っていない。妻と結婚した後もそんな感じだから、結局結婚して8年間、あちことに旅行に行っても殆ど写真をとらない、記録に残さない、という有様。本当に面倒くさがり屋も甚だしいですね。
だから、カメラとは縁が切れたのかな、と思っていたのだが、ところがところが・・・。昨年以来の身体と心の変容の中で、イスタンブールのガタラ橋や熊野の本宮の風景が妙に鮮やかに心の中に残っている。もちろん、写真を撮らずにじっと凝視していたから残っているのだけれど、一方で、そういう心象風景を記録として写真に撮っておきたい、という思いが、少しずつもたげていた。そんな折りにアウトレットショップの中にあったニコンショップに吸い寄せられてしまい、ふと気づくとデジタルの一眼レフカメラをいじっていた。軽いけど、ホールディングが実にしっかりしている。実は20年前、写真部に入った際、初めて手にしたカメラが「ニコマート」(コンビニじゃないよ、40年前の廉価版カメラ)、その後F501とニコン続きで、F3なんていう玄人カメラも持っていたこともある、ニコンとのご縁が深い私。その後、オートフォーカスの方がラクじゃんね、とEOS10に鞍替えしたが、もともとニコン派だったのだ。そんな古い血が、再び流れてしまった。
というわけで、D3100というニコンのデジカメ一眼レフ入門機に惹かれるものの、買おうか買うまいか、かなり悩んだ。アウトレットそっちのけで、色々考えていたのだが、結論は出ず。一世代前のD3000なら4万円で手に入る、というのも魅力だったが、なんか引っかかる。やっぱりここは写真を今もやっていて、使わなくなったF3を使って頂いているナカムラ君に相談するしかない。そこで、一旦おうちに帰って、ゆっくりしてから、ナカムラ君と電話で相談。彼は早速スペックを調べてくれて、出した結論は、「ちょっとくらいケチらんと、最新型のD3100を買いなさい」。素直に従って、アマゾンで早速注文。今日中に届く予定だとか。本当に、早いですね。
カメラを再び手に取りたくなったのは、大げさにいうと、世界と自分との関係のあり方が大きく変容しているから。思えば、10代は単純に写真を撮る、ということに夢中だった。でも、20代に入って、様々な興味関心が指数関数的に増える中で、カメラに費やす時間もエネルギーも縮減していった。そして、専門家になるための修業時代には、一方で生計を立てる為にバイト三昧をしながら、ある種のタコツボというか、深く穴を掘り下げるために、様々な余暇も切りはなしていった。それが、30代になり、大学教員として仕事をし始めて、はや6年。指数関数的に今度は対外的な仕事が増えていくが、でも昨年春のブレークスルー以後、再び「やりたいこと」が強く主題化されてきた。旅に出たい、新たな何かに出会いたい、という思いは、旅をしていない日々でも、例えばヘラトリなんかを読みながら、掘り下げている。すると、地中海の国境警備と難民受入を巡るヨーロッパとアフリカの国と市民の攻防に、例えば行路人を巡る行政間の駆け引きに似た何かを感じてしまう。そういった、「自分事」と捉えられる範囲が、これも指数関数的に増えているのだ。
関連づけを強く意識し始めたから、カメラという装置が、その関連づけの大きな補助具になってくれそうな気がし始めている。そういう意味で、カメラ「との」関連づけが、まずもって強く意識され始めたのかも知れない。
こういうことを感じるのは、春独特の蠢きなのかもしれない。でも、その胎動が、やがて見知らぬ風景の前に、自分を突き動かす。そんな次の瞬間をもとめて、カメラをお供に、量子力学的跳躍(quantum leap)の旅に漕ぎ出してみようと思う。

まちづくりの転換期

今日の文章のフックは、先ほどツイッターに書いた3つの連ツイから。

takebata7:43
ヘラトリの「革命と職の関連性」を興味深く読む。失業者が独裁者の職を追いやった、という指摘に納得。曰く、中国も米国も同様の課題を抱えている、と。我が国だって同じ。ケインズなら公共事業で解決した問題を、市場・準市場中心でどう解決出来るか。  http://bit.ly/ib9x8q
 
takebata7:52
少子高齢化と職のなさ、は共通する課題。この課題の前景化は、土建型福祉国家の衰退・後景化と軌を一にしている。公務員か医療・福祉職か、という公か準市場しか職がない、というリアリティ。中央集権的発想のインフラ整備ではなく、ボトムアップ型での職作り、基盤整備の方法論が求められている。
 
takebata7:58
田中角栄は土建型福祉国家において、優秀な社会主義的指導者であったとも言える。ただ、全国一律の底上げの物語は、もう消費し尽くした。これからは、個々の地域の独自性を再び取り戻す物語が必要な気がする。道路整備と合併で街独自の物語が薄れる中、土木ではない形でどう物語を再生出来るか。
上述のヘラトリ=NYタイムズの記事では、失業と公務員給与削減が大きな課題となっている米国において、グリーン革命のような、新しいインフラ整備が国難を救うのではないか、というジャック・ヴェルチやグーグル幹部のコメントなどを載せている。なるほど、地デジ化、という名のインフラ整備が、こんなに消費者の財布のひもを強引にでも緩ませるものか、ということは、この騒動を見ていてよく分かった。天の邪鬼、というか頭の固い僕はまだブラウン管を見ていますけど・・・。
さて、公共事業と職作り、という話を考えていると、こないだ出かけた熊野や松本、などの光景を思い出す。公共事業が衰退すると、土建業を中心として栄えた地方の多くの街が、衰退の一歩を辿っている、と。特に熊野や新宮などは、明治期に木材の切り出しで栄え、新宮には遊郭まで存在するほどの繁盛した街だった。だが、安い海外の木材に押されてしまい、林業の衰退と共に、街の活気は消えていく。松本の郊外の温泉は、かつて県の会議が泊まりがけであった時代には大きく栄えた。だが、高速道路というインフラ整備によって日帰り会議がデフォルトとなると、会議→宴会という公共事業の固定客がいなくなり、一気に衰えた、という。高速道路や飛行機、新幹線などの物理的インフラと、インターネット等の情報のインフラ整備が進むことにより、その土地の独自性が逆に失われつつある。
それにある意味で追い打ちをかけているのが、平成の大合併だ。山梨でも64市町村あったのが、27市町村まで減った。確かに行政事務の効率化や、市町村ごとの同じようなホール・会館を作る、という無駄を省くには、この市町村合併は有効だったのだろうと思う。ただ、僕は山梨で市町村を廻るようになったのは、28市町村に合併された後の時代からだが、そうやって地域を回ると、合併による弊害の話も聞く。曰く、住民サービスが低下した、町独自の物語やアイデンティティを失いつつある、市役所本庁が置かれた地域に対して周縁化してしまっている・・・。これは山梨だけでなく、三重でも長野でも、同じような声を聞く。効率化は行政機能やハコモノだけでなく、地域の特色まで効率化(=ある種の収奪)がされてしまっているのだ。
政治行政学科という場所に身を置くと、一方で基礎自治体の数をある程度減らすことのメリットについても、オーソリティの先生方の話を聞きながら、頷ける部分もある。例えば福祉現場のリアリティを見ても、1万人以下の人口をカバーするより、例えば7万人らいの人口を抱えた方が、ある程度のスケールメリットのあるパッケージを創り出すことも出来る、と実感もする。ただその一方、「お顔の見える関係作り」というリアリティで考えると、山梨で言うなら、64市町村時代の旧○○町村単位なら十分に知り得るが、27に合併された後なら、なかなかリアリティがわかない、知らない、という実態も生じている。これは一方で、濃すぎる人間関係が薄まる事により良くなった部分もあれば、逆にセーフティーネット機能として薄まった部分もあるので、単純な評価は出来ない。
ここ最近、南アルプス市の社協のコミュニティーソーシャルワーカーの方の実践から学ばせて頂く機会があるのだが、旧6町村ごとに置かれているワーカーさんのお話を聴いていると、同じ市でも、住民課題やニーズがかなり異なる事がわかってくる。総体としての7万2000人として行政運営を画一化・効率化していくと、こぼれていくニーズが結構沢山出てきそうだ、というのが、ここ何回かワーカーの皆さんの実践を伺う中で感じていることだ。山間の旧芦安村の課題と、市役所のある旧櫛形町の課題は各々違い、かつどちらが良いとか悪いとかいう優先順位が付けられない、各々の地区固有の生活課題・住民課題を抱えているのだ。
例えば「困難事例」という言葉がある。これは、福祉現場でよく使われるジャーゴンで、ケアマネさんや相談支援の専門家が、簡単に解決出来ない事例の事を指している。その例として出てくるのは、認知症のおばあさんと統合失調症の娘の二人暮らし、あるいは知的障害のあるお母さんと自閉症の子供、など生きづらさを抱える人が、行政の縦割りを越えて重なる場合である(これもジャーゴンで『多問題家族』なんてラベリングの仕方もある)。
だが、問題は、誰にとってか、というと、単純ではない。ご本人にとっての生きづらさ、もあるかもしれないが、ここで「困難」や「問題」というのは、支援者にとって、あるいはその地域の中で解決するのに「困難」や「問題」がある、と言った方がよい。合併されて行政の縦割りやセクショナリズムが強くなって、以前ならお顔が見える関係で解決出来たのに、今では関係機関の連携が弱くなった、というのが「問題」であるかもしれない。あるいは、社会資源などが少なくて、対応出来る機関が少ないことが「困難」要因かもしれない。つまり、他の地域なら解決出来たかもしれない課題が放置されている事こそが「問題」であり、「困難」を創り出している例が、結構少なくないのだ。
そう考えていくと、各々の地区固有の生活課題・住民課題、とは、その地域の街作りの課題であったりもする。今、そういう視点から「地域福祉」の推進が叫ばれているが、ここも丁寧に考えないとアブナイと思う。福祉の理屈だけで、つまりは行政中心、あるいはそこに社協も加えた官と半官中心で考えると、限界があるのだ。住民が主役、というならば、商業や農業をしている、あるいは建築業をしている、様々な民の人々の声を拾い集めながら解決の方向性を模索しなければならない。それが例え福祉の街作りであったとしても、そう思う。
すると、新しい公共、ではないが、もう一度住民が「自分たちの地域をどうしたいか」を話し合う場を、福祉的枠組みを超えて持つ場面が大切ではないか、と最近感じ始めている。それも、働く世代と長老、若者などが、世代間を越えて話し合う場面が大切ではないか、と感じる。たとえて言うなら米国の開拓者精神ではないが、その土地に住む人々の自主・独立を鼓舞しながら、自分たちで出来ることは何で、行政に手伝ってもらうべきことはこれだ、という、新たな事業仕分け、とも言えようか。自助の力を再活性させながら、共助と公助のあり方を再検討する場のようなイメージだ。これは行政の末端組織化した町内会・自治会であれば、担いきれない役割であるとも思うのだが。
福島県の矢祭町や、徳島県の上勝町、あるいは鹿児島県の「やねだん」などの再生物語を見聞きすると、そこは危機意識を感じた個が、問題意識を共有する仲間のネットワークを創り出し、それが地盤を変えていく素地に繋がっていった、という、クライシスにおける物語の捉え直し、とも感じる。もちろん、そこにトップダウン的な素地もあるのかもしれないが、問題は一方通行的な指示・命令ではなく、そこに共感する人の輪ができ、ボトムアップ型の問題意識の共有と行動化が伴っていたような気がする。そのボトムアップの共有と行動化こそ、実は「まちづくり」と言われるものの成否を分けるポイントであるとも感じる。そんなストーリー、物語を、その地域の中で創り出し、共有出来るか、という本気度が、地域福祉にも求められているような気がする。
田中角栄の時代なら、あまりにも強いローカリティと、あまりにも弱いインフラ整備という条件が揃っていたので、「日本列島改造計画」という物語に強い親和性が持たれ、キャッチアップ型の政策としては大成功を治めた。ただ、内田樹氏のフレーズを援用するなら、それに「成功しすぎた」とは言えまいか。日本列島を改造し尽くした結果、使用頻度の低い道路や空港も含めたインフラ整備をしすぎた結果、辺境性=ローカリティが薄れ、モノクロな単なる都市の郊外と化し、商店街や街の物語も薄れ、規格化・均一化・衰退化を辿る場所が圧倒的に増えた、とも言えないだろうか。つまり、真面目に列島改造をした結果として、今では希薄化したローカリティと、強すぎる(便利すぎて定着化しない、流動化をもたらす)インフラ整備、という結果に収まった、とも言えないだろうか。
では、どうしたらいいか?
僕がこれまで上記で書いたことは、一見すると、ベクトルを逆に進めるように見えている、かもしれない。だが、インフラを潰して、ローカリティを昔の形で再生させる、というのは、単なる復古主義にしかすぎない。今を所与の現実として、そこから何を書き変えることが、物語の再生に繋がるか、という視点でないと、まちづくりは語れないような気がする。であれば、恐らく大切なのは、この行き詰まり=クライシスの局面において、の代表者にのみ「お任せ」したり、コンサルティング会社に「丸投げ」したりするのではなく、住民同士で本気になって考え合う、語り合う、見つめなおす、そんな場面が必要とされているのだと思う。それが、都市部ならコミュニティカフェのような所からスタートするだろうし、田舎なら「○○地域を考える会」といった何かを作るのかもしれない。その形態はどうであれ、少子高齢化と産業の衰退という、特に地方の二重三重苦の現実をきちんと共有し、逆転の発想で何かを生み出す場をどう作り出すか、が求められていることだけは、間違いないようだ。
上手く書けなかったが、本気のボトムアップ型のまちづくり、を巡る課題について、もう少し考え続けてみようと思う。

頑張れ、日本の新聞!

新聞を変える時、それは僕にとっては一つのパラダイムシフトの時であったりもする。

前回の変更は、高校生の頃。実家の京都では、ずっと地元紙を取っていた。父は帯屋の営業。西陣で話をするには、京都の話題が豊富に載っていることが大切だから、というのが、地元紙を取っていた理由だった。だが、その新聞を大手紙に変えるように迫ったのが、高校生の僕。きっかけは、とある出来事だった。
僕の出身高校はある仏教の宗派が持っている高校だった。その高校の校長が、先物取引に数千万、突っ込んでいた。しかもその出所が、学生の保護者から個人的に貰った「御礼」のお金であったり、学校関係の資金、はたまた寺の資金であったり・・・。その由々しき事件のお陰で、いつの間にか月に一度の宗教の講話の時間には「校長職務代理」という先生が替わって話をするし、地元紙だけではさっぱりわからなかった。だが・・・。
「あ、このことやろ」と、新聞記事を見せてくれたのは、同じ写真部の仲間。そう、某四大紙にはデカデカと、事の詳細の報道がスクープでなされていたのだ。その後、地元紙でも小さくは扱うが、積極的に報じているようにも思えない。小さい頃から憧れていた新聞記者。テレビやニュースへの信頼。なぜ信頼出来る「はずの」記事が・・・と思っていた時、誰からから、聞いた。「だって、地元紙なら、部数確保のため、遠慮して書けないでしょ」。世間に批判的な割には、批評のソースである新聞記事やテレビ番組の無謬性を信じ込んでいた自分の枠組みが、ガラガラと崩れ去った局面。なるほど、新聞もテレビも、株式会社ですもんね、と。以来、父は躊躇したが、頑として譲らず、その記事を載せていた某A新聞に実家は変更した。
それから20年。今も一応その新聞はとっているけど、最近二紙目を取りだした。某経済新聞? 違います。中東革命にものすごく興味があるのに、我が国では本当に報じる量も質も不満がある。我が家は未だにアナログゆえに、BSニュースも見れない。その不満を解消するため、買った後で放ったらかしにしていたキンドルを復活させ、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(略してヘラトリ)のお試し版を読み始めた。すると、中東関連の記事が国内紙に比べて遙かに充実している。しかも、わからん単語は、キンドルなので、スクロールさせると、ちゃんと出てくる。昔、紙のニューズウィークは一年購読したけど、単語を引くのが面倒で挫折してしまったが、これなら続きそうだ。というわけで、ここ1ヶ月ほど、読んでいる。
中東の記事でも、国内紙が報じない多角的な記事内容に、引き込まれる。ツイッターに備忘録で放り込んだものだけでも、例えばこんな感じ。
3/1 21:26
ヘラトリは、アルカイダも曲がり角、と論評。確かにジハードではなく、民主化熱波が独裁政治を倒してしまった。「全ての前提条件が崩れ去った」との識者の指摘が印象的。アメリカ外交も2001年より遥かに大きな政策転換に直面している、とも。
 
2/28 13:13
ヘラトリでスウェーデンの移民問題を読む。確かに昨年訪れたマルメは移民都市だった。今では人口の4分の1が外国籍かその子孫だとか。彼の地でもやはりムスリムとの対話が大きな問題。失業や社会不安を「内なる他者」に押し付けるのは、寛容な国の伝統に反すること。どう闘うのか、が試されている。
 
2/16 7:30
昨日のヘラトリでは、チュニジア・エジプトと続く革命の連鎖の背景についての解説。ガンジーの流れを組むアメリカの政治学者、Gene Sharpの非暴力革命の考えは、セルビア経由でアラブの若者にも引き継がれた。それとネットによる国民へのメッセージ伝達の相乗効果が繋がった結果、と。
 
2/12 12:08
ヘラトリでエリ・ヴィーセルのインタビュー記事。強制収容所体験を持つ彼は、今のエジプト革命に寄せて「技術の進歩ゆえ、知らないとは言えない時代」と。だか、色々聞こえてくるけど、ちゃんと耳を傾けているか?悲劇の教訓から学ぼうとしているか?話す前に考えているか?を問いかける。重い言葉だ。
国内紙で「全然書けていない」と不満だったが、不満なら、別の新聞を読めばいい、という当たり前のことを忘れていた。英語なら、何とか読めるし、文字数も格段に多いので、深くまで掘り下げた記事に出会える。特に日本のメディアは中東情勢の分析がどうも弱いようだが、国際的なメディアは、深く現地に根ざした記者も多い。もちろん、ニューヨークタイムズの国際版なので、アメリカに引きつけた(偏った)記事が少なくないが、アメリカ政府・アメリカ人が考えていることをきちんと眺めるには、もってこいの記事。なので、ついつい読みふけってしまう。
その一方・・・朝日新聞の月曜日の社説を読んで、「あのねえ」と腹が立ってきた。(そう、ここまでは壮大な「前置き」だったのだ)
インドネシアとのEPAで看護師候補が沢山やってきたが、看護師の試験に出てくる用語が難しすぎて受からない、だからこそ滞在期間は延長させるべきだし、もっと看護師が日本に定着出来るように障壁を下げるべきである、と。国内の看護師の労働環境の厳しさや、有資格者が60万人も離職している現実も伝えながら、結論は、「看護や介護と言ったケア人材についても、開国に向けた改革へと踏み出すべきだ」と。
人材が不足している→海外から人を入れるべし。これは必ずしも直接の因果関係にはならない。だって、弁護士が不足している→法科大学院を沢山作る、医師が不足している→医学部の定員を増やす、という解決策をとっているのだ。実際東欧では、医師もお金が稼げるフランスやドイツに沢山流出している、という。ではなぜ、「看護や介護と言ったケア人材」だけが、学校を増やす選択肢を取らずに、「開国」なのか。理由も、この朝日の社説には書かれている。労働環境が低すぎて、離職者が多いからだ。これは介護であっても同様。ついでに介護は、看護師よりも給料が低く、夜勤がない地域支援では、家族を支えられるだけの給料がでず、「結婚したから入所施設や病院で働きます」というワーカーも少なくない、という現実がある。
この現実を所与のもの(変える必要のないもの)とした上で、低賃金で激務で日本人のなり手が少ないなら、安い給料でも満足してくれる、アジアの労働者を入れたらいい。医師や弁護士は「輸入せよ」と書かず、看護師や介護士は「人の開国」と書く論理矛盾。ここには、医師や弁護士と比較して、看護や介護の専門性が低いから、給料や労働環境が低くとも、他国の人なら働いてくれるはず、という職業および人種蔑視的な上から目線を感じるのは、僕だけだろうか。
半世紀前、アミタイ・エチオーニという社会学者が、弁護士や医師というfull professionに比べて、看護師、教師、ソーシャルワーカーはsemi-profession(準専門職)だ、と言った。確かに当時は専門性が低く、「センスの良い近所の主婦でも代用出来る仕事」だったのかもしれない。しかし、これらの対人直接支援の専門職は、近年、その力を上げてきたし、逆に専門性が低いまま接している「でもしか教師」による、セクハラや体罰などが大きな社会問題にもなっている。更に言えば、教師も不足しているから「輸入しましょう」という議論も聞かない。一方、看護師や介護士も、専門性の高い支援が求められる状況が増え、介護保険導入以後、その介護の質やケアのあり方に関する研究や実践の改善も、少しずつ進んできた。これは少しでも取材すれば、わかるはずである。
ついでに言えば、積極的な社会保障と財政、というのなら、看護師や介護士のライセンスを持ちながら、、給料や労働環境が低いが故に現場から離脱している有資格者を現場に復帰させる優遇策を講じた方が、扶養家族も減り、つまり納税者が増え、外国人労働者に国費(介護や看護には大量の税金が投入されている)を海外に送金されるより内需拡大にもつながり、社会保障的にも税収的にも、向上が期待されるはずだ。そういう視点だって、持つことはできないだろうか。
つまり、この「輸入=人の開国論」は、介護や看護は専門性も大して高くないはずだから、低賃金重労働で安価な外国人でよい、という非常に安易な前提(為政者や政府の説明)を鵜呑みにした上での記事としか思えない。国内問題の「所与の前提」を根本的に変えようとすることなく、いい加減なグローバルスタンダード理解を都合良い場面でのみ当てはめる、という「つまみ食い姿勢」。確かに物事をわかりやすく伝える事が報道機関に求められている事はわかるが、安易で暴力的な単純化(=思いこみ)を、社説として掲げる事自体に、何だかなぁ、という強い不満が残るのである。
別にヘラトリにそういう事が書いてある、という訳ではない。だが、他国の新聞が、一歩も二歩も深く突っ込んで報じているのを読めば読むほど、それとの比較の中で、我が国の新聞が、本当に不甲斐なく思えてくる。新聞社には優秀な人材が沢山揃っているのも知っている。だが、総体としての日本の新聞社・新聞記事の劣化を、最近、とみに感じている。もっと頑張ってよ、日本の新聞!

帰納的本質について

福祉の政策とは、演繹的なものではなくて、帰納的なもの。

「○○が正しい」という理論や価値が先にあって、それを実践に当てはめると、だいたいがうまくはいかない。逆に、現場のお一人お一人への支援の中で「こうすればうまくいった」という好事例(good practice)に共通する要素を抽出して、それを抽象化して整理して行く中で、現場から機能論的に立ち上がるエッセンス(本質)が見えてくる。ノーマライゼーション、セルフアドボカシー、ピアカウンセリング、自立生活運動・・・これらの理念や価値は、現場の実践の抽象化から生まれた。
昨日の午前中、北海道のサービス管理責任者研修で講演の機会を頂く。その後、以前東京のセミナーでご一緒させて頂いた山崎さんにお誘い頂き、札幌この実会が実践されてきた、入所施設の閉鎖と地域移行の実践現場をご案内頂いた。半日にわたってグループホームや支援センターの現場を歩き、当事者や支援者の方々のお話に耳を傾けるなかで、ずっとその帰納的な何かについて考えていた。
スウェーデンに半年暮らしていたことがある。あれはもう8年も前のことだ。その時、スウェーデンでは入所施設をゼロにした現実をみて、本当にビックリした。強度行動障害、水中毒、重症心身障害・・・だから、という理由で、「施設・病院しかない」と社会的に排除されている人びと。その「○○しかない」ということが、如何に「社会的に」構築された理由であるか、を「○○」以外の実践を実ながら、実感する日々であった。グループホームでのんびりくつろぐ当事者と、それを温かく見守る支援者。行動障害のある方のGHの挑戦、水中毒なんてものはないという精神科ユニットの支援者、重症心身障害者へのパーソナル・アシスタントの実践・・・様々な「別の現実」を見て、日本ではこの現実は無理なのだろうか、とずっと考えていた。5ヶ月の滞在期間を終えて現地を離れる2003年の3月に、滞在報告のまとめの中で、次のように書いていた。少し長いが、引用する。
 「日本の知的障害者への地域生活支援の実状を振り返ってみたときに、ノーマライゼーションという言葉が「歴史的な言葉」になるほどまで浸透したであろうか? 言葉だけは輸入されるが、ベンクト・ニイリエ氏が言葉に込めた思想まで、日本に届き、それが政策にも活かされているのであろうか? これを振り返ってみた時、日本とスウェーデンの二国での大きな違いを感じざるを得ない。
 しかし、だからこそ、単なる外国のシステムや知識の輸入にとどまらず、知的障害を持つご本人達の想いや願いに基づいた、日本独自の本人支援や地域生活支援の体系を構築していかなければならない時期に来ている、と私は考える。今回、筆者が行った5ヶ月の調査の結果を、単なる「海外の知識の紹介と輸入」にとどまらず、日本の今後の本人支援のあり方や地域生活支援ネットワーク構築の上で、理念的基盤の一部として「使える」知識となるよう、出来る限り日本の地域生活支援の実状や課題を思い浮かべながら、そして日本の参考文献も踏まえながら、本報告書をまとめたつもりである。
 この報告書が、日本の知的障害を持つ人々の現状を変える一つの「武器」となり得るなら、筆者としては存外の喜びである。そして、筆者自身も、今回の調査の知見を元に、知的障害者ご本人の声に常に耳を傾けながら、日本独自の本人支援や地域生活支援の体系づくりに、知恵を絞り、汗を流して関わっていきたい、と考えている。」
このときに直感的に感じていた「日本独自の本人支援や地域生活の支援の体系」というものが、この実会では既に昭和50年代から着実に積み上げられてきた、ということを学んだ。法律や制度の後追いではなく、ご本人が求めている支援を追求し続けた結果として、入所施設や施設内訓練施設の閉鎖と、街中でのグループホームの展開。24時間スタッフ配置による支援センターや、マンションの何部屋かを借りたサテライト型のグループホームなど、8年前にスウェーデンで見た現実と結果的に非常によく似た現実を、昨日は垣間見ていた。しかも、特段他の国の実践を真似したのではなく、ご本人が求めることは何か、を誠実に考え続ける中で、帰納論的に出てきた入所施設の閉鎖であり、地域生活支援であり、グループホーム展開だった。そして、その展開の本質が、全く意図していないのに、スウェーデンで見たそれと類似性が高い、というところに、ノーマライゼーションの考え方に通底する、「当たり前(=他の者との平等)の暮らしの保証」という帰納論的結論の普遍性、通文化性が強く見えていた。
上記の報告書を書いていた時は、大学院が終わったが定職がない、宙ぶらりんの状態だった。その時は、とにかくスウェーデンの現実を掴むことに必死で、それをどうしたら日本で置き直して考えることが出来るのだろう、ともがきながら考えていた。自分自身も浪人の身であったので、何がどう展開出来るかわからないままに、しかし志だけは持って、上記のような勢い込んだまとめを書いていた。
それから8年。気がつけば、障がい者制度改革推進会議総合福祉法部会の委員として、「日本独自の本人支援や地域生活の支援の体系」を考え、まとめる仕事に従事している。今年の8月の新法の骨格呈示に向け、日本でも出来うる、地域生活の基盤整備とは何か、について、この3回は集中的に議論するチームに所属している。だが一方で、障害者基本法の改正は、本当に社会モデルへのパラダイムシフトが出来るのか、が大きな争点になっている。総合福祉法部会への厚労省のコメントだって、以前も書いたように、部会の議論とはかなり違うスタンスを取っており、今後どう折り合いをここから付けられるのか、は情勢判断が実に難しい。政策の安定性とコンテキストは揺らぎ、流動性を増している。
そんな中にあって、たった半日の視察ではあったが、札幌での「追体験」は、もう一度スウェーデンで見た原体験を、更に深めるエピソードであった。スウェーデンでは、札幌では、という「出羽の神」じゃなくて、どの地域であっても、どんなに重い障害があっても、認知症やターミナル、シングルマザーであっても、地域で自分らしく暮らせる、そのための支援体制を、どう作っていくのか。これを、現場実践の積み重ねという帰納的推論から出てきたものとして、制度政策の本質の中に落とし込んでいかなければならない。その上で、現場の試行錯誤を応援する柔軟性をどう担保出来るのか、も問われている。財源論や国と地方の役割分担論は、それを実現するための方法論であって、この方法論に束縛された、あるいは方法論の自己目的化に唯々諾々としていては、より良い「日本独自の本人支援や地域生活の支援の体系」は積み上がらない。
そう認識を新たにした(再確認した)、春も間近の札幌であった。

メディアの同心円的閉鎖性

最近、手に取る本の「引き」がいい。

「読むべし」という本よりも、「読みたい」という本能や直感を大切にしている。ただ、その時に闇雲、というよりも、自分と本との距離感というか、今感じているテーマに引きつける、関連づけることを意識している。パラパラめくって関係のありそうなフレーズが飛び込んでくると、その「ご縁」をきっかけに読み進める。そういうシントピカルな読みの中で、今回も頷くことの多かった本のご紹介。
「キュレーション・ジャーナリズムという言葉も生まれてきています。一次情報を取材して書くという行為の価値はインターネット時代に入ってもなくなるわけではありません。しかしそうした一次取材を行うジャーナリストと同じくらいに、すでにある膨大な情報を仕分けして、それらの情報が持つ意味を読者にわかりやすく提示できるジャーナリストの価値も高まってきています。」(佐々木俊尚『キュレーションの時代』ちくま新書、p242)
これは情報の編集と提示、というと、松岡正剛的な発想であり、あるいは実際にそれを地でいくジャーナリストとしては、例えば田中宇氏の存在を思い起こす。中東の情勢をツイッターとヘラトリで追いかけているが、田中氏の読みは、それとは違う側面からのキュレーション(独自の視座の編集と提示)がしっかりしていて、面白い。ジャーナリストではないが、寺島実朗氏は間違いなく一級の政財界キュレーターであるだろう。佐藤優氏は、外務省にとってのロシア情勢のキュレーターだったが、ああいう形でパージされた後、著作活動を通じてキュレーション・ジャーナリストの一角を占めている、とも見ることができる。
そして、IT界のキュレーターとしての名前を何となく知っていた佐々木氏の本の中では、キュレーションに欠かせない視座について、示唆に富む指摘がなされている。
「視座とはすなわち、コンテキストを付与する人々の行為にほかなりません。そして私たちはその<視座=人>にチェックインすることによって、その人のコンテキストという窓から世界を見る。」(同上、p204)
ああ、と思い当たる。ツイッターを始めて丁度1年が立つが、この一年でものの見方が大きく変わった。日本のニュースやマスコミへの信頼度が下がった。確かにツイッターをを鵜呑みにしている危険性があるから、と、海外の新聞(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン:ヘラトリ)も読んでいる。我が家は某A新聞も紙でとっている。地デジはないのでアナログテレビもある。だが、ここ最近の日本の大手各局の報道はすごく内向きで、見るに堪えない、と思うようになる。それより、ヘラトリやツイッターで流れてくる中東情勢の方が実に「世界を見る窓」としては有益なのだ。A新聞も、さすがに最近は中東のことについて日本語で分かりやすく書いてくれるようになったが、初期段階は報じる分量も少なく、がっくり来ていた。
なにも昔からそんなに日本の新聞・TVが嫌いだった訳ではない。小学生の頃なんて、全く自慢にもならないが休みの日など12時間テレビにかぶりついていたし、特に報道ステーションやNHK特集などが大好きなニュースっ子だった。久米さんみたいな人に憧れて、将来はジャーナリストになりたい、なんて夢想もしていた。大学院に行くことを決めたのも、指導教官がジャーナリストだったから、その弟子入りができる、という甘い期待を抱いていたのも事実である。それくらい、日本のメディアには憧れと尊敬を抱いていた。
しかし、ここ数年、日本のメディアと自分自身の間に、何だか解消しがたいズレのようなものを感じていた。それを佐々木氏は、自分にとっての有価値とする範囲や境界という意味である「セマンティック・ボーダー」という言葉を使って、こう整理している。
「自己完結的な閉鎖系は、情報の流れを固定させ、そしてまた情報が内部の法則によってコントロールされてしまうことで、硬直していきます。この硬直は、同心円的な戦後のムラ社会には都合がよかったとも言えるでしょう。(略) 一方でソーシャルメディアの不確定な情報流通は、外部から情報が流れ込み、セマンティック・ボーダーがつねに組み替えられて、それによてt内部の法則が次々と変わっていくことで、つねに情報に『ゆらぎ』が生じている。この『ゆらぎ』こそが、私たちの社会を健全に発展させていくための原動力になっていくのは間違いない。ゆらぎのない硬直化した同心円的閉鎖社会から、私たちは『ゆらぎ』をつねに生み出すダイナミックな多心円的オープン社会へと、いまや踏み込みつつあります。」(同上、p260)
そう、中東情勢よりもパンダ来日を大きく取り扱ったり、地震でも現地の被災者の様子は殆どなくて邦人保護の問題だけを主軸にしたり(もちろん邦人の方々の無事の救出を私自身も願っているが)、リビアの「市民戦争」状態についての解説で「日本の経済への影響は限定的」と言ってみたり・・・。このマスコミの口ぶり自体が、非常に「同心円的な戦後のムラ社会」的ありようそのものなのである。今の「小沢VS管VS野党」的な報道にも、その硬直性を感じてしまうのは気のせいだろうか。そういう記事ばかり読んでいる時に、自分の直感とのズレが激しくて、正直新聞を読むのが嫌になりつつある自分が居る。
その時、オルタナティブな情報、メディアと接してみると、なるほどこういう読みや見方もあったなぁ、とハッとさせられる。ヘラトリは、やはり文字数が日本の新聞より多い。1200語が平均で、エジプト革命の背景などを分析する時には、その倍の2500語くらいが割かれる。それくらいあると、ある程度深みのある記事が出てくる。一方、速報性はツイッターで、ガダフィ大佐の演説もライブで英訳して流してくれている。新聞を開く前にツイッターのTLで概略がわかる。だからこそ、新聞に求められるのは、140字の連投では見えてこない、「その背景」なのだが、未だにテレビと同じような同心円的硬直性に見舞われている限り、その閉鎖性から抜け出すことができない。その最たるものが「記者クラブ」制度だ、という批判に対して、真っ当な反論がどれだけできているだろうか。
膨大な情報が、速報的に流れてくる中で、良い目利き、である情報のキュレーターが、今ほど求められている局面はない。ツイッターも、本当に玉石混淆。こちらの目利きがわるいと、とんでも情報を掴まされる。だからこそ、ヘラトリ、だけでなく我が国のテレビも新聞も、その目利き力を発揮させ、もっと情報の「ゆらぎ」と対峙すべく、脱皮してほしいのだ。日本のテレビや新聞ジャーナリズムに憧れた人間として、深くそう思う。そして、恐らく確実にテレビ局にも新聞社にも、個人としてのキュレーション・ジャーナリズムの一翼を担える人材は沢山いるだろう。ただ、それが総体としてのテレビ局、新聞社として硬直化しているとするならば、それは霞ヶ関とのアナロジーを想起させる。官僚も、個人としては志高い人は沢山いるはずだ。だが、総体としての官僚制となると、情報も枠組みも「ゆらぎ」が生じている時ほど、結局省益を守ることが最優先課題となってしまい、内向きになってしまう。これはメディアの内向き報道と同根に感じる。そういう内向きの閉鎖性こそ、官僚離れ、メディア離れを加速させている。そのことの重要性に気づいて、内部から変わる力を、一ファンとしては強く熱望している。

楽しみを掘り起こす

ようやっとお休みの日曜日。昨日は学会のお仕事を終えて、懇親会で空きっ腹にビールがダメだったのか、はたまた気が抜けたからか、少ししか飲んでいないのに、茅ヶ崎駅前でクラクラになっていた。スタバでカプチーノを飲んで体制を立て直し、何とか終電で甲府までたどり着く。ヘビーだった。

昨夕、とにかく寝過ごしてはまずい、と読み始めた森博嗣氏の『自分探しと楽しさについて』(集英社新書)。彼の集英社新書の前作3部作は、非常に面白いだけでなく、僕自身の生き方を見つめなおす上でも非常に参考になった(ブログにもかいていた)。なので、今回も早速一昨日の出張の帰りに松本駅の本屋で手に取る。満を持して昨晩読み始めたのだが、何度も頷きながら読んでいると、文量も少ないこともあって、あっという間に読み終えてしまった。ただ、今回は直接引用するというよりも、印象に残ったところを、自分の言葉で咀嚼してみたい。
他人が(往々にして商業目的で)提供する安易で快適な「楽しみ」のパッケージを消費するだけ、よりも、自分で試行錯誤しながら楽しみを見つけ出し何かを創り出す、そしてそのプロセスを楽しむ方が、よほどワクワク出来るのではないか。
彼のメッセージを僕はこう受け取ったが、そこには深く納得する。僕は工作をしないから、ものづくりそのものの楽しさは分からないけれど、似た体験として、料理を思い浮かべる。最初から「○○をつくる」と決めて、料理本に書かれた通りの具材を全て用意して、調味料をグラム単位で計り、レシピ本を再現する、というのは、僕には全く向いていない。その日の冷蔵庫にある物で、時には奥さんの要望も聞きながら、昨日の食事とアレンジを変え、飲む酒に合わせる形で何かを作り上げる。そのプロセスに没頭すること自体が楽しいし、それが見事美味しく出来上がって、楽しんで食べてもらえたら、尚更楽しい。そこには、他者からの押しつけではなく、自分で選び取り、試行錯誤した楽しさがある。もちろん、レシピ本は参考にする場合もある。その場合でも、徐々に自家薬籠中のものとし、自分の中で血肉化して、記号論的消費ではなく、生きた経験としての料理の可能性が拡がる、ということが、楽しいのかも知れない。
そして、森氏の意見とこれも全く同意見だったのが、他人と比べるのではなく、比べるなら昨日の自分と比べる、という視点。僕も未だに他者の成果を見て、自己卑下することも、もちろんある。でも、そういう時って、眠いかお腹空いているか、疲れているか、あるいはそのどれか(全部)が重なる時である。つまり、まともな思考能力が減退している時に限って、他人と比較するという悪弊がゾンビのように蘇ってくる。しかし、私よりも良くできた奥さんは、僕がそうグチグチ言い始めると、「はよ寝たら?」と一喝。事実、翌朝にはそのぐちぐちした気分がすっかり消えているのだから、全く彼女の言うとおりである。
生きているのは、あなたでも、かれでもなく、僕自身。僕が死んだら、僕を巡る世界はオシマイとなる。しかも、そのオシマイの日付は、自分では全く予想が出来ない。ならば、生きている日々を、昨日よりも今日、今日よりも明日、楽しめたら、これほどハッピーなことはない。毎日すべきことは勿論あるけれど、森氏は「それって本当に断れないの?」と指摘する。断れないと拘っている限り、楽しみを制限しているだけではないか、と僕は受け取った。
やりたいこと、できること、そして求められていること。この三つの調和が大切、という福田和也氏の著作を以前にご紹介したが、結局のところ、できることと求められていることがある程度増えてくる中で、ある時点から「やりたいこと」は意識しないと完遂する時間的、精神的余裕が無くなってくる。世間ではそれを「忙殺」と言う。何という言葉だろう。忙しさに、殺されるとは。とはいえ、以前の僕は、正直に告白すると、「できること」「求められていること」を「やりたいこと」と錯覚して、忙殺=自己実現、と錯覚していた。忙しいことが、スキルがあがる、だけでなく、充実している事と錯覚していたのだ。だが、合気道という純粋な(=仕事と全く関係のない)「楽しさ」と出会ったあと、どうも忙殺されていては、練習時間が取れない、ということがわかってきた。3月に今度は3級の昇級試験があるが、今日を入れてあと4回しか練習時間はとれない。本当は5回のはずだったのだが、優先順位の極めて高い「求められていること」にまで、流石に無碍には出来なかった。
もちろん社会貢献として、他人にお役に立てる事をしたい、と思う僕が一方ではいる。だが、昨年あたりのコペルニクス的転回で気付き始めたのは、自分の「やりたい」「楽しい」を一方で充実させないと、本業も煮詰まってしまい、充実感とは対極の、虚しさが充満してしまう、ということだ。ワークライフバランス、なんて言葉を使わなくても、自分の魂にとって良い事とは、今のところ、仕事が凝集性の高い物になっていけばいくほど、対極にある「楽しさ」も試行錯誤しながら、うまい塩梅のバランスをとることだ、と気付き始めたのである。
あと、さすが工学博士だな、と思った森氏のフレーズで興味深かったこと。「自分が楽しい・やりがいがあると思う事は、どういう時に、どんなことをしているか、を抽象的に考えていくと、他の事をする際の楽しさにも応用出来る」といったようなフレーズもあった(今日は敢えて原典を見ずに書いているので、気になる方は新書を買ってください)。
そう、楽しみややりがいの「エッセンス(=本質)」を掴み出すことは、自分の癖の本質を知る事でもあり、自分がそれを他分野にどう応用出来るか、の展開可能性も模索できるチャンスでもある。つまらない人間関係や悪口的批評に毒されているより、こういう楽しい事をちゃんと自分の頭で考えたい、ともつくづく感じた。
なになに?
 「合気道だけでは楽しみが足らんなぁ」
 「もうちょっと楽しめるんとちゃう?」
こんな悪魔のささやきが、心の何処かから聞こえてきた。さて、何を楽しもうかしらん。明日からまた仕事モードに戻るので、今日はそれをのんびり考えてワクワクしよう。

断片化と関連づけ

ここ20日間ほど休みがないので、結構全身ぐったりしている。一昨日は東京、昨日は甲府、今日は長野、明日は茅ヶ崎。そしてようやく明後日がお休みで、大切な合気道のお稽古。毎日場所を変えていると、何だかエントロピーが増大して、頭の中がぐしゃぐしゃになりつつある。昨晩は早く寝て、今朝は5時に目が覚めてしまったので、バラバラになりかけた頭の中を少しだけ整理しておきたい。

情報の断片化やフラグメント。
パソコンは、昔はしばしばフラグメント化された中身を「最適化」する作業をしないと、作業が鈍くなった。最近のものであっても、たまにそういうPCの中身のお掃除をしないと、反応速度がのろくなる。あの最適化作業を眺めていて面白いのは、バラバラに散らばった、青や黄色や赤で象徴化されたデータが、徐々にまとまり毎に整理されていく様相だ。
最適化が必要なのは、現実社会においても同様ではないか、と思う。
特に今のように、情報が錯綜し、溢れすぎる情報が奔流していると、そう感じる。朝からツイッターで昨晩からのタイムラインをボンヤリ眺めているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまう。Gメールに、大学とニフティからの転送されてきたメールも、一晩でごっそり溜まっている。ウェブもチェックしたいし、最近はキンドルでインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(ヘラトリ)を読み出したら面白くてつい見てしまう。読みたい本もわんさか溜まっている。気がつけば、インプット過多、というか、溢れすぎているような気がする。その中で、多分ぐちゃぐちゃに脳の中で情報の断片化が起きているような気がする。ちなみに言えば、上述のように、2月は出張がめちゃくちゃおおいので、スケジュールの断片化、も激しい。
そういう時だからこそ、意識して情報と思考の「関連づけ」と「まとめ上げ」が大切なような気がしている。
最近、アクチュアルな関心を持つ内容については、外見的・表層的なタグとしては無限定に読み進めている。エジプトの革命、渋沢栄一の伝記、河合隼雄に昭和天皇の論考・・・一見したところ、あまりに無限定で雑学王的な読み方だ。でも、自分の中では、ここしばらくコミットしている仕事の背後にあるコンテキスト理解のために、大切な断片である、と感じている。
例えば昨日は地域包括支援センターの職員研修だった。山梨ではありがたい事に、東京や大阪で教員をしていては、普通は頂けないご縁を頂ける。障害者福祉の専門である僕が、高齢者分野で講師をさせてもらえることは、まずない。専門家が一杯いるからだ。更に、年長のエライ先生が多くいると、若輩の僕にチャンスなど回ってこない。でも、山梨では不思議とご縁を頂き、障害者分野にもみっちり4年ほど関わり、高齢者も主任ケアマネ研修から3年ほど関わり、芋づる式に昨日は包括の研修、来週は居宅ケアマネの研修に立ち会わせて頂く。そして高齢者分野の支援者の方々と関わって、問題は障害と非常に重なっている、と実感する。
その研修の中で、高齢障害問わず、今求められているのは、メゾレベルの課題である。個別支援というミクロと、制度改革や市町村レベルの福祉計画というマクロ、この二つの解離が激しい。どうやって、その地域における解決困難事例を、町の課題として計画や施策に反映するか。このメゾレベルでのギアチェンジに苦しんでいるのが、地域包括支援センターと地域自立支援協議会の共通課題であったりする。そして、そういうメゾレベルの課題については、その地域のコンテキストを読み込んだ上で、地域の物語の編み直しを、官官、官民、民民の壁を越えて共同編集し、物語の再構築をする必要があるため、マクドナルド的な全国一律の対応などはなからできっこない。で、そういう内容は「コミュニティーソーシャルワーク」とか、「地域福祉」というジャンルで呼ばれているようだが、個別地域の物語(ミクロ)を越えて、あるいは難しい理論の羅列(マクロ)でもなく、ミクロレベルでの困惑に寄り添うテキストもあまり見られない。そこで、こちらにお鉢が回ってくるのである。気がつけば、博論以来、ずっとメゾレベルの研究と実践をしているような気もする。
そして、メゾレベルの問題に取り組んでいて、かつ福祉領域であまり役立つ「先行研究」やノウハウがないと、ついつい目は他領域に向かってしまう。「学習する組織」や「非営利組織のマネジメント」などの組織論を囓っていったのも、現場で求められている事に応えるための、付け焼き刃的アプローチが最初だった。
だが、無理をしても周辺領域の本を読み漁っているうちに、どうやら福祉だけで閉じてしまうことの問題性も見えてきた。メゾレベルでの問題解決を志向している、という自分の視座さえ固まれば、表面的なジャンルが何であれ、その本とのご縁を感じる事が出来れば、内容から学べる物は少なくないのではないか、と。
例えばエジプトの革命が、今、凄く気になる。国内の新聞はようやく最近解説を始めたが、2週間前は、本当に報道が断片的だった。今までドメスティックな関心しか持てなかったが、今回はなぜか凄く気になって、ツイッターでエジプト人の英語ツイートでアルジャジーラーの内容をフォローし(そのアカウント自体もツイッターで知った)、そして忙しくてお蔵入りしていたキンドルを引っ張り出して、先述のヘラトリを読み始めた。我が家は未だに地デジ化してないアナログで、しかも数ヶ月後に引っ越す予定なので、衛星放送の対応も新居でいいや、と思いしていない。なのでBSも見れないので、意識しないと情報が本当に入ってこない。しかし、逆に言えば情報を意識して取り出すと、そこには自分の関心領域との関連性が、最近少し見えてきた。
それは、「政策の窓」に関するものだ。
キングタンは「政策の窓」モデルの中で、「問題の流れ」「政策の流れ」「政治の流れ」の三つの流れがある、という。そして、その流れがそれぞれ平行線を辿っている時は、どんなにエネルギーを傾けても、機が熟さず、物事は変わらない。しかし、問題の極大化に政策が気づき、それと政治家のアクションが同期したティッピングポイントを迎えた時、急に物事が反転し、大きな政策転換が起こるチャンスを迎える、という。エジプトの革命を、その前夜から眺めていると、3つの流れの押し合いへし合いが、大洪水のように奔流し、結果としてのムバラ
ク大統領の演説と、その直後の大きな抵抗、そして数時間後の政権崩壊へと進んでいった。そして、チュニジアからエジプト、そしてバーレーンなどに伝わりつつある流れの背景について、ヘラトリで興味深い記事も読んだ。ガンジーの流れを組むアメリカの政治学者、Gene Sharpの非暴力革命の考えは、セルビア経由でアラブの若者にも引き継がれた。それとネットによる国民へのメッセージ伝達の相乗効果が繋がった結果、というのだ。さらには、オバマ大統領のムバラク追放の容認の背景には、アルカイダへの対抗勢力を、今の若者達の民主化運動の中に見出している、とも。
事の正否はわからない。だが、コンテキストの転換点、ティッピングポイントを巡る物語、として眺めると、非常に他人事には思えない。
今、我が国の政治は、本当に混沌としている。そして、霞ヶ関の官主導も、非常に混沌としている。この前の、内閣府障害者制度改革推進会議、総合福祉法部会。私たち部会委員が出した中間まとめに関して、厚労省の「コメント」は、ほぼ全否定だった。きつく言うと、「出来ない言い訳のオンパレード」だった。国の審議会で、国自身がその委員の内容に全否定する、というのは、恐らく殆ど見られない光景だ。そのヒステリックにも見える厚労省のコメントと現状肯定の論調をみていても、それだけ、今、内務省以来続いている霞ヶ関の伝統も揺らいでいる、と感じている。
インド、セルビア、エジプト・・・、ではないが、「窓」が揺れている、開きつつあるのは、他国だけでなく、アクチュアルな日本の今の問題でもある、と感じている。そして、それは先ほどのメゾレベルの話にも繋がる。
地域包括支援センターと地域自立支援協議会に共通するのは、そのような中央の政策の歪みや限界が、現場の中で極大化しつつある、という現状だ。困難事例の高まり、地域力の低下、社会資源の少なさ・・・等の課題に、以前なら厚労省は輝かしい解決モデル案を示し、それを主管課長会議で示された都道府県が「伝達研修」をして、という上意下達型の中央集権的モデルで収斂できていた。だが、今は、国は膨大な資料を出してはいるけど、元を辿るとどこかの成功モデルを国モデル化しただけに過ぎない。つまり、中央集権的な政策主導に、かなりのかげりが見え始めている。一言で言うと、国の情報を待っていても、あんまり期待出来ない。
その中で、現場の疲弊感、待ったなしの現状を変えるためには、メゾレベルで何とかするプレイングマネージャー力が求められているのである。それは、コンテキストが開いた時に、瞬時に判断して、局面を切り開く力、とも言えるだろう。そして、それは幕末から明治の当初の混乱期を乗り越えた、渋沢栄一の内在的論理を読んでいても、非常に参考になるのだ。
話は右往左往した。
でも、そういうコンテキストを抱きながら、目の前の日々の仕事に取り組んでいると、複眼的・立体的に物事が見えてきて、忙しいけど、くたびれるけど、面白い。まだ、完全には関連づけ出来ていないが、自分の中では、ノーマライゼーション生成の議論も、あるいは1968年的な状況の変容局面も、その意味では「関係あり」とみている。だが、忙しくてなかなか文献を読み進める時間もなくて、それを確かめきれない。
しかし、渋沢栄一伝を書いている鹿島茂氏の言葉を借りれば、渋沢栄一が強みとして持っていた「帰納的能力」とは、ある種のメゾレベルの力なのかもしれない。現場の事象から、、その背後にあるシステムを見抜く能力。今日は児童・障害者・高齢者の施設での苦情を受け付ける担当者の研修がある(本当にあれこれしてますね)。でも、その現場で出てくるリアリティと、昨日の地域包括支援センターで出てきたリアリティ、それに国の改革の話など、システム的な課題として、共通している。問題は、一件断片的に見えるもの、氷山の下に隠れているものを、その断片を拾いながら、どうやってメゾレベルの共通性として整理し、現前化して見えるようにしていくか、ということである。それが出来た時には、政策提言としても、あるいは論文や著述としても、一つの説得力をもって、響く。あるいはそれが「政策の窓」が開いた瞬間であれば、コンテキストの変容にも役立つかもしれない。
そのタイミングはいつ来るかわからない。だが、そのタイミングに向けて、バタバタしながらも、「まとめ上げ」と「関連づけ」だけは、怠らないでいたい、そう思う。

記号から記憶へ

ものごとは、奥深く掘り下げないと、本質に突き当たらない。出来事の記述の背後にある、何らかの核に至るためには、出来事の記述は表層的であり、余計だ。だが、その表面の記述をしていないと、一体何のことなのか、が、読み手だけでなく、書き手の僕自身にもわからなくなることがある。

昨日のブログに続き、今日も連投する。その最大の理由は、「昨日書かれなかったこと」が気になるからだ。昨日のブログは、表層的記述編。なので、今日はその表層を取っ払って、中身だけをざっくりと書いてみたい。
記憶。昨日、エリ・ヴィーゼルのインタビュー記事を紹介したが、その中で触れられた「記憶」というキーワードが、ずっと引っかかっている。
大斎原という記憶。そこに何もないが、何かがかつてあった、という記憶。その記憶の古層は、確かにその場に鳥居や看板、あるいは移しなおしたご神体などをつうじて、あるいは様々な文献の記述や写真を通じて、表面化している。だが、それらの表層の背後に、何かが、今も、ある。一昨日、雪景色の大斎原の鳥居の風景の記憶を心の中から取りだした時、やはり、何かがここにあった、し、今もある、という実感も共に、立ち上がる。
記憶。
土地を歩くとき、以前は記憶とは無関係に、単にA地点からB地点の移動、という意識でしか歩いていなかった。鉄道少年だったヒロシ君は、時刻表を片手に、金沢、鹿児島、松江などという記号に憧憬を持った。それは「雷鳥」「なは」「あさしお」という特急列車の呼称という記号に憧れたのと一緒だ。実際に当該列車に乗ってその目的地にたどり着いた時も、現地で何かをする、というより、トンボ帰りの旅が多かった。それは、むしろ記号を実際に確かめる旅であったのかもしれない。
大人になって、旅ガラスになっても、基本的にはその記号的旅の延長線上にあった。ただ、余暇ではなく仕事での旅だったので、記号的消費だけでなく、現地での用務、というのも重なる。しかし、現地での用務が済むと、多少は美味しい何かを食べたり、あるいは人と会う等の例外はあっても、基本的にトンボ帰り。もちろん家庭平和の為、というのは大きいけれど、それよりも、記号論的旅の属性が身体に染みついていたから、だと思う。
だが、昨年あたりからだろうか、記号論的旅がモノクロ世界だとすると、急にその旅に様々な色合いが出てきた。鮮やかさと深みが増す旅となってきたのだ。そして、それは記憶と結びついている。初めての土地にもかかわらず。
それは、その土地の記憶、その場所を巡る記憶とアクセスし始めたからだ、と思う。
以前なら、海外旅行であっても、ガイドブックを持参するだけであった。あのガイドブックというものも、よく考えてみれば、記号論的消費の最たるもの。どこに何が売っている、あそこのこれは美味しい、そこのこれは絶対に見逃せない・・・その土地の食べ物、売り物、見せ場を平面的・等価的に陳列して、記号の一つとして、多少の順位付けをしながらも、整理して羅列する。それは、時刻表のダイアグラムと変わらない、記号論的な陳列。「モデルルート」なんて、時刻表的な時系列表示との近似が伺えるものもある。
たしかに、そういう記号は、消費をするのには、便利だ。だが、記号の消費は、その消費をするだけで満足度が高いだけに、記号の消費「にしか」目を向けさせなくなる。記号という形で有徴化、現前化しているものの背後に、様々なコンテキスト、というか地があるのに、他人に形づけられた徴のみを確認して帰るだけならば、時刻表マニアの記号論的旅行の領域から出ない。そして、高度消費社会において、この記号論的枠組みから外れるのは、ますます難しくなってきている。ネットの情報はスマートフォンでも取れてしまうので、現地でも、臭いよりも雰囲気よりもウェブという仮想記号空間に浸ってしまうのだ。
だが、その固着した枠組みを外れる方法もある。
Don’t think, FEEL!
これはブルース・リーの明言だ(そうだ)。僕は映画とのご縁があまりないので、彼がどういうコンテキストで言ったのか、しらない。ツイッターで流れてきた言葉だ。しかし、どういう来歴であれ、その言葉という記号に感じ入った上で、自分の中で咀嚼して、自分の中で血肉化した上で再文脈化すれば、それは記号ではなく、記憶になる。そう、何であれ、自分の中で再文脈化することが、記号が記憶へと変成される上で大切なのだ(と書いていて気づく)。
思えば、大斎原との出会いも、その来歴などについての記号論的解釈を読み、現地を実際に訪れただけでは、あくまでも記号論的消費に留まる。やはりそこには、そこで何かを考えるのではなく、まず感じ、その上で、自分の中で再文脈化する。自分のこれまでの物語と、どのような関連づけがああるのか、新しい一ページは、これまでのページとどう接続するのか、それらを未分化な中から立ち上がるように、熟成させていくからこそ、出会いという発光に感応し、心の中の印画紙に染みつき、何らかの文様として立ち現れるのである。
そう、出会いという発光は一瞬でも、それに感応できるかどうか。また感応した何かを、現像液→停止液→定着液につける一連の作業を通じて、自分のこれまでのコンテキストに関連づけした上で、記憶の一角にしっかりと位置づけられるか、にもかかっている。そうしないと、それまでの土地や場所の記憶ともふれ合えないし、自分の中での記憶としての再文脈化もなされないのである。そういう意味では、他者や見知らぬ土地の記憶を、自分の記憶としてとどめる為の再文脈化作業を、感じながら、耳を傾けながら、目を見開きながら、出来るかどうか、が、記号から記憶への昇華において、非常に大切になってくるのだと思う。

物語、記憶、捉え直し

雪景色の大斎原(おおゆのはら)には、誰もいなかった。何もない空間に、雪が降り続けていた。だが、昨日見た八咫烏(やたがらす)が金色に光る大鳥居を心の中に想起させると、そこにはかつて何かがあったし、今も何かがあるのではないか、という実感が、今でもじんわりと沸いてくる。昨日は、そんな希有な経験ができた。

さて、事の発端は、3年前に遡る。もともと、三重県の障害者福祉に関する特別アドバイザーの仕事を頼まれたのが、ご縁を頂くきっかけ。当初は、人材育成を目的とした研修のお手伝いを頼まれていた。だが、1年、2年と続けていくうちに、当たり前の事だが、人材育成と地域作りは地続きで連続性があることに気付き始める。その中で、松阪や伊賀、伊勢、鳥羽など県内のいくつかの市にもお呼び頂き、やりとりを続けてきた。特に鳥羽市では尊敬する北野誠一さんと一緒に自立支援協議会の立ち上げ支援に参画し、大変面白い展開を肌身で感じることができた。
そういう流れの中で、先週末、熊野にお呼び頂く。紀南・紀北地域という、三重県南部は、最も社会資源が少なく、県庁所在地である津から行くのも遠く、情報も人口も人材も少なく・・・と様々な好ましくない条件が重なっている。その中で、どう地域作りをしていったらよいか、のきっかけ作りになるような講演会を午前に開いた上で、午後はコアなメンバーでの戦略会議的なグループワークに関わって頂きたい、というご依頼を受けた。
私は別に街作りのプロではない。が、ミクロレベルの個別支援だけでなく、支援組織の変革(メゾ)や地域自立支援協議会を通じた地域作り(マクロ)に関われる人材育成、という事に携わっているうちに、何となく地域毎の特性を踏まえた、その地域らしい展開のあり方とは何か、についてのアドバイスを求められるようになってきた。そんな力も経験もないのだが、求められたら応答責任を感じてしまったお節介タケバタは、山梨でも三重でも、無い知恵を振り絞って考えているうちに、メゾからマクロにかけての地域支援とミクロレベルの個別支援との解離に気づいた。その解決は、地域毎に当然その方法が違うのだが、少なくともどういう歪みがあるのか、あるいはどこから焦点化していけば解決の糸口が見つかるのか、を一緒に探る事くらいは出来そうだ。そんな気持ちで、共に問題を探す探偵業、というか、その地域課題(=ゆがみの部分)を指摘する整体士のような、ともかくそんな臨床家的な仕事に関わるようになった。
今回も紀南・紀北で求められたのは、そのような臨床家役割。どこまで出来るか分からないけど、と思いながら、津の研修ではなかなかお会い出来ない方々に、こちらから出かけてお話しさせて頂くチャンスはそうないので、喜んで出かけた。甲府から7時間強、の汽車旅はなかなかハードだったが、沢山の学びがあった。
今回、行きの列車の中では、この地域についての両極端の本を二冊、抱えていた。
『神々の眠る「熊野」を歩く』(植島啓司著、集英社)
『紀州-木の国・根の国物語』(中上健次著、角川文庫)
前者が熊野の聖や光に焦点化したとすると、後者は熊野の賤や影をルポした作品。だが、熊野の聖性の中には、自然の驚異も含めた影の部分が折り重なり、差別を主題化した紀州の影の物語にも、その土地を生きる人々の力強さという光が差し込んでいる。交互に読み進めながら、少しずつ紀南・紀北にも馴染んでいくのには良い「予習」だった。
そして、一昨日の一日研修を通じて聞こえてきたのは、ある意味、両側面の双方が鈍化した中での地域課題としての析出、という形であろうか。荒くれ者の漁師町や博打打ち的な馬喰・木材商、それらに支えられた遊郭、等の光と影、という中上健次が主題化した世界は、彼のルポが書かれた1977年にはまだ根強く前景化していたが、今はすっかり後景化している。ある種のグローバル化、ではないが、熊野らしい地域課題ではなく、全国の地方に共通する課題、高齢化率も上昇し、不景気で町全体に元気がない、という課題が前景化している。良くも悪くも地域を支えた・縛った「らしさ」が鈍磨しつつある。その一方で、山も海もある豊かな自然と温暖な気候に支えられた人間関係の豊かさは、残っている。時間感覚のゆっくりさ、もスローな生き方、なんて言う以前から、当たり前の前提としてある。確かにその中から排除されてしまう人がいる、という問題もあるが、でも人の優しさ、地元に対する愛着度、などは紀南・紀北の人々にとって、大きな自信の源になっていることも、よく分かった。
そんな紀北や紀南の実情を変えるために、僕が一昨日のたった1日の研修で出来た事は、きっかけ作り、にしかすぎない。ただ、本人中心や社会モデル、という支援の原則と、その地域・組織・人固有の物語を活かした支援体制作り、という普遍性とローカリティの融合が大切だ、ということは、ご理解頂けたようだ。国の方針や教科書的知識は、特に「困難事例」を前にすると付け焼き刃的にしかならない。その際、ご本人に寄り添う、という意味のローカリティと、本人中心という支援の原則に照らした、探偵業的な解決の糸口探しが求められる。これは、何も個別ケースだけでなく、「その地域における解決困難な事例」を考える地域自立支援協議会や、地域包括支援センターの仕事にも直結している。そういうメゾ・マクロ支援においても、国の動向や教科書的知識に流される事無く、本人中心という原則と、その地域のこれまで・今・これからというローカリティの文脈をどう読み解くのか、そして地域の物語をどう書き換えていくのか、が求められている。そんな事を、いつもよりは少しゆっくりと、お話ししたつもりだ。(それでも紀州時間では早口だったのだろうが…)
で、そんな仕事をこってり終えて、昨日は県の方がわざわざ休みを取って下さり、熊野から本宮、新宮と半日のことりっぷに連れて行って下さった。圧倒的な印象に残ったのが、冒頭に挙げた熊野の本宮跡である大斎原と、新宮の南方熊楠記念館。
大斎原の何もなさ、は、行きの列車の中で読んでいた、ノーベル賞受賞者のエリ・ヴィーゼルのインタビュー記事を想起させた。
ナチスの強制収容所経験を持つ彼は、エジプト革命がツイッターやフェイスブックを通じて伝播した事を聞かれ、情報が膨大になることによって、人々の関心が散逸し、少し前の出来事もすぐに忘れ去ってしまうことに警句を述べる。「目撃者として気にし続けることは、大きな状況への関わりである。(Bearing witness is a huge commitment) 」という言葉に代表されるように、日々過ぎ去りゆくこと、雑事にかまけていくうちに「過去」とされる記憶にどれほど寄り添い、関わり続けるか、が大切であると感じる。例えば熊野の記憶。聖なる土地と言われた時代があり、その後明治から大正、昭和にかけて、文明開化の過度な影響を受けて廃仏毀釈や近代産業を重視しすぎた結果、木材を切り倒し、自然が荒廃し、神社も寺も廃れ、大斎原も流されてしまった。その後、昭和の60年の間に、紀伊の国の光も影も含めた地域特性も、鈍磨してしまった。
でも、その事に単に悲嘆するのではなく、その地域の固有の物語に耳を傾け続け、そこから普遍的な支援原理と接続させる中で、その地域らしい住みやすさの追求という新たな物語をどう捉え直せるか。これは、目をそらさずに目撃者として関わり続ける中でしか、生まれてこない。地域生活支援という営みは、特に過疎が進む地域においては、単に目撃者であるだけでなく、福祉以外の商工や観光などの領域も視野に入れ、関わり続ける事が求められているのかもしれない。その中で、町の歴史という記憶に、新たな光を差し入れる役割を持っているのかもしれない。二泊三日で、そんな事を考えていた。